もう一人の自分
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第八章
第八章
「それでも投げたいんや」
「チームの為か」
「それもある」
否定はしなかった。
「日本一になりたい、それは御前も一緒やろ」
「ああ」
野村もそれは同じだった。
「しかしな、もう三勝しとる。それでもう充分やないか。スギ、御前は自分の責任はもう果しとる。あとはわし等に任せるんや」
「もう一つ理由があるんや」
「何や」
野村は彼が次に言う言葉がわかっていた。そして自分がそれを止めることができないこともわかっていた。
「投げたいんや。僕はとにかく投げたいんや」
彼は純粋に野球を愛していた。だからこそ出る言葉であった。
「そうか」
野村は頷くしかなかった。それは彼もよくわかった。彼も野球を心から愛しているからだ。
「じゃあわしはもう言うことはないわ。しかしな」
野村は心配そうな顔のままであった。
「無理はするなや。皆御前には何時までも投げていて欲しいんやからな」
「ああ」
「そういうても御前は投げろ、言われたら投げるやろ」
杉浦はそれには黙って頷いた。
「わかっとるわ。御前はそういう奴や。そやけれどな」
野村は言葉を続けた。
「細く長く生きるのも人生やぞ。もっとも太く長く生きるのが最高やけれどな」
「御前らしいな」
杉浦はそれを聞いて顔を綻ばせた。
「ええな、それ。じゃあ太く長く生きたるか」
「そうや」
野村はそれを聞き我が意を得たと喜んだ。
「ただ僕の太いのと、御前の太いのはちゃうと思うがな」
「それはそうやろ。わしはそれについては何も言わん」
後に杉浦は野村とは人生観も全く変わってしまったと口にしたことがあった。それはこの時に既に伏線があったのであろうか。
「けれどお互い満足のいくように野球しようや」
「ああ、それはな」
杉浦もそのつもりであった。
「わしはもうそれ以上言えん。投げるな、と言いたいが御前が投げるんやったらわしが受ける」
「頼むで」
「それは任せといてくれ。御前のボールを一番知っとるのはわしやからな」
野村はそう言って杉浦の背中を軽く叩いた。杉浦はそれを受け笑顔でその場をあとにした。
「わしも甘いな」
野村はその背中を見送りながら苦笑した。
「投げるな、というてもそれを引っ込めてもうた。投げたいという奴はぶん殴ってでも止めなあかんのにな」
投手の肩は消耗品という人もいる。だからこそ酷使は禁物なのだ。それは肩だけでなく、肘や指についても言えることであった。
野村もそれはわかっていた。だから杉浦に言おうとしたのだ。
だが杉浦の言葉に心打たれた。野村にも彼の気持ちは伝わった。
「スギ、思う存分やれや。悔いのないようにな」
そう言うと彼は帰り支度に向かった。そしてバスに乗り込むのであった。
次の日は雨だった。朝雨の音を聞き杉浦は喜んだ。
「降ったか」
彼にとって恵みの雨であった。
これで一日休息がとれた。彼は機嫌よく好きな囲碁に興じた。
だが手の動きが妙だ。いつもはパチリ、と音を立てさせるのに今日はそっと静かに置く。
「どないしたんや、音は立てさせへんのか」
「え、ええちょっと」
彼は先輩にそう言われ慌てて誤魔化す。何とかばれずに済んだ。そして翌日の試合に向け英気を養うのであった。
次の日、今日で決まるかも知れない。南海ナインは眦を決して球場に向かった。
見れば晴れ渡った綺麗な秋の空である。杉浦はそれを眺めていた。
「青いな、何処までも続くようや」
白い雲もある。これ程絵になる空はそうそう見られるものではない。
「今日みたいな日に決められたらいいな」
彼は邪心なくそう考えていた。そこへ鶴岡がやって来た。
「今日いけるか」
彼に先発を言いに来たのだ。
「はい」
杉浦は頷いた。これで決まった。
そしてマウンドに立った。巨人の先発は藤田である。
「今日だけは頼むぞ」
彼はマウンドで右の中指を見て言った。それはまるで祈るようであった。
だが杉浦の立ち上がりは今一つであった。彼は三回まで毎回ランナーを背負う状況であった。
連投のせいだろうか。鶴岡はそう思った。だがどうやら違うようだ、と思うようになっていた。
「どっかおかしいんちゃうか」
彼はそれは口には出さなかった。他の者に知られてはチームに動揺が走るからであった。
一回も二回もランナーを背負いながらも併殺打で切り抜けていた。やはり流石である。
それでも九回までもつとは思えなかった。鶴岡は杉浦の投球を細部まで見た。
「・・・・・・指か」
鶴岡はそこでようやく気付いた。思えば今まで何処かおかしな様子があった。
それも中指のようだ。爪を傷めたのだろうか。
「スギの持ち球はストレートの他はカーブとシュートしかあらへん。爪はあまり考えられへんな」
では何か、彼はすぐにわかった。
「マメか」
ベンチを一瞥する。どうやら今杉浦以上の投球をできる者はいそうにない。
「ここはやってもらうか」
彼は決断した。見れば野村がマウンドで杉浦と話している。
「ノムは知っとるみたいやな」
サインの打ち合わせのふりをして杉浦を気遣っているようだ。
「あいつだけが知っとるのは好都合やな」
彼はここでコーチの一人を呼び寄せた。
「はい」
呼ばれたそのコーチはすぐに鶴岡の側へやって来た。
「これスギに渡せ」
彼はここで懐からあるものを取り出し白い布に包むと彼に手渡した。
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