大阪の蕎麦
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第三章
第三章
「ここで何かおかしなことがなかったか」
「おかしなこと」
「そうだ。客だ」
河内の声はこれまでになく鋭い。しかしその鋭さは武士のそれではなく味を知る者の鋭さだった。つまり気配の鋭さではなく舌の鋭さだったのだ。
「それはどうか」
「そういえば」
「ええ、そうだよ御前さん」
二人はすぐに気付いた。彼が何を言いたいのか。
「何かお客さん達の顔が」
「晴れなかったね」
「そうであろうな。さもあらん」
「少なくともわし等も」
「このせいろは一杯が精々だ」
左右の河内の仲間達も顔を顰めさせて言う。一応食べてはいるがそれでもだ。河内に至っては箸すら持ってはいない。まるで食べるまでもないというようにだ。
「蕎麦はいい。これは間違いない」
「蕎麦は、ですか」
「大阪でもこれだけの蕎麦はそうはない」
かなり褒めていた。それは彼も見抜いていた。
「確かにな」
「これは美味いわ」
浪人達も食べながら言う。食べながらだけあって認めているのがわかる。
「味もよいし」
「コシもあるわ。これはいいぞ」
「ではどうして」
文太にはもう訳がわからなくなっていた。
「この蕎麦が駄目なのでしょう」
「何、少し考えればわかることだ」
戸惑いおろおろとした目になっている彼に河内は言う。
「少しな。蕎麦を知っていれば」
「お蕎麦を」
「また来る」
こう言うと席を立ってきた。
「勘定は置いておく。次は大阪の蕎麦を頼むぞ」
「大阪の、ですか」
「楽しみにしているからな」
「おおい河内殿」
「我等がまだいるぞ」
まだ食べている二人が店を出た河内に対して声をかける。だが彼はもう屋台を出ていた。
「そこで待っている。安心されよ」
「だったらいいがな」
「では食べ終えて」
二人は蕎麦を噛んでそれを口に入れてから勘定を出す。そのうえで席を立つのだった。
「ではまたな」
「来るからな」
こう言い残して河内を追う。後には何が何だかわからなくなってしまった文太とおゆかだけが残された。三人が去り彼等だけになるとあらためて顔を見合わせて話をするのだった。
「蕎麦はいいんだよね」
「そう仰っていたな」
文太は女房の言葉に応える。
「確かにな」
「このせいろだけれどさ」
「ああ」
おゆかは河内が残したせいろを上から取って箸で食べる。するとその味は。
「いいよ」
「美味いか」
「蕎麦は最高だよ。流石は御前さんだよ」
「当然だ。俺は蕎麦にかけては江戸で一番だったんだ」
またその自負を出して言ってみせる。
「それがどうしてなんだ」
「わからないね」
「なあおゆか」
ここで彼は女房に対して言ってきた。
「何だい?」
「少し。外に出てみるか」
「外にかい」
「ああ、大阪の蕎麦屋を回ろう」
こう提案するのだった。
「蕎麦屋をかい?」
「浪人様は大阪の蕎麦って言っていたよな」
「そうだよ」
亭主の今の言葉に頷いて答える。
「確かにね。そう言っていたね」
「じゃあ。大阪の蕎麦がどんなのか食ってみないと駄目だろ」
「食って舌で探るんだね」
「そうだよ。どうだい?」
あらためて女房に窺う。
「それでな。やってみるか」
「そうだね。悪くないね」
考えつつ意を決した顔で亭主の言葉に頷いて答えた。
「それで。勉強してみようよ」
「よし。それにしてもな」
ここで彼はつゆを見た。蕎麦のつゆを。
「上等の醤油と最高の卸し大根なんだがな」
「そうだね」
江戸ではそれで蕎麦を食べていたのです。
「ダシだって最高なのに」
「それでどうして」
まだ二人にはわからなかった。しかしそれをわかる為だった。二人は少し店を休んで蕎麦屋の食べ歩きにかかった。その侍の殆どいない街を橋から橋へと渡りながら食べていくのだった。
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