シャンヴリルの黒猫
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56話「第二次本戦 (3)」
わああああっ
会場が再び沸いた。アシュレイがロボに一撃を見舞ったのだ。血が染みた砂が赤黒く変色する。
『なんと! Fランカーアシュレイ選手が、Aランカー【狼王】ロボ選手に深手を負わせました!』
『結構な出血量です。拳闘士特有の軽装が裏目に出ましたね…』
『これは降参してもおかしくありませんよ!!?』
まさかの展開に、モナが身を乗り出して絶叫した。
だが、ロボは降参する気などさらさらないようだった。自らの血をベロリと舐めると、暫しその味を堪能してから言った。
「……楽しめそうだぜ」
『お――っと!? この言葉はつまり、降参はしないということでしょうか!?』
「ったりめぇだ。誰がこんな面白い戦いを止めるかよ。これっぽっちの傷で!」
叫ぶやいなや、再び地を蹴り負傷しているとは思えないスピードでアシュレイに肉迫した。
「うらうらうらうらァ!」
全身全霊で解き放たれる、岩をも砕く威力をもつナックルを、アシュレイは避けに避けた。
首をひねり、腕を曲げ、その場で横に一回転。先のリーメイとの戦いのようにバク転して回避すると同時にサマーソルトでロボの顎を砕きにかかる。
「チィッ! ちょこまかと!!」
ロボが苛立ちを露わにするが、対するアシュレイは涼しい顔である。サマーソルトがかわされても、眉一つ動かさない。
「ほら、どうした? 動きが鈍くなってきてるぞ」
明らかに挑発と分かる言葉が彼の口から漏れた。
「うるせェ!!」
回し蹴り。だが、それはアシュレイに当てようとしたものでは無く、彼と距離を空けようとして繰り出した代物だった。
「ハッ…ハッ…ハッ…」
鋭い光を浮かべる目はこちらを油断なく睨みつけているが、その身は明らかに疲労している。ロボが膝を付くのは時間の問題に見えた。
(……ここまでか)
気を緩め、アシュレイが最後の一撃を振りかぶったとき。
「ッ!!」
観客は何が起きたか分からなかった。モナもきょとんとしたままフィールドを見下ろしている。
端から見れば、アシュレイが剣を振りかぶった直後、突然彼が後ろに吹き飛んだように見えるだろう。間違いではなかった。
ズザザザザザ!
「アッシュ!!」
血相を変えてユーゼリアが叫ぶ。観客もどうしたのかとざわつき始めた。
砂埃を纏ったアシュレイは、フィールドギリギリで踏みとどまった。長剣を地面に刺し、勢いを殺したようだ。
「チッ……」
舌打ちすると、ペッと血を吐いた。大した量ではないから、口内を切ったのだろう。
(俺としたことが……油断したな)
『こ、これは野獣化! 獣人族の奥の手です!! とうとう【狼王】が本気になりましたあああ!!!』
モナが絶叫する。カエンヌが冷静な声で説明した。
『本能に身を任せることで体の無意識のリミッターを外す、獣人だけがもつ特有の業“野獣化”は、正に狂戦士といえる荒々しさです』
獣人の戦士は皆近接戦闘の達人だが、中でも狼人は強い。強靭な筋肉はあらゆる武器の威力を底上げし、またそれだけで堅い鎧となって身を守る。それだけならず鼻も利くし、爪も牙も一級品だ。それが野獣化すると、筋肉が限界を超えて稼働し、更なる瞬発力と怪力を生み出すのだ。欠点といえば、本人の意識が朦朧としており、ただ自分以外の全て――味方すらも区別がつかない――を破壊するか、体力が尽きて倒れるまで暴れまわることと、翌日激しい筋肉痛に起き上がれなくなること。ひどい時には死に至ることもある両刃の剣であるが、
「ゥヲヲヲ――――ォォンン――!!!!!」
『…非常に、強力です。ここからは小さなミス1つで結果が分かれることもあるでしょう。集中して挑みたいですね』
先ほどとは比べ物にならない殺気、威嚇を秘めた遠吠えが会場に響き渡る。砂埃が落ち着くと、中から姿を現したのは、両手両足を地につけた四つ足の獣。
「ガルルルルルル……」
目はギラギラと光り、あとからあとから零れる涎は、目の前の獲物を餌としか見ていないのを雄弁に語っている。
姿形は何時もと同じなのに、纏う雰囲気は明らかに“狂気”だった。
『野獣化した獣人は、個人にも寄りますが、およそ現在のランク+1の力とみていいでしょう。現在【狼王】はAランカー。つまり、1ランク上げると理論上Sランカーと同じ力と言えます。あくまで、“力”ですが……』
意味深に締めくくったカスパーの説明を、だが誰も気にとめない。観客は皆、食い入るように舞台を見つめていた。
2人は動かない。アシュレイは注意深くロボの一挙手一投足を見逃すまいと見つめ、ロボはアシュレイのどこが美味いか狙いを定めていた。
ゴクリ...
誰かが唾を嚥下する音が聞こえる。心臓の鼓動すらうるさいと感じる。
ふっと、アシュレイが吐息した。
「グワアアアアッ!!」
直後、ロボが宙に躍り出た。さっきまでとは比べ物にならない速さだ。その牙は真っ直ぐに、アシュレイの喉元へ。
「クッ」
アシュレイの口から声が、声とも呼べない音がでた。余りの速さに避けることもできないのか。これから来るだろう痛みに耐える声なのか。
――否。
アシュレイの唇は、弧を描いていた。
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