おいでませ魍魎盒飯店
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Episode 2 狼男の幸せな晩餐
チョコレートペイン
「慌てて食べすぎですよ。 もうすぐ蟹のグラチネが出来ますから、もうちょっとまっててくださいね」
目の端に涙を浮かべて食欲に耐えるノルベルトの様を横から見つつも、キシリアは顔がニヤニヤと笑みで崩れるのが止められなかった。
もっと眺めていたいのは山々だったが、体裁が悪いので相手から見えないようにそそくさと厨房に逃げ帰る。
そして周囲に誰もいない状況になってから顔を緩め、頬が崩れるのではないかと思うような満面の笑みを浮かべるのだ。
お預けを喰らっているノルベルトには申し訳ないが、料理人を目指すものならば、おいしそうに食べてくれる人ほど嬉しいものは無い。
つい、嬉しさのあまり、この料理がいかにすごいか語りたくなるがそこはグッと我慢する。
昔、人間の男だった頃に彼女から『料理は美味しいけど、そのときに薀蓄語られるのはめんどくさい』といわれてことがあるからだ。
そんな風に、いつも慎吾の料理にいい顔をしなかった彼女はとは……
心の隅にズキリとした傷みが走る。
ダメだ。 思い出すな!
かつて"彼女"が"彼"だった頃、結婚の約束をした人がいた。
だが、それはもう昔の話なのだ。
今の自分は男どころか人ですらない。
再び会えたところで向こうを困惑させるだけだろう。
もしかしたら、すでに次の相手を見つけているかもしれないのだし……
自分はあくまでも、もう"過去の存在"なのだ。
だが……それで割り切れるほど自分は出来た人間では無い。
まぁ、実際に人でないのだが。
「あー 嫌なこと思い出した」
わざと声に出して、誰も見ていないのにおどけたフリをする。
そう、過去の恋愛に関してはけっして思い出すべきではないのだ。
かつて人間だった頃の恋の想い出は、甘くて、苦くて、狂おしくて、まるでアルコールを混ぜたチョコレートが刺さって出来た傷のよう。
いや、もしかしたらすべからく恋とはそんなものかもしれない。
特に無くした恋というやつは、自分では遠く忘れたつもりでいても、ふとした拍子に傷が開いて後悔と言う名の傷が開いて今の自分を苦しめる。
なにか一つ思い出せば、そこから先は記憶と慙愧の大量出血。
そんなキシリアに出来るのは、時間という癒し手が使う忘却という妙薬が効果を顕すまでただ耐える事だけ。
最近はそれがもしかして"若さ"なのかもしれないと思うようになっていた。
昔の苦い思い出を"いい思い出"なんて語るのは、きっと棺桶に片足を突っ込んだ人間の特権なのだろう。
ふと、気をそらすために窓の外を見れば、いつの間にか月は厚い雲の向こうに隠れていた。
もしかしたら雨になるかもしれない。
光の無い漆黒の空は、見ているだけで心が侘しくなりそうだ。
「おっと、こんなろくでもない気分に浸ってる場合じゃないな。 そろそろ焼きあがったようだし」
思い出してしまった過去の古傷に心奪われても、その鼻はグラチネがちょうどよく焼き上がった匂いを敏感に嗅ぎつける。
これはもう、料理人としての性なのだろう。
ちなみに、表面が小麦色から少し茶色になりかけた頃が自分なりのベストな焼き加減だ。
花柄のキュートなミトンをしっかりと手にはめると、キシリアは手を近づけるとチリチリと焼け付くような温度のオーブンを開き、まるで砂の中から宝石をつかみ出すような慎重さで蟹の殻を取り出した。
胃袋を刺激する焼けたチーズの香りに、磯の香りを思いださせる蟹の匂いが濃密に混ざる。
手元ではスープにするよりなおも濃厚な蟹のエキスが、熱されたペシャメールソースと共にグツグツと泡を立てていた。
「さすがにコレをそのままもって行くわけにはいかないな」
人間が食べても口の中を火傷しかねない食べ物なのだ。
猫舌ならぬ犬舌のノルベルトにはしばらく冷ましてからもってゆく必要があるだろう。
……それにしてもいい匂いだ。
そう思った瞬間、お腹の虫がグゥゥゥゥと自己主張を開始した。
とっくに晩御飯は食べた後なのだが、この匂いの中では空腹を覚えるのもやむをえない。
「よし、お夜食作っちゃお」
そうと決まれば行動は早い。
キッチンの戸棚から乾燥した豆の袋を取り出すと、目分量で測ってボウルに入れる。
「……粉挽き!」
簡単な詠唱で理力の粉挽きを発動ざると、周囲には味も匂いも濃厚な黄粉が出来上がった。
そこに水を注ぎいれると、今度は目の細かい布を広げる。
「つづいて、抽出!」
続いて水で溶いた黄粉に向かって理力を振るうと、豆の中の成分が水に溶けて真っ白に濁る。
これを漉せば豆乳の出来上がりだ。
「さーて、豆腐を作るのは久しぶりだな」
白い粉と豆乳を鍋に入れて加熱すると、キシリアは鼻歌を歌いながらそれをかき混ぜ始めた。
ちなみに白い粉は"にがり"ではなく、卵の殻を酢につけたものをベースに調合した"にがり"の代用品である。
内陸部であるビェンスノゥでは、海の製品は手に入りにくいのだ。
そして作るのは基本である木綿豆腐ではなく、おぼろ豆腐。
湯豆腐にするならば、この触れればそのまま溶けてしまいそうなほどに柔らかな豆腐のほうが好みなのである。
「……圧搾」
そして沸騰する前に加熱を止めると、キシリアは鍋の中身を再び布で漉し取り、漉しとった後の汁の入った鍋に刻んだ森髭と蟹殻の出汁を乾燥させた粉末をいれて再び熱を加え始めた。
ちなみにここまでの所要時間、僅か2分。
加熱も材料の取り出しも理力を使えば一瞬で出来てしまうため、その調理速度は恐ろしく速い。
「さてと、出汁がしみこむまでしばらく待つか」
布の中から豆腐を取り出すと、蟹の匂いの漂うスープの中にそっと流し込んだ。
間違っても沸騰させてはいけない。
湯豆腐は火加減が肝要なのだ。
「んー ノルベルトさんの舌に合わせるならもうちょっとかかるな。 先に夜食食べるか」
蟹のグラチネの温度を、サーモグラフィーのような感覚器で計測すると、キシリアは先に出来上がってしまった湯豆腐を食べるべくレンゲを取り出した。
そしてその白い物体にレンゲを差し入れた瞬間……
プルルルル……プルルル……
ふと、こんな真夜中に鳴り出した通信機に首をかしげる。
いくら夜行性の多い魔族とはいえ、こんな時間に昼行性の種族のところに通信を送ることは珍しい。
いや、こんな魔族の社会だからこそ、相手に連絡をかけると気は時間帯を気にするものだ。
――いったい誰から?
いぶかしく思いながら通信機のスイッチを入れると、激しい息遣いと共に流れてきたのは年配の男の声だった。
「……キシリアか……今すぐ……逃げろ! ノルベルトのヤツが……」
通信機の向こうの声は、老舗鮮魚卸問屋ツィフラーシュ商会の会長、つまりノルベルトの父親の声。
――なぜに?
「その声はツィフラーシュのおじさまですか? ノルベルトさんなら、さっき蟹を持ってきてくれましたよ?」
「……!?」
キシリアが何気なくもらしたその台詞だが、通信機の向こうから大きく息を飲みこむ音が返ってきた。
――判らない。
ただ、ただ事ではなさそうな雰囲気は先ほどからひしひしと感じ取れる。
「いまかぐ逃げるんだ! いいか、やつは今……」
その台詞が不意に途切れた。
「え? おじさま? どうしたんですか!?」
ただならぬ気配にふと通信機の親機を見ると、魔力を供給する元線がプッツリと切れてぶら下がっている。
――いったい誰が?
「……えっ?」
答えが出るよりも早く、今度はキシリアの背中にフサフサと毛の生えた暖かいものが覆いかぶさってきた。
そしてその柔らかなものは一瞬にして硬く変質し、とんでもない力でキシリアの体を締め付け始めた。
――こ、殺される!?
「くっ……あっ……」
苦しさのあまりキシリアの口から苦悶がこぼれ、わき腹がミシミシと嫌な音を立てる。
――い、嫌だ! まだ死にたくない!!
そう心の中で叫んだ時だった。
「ごめん。 痛くする気はなかったんだ」
その声と同時に、キシリアの体を締め上げる力が僅かに緩む。
――誰?
胸の下に回された太い腕に手を押しのけようともがきながら、声の主を確かめるべくぎこちない動きで首を後ろに向けると……
「ノルベルト……さん?」
認めたくないが、そこには狼の顔をした青年が熱を帯びて潤んだ目をしてこちらを見つめかえしていた。
「……キシリアさん、俺、もう我慢できない。 本当はこんなことしちゃいけないのはわかってるけど、どうしても会いたかったんだ」
熱い吐息がキシリアの髪をそっと撫でる。
腰のあたりには、男性特有の硬いモノが押し当てられている感触があった。
あ、意外とちっさ……じゃなくて! ――発情している!!
キシリアはようやく通信機の向こうで何を叫ぼうとしていたのかを理解した。
――まずい! 発情期だ!!
人間と違って人狼には明確な発情期が存在する。
それはまるで女性の月のもののように一ヶ月の間の何日か発生し、どうにも女性を抱きたくて仕方がなくなるらしい。
そのため、人狼の男たちは発情期になると一般女性に近寄らずに花街に篭って暮らすのだと聞いている。
――そう、それが普通なのだ。
ただし、"本命のいない人狼は"と頭につくが。
「えっと……ご飯ならあとは冷めるのを待つだけなんですが」
「判ってるだろ? 俺が、君のことをどんな目で見ていたか」
今も目は病気かと思うほど血走り、その長い口吻から吐き出される荒い息は、色があれば見事な桃色をしているに違いない。
意味するところなど、むしろわからないほうがどうかしている。
「あの……ご飯が冷めてしまいます」
「しらばっくれるなよ。 確かに君の作るご飯はとんでもなく美味しいけど、俺が本当に欲しいのはソレじゃない」
おそらく、その焼けつくような求愛の衝動に耐えかねるのだろう。
かすれる声で囁きながら、ノルベルトはその体を悩ましげに身じろぎさせた。
だが、野生動物がそうであるように、人狼は雌の許可が無い限り抱きついても腰を振ることが許されない。
普通の人間の雄などよりよほど紳士的なのだ。
だが、その葛藤が、若い雄である彼を拷問のように苛むのだろう。
「ごめんなさい。 私、その、そういうの無理です!」
「なんで!? どうして俺じゃダメなんだよ? そんないきなり全否定しなくてもいいだろ!? 今すぐ番になってくれとは言わない! せめて俺のことをもっと知ってほしいんだ……なぁ、お願いだから拒まないでくれ」
抱きしめた腕を放し、今度は前に回って真っ直ぐに目を覗き込む。
だが、その切実な眼差しに、キシリアは応えることが出来なかった。
全否定も何も、最初から無理が多すぎた。
なにせ、今は女の体とはいえ、元は男の魂である。
「無理です。 たぶん……理由を言っても理解してはもらえないと思います」
「そんなの、聞いてみないとわからない」
口ではなんとでも言えるが、キシリアに前世の記憶があって、しかも前は男だったなどと話したところで誰が信じるというのだろうか?
おそらく生暖かい目をされて、最悪心の病気かと思われるのが関の山だ。
「そういう問題じゃないんです」
あいにくと、周りから痛い子として認定される趣味は無い。
今は腕を掴んでいるノルベルトの手を外そうと全力で抗ってはみるものの、鋼のように硬い筋肉に包まれた指先はさほど力をくわえていないにも関わらず微動だにしなかった。
「ゴメン。 そんな言い訳じゃ納得できない」
――だから俺は君に求愛する。
声のトーンがあからさまに低くなり、同時にノルベルトは濡れた黒い鼻先や長い舌を首やうなじにこすり付けてきた。
さらにその白い首に長い牙の先端を軽く押し当てる。
首を甘噛みするのは、人狼にとっては口付けにあたる求愛行動だ。
――まずい。
キシリアは内心焦りを感じ始めていた。
人の心はその肉体に引きずられるものである。
そして、そこに男の魂が入っていても体が求愛に応えてしまうのだ。
「……きもちいい? 大丈夫。 出来るだけ優しくするし、俺、けっこう自信あるから」
その女の体を良く知っている湿った舌の感触と、体から立ち上る雄の匂いに、雌であるキシリアの体がじんわりと反応しはじめた。
その反応を感じ取ったノルベルトは、その指を触れてはならないところに忍び込ませる。
「や、やめて……」
――精神的にとはいえ、BLは嫌だ!
いくらその愛撫が気持ちよくても、理性がそれはダメだと拒絶する。
なのに、抗いたくても快楽の波にのまれて声すらまともに出すことが出来ない。
――こいつ、いったいどんだけ女慣れしてるんだよ!!
そんな心の拒絶とは裏腹に、くすぐるような優しい指使いに誘われて、キシリアの体から甘い蜜のような香りが漂い始めた。
ノルベルトがその反応を楽しむかのようにゆっくりと息を吸い込み、キシリアの耳元にそっと息を吹きかける。
いやあぁぁぁぁっ! 耳はダメぇぇぇぇっ!!
そしていつのまにか外から響き始めた雨音とリズムを合わせるかのように、彼の指の動きがその激しさを増していった。
だが、彼は強引に自分の欲を吐き出すようなことはしなかった。
そう、こちらの快楽を煽って屈服するのを待っているのだ。
ハンターが、獲物が疲れて動けなくなるのを待つように。
あぁ、ダメだ。 落される……
嵐のような刺激にどれだけの時間耐えただろうか?
ついにキシリアの腕がだらりと下がり、その膝が崩れ落ちる。
波打つように襲ってくる強烈な刺激の波に揉みくちゃにされ、キシリアはついに抵抗することをあきらめた。
そんなキシリアの耳に衣擦れの音が響く。
さらに太股に何か生暖かいものが押し当てられた。
――あぁ、ついにくる。
これでも元は男である。 いったい何が行われているかは容易に想像がついた。
「こんなことしちゃいけないのは判ってるんだ……でも……君が言葉だけじゃ俺を受け入れてくれないから……」
そして言い訳を口にしながら、ノルベルトの黒い剛直が、キシリアの純潔に触れようと……
不意に空気が変わった。
「誰だ! なにしやがる!!」
そしてノルベルトの腕が弾かれるようにしてキシリアから離れる。
その手には、いつの間にか3本ほどナイフが逆さまに握られていた。
しかも、重心を変えることで汎用性を犠牲にし、投げつけることに特化したナイフだ。
いったい誰のものだろうか?
こんなものは料理人であるキシリアの持ち物ではないし、蟹漁師であるノルベルトの持ち物でもないだろう。
料理に使うには取り回しが悪く、蟹漁に使うには火力が足りないからだ。
こんなものを使うのは、ほとんど知能の無い低級魔獣を狩るハンターか、冒険者狩りをする輩ぐらいだろう。
「そいつはアタシの台詞だよ、そこのワン公! なに人の嫁に手を出してやがる!」
耳に染み入るような色っぽいアルトの主に目を向ければ、厨房のドアの向こうでラフな格好をした豊満のスタイルの美女が腰に手を当てて仁王立ちになっていた。
「フェリクシア! 帰ってきたんだ! ……でも、嫁になった覚えは無いから」
あいかわらずツレないねぇ。
キシリアの微妙に牽制を含んだ挨拶に、女はため息を吐きながら軽く肩をすくめた。
「なっ、誰だお前……!? 嫁? お前も女だろ!!」
「知らないのかい? 愛があればなんでも出来るんだよ」
「そんな事は聞いて無ぇっ!!」
何が出来るかはあえて口にしない。
初夏の野山に咲き誇る純白の花の香りがしても、気にしてはいけない。
そう、間違っても深く追求してはいけないテーマなのである。
「あたしか誰か……そう聞いたよね? いいよ。 一度しか言わないからよーく聞きな」
ノルベルトを指差し、女は胸を張ってこうのたまわった。
「あたしはフェリクシア・マンティコラス・ジャシバーバ。 その娘の相方さね」
ノルベルトの顔に苛立ちと驚愕が滲む。
仕事の"相方"も恋人としての"相方"も、日本語に直すと同じ発音になってしまうが、彼女が口にした東方魔族語の発音は恋人としての意味を持つほうの"相方"だった。
「相方だと!? 信じられるか! 俺が立ち去ったら、キシリアさんを美味しく頂こうって腹じゃないのか!?」
「あんたにだけは言われたくないネェ」
楽しそうに喉の奥でクックッと嗤うフェリクシア。
その名前からすれば彼女の種族はマンティコア……名の意味するところは"人喰い"である。
腹が減れば同族でも殺して食べる、まさに魔物の中の魔物なのだ。
凶悪な高位肉食系魔獣の代表格であり、同時に"黒き知恵の守護者"と呼ばれるほどの知性体である。
ノルベルトほどの猛者をしても、正直に言えば尻尾を巻いて逃げ帰りたい相手ではあるのだが……
いざとなれば自分が食われている間にキシリアを逃がすべきか?
その種族特性ゆえに死なないとはいえ、殺されるのはやはり怖い。
そんな葛藤をするノルベルトに、キシリアが冷めた目をしたままおずおずと話しかけた。
「あの……あんな人ですけど、フェリクシアは本当に私の同棲相手なんで問題ないです。 今日はもう帰ってもらえますか?」
「け、けど!!」
マンティコアであるフェリクシアからすれば、キシリアは物理的に"捕食対象"に入るのだから、このままキシリアを置いて逃げるわけにはゆかない。
「正直、発情したノルベルトさんのほうが危険だと思います」
「……そうだな」
だが、その後に続いた台詞に、ノルベルトはただ項垂れるしかなかった。
正直、自分のやっていることが間違っているのはよく理解している。
反論する余地も無かった。
――帰るか。
意気消沈したまま、もそもそとパンツを穿きなおす姿は妙な哀愁が漂う。
「えっと……ノルベルトさんは仕事の相手としても大事な人なんですが、それ以上は無理です。 ごめんなさい」
そう告げると、キシリアはまだ湯気を立てている蟹のグラチネを防水・保温の魔術がかけられた朱色の器に詰め込んで、風呂敷で包んでからノルベルトに差し出した。
正直、同情の余地も無いほどひどいことをされたのだが、妙に憎む気にはなれなかった。
自分の好きな相手がいたならば、多かれ少なかれ襲ってでも自分のものにしたいと思うのが人の心というものである。
そこに先ほどの台詞へのツッコミを入れる声があった。
「うわぁ、キシリア。 お姉さんでもその台詞はキツいとおもうなー」
「……あ」
言われて気づく。
先ほどの台詞は、「男としての貴方に興味ありません」といっているに等しい。
恋人としてみることが出来ない……一見してさほどキツい事は言ってないように思える台詞だが、実際にはトドメをさしたいのかと思うような破壊力を持っている。
ただし、"好き"の反対は"嫌い"ではなく、"無関心"であることを知っている相手にとってはであるが。
不幸なことに、ノルベルトはそれなりに聡い上に女性慣れしていた。
言った本人といわれた本人の間に、すごぶるきまりの悪い空気が流れる。
腕を組みながら一人ニヤニヤと笑うのはフェリクシアただ一人。
「まぁ、いいや。 今のでさすがにアンタの愚息も萎えただろ? ついでに状況を理解したかい? だったら、今すぐパンツを引き上げてその汚ねぇ(不適切な表現につき削除)をカタしておうちに帰りな! さもないと……」
そこで言葉を区切ると同時に、フェリクシアの股の間から真っ赤な蠍の尻尾が飛び出す。
しかもその先端から、ピッピッと透明な液体が数滴ほど飛び散った。
どうにも卑猥な光景なのだが、似合ってしまうだけに性質が悪い。
「アタシの毒針がテメェのケツにぶち込まれて、二度とキシリアの前に姿を見せられないような醜態晒すことになるよ」
目を落とせば、毒液が落ちた床が緑に変色していた。
こんなモノを直腸から直接摂取すれば、呆れるほどしぶとい人狼でも数日は寝込むに違いない。
まぁ、逆にそこまでしないと撃退できないような生き物なのであるが。
「言われなくても帰る。 すまなかったキシリアさん」
そう呟くと、ノルベルトは肩を落としたまま出口へ向かって歩き始めた。
「それでも、俺にとって君は特別な人なんだ」
フェリクシアが横に動いて通路を空けると、ノルベルトはそんな捨て台詞を吐きつつドアを潜って出て行った。
土砂降りの雨の中を歩きながら、ノルベルトはふと先ほどのキシリアを抱きしめた感触を思い出していた。
「せつねぇなぁ……」
呟きながら、掌をじっと眺める。
キシリアから叩きつけられたのは、普通なら心がポッキリと折れるような台詞なのだが、それでも消えることの無い何か胸の奥でくすぶるような感覚が残っている。
それは愛しているからなのだろうか?
それともただの執着なのだろうか?
願わくば、前者であってほしいものだが……
「ニャアァァッ! なにやらピンク色の怪しい魔力が漂っているニャア! 発情した雄犬のような匂いもするニャァッ!」
「敵襲!? 敵襲なのかニャ!?」
「あれ? そのおねーさん誰だニャ?」
ノルベルトが立ち去った後、ようやく殺気を帯びた気配に起き出したケットシーたちが、鍋の兜とお玉の剣を装備して二階から駆け下りてきた。
「なに? この珍妙な奴ら」
現れたケットシーたちを横目で睨み付け、フェリクシアが不機嫌そうに鼻を鳴らす。
魔獣というだけあって、他の生き物の匂いにはひどく敏感なのだ。
「あ、コレは奴隷。 少し前にこの店に盗みに入ったから、罰として手伝いをさせてるんだ」
気がつけば、キシリアの口調が、猫かぶりの女っぽいモノから本来の男口調に戻っていた。
女言葉を使わないのはキシリアが気を許している証拠であることを知っているのフェリクシアはその言葉に満面の笑みを浮かべる。
少なくともフェリクシアを愛人としては認めてないが、家族としては認めているらしい。
ちなみにケットシー達は奴隷なので反応を気にする必要がないためこれもまた猫かぶりは必要ない。
「へぇぇ……アタシとキシリアの愛の巣に盗みに入るなんて、いい度胸してるわねぇ。 でも、惜しいワァ。 キシリアの奴隷になってなかったら丸焼きにして明日の昼飯にしてやるのに。 ケットシーってどんな味するのかしら? まだ食べたこと無いんだけど」
「「ヒイィィィィィィィ」」
フェリクシアのご機嫌な笑顔に般若のような凄味が混じり始めると、ケットシーたちは三匹で肩を寄せ合いながら部屋の隅でガタガタと震え始めた。
「まぁ、三匹もいるから一匹ぐらい食べてもいいよね? その分残りの二匹を馬車馬以上に働かせればいいわけだし」
そしてフェリクシアがボソリと呟いた瞬間、ケットシーたちはネズミ花火のように部屋中を逃げ回り始める。
「「ニャアァァァァァァ 助けてェェェェェ!!」」
「んふふふふふふ……一匹丸ごとじゃなくて、一口だけでもでいいわよ?」
その後ろをフェリクシアが追い回す光景を横目で眺め、キシリアはそろそろ寝床につくべく寝室に向かって歩き始める。
夜行性である彼等に付き合う気は毛頭ない。
シルキーであるキシリアも種族的には夜行性なのだが、人であった頃の名残かどうにも生活サイクルは昼行性なのである。
――疲れたな。 今日はあまりにも変な出来事が多すぎた。
欠伸を手で隠しつつ立ち去る背後から、ひときわ大きな悲鳴が響き渡る。
大方ケットシーがフェリクシアに捕まったのだろう。
まぁ、ほっといていいか。
実はフェリクシアってすごい偏食多いし、肉食動物が生臭くて筋が固いことも知ってるから猫なんて絶対に食べないし。
それよりも早く体を休ませなければ。
きっと……明日も賑やかな一日になりそうだ。
心の中で呟きながら、ベッドに入り込んで目を閉じる。
そしてキシリアがノルベルトのご乱心のせいで食べ忘れた湯豆腐の存在のことを思い出したのは、世界が薄明かりに照らされるころだった。
ちなみに湯豆腐は、帰宅直後で空腹だったフェリクシアに美味しく頂かれたとだけ記しておく。
その後の騒動については、また後に機会に。
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