もう一人の自分
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第六章
第六章
「おおきに」
杉浦は戻って来た野村を笑顔で迎えた。
「あとは頼んだで」
野村はいささか照れ臭そうにそう言った。彼ははにかみ屋で感謝されることは苦手なのだ。
「わしは憎まれ役や」
野村はよくこう言う。この時でそうだったし今でもだ。だが彼は実は恥ずかしがり屋で寂しがり屋なのだ。
「野村さんって人はあれで繊細な人や」
野村をよく知る人はこう言う。
「それをわかっとらん人も多いけれどな」
人は外見ではない。野村は野暮ったい容姿で身体も大きい。どうしてもそう見られてしまうが心はそうではない。人は顔で判断してはいけないが、野村の場合は特にそうである。
その野村の一打で南海が優勢に立った。だが藤田もそれ以後得点を許さない。試合は杉浦の予想通り二人の投手戦となった。
七回裏、巨人の攻撃である。先頭打者の長嶋が打席に立つ。
「こいつをまず抑えないと」
杉浦は長嶋を見てそう思った。自然と身体に力が入る。
投げた。渾身のボールだ。しかし長嶋は簡単に抑えられる男ではない。バットが一閃した。
「しまった!」
杉浦は思わずボールを追った。それは右中間へ伸びていく。
「長打コースか」
ホームランにはなりそうもない。だが二塁打は確実だ。長嶋の足だと三塁打もある。
だがそれはならなかった。センターの大沢がそこにいたのだ。
「えっ!?」
これには杉浦だけでなく巨人ベンチも驚いた。大沢はあらかじめかあんり右寄りに守備位置をとっていたのだ。
長嶋の打球は何事もなかったかのようにアウトとなった。大沢はニヤリ、と笑いボールを投げ返してくる。
「俺の予想があたったな」
彼は言った。実は守備勘がよくその場の状況に合わせて守備位置をよく変えることで知られていたのだ。
「あいつにまた助けられたな」
鶴岡はベンチでそれを見て呟いた。大沢はよく彼の采配を批判したりする。その為チームでは嫌う者も多かった。実は杉浦もその一人であった。
「まあここはこらえてくれ」
それを止めるのが野村であった。彼は粗暴なことは好まない。
「わしへの批判か、存分にやったらええ」
鶴岡はそれを一笑に付した。彼にとっては批判は喜ばしいことであった。それだけ自己を客観的に見ることができるからだ。
「それにしてもわしに対しても歯に衣着せず言うとはな」
逆にそんな大沢の男気と頭脳が気に入った。
「面白い奴や。見所があるわ」
むしろ彼を頼りにする程であった。後に日本ハムの監督になり『親分』の仇名を受け継ぐことになる大沢の若き日の姿である。
杉浦はピンチを救われた。シーズン中にも度々あったことである。
九回裏にもピンチはあった。ホームランを打たれ同点となった。
「まずいな」
彼は心の中で呟いた。血マメが遂に破れたのだ。
「おかしいな、ボールに勢いがなくなってきとる」
野村もそう思っていた。ミットに収めたボールを杉浦に返そうとする。その時だった。
「!」
彼はそのボールを見て絶句した。
「どうかしたのかね?」
主審がそれを見て野村に声をかける。
「あ、何でもありまへん」
野村は慌ててそのボールを杉浦に投げ返した。
(危ない危ない、巨人に知られるところやったわ)
チラリ、と巨人ベンチを見て呟いた。どうやら気付かなかったらしい。内心ホッとした。
だが杉浦は野村のその様子を見て唇を噛んだ。
(ノムは気付いたみたいやな)
それだけでもいい気持ちはしなかった。誰にも気付かれたくなかったのだ。
しかし野村も杉浦の指のことを知っていてもそれをリードに影響させたりはしない。あくまで勝利を目指す為だ。ここはあえて鬼になった。
だが球威の衰えは出る。巨人は土壇場で攻め立て一死二、三塁のチャンスをつくる。
ここで水原はピッチャーの別所にかえて代打を送る。左の森だ。前の試合に続き杉浦対策なのは言うまでもない。土壇場で巨人は彼を攻略する絶好のチャンスを手に入れたのだ。
「ここで下手をしたら流れが変わってまう」
鶴岡は言った。
「そして流れが向こうにいったら」
南海としては最も考えたくないことである。
「それをもう一度こっちに戻すのは簡単やないで」
その言葉には反論できぬ重みがあった。南海ベンチもファンも固唾を飲んでマウンドの杉浦を見守っていた。
だが杉浦は表情を変えない。しかしその心の中は別だった。
「ここは何としても」
気を奮い立たせる。だが指の痛みがそれを削ぐ。血マメの破れた場所が痛むのだ。
それでも投げなければならない。今この場を抑えることができるのは彼だけなのだから。
投げた。しかしいつものノビはない。
「いける!」
森はそれを見て思いきり振りぬいた。打球は流し打ちの形となり左中間に飛んだ。
「やられた!」
杉浦はこの時ばかりは観念した。森の顔がサヨナラで喜びのものになる。
ショート広瀬叔功が跳ぶ。だが打球は彼の頭上を越えた。そしてそのまま一直線に飛ぶ。
「いったな」
三塁ランナー広岡達郎は勝利を確信していた。だが彼は打球から目を離さなかった。
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