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大阪の蕎麦

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第五章


第五章

「そうちゃうん?江戸の人やろ」
「ああ、そうだよ」
「やっぱりわかるんだね」
「あんた等醤油濃いの使ってるらしいやん」
 娘が言うのはそれだった。
「こっちはちゃうんやで」
「違うのはわかるさ」
「それはね」
 二人もそれに応える。
「けれどこの醤油は何なんだ?」
「それがわからないんだよ」
「薄口醤油やで」
 娘はその醤油の名を告げた。
「大阪の醤油は」
「薄口醤油」
「普通に店に売ってるで」
 これまた二人にとっては意外なことだった。
「当たり前にな」
「当たり前だったのか」
「それは知らなかったよ」
「あんた達、ひょっとして江戸から持って来た醤油で生きてたんか?」
 娘はそれを聞いてこう思った。かなり怪訝な顔になっている。
「また随分えげつないな」
「えげつないってどういう意味だ!?」
 文太はこの言葉の意味がさっぱりわからなかった。
「俺は別に何も」
「こっちの言葉じゃないのかい?御前さん」
 おゆかはこう考えた。少なくとも二人にはピンと来ないものだった。
「ひょっとして」
「言葉の使い方が違うのか」
「大層とかそういった意味やで」
 娘が言ってきた。
「江戸とこっちやったら言葉も全然ちゃうしな」
「全然っていうか全く別の言葉じゃねえかよ」
「食べ物まで違うし」
「それがわからんかったらあかんで」
 娘に笑って言われた。
「さっぱりやわ」
「全然って意味だよな」
「そや。わかってるやん」
「それはわかるよ」
 文太にもわかる。しかしだった。
「それにしても大阪が江戸とこんなに違うとはな」
「蕎麦だって違うんだね」
「大体あれだよ」
 また娘に言われる。
「何だよ」
「大阪で蕎麦食べるの自体があまりないで」
「そうなのか!?」
「あっ、そういえば」
 おゆかが周りの客達を見て気付いた。皆多くはうどんを食べている。しかも見たところ量にしろこっちの方が多い。それにも気付いたのだ。
「御前さん、こっちの人ってうどん食べる人多いよ」
「そうだよな、そういえば」
「こっちではうどんやで」
 また娘が言う。
「蕎麦もあるけれどな」
「うどんか」
「それは気付かなかったね」
 夫婦で言い合う。本当に気付かなかったのだ。二人は蕎麦のことばかり考えていた。だからだ。うどんは江戸ではあまり食べないこともあり考えることもなかったのだ。
「うどんか」
「まあ今は蕎麦だけれど」
「とにかくこれでわかったな」
「そうだね」
 まずは大阪の蕎麦がわかった。これでいいとした。
「よし、河内様には」
「これを食べてもらうことにしようね」
「ああ」
 こう言葉を交えさせる。その日から醤油もだしも変えて作ってみる。客足が少しずつ増えていき何時しか人気の店になった。うどんもはじめたがこっちもかなり人気だった。
 目に見えて忙しくなりそれに喜んでいると。そこに河内と彼の仲間の二人の浪人達が来た。河内はまず店に入って笑顔で声をかけてきた。
「繁盛しておるな」
「ああ、お久し振りです」
 文太が笑顔で彼に挨拶をする。
「ようやく来られましたな」
「ようやくも何も二月程前だったか?」
「確かそうだったな」
「うむ」
 三人は顔を見合わせて話をする。
「大体一つに店にはそれ位時間を空けるがな、わし等は」
「左様でしたか」
「大阪は食べ物にはこと欠かぬ」
 河内は笑って語る。
「てっぽうもあれば牡蠣もある。それこそ何でもある」
「てっぽう!?」
「何だ、知らぬのか」
 てっぽうと聞いて目を丸くさせるおゆかに数回目をしばたかせた後で答える。
「てっぽうとは河豚のことじゃ。ああ、江戸では食わぬのか」
「河豚って何だい、御前さん」
「知らねえな」
 二人は顔を見合わせるがやはり知らない。江戸では河豚は食べなかったのだ。理由は簡単で毒で死ぬからだ。幕府が禁止していたが大阪ではその禁止令は行き届いていなかったのだ。これは他の法令の多くも同じで改革の度に出される奢侈贅沢の禁止や生類憐れみの令といったものも大阪では施行されてはいない。大阪は江戸に比べてかなり自由な街だったのだ。二人はそれも知らなかったのである。
「何なんだろな」
「まあ今度教えよう。それよりもだ」
「蕎麦ですよね」
「うむ、せいろをくれ」
「わしも」
「わしもじゃ」
 他の二人もそれに続いた。
「それをくれ。よいな」
「わかりました。それじゃあ」
「せいろ三つ」
 こうしてそのせいろが注文された。暫くして三つのせいろが出された。河内はまずそのせいろを見て二人に楽しげに笑ってみせてきた。
「わかったようじゃな」
「どうでしょうか」
 まずは即答しない文太だった。まるで勝負を楽しむように河内の顔を見ている。
「まずは見た目は合格だ」
「左様ですか」
「ううむ、食欲をそそられる」
「見ているだけでたまらぬのう」
 河内の左右の二人も満面の笑みを浮かべている。もう二人は食べたくて仕方がない。
「ではよいな」
「はい、どうぞ」
 文太が河内に答える。
「召し上がって下さい」
「きっとですよ」
 おゆかも言う。河内はその言葉を受けて箸を取り蕎麦をそれに取ってつゆにつける。それからおもむろに口に入れて噛む。暫く噛んで飲み込んでから答えた。
「美味いのう」
「美味いですか」
「これが大阪の蕎麦じゃ」
 目を糸の様に細めて満面の笑顔で語る。
「これこそがな」
「ではあれは江戸の蕎麦だったのですね」
「あれはあれで美味いのじゃ」
 河内は言う。
「しかしここは大阪じゃ。大阪には大阪の蕎麦がある」
「はい」
 文太は河内のその言葉に頷く。
「それがこれじゃ。美味いわ」
「そうじゃの、これなら」
「何枚でもいけるわ」
 左右の二人は見る見るうちに食べていく。やはり二人も蕎麦を噛んでいる。
「だしは何を使っているのかわかったのだな」
「ええ」
 文太はまた河内の言葉に答えた。
「ようやくですが」
「それなのじゃ。あと醤油もな」
「ええ、これもわかりませんでした」
 彼は正直に答えた。
「薄口醤油とは」
「江戸と大阪では醤油も違う」
 彼は言う。
「それにも気付かないと駄目だったのね」
「気付きませんでした」
 申し訳ない顔で述べる。
「しかも全く」
「気付かないのも道理。江戸と大阪では何もかもが違う」
「その通りのようで」
「何かあってからはじめて気付くもの」
 そう語りながらその蕎麦を食べていく。いかにも美味そうに。そのうえでまた言ってみせる。
「そして美味いものが作られるのだ」
「そうしてはじめてですか」
「その通り。蕎麦もまた然り」
「はあ」
「それでじゃ。今度は」
「今度は」
 話が少し変わってきた。文太もおゆかもそれを聞く。
「うどんが食いたいな。よいか」
「はい、是非共」
「召し上がって下さい」
「ではその時を楽しみにしておこう」
 河内は蕎麦を啜りながら笑う。武士にしてはいささか身分違いな屈託のない笑みで。これからのことを楽しみにしている、そんな笑みだった。蕎麦の味の中での笑みであった。


大阪の蕎麦   完


                   2008・5・7
 
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