六歌仙容姿彩
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第二章
第二章
第二章 在原業平の章
弥生の暮れのことである。藤の側に気品のある若者がいた。礼装でたたずみ、そこに立っている。その顔は穏やかなものであり優しげな目に白い顔、そしてまるで女と見まごうばかり美貌を持っている。
彼は一人の従者を連れていた、横を向きその従者に声をかける。
「来ませんね」
「はい」
従者はそれに頷いた。彼は人を待っていたのだ。
この若者の名を在原業平という。小町と同じく美貌の持ち主として知られ、また歌にも長けている。その彼が人を待っていたのである。
「文は寄越したのですね」
「左様で」
従者はまた業平の言葉に頷いた。業平はそれを聞いてふう、と溜息をついた。
「今度こそと思ったのですが」
その秀麗な目に憂いが浮かんできた。
「まだ待ちましょうか」
「はい。あっ」
従者が応えたところで上から何か降ってきた。
「雨ですが」
「ですね」
それは業平もわかっていた。雨がしとしとと降りはじめてきたのだ。
「どうされますか」
従者はそのうえで業平に尋ねてきた。
「まだ待たれますか」
「そうですね」
業平は従者のその言葉に考える顔になった。それから答えた。
「もう少し。待ちたいのですが」
「宜しいのですか?」
「はい、貴方には御苦労をおかけしますが」
「いえ」
従者はそれには構わなかった。そして二人はそのまま暫し待った。だがそれでも誰も来なかった。二人はそれでも立っていた。しかし。
「もう春も終わりですね」
業平は口を開いてふとこう言った。
「えっ!?」
「春も終わりですねと」
彼はまた繰り返した。
「弥生の晦ですし」
「それはそうですが」
従者は彼が何を言いたいのかわかりかねていた。天才肌の歌人である彼は時々いきなり突拍子もないことを言い出すのである。だから内心ではまたかと思った。
「そして藤も」
次に藤に目をやった。すすす、と近付いていく。
それの枝の一つに手をかける。そして折って手に取った。
「もう終わりですね」
藤は春の花である。その春が終われば藤も終わる。そして別のものも。彼はそれを言っていたのだ。
「さて」
彼は懐からあるものを取り出してきた。
「文の用意はできていますか?」
そう従者に声をかけてきた。
「文ですか」
「はい、一句浮かびましたので」
懐から出したのは紙であった。青い紙だ。青といっても濃い青ではない。淡い青だった。それを懐から出してきたのであった。何に使うのかは言うまでもなかった。
「ありますか?」
「はい、こちらに」
主の行動に備えていつも用意はしていた。筆と硯、そして筒に入れていた墨を出す。それを揃えて業平に手渡した。
「では」
彼は文をその青い紙に書きはじめた。だがそれは文ではなく歌であった。
ぬれつつぞしひてをりつる年の内に春はいくかもあらじと思へば
和歌であった。それを書き終えた時業平は少し悲しい顔になっていた。だがそれは一瞬のことであった。
「これをあの方に」
「はい」
従者に歌を手渡す。従者はそれを受け取ると濡らさないようにすぐに懐に仕舞い込んだ。
「来て頂けると思ったのですが。残念なことです」
業平は最後にそう言い残した。藤に背を向け去って行く。それで全ては終わりであった。恋が終わったのであった。春の終わりと共に。
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