乱世の確率事象改変
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知る者は少なく
前書き
独自解釈入ります
どうにか泣き止んだ白蓮の頭を撫でている秋斗の耳に、小さく笑う声が聞こえた。
「ふふ、秋斗。そういえば初めて会った日もお前に泣かされたよなぁ」
先ほどまでの張りつめたモノとは違い、まだ少ししゃくりあげているが秋斗の良く知る白蓮の声。じわりと、心が温かくなるその響きに、彼の心に安堵が湧きたった。
――甘さを捨てるのと自分を捨てるのは全く違う。きっとあのままじゃいつか壊れてしまっただろう。やっと、皆が好きな白蓮に戻ってくれたか。いや、白蓮のまま王として成長したってとこか。
ほっと一息付いて、力強く抱きしめられているので身体を放せないまま言葉を返す。
「あの時は酔っぱらって自分から泣いたくせに……って違うか。俺が追い打ちを掛けたみたいなもんだったな。クク、思い出してくれて結構なこった。俺は白蓮の天敵なのかもしれないな」
「バーカ。次は泣かせるから覚えておけよ?」
軽口で言い合うとさらに心が温かくなる。やっと、自分は白蓮の作る家に帰ってきたんだと実感できて。
「クク、やってみろ。返り討ちにしてやるから。それよりな、そろそろ放せ白蓮。胸が当たってんだよ」
ふにふにと柔らかい感触が彼の胸に当たり、意識してしまうとさすがに離れないと拙い気がしてきたので強く言うも、白蓮は余計に腕に力を込めた。
「おい、なんで――」
「と、友達なんだから別に気にならないだろ? 私だって……気にならない! それに私を泣かせたんだから、これは罰なんだ」
いや、それは罰じゃなくてご褒美になるんですが、とは秋斗には言えなかった。
白蓮はゆでだこのように耳まで顔を赤らめて……脈打つ心臓を抑えていた。恥ずかしいのと、牡丹や星の気持ちが分かった気がして。
心の内を見抜いてくれて、自身を受け止めてくれる人などそうそういない。友として信頼している。ただ、先程の発言で彼が一人の男でもあるのだと思い出してしまうと、恋愛ごとに耐性の無い白蓮にとって意識してしまうのは仕方のない事であった。今回はもう少し甘えていたくて離れたくない心の方が優先されたのも一つ。
きっと泣いた後の顔を見せるのが恥ずかしいんだろう、と諦めてため息をついた秋斗。その盛大な、呆れたようなため息を聞いて、女としての自尊心に苛立ちが沸き立ち、より一層自身のそこそこな胸を強く押し付ける。
そのまま無言で抱き合っていると、緩い息を吐いて白蓮は口を開いた。
「なぁ秋斗。牡丹の髪留めはそんなに似合わないかな? いや、もう付けるつもりは無いぞ? でも……ほら、気分転換に別の髪型にするにしても、なんていうかあそこまで言われると……な?」
ハッと気付いた秋斗は自分の愚かしさを自覚する。彼女も一人の女の子であり、見た目を気にするお年頃だったのだと。慌てて先程の姿を思い出して、自身の正直な感想を伝える事にした。
「いや、心持ちの例えとして持ち出しただけだから実際はかなり似合うぞ? お前は美人だし可愛いし」
「なっ……お、お前なぁ、そういう言葉は簡単に使うな、バカ!」
耳元で大きな声を出され、耳鳴りが響いて少し顔を顰める秋斗であったが、照れ屋な事も知っている為に可愛らしく思えて苦笑した。
「本当の事なんだから別にいいだろ?」
女を褒める事がなんでもない事だと示されて、白蓮の心に少しもやが掛かった。
――そんなだから苦労してる女がいるって気付いてやれよ、バカ秋斗。
彼の事を慕う者達を思い出して頭に浮かぶのは牡丹や星、雛里の事。
そこで白蓮は牡丹が伝え損ねた想いをどうすればいいのかと迷い始める。自分が代わりに伝えてもいいのか、少しでも牡丹の為になるのではないかと。
――いや、牡丹が伝えてこそだろう。誰かが代わりに伝えても、それは牡丹の想いに唾する事になるし、秋斗の心に影を落とすだけだ。
白蓮なりに考えての判断。自分と星が知っているだけでいい、牡丹の想いは牡丹だけのモノ。そこに異物が混ざる事などあってはならないのだと。
事実、伝えなくて正解であった。秋斗の心は死者の想いに引き摺られやすく、さらには雛里との事が心に圧しかかっている今では自身の幸せの全てを諦めてしまうが故に。もしくは、さらなる重圧で壊れてしまう故に。
――厳しくて優しい、鋭くて鈍感、真っ直ぐで捻くれてる、頭がいいけどバカ……そんな秋斗の事を牡丹や星は好きになったんだなぁ。
初めてと言っていいほどに秋斗の事をじっくりと考えはじめた白蓮は、次第に自分はどう思っているのかと思考を回していく。
慕っているかと自分に問えば……星や牡丹を見てきた白蓮には自分が同じであるとは思えなかった。
では逆に慕っていないかと問えば……どうとも言えない感情のもやもやが湧いて出てくる。
自身の感情を理解出来なくて思い悩む白蓮は、悩むうちに少し思考がずれ始め、恋愛というモノをすっ飛ばして考え始めてしまった。
――子を為したいかどうか。そうだな、秋斗の子なら優秀になるだろうから欲しいな。
恋とは最終的にそこに行き着くのだと、王としての立場も混ぜ始めたのだった。恋愛経験の少なさ故、そして王としての成長もあったが故、乙女の心が育っていない故に。
ただ、その過程を、どのようにして子が作られるかを遅れて思い出して、みるみるうちに白蓮は顔を真っ赤に染め上げた。
そんなどこかずれた思考をしている白蓮を抱きしめながら、秋斗は別の事を考えていた。
幽州を如何にして早く手に入れるか。傷つけてしまった白蓮に対して返す事が出来るのはそれくらいだろうと判断して。
しかし早い内に幽州を取り戻そうとするにしても、秋斗の組み立てた予定では最終まで掛かってしまう。天下三分後の統一を目的としている為に。
思考と予測を積み上げていく事にもう慣れていた秋斗は次々と大局のパターンを考えて行き、袁術軍を押し返した後どうするかの方策を練り始める。
――俺達が軍として動くなら、早い内は無理。でも……俺個人が糸を張るくらいは出来る。
軍の状況、規模、大陸の情勢。全てを当てはめて考えても、哀しい事に何一つ見つけられなかったが、彼には出来る事が一つ思い浮かぶ。
――それをするのは前提条件として桃香の大陸制覇が必要だ。つまり……なんにしても袁術軍の対応が終わってあいつに決断を迫ってから、だな。
結局の所、全ては桃香が大陸を統一出来るかどうかにかかってくる事に気付き、思考を止めた秋斗はせめて白蓮の意思を確かめておこうと口を開く。
「なぁ白蓮」
「ひゃっ……ど、どうした?」
妄想の果てに暴走してしまっていた白蓮は急に声を掛けられ驚き、秋斗にギュッと抱きついて紅くなっているであろう顔を見られないようにしながら問い返した。
「えっとな……お前はここからどうしたい?」
「ど、どどどどうしたいとは!?」
暴走した思考のせいで、今から事に及ぶのかと勘違いした白蓮はどもってしまい、抱きつく腕に力を込めてしまう。
少し軋む腕に顔を引き攣らせながら秋斗は言葉が足りなかったと思い至って続ける。
「お前がこの軍でどうしたいかだよ」
「……そういう事か」
ほっと息を付いた白蓮は思考が落ち着いてきたのか腕を緩めた。暴走した恥ずかしさから身体を離そうとはしなかったが。
桃香の語った事を思い出して穏やかな表情に変わり、彼女はゆっくりと言葉を紡いだ。
「私は……桃香と一緒に大陸を救いたい。あいつの想いが大陸を包み込めば、私の家も取り戻せるからさ。無駄な争いを望む奴を止めて、侵略する者を追い返して、平和な世界を望む者と協力しあって、この乱世を終わらせる。その目標の為に私も力を貸したい。あいつの理想の世界……その土台を造る事に協力したいんだ」
茫然。秋斗の思考は一寸だけ停止してしまった。後に思考が正常に回り出す。予測の立っている自分にしか分からない事なのだと気付いて。
桃香も白蓮も徐州を守りきれると思っている。次の戦、その次の戦まで見えていない。最終的にこの大陸がどうなるかを予想出来たのは秋斗と思考共有をしてきた雛里だけであったのだから当然。
朱里であれば既に見えているかもしれないがもうここには居らず、白蓮に教えてやれるものはいなかったのも一つ。この時代の大陸に於いて、先見の明がある存在はそれほど希少なのだ。誰も彼もが秋斗や雛里のように先の先まで見通して行動出来る訳がない。
掲げるモノと戦略上、劉備軍が乱世の果てに残る為にはどうしても徐州を捨てなければならないというのに、その事に気付くモノが少なすぎた。
続けて袁紹との戦に参加出来た場合、勝てば報酬として幽州を取り戻せるかもしれない。しかしその先に待つのは……他よりも狭く限られた領地内で孫呉を警戒しながらの、より強大になった曹操との戦。連戦に次ぐ連戦での兵力低下から勝率が限りなく薄い状態で戦う事になり、桃香が大陸を制覇するには逃げざるを得なくなる。
その時、侵略を行う輩に対して二度の敗北を喫した白蓮はもう逃げられない。やっと取り戻した幽州の地に、今度こそ命を捧げようとするだろう。
万が一、桃香と逃げたとしても……この世界の乱世、その早回し具合を鑑みると益州を平定している時間が足りない為に、孫呉と結んでも力が大きくなり過ぎる曹操を打倒するには足りず、敗北すれば生き残ったとしても幽州は与えられた形でしか戻ってこない。単純な計算でこれなのだ。沢山の事柄が複雑に絡み合うのだからもっと酷くなるのは必然。どっしりと自分の地を構え続ける事が出来ない劉備軍では事態が良くなる事は無い。他の勢力にしても我関せず、劉備軍を当て馬程度にしか見ないだろう。
そして秋斗の最も思い悩んでいる所は……袁術軍を跳ね返した後直ぐに益州の乗っ取りを開始する場合。先程の言の通りならば天下三分、もしくは二分で終わってしまう事となる。桃香の言っている事はそういうモノ。秋斗からすれば幽州はある意味最も最悪な形で取り戻す事になる……さらには桃香の目指す『未来』であっても秋斗の目指す『世界』では無い。
秋斗は天下三分や二分で乱世を終わらせる事を絶対に認められない。未来の世界を知っている為に。大陸がどうなるか知っているが為に。
顔が見えていないのが幸いであった。楽しそうに話す白蓮は秋斗がどれほど絶望に堕ちているか分からなかったのだから。
彼は言えない。先程彼女の事を傷つけてしまった故に。
侵略を嫌う彼女に、自分達が侵略する側になる、なんて事は言えやしなかった。
桃香の言っている事に大きな矛盾が生じている、なんて事も言えやしなかった。
傷ついてやっと立ち直った彼女に……非情な現実を叩きつける事は出来なかった。
話すとしてもまだ時期尚早。だから秋斗は全ての言葉を呑み込む。
「秋斗もそんな世界を目指して戦ってきたんだろ?」
されども友からの刃は鋭く、彼の心を容易く引き裂いて、追い詰めて行く。
白々しく、自分は桃香の描く『未来』の為に戦っているのだと嘘を付けばいい。しかしそれだけはしてはならない。彼が、彼である為に。彼がずっと繋いで来た幾つもの想いに応える為に。約束した先の世の平穏を作り出す為に。
「……クク、そうだなぁ。そんな世界になれば……乱世を終わらせられるだろうなぁ」
だから逃げた。誤魔化し、曖昧、ぼかし……自分の目的を語る事を先に追い遣った。最低限の譲歩をして、ギリギリのラインで後々どうとでも出来る卑怯な言い回しをした。出来る限り普段通りの声音を繕って。
せめて今の戦を終えてから。桃香と一緒にどうにかしよう、と。
最悪の場合どうするしかないかも思い浮かんで心を砕く。
白蓮は現実を知っている、だから大丈夫と……何度も何度も自分に言い聞かせながら。
くしゃくしゃと白蓮の柔らかな髪を撫でて、耳元で甘い声音を作って囁く。
「そろそろ夜も遅い。今は身体と心を休めた方がいい」
「……もうちょっとこうしてちゃダメか?」
心に出来た穴を埋めるにはまだ足りない。寂しくて、切なくて、辛くて、白蓮は子供のように人の温もりを求めた。甘えた声を出されて秋斗は理解する。やはり、まだ白蓮に現実を突きつけるのは早すぎるのだと。
秋斗はどうにか自分の心を悟られないように意識を尖らせて、身体を少し離して白蓮に瞳を合わせて微笑んだ。
「いつまでもずるずる引き摺っちまうからダメだ。代わりに寝付くまで手を握っててやるから……」
一つ二つと嘘を重ねて行く。自分にも、友達にも。
「……分かった」
弱っている白蓮は彼の心の内側に気付くことが出来なかった。
彼女はゆっくりと身を離して、寝台に潜り込む。掛け布の隙間から手を差し出し、灯りを吹き消した秋斗の大きな手にきゅっと優しく握られて静かに目を閉じた。
「おやすみ、白蓮」
「おやすみ、秋斗」
誰かが側にいる安堵から、泣き疲れて弱った心から、彼女はすぐに眠りに落ちた。
落ち着いた寝息を聞きながら、秋斗は自問自答の思考に没頭していく。
一刻、二刻と時間が経って漸く、彼は手を離して彼女の部屋を後にする。
廊下を進む彼は月が大きく傾いた夜天に想いを馳せる為に外へと向かって行った。
慟哭の叫びは三人の少女の心を穿っていた。
しかし……今は自分達ではどうする事も出来ないのだと、二人の時間を邪魔してはいけないのだと理解し、各々の部屋に戻って耐えていた。
長い時間の後、二人の少女は眠りについていた。明日にでも彼の状態を確認しようと判断して。
ただ一人、白銀の髪の少女は寝付けなかった。それは自身が経験した事のある痛みであったから。王として、臣下を失った事のある月だけは、自身と白蓮を重ねてしまった為に痛みが甦ってしまっていた。
ふいに彼女は少し外の空気でも吸おうと思って窓を開け放つ。
涼やかな風が頬に当たる中、自身の真名と同じである月の輝きを見て過去を振り返ること幾刻、彼女の目に一つの黒い影が映る。
普段とは違い、力無く歩く彼の足取りに違和感を覚えた月はじっとその背を見据えた。まるで何かの抜け殻のようなその背を見る内に胸が締め付けられた。
そして東屋の陰に消えた彼を心配して、彼女は部屋を出た。せめて話を聞くくらいなら問題ないだろうと考えて。
中庭に出ると、遠目に見える彼は空を見上げていた。
月は静かに近づこうとしたが、感覚の鋭い彼は直ぐに彼女の気配に気づき目を向ける。
近付いてくる人が雛里では無かった為、ほっと息を付いた彼は力無く笑って再度空を見上げ始めた。今の心理状態では……雛里に会ってしまうと持たないと彼は感じていた。
彼の横に腰を下ろした月は無言で、同じように空を見上げる。
浮かぶ半月は緩やかな光を放ち、煌く星々は黒い夜天を彩っている。
彼が想いを馳せるのは過去の事。三人で祈った願いの事。あの日と同じ空は彼の心の内を映し出している。彼ら三人の願いを、たった一人で叶えよというように。
「……話せませんか?」
穏やかな、それでいて芯の通っている声が耳に響き、秋斗の視線は少しぶれる。
誰かに頼りたい、心の弱さを吐き出してしまいたい。だが……彼はそれをしない。
ただ、自分が行っている事への肯定を求めて、彼女に一つ問いかけた。
「月……このまま、俺達の予測の通り順調に事が進み、益州を手に入れられたのなら天下三分に出来るよう行動することは既に話したよな。俺はそこで終わらせるつもりは無いのも知ってるだろう……どうしてか分かるか?」
少し表情を曇らせた月は思考に潜る。同じように思考を回す彼は、内側で答えを確認し始める。
天下三分、後の大陸統一を目指す事には理由があった。
同じ国力を持ったモノが協力しあって平和を継続させる……そんなモノは夢物語の妥協した現状維持だと知っている為に。同じ文化を持った国は一つに纏めてこそ先の世の争いが減っていく。二千年後の世界でもそうであった為に。
同盟というモノは直ぐに崩れ去る危険性が高いのだ。乱世を治めた者が生きている間はいいが、自分達の世代が死んだらどうなるのか。曹操のように野心の高いモノが出てきたらどうなるのか。また統一しようという輩が出てきたらどうなるのか。
人の欲は深く、縛りきる事は容易では無い。国力が増強されれば必ず引っくり返そうとする者が現れる事は確実。
例えば、三つに分けても二つの国が手を組んだら直ぐに崩れる。不滅の均衡など不可能。
確かに、統一しても引っくり返される可能性は多々ある。今までの王朝にしてもいわゆる独裁に過ぎないのだから。
独裁と言えば聞こえは悪く思われがちだが、賢帝や徳高き帝が治めるならば非常に効率のいい、または人々にとって優良な政治ではなかろうか。しかし、そのようなモノ達は極めて稀にしか出現する事は無く、それこそがこの大陸を幾度となく腐敗させてきた要因。統一してから変えられなければ、今までの世界の継続に成りかねない。
だがそれでも、同盟の方が危うい。
彼はこの大陸の歴史を二千年先まで知っている。中華という大陸も、中華以外の他の国々も、どのように移り変わって来たかをある程度知っている為に、同盟を是と考える事だけは出来ない。
望むのはより長い強固な平穏。国の分裂はそれに対して確定的な歪みを生み出す事になる。
同盟での乱世の終結とは、簡単に言えば本当の意味で『乱世が終わる』事は無いのだ。全ての王が桃香のようにはなれない為に、幾多の牽制と数多の駆け引きを繰り返して継続される平和となる……それが本当の平和であるのか。
『そんな下らない事に頭を使うくらいなら一つの大きな国を良くする為に頭を使えばいい』
というのが彼の思考の根幹にあるモノであった。
桃香が一人の王として立ってしまっている現状、最大の矛盾点はそこにある。先の世界の礎となる、平穏な世界の土台を造る、それは争いの火種を少しでも減らしていく事が大前提。憎しみを受け、誰かの仇として刃を向けられる事を覚悟の上で統一して従える事が出来ないのならば、生きている人だけを信じて妥協してしまうのならば……久遠の理想を説いてはならない。人が人である故に。
「時間は想いを風化させますし、人の心は善も悪も持っています。私達が居なくなった世界で、誰かしら統一思考を持った人が出れば直ぐにまた乱世が来てしまうでしょう。大陸がここまで乱れてしまっては……天下統一で絶対的な王の存在を大陸に知らしめ、誰も抗えないように従えないと意味がありません」
月と詠には洛陽で人の暗い部分を見てきた経験という大きな力があった。帝を救うために尽力して負けたが故に、大陸の現実を誰よりも知っている。
だから彼女や詠は話されずとも秋斗の狙いが分かる。何をしようとしているかも、何を目指しているのかも。天下三分では本当の平穏が手に入らない事も含めて半分くらいは理解していると言えた。
乱世に於いて磨き抜かれた才を持つ英雄達、その煌く数多の才を一つの国に集約出来るのならば……どれほど強固な国を造る事が出来るのか。そこまでが月が理解している事。
ただ、秋斗の考えている事には、自分の持つ未来知識を投げ入れる事によってどれほど大きな平穏を作り出す事が出来るのかというのも追加される。未来の知識は劇薬であり霊薬。平穏になった世界でこそ一番に生かす事が出来る。
「……それが聞けただけで十分だ」
一言。虚空に溶かすように呟いた彼の瞳は冷たく、昏い。
月はその声と、横顔からでも分かるその色を見て一つの予測が立ち、彼が膝に置いている手に自分の手を重ねた。
「何を……切り捨てようとしてますか?」
ピクリと重ねた手が動いて、月はその大きな手を優しく握る。
温もりが彼に伝わり、少しだけ眉を寄せた彼の心は揺れ動く。子供のように泣きじゃくれたなら、どれほどいいだろうか。
しかし彼は自分に対する決意を込めて、そして自分が壊れない為にも、その少女に話す事にした。
「袁術軍との戦が終わってから、桃香や白蓮が天下統一を拒絶した場合の事だ。俺は桃香と共に牡丹が命を賭けて助けた白蓮を見捨てるか、あいつらと戦って、最悪の場合殺さないとダメかもな」
彼の冷たい、自分に言い聞かせるような声を聞いて月は目を伏せた。
――この人は友達が助かった事を喜ぶ暇も無いのか。それに友達が命を賭けて救った人に自分で手を掛ける覚悟を持とうなんて……どれだけこの人は歪んでしまっているのか。
抜け殻のように月下を歩いていた理由を知り、月の心に心配が沸き立つ。
恐怖は湧かなかった。彼がどのような人物で、どれほどこの世界を救いたいか知っているから。
横目で月を見た秋斗は少しだけ微笑んだ。
「ありがとな、俺は大丈夫だよ。……誰にも先なんざ完璧に読む事は出来ないしちょっとした事で変わるもんだ。それに現実を知ればあいつらは必ず分かってくれる。今までもそうだったんだから。でも……白蓮自身が嫌ったモノになる事を決めるには時間がいるんだ。あいつの心が癒えるには後少しは平穏が必要だ。戦の最中に現実の袋小路なんてまだ話さないでいい」
彼が優しく話そうとも、月は尚も心配の瞳を向け続けた。
その可能性に縋っている事が分かって。それだけが彼の最後の心の支えなのだと理解して。
月は桃香が侵略の選択をする事をあまり信じていない。精々が四分六分と言った所。雛里と詠の二人とは、秋斗に内密でその事を話し合っている。
ゆっくりと、月は秋斗の手を取り両手で包み、優しくさすった。
せめて少しでも心を暖められるようにと。
「クク、お前さんは本当に優しい。あとな、話した事は月の胸にだけ仕舞っててくれ。たまには俺のわがままも聞いて貰わないとな」
楽しそうに言葉を紡いでいても、月は彼の本心を悟っている。
雛里に心配を掛けたくないのだと。弱っている時に心の内側を零す事がある為に、偶然ここに来た自分が問うてしまったから話してくれただけなのだと。
雛里くらいには話せばいいのに、と思いながらも……彼女は少しだけ嬉しさを覚えていた。
それがどうしてなのか分からず首をほんの少しだけ捻るも、彼女は秋斗に答えを返した。
「分かりました。今日の事は胸の内に。ただ……本当に耐えられない時は雛里ちゃんか詠ちゃん、私でもいいので頼ってくださいね」
噛みしめるように目を瞑り、秋斗は表情を綻ばせて目線を上げた。半分の月はにこやかに彼を見下ろしている。
夜空に輝く月と同じ真名を持つ少女の優しい光を向けられて、彼の暗い心は少しだけ落ち着いていった。
二人はしばらく無言のままで、星と月が輝く美しい夜天を見上げていた。
†
幾日か後、彼らの元に一つの急な報告が入る。
それは彼らが考えて来た事を全て台無しにする最悪のモノであった。
「袁紹軍が……徐州に向けて行軍を開始致しました!」
後書き
読んで頂きありがとうございます。
簡単に先を読めるわけがない、という話です。
桃香さんの最大の矛盾はこんな感じです。
主人公の考え方としては同盟で乱世を先の世代に引き延ばしてどうするんだろうってところです。
幾つか抜け道がありそうですが、自分でもじっくり煮詰めてみます。
これについては私自身の解釈なので、正しいとは思っておりません。
月ちゃんは少し変わってきました。
次は他の勢力の話です。
ではまた
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