銀河英雄伝説~悪夢編
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第四十七話 俺はロリコンじゃない!
帝国暦 488年 10月 7日 オーディン ヴァレンシュタイン元帥府 エーリッヒ・ヴァレンシュタイン
俺は宇宙で一番、ヘタレと呼ばれた男……。心の中で呟きながら決裁文書にサインをする。最近はこの文句がお気に入りとなった。帝国の実力者なんて言われていい気になる資格は俺には無い、俺はどうしようもないヘタレ男なのだ。その現実を受け入れる事が大事だ。ルドルフみたいに神聖不可侵とか馬鹿な事を言い出さずに済む。
決裁文書をじっと見た、おそらく周囲は俺が文書の内容を確認していると思うだろう。残念だな、俺が確認しているのは決裁文書の内容じゃない、そんなものはとっくに確認済みだ。確認しているのはサインだ。問題ないな、サインには毛ほどの乱れも無い。
サインに乱れが有れば俺が精神的に動揺していると思う奴も出るだろう。俺がヘタレである事は誰にも知られてはならない帝国の最高機密なのだ。そう自分に言い聞かせている。辛いよな、ヘタレである事は認めても知られてはいけないなんて……。実際ヴァレリーに一度サインが乱れていると指摘された。その時は腕が痛むと誤魔化したが気付いているかもしれん、彼女も離婚歴が有る、油断は出来ない。
執務室にはヴァレリーとヒルダが居る。以前は元帥府はヴァレリーの管轄で宰相府はヒルダと別々にしていたのだが不便なので区別せずに常に俺に同行させている。もっともこの二人、必ずしも打ち解けていない。まあ片方は貴族のお嬢様で片方は亡命者だ。おまけにマリーンドルフ伯爵家が妙な動きをして俺に釘を刺された事をヴァレリーは知っている。要注意人物ぐらいに思っている可能性は有る。
次の決裁文書を取った、内容は艦隊訓練? オーベルシュタインか、なるほど、直属の上司は俺だからな。訓練期間はカストロプ星系で一カ月か、……良いんじゃないの、何か有ればすぐに戻って来られるしな、反対する理由はない。しっかりとサインをして次の決裁文書を取ろうとした時だった、TV電話の受信音が鳴った、受付から連絡が入ったようだ。
ヴァレリーが連絡を受け話している。俺の方を見た。
「閣下、アンスバッハ、シュトライト准将が面会を求めておりますが……」
「通してください」
「分かりました」
ヴァレリーが“直ぐ通してください”と言った。
アンスバッハ、シュトライトか、何の用かな。例のパーティーの御礼かな、律儀な事だ。政府主催の親睦パーティーを翠玉(すいぎょく)の間で開いたのは四日前の事だ。新たに誕生したシュテルンビルト子爵家、ノルトリヒト子爵家の御披露目パーティー……。シュテルンビルト(星座)、ノルトリヒト(オーロラ)、妙な名前だがブラウンシュバイク公爵夫人、リッテンハイム侯爵夫人が新たに選んだ名前だ。
下手に地名や人名を付けるよりは政治色が無くて良いだろうという事らしい。いかにも女性らしい感性の命名だと思う、それにかなり慎重になっている。今回の内乱で権力の持つ恐ろしさ、自分達の血の持つ危うさを認識したという事だろう。良い傾向だ。
パーティーは十分に上手く行った。俺はあの二人の夫人に丁重に挨拶したし挨拶した順番も一番最初だ。話していた時間も十分以上は有った。誰が見たって俺があの二人、そして二人の令嬢に気を遣っている事は理解できただろう。あの二人だって満足そうにしていた。力は無いが政府から一定の敬意を受ける名門貴族の誕生だ。
俺だって努力した、あの時は軍服じゃなくてロココ・スタイル? そんな感じの服を着てパーティーに参加したんだ。軍服だとあのガイエスブルク要塞での事を思いだすかもしれないからな。向こうに不快感とか恐怖感を与えては意味が無い、だから慣れない服を着た。ミュラーに言われたよ、軍人には見えない、何処かの貴族の若殿様みたいだって。全然嬉しくなかった。だがそこまで努力したんだ、上手く行って貰わなければ困る。
あの両家が満足してくれれば少なくとも帝国内で反政府勢力の旗頭に使われることは無いだろう。それと他の貴族達にも必要以上に俺が貴族を迫害することは無いというメッセージになるはずだ。俺が連中に理解して欲しいのはこれまでのような特権は許さないという事だ。節度を守り政府に協力するなら問題は無い。後はあの両家が俺に協力してくれれば他の貴族達もその辺りを自然と理解してくれるだろう。
執務室にアンスバッハ、シュトライトの二人が入って来た。口を開いたのはアンスバッハだ。
「御多忙の所、恐れ入ります」
「いえ、構いません、何か有りましたか?」
「先日のパーティーでは。シュテルンビルト、ノルトリヒト両子爵家に色々と御配慮頂き有難うございました。子爵夫人達が最高司令官閣下に大変感謝しておりました」
やはり御礼言上か。
「両子爵夫人にお伝え頂きたい。丁重な御挨拶、痛み入ります。これからも政府への協力をお願いしますと」
「はっ、そう御伝えいたします」
「アンスバッハ准将、シュトライト准将、お二人にも随分と手伝って頂きました、礼を言います。これからも色々と御願いする事が有るかもしれませんが宜しくお願いします」
俺が礼とこれからの協力を要請すると二人とも恐縮したように頭を下げた。
この二人には随分と働いてもらった。あのパーティーが成功したのはこの二人の尽力のお蔭でもある。これからも色々と調整が必要な事が発生するだろう、その都度協力して貰う事になる筈だ。得難い存在だよ、二人とも変な小細工をしない誠実さが有る。こういう調整事は才気よりも誠実さの方が大事だからな、相手に信頼されないと駄目なんだ。
用件は済んだな、そう思ったがアンスバッハ、シュトライト、二人とも帰ろうとしない。二人で顔を見合っている。なんだ? 他にも何か有るのか? 年金は百万帝国マルクじゃ足りないとか言ってるのかな。知らんふりも出来ん、こちらから話を向けるか。
「どうかしましたか? 遠慮は要りません、言って下さい」
二人はもじもじしていたがシュトライトがおずおずと話し始めた。
「閣下は結婚について如何お考えでしょうか?」
「結婚?」
何だ、一体。シュトライトもアンスバッハも俺を窺うように見ている。今度はアンスバッハが口を開いた。
「閣下がエリザベート様、サビーネ様との結婚を望んでいるのではないかと……、いえアマーリエ様、クリスティーネ様はそのような事は無いと信じておられます。閣下が御約束を破るような事は無いと……」
「……」
はあ? 何言ってんだ、二人とも。エリザベートもサビーネも子供だろう、俺はロリコンじゃないぞ。……いや、待て、これってもしかすると打診か? うちの娘と結婚しない? そういう打診なのか……。いかんな、向こうの考えが分からん、とりあえず当たり障りなく答えるか。
「シュテルンビルト、ノルトリヒト両子爵夫人が何を心配されているのか良く分かりませんが私はシュテルンビルト、ノルトリヒト両子爵家を不当に扱うつもりは有りません。信じて頂きたいと思います」
俺が答えるとアンスバッハとシュトライトが顔を見合わせた。納得した表情じゃないな、腑に落ちない、そんな感じだ。
「ここ数日、あの親睦パーティーに参加した貴族達から最高司令官閣下がエリザベート様、サビーネ様のどちらかと結婚を望んでいるのではないかと両子爵夫人に問い合わせが来ているのです。いきなり祝辞を述べる貴族もいるとかで……」
「お二方はその事に非常に戸惑っておられます」
「……」
何だ、それは……。相手は戸惑っているらしいが俺もびっくりだ。なんでそうなる。パーティーでお披露目しただけだろう。それで結婚? 貴族ってのは何考えてるんだ? 俺にはさっぱり分からん。俺が困惑していると
「宜しいでしょうか」
とヒルダが声をかけてきた。
「ここ数日、貴族達の間で閣下がシュテルンビルト、ノルトリヒト両子爵家の令嬢との婚姻を望んでいるのではないか、そのような噂が流れているのは事実です」
「どういう事です、それは」
俺が問い掛けるとヒルダが少し困ったような表情をした。ヴァレリーも困ったような表情をしている。この二人は知っているらしいな。
いや、分からなくはないんだ。俺は独身だからな、そんな話が出てもおかしくは無い。だが何で急に出たのかが分からん。それにシュテルンビルト、ノルトリヒトから出た話じゃない、他の貴族達が噂している。あのパーティーが両家の御披露目を目的に開かれた事は皆が分かっていたはずだ。お見合いパーティーじゃないぞ。何処で変わった?
「閣下が奥様と離婚されたのが原因です」
「……」
そんなの当り前だろう。結婚してれば出るはずもない話だ。俺が知りたいのは何でその話が急に出てきたのかだ。もう少し分かり易く言え! ヒルダに視線を当てた。彼女がちょっと気まずそうな表情を見せた。
「皆が不審に思っています。多くの貴族達が財産を取り上げられ追放される中、奥様だけが爵位、所領を戻されています」
「当たり前の事でしょう、爵位、所領の返上は私が下賜の条件として受け入れさせたのです。言ってみれば私の不当な要求だった。結婚を解消した以上、彼女の身分、財産は旧に戻すのが筋です。それと彼女はもう私の妻じゃない、グリューネワルト伯爵夫人と呼びなさい」
「申し訳ありません」
俺が注意するとヒルダが頭を下げた。
胸を張って言えるぞ、俺はやましい事はしていない。領地だってそんな多くは無かった。ラインハルトの事を想ってだろうが無欲で害のない女に徹していたようだ。本人の性格も有るだろうがな。大体それが何で俺がエリザベート、サビーネと結婚したがっているという事になるんだ?
「それと閣下は伯爵夫人に資金の援助もされています」
「援助じゃありません、慰謝料を払ったのです。それにあれは私の預金から彼女に譲ったもの、帝国政府が彼女に払ったわけではない。公私混同などしていませんし依怙贔屓もしていませんよ」
「もちろん、それは分かっています」
慌てたようにヒルダが答えた。段々不愉快になって来たな、一体何が言いたいんだ? はっきり言え! 怒鳴りつけてやろうか。
「貴族達の多くは閣下が上から押付けられた伯爵夫人を離縁した、そう思っていました。爵位、所領、それに資金の援助も伯爵夫人が離婚の条件としてそれを望んだと思っていたのです」
「馬鹿馬鹿しい、彼女はそんな人間じゃない!」
反吐が出そうだ、馬鹿共が何を考えている。向かっ腹が立ったがヴァレリーが“閣下”と声をかけてきたので慌てて抑えた。いかん、少し興奮したか。皆、気不味そうな表情をしている。
「それで、どうしたのです、フロイライン」
俺が先を促すとヒルダが“はい”と小さな声で答えた。なんだかな、俺ってそんなに暴君か?
「先日のパーティーで閣下はヴェストパーレ男爵夫人、シャフハウゼン子爵夫人とグリューネワルト伯爵夫人の事をお話になられました」
「……」
話したよ、必要以上に彼女の立場を悪くさせることは無いからな。喧嘩別れしたんじゃないって周囲には教えておかないと。いかん、赤のショルダーバックを想い出した。そしてセピア色の後ろ姿……。ここは元帥府の執務室だ、宰相府の執務室じゃない! 想い出すな!
「その事でお二人が喧嘩別れしたのではない、閣下は今でも伯爵夫人に好意を持っている、貴族達はそう思ったのです。そしてヴェストパーレ男爵夫人達の応対から伯爵夫人も閣下の事を嫌っていないと思った」
「……」
なるほどな、段々分かってきた。まあ続きを聞こうか。
「お互いに嫌っていないのに離婚した。貴族達はお二人の離婚は偽装離婚ではないかと疑っているのです」
溜息が出た。何を考えている……。
「つまり離婚した理由は私が皇族と婚姻関係を結びたがっているからだという事ですか。伯爵夫人もそれに協力していると」
俺が答えるとヒルダが“その通りです”と言って頷いた。
「皇帝エルウィン・ヨーゼフ二世陛下を廃しフロイライン・シュテルンビルト、フロイライン・ノルトリヒトのどちらかを女帝とする。そして私は女帝夫君として帝国を支配する。伯爵夫人が爵位、領地を返還されたのはそれへの協力に対する代償という事ですか、馬鹿馬鹿しい」
ウンザリした。俺はエルウィン・ヨーゼフ二世を廃立する、だが皇帝になるときは自らの力で皇帝になる、ゴールデンバウムの血など必要としていない。ゴールデンバウムの血に頼ればそれだけ旧勢力に配慮しなければならなくなる。それでは内乱に勝ち残った意味が無い。俺がシュテルンビルト、ノルトリヒトを優遇するのは国内統治に役立てるためだ。
「御不快になるのは承知の上で申し上げます。一部には結婚後、伯爵夫人を愛人とされるのではという声も有るのです」
「馬鹿な! 度し難いにも程が有る!」
貴族ってのは血にしか関心が無いのか? それしか誇るものが無いのか……。ルドルフの馬鹿が血に拘るからだ、だから貴族達も血に拘っている。
罵ってばかりもいられないな、アンネローゼとの離婚はタイミングが悪かった。連中の価値観からすれば俺の行動は疑ってしかるべきものだったのだ。また溜息が出た。権力者って結婚どころか離婚するのも自由にならないんだな、まったくウンザリする……。
「アンスバッハ准将、シュトライト准将。もうお分かりかと思いますが私の離婚はあくまで私個人の問題です。シュテルンビルト、ノルトリヒト両子爵家には関係ありません。そちらとの約束を違えることは有りません。両子爵夫人にはそう御伝えしてください」
俺が答えるとアンスバッハとシュトライトが恐縮したような表情で頷いた……。
帝国暦 488年 10月 7日 オーディン ヴァレンシュタイン元帥府 ヴァレリー・リン・フィッツシモンズ
アンスバッハ、シュトライト准将が帰った後、最高司令官閣下はまた決裁作業に戻った。でも明らかに最高司令官は怒っている、ムッとしながらサインをしている。まあ怒りの対象は私やフロイライン・マリーンドルフにじゃなくて貴族達に対してだから気にすることは無いんだけど……。でもちょっと気不味い、それに空気がとっても重い。
確かに皆不思議に思っている、離婚した奥さんに手厚すぎるって。最高司令官はベーネミュンデ侯爵夫人の事件の所為で酷い怪我をしている。あの事件にグリューネワルト伯爵夫人は直接は関係ない、だけど無関係とも言えない。最高司令官に責められても仕方のない立場と言える。
離婚したっておかしくは無いし何の補償無しで追い出しても誰も非難はしないと思う。それなのに爵位と所領の返還、それに慰謝料二百万帝国マルク、……有り得ないわ。これじゃどう見たって最高司令官の方に非が有る様にしか見えない。私が最高司令官の母親なら“あんた馬鹿じゃないの”と怒鳴りつけているところよ。
あのパーティーでヴェストパーレ男爵夫人、シャフハウゼン子爵夫人と話していた事は殆どが伯爵夫人の事だった。元気にしてるか、困ったことは無いか、自分に援助できることが有ったら何でも言うように伝えて欲しい……。誰だって思うだろう、何で離婚なんかしたのかって。さっきだって伯爵夫人の事を言われると感情がモロに出た。普段の冷徹振りからはとても想像出来ない言動だった。誰がどう見ても最高司令官は伯爵夫人の事を想っているとしか見えない。
まあ人間なんだからそういう部分が有ってもおかしくは無い。それに誰かに当たり散らすわけでもないから許せる範囲だとは思う。でも身体も弱いのだし右半身が不自由なんだからプライベートで支えてくれる女性が必要よ。出来る事なら伯爵夫人とやり直した方が良いと思うんだけど……、どちらかが嫌っているというならともかくお互いに想っているんだから……。
「閣下、どうされるのですか?」
「……」
「このままではあの話が独り歩きしかねません。何らかの手を打つべきかと思いますが」
フロイライン・マリーンドルフが話しかけると最高司令官は決裁の手を停め、彼女に視線を向けた。
「何か良い手が有りますか?」
「……それは」
フロイラインが口籠った。
「手は二つしかない、私が結婚するか、あの二人が結婚するかです。私は結婚する予定は無いし恋人も居ない、あの二人は未だ子供です、当分無理ですね」
まあ政略結婚とかでもなければちょっと難しい、困ったものだと思っていたら最高司令官がフッと笑みを洩らした。
「まあ暫くはこのままでいましょう。あの二人と結婚する気は無いが不都合な噂では無い。それなりに利用できそうです」
あらあら、なんか悪だくみしている。離婚してから元気が無かったけどどうやら復活かしら……。
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