銀河英雄伝説~生まれ変わりのアレス~
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置き忘れた生ごみ
任務を与えられたものの、アレスの仕事は少ない。
装甲車の改善についてという漠然な任務であり、それも半年後に要員が増える事になっている。その間に後方勤務について学びながら、準備をしろとの意図も理解した。
任務についてから一週間ほどの時間をかけて、二百数ページもの契約書及びそれに倍する会議資料や議事録を読み込めば、時間がそれほどない事に気付いた。
同盟軍の計画では、改修は自助努力を想定している。
アース社からの技術的な支援を受けながら、予算をとって装甲車の改修を実施する。
必要があれば問題のある装甲車を廃棄して、新型の導入も検討されていた。
根深そうだ。
疲れた目を揉みほぐしながら、アレスは息を吐いた。
あまりにもアース社に有利な方針。
前におかれた契約書を見れば、決して戦えないわけではない。
しかし、それを念頭にすらおいていない。
方針を決めた上が理解していなかったということもあり得る。
事実、慣れているアレスですらも一週間もかけて何百ページもの書類を理解した。
様々な報告があがってくる上にそんな時間はないだろうし、仮にあったとしても、前線で戦っていた士官に書類全てを理解しろといっても無理な話だ。
だが、それ以外が原因だったとしたならば。
読んでいた書類から目を離して、机を小さく叩く。
しばらくの思案を持って、時間がないと結論付ける。
半年の間悠長にしていれば、アース社は反論する資料をそろえる。
いや、資料をそろえるのに必要な時間が半年なのかもしれない。
パタンと契約書を畳めば、静寂な室内に一つの音が鳴り響く。
周囲からの注目の視線は、どこか批判をするようなもの。
この一週間の間はずっと書類に目を向けるだけのものであった。
仕事をしないのなら、せめて静かにしろというものなのかもしれない。
もっともまだ新任のアレスに仕事が来るわけでもなく、どこか様子を窺うような遠巻きな視線しかないのだが。
さて。
ウォーカーに一度視線を向けて、アレスは受話器をあげた。
数秒のコール。
「お世話になっております。私は自由惑星同盟軍装備企画課のマクワイルドと申しますが、今回の装甲車の件でご担当の方を……」
視界の端でウォーカーが驚いたように目を丸くした。
+ + +
待合用の椅子の上で、ウォーカーはしきりに汗を拭った。
少佐待遇であるウォーカーも滅多に入らない。
装備企画課長の部屋の前室だ。
その隣で書類を手にしながら、この原因となった部下は平然とした顔をしている。
胃が痛い。
任務を付与して、目の前の部下――アレス・マクワイルドはただ書類を見るだけだ。
普通であれば契約書の読み方も知らない士官学校出の若造。
一時間に一回程度は質問して、それに答える。
本当にきちんと仕事をしているのか不安になったものだった。
そんな時に三日目にして初めて質問に来た。
その内容にウォーカーは驚かされた。
それは契約と仕様の小さな齟齬の部分であり、きちんと契約書を見ていなければ分からない。いや、例え契約を知っていても見落としてしまうような細かな齟齬であった。
今まで経験した基本的な内容のものではなく、明らかに知っている者の質問。
それから見方を変えれば、明らかにおかしい。
ただ書類を読むのではなく、最初に契約書を、次に議事録をと――必要な書類を実に的確に読んでいた。
そして、つい先日だ。
アース社の営業に連絡をとったかと思うと、相談があると別室で会話をした。
正直、聞かなければ良かった。
その時の会話は思い出すだけで胃が痛くなる。
薬を飲もうかと思い、既にこの部屋に入る前に飲んだばかりだった事に気付く。
手持無沙汰に持ったハンカチで汗を拭った。
面倒だと思っていたが、まさか一週間でこんな面倒となるとは。
表向きは装甲車改修に向けた計画案の報告。
だが、その実態は。
再び汗を拭ったところで、秘書である女性中尉が静かに扉を開けた。
「どうぞ、ウォーカー事務官、マクワイルド中尉」
それは地獄の門の入口のようにウォーカーは感じた。
+ + +
シンクレア・セレブレッゼ少将。
原作では中将として、ヴァンフリートに配属された。
その実は後方勤務のスペシャリストであり、前線指揮能力は皆無。
口元の髭を生やした生真面目そうな男であった。
手にしていた書類から目を離すと、こちらの姿を見て机上の前におかれた接客用の椅子をすすめた。隣に立つウォーカーの様子を見て、簡単な報告ではないと気付いたのだろう。
自らも席を立つと、接客用の椅子に座る。
「何か問題があったのかね」
「いえ。問題といいますか……」
「装甲車の改修にあたっての方針を決めたいと」
ウォーカーの言葉を引き継げば、セレブレッゼは小さく眉をあげた。
黙ってさしだした書類は、契約書と議事録のコピーだ。
必要な要点だけを抜きだした数枚の書類と、報告書にしばらく目を通して、セレブレッゼは口髭を撫でた。
「これは臭いな」
後方勤務のスペシャリストは、たったそれだけで眉をひそめて答えた。
書類を最初から見直して、再び臭いと呟く。
「ええ。実態は見えていませんが」
「どこかに置き忘れた生ごみのようだな」
嫌悪するような表情を浮かべれば、正面に座るアレスは頷いた。
契約書を見れば、決して戦えない戦いではない。
だが、戦う事が最初からないような前提条件。
新任の教育を名目にして、半年もの期間を塩漬けにする。
それを見て、セレブレッゼは置き忘れた生ごみと表現した。
汚職が確定しているわけではない。
だが、臭いだけは確実に漂っているというわけだ。
「このままでは漬物になりそうです」
「食えたものではないがな」
「しかし、まだ確定したわけではございませんので」
言葉を放ったウォーカーは、しかしセレブレッゼに見られて、汗を拭った。
下手に想像で進めれば、取り返しのつかない事になる。
慎重だが確かな意見に、セレブレッゼは頷いた。
「確かに。これだけでは何の証拠もない――実際にただの間抜けで、何の裏もないかもしれないな。だが、どちらにしろとアース社のいいなりにならないければならないというわけでもなさそうだ。勝てるか?」
尋ねたのはアレスに対してであり、アレスはゆっくりと頷いた。
「ええ。よけいな邪魔が入らなければですが」
「臭いの元はこちらで探ろう。だが、どちらにしろすぐに行動すべき案件だな」
言葉にアレスは頷いた。
時間を経てば経つほどに相手に有利に進む内容。
「既にアース社の営業には声をかけています」
「よし。と、すればこちらにも近いうちに反応があるか」
「なければいいのですが」
「まったくだ」
セレブレッゼは笑い、時計を見る。
視線を追ってウォーカーも見れば、入ってからは数分しか経過していない。
しかし、既に何十分もいるように覚える。
手にしたハンカチがじっとりと湿っていた。
それで再び額を拭うような気にもならず、懐にしまった。
見つめる先で時計を見ながら、セレブレッゼが思案している。
その様子はつい先日、隣の部下が思案する様子に似ていてウォーカーは腹に手をおいた。
時間が開いていなくても胃薬は飲むべきだった。
ウォーカーの中では十分――時間にすれば一分ほどで、セレブレッゼは書類をさし返した。
「二人とも理解していると思うが、この件は他言無用だ。誰も言わぬように」
確認にも似た言葉に、二人が頷くのを見届けた。
「それとマクワイルド中尉……君は確か三次元チェスが得意だったな」
「は。はぁ」
唐突な言葉に、隣でアレスが間の抜けた返事をした。
戸惑いを含む言葉に、ウォーカーは珍しいものを見たとアレスを見た。
「私も好きでね。どうかね、一局?」
笑みと共に呟かれた言葉に、アレスは意味を理解して頷いた。
「ええ。いつでもお付き合いさせていただきます」
「では、以上だ。この件はくれぐれも慎重にな」
こうして、ウォーカーの不幸は決定した。
+ + +
アース社の営業課長と営業員が青ざめた顔で会議室から出ていくのを見て、可哀そうだとウォーカーは胃を撫でた。彼自身が与えられた任務はなく、伝えられるのはアレスからの報告だけであったが、正直なところその報告も課長だけにしてもらいたいと思う。
任務とは別のところで、彼の仕事は増えていた。
本来は半年後に行うべき改修計画が前倒しされているのだ。
関係する部署は山のようにあって、その説明を求める意見がウォーカーに殺到している。
それに対してウォーカーは全てをぶちまける事も出来ず、かといって関係部署からのもっと時間をかけてほしいとの要請を受け付けるわけにもいかない。
ただ方針が変更となったと調整し、説得する。
その点で言えば、ウォーカーは決して無能ではなかったのだろう。
正直に話すこともなく、急な変更に対して対応しているのだから。
その分飲んだ胃薬の量と白髪は着実に増えていたが。
かといって、音をあげるわけにもいかない。
本来は一年以上をかける計画を、彼の部下は数カ月で行おうとしているのだから。
しかも腹立たしい事に生き生きとして。
遅れて会議室から出てくるアレスを一瞥すれば、ウォーカーは胃薬を飲み込む。
小さく呟いた恨みの言葉は、けたたましくなった電話の音にかき消された。
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