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乱世の確率事象改変

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少女の慟哭

 行軍の兵数は一万と五千、それに加えて生き残った趙雲隊の二千であった。
 先頭を馬に乗って進むのは仁徳の君とその頭脳伏竜。いまから戦の最先端に向かうとは思えない程に穏やかな雰囲気で会話を楽しんでいた。
 兵達はいつもの二人の様子に和み、自身の守るモノを確かめ合う。徐州に来てから集めた新参の兵達は全て先に送っており、ここにいる兵達は全てが反董卓連合までに集まっていた者達であるゆえ。
 ふと、一陣の緩やかな風が吹き抜け、軍の中程で馬に跨る軍神の黒髪を撫でた。

「相変わらず愛紗の髪は美しい。私も自分の髪には自信を持ってはいるが……さすがにそれには完敗と言わざるを得んなぁ」

 ほおと感嘆の息をついて、隣で馬を進める星は珍しく真っ直ぐに褒め言葉を口にする。
 それを受けて、愛紗はぶすっと仏頂面に変わり、

「……何故、星は残らなかったのだ」

 星の褒め言葉を意にも返さずに流し、強い瞳で見つめて自身の不満を口にした。

「またそれか。武人とは、戦場にて働くモノ。一人でも多く救い、一刻でも早く戦を終わらせる為に決まっているさ」

 飄々と言って退けた星は愛紗の向ける瞳を受け流すように視線を逸らす。
 軍の編成をしている時、本城に帰ってきた桃香から星も戦に同行すると聞き、愛紗はまず反対した。
 愛紗なりに星の心を思っての事。幽州にて、秋斗を見る星の瞳がどのようなモノであるのか、一番知っていたのは愛紗だった。
 ましてや敗北して間もなくで戦に赴こうと考えるなど通常では有り得ない。身体的にも、精神的にも無理をさせる事は必至。秋斗と共にゆっくりと本城で休息を取ってから、出来るなら手助けをしてくれたらと考えていた。
 桃香が承諾した為に渋々であるが愛紗も認めたが、せめて理由くらいは聞いておこうと出兵前の星に問いかけていた。
 対して、星の答えは先程と同じモノで、愛紗にとってはどこか違うと感じるモノであった。
 会いたくないはずが無い。辛くないはずが無い。哀しくないはずが無い。だというのに、星は昔のように飄々と隠し通してしまう……

「……なぁ星。私は不器用で、彼のように何も聞かずにお前の心を汲み取ってやる事は出来ないのだ。会いたい想いを抑え付けてまで、何故そうも無理をしようとするか聞かせて欲しい」

 だから真っ直ぐに愛紗は伝える。少しでも心の負担を減らせるようにと。事実、星の顔色はそれほど良くは無い。毅然とした態度で問題は無いように示しているが、戦に赴くにしては些か不安が残るのだ。例え、星とその部隊は働く事が無いとしても。
 秋斗ならば聞く事もせずに好きにしろというだろう。後の一言で本心を言い当てて、戦場につけば無理やり休ませるように内部で糸を張る。
 それは愛紗には無理であった。だから強引に、愚直に支える事を選んだ。
 愛紗とて、人によっては無粋と取られるような事はせず、普段であれば何も言わずに支えようとするだろう。しかし今回ばかりは問題が広く、大きすぎた。
 秋斗の事も考えると、どうしても星に残って欲しかったのだ。きっと彼の事だから、また溜め込んでしまう、抱え込んでしまうと。生真面目に過ぎ、不器用な自分では秋斗も星も支えるには足りないと感じていた為に、せめて心の澱みを聞くくらいなら出来るのだと。
 そんな愛紗の心を汲み取ってか、星は優しげに微笑んだ。

「ふふ、向こうに着いて酒に付き合ってくれるのなら、嬉しくて酔ってしまい独り言を零してしまうやもしれんなぁ」
「……程ほどに、だぞ?」

 相も変わらずな星のやり口に愛紗の頬も少し緩み、二人はそれぞれの想いを抱えながら馬を進めて行った。






 行軍を終えて国境付近の城に到着し、二人は星に宛がわれた部屋の中、酒の立ち並ぶ机の前に座っていた。
 夜半を過ぎた時刻のため人の気配は無く、城の中は静寂が全てを支配していた。杯を打ち合わせて一刻程であるが両者共に無言のまま。たまに聞こえる嚥下の音、星はそれを懐かしみながら酒を進める。

「随分とまあ……強引な、しかし愛紗らしい気遣い感謝する。どうやら嬉しくて酔いが回るのが早いらしい」

 ゆっくりと杯を机に置いて愛紗は目を瞑る。独り言ならばここからは何も見ず、何も言うまい。そんな事を考えて。相も変わらず真面目な事だ、と星は呟いて目線を切り、虚空を見つめて口を開いた。

「私は……早く戦に出て気持ちを誤魔化したかったのが一つ。今もあの戦を思うと心が引き裂かれそうだ。不意打ちで始まり、裏切りで苦しめられ、静観で絶望に落とされ……逃亡で誇りを泥濘の中に沈めた」

 ぐいと酒を煽り、熱い吐息を吐いた星は空になった杯に酒を注いでいく。

「ずっとあの地を守ってきたあの方の誇りを貶めてまで私は、いや、私達はあの方に生きて欲しかった。この戦乱の世、その後に大切な家を取り戻そう、帰ってくれば必ずまた作り出せるからと」

 言葉を一つ区切りまた酒を煽る。悲痛に歪む顔は逃亡中の自身の主を思い出してであった。

「もう一つが今の白蓮殿の姿――涙を零さず、先の目的を考えて動き、残してきた民や臣下、付き従う部隊、死んでいったモノ全ての期待に応えようとする様は……確かに王足るに相応しく、間違いなく理想の主となってくれたと言える。だがな、白蓮殿は……私達の好きな白蓮殿は……もう戻ってこないかも知れないのだよ」

 零された震える声に愛紗の眉がピクリと跳ねる。それでも、ただ疑問と感情を抑えて聞き続けていた。

「決定的だったのは牡丹の死だ。今までも切り捨ててきたモノはあるが……今回ばかりは片腕を自ら切り捨てたのだから仕方のない事だろう。半身となったモノを自身の命令で、自分の為に死ねと言い切った。そこにはどれほどの苦悩と苦痛があったのか、私は少ししか共有する事が出来なかった。私とて、牡丹が捨て身の策を献策した時は止めたが、生存率を優先すればそれしか手が無く、牡丹の方が適していた為に耐えた」

 つらつらと話す星は牡丹の笑顔を思い出して、胸に走る痛みからそっと手を当てた。今にも零れてしまいそうな涙を腹に力を込めて抑え込み、尚も続きを語る。

「敵が抜けてきた時、そこで我らはもう感情を抑える事が出来なかった。怒りと憎しみのままに獣と化した。あれほど憎しみに捉われた事は無かっただろう。虚しかったぞ……敵が引き返して行く様を見ても満たされる事は無く、ぽっかりと胸に穴が開いてしまった。牡丹の死亡報告が入って……私は急激な悲哀で人前であるのに涙が零れた。しかし……白蓮殿は涙を流さなかった。あれ程大切になった存在の死であるのに……何故なのか。決まっている。あの方は……っ……自身の優しさを、甘さを、本当の自分をっ……全て捨てようとしているのだ!」

 震える声は大きくなっていた。今にも握りしめている拳を叩きつけてしまいそうになっている事に気付いて、星はゆっくりと、無理やり力を抜いていった。

「ここに来る前、髪留めを違うモノに変えていたのは見ただろう? あれはその証だ。しかしそれでは意味が無い。全く意味が無いのだ……。厳しい王足る公孫賛では無く、公私の別を分けられる白蓮殿のままで治めなければ……彼女自身が潰れてしまう。牡丹が望んだ彼女では無いというのに……死んでいった、生き残った全ての者が望んだ彼女では無いというのに……」

 消え入るような声音を耳にして、唇を噛みしめる愛紗は……何も言わず。今自分が何かを言っても、星の心は救われないと理解して。

「私はあの方の覚悟を貶める事はもう出来ない。というか無理なのだ。臣たる私では……優しく甘い白蓮殿という少女は救えない。どうしても、一歩引かざるを得ない。白蓮殿本人が分け切れない為に。近くにいるだけで、その覚悟を示す為に心を高く持とうとするだろう。通常の人であれば時間が経てば分けられるのだろうがそれでは遅い。だから……彼に託したのだ。幽州で白蓮殿を変えたのは彼だ。白蓮殿という少女と公孫伯珪という王を一人に統合させたのは彼だけ。だから……秋斗殿ならまた救い出してあげられると願って……」

 零れそうになる涙を抑え付けて、自分では救えないのだと杯の上に言葉を落とし、ぐいと酒を煽った。
 しばらくの沈黙。後に……愛紗は目を開いて厳しい瞳で星を見つめる。

「星よ。それらは分かった。白蓮殿の心身を案じ、救われる為の判断をしたお前は間違いなく彼女の臣で、同時に友だろう。白蓮殿の事は安心していい。間違いなく秋斗殿ならば上手くやってくれる。だがな……お前の事は誰が支えるのだ」

 言われて目を見開いた星は、くっくっと小さく喉を鳴らして苦笑した。愛紗を少し見誤っていたと感じて。

「私は秋斗殿に言われた事がある。言葉にしなければ本心なんか伝わらない、とな。ある程度読めたとしても、言葉にしなければ本当の意味では伝わらないと言う事だろう。彼の代わり、とまではいかないかもしれないが……彼に話せない事もあるのではないか? 弱さを吐き出さずに溜め込む姿は誇り高く美しい。しかしたまには戯言としてでもいいから零していいと私は思う。何よりも、今の星は助けたいと願っている白蓮殿と同じでは無いか」

 諭すように言われて、星は大きくため息を吐いた。まるで厳しい母親のようだ、なんて心の中で呟きながら。
 そしてぽつりぽつりと、漸く自分自身についての本心を口に出した。

「……私はどうやら意地っ張りで欲張りらしい。愛紗も気付いておろう? 私は彼の事を慕っている。隣に立ちたいと願っている。しかしな、この時に会ってしまえば私は趙子龍でいられなくなる。確実に頼って、泣きじゃくって、一人の女となってしまうだろう。まだ彼には弱い私など見せたくないのだ。彼に見せてきた私も本当の私であるがゆえ、その私にこそ惚れて欲しい。友であり、戦友であり、隣に立つ女でありたい。対等な関係こそ私は望んでいるのだよ」

 その自嘲気味な声音に、愛紗は呆れたように息を吐いて酒を煽った。

「全く……意地っ張りにも程があるぞ。だが星らしいとも言える。星の言いたい事は分かる。秋斗殿は……朱里から聞いた事だが空のような人になりたいらしい。夜天の中で星は包み込まれず輝いてこそ、同じ場所にあれるというモノ……そういう事だろう?」

 愛紗の言葉を聞いた星は茫然と見つめて、数瞬後に盛大に吹き出して笑い出した。

「くっ、あは、あははは!」
「な、何が可笑しい!?」

 笑われて何か可笑しな事を言ったのかと慌てる愛紗の様子を見て、星はさらに笑い続けた。漸く落ち着いた頃合いで、目から先ほど溢れそうになったモノとは違う涙を拭って愛紗に目をやった。

「クク、いやな……愛紗がそのように詩的な事を言うとは思わなかったのでな。そうか……秋斗殿は空になりたいのか。なら私は真名の通りに一際輝く星となろう。包み込まれてなどやらん、あちらから懇願してくるまで、目に移る所で光り続けてやろうではないか」

 不敵な笑みで言い切る星を見て愛紗の頬は緩んだ。その顔からは先ほどまでの昏さは消え、随分と落ち着いた様子に見えた為に。

「ふぅ……たまには戯言を話すのもいいモノだ。いやはや、新たな楽しみを見つけられた。おっと、杯が空だな。まだ夜は更けこんではいないし……愛紗よ、もう少し付き合って貰おうか。それとな、秋斗殿の事は心配せずとも大丈夫だ。口惜しい事だが……雛里がいれば問題は無い」

 にやりと笑った星は愛紗と自分の杯に酒を注ぎながら、己が恋敵ならば大丈夫だと伝える。
 あと二杯だけだと無言で指を立てて厳しく線引きをした愛紗は、確かにそうかもしれないと優しい瞳で笑いかけて、杯を上げた。星も杯を打ち合わせ、互いに新たな友を得たと感じ合った。
 二人の夜は更けて行く。周りの大切なモノ達が救われる事を願って。




 †



 時間効率を考えて引き継ぎは書簡にて行い入れ違いになるように行軍するべしとの指示に従い、桃香達と出会わぬまま本城に到着した秋斗は、連れ帰ってきた徐晃隊に幾日かの休暇を言い渡し、簡易な仕事を終えて、夜に白蓮のいる部屋を訪ねた。
 小さくノックを二回、どうぞの返事と共に扉を潜り、秋斗は友との再会を果たす事となった。椅子に座っている白蓮は血色が良く、いつも見ていた服では無く、ゆったりとした服を着ているので傷も見えない。ただ、髪を牡丹の髪留めで纏めているのを見て、秋斗はほんの少しだけ目を細めた。

「……ただいま、白蓮」
「おかえり、秋斗」

 ふっと笑い合っていつかのように挨拶を交わし、折り畳みの椅子を引き出した秋斗は腰を下ろす。
 白蓮は心の内に嬉しさが込み上がった。『ただいま』という事は、秋斗は白蓮のいる場所を家と思っているのだ、そう感じて。そこからはどちら共に話すでも無く、互いに見つめ合うだけであった。
 対して、穏やかな瞳に見つめられている秋斗は何を話していいのか分からなかった。白蓮が昔のいつも通りのように見えたから。ただ牡丹の髪留めを戯れにつけているだけだと……心が事実の受け入れを拒絶していた。
 これが桃香であるならば、何か言葉を紡いで無理やりに雰囲気を変えたであろう。秋斗にはそれが出来ない。ぐちゃぐちゃになった頭では何も考えられなかったのも一つ。
 なんとも言えない表情の秋斗を見て、白蓮は呆れたように小さな息をつく。

「相変わらず気遣いばかりだな、秋斗は。私は大丈夫だ。ここで休ませて貰って随分と落ち着いた。それに私の無力で負けたんだから、何も気に病む事は無いぞ。むしろお前のおかげである程度戦えたし、生き残れたんだから私が感謝しないといけないくらいだ」
「いや……うん。白蓮が無事で良かった」

 凛とした声が耳に響いて、微笑んだ白蓮が語る様子を見て、柔らかく答えながらも秋斗は思考が正常に回りだし、違和感を明確に感じ取る。

――そのザマの……どこが大丈夫なんだよ、バカが。

 記憶を引きずり出して一致するのは出会ったばかりの白蓮。必死で自分を追い込んで、誰にも弱みを晒すことなく、切り詰めて切り詰めて、自分を殺して期待に応えよう、誰かに認められようと努力し積み上げるその姿。壊れてしまいそうだった少女の姿。
 これだけは桃香では気付くことが出来なかった。弱さをさらけ出させて変えたのは秋斗であったのだから。一番最初に弱さを受け止めたのは彼と星だけだったのだから。
 きっと否定して拒絶するだろうから今はまだ何も言わない。そう決めて秋斗は次の確認をしようと意識を切り替えた。

「白蓮、その髪留めをよく見せてくれ」

 すっと目を細めて言い放つと、白蓮は訝しげな表情をしたがゆっくりと外してするりと髪を降ろし、髪留めを手渡した。
 まじまじと見やる秋斗は血のこびりついた部分を見つけて優しく撫でた。そこで漸く……牡丹が死んだ事を理解し、白蓮達が負けたという実感が湧いてきた。
 もう、これに留められて馬の尻尾のように揺れる茶髪は見る事が無いのだ。
 もう、うるさすぎる早口を聞くことも無いのだ。
 もう……バカにし合って、口喧嘩し合う事も出来ないのだと。
 押し寄せてきた急激な心の虚しさに手を胸に当てて耐える。白蓮はその様子を哀しそうにただ見ていた。
 秋斗の目から涙は零れ無い。ただ、ぽっかりと抜けてしまった心の穴があるだけ。徐晃隊の面々が死んだ時と似ているが違う。
 徐晃隊は彼の一部、切り刻まれるような痛みはあっても、抜け落ちたような虚無の感覚は無い。徐晃隊は秋斗にとって戦場を表すモノである為に。
 対して牡丹は……秋斗にとっての平穏の一部。それを失った事で一番穏やかな日常がもう戻っては来ないのだと強制的に感じさせられた為に穴が空いてしまった。

「辛いだろうけど牡丹の死に様を聞きたい」

 胸を押さえて俯いたままの秋斗から感情の籠らない声が発され、白蓮の耳に響く。疑問が浮かぶも、白蓮は何も言わずに秋斗の望む答えを口にした。

「張コウに情けを掛けられて逃がされた牡丹の部下からの話になるけど……いや、先にこっちからの方がいいか。捨て奸……お前が牡丹に教えた策で私達は助かった。牡丹はその策を遂行しきったんだ」

 目を見開いた秋斗は内心で舌打ちを一つ。確かに、その策を用いれば逃走に於いて生存確率は格段に上がる。徐晃隊の最終手段として日々練兵を行っているのはその為。それを牡丹に教えてしまったのは間違いであるのか、間違いではなかったのか。
 本来、教えた理由は牡丹が助かる為であったのだ。史実の関靖の玉砕特攻という死に方を知っている秋斗が、白蓮を支える事のみを生きる理由としている牡丹なら、兵に命じてこれを使って一緒に生き残ろうとすると判断してのこと。秋斗の失態は一つ。徐晃隊のように前もって準備しているわけで無いのならば、指揮をするモノは当然必要であるというのを考えていなかった事。
 教えたのは洛陽での酒宴、白蓮が寝てから星が厠に行った隙に。星に教えなかったのは個人武力が高いので、自身も残ろうとするのが間違い無かったからであり、そこまで武力が高いわけでは無い牡丹本人が残るとは露とも思っていなかった。
 秋斗は自分の思考の浅はかさと予測の甘さに後悔が押し寄せる。白蓮が牡丹の判断によって助かった。だがそれでも、牡丹を助けられたのでは無いかと考えてしまうのは彼にとって詮無きこと。

「ここからは兵の報告から。牡丹は一番精強な張コウ隊の足止めに重点を置き、最後に一騎打ちをして敗北した。でも負けたけど生きていたらしい。袁紹軍は私も牡丹も星も生かして捕えようとしていたから。張コウも殺すつもりは無かったみたいで致命傷は与えてなかったようだ。死んだのは袁紹軍の兵による背後からの一撃。誰が命じたのかは分からないが……」

 そこで言葉が止まり、秋斗は顔を上げる。白蓮を見ると迷いと憎悪が渦巻く瞳を携えていた。

「張コウは……牡丹の亡骸を本城まで持って行って丁重に葬ってくれたらしい。そういえば星も悪い奴では無いと判断してたな。……その張コウが兵に教えたんだと、郭図の命令によって牡丹は死んだとな。そうなると、牡丹の仇は誰なんだろうな」

 自身の話した事のある張コウ――明を思い出して、秋斗は思考に潜る。
 飄々とした態度で内側を読ませない明ならば、それくらいの嘘は簡単に付くだろう。情報を与えて混乱させるやり方は戦の常套手段。しかもわざわざそれを伝えるという事は……。白蓮が生き残れば行き着く先は劉備軍のみ。その中で一番仇討ちに染まりやすいのは誰か。
 疑うならば、洛陽での夕による助力要請を先手として、間違いなく秋斗の思考を束縛しに来ている。
 単純に信じるならば、孫策と同じように何か弱みを握られている為に表立っては動けず、内密に情報を与えて敵を明確にさせたと言っても良かった。
 人を信じすぎるのは良くない。それは秋斗も分かっている。だから秋斗は、

「どうせ敵である事に変わりない。牡丹の仇を個人に特定しようとしなくていい。侵略を行った袁家全てが牡丹の、そしてお前の大切なモノ達の仇だ」

 単純に考える事で情報による思考の束縛を打ち消す。さらには、白蓮の向けるモノを特定個人に対する憎しみにさせず、打倒すべき敵として明確に指し示した。
 秋斗としては、夕が助けを求めてきたのだからと助けたい気持ちはあるが、自分の目的の邪魔になるのなら踏み潰すだけ。もはや細かい波紋で動じる事はない。
 怒っているのか、憎しみがあるのかは分からなかったが、今まで聞いた事の無い秋斗の冷たい声音に、白蓮の背に寒気が走り、怯えが一寸だけ湧いてしまった。

――これがあの秋斗なのか? いや、私が知らなかっただけか。

 白蓮は敵を見据える秋斗の事を知らない。心を凍らせて、敵対するモノを踏み潰す黒麒麟では無く、穏やかな瞳で自分に接する秋斗しか知らないのだ。
 少しの怯えを見て取った秋斗はすぐに喉を鳴らして苦笑した。これから白蓮を傷つける事を決めて。

「クク、まあこのままじゃ……牡丹が守りたかったモノは、なんにも残りそうも無いけどな」

 茫然と、白蓮は秋斗の事を見やった。一瞬、何を言っているのか理解出来なかった。
 遅れて、凍りつくような冷たい視線を跳ね返して、白蓮は静かな怒りを叩きつける。

「どういう……事だ? お前は……あいつが無駄死にしたとでも言いたいのか」

 自身を生かしてくれた牡丹の行動を無駄な事だったと言って退けたのだから当然の事。しかも白蓮個人に対して言われた為に、戦を思い出してささくれ立ってしまうのは仕方がない。

「お前には……この髪留めは似合わないって事だよ白蓮」

 睨み合い、少しの沈黙の後、首を振って告げられた言葉に白蓮の心は曇っていった。

「……あいつと一緒に取り戻そうとして何が悪い」

 ぽつりと零された一言に、秋斗はやっぱりかと確信に至って呆れかえった。

――きっとここについてから髪留めをずっと付けていたんだろう。牡丹と共にあれるようにと。

 優しくて責任感が強い白蓮らしい行動ではある。誰しもが彼女らしいというだろう。だが、二人の友である秋斗にとっては認められない。

「お前なぁ……これは牡丹の髪留めだ。あいつが白蓮になろうとするのは仕方ない事だったが、お前がそんなあいつと混ざろうとするな」

 厳しい瞳で告げられて、白蓮の表情が苦悶に歪む。同時に、秋斗は将である為に自分の事を何も分かってくれないのだと哀しい気持ちも湧いてしまった。

「……っ……返してくれ」
「お前が付けても似合わないんだから大切にしまっておくと約束してくれるなら返す」
「……似合わなくてもいいんだ。返してくれ」

 縋るように伸ばされた手。白蓮の瞳がぶれているのが見えて、白蓮は牡丹の髪留めを決意の証としている、と読み取った秋斗は無情にも弱い部分を突きつける。

「牡丹に憧れられていたお前だけはこれをつけちゃいけないんだよ。それにな、あいつが命を張って逃がそうとした白蓮は寂しがり屋で、甘くて、優しい奴でもあったはずだ。なのに今のお前は……牡丹を跳ね除け続けた昔のまんまじゃねーか」

 言い聞かせるように、しかし冷たく告げられる中、甘さという言葉を聞いて白蓮は感情を抑える事が出来なくなった。

「知ったような口を聞くなよ秋斗! 私が……私が甘かったせいで多くのモノが犠牲になって、あいつは死んだんだ! あいつが何度も裏切りの警告をしてくれたのに中途半端な決断をしたから最悪の事態に追い詰められた! もうあんな思いはたくさんだ! これ以上私の甘さで殺してしまうくらいなら……甘さなんかいらないんだよ!」

 秋斗は怒鳴られて息を呑んだ。白蓮の瞳は自身への憎しみで染まりきっていた。それは誰かの、秋斗のよく知っている最も憎いモノに似ていた。

――原因はそれか。自身の決断の甘さが許せず、自分を殺さなければと考えた結果、牡丹の髪留めを付けてそれを戒めとしたのか。だけど……

 ゆっくりと息を落ち着かせた白蓮は秋斗が沈黙している事によって自分の決意が伝わったのだと考えて静かに声を流し始める。

「だからそれを返してくれ。これがあいつにしか似合わないのは分かってるさ。だけど私にはどうしても必要なんだ」

 すっと目を細めた秋斗は牡丹の髪留めを白蓮に渡す……事は無く、自分の手の中でカチカチと音を鳴らす。まだ分かってくれないのかと迫ろうとした白蓮であったが、眉根を寄せた秋斗に哀しげな瞳を向けられて、自分から渡してくれるまで待とうと腰を落ち着けた。

「白蓮、お前の覚悟は立派だよ。自分のした決断を後悔して、二度と繰り返さないように甘さを捨てて目的を達成しようとするのは凄い事だ。でも、そんなに肩肘張らなくてもいいじゃないか。笑いたい時に笑って、怒りたい時に怒って、泣きたい時に泣けばいい。決意も覚悟もいいけど、今のお前は無理しすぎに見えるぞ」

 先程とは打って変わった落ち着いた暖かい声音で話されて、白蓮の心に秋斗の心配が伝わり表情が曇る。それでも、自分の決めた事だからと頷く事は出来ない。
 涙を流す事もしないと決めた。弱音も吐かないと決めた。だからその為に、それを戒めとして、自分を変えようと思っていたから。
 ふいに立ち上がった秋斗は牡丹の髪留めを自分の座っていた椅子に置き、机の上の茶器にお茶を淹れはじめた。それを見て、はっとしたように白蓮は表情を変える。

「お前自身もどういう事か内心では分かってるだろう? そんなモノを付けなくても、自分を追い詰めなくても、焦らなくてもいいんだよ。ほら、お茶でも飲んで落ち着いた頭で考えてみろ。そうさな、今までの自分を思い返してみるのもいいかもしれない」

 秋斗から差し出されたお茶を片手で受け取り、されども飲むことは無く、白蓮はじっと中を覗き込み始める。
 戦の最中に星が言っていた通りの行動を秋斗が取った。そのなんでもない事のように行われた行動が焦りと周りからの想いの重責に凝り固まった頭を解していく。
 揺蕩う薄い緑を見ている内に、白蓮は自分のこれまで生きてきた道を振り返ろうとして……何故か牡丹の事が思い浮かんだ。ずっと自分の隣に居たのだから、自分の事を思い出そうとすれば頭に浮かぶのは当然であった。

 ずっと支えてくれたその存在が求めたのはどんな自分であったのか。
 煩わしいと跳ね除け続けていた彼女が、星と秋斗の協力もあって絶対の忠臣であると気付いて認めた時、彼女は飛び切りの笑顔を見せてくれたのではなかったか。
 その時から、牡丹は救われていたのではなかったか。
 最後の夜。彼女が生きてくれと願ったのはどんな自分であったのか。

 白蓮の好きな牡丹の元気な笑顔を思い出す度、胸に激痛が走る。甘ったるい声で後ろを付いて来た姿を思い出す度、胸が締め付けられる。

――私は……私を殺す事で牡丹を、牡丹の想いを殺し続けている。

 自分で愛する臣下を死地に追い遣り、さらには残してくれた想いまで殺し尽くそうとしていた。そう気付いてしまうと……ずっと流す事のなかった涙が流れた。

「……じゃあ……わ、私は……どうすれば、いいんだよ……?」

 引き絞られるような声が漏れ出て、助けを求めるように彼に瞳を向けるも、一つ二つと零れ続ける涙は止まろうともしない。溜め込んで溜め込んで、漸く堰を切った哀しみの感情はもはや止まる事は無かった。

「さあな、自分で答えを思い出せ。ただ、今のお前は……牡丹が守ろうとした、あいつの大好きだった白蓮だけどな」

 止めを刺したのは二人を見てきた秋斗の言葉。同じ立ち位置を持つ星であっても同じ事が言えたであろう。しかし彼女は臣下でもあり、白蓮は自身の堅い決意に口を出されたのなら、必ずその言を跳ね除けてしまう。想いを共有しつつ、ただの白蓮として認めている相手でなければ、彼女の心の奥底まで伝わる事は無かった。
 白蓮は自分の身体を両腕で抱きしめて、込み上げる嗚咽を堪えようとした。それを見て、秋斗は彼女の身体を抱き寄せて腰を降ろし、床に胡坐をかいた自分の膝に乗せる。もう我慢しなくていい……そう伝えるように。
 人の温もりを感じてしまうと、もう白蓮には我慢する事は出来なかった。

「……だ」

 小さく開いた口から、ぽつりと小さく言葉が漏れた。

「……やだ」

 はらはらと落ちる涙は瞼を閉じようとも留めようも無く、

「……嫌だ」

 自然と、誰かを求めようと腕が回され、彼の温もりに全てをぶつけ始める。

「……嫌だっ……嫌だよ秋斗! 私はっ……もうあいつに会えないなんて嫌だ! 会いたい! 牡丹に会いたい! 皆で楽しく、暮らしてたのにっ……どうして私はこんなに弱いんだ! 私のせいで死んじゃったんだ! 私が牡丹を殺したんだ! 私は皆を守れなかったんだ! もう嫌だ……こんな苦しい世界……嫌だよ、秋斗ぉ……っ!」

 堪えてきた叶う事の無いわがままと、自身への呪いをぶつけ、白蓮は大声で泣き叫んだ。
 秋斗は、そこで何かを言う男でも無く、ただ抱きしめて、背中を撫で始めた。ゆっくりと、子供をあやすように。
 それでも哀しみは止まらず、白蓮は力を強めて秋斗の身体を抱きしめて泣き叫び続ける。
 ここには白馬の王は居らず、愛する者と家を失った寂しがり屋な少女の姿があるだけであった。
 白蓮がどれだけ家の事を想っていたのか、どれほどの重責に耐えてきたのか、どれだけの期待に応え、どれほどのモノを諦観してきたのか。
 泣き叫ぶ声を聞きながら、秋斗の心はゆっくりと軋んで行く。
 自分が切り捨てた結果、彼女が苦しんでいるのだと理解して。助けられるはずの友を助けなかった罪過は重く、彼の心に圧し掛かる。
 秋斗はそのせいか、胸が痛み続けているというのに泣くことが出来なかった。

 静かな暗い夜の城に、長い間少女の悲痛な慟哭は響き続けた。
 皮肉にも、黒い夜天には願いを祈った日と同じく半分の月が上っていた。
 
 

 
後書き
読んで頂きありがとうございます。

前半は、これくらい突っ込んでいかないと自分については開示することの無い星さんの話。

後半は、公私の境界を無くしてしまおうとした白蓮さんを引き戻すお話でした。
王としてある時は、甘さをある程度捨ててもいいけれど本来の自分を捨ててはいけないといった感じでしょうか。難しいですね。

再会話はここで半分です。
もう一話だけ長い夜にお付き合いください。

ではまた 
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