Monster Hunter ―残影の竜騎士―
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6 「Siren」
前書き
急展開。乙!!
※ 途中ちょっとグロッキー入ります。
※ 長いです…文字数、一万六千……
ズ...ズウゥゥゥン......
バサバサッ
キャァー…! キャァー…!
凍土が震えた。
木々の雪は落ち、絶対強者たる竜の殺気に息を潜め身を寄せ合っていた鳥たちは、悲鳴に近い鳴き声を上げて一斉に空へと飛び立つ。
「……みさ、きぃ…」
「うん……今の、ただの地震じゃない。どこか、たとえば地下の洞窟か何かが崩れたような、そんな揺れ、だ」
「洞窟?」
「はい。……あの、菖蒲おじさん。兄さんは、あの時おじさんに何か、言ってましたよね。僕たちがこやし玉をつけていたときのこと、です。あれ……なんて、言っていたんですか」
疑問形は取っているが、その問いは命令のように強い力を持っていた。その裏には、菖蒲にはわかる、隠しきれない恐怖と、疑心とを秘めて。
菖蒲は雲に透けて見える太陽の位置を確認した。灰がかったクリーム色の太陽は、すでに一番標高の低い山の頂にさしかかっていた。日が暮れるのが早い凍土において、それがだいたいのところ午後3時から4時の間を意味するということを、医学書にとどまらず多くの本を漁りその手の知識に通暁している菖蒲は知っていた。
静まり返った凍土に響く4頭の竜の蛮声から転がるようにベースキャンプに逃げ戻ってきてから、早5時間。帰ってすぐに転がしニャン次郎に緊急事態の報告を頼んだ。そういう時用の手紙がキャンプには備え付けであるのだ。ニャン次郎も超特急で向かうと確約してくれたから、そろそろグプタ町にはついただろうか。
急激に暗くなってきた、朱く光る太陽を見る。
この時期、凍土は4時を過ぎれば急激に暗くなり始める。あたたかな日がある時間は残り1時間も無い。
―――『明日の朝、山間から日が昇ってもベースキャンプに俺が戻らなかったときは……』
そして、朝が遅い凍土の夜明けは、8時。
(タイムリミットは、16時間……だが)
いくら凪でも、飛竜に狙われながら16時間も走り回れるわけがない。必ずどこかで休息を入れる。入れなければ、死ぬ。が、入れたからと言って完全に緊張を解いてしまえば、その隙を狙って喰われかねない。凪は強いが、相手が4頭も居ると話は別だ。生死をかけた戦いは、先に緊張を切らしたものが敗者となる。しかも、たった一人で戦わなくてはならない凪の張りつめた糸のような緊張は、そう持ちはしないだろう。
通常パーティを組むハンターなら交代に休眠をとれるが、凪の現在のパーティはここでただ彼の無事を願って空を見上げるしかできないのが現状だ。
(だが、俺たちに何ができる?)
ハンターになってまだ日も経験も浅い2人のハンターと、こういう場面においては役に立たない医者が1人。
ひとつ大きな深呼吸をすると、菖蒲は声帯を震わせた。
「……明日。朝日が昇ってもベースキャンプにあいつが帰らなかったら…」
聡明な岬のことだ、想像はしていたのだろう。だんだんと絶望の顔に染まっていくその表情の横で、生まれ持ったその天性の勘だけは野生動物にも劣らない汀が、嫌そうな顔をしている。
聞きたくない…
2人の心の声が手に取るようにわかった。が、言わなければいけない。
心を鬼にして、しっかりと2人の目を見つめながら言った。揺るぎない視線に、自分から目を逸らすことも出来ない双子は少し、たじろぐ。
「俺達は、グプタ町に帰る」
「ッ!!」
「…は? ……ちょっと、待ってよ…あやにい。ごめん、もっかい言ってくれる? 聞き間違えたかもしれな…」
「俺たちは明日の朝、日の出と共に…凪が帰ってこようと、帰ってこまいと、凍土を離れてグプタ町に戻る。そういったんだ、汀」
「な…んで……」
「それがあいつの望みだからだ。岬、あいつは俺にこう言ったんだよ。『明日の朝、山間から日が昇ってもベースキャンプに俺が戻らなかったときは、俺を死んだものとしてグプタ朝へ帰れ』、とな」
「「ッ!?」」
(ったく……こんな役回り俺にさせやがって……恨むぞ、クソガキ)
どうせまたにへらっと笑って軽く謝るんだろうな、と頭の中でへらへらしている三頭身の凪を小突く。
「もとから、正直言ってあいつに勝ち目なんぞねぇだろう。明日の朝、凪がなんとか生きてここまで逃げ帰れれば、俺たちの勝ち。時間を超えちまったら、竜たちの勝ち、っつーわけだ」
「そんなことありません! 兄さんならきっと、ネブラも倒して、無事に帰ってきます! 時間がかかったとしても! 百歩譲っても、死ぬなんて!」
「だからなあ、現実的に考えてみろ、岬! 衆寡敵せずって言葉知らねえのか!」
「凪兄さんの力は一騎当千です! その実力はおじさんが一番よく知ってるでしょう!?」
「シュ、シュウカテキセ、セ……? イッキ、ト…豆腐……?」
「兄さんは、たった1人であのユクモ村を襲ったファンゴの大群を殲滅したんですよ!? その目は節穴ですか!? それとも兄さんに帰ってきて欲しくないとでも!?」
「ふざけるな!!!」
沈黙が下りた。菖蒲は今、本当に怒っていた。ギギネブラの咆哮を受けたように一瞬動けなくなった岬に、怒気を押し殺した――否、押し殺しきれない声で語りかける。
「俺だってなあ、助けられるもんなら今すぐ駆けつけたいんだよ……! だがな、俺は一介の医者であって、あんな飛竜を相手にどうこうできる力なんざねえ…無力なんだ……!! それでも俺は、お前らだけは守り通さなくちゃいけねえ。そのためならお前に恨まれようが憎まれようがなんだってする。それがクソガキ……凪と交わした最後の約束であるなら」
「……」
「センメ…煎餅……?」
「「……、……………。」」
「へ?」
「「………はぁ…」」
「へ? へ? 何言ってんの?」
「どうしてそう……気の抜けるこというかなぁ、みー…、……一騎豆腐…とか……ぷぷぷ」
「どこをどう聞き間違えりゃあ“殲滅”が食い物になるんだか。食い意地張ってんにも程があんだろ……くくく」
「「わははははははは!!」」
ぴりぴりしていたベースキャンプの空気が、和らいだ。
汀のおかげで一度冷静になった2人は、しかし互いの主張は変えない。真面目な顔に戻った岬が、座ってもなお自身より頭1つ大きい菖蒲の顔を見据える。そんな少年の眼差しを菖蒲も正面から受け止めた。その顔に普段のからかうような態度は無い。
「言い過ぎました……すみません」
「ああ、分かってる。こっちこそ悪かった、感情的になって。大人気ねぇな」
「……本当に、帰るつもりなんですか。おじさん」
「それが、あいつとの約束だからな」
「……僕に、もっと力があれば」
ひどく不満そうに、何より悔しそうに、岬は自分の手のひらを見た。同年代の子供に比べれば明らかに固い、されど小さな子供の手。何回も肉刺を作り、潰れては癒える前にまた違う箇所にいくつも作って、を繰り返した少年の手のひらの皮は、いつしか厚く、固くなっていた。
―――それは、小さいながらも立派なハンターの手だった。
「馬鹿言え、お前はまだ成人すらしてねえガキなんだ。ガキはガキらしく年長者に守られてろ。……それを言うなら、俺の方だ。俺が付いてきてなかったら……お前ら2人だけだったら、あいつも伴って一緒に帰ってこれてたのかもしれねえのにッ……!」
並んで腰かけた固いベッドの上、岬の隣でミトンを外し開かれた手のひらには、肉刺の痕などない。だが岬は知っている。この繊細な手が、岬には想像もつかないほど器用な動きをして何人もの命を助けてきたということ。
―――それは、命を守る医者の手だった。
寝転がった菖蒲は、梁についている黒い滲みの数をなんともなしに数えていた。
「……僕たちにも、何か、できることは無いでしょうか…」
「あったら、んなとこでうだうだ考えてなんざいねぇよ。人間相手の喧嘩ならまだしも、飛竜―――それも、3頭も4頭も相手にしてたら、俺たちゃ命がいくつあっても足りねえ。戦えねぇんだ、邪魔になって足を引っ張るよりかはここにいた方がまだマシだろ」
言葉の節々がついついぶっきらぼうになるのは、そう言うしかない菖蒲自身自分の不甲斐無さにどうしようもなく苛立っているからであるということを、それこそ生まれてから毎日彼の顔を見てきた岬であるから、よく理解していた。
「僕たちは、弱い……」
「ああ、弱い。自分よりひとまわりも年下のクソガキに命救ってもらうくらいには、どうしようもなく、兄貴としてクズだ。畜生」
「僕たちは…戦えない……」
「そもそも俺は狩猟武器すら片手で持ち上げられねえからな。背負ってくなら兎も角…うわっ!」
いらだちを紛らわすように柄にもなく長広舌になっていた菖蒲は、不意に跳ねたベッドに驚いて声を上げた。武器の手入れをしていた汀も何事かと双子の片割れを見やる。
「……そうですよ。僕たちは戦えません!」
勢いをつけて立ち上がった岬は、視線を自分の手から曇天に移して言い切った。きゅっと締まった握りこぶしは、何かの決意を秘めるように胸の前にそろえられる。
「なんだ、開き直ったのか、岬」
さっきから俺が何度も言ってんだろ、と少年を見上げていた菖蒲は、つまらなそうに再びベッドに横になろうとした。汀も意識をハンマーに集中しようとして、ふたたび上がった菖蒲の驚く声に面倒そうにそちらに目をやる。
しっかと菖蒲の手を握った岬が、きらきらと輝いた眼差しで2人を交互に見つめた。その瞳に先ほどまでの絶望の影はない。理知的な光と決意の炎を秘めた湖水色の目は、普段の聡明な岬少年のものであった。
「僕たちは、戦えません。だけど、罠や角笛を使ってサポートするくらいならできます!」
「サポート?」
「師匠と弟子が、まだ弟子の実力に合わないクエストに向かうときによくやることです。基本的に倒す主体は師匠がやって、弟子はそのモンスターの特徴を学びつつ、落とし穴やシビレ罠を仕掛けて師匠の狩りのサポートをする。僕とみーも父さんと一緒に狩りに行くとき何度もやりました」
「そっか……そうだね。なんで今まで思いつかなかったんだろ! みーやる! やりたい! にいちゃの役に立てるなら!」
「……それは、安全なのか?」
「そりゃあ、完璧に安全とは言い切れません。なんたってここは“凍土”という狩場なんですから。でも、モンスターたちは基本目の前の得物を襲う習性がありますし、その注意を引くのが師匠―――この場合、凪兄さんの役目になりますから、危険度は凪兄さんの力量による…つまり低いと思われます。兄さんならやってくれます……絶対に!」
「それで、クソガキの助けになると? 本当に?」
「なります! そもそもモンスターを狩るというのは複数のパーティでやるのが基本です。ひとりが攻撃してる間に他が態勢を整えたり、あるいは4方向から一斉に攻撃の雨を降らせることでモンスターの体力を一気に削りに行ったり、やり方はいろいろありますけど、今回ならそれに近いことをできます。僕たちがネブラの気を引いている間に、兄さんが攻撃するんです。1人で避けつつ攻撃しつつを繰り返してたら、兄さんの体力が削られるばっかりです」
左右から必死に縋りつかれ、それでも菖蒲は腕を組んでしばらく考えていたが、やがてうなずいた。
岬の提案は、本心から今すぐ凪を助けに行きたかった菖蒲にとって、まるで蜘蛛の糸のように見えた。汀たちを守るのも“家族”として当然だが、“家族”なら凪だってその中に入るのも、また然りだ。
了承した保護者に目を輝かせた双子は、同時に抱き付くようにして菖蒲に礼を言う。いわば命の天秤を測るようなことをさせてしまった彼に申し訳なさと、それ以上に助けに行く判断をしてくれたことに対する感謝でいっぱいだった。
となると、今度は戦闘経験が無に等しい民間人たる菖蒲に一体何ができるかということだ。
「……俺は、ギギネブラの動きの特徴なんざこれっぽっちも知らんが。まさか俺に斧持って走り回れとか言うんじゃねえだろうな」
「言うもんですか。菖蒲おじさんは、回復薬とグレートの調合をお願いしたいんです。ハチミツはここに隣接するエリア1にあるので、すぐとってこれます。今は大型モンスターもあのネブラ以外いませんし、あんな狭いところで兄さんが4頭相手に立ち回りするとは思えないから、安全です。ただ調合する場所は万が一のためベースキャンプでお願いします。僕と汀が持ってきたありったけのアオキノコは、ここにありますから」
肩掛け鞄から乾燥アオキノコの粉の詰まった瓶を次々並べていく。グラムにすれば1000以上はあるだろう量で、これらをぴったり使い切れば、材料さえ整えば20個の回復薬を作れると少年は言った。薬草はドライフラワーのようにカサカサに乾いたもので、それもまたひとまとめに麻紐で括られて瓶に詰められていた。
調合レシピももらえば、あとは仮にも長年シノノメ楽団専属楽団医を務めてきた菖蒲である。失敗せずに作る自信は、十二分にあった。
調合冊子の最初のページにある回復薬の欄に目を通している菖蒲に、岬が「あともう1つ」と菖蒲の役割を付け足した。本に目を落としたまま促した彼に、岬がええと、と少しうかがうような声色で新たな役目なるものを説明し始める。
「そこにある樽爆弾を運んでほしいんです。僕たちは狩猟武器があるし、抱えるには樽が大きすぎて持てないんです。ただ、これはご存知の通り下手に衝撃を与えればその場で爆発してしまう危険な物ですし、対象はもちろんモンスターなので、ネブラと同じフィールドにおじさんが行かなくちゃいけないんですけど……」
「わかった。どこへ置けばいいんだ?」
「いいんですか? 危険ですよ?」
「ガキどもに命張らせて俺だけ安全圏でぬくぬくと調合なんざ、頼まれたってやらねえよ。…で?」
「…ありがとうございます。置く場所は落とし穴の上です。置いたらできるだけ早く、遠くに退避してください。後ろから爆風が来て飛ばされそうになったら、自分から飛び込み前転の要領で転がると、衝撃が少なく済みます」
「了解だ。やれるだけやってみよう」
手始めに3人でありったけの材料をつかって回復薬の調合を始める。ポーチの容量の限界で1人10本分しか持っていけないというのが通説だが、そこは根性でどうにかする。瓶の口のくぼみに麻糸をこよって作った紐の輪をうまく縛り、いい具合に連結させるのだ。紐の端と端をポーチのベルト部分に固く括り付ければ、完成。菖蒲の10分の1ミリ単位で正確に動く骨ばった指が、瞬く間に3人分をこしらえた。
流石、と拍手するちびっこ2人に、菖蒲は年甲斐もなくふんぞり返った。
「これで1人13本。3人で合わせれば凪兄さんの分まで十分カバーできますね。よし。それじゃ、作戦会議します!!」
「おー!」
「よっしゃ、どんと来い!」
すっかり暗くなってベースキャンプの周りの松明に火を点けた3人は、ベッドの上に地図を広げて岬のいう“凪兄さん救出大作戦”を話し合い始めた。
(生きてろよ、クソガキ……!)
(兄さん、次は僕たちが、必ず助けます……!)
(みー達が行くまでもうちょっと待っててね、にいちゃ!)
それぞれの胸に、決意を秘めて。
******
「はぁッ…はぁッ…はぁッ…」
白い息を吐きながら、身を震わせる。赤いラベルが貼ってあるのを確認してから栓を抜き、本来少しずつ口に含めるべきものを一気に呷った。喉を伝い落ちるとろりとした食感は直後カッと燃えるように熱く変わり、ホットドリンクはすぐさま凪の体を内側から温める。
崩落したエリア7とエリア2の入り口。大きく口を開いたそこを塞ぐほどにまで積み上がった氷塊のくぼみに、凪は座り込んでいた。身の丈ほどもある大きな氷の塊は良い具合に風を遮り、叩きつける吹雪から凪を守っていた。
幾層にもよる永久凍土で形成されていた洞窟は凪の火走りを受けても全壊はせず、天盤の幾枚かが剥がれ落ちたのみとなった。といっても、2エリア間をつなぐ部分にはほとんど隙間もなく、中のギギネブラ達が生き埋めになったのは確実だろう。4頭が生きているのか、それとも圧死したのかまでは確認できないため、いい加減抑えきれなくなってきた体の悲鳴を収めるのと同時進行で暫く様子をみることとする。
地形を少々変えてしまった。この分なら瓦礫さえ取り除けばまた4つのエリアの中継地として活用することは可能だろうが、それまで凍土のマップの変更を申し出なくてはならない。面倒な。
誤魔化すようにそこまで考えて、やっと落ち着いたように体を伸ばす。母の内で眠る胎児のように丸まっていた凪は、痛みの余韻にまだ顔をしかめていた。
―――ズキッ
「うっ」
再び左眼を強く抑える。心臓の鼓動に合わせて眼球が脈打つのが分かった。
ドクン...ドクン.........ドクン...ドクン...
(な…んなんだよ、これはっ……!)
自分の身に何が起こっているのか。
さっき、天盤崩落の際ちらりと見えたあれは―――あの<花>は、一体何なのか。
もう見えなくなったそれは、しかしはっきりと脳裏に焼き付いていた。
赤い、赤い血。ほかでもない、自分がギギネブラに負わせた傷から流れ出たもの。凍り付いた大地に血はなかなか滲みこまず、文字通り血の池となって丸く広がった。飛竜の巨体を巡っていた血液は大量だ。いくら一般的なギギネブラよりも小型であるとはいえ、その量は膨大。
そして、凪は確かに見たのだ。
血の池に浮かぶ、かぐわしく可憐で、冷たい、蓮の花を。
思い出しただけで悪寒が走った。痛みも気にせず強く目をこすって、恐る恐る左眼を開けてみる。色の無い世界に凪の見た<花>はどこにもない。
そのことに一種の安堵を覚えつつ、自分でも理解できない現象に眉根を寄せた。
顔のすぐ横にある大きな氷を見る。向う側に透けて、見飽きた自分の顔が映った。
いつも通り、面白味のない黒い髪と、同色の目。鼻から下にかけてきつく結わいである通気性の良いマスク。気に入らない自分の顔から目を逸らそうとして、また鋭い痛みが瞳を襲った。
「あぐ……がっ……!」
反射的に目を手で強く覆って、歯ぎしりしながら目の前の氷を強く殴りつける。冷たい感触と共に腕に鈍い衝撃が走る。が、そんなことで痛みが収まるはずもなく、自分の頭蓋を支える力も失せて崩れ落ちた。奥歯を噛みしめて悲鳴を殺す熱を持った凪の額を、透き通った美しい氷が冷やしてくれる。僅かに痛みがやわらいだ気がした。
(気持ちいい……えっ…?)
無意識にうっすらと目を開けて、そのまま驚愕に見開いて固まる。
すっ…と、痛みが引いた。
凪は、暫くその体制のまま動くことはなかった。氷に映った自身の顔を見て―――
―――否、正確には、自身の指の隙間から覗く、紅く光っていた瞳を見つめていた。
今は黒。見飽きた闇色の目が、僅かな恐れを秘めて自分を見返している。
(……見間違え、なんてこと…は……無い、だろうな)
ちらっとしか見なかったが、目にこびりついてしまった。
赤、というより、紅に近い色合いの左眼は、鋭く凪自身を見つめていた。何もかもを見通すような、紅の瞳。
キイィィィィン……!!
「ぐっ……!」
激しい頭痛と共に、嵐のような耳鳴りが鳴り響く。
(耳鳴り……!? なんで……う、あ…あああっ……!!)
今までにない痛みと共にやってきた叫びだしたくなるような不協和音は、やがて凪の意識を静寂の彼方へと連れ去った。
――――――…
――――…
――…
…
耳が痛くなるような静寂の中、凪は暗黒の海辺に佇んでいる。一寸の灯火も無い海で、凪は今自分が立っているのか座っているのか、上を見ているのか下を向いているのかすら覚束なくなる。
暗い、昏い、海。
ふと、光が差した。
凪は今、ゆらゆらと水に漂っていた。
水面を照らしたのは、手が届きそうに大きな、大きな、まるい月。
無意識に、腕を伸ばしてそれに触れようとする。
(もうちょっと……あと少し……)
中指の先までピンと伸ばした腕が、まっしろな月に届くかと思われた瞬間、不意に体が沈む。
ごぽっ...ぶくぶく......
苦しくはなかった。
ただ、重い。
どこまでも沈んでいく自分の体は鉛のように重くて、もう指一本動かせない。身体中に見えない鎖を絡められているようだ。口からこぼれる気泡。息苦しさは、無い。
腕を月に向けたまま、緩やかに沈んでいく。泡が名残惜しげに腕を撫でると、躍るように上昇していった。
水中から見える月は青白く、ゆらゆらと姿も一定でない。青い陽炎のようだった。
いつしか月光すらも届かなくなった深い深い水底で、凪の耳は水音を捕らえた。ぽちゃんと、小さな水滴がはねた音。
再び暗黒に支配された視界の中で、白いなにかがぼやけた。
ふわり...
“無”の海底。
何も―――魚も貝も、海藻も、彼を優しく受け止める砂すら、何一つ無い。ただ墜ちるところまで墜ちて闇に停滞していた凪は、必死に目を凝らして白いなにかを見ようとした。
水に滲んだ水彩のようなそれは、円から少しずつ形を変える。
リーン...
ガラス玉が鳴り合うような、強いて言うなれば風鈴の音に近い涼やかで玲瓏な音が、すべてを呑みこむ海に鳴り響く。
けれど、なぜだろう。
美しいはずのその音が、まるで警報を聞いているかのように耳についた。
そんな凪など関係ないとばかりに、音と共に白いものがふわりと開く。
(―――《花》、だ)
薄くやわらかな花びらを幾枚も幾枚も重ね合わせたこの花は、凪の知るところの睡蓮によく似ていた。ただ、水上でなく水中、それも海中に咲く睡蓮というものは、聞いたことがない。
ゆるやかに花が開く瞬間。その一瞬は、この身体に巻きついた鎖のことも重い体のことも、何もかもを忘れ去ってしまうような、美しい光景であった。
ひときわ大きな花が芳香を水中に漂わせ花開くと、その周りに次々とほかの《花》たちも咲き乱れる。
リーン...リーン......
《花》が綻ぶたび鼓膜を震わす玉音は、次第に合わさり轟きへと姿を変える。
(おかしい……《親》が、いない)
ふと、疑問が頭に浮かんだ。
何が《親》なのか。何の《親》であるのか。
明確に理解しないまま、凪はただ、疑問に思った。理由は無い。ただ、“そこにあるべきモノが無いのだ”と、本能で察していた。
渦巻くようにして咲きほころぶ花々。
暗闇の中そこだけ日溜まりのようにぼんやりと白く光り、凪は吸い寄せられるようにしてそちらに手を向ける。
そして、芽吹いたばかりの小さな<花>に手を触れようとしたとき、やっと気づくのだ。
果てしなく黒に近い藍色の世界。海だったはずの水は、《花》の光に当てられて紅く染まっていた。
(ッ! 血!?)
ゴポ...ッ
不意に血の海が明るく照らされる。
水面は見えない。海底も見えない。
境界無き無限の世界。正の無限はやがて負の無限から回帰する。輪廻螺旋の渦の中。
リーン...リーン......
リーン...リーン......
煉獄のようにただ中途半端にゆらゆらと揺れる凪の体の周りは、むせ返るほどの《花》の香りに包まれていた。
リーン...リーン......
耳を塞げど頭に響く硬質な音は、得も言われぬような緊張と不気味さを併せ持つ。
《ソレ》は次々花開く。血の海の水を吸い上げては見る間に成長し、芳香と共に光を放つ。
されど、いくら血を啜ろうとも、白い《ソレ》が紅く染まることは決してなかった。
狼狽えた凪が身じろぎ、花びらに腕を掠る。と、二の腕に痺れが走った。身の内から何かが流れ出る感覚。
(―――うわぁ!)
《花》が、凪の左腕に繚乱した。
振り払おうとした右手のひらもまた、見えない刃に斬り裂かれ、血に塗れた端から《花》が咲く。
(違う。見えない刃じゃない!)
《花》だ。
リーン...リーン......
血を喰らうその花びらは、水晶のようにきよらかで、美しく―――冷たく、鋭利であった。
いつしか凪の左眼も共鳴するように紅く放光する。同時に、凪の頭に“意識”が流れ込んできた。
リーン...リーン......
マダダ。マダ、足リナイ―――
リーン...リーン......
リーン...リーン......
モット、モット、血ヲ―――
皮が内から引きちぎれる。
今更気づいた。海底に引きずり込む見えない鎖と思ったものは、この<花>の蔓だったのだ。
腕を伝い這うようにして咲く《花》たちは、首へと伝い、鎖骨、胸、そして……
リーン...
ブチッ
(ッ!!)
心臓を喰い破った《ソレ》は、ひときわ美しい、大輪の《親花》を咲かせた。
(うあ、あ、あああああああ!!!!)
侵蝕をやめない《花》は、眼窩をも苗床とする。
ブチリ...
最後の《花》が、紅く光っていた左眼を喰った。
暗転する視界。
リーン...
アア、美味イ。甘イ―――
モット、飲ミタイ。浴ビルヨウニ、モット、濃厚ナ―――
リーン...リーン......
獲物ハ、ドコダ―――
サア、早ク。俺ニ、血ヲ―――
モット、モット、俺ヲ、血塗レニ―――
リーン...リーン......
リーン...リーン......
リーン......
…
――…
――――…
――――――…
「……あああアアアア!!!!」
自分の大絶叫に、ハッと目を覚ました。
そよぐ風が、粉雪を乗せて凪の火照った頬を撫でる。
「…ゆ、め……?」
痛みに意識を失っていたらしい。
それにしても不気味な夢だった。まだ、感触が残っている気がする。皮膚を内側から喰い破られる感覚。心臓に孔の開く、あの瞬間―――
ブルブルと頭を振り、袖をまくって確認する。当たり前だが、そこには無駄のない筋肉に覆われた男の硬い腕があるのみだ。
《花》なんて、あるわけがない。
それも、血を吸う花、なんて。
「……まだまだ、俺も弱いな」
夢見が悪かった程度でこんなに狼狽えて。
夢は、夢だろう?
自分を嘲笑するように鼻を鳴らす。
「……寒い」
冷たい風が体温を奪う。それだけで無く、体の芯から、心が、凍えそうだった。夢のせいだろうか。
無性に、何か、誰かを掻き抱きたくなった。この冷えた心身を温めて欲しかった。
(馬鹿が。そんなこと、誰が―――)
脳裏に浮かんだのは生意気な愛猫、いつだって寄り添ってくれた愛竜。そして、自分に戦う術の教えを乞うた、妹のように大切な2人の弟子。
それから、もう顔も覚えていない、けれども、そのぬくもりは確かに知っていたはずの、母。
(だれ、か―――)
不意に幼くなっていく思考。
その“時”、たしかに凪は遙か遠いフラヒヤの山中に座っていた。足元に転がっているのは、紅い、もとは雪色の毛に覆われていた猿の首。もとは凪と同じ背丈で、かたい筋肉に覆われていた猿の群れは、今しがた凪自身がその手で葬ったのだ。群れの長含めて、たった1人。
その猿の名をブランゴ、群れの長は敬意を表して雪獅子と呼ばれるのだということを、幼き日の凪は知っていた。
(いたいよ)
くたりと下がったままの右腕は、先ほど疲れに動きが鈍ったところを長に掴み掛られたときから動かせなかった。
無我夢中で暴れて、たまたま急所に当たったのか、あるところを蹴ったとき雪獅子の握力がゆるんで抜け出せたのだ。
怖かった。
自分はこんな寒いところで、誰にも見届けられないまま死ぬのかと思った。
(だれか、たすけて)
それは普段決して口にしてはいけない言葉。言ったら、守るべき存在が、雪路が、心配する。生まれたばかりの汀と岬も、心配する。
(ぼくは、守らなくちゃいけない)
妹を、弟を。真砂さんを、菖蒲兄を。
その為の“力”なんだから。ぼくが、守らなくちゃいけないんだ。不安にしちゃ、いけないんだ。
だから、だれにも弱さは見せない。だれにも縋らない。
ぼくは、大丈夫だから。すぐ、帰るから。泣かないで、ゆきじ。ぼくは、大丈夫だよ。
―――帰るって、何処に?
ポッケ村だよ。ぼくを、待っていてくれる人がいる、村。
―――誰が、俺を待っていてくれるって? 体よく俺を殺そうとしている大人たちが、ひしめく村で?
でも、守らなくちゃいけないから。ぼくを心配してくれてる人は、確かにいるから。
―――……じゃあ、だれが、俺を守ってくれるの?
震えながら立ち上がった。
虚ろなブランゴの暗い瞳が、青白い凪の顔を反射した。幼いこどもの、泣きそうな顔。でも、涙は出ない。出さない。吹雪の中、マフモフを装備の上から羽織った子供は、ただ、声帯を震わせずに唇を動かした。
(たすけないで)
どうか、たすけて。
(たすけないでったら)
だれか、ぼくを―――どうか、どうか、
愛して。
リーン......
「ッ!!」
甘い香りと共に、脳裏に再び<花>が咲いた。
身を凍らせる。瞬時に凪の纏う“時”は返った。頭をあげ、凪は自身の背に積み重なる氷塊、その奥を睨み付けた。無意識のうちに体を震わせるのは決して、寒さからではない。
ぐじゅ...ぐじゅ......
耳に届いた音に目を見開いた。それはこの7年間、渓流を歩くたび毎日といっていいほど聞き続けてきた音。自然の摂理。
弱肉強食の世、三大欲求が一、“食欲”を満たすため強者が弱者に向けて行う行為。すなわち、
“捕食”。
「生きていたのかッ……」
リーン...
――――ミツケタ。
ごくり...
徐々に氷が赤く透けていく。
ギギネブラは同族を捕食することで、この窮地から脱出しようとしていた。強者こそが生き残る。凍土の生存競争は、それが他のどの地方よりも露呈していた。
洞窟崩落の際、凪とギギネブラ達の間に空いていた距離は10m弱。その距離にまで血が浸透しているということは、少なくともあれから1頭はさらに死んだということで間違いはないだろう。
無意識に唾を嚥下しながら凪は考察した。
(あれかな……)
凪が脳を焼き切った竜。すでに瀕死ではあったし、その上であの氷塊の衝撃に耐えられるとは考え難い。
とすれば、残るは2頭。
太刀をひっつかんで氷の壁から距離を取る。捕食の音と同時に、シュウシュウという音も凪の耳は拾った。
つい最近、聞いた覚えがある。これは……
(……そう、氷柱がネブラの翼を貫通させた時の音だ)
それすなわち、この分厚い氷壁が現在進行形で毒に溶解しているということ。
「チッ……なんだって、今っ」
疲労に気怠い身体に鞭打って、いつでも臨戦態勢を取れるよう氷壁から距離を置いた。
荒い息のまま、瞳だけは鋭く前方を睨み付ける。
あの夢を見ている間眠っていたはずなのに、体の疲れは全く取れていなかった。それどころか、むしろ疲弊度が増している気がする。
ピシッ...
白い氷にひびが入った。すでに氷塊の隙間からは幾筋もの白煙が立ち上っている。目を細めて氷を見つめ、待つこと数分。
ふと、世界が暗くなった。
思わず空を見上げる。曇天の雲は淡灰から濃灰へと色を変え、白だった雪の壁は青い影を落とした。
―――日暮れだ。
間もなく凍土のもっとも恐ろしい時間帯、夜が訪れる。
そうして意識を一瞬他へと散らした、その一瞬を待っていたかのように毒怪竜ギギネブラが熱い氷塊を突き破ってきた。同胞の血をまとった体表は、黒い。怒り状態だ。
「……そうか」
毒液は、水よりも凝固点がずっと低い。正確にいくつかなど凪の知るところではないが、それくらいならば容易に想像がついた。
ギギネブラは身体中に張り巡らされた毒腺に流れる毒液を目一杯高速に、かつ大量に流し体温を上げることで、この零下の地帯での活動を可能にしている。そして、全身にある人間でいうところの汗腺のような小さな穴から毒液の一部、主に粘液質で毒性物質を含まないものを常に流し続けることで皮膚の乾燥と体熱の放散を防いでいるのだ。
崩落した永久凍土の天盤の重みと、大小様々の氷の槍を受けなお生き残ったこの2頭のギギネブラは、息絶えた仲間の肉を喰らい体温を上げ、死して尚毒性を失わない毒液を周りの氷にぶちまけることで、少しずつ氷を融解させていったのだった。
「それじゃあ、第二ラウンドと行きますか!」
自分を鼓舞する意味も含め、ことさら大きな声をあげた。疲労を訴える足を踏みしめ、腰を落とす。
ザリ...
ふわふわとした雪はいつしか小さく固い氷の粒となって風に乗り、横殴りに凪の頬を叩きつけた。
ギエアアアアア!!!!
初っ端から全力のギギネブラ。生態系の頂点に立つ竜にここまで傷を負わせた凪を、完全に自分と同格の敵であると認定した。
大気も震えるような絶叫と共に、2頭同時の突進攻撃。
真正面からではなくやや角度をつけた双方向からの突進は、思いのほか死角が少ない。一瞬目を細めて辺りの空間を把握した凪は、そのまま真後ろ―――ネブラたちの突進の延長線をなぞるように駆けた。
通常のハンターなら5秒と持たずに詰められる距離も、卓越した運動能力を持つ凪ならば、少なくともその倍の時間は同方向の徒競走であっても持たせられる。
とはいえ、今は凪も疲労した身。自分でも舌打ちするほどに重い身体に、一挙手一投足がわずらわしく感じた。
限界、と悟ったところで急転換。後ろを振り向く。もと戦っていた残体力の差か、2頭のギギネブラのうち1頭が凪に迫っていた。もう1頭は数メートルのみ間隔をあけて後ろから追いすがってきている。
―――その“数メートル”で十分。
突進が当たる寸前、ギギネブラは大きく上体を持ち上げる傾向にある。それは上から叩き潰すようにすることで獲物を逃さないようにするためであろうが、今はその癖が凪に勝機を与えた。
足を止めた凪に目を光らせた毒怪竜の首が僅かに動いた瞬間、凪はその翼の下を潜り抜ける。狙うは2頭目―――眼前を疾走する怒った兄弟竜で自慢の熱探知が狂わされている、体力の無い方の個体である。
突如躍り出た凪にあからさまに驚いたネブラは前足を突っ張って急停止しようとするも、勢い付いていた竜の巨体が容易に止まれるはずもなく、凍土を抉りながら1頭目に体当たりを食らわせた。
凪はひらりと横に回避、冷たい余波に長い前髪が揺れる。今したことの目的はあくまでこの2頭の勢いを削ぐこと、そしてリズムを壊すことである。凪お得意の怒涛の攻撃はここから火蓋を切った。
「はああ!!」
裂帛の声とともに振り下ろした初撃。凍りつく大気を炎で以て斬り裂いたそれは、2頭目の側頭部に長い傷跡を残す。同時に飛んだ赤い飛沫は、血が乾燥して赤黒く変色した凪の着流しを再び鮮やかに染め上げた。
間髪入れずに傷口をなぞるようにまた一閃。次、と刃を反転させたところで左から迫る1頭目の毒弾を察して後退、ただし置き土産ともう1撃同じ箇所に刀身を叩き込むのを忘れない。
爆発した毒ガスから逃げるように左に飛びずさると、大きく踏み込んで1頭目の振り向きざまに毒腺を貫く。噴き出す毒液を旋回して避けて、回転した勢いのまま太刀を薙ぎ払うカウンターは1頭目が寸前で頭を引っ込めたことでその鼻先に横一文字の傷をつけるにとどまった。
「チッ」
自分の太刀筋が甘くなっていることに気付いた凪が、思わずといった風に舌打ちする。
振り抜きが甘かった。普段だったら避ける暇もなく刻む一撃が、たかが下位のギギネブラに避けられるほど遅くなるなんて。舌打ちは、自分の未熟さに対してだ。
突然にバックジャンプしたネブラの翼をすんでで躱す、と同時に突進してきた2頭目を上に跳び上がることでやり過ごし、全体重をかけてその背に太刀を深く突き刺した。狙うは心臓。
―――時間が無い。一撃で仕留めるッ!
背骨中心のやや左寄りを狙った一撃の瞬間、不意に視界がぼやけ、切っ先が僅かにぶれた。
リーン...
「またッ……! こんなときに…っ!!」
ギャアアアア!!!!
脳裏に響く開花の音は、凪の左眼球を炙るように熱した。激痛に悶え苦しむ暇もなく、よろけた凪の握る剣先は狙いをそらして竜を穿つ。
なんとかその背に着地はできたものの、思わず片手で左眼を覆ってしまったのは、もはや反射だ。
しかし凪はすぐ過ちに気が付いた。
(何を馬鹿なことをッ! 戦闘中に自ら視界を閉ざすなんざっ)
ハッと頭を上げた時には、すでに視界の中に竜の尻尾が迫ってきていた。いや、頭か。混乱した頭では判別がつかない。
ただわかるのは、一刻も、一瞬でも早くこの場から降りねば、凪の躰は竜の餌食になるであろうことのみ。
(とにかく避け―――ッ!)
力を込めた足は毒怪竜の皮膚を台に、綺麗に弧を描いて攻撃を回避―――することはなかった。
バキッ!
「ぐ……ッ!!」
咄嗟に犠牲に差し出した左腕。笑えるほどにあっさりと、凪の下腕は折れ曲がった。その上衝撃に肩を脱臼。裂けた皮膚からは血が流れる。
ほとんど地面と平行に横に吹き飛ばされた凪は、それでも見事なバランス感覚で負傷した左半身を庇い、着地する。それは今までの凪の華麗な着地とは天と地の、雪煙を巻き起こす無様な痛々しいものではあったが、皮肉にもそれにより両者の間には20mほどの距離が開いた。飛竜とはいえ助走なしならばこの距離3秒は持つ。
その上都合のよいことに、吹っ飛んだ凪に向かってネブラたちは威嚇していた。まいったか、とでも言うように。奴らもだいぶ疲れが出てきたのか、口から落ちる涎の量はだんだん多くなってきているようだ。
今しかない。
ふっと息を詰めて、右腕で左上腕部を握りしめる。
ぎりっ...
音が鳴るほど強く歯を噛みしめる。過去に何度かやったことはあるが、たとえ百回やろうとも慣れない(むしろ慣れたくない)であろうこの行為を実行するには、凪をもってしても相当の覚悟が必要だった。
「はぁっ…があああッ!!」
がこんっ
脂汗を流しながら、歯軋りの合間にそれでも漏れ出た苦悶の声と共に、肩を嵌め入れる。綺麗にはまった。筋は痛めていないだろう、おそらく。
まだ痺れた感覚の残る左腕は、そもそももう使い物にならない。ひゅんひゅんと右手で太刀を弄んだ凪は左腕を垂らした状態で腰を沈め、再び駆け出した。一歩足を踏み出すごとに左腕に鋭い痛みが走るが、気にする暇も余裕もない。
闇に浮かび上がるようなギギネブラの白い姿態が、時折のぞく月明かりにぬらぬらと光沢を帯びる。体外に特殊な体液を常に分泌することで身の凍結を防ぐギギネブラの生態。先ほど攻撃を避けられなかったのは、これに足を滑らせてしまったからだった。
(ったく、何やってんだか。油断のし過ぎだ、馬鹿野郎。……長くユクモに浸り過ぎて、怠けたか?)
自分で自分を嘲罵した。そうでもしないと、まるで自分が狂ったように感じる。まあ、意味はあるのか無いのかは、定かではないが。
(……むしろ、とっくの昔に狂っていたかな)
先ほどから明滅する視界でちらちらと姿を現しているのは、夢だと思った、思いたかった、あの白蓮を模した《花》だ。恐ろしいことに、凪の脳の中ではギギネブラの身体の中に《花》が咲いて見えた。夢で凪の身に起きたような「喰い破る」ようではない。むしろ、「重なっている」ような、そんな印象を受ける。
自分の血濡れの左腕を恐る恐る覗くが、そこに《花》は見当たらない。ほっと息をつくが、今はそれどころではなかった。
一体あの花は何なのか。
(それさえはっきりすれば……いや、しても意味分からんな。とりあえず《親》は、あれ…か?)
ひときわ大きく花弁の多い<親花>。それは、ギギネブラの心臓に重なっている。…いや、だから何なのか。分かったところでどうしようもない。なぜ自分は《親花》を確認したのだろう。
日も沈んだ曇天の夜に、淡いながらも放光する香り高い《花》たちに、思わず目が吸い寄せられる。
お得意の突進をしてきた1頭を緩慢な動きで避け、思考する余裕もなく刀を振り抜く。何とはなしに狙ったのは、体の側面に咲いた《花》の1つだった。目立つものだからつい狙ってしまうのだ。目立つトカゲの尻尾をつい狙ってしまう夜目の利くフクロウのように。
パリィン...!
ガラスが割れるような音と共に花が砕け散る。と思えば、ギギネブラが転倒した。追撃しようにも横からくるもう2頭目の毒弾にたたらを踏み、後ろに跳び退く。1頭目は紫の毒ガスにまぎれ、視界から消えた。
(触れられる、のか? あの《花》…)
困惑の中、霧の向こうに揺れた影に反応して横に跳び、同時に一閃。舞った血の中には白い雫型の花びらもあった。<花>の破片だ。
間髪入れず紫の煙を突き破ってきたもう1頭の毒弾もはじき返す。片腕でもぶれることなく安定した動きができるのは、凪の腕は見た目よりずっと鍛えられている証拠であった。
「…あ、しまった。ああもうホント馬鹿、俺の馬鹿ッ」
エリア2の丁度中央。ぼうっとしているうちに前後に挟まれた形となってしまったことに気付いて、舌打ちする。集中力が著しく欠如していた。無理もない、凪が戦闘を始めてからもう6時間は経過している。むしろこの間ほとんどずっと意識を張りつめ続けた凪の精神力は、常人ではとても出せないものだろう。
ただ、どんなに人間離れした精神力であろうと彼が生き物である限り限界はあるし、そこで死ねば所詮自然の中ではどんぐりの背比べ。早く死んだか遅く死んだかの差でしかない。ほんの、数時間差の。
ひとしきり自分への悪態をついたあと考えるのは、負傷と疲労を纏うこの身で如何にして挟み撃ちを抜け切るか。
(―――デュラク、今ほどお前が居てくれたらと思うことはないよッ)
ヒュッ...ダダダダダッ!!
ギッ! ...ギュウウウ......
無いものねだりに答えたのは、不意に横から飛んできた十本近い数の投げナイフだった。方面は、エリア1―――ベースキャンプの方から。
驚きの声を禁じ得ない凪。突如現れた新たな敵を警戒した後方のギギネブラにも同じく、大量のナイフが見舞われた。
「おいおい。大口叩いといてそのザマか、クソガキ?」
理解が追い付かず、突然眠りだした毒怪竜たちをただ茫然と眺める。いや、分かってはいるのだ。竜の背に過剰なほど剣山のように刺さっているのは、対竜用にあつらえた睡眠薬を塗りつけた『眠り投げナイフ』。そして今、そんなことができるのは、
「にいちゃ! 来たよ、みーたち!!」
「助けに来ました、兄さん!!」
「遅いから迎えに来てやったんだ。感謝しろ」
「……やれやれ。馬鹿な家族を持ったな、俺は。まったく……心強いったら」
愛すべき馬鹿たちだけだ。
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