六歌仙容姿彩
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第三章
第三章
第三章 大友黒主の章
いささか厳しい顔の男がそこにいた。海の前に一人立っていた。
「またここに来てしまったな」
太い眉の下の男らしい目を悲しげにさせてこう呟いた。
「来たくはなかったというのに」
だが来てしまった。彼はこのことに自分自身ではどうにもならない心の乱れを感じて嘆いていたのだ。その嘆きはどうしようもないものであった。
彼は大伴黒主。歌の神とまで讃えられている人物である。だが今の彼はただ思い悩む一人の男に過ぎなかった。彼が思い悩む理由は一つであった。
恋だった。適わぬ恋だった。想い人には既に夫がいる。しかも身分も違っていた。決して適わぬ恋なのであった。
半ば強引に自分のものとしようかとも考えた。しかし彼はその外見に似合わず内気であった。だから何も動くことは出来なかったのだ。それができれば。こうしてここに何度も来ることはないのである。
目の前の波は高い。白波が幾つも見える。その海を見て彼は自分の心が海に現われていると思った。
「わしもじゃな」
ふとそれを呟いた。
「わしの心も乱れておるわ」
だがどうにもならない。何も出来ない。それが苦しく、また切なかった。何をどうすればいいのかわからずここにいるのだ。心が乱れるのも止められないまま。
その彼の目の前に波以外のものが姿を現わした。
「むっ!?」
それは一艘の小舟だった。漁師であろうか。波の中を揺れながら進んでいた。
「また何故こんな時に」
それに首を傾げた。何もこんな時に海に出なくともよかろうにと思った。だがその漁師は海の上を進んでいた。波に揺られ、その中で櫂を苦労して操りながら。そして進んでいた。
「わしも同じか」
黒主は今度はこう思った。漁師と自分を重ね合わせたのだ。海から移って。
「適わぬ難儀なものでも。それでもな」
彼は想いを止めることが出来なかったのである。心は散々に乱れ、また適わぬものであるとわかっているのに。それでも止めることが出来なかったのだ。自分でわかってはいても。
「どうしようもなくとも」
止められない心。だが彼はそれを何かに留めようとふと思った。
「こういう時こそじゃな」
そして懐から黒紙を取り出した。筆も一緒に。黒紙に書くものは決まっている。白であった。
白い文字を書いていく。歌の神とまで讃えられている彼の書くものは言うまでもなかった。それは和歌であった。
白浪のよするいそまをこく舟のかぢとりあへぬ恋もするかな
「ふむ」
黒主は書き終えた和歌を見やった。まずはよい出来だと思った。
「これ」
それを一先懐に収めると下でまだ舟を操っていた漁師に声をかけた。彼はまだ波の中で苦闘していたが声を聞いて安全な場所に船を置いた。それから黒主に向かって顔を上げた。
「何か御用で」
「うむ、そなたに渡したいものがあるのじゃ?」
「私にですか?」
「歌をな」
黒主はそう言いながらにこりと笑った。顔は厳しいが優しい笑顔であった。
「よいか」
「字はあまり得意ではないのですが」
「まあ貰ってくれ。わしからの頼みじゃ」
「はあ」
「今からそちらに参るからな」
そう言って漁師のところに向かった。彼がそこに来た時には漁師はもう舟から降りていた。そして黒主と正対していた。見れば精悍な顔立ちでありながら何処か知性のある趣きがあった。
「そしてその歌とか」
「これじゃ」
黒主は懐の中からあの黒紙を取り出した。それを漁師に手渡した。
「題はないがな」
「それでもいい歌ですね」
「そう言ってもらえると有り難い」
「ではこの歌は譲り受けさせて頂きます」
「頼むぞ」
「しかし何故私にこのようなものを」
「もう収めたからじゃ」
黒主は笑ってこう返した。笑ってはいたがそこには寂しさも含まれていた。そんな笑みであった。
「収めたと申しますと。まさかこれは」
「皆まで言うな。よいな」
それは歌からわかった。だが黒主はそれを言うのを止めさせた。笑顔で彼を制した。
「ではな」
「はい」
こうして彼は自分の想いを歌に収め、人に預けてそれを終わらせた。悔いはなかった。それが歌人であるとわかっていたからであった。
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