もう一人の自分
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第五章
第五章
後楽園への移動時彼は右の中指に絆創膏を貼っていた。
「巨人の関係者はいませんよね」
彼は周りの者に尋ねた。
「ああ、いないよ」
彼等は周りを見回したあと杉浦に対して言った。
「よかった」
杉浦はそれを聞いてホッと息をついた。
「どないしたんや、そんなに気にして」
周りの者は少し不思議に思った。
「いえ、巨人の関係者がいると電車の中の話から情報を仕入れるかも知れませんしね」
「確かにな」
皆その言葉に頷いた。
「巨人やったらやりかねん」
当時からこうした風評はあった。鶴岡もシリーズが近くなると読売関係や巨人寄りと思われる記者達をあえて遠ざけた。情報が漏れる、と危惧したからだ。実際に彼等はそうしたことを平気でやる。プロ意識なぞ全くない提灯記事を平然と書く連中だ。その記事なぞ何処ぞの独裁国家の将軍様への賛辞と全く同じだ。
こうした連中が大手を振って歩いているのである。南海側が警戒するのも当然であった。彼等もまた巨人の目に警戒はしていた。
「しかしスギよ」
「はい」
だが彼等はあえて杉浦に対して言った。
「少し気にしすぎやで」
その顔と声は笑っていた。
「そうですね」
彼はそれを聞き少し表情を和らげた。
「けれど用心するにこしたことはないで」
ここで鶴岡がやって来た。
「巨人をなめたらあかん、それだけはよお覚えとくんや」
「はい」
杉浦だけでなかった。南海ナインは真剣な顔でその言葉に頷いた。
(こっちもそれやったらええな)
それを聞いてこう考える者がいた。野村である。
(情報を盗むのには手段を選んだらあかん。使えることは何でもせなな)
彼はその独特の思考でそう結論付けていた。
(そうせなプロでは飯は食っていけん。巨人は嫌いやがそれだけは納得できる)
彼はのちに選手の癖盗みで定評を得る。その背景にはこうしたことがあったのだ。
だがこの時彼の他にそれを知る者はいなかった。彼がその知略で名を知られるようになるのはもう少しあとの話であった。
第三戦、南海の先発はやはり杉浦であった。もう彼以外考えられなかった。
「頼むで」
「はい」
鶴岡に背中を叩かれ今日もマウンドに登る。そしてボールを手にした。
「う」
小声だが思わず声を漏らした。
やはりマメが痛むのだ。しかも連投したせいだろう。その痛みは一昨日よりひどくなっている。
だがそれを知られてはいけない。巨人の先発も連投でエース藤田だ。
(今日の藤田さんの調子はいいみたいだな)
試合前の投球練習を見てそれはわかっていた。おそらくそうそう点はとれないだろう。
だが彼には意地があった。マメのことを知られ、くみし易いと思われるだけで癪であった。
ましてや巨人の四番は長嶋だ。彼にだけは打たれたくはない。
長嶋は全く隙のない男だ。どこに投げても的確に反応してくる。まさに野性的な勘だ。
「だからこそ打たれるわけにはいかない」
杉浦はそう考えていた。このシリーズの第一戦も第二戦もそれを考えていた。
彼はその静かな目の中に炎を宿らせていた。そしてそれで巨人を、長嶋を見据えていた。
「今日が山場やで」
鶴岡はそんな彼の炎を見て言った。
「今日勝ったらいける、しかし」
彼は言葉を続けた。
「今日負けたらわからへん。下手したら」
ここで彼の脳裏に悪夢が甦った。
昭和三〇年の日本シリーズ。鶴岡率いる南海は巨人と四度目の対決に挑んでいた。過去三回の戦いはいつも巨人に負けていた。
「あの時はいける、と思った」
鶴岡は後にそう語った。
第四戦を終え三勝一敗、今まで巨人の重厚な戦力と水原の戦略の前にとてもそこまでいけなかった。だがこの時は違っていた。
あの強力な巨人打線を抑えここまできたのだ。流石に巨人も最後かと思われた。
だがここで水原は思い切った作戦に出た。何とそれまでチームを引っ張ってきたベテランを引っ込め若手をスタメンに起用してきたのだ。
「巨人の悪あがきやな」
鶴岡はそれを見て笑った。だが数時間後その笑いは凍り付いていた。
何とその起用が見事的中したのだ。水原は王手をかけられたが決して焦ってはいなかった。そしてすぐに手を打ったのだ。
「調子のいい選手がいればその選手を使う」
野球のセオリーである。彼はそれを忠実に実行しただけである。しかしそれは巨人のようなスター選手が揃っているチームでは容易ではない。やはり彼は名将であった。
彼等の活躍でその試合は巨人が勝った。首の皮一枚で生き残った巨人はここから反撃に出た。
別所穀彦、中尾硯志の両エースをフル回転させてきたのだ。別所はかって南海にいながら巨人に強奪された選手だ。
「よりによってあいつを使うかい」
巨人は手段を選ばない。どのような卑劣で無法な行いも平然とやってのける。だがマスコミという巨大権力がバックにある為多くの者はそれに気付かない。巨人ファンは何故巨人を応援できるか。野球を知らないからだ。
その巨人にまたしても敗れた。鶴岡は怒りと屈辱で全身を震わせた。
「またしても負けたか・・・・・・」
目の前での水原の胴上げ。それを忘れたことは一度もない。
「あの時みたいになってたまるか」
彼はこのシリーズが決まった時からそう考えていた。
「それはさせん、一気に叩き潰したる」
その為に今まで選手達を手塩にかけ獲得し、育ててきたのだ。そしてその中心にいるのがやはり杉浦である。
「スギ、頼んだで」
彼はマウンドの杉浦を見て祈るようにして言った。杉浦は今マウンドで大きく振り被った。
一回裏、巨人は杉浦の立ち上がりを攻める。バッターボックスには長嶋がいた。
その長嶋が強打した。打球はショートを強打した。
「ムッ!」
それは内野安打となった。巨人はこれで先制点を入れた。
長嶋の一打で後楽園は喜びに湧く。だが杉浦は後続を何事もなかったかのように抑えた。
「スギの仇はとったる」
しかし南海ナインは先制点に対しても臆することがなかった。二回表野村が逆転のツーランホームランを放つ。
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