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冥王来訪

作者:雄渾
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第三部 1979年
戦争の陰翳
  苦境 その2

 
前書き
 KGBらしい暗殺という事で、冷戦を題材にした作品に出てくるスペツナズ・ナイフを使う事にしました。 

 
  今回のサミットは、日本で初開催という事もあり、大規模なものだった。
大企業の社長や国会議員では足りなく、学者や軍人まで動員した。
その為、本来なら事前審査で弾かれるような人物までもが入り込むという異常事態になっていた。
 こういう事情を大いに利用する人種も、またいた。
スパイや諜報員という闇の世界の住人である。
 鎧衣は、会場外にある報道センターにいた。
各国の報道陣に紛れ、さも関係者の様な顔をして、会場の中を映す大画面のテレビジョンを見ていた。
 見ただけで分かるスパイがかなりいることに、彼は内心驚いていた。
 顔なじみのCNNの特派員をよそおったCIA工作員や、「デイリーテレグラフ」記者の名目で入ったMI6。
フランスのフィガロや、イタリアのTVクルーまでもが工作員と察知できた。
 極左で知られる、南ドイツ新聞の記者もいるのか!
あの男は、シュタージと近いとされている話は本当なんだなと、一人考えていた。
 なぜなら、南ドイツ新聞の記者は、シュタージ中佐のダウムと喫煙所でロシア語で話していたからだ。
日本にはロシア語を見聞きできる人間がいないと思って、油断したのだろう。
思わぬ収穫だった。
 話の内容は、ハイネマンやミラ・ブリッジスの名前からすれば、F‐14関連であろう。
ほかに、戦術機に搭載する新型ロケットというのがはっきり聞こえたからだ。
 ロシア語では、ロケットという意味はミサイルも含まれる。
だから、フェニックスミサイルであることは間違いなかった。 
 
  マサキの席に近づいて来たのは、東ドイツの随行武官たちであった。
議長の東京サミット参加に合わせて、10数名ほどついてきた様子だった。
 シュトラハヴィッツの他には将官はいなく、彼以外の最高位の物は大佐だった。
 制服を見ると、陸軍、海軍、空軍、そして人民警察。
顔見知りは、アイリスの他に、ユルゲンの幼馴染のカッツェだけだ。
 そして、シュタージ第三総局の将校が間違いなく混ざっている。
鈍足で飛行距離の短いツポレフ134に、ぎっしり機材と要員を運んできたのを知っている。

 シュタージの第三総局は、KGB第三総局をまねて作られた軍事防諜の機関。
政治将校や内務班とは別に、軍内部の治安維持を担当した部局である。
 その他にKGBは軍内部に浸透工作員を置いた。
特別部と呼ばれる部署で、あらゆる部隊に配置された。
 KGB本部直属の監視ネットワークとつながっており、秘密指令を速やかに受け取れる仕組みになっていた。
それは今日のロシア連邦でも継続され、KGBの後継機関であるFSBにもУОО(ウーオーオー)と呼ばれるものが存在している。 
 この様な機関を設けたのはソ連の歴史上、労農赤軍の将校の多くを帝政ロシア軍や外国軍隊の勤務者で賄ったためである。
党は軍の事をけっして信用せず、また軍も党の命令に忠実ではなかったからだ。
 一応、陸海軍政治総本部という部署を設け、党の命令に従う将校を用意したが、それでもソ連軍は共産党の思う通りに動かなかった。
 その為に、1918年12月19日のチェーカー命令によって、この秘密機関が設置されたのだ。
一説には600の部局があり、諜報任務の他に核輸送なども実施した。
 
 マサキは、彼にしかわからない笑みを浮かべると、タバコに火をつけた。
 しかし、シュタージの組織は、KGBそのものではないか……
管理部門の番号まで一緒とは、KGBのデッドコピーそのものだ。
 タバコを吹かすうちに、マサキの関心は、KGBからタバコの味へと変わっていった。
恩賜のタバコというのは、本当に味もそっけもない煙草なのだな……
 これならば、ゴールデンバットの方が美味に思える。
 あの煙草は、芥川龍之介や太宰治などの名だたる文豪が愛した両切りタバコだから。
そして、また多くの兵士と共に前線を歩いたタバコであった。
 フィルター付きのシガレットとは、また違った面もよいのかもしれない。
マサキは煙草をもみ消しながら、そう思った。
 その直後、一斉に席を立ちあがる音がする。
マサキも続いて立ち上がり、挨拶をする。
マサキとアイリスディーナとの再会の挨拶は、敬礼という素っ気のないものだった。
 淡々とした挨拶が続く中、マサキは興味無さそうな顔をして立っていた。
先程から首脳たちの所に耳打ちに来ている秘書官たちの方に、マサキの関心はあった。  
 何か、このところ静かなソ連に関する動きがあったのだろうか。
そう考えると、目の前に来た東独軍の随行武官の事など後回しになった。
 側にいる美久に注意されるまで、首脳の動きに気を取られているほどだった。

  マサキたちの様子を遠くからうかがうものがいた。
陸軍礼装を着こなした男と、頭を僧侶の様に反り上げたタキシード姿の男である。
 1人は帝国陸軍の中で日ソ友好論者の急先鋒と知られる大伴(おおとも)忠範(ただのり)中尉。
もう一人は、穂積(ほずみ)という人物で、機械部品会社の社長であった。
 穂積は大学時代、左翼系の団体に参加した経歴の持ち主であったが、卒業をまじかにして団体から遠ざかり、実家の機械製作所を継いだ。
そこから産業界から遠ざけられていたソ連のシベリア開発に参加し、KGBのエージェントとなった男であった。
「木原と話している金髪の美女を知っているか……」
 大伴は、アイリスディーナの事を一瞥し、こう口走った。
学生活動家崩れの若社長は、ラム酒と何かを混ぜた緑色の酒に口を付けた後、答える。
「東ドイツ軍の陸軍将校みたいですね」
「見ればわかる」
 大伴の機嫌がだんだん悪くなってきたのを見計らってか、不意に彼らに話しかける者がいた。
160センチ強の背丈に、リンゴのような胴体に手足が生えた体型をしていた。
「ありゃ、ベルンハルトとかいう東ドイツのエースパイロットの妹ですよ。
なんなら私の方で裏から手を回して、手に入れますか」
 話しかけた人物は、大野という貿易商だった。
彼の祖父は代議士で、与党・立憲政友会の最大会派の領袖だった。
 大変な漁色家(ぎょしょくか)として知られ、常に女を侍らせていた。
その為か、KGBの色仕掛け作戦に引っかかり、工作員の妹とされる人物を妻として迎えていた。
「出る所が出て、締まるところが締まっている。
良い女じゃないですか……抱けばああいう女もイチコロですよ。
ヒイヒイとよがり声をあげて、求めてきますから」
 大野は下卑た笑みを浮かべながら、熱っぽく語った。
遠くから、その様子を見ていた人物がいたのにも気が付かずに。
 大伴は思わず眉をひそめる。
こういう場では、だれが聞いているかわからないからだ。
 東ドイツの関係者の中に、日本語ができる人物がいてもおかしくはない。
いくら斜陽のシュタージとは言えど、KGBから手ほどきを受けた諜報機関なのだ。
 関係が悪化する前なら笑ってすましていたかもしれんが……
こういう下品な男は、機会があったら殺そう。
 今はソ連と東独に知り合いを多く持つ、大野の利用価値は捨てがたい。
大伴はそう考えると、目の前にあるぬるくなったビールに口を付けた。
 無口な大伴をよそに、大野と穂積が酒を片手にアイリスディーナを見やった。
 漁色家の大野は、大酒飲みの大伴に付き合ったせいでだいぶ酔っていた。
アルコールのせいで押し隠していた獣欲が顔を見せる。
「ウへへ、こうして観音様(かんのんさま)を拝めるとは、また感慨もひとしおですねぇ、穂積さん」
 観音とは、仏教の菩薩の一つで、正式名称を観自在菩薩という。
またの名を観世音菩薩や、救世菩薩といい、広く信仰・礼拝の対象となっている存在である。
 元は男性神であったが、北伝で支那に入った際に女神となり、日本に伝わった。
観世音菩薩は女性の表象された仏という経緯から、美しい女性を観音様と隠語で呼ぶようになった。
 本来の仏とは性別の区別がなく、それから超越した存在なのだが、なぜかそのような言葉が出来てしまった。
またその事実は、日本文化にいかに仏教が浸透したかともいう裏付けでもあった。
 大野の言葉に、黄色い歯を剥いて、穂積はうなずく。
邪悪な考えで濁った眼で、アイリスディーナの気高く近寄りがたい美貌を見る。
「若くピチピチで、その上、本当にいい体をしていやがる。皮を剥いてやるのが楽しみだわ」
 大野は、下卑(げび)た笑みを浮かべると、こうつぶやいた。
「へへへ、木原の屑野郎め、今に見ておれ。
ドイツ美人は、お前の代わりにたっぷり可愛がってやるよ」
 脇にいた大伴は聞いていられなくなり、すでに席を外していた。
男たちは酒をすすりながら、残忍な笑みを湛えた。
 そこに白の色留袖を着た銀髪の女がやって来た。
大野は酒で濁った眼で彼女の白い肌を見やると、口を耳元に近づけた。
「あの木原とかいう男の頭の中を見ろ。
お前が危険と感じたならば、殺しても構わない」
 雪女の様な姿恰好をした人物は、大野のソ連人妻だった。 
人工ESP発現体の生き残りの一人だったのを、大野が見初めて妻とした女性だった。
彼女の兄はKGB第一総局の工作員で、彼女自身もKGBの協力者だった。
 人工ESP発現体とは、ソ連が実施したオルタネイティヴ第3計画により開発された人造人間である。
超感覚的知覚(エスパー)によって精神感応(テレパシー)や、予知視能力(プレディクション)透視能力(リーディング)を持つ。
 英語のExtra(エクストラ)Sensory(センソリィ)Perception(パーセプション)の頭文字を取り、ESPと一般的に言われる存在である
早く言えば、他人の思考を自在に覗き見出来たり、機械の中身を分解せずに見れる能力である。
 その他に人工ESP発現体には、観念動力と呼ばれるものが存在する。
英語のPsychoKinesis(サイコキネシス)の頭文字を取って、一般にはPKといわれるものである
俗に念力と呼ばれるもので、心に思うだけで自動車や鉄骨などを自在に空中浮遊させる能力を有する。
 しかしESP発現体は、超能力を人工的に再現する為、多量のコカインや覚醒剤を日常的に投与されていた。
コカインや覚醒剤は、脳回路における化学伝達物質であるドーパミンの水準を上昇させる薬物である。
 精神的覚醒と極度の興奮状態をもたらすが、強力な中毒性を持つ精神刺激薬でもある。
幻覚や妄想を生じさせ、つらい離脱症状を逃れる為に、より多くの薬物を依存性をもたらす薬である。
(注:ソ連では、西側に比して薬物規制が甘く、薬局で処方箋があればコカインが自由に購入できた。
ソ連の保健当局や警察、KGBが関心を持ったのは、麻薬中毒ではなく、アルコール中毒だった)
 また反乱防止のため、指向性蛋白を一日一回は接種せざるを得なかった。
指向性蛋白は、BETA由来の物質で、食事や水に混入するだけで記憶操作ができる精神作用を持つ薬物である。
 この薬物に注目したのは、KGB上層部である。
指向性蛋白がソ連科学アカデミーで発見されるまで、KGBは2年近い洗脳教育を施すしかなかった。
 長時間の思想洗脳や、視覚を通じた潜在意識化の洗脳も必要なかった。
ステファン・バンデーラを暗殺したボグダン・スタシンスキーに施したようなことをしなくて済んだのだ。
 その為、人口ESP発現体の多くは、麻薬の禁断症状で発狂し、薬なしでは長くは生きられなかった。
凶暴化した者は、大量殺人や自殺などの事件を引き起こし、ソ連赤軍では特別な管理下に置かれていた。

 不思議な殺気を感じたマサキは、一旦会場から離れることにした。
今までに感じた事のないような頭痛を覚えた彼は、会場外に設置された仮設の手洗いに向かった。
 その際、何者かが自分の後ろから近づいてくる。
時間を見るふりをして、鏡面加工のされた懐中時計で後ろを伺う。
 プラチナブロンドとは違う、銀色の髪をしたスラブ系の女だった。
彫刻のような彫りの深い顔に、アルビノの様な赤い目。
自然界では絶対あり得ない組み合わせである。
 遺伝子工学者のマサキには、後ろから近づいてくる女が只者ではないことを察知した。
 間違いなく、遺伝子組み換えで生まれたクローン人間だ。
これがアーベルが言うところの人口ESPか……
 マサキは、右袖の中に隠したコルト・ベスト・ポケットの安全装置を親指で解除する。
何時でも発射できるように、銃把を強く握りしめた。
 マサキは、アーベルの話や国防大臣から聞いたESPの透視能力を思い起こした。
自身の思考を透視されている前提に立って、ソ連への憎悪を思い浮かべることにした。
こうすれば、後ろから来る超能力兵士も混乱するであろうという前提に立ってである。
 手洗いのドアを開けて、中に入る。
足音が彼の後ろで止まると、背中に何か当たるような音がする。
 マサキは振り返りざまに、25口径のコルト・ベスト・ポケットを発射する。
後ろに立っていた女は、マサキの方にナイフの柄を向けるようにして立っていた。
 マサキの暗殺に使われたのは、スペツナズ・ナイフであった。
 スペツナズ・ナイフといえば、ばねで刀身が飛ぶナイフというイメージがあるであろう。
ヴィクトル・スヴォ―ロフの著作が初見で広まった伝説は、広く人口に膾炙した。
 だが、ナイフの刃を目標に向けて飛ばすというのは、西側メディアの神話にしか過ぎない。
一応、KGBは真剣にナイフ形のピストルを開発していたのは事実である。
 実際のスペツナズ・ナイフは、NRS-偵察ナイフと呼ばれるものである。
トゥーラ―兵器工廠で開発された、6P25との正式番号のある暗殺拳銃で、25メートルの射程を誇る。
 柄の後方から弾丸を装填し、柄頭にある装置から、弾丸が発射される仕組みになっていた。
消音装置はないものの、弾丸に特殊な消音加工がされたもので、現在もGRUやFSBで使われている。
 マサキの攻撃より一瞬遅れて、ナイフの柄から火が吹く。
7.62ミリ×38ミリの弾丸は、マサキの着ている制服の左の肩章をかすめ、壁に当たる。
壁には、7ミリメートルほどの穴が開き、中から煙のようなほこりが舞う。
 マサキの放った.25ACP弾は、正確に心臓に到達し、女は持っていた短剣を取りこぼした。
女は、断末魔の声を上げるよりも早く、地面に崩れ落ちた。
 案の定、ソ連人の女は、マサキの思い浮かべたソ連への強い憎悪に混乱をきたしていた。
マサキの心の闇の深さに恐怖し、彼の付け入るスキを与えることとなった。
振り返りざま、ESP兵士が反撃をしなかったのは、そういう理由があったからである。
 ――だいぶ若い女だな。
 倒れた女を見ながら、そんな感想を抱く。
 だが一旦、命を狙われれば、手加減はできない。
自分や、仲間たちの生命が危険にさらされるからだ。
 目の前の女は、もうほとんど動く様子は見られなかった。
 けれど油断は禁物である。
死んだふりをする可能性があるからだ。
 マサキは最後の慈悲として、女の脳天に.25ACP弾を2発撃ちこんだ。
血だまりが手洗い場に広がると、その様子を気にすることなくマサキは去っていった。 
 

 
後書き
 23日は祝日なので、明日は先週の振り替え分として投稿します。
ご感想、ご意見お待ちしております。



 参考文献:「スパイ大辞典」、論創社、2016年
      「諜報国家ロシア」、中公新書、2023年
      「スペツナズ ロシア特殊部隊の全貌」、並木書房、2017年
      「治安フォーラム」
 
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