もう一人の自分
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
第七章
第七章
「落ちるのを確認してからでいい。万が一捕られても」
彼には余裕があった。
「タッチアップで簡単に点が入る。焦ることはない」
そう睨んでいた。
誰もが捕れる筈がないと思った。しかしそこに大沢がいた。
「えっ!?」
杉浦はそれを見てまた驚いた。
「ほう」
広岡はそれを見てもそれ程驚かなかった。
杉浦にとっては七回のそれに続く驚きだった。大沢はここでもその勘を存分に発揮したのだ。
「俺は博打には強いんだよ」
そう言わんばかりの顔で森の打球を捕った。
「よし」
広岡はそれを見てスタートを切った。これでサヨナラだ、少なくとも彼はそう思っていた。だが彼はここで計算違いを一つしていた。
大沢は確かに外野フライにした。だが森のボールは強かったがそれ程深いものではなかった。少なくとも広岡が思ったよりは。
「甘いぜ、広岡」
大沢はスタートを切った広岡を見て笑った。既に彼は返球の動作に入っている。
「如何に彼の肩が強かろうがもう手遅れだ」
広岡も大沢の肩が強いことは知っている。だがそれでもいけると思ったのだ。
しかし大沢の打球を捕った場所はショートの後方だった。広岡の予想よりも浅いのだ。それが仇となった。
大沢はキャッチャー野村へ素早くバックホームする。それは一直線に野村のミットに収まった。
「なっ」
広岡はそれを見て眉を少し上げた。気取り屋と言われることもある彼はあまり表情を変えようとはしない男だ。
間に合わなかった。広岡はスライディングをすることもなくホームでタッチアウトとなった。大沢の二重のファインプレイであった。
「どんなもんでえ、広岡」
大沢は広岡を見てニンマリと笑っていた。そして悠然とベンチへ引き揚げる。
「有り難うございます」
杉浦がそこに来て礼を言う。
「礼には及ばねえよ」
彼はニンマリと笑ったまま言った。
「後輩を助けるのは先輩の務めだからな」
と言って大学の後輩である杉浦の左肩を優しく叩いた。それで彼はベンチに入った。
「不思議なものだな」
肩を叩かれた杉浦はそう思った。思えば南海に入ったのも彼を通じてである。
「長嶋は巨人のユニフォームを着る為に生まれてきたような奴だからな」
大沢は豪快に笑って今でも言う。だがその長嶋も彼なくしてはプロに行けなかったかも知れないのだ。
「これが因縁というやつか」
杉浦はそう思わずにいられなかった。そう思いながらマウンドに入った。
これで巨人に向かいつつあった流れは南海のもとへ戻った。そしてそれを掴まない南海ナインではなかった。
十回表まず野村が四球で塁に出る。
「相変わらず球をよく見る奴だ」
巨人ベンチは悠然と一塁に向かう野村を見て吐き捨てるように言った。流れを掴み損ねた彼等は明らかに焦りはじめていた。
その野村を置いて打席には八番の寺田陽介が入る。マウンドには第一戦で先発だった義原だ。
寺田のバットが一閃した。打球は一直線に飛びライトの頭上を越えた。
「よし!」
野村はその鈍足をフル回転させて走る。そしてホームに突入した。これで勝ち越しだ。
「やったぞ!」
寺田の会心のツーベースであった。南海ベンチはこれで一気に沸き返った。
「スギ、これでいけるか」
「はい」
杉浦は寺田に対して笑顔で答えた。そしてマウンドに向かった。
勝負はこれで決していた。杉浦はその裏を無事に抑え三勝目を挙げた。南海はこれで王手をかけた。
「あと一勝ですね」
勝利インタビューで記者が杉浦に話し掛ける。だが彼の顔はそれ程浮かれたものではなかった。
「あの男にとっては何でもないといったふうだな」
巨人ナインは彼の顔を見て言った。
「怖ろしい奴だ。まるで学者みたいな顔をしているというのに」
ただ杉浦の超人的なピッチングに舌を巻くだけだった。
「スギはホンマに大した奴や」
鶴岡はそんな彼を見て満足した笑みを浮かべていた。彼は杉浦の決して慢心しないその性格もこよなく愛していたのだ。
だが両者共勘違いをしていた。何故彼の顔が浮かれたものでなかったかを。
「何とか勝ったけれど」
インタビューを終えベンチに戻る彼はチラリ、と右手を見た。
「これで明日投げられるかな」
「よおやったな」
鶴岡はそんな彼を笑顔で出迎えた。
「全部御前のおかげや」
「有り難うございます」
杉浦は笑顔で答えた。だがその顔は僅かに強張っていた。
「緊張することはないで」
鶴岡はそれを緊張だと思った。
「御前は勝ったんや堂々と胸を張ったらええ」
「はい」
杉浦は素直に頷いた。そしてベンチを後にした。
「あんだけのピッチングしてあんだけ謙虚な奴は他にはおらんな。何処までもできた奴や」
鶴岡もナインもそう思っていた。
杉浦は廊下を歩いて行く。その前に一人の男が立っていた。
「ノム」
杉浦は彼の姿を認めて言った。そこには野村が立っていた。
「指、大丈夫か」
彼は心配そうな顔で尋ねてきた。
「やっぱり気付いとったか」
杉浦はここでようやく表情を素にした。
「気付かん筈ないやろ。ボールを見たらわかるわ」
「そうか。御前にだけは隠せんな」
「なあスギ」
野村は彼に歩み寄った。
「そんなんで投げることはできへんやろ。明日はもう休め」
野村は彼を気遣って言った。
「気持ちは有り難いけれどな」
彼も野村が本当はどんな男かわかっていた。だからこそその言葉が痛みいるのだ。
ページ上へ戻る