大阪の蕎麦
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第四章
第四章
まずは最初の店に入る。言うまでもなく大阪でも有名な蕎麦屋だ。あえてそうした店を選んでいるのは二人の意気込みの何よりの表れだった。
店の中は客でごった返している。二人はその中に入るとまずは空いている席に座った。そこで二人だけで話をするのだった。
「なあ」
「ええ、今のところ変わらないね」
おゆかは文太に答えた。
「店の雰囲気だって江戸と同じだね」
「そうだよな。客の言葉位か?」
文太はここで耳を澄ました。聞こえるのはやはり大阪の言葉だけだった。
「他にどう違うんだ?」
「わからないね」
おゆかも首を捻るだけだった。
「何がどう違うのか」
「そうだよな。何が何だか」
「とりあえず注文するかい?」
おゆかが亭主に声をかけた。
「まずは食べてみようよ」
「そうだよな。食わないとわからないからな」
「そういうことだね。それで何を頼むんだい?」
「まずはざるだ」
やはりこれは外せなかった。蕎麦の基本中の基本だ。これがなくては蕎麦をわかることはできない。
「それとかけだな」
「やっぱりその二つだね」
「ああ。味を確かめるにはこの二つだ」
彼は言う。下手に具を入れてやるのではなくあえてその二つで純粋に味を確かめるつもりだった。その為にこの二つを頼むことにしたのだ。
「それでいいよな」
「やっぱりそれだね」
おゆかも彼の考えはわかっている。だから亭主の言葉に頷くのだった。
「じゃあ。いいよね」
「ああ。決まったぜ」
店の者に声をかける。
「ざるとかけ」
「二つずつね」
二人で注文する。暫くしてそのざるとかけが来た。二人はまずかけを見て言うのだった。
「あれ、御前さん」
「ああ」
文太がおゆかの言葉に頷く。
「このかけ随分」
「つゆが薄いな」
二人はまずそのことに驚いた。江戸のものはつゆが遥かに濃いのだ。真っ黒と言っていい程である。
「お湯で薄めてるのか?」
「だったら酷い店だよ」
二人はそう思って憤慨した。
「それでどうしてこんなに客が入るんだい?」
「大阪の奴等はどうなってるんだ。食い物は大阪の方がずっと美味いんだろ?」
「そう言ってるね」
あらためて亭主の言葉に応える。
「それでどうしてこんなつゆなんだい」
「まあ一応食ってみるぞ」
だが文太はとりあえずこのかけを食べてみることにした。
「食えたもんじゃなさそうだけれどな」
「そうだね」
二人でまずこう言い合って箸を手に取る。それから食べはじめる。まず蕎麦を口に入れる。すると。
「おや!?」
「あれ!?」
二人はそれぞれ驚きの顔になり声をあげた。その蕎麦を一口口に入れた途端に。
「美味いね、御前さん」
「ああ」
文太はおゆかの言葉に頷く。
「美味いな。味もしっかりしてる」
「これは昆布に鰹節に」
おゆかが何でだしを取っているのか、そばについていた僅かのつゆから分析してみせた。
「それにこの醤油は」
「醤油が違うな」
文太はそれを言った。
「薄いな、これは」
「これが大阪の醤油なのかね」
「多分そうだな」
そこまで舌で見抜いた。流石に見事な舌だ。
「それでこの味か」
「江戸のものよりも色々使ってるね」
「そうだな」
細かいところまでわかる。かけに関してはそこまでわかった。
「それでざるは」
「見たところ醤油だな」
江戸と同じように見えるものだった。
「けれど大根は入れていないな」
「そうだね」
「それで美味くなるのか?」
そのそばつゆを見ながら怪訝な顔をしている。
「どうなんだ、これで」
「けれど食べてみようよ」
今度はおゆかが文太に勧めた。
「そうじゃないとわからないしね」
「そうだな、かけと同じでな」
「そういうことだよ」
こう言い合ってざるも口に入れた。するとすぐにまたかけを食べた時と同じ顔になるのだった。
「醤油だけじゃないな」
「そうだね」
一見しただけではわからない。しかし食べてみてわかるのだった。
「やっぱり昆布に鰹だね」
「そうだな」
「そうだ。それでやっぱり醤油も違う」
「醤油だけじゃなかったんだね」
二人はこれに気付かなかったのだ。完全に江戸のつもりだった。だから全く気付かなかった。だがそのことに今気付いたのだった。
「醤油はこれは」
「ああ、これやね」
ふと側を通った店の娘が二人に顔を向けて声をかけてきた。
「あんた等江戸の人やね」
「わかるのか」
「わかるで、言葉遣いそのまんまやん」
朗らかな笑顔を二人に向けながら話す。その笑顔がまた実に人懐っこい。
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