おいでませ魍魎盒飯店
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Episode 2 狼男の幸せな晩餐
夜半の来訪者
頭上を覆う天球が藍色の衣を纏い、満月に近い月が星々を押しのけて南東の空に燦然とした輝きを見せる頃。
アトリエ・ガストロノミーのドアを静かに叩く者がいた。
こんな夜更けに何の用事だろうか?
人の家を尋ねるにしてはずいぶんと遅い時間である。
「どちら様でしょう?」
サーモンピンクのカーディガンと淑女の皮を見事にかぶったキシリアがそう誰何すると、ドアの向こうからはまだ若い男の声が返ってきた。
――ちなみにケットシーたちは度重なる心労のため、すでに気絶するかのように眠りに落ちて部屋の隅のバスケットの中で丸くなっているのでおとなしいものだ。
「あ、まいどツィフラーシュ鮮魚店です。 ご注文の蟹を持ってきました。 だいぶ遅い時間だと思ったんですけど、お急ぎとの事だったので……受け取りの伝票にサインお願いできますか?」
「あ、こんばんはノルベルトさん。 時間は気にしないでください。 むしろ助かりましたわ。 まさか、こんなに早く届けてくださるなんて」
知った人間の声にキシリアが安心してドアを開くと、狼の顔がぬっと突き出される。
その高さはキシリアが見上げなくてはならない位置。
それもそのはず。
その訪問者の首から下は見上げるような背丈の逞しい青年のものなのだから。
……人狼。
魔族の中でも特に肉体労働に秀でた生き物である。
目の前の青年はその中でも近くの川で漁師をしており、キシリアは彼にとって大のお得意様だ。
その後ろには、縄でぐるぐる巻きにされた直径2m以上あるそうな丸っこい何かが荷台に山盛りになって詰め込まれていた。
その正体は、蟹。
それも、2m以上に育った最高級のゴリアテカワガザミだ。
捕まえるとストレスで周囲のものを手当たり次第に鋏で傷つける習性があるため、こうして荒縄で動かないように縛り上げておかないと大変な事になる。
ちなみにこの世界の漁師はフィッシャーとは読まない。
むしろハンターと読むべき存在だ。
「それにしても、すごい蟹ですね。 大変だったんじゃないですか?」
ゴリアテカワガザミは、見た目どおり危険で凶暴な生き物である。
タラバガニのように体の表面に棘こそはないものの、まるで岩肌のようにザラザラとした黒い表皮は鉄とほぼ同じ硬さを持ち、その縛り上げられた鋏は太く大きく、川魚を狙う熊に奇襲を仕掛けてその首をひとおもいに切り飛ばすほどの力を秘めているのだからしゃれにならない。
はっきり言って怪物の範疇に入る生き物であり、不用意に魔界の川に近づいた人間側の冒険者一向が襲われて、あっけなく数人がバラバラ死体になった挙句に、死体を回収して教会で蘇生したら自分の手に違う人間の指が生えていた……なんていう笑えない話もあるぐらいだ。
しかも商品として狩るならさらに困難が付きまとう。
迂闊に攻撃すれば殻の皹から旨みのたっぷり詰まった体液がこぼれてしまうために商品としての価値がなくなってしまうし、さらに死んでしまった蟹はあっという間に鮮度が落ちてしまうのだからたまらない。
はっきり言って魔界の蟹漁は無理難題の領域である。
当然ながらそれを獲る漁師も並みの強さでは務まらず、蟹漁に手を出すような奴は全員が魔王の衛兵と互角に戦えるような猛者ばかりだ。
こんな凶悪な生き物をどうやって無傷で生け捕りにするか、キシリアも以前から気になって仕方が無いのだが、何度聞いても漁師たちは企業秘密だからといって笑って応えるだけである。
そして、そんな蟹を獲る漁師には、人狼が非常に多い。
理由は彼等のもつ"不死性"の理力のせいだ。
当然ながら死人が出ることも多い蟹漁だが、銀や魔力のこもった武器以外で切られても死なないという理力を持つ人狼ならば、魔力を帯びない蟹の鋏で真っ二つにされても満月の時期には生き返るわけで……彼等にとってはまさに天職とでもいうような生業なのである。
ちなみに目の前の青年――ノルベルト・ヴォルフーフ・ツィフラーシュは、都市国家ビェンスノゥの魚河岸を仕切る老舗鮮魚卸問屋ツィフラーシュ商会の跡取り息子。
およそ予想はつくだろうが、この世界の鮮魚卸問屋は水棲の魔物を狩る凄腕の戦闘集団である。
そして蟹の捕獲においては、この若さにしてすでに名の知れた凄腕漁師であった。
……余談だが、料理という文化の無い魔界においても蟹は庶民にはなかなか手の出せない代物で、そして美味な食品として人気が高い。
「いやぁ、気にしないでください。 自分もキシリアさんの弁当の大ファンでして。 こんな無茶ならいつでも歓迎ですよ! それに、あのカニクリームコロッケが店頭に並ばないなんて暴動が起きます!!」
ウソでも大げさでもないのが実に厄介な話だ。
前に一度同じようなことがあったのだが、その時は街の外壁が崩れるほどの騒ぎとなったので、街の兵士からも欠品が出ると気は事前に連絡が欲しいといわれるほどである。
まぁ、無理も無い。
この魔界"モルクヴェルデン"において、料理なんて気の利いたモノを売る店はここにしかないのだから。
美食に取り憑かれた挙句に人間の料理人を奴隷として囲っている一部を除いては、魔王たちですら晩餐に生肉かチーズをかじるのが普通というのだからその食生活の乏しさは推して知るべし。
もっとも、そんな料理人を抱えて毎日美食に耽る魔王たちですらキシリアの料理は別格として扱い、美食にまったく興味の無かったほかの魔王ですら魂を奪われて目の色を変える。
もしもキシリアの料理を一人の魔王が独占するようなことがあれば、即座に魔界に戦争が起きるだろう……吟遊詩人たちがそう嘯くのもあながち大げさといえないだけに、実に恐ろしい話だ。
――夏場はクリームコロッケはやらないんですって公表するの、いつにしようかな?
キシリアの顔に一筋の汗が流れた。
「まぁ、そこまで言ってくださると私も腕の振るい甲斐がありますわ。 ところでノルベルトさん……今日の晩御飯はもうお済みですか?」
夜行性の人狼にとって、今の時間はせいぜい昼前ぐらいの感覚だ。
晩御飯とはいうものの、彼等にとってはブランチ程度の感覚である。
「じ、実はまだ夕方に起きてから何も食べてなくて……」
キシリアがニッコリと微笑むと、人狼の青年は視線をそらして頭を掻いた。
もし彼の顔が深い毛並みで覆われていなければ熟れたリンゴのように真っ赤になっていただろう。
志津は狩り、先ほどからキシリアと目が合うのが照れくさくて、この場の空気が気恥ずかしくて、先ほどからそわそわと体がどうにも落ち着かない。
シルキーの姿は例外なく目麗しいのだが、中でもキシリアはツンと取り澄ましたところがなくて表情が柔らかいため、他の魔族からのウケが非常に良いのだ。
――街の青年たちが裏で"蕃茄の君"と呼んでいるのは、本人だけが知らない秘密である。
ちなみにこの世界の蕃茄はイタリアントマトに味も見た目もソックリな食べ物だ。
地球のフルーツトマトより甘みがさらに強く、こちらでは愛らしい果実の代表で通っている。
「もし、よかったら晩御飯を食べてゆかれませんか? ありあわせのものになりますが」
本人は気にしないといってはいるものの、ただでさえ獲るのが大変な大変なゴリアテカワアザミをこんな短時間で大量に獲ってきてくれたのだから、このまま何の礼もせずにいれば次が頼みづらい。
料理人であるキシリアからの心遣いといえば、他に選択は無いだろう。
「ほ、本当ですか!? いやぁ、光栄です! まさかキシリアさんのところで晩御飯にあずかれるなんて……」
にくからず思っている相手からの誘いの言葉に、ノルベルトのシッポがピンと真っ直ぐに立った。
「じゃあ、中に入って暫く待っていてくださいね。 仕込みは終わっているヤツを使うので、20分ほどではじめられますから」
そう告げると、キシリアはノルベルトをリビングに案内する。
その後ろを、筋骨逞しい人狼の青年が尻尾を振りながらついていった。
「とりあえず蟹のグラチネからでいいか」
そう呟くと、キシリアは30センチほどの蟹の甲羅を取り出した。
まだ子供のヘラクレスオオマンジュウガニの物である。
その甲羅を軽く理力の炎で炙って香りを出しながら、解呪した瓶詰めの蟹の身、白鞠森髭を刻んで油と一緒に炒めながら練りあげた甘い野菜ペースト、さらにバターと小麦粉を練って固めた団子と共に牛乳の中で暖める。
急な来客があっても安心な、ちょっとしたインスタントのペシャメールソースの出来上がりだ。
さらに作り置きの濃縮鶏がらスープを一掬い、蟹殻の濃縮スープを一掬い、迷迭香の枝を一挿し入れて異なる二種の味に調和を与える。
軽く混ぜれば、異なる味と香りが魅惑の三重奏を厨房の大気の中で奏で始めた。
貝殻のような形のマカロニは、キシリアがフッと軽く息を吹きかけたとたんに水気を帯びて柔らかなパスタになり、やや卵色を帯びるミルク色のペシャメールソース海に落とされる。
全てを混ぜて蟹の甲羅の中に注ぎ、さらに上からパセリに良く似た香芹の葉を刻んで振りまき、理力式のオーブンに入れる。
「我が理力よ、我が言葉を真実として受け入れよ。 満ちよ、マイクロウェーブ波。 この箱の中を加熱せよ。 温度は250度。 時間は15分。 急々如律令、灼!」
その詠唱と共に陶器の箱の中が高温の大気にて満たされた。
「さて、今のうちにスープを作るか。 春先だから蟹はいいんだけど、寒に属しているからなぁ。 葱だけじゃなくて生姜も加えるか」
指を鳴らして鍋の中の蟹のスープを一瞬にして加熱すると、まず生姜を薄くスライスして鍋の中に投げ入れる。
先ほどからキシリアが口にしているのは、彼女が前世で習い覚えた薬膳による知識だ。
相手が体力勝負な漁師だけに、体に良いものを出そうという心遣いである。
その漢方薬と根源を同じくする複雑な理論によれば、蟹は"寒にして鹹"という属性となり、体を強く冷やしてしまう食べ物だ。
ちなみに鹹は塩辛いという意味である。
血を補い、春に足りなくなりがちな陰性を補うため、春に食べる物としてはむしろ積極的に摂取すべきものなのだが、体を冷やすのはやはりよろしくない。
かといって、唐辛子などは陽性を補ってしまうので、陰性の不足しがちな春には控えなければいけない食べ物なのだ。
なので体の中から邪気を祓う性質を持ち、"温"の性質をもつネギや生姜でバランスを整えるのである。
生姜のエキスが十分に溶け込んだことを確認すると、キシリアはこれをスープから取り出し、同じく温の性質を持つ菜の花と、薄切りにしたサーモン色のキノコを鍋に加え、一煮立ちした後に溶き卵を加えてザッとかき混ぜた。
ここでも、僅かに涼の属性を持つ鶏の卵ではなくて鳩の卵を使うのがポイントである。
さらに皿に軽く炙ったハード系の薄切りパンを並べ、その上から半熟卵の色で半濁になったスープを流し入れると、仕上げにこの地域の特産で爽やかな香りと微かな辛味を持つビェンスノゥクレスの葉っぱを添えた。
「うん、味も薬膳としてのバランスも完璧!」
小さじで一口味見をすると、キシリアは満足げに頷く。
あとは犬科の因子を持つ彼の舌でも食べられるまで冷めるのを待つだけ。
そう……人間と同じで熱々な料理を出しても、喜んでもらえるとは限らないのだ。
多様な人種を含む魔族の国で料理を出すならば、決して忘れてはいけないことである。
「はい、一皿できましたよ」
「おぉおおお!!」
キシリアがちょうど良い温度に温まった大皿を持って現れると、ノルベルトは待ちきれないといわんばかりにシッポを振って彼女を迎えいれた。
まだ? 早く料理をテーブルに置いて!
キラキラとした目がそう訴える中、苦笑しながらキシリアがその前を横切り、ナプキンを広げたテーブルの上にコトリと小さな音を立てて大皿を置く。
「はい、ちゃんとスプーンを使って食べてくださいね」
「……うん」
銀アレルギーであるノルベルトのために、普段使っている銀のスプーンではなく陶器で出来た大きなスプーンを取り出すと、キシリアはいたずらっ子を足し泣けるような表情でそう注意を促した。
――食器を使う習慣が無いので、ほっとくと皿を持ち上げてそのまま口に流し込もうとするのだ。
せっかくの料理なのだから、ちゃんとスプーンをつかって味わいながら食べて欲しい。
……料理人からのちょっとした我侭に、オヤツを前にした子供のような顔で頷くと、ノルベルトは食事の前の祈りもそこそこに、真っ白な陶器のスプーンを微かに湯気の立つスープの中に差し入れた。
そして
「うまあぁぁぁぁぁぁい!!」
それはまるで春の華やかなレビューを見るような、いうなれば味の寸劇だった。
まるでファンファーレのように蟹の旨みが前面に押し出され、つづいて卵のまろやかさと菜の花のほろ苦さが口の中にあふれ出し、後に続く複雑な香辛料の香りが食材の旨みを引き立てながら幸せな余韻を残して鮮やかに幕を閉じる。
海鮮物特有の生臭さは最初から無い。
料理にかけられた手間そのものの優しさが口の中にいつまでも残るが、それ以上に胃袋が"次"を欲しがって指がせっせと皿と口を往復するための労働を開始する。
「あ……空っぽ」
やがて皿が空っぽになった事に気づくが、スプーンは悲しくもその腹を晒してコンコンと乾いた声を上げるのみであった。
終わってしまえばあっという間の邂逅。
なんてつれないスープだろう。
さっきまではあんなに激しく愛し合っていたのに。
おいしさのあまり急いで食べ過ぎたノルベルトに出来るのは、いじましく背中を丸めて次の料理を待つことだけだった。
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