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おいでませ魍魎盒飯店

作者:卯堂 成隆
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間幕:Ir de tapas (軽食屋巡り)
  Diolch i'r byd / 世界に感謝を

 料理店である"アトリエ・ガストロノミー"の朝は早い。

 夜の残滓が太陽の光に貫かれ、東に聳える山が灰色の体に金色の縁取りを纏う頃、すでにその店には煌々と灯りが灯っていた。
 その厨房の隙間からは、肉、野菜、ゆでられた水産物、そしてミルクの濃厚な香りが周囲へと広がり、夜にまどろんでいた小動物たちを夢から引き摺り上げる。
 やがて日の光が完全に地平から顔を出した頃、竈から立ち上る濛々たる湯気と油の煙を細く突き刺すように、甲高い声が少女の唇から放たれた。

「……キシリアさん、蟹入り伊達巻焼けました」
「うん、いい焼き色だね。 味見はしないから、あとは自分で判断するといいよ」
 弟子の作品をチラリと見ると、師匠であるキシリアは自分の料理にすぐに向き直る。
 関心がないのではない。
 それだけ時間に余裕がないのだ。
 料理と言うものは生き物である。
 そこに無駄な時間と言うものは一秒たりとも存在していない。
 目だけでなく匂いの調和に心を砕き、焼き具合で変わる僅かな音の違いに耳を傾け、料理という一つの"(コスモス)"を作り上げる……などというと少し大げさすぎるだろうか?
 だが、キシリアがかつて求めていた、そして今も求めているのはそんな世界だ。

「あと、声をかけるときは腹から声を出しなさい。 気合を入れないと美味しい料理はできないし、声が出ないと気合は入らない。  はい、言われたらすぐに実行!」
 伊達巻の焼き具合は文句なしによいのだが、いかんせん作り手はモヤシのようにしなびた雰囲気を纏っている。
 いくら卵がおいしそうな匂いを漂わせていても魅力が半減だ。
 料理とは作り手の鏡のようなものであり、苛立って作ったときはなぜか苛立った味にしかならないし、落ち込んだままで作った料理は全て陰気な味になってしまう。
 まるで、作り手の"気"が料理にしみこむように。

 まぁ、それ以外の要因もあって彼女はおそらく伊達巻の作成に失敗するだろう……だが、その問題点をキシリアは告げない。
 何も目先の成功に導くだけが指導ではないのだから。
 時には失敗を経験し、そこから何が原因だったのかを自分で考える癖をつけないと、本当の壁にぶつかったときにそれを乗り越える力を失ってしまう。
 教育とはただ優しいだけでは成り立たず、ましてや職人を作る事とは、そして技を伝えるという事は、知識をそのままコピーする事と等しくはない。
 それは道とならんとすることであり、道標であらんとすること。
 少なくともキシリアはそう考えていた。

「……善処します」
 力なく答えた少女――カリーナは、案の定焼きあがってからの巻きに失敗し、切り口は綺麗な"の"の字にならなかった。

*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*

「さてと、そろそろ朝の食事も作ろうか?」
「……はい」
 朝の仕込が終わった頃、キシリアは料理の手を止めてカリーナを振り返った。

 ――ツラい。
 カリーナは心の中で小さく呟く。
 仕事の内容がではない。
 叱ってもらえない事がだ。

 今日の伊達巻の失敗の後、キシリアは何も言わずに伊達巻を作り直した。
 もちろんカリーナが作ったはるか上の出来栄えでだ。

 期待されていないのだろうか?
 勇者になる前に、今は亡き母からよく言われたものである。
 叱られるのは期待されているから。
 怒られているうちが華だと。

「今日の朝食は、ターメイヤ、スクマ・ウィキ、デザートは蓮の実の甘納豆ね」
 ……ざわり。
 そのキシリアの台詞と共に、厨房の中が踊りだす。
 この厨房において、彼女のはまさに神の言葉。
 メニューを告げられた、ただそれだけのことで"エジプト風ソラマメのコロッケ(ターメイヤ)"の材料である大きな豆が宙を舞い、鍋の蓋がひとりでに開いて緑色の客人を迎え入れる。
 続いて一瞬でお湯に変わった汲み置きの水が鍋に入り、ソラマメをコトコトと煮込み始めた。
 その隣では、いつのまにか蓮の実と砂糖の入った鍋が濛々と白い煙を吐き出している。

 ――すごい。
 カリーナの口から、知らずとそんな言葉が漏れていた。
 今までにも、捕獲したシルキーを働かせている貴族の屋敷にお邪魔したことはあるが、ここまでの理力を一人で使いこなす妖精を見たのは初めてである。

 少なくとも……理力の細かな制御という点であればキシリアより上の存在をいくつも見てきたが、その強度においては彼女より上の存在を見たことがない。
 彼女に匹敵する存在がいるとすれば、それは魔族の頂点たる魔王ぐらいだろうか?

 なにせ、彼女は現在進行形で魔王の呪詛からこの店を守りきっているのだから。
 そう、実はキシリアはとある事情により都市国家ビェンスノゥの魔王から常に呪いを受けており、その呪いを跳ね除けるために常時多大な理力を行使している。
 だが、その様子はあまりにも自然すぎて、カリーナもクリストハルトも言われてもすぐには信じられなかったほどだ。

 当然ながら、普通の妖精であればとっくに魔王の呪詛に屈しているはずであるし、出来たとしても平然とした顔で振舞うことは出来ない。
 ましてや、その理力の行使の傍らで料理のお湯を沸かすなどもっての他だ。

 まぁ、魔王のほうも本腰を入れて呪っているわけではなく、せいぜい嫌がらせ程度の呪詛しか送っていないのだろうが、いずれにせよキシリアが規格外であるのは間違いない。

 それに比べて自分は何なんだろう?
 幸いにも神の恩寵により火の制御はキシリアにも負けないぐらいだが、それだって自分の力ではなく神様からの借り物であるし、出来上がる料理の味もキシリアには遠く及ばない。
 努力はしているつもりなのだが……

 ――そう簡単に同じになられてたまるか! とはキシリアの弁だが、やはり目標があまりにも遠いというのは精神的に(こた)えるものがある。

「カリーナ。 朝食が出来るまで時間があるからお使いを頼んでもいいか?」
 ふと、食材の在庫をチェックしていたキシリアからそんな注文が飛んでくる。
 できれば一人で部屋にでも困りたい気分だったが、頼みを断れるような身分でもなく……
 それに、外を歩くのも気分転換にはいいかもしれない。
 もしかしたら、それが目的でわざと仕事を回したのかも……いや、それは考えすぎか。
 そもそも自分にそれだけ気を使う価値があるとも思えない。

「……はい」
 先刻言われたとおり少しでも元気よくと思って出した返事だが、どうにも歯切れの悪い音しか出ない。
 もしかしたら、自分にはもうこんなしゃべり方しか出来ないのではないだろうか?
 別に生まれつきこんなしゃべり方だったわけではないのだが……やめよう。
 このことに考えすぎると、クリストハルトが気を病んでしまう。

「スクマ・ウィキが切れたから、朝のうちに収穫しておいてくれ」
 告げられた食材は、ここから徒歩で30分ほど離れた草原にしか生えていないちょっと苦味のある作物だった。
 ドライアド達に頼んでキャベツという作物を生み出す過程で生まれた薬草だが、キシリアの知識の中にほぼ同じ味と成分の食材があったためにそのまま名前を貰ってきたらしい。
 またの名をケールと言い、キシリアの故郷にあるアフリカと呼ばれる地域でよく食べられているのだとか。

 ちなみに、名前の意味は"この週を耐え抜く力"。
 その薬効の強さと安価であることから、過酷な労働者がその週を生きるための力となるが故につけられた名前らしい。

 ――そういえば、最近この森のあたりで強盗が出るという話だっけ。
 それは昨夜の夕食時に、クリストハルトから聞いた話だった。
 魔界と呼ばれるだけあって、この"モルクヴェルデン"に強盗罪や傷害罪は存在しない。
 ただあるとすれば、"弱いヤツが悪い"という獣のような恐ろしい概念だけである。
 別に全く法が無いわけではないのだが、その内容は利益の絡む民事法ばかりであり、刑法に関しては国家反逆罪がかろうじてある程度。
 仇討ちの類は勝手にやれというスタンスだ。

 そもそも犯罪の定義があまりにも違いすぎる。
 この世界の食事と言うのは基本的に狩猟であり、戦争ともなれば同じ同族同士でも捕食の対象となるのだから、誰かが殺し、殺されるなんて話は当たり前に転がっているのだ。
 クリストハルトの友人である獣人たちも、その辺にいるゴブリン達を襲って食べることがよくあるのだとか。
 ……まぁ、その理由の大半が、『キシリアの店で弁当を買い損ねたから』というのは、ここだけの話である。

 ちなみに、絶対に食べないのは自らが友として認めた相手と家族のみ。
 この禁忌を犯した者については、罰するための明確な法こそ無いが、社会的に致命的なダメージを受けてしまうため、下手な死罪より過酷な結果が待ち受けている。

 つまり何が言いたいのかと言うと、魔界の法とは力と信頼のみ。
 そしてこの世界で信じていいのは友人と家族だけという事実。
 一人でホイホイ外に出て魔物に襲われ、彼等の昼食になったとしても誰も文句をいう事は出来ない……襲われて死ぬほうが悪いのだ。

 さて、そんな事情もあるので、森に入るなら誰か一緒に来てくれると嬉しいのだが……
 カリーナは家族として共に生活している面々の顔を思い浮かべる。

 まず、ケットシー達は無理だ。
 最近リージェン三兄弟はそれぞれシフトを作って24時間体制で働いている。
 今はちょうど起き出したマルが、夜明け間際に仕入れ業者から荷物を受け取ったテリアと業務の引継ぎをしているところだろう。

 そして、いつも護衛を頼んでいるクリストハルトは家にいない。
 ……ちょうど朝の鍛錬で知り合いの獣人たちと汗を流している頃だ。

 最後にこの魔界で弁護士をしているというマンティコア、フェリクシア嬢はというと……そういえばまた数日前から姿を見ていない。
 まぁ、彼女の場合は家にいるほうが珍しいのだが。

 ――困ったな。
 この僻地では頼れる近所の住人などいるはずもなく、かと言って自分ひとりでは戦うことなど出来ないだろう。
 実はカリーナは血なまぐさい戦闘をするのが苦手だった。
 というか、ほぼやったことが無い。

 ただ横で見ているだけならば良いが、自分の意志で命を奪うことに強い忌避感があるためだ。
 この感覚だけは、勇者として各地を回ってもまったく変わることはない。
 殺すことが怖くて仕方が無いのだ。
 誰かに無理やりやれと言われたら……きっと恐怖から加護を暴走させ、このあたりの森を全て灰にしてしまうだろう。
 カリーナの操る炎にはそれ自体に意志があり、カリーナを怯えさせる存在を全て灰にしようとするからだ。

 別に森を迂回すれば強盗にも遭わずに済むのだが、今度は崖などが邪魔であるために倍以上の時間がかかってしまう。
 そんなに時間をかけてしまうと、今度は朝の売り出しに間に合わない。

 無理だといって断るか?
 いや、それは出来ない。
 これ以上役立たずな自分を晒して平気であるほど、カリーナは図太い神経はしていなかった。

 故に選択はただ一つ。
 ――運を天に任せるか。

 彼女はリスクを承知で一人で森へ入る事にした。

*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*

 見渡す限り緑の恵みが大地を覆い、その上を色とりどりの花と蝶が舞い飛ぶ。
 豊穣の恵みを体現するかのようなその畑は、(オーク)の森を抜けた先に広がっていた。
 
 いや、畑と言う表現は正しくは無い。
 正しくは薬草園。
 ここは医術や薬学を得意とする医熊人(パン・ジャヴァン)たちが、自らの薬の材料を育てるための場所だった。

 キシリアは、ドライアドに品種改良をしてもらった作物の種を、この場所で一部栽培してもらっているのだ。
 もっさりとした毛に覆われた大柄な医熊人(パン・ジャヴァン)たちが農作物を育てる姿はどこかユーモラスではあるが、その外見から彼等を侮ってはいけない。
 ここにこんな長閑な場所が存在するのも、彼等医熊人(パン・ジャヴァン)が戦闘力に長けた一族であるからに他ならないのだから。
 今も彼等の庇護の元、野の妖精であるポレヴィークやポールドニツツァが、 純白の衣を翻しつつ所狭しと薬草の世話を行っているのが見える。
 そう、見た目だけならば本当に長閑な光景なのだ。

「ゴァ? お嬢ちゃん、どっから来たゴァ?」
 景色の美しさにあてられてぼーっとしていると、不振に思ったのか近くで作業をしていた医熊人(パン・ジャヴァン)の一人がいぶかしげに話しかけてきた。
 声と服装からすると女性のようだが、彼女たちを見た目で判断することは難しい。

「……すいません。 キシリアさんに言われて薬草を取りに来たんですけど」
 これ、お土産です。
 そういってカリーナが差し出したのは、樹麗人(ドライアド)と共生している蜂人(ゾウシム)の作り出した特製の蜂蜜。
 見た目どおり、医熊人(パン・ジャヴァン)達はこの蜂蜜がことのほか大好きなのだ。
 ヘタに少量の蜂蜜を持ち込んだ結果、奪い合いの喧嘩が始まってしまう程度には。

「おぉ、おぉ、これはありがたい。 キシリアちゃんのお使いね。 じゃあ、キシリアちゃんのスペースに案内するから、ついてきなさい」
 後ろをついて歩くと、そこには完全に季節を無視した植物がその生長を競い合っていた。
 おそらく妖精達の理力による奇跡だろう。
 彼等の主である医熊人(パン・ジャヴァン)達の能力は薬品生成であり、植物を育てる力は持ち合わせていないのだから。

 だが、基本的にキシリアはその季節にあったものしか収穫しない。
 なんでも、その季節に要求される栄養が、その季節の作物に備わっているからなのだそうだ。
 ちなみに今回の羽衣甘藍(スクマ・ウィキ)は本来夏の野菜であり、彼女からするとずいぶん珍しい注文をしたものである。
 まぁ、こんな事が今までに無かったわけではないし、彼女の気まぐれは今に始まったことではない。

「スクマ・ウィキはここ。 まだちょっと早いから、葉っぱも小さくて柔らかいね。 蕃茄(トマト)ももう少ししたら収穫できるね。 あと、ちょっと終わりかけだけどホウレン草も持ってゆくといい。 前にキシリアちゃんが『一緒に混ぜると苦味や癖を緩和できる』って話していたから、必要になるかもしれないしね」
 ホウレン草を混ぜることは知っていたが、その理由については初耳だ。
 カリーナはそのときになって、キシリアに自分から何か考えて質問した事がなかった事に気づいた。
 ――そっか、キシリアは全部を勝手に教えてくれるわけじゃ無いんだ。

「ちなみにそれはどうやって料理するんだい? ウチの亭主も最近は料理されたモノを食べたいってうるさくてねぇ」
 キシリアのせいで、最近は調理されている食べ物しか食べたくないという魔物も増えているらしい。
 そのうち弁当屋じゃなくて普通の料理店が開けるかもしれないと、キシリアが嬉しそうに話していた事を思い出す。

「まず、刻んだ玉森髭を油と一緒に熱を加えて、透明になったらスクマ・ウィキとホウレン草、あとは好みで塩とスパイスを入れて混ぜ合わせます。 蕃茄(トマト)も一緒に混ぜていいらしいです」
 さすがに分量は覚えていないし、細かい部分は自分で試行錯誤しろってことだと思う。
 店に帰ったら、自分だけのレシピを書き留めるためのノートをお願いしよう。

「へぇえ……そうだね、スパイスなら薬品の調合でも使うからむしろこっちの専門さね。 何かいい配合があったらこちらからも情報提供するよ」
「ぜひ……お願いします」
 案内をしてくれた医熊人(パン・ジャヴァン)の農婦がその辺にいたポレヴィークたちに欲しい作物を告げると、ほんの3回ほど呼吸をする間に両手でも抱えきれないほどの作物が収穫された。

「ふむ、ちょいと多すぎるねぇ。 その量だと持ち帰れないだろう? ポレヴィークたちに頼んでおくかい?」
「いえ……このまま自分で持って帰ります。 案内してくださってありがとうございました」
 とは言うものの、正直荷物が多すぎて前がよく見えない。
 フラフラと危なっかしい足取りで帰ろうとするカリーナを見かね、近くで様子を見ていたポレヴィークがたまらず声をかけた。

「なら、背負い籠を借りてゆくといい。 回収は次に作物を届けるときについでに行うから」
「……ありがとうございます」
 さすがに盗賊が出るような場所をこんな状態で歩くのは抵抗があったのだろう。
 カリーナは素直に好意を受け取った。

 案ずるより生むが易しではないが――それにしても、うまくいったものである。
 お土産にもらった野苺を摘みながら、カリーナは家路をたどりつつ一人呟く。
 正直、向こうから声をかけてもらえなかったらいつまでもじっと農作業を見つめていたかも知れない程度には会話が苦手なカリーナだ。
 実際にはただのお使いにも関わらず、相当緊張していたのだが……こうも順調だと、かえって心配になってしまう。

 そして、事実、トラブルは一番最後に待ち構えていた。

*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*

「お願い! やめて!! 助けて!!」
 森に入って5分ぐらいだろうか?
 聞こえてきたのは、まるで栗鼠が鳴くようなか細い悲鳴だった。

 カリーナはほぼ反射的に息を潜め、自分の存在が周囲に溶け込むイメージと脳裏に描く。
 そして慌てずに足を忍ばせて声のする方向へと向かった。

 ――臭い。
 声の主が近づくにつれ、カリーナの鼻を獣の臭いがかすめる。
 店によく来る蟹漁師の人狼(ウェアウルフ)や近所に住んでいる医熊人(パン・ジャヴァン)とも違う匂い。
 たしかこの匂いは……記憶が間違っていなければおそらく猪人(オーク)
 ――厄介な。
 カリーナは細い眉を顰めて一人呟いた。

 猪人(オーク)は森と草原のどちらにも住む亜人で、獣人に似ているがまったく進化の過程が違う存在らしい。
 ちなみに猪の獣人は"猪神人(ヴァラーハ)"という別の種族がおり、猪人(オーク)と混同すると烈火のごとく怒り出すために注意が必要だ。

 街に住むこともあるらしいが、なぜか街に住むと非常に不潔な存在となり、疫病の発生源になることも多いため差別を受けることが多い。
 繁殖力が非常に高く、人獅子(ヌリシンハ)虎人(フーレン)たちの主食でもある。
 性格は粗暴で衝動的。
 獣相を持つだけあって腕力はかなり強い部類に入る。
 むろんそれは一般論であり、店に来る穏やかで礼儀正しい猪人(オーク)をカリーナは何人も知っていた。
 
 ただ、ここにいるのはそんな礼儀正しい猪人(オーク)ではないだろう。
 紳士的な彼等はこことは反対側の湿気の多い森でキノコ狩りを生業にしているためか、その匂いには複雑なキノコの芳香が混じるのだから。
 おそらくは噂になっている盗賊。

 幸いこちらが風下であるため、彼等の鋭敏に嗅覚に引っかかってはいないようだ。
 風の流れに注意を払いながら足を進め、そしてようやく悲鳴の主を確認する。

 少女? いや、違う……あれは――獣妖(プーカ)
 獣妖(プーカ)は森の妖精の一種で、森の動物に化ける理力を持つ、どちらかといえば力の弱い妖精達である。
 熊にでも化ければ人間の相手ぐらいならできるのだが、猪人(オーク)相手では明らかに力不足。
 その非力さもあって、森の食物連鎖では植物についで最下位に位置する存在だ。
 もしも魔界の住人ならば、彼女等が猪人(オーク)に襲われていたとしてもまったく気にも留めないだろう。
 むしろ自分も晩御飯用に捕獲するかといった感覚だ。

 ――だが、カリーナは違った。

「……やめなさいっ!」
 口にしてから自分で驚く。
 馬鹿なことをしでかした事。
 そして、自分がこんな大きな声を出せることに。

「……なんだ? ほおぉぉぉぉ人間のメスじゃねぇか!」
 だが、そこまでだった。
 猪人(オーク)の注意を引くことは出来たものの、彼女が何かできるというわけではない。
 火神の加護を受け、炎を自在に操ることが出来るとはいえ、それを自分の意志で攻撃に使うという事を彼女は未だに出来ないでいた。

 火の加護を攻撃に用いようとするたびに、生まれて初めて魔物を火で焼いたときの光景を思い出す。
 皮膚が火傷で崩れ、苦悶と呪いの言葉を吐きながら死んでいったあの光景がどうしても脳裏から離れない。
 今思い出すだけでも、胃の中に酸っぱいものがこみ上げてくるぐらいだ。
 それゆえに、今までは"支配の経絡(ニヤントラナ)"と呼ばれる魔道具(アーティファクト)を用いてクリストハルトに攻撃の全てをゆだねていたのだが……。

 そう、彼女は未だ真に勇者とは成り得ておらず、彼女の中は未だにただの少女の部分を色濃く残しているのだ。
 ただの少女では猪人(オーク)と戦うことは出来ない。

「おい、みんな出て来い! 人間のメスが出てきたぞ!!」
 喜色に満ちた猪人(オーク)の声が森の奥に向けられると、それに応えるようにして、潅木を踏み分ける音がいくつもこちらに近づいてくる。
 ――そういえば、猪人(オーク)は元々群れる生き物だった。
 刻々と悪化する状況に、カリーナの頬を冷たい汗が滴り落ちる。

「おお、本当にメスだ!」
「ラッキーじゃねぇか! こいつは食べる前に孕ませてからだな……」
「俺が一番最初だ!!」
「あぁん? 見つけたのは俺だぞ! 勝手言ってんじゃねぇぞ!!」
「それよりも、逃げられないようにさっさと囲みこめ! 逃がしたらテメェの中身の足りない頭を消し飛ばすぞ!!」
 現れた猪人(オーク)は全部で5人。
 全員が屈強な戦士らしく、肩や胸は大きく盛り上がり、筋肉太りした腹はクッキリ6つに割れていた。
 その太い足はカリーナが逃げるよりも早く森を駆け巡るだろう。

「……今、助ける」
 カリーナが視線で合図を送ると、獣妖(プーカ)はしばし逡巡した後に小さく頷いた。
 同時にカリーナは火神の加護を僅かに放って猪人(オーク)の足元を軽く燃やす。

「おわっちゃあぁ!?」
 驚いた拍子に獣妖(プーカ)を掴む指が外れ、その僅かな隙をついて獣妖(プーカ)は一瞬で鹿の姿をとり、森の奥へと走り出す。

「あぁっ!」
「馬鹿! 何やってやがる!!」
 他の猪人(オーク)たちが口々に罵声を放ちながら獣妖(プーカ)を再度捉えようとするが……

 ――そんな事はさせない!
 カリーナはその両手を火神への祈りの形にそろえると、炎の壁の加護を祈る。
 次の瞬間、まるで空中を真紅の布が踊るようにして灼熱の壁が猪人(オーク)たちの行く手を遮った。

「な、なんだ!?」
「この女、魔術師か!?」
 正しくは勇者なのだが、猪人(オーク)たちにそんな違いが判るはずもない。
 
「た、立ち去りなさい! 今すぐに!!」
 震える声で、恐怖しそうになる心を懸命に押さえつけて、カリーナは彼女の中にある"ありったけの感情"を武器にして猪人(オーク)たちにたたきつけた。

「はン、こいつ震えてるじゃねぇか!」
「くくく……その余裕がいつまでもつか見ものだ……ぷぎゃっ!?」
 次の瞬間、カリーナの放った炎の壁が前に押し寄せてその猪人(オーク)の鼻面を焼く。

「は、早く立ち去りなさい。 わ、私がコントロールを間違えてこの森ごと灰に変えてしまう前に!!」
 事実、炎の壁はカリーナの意志を外れようと怒りもだえている。
 この炎自体が彼女に加護を与えし火神"太陽の嗣子(スヴァロギッチ)"の一部であり、カリーナに敵するものに対して激しい敵意を抱いているのだ。
 何の制御もなしに解き放てば、森どころかこの国が全て消えるまでその聖なる炎を放ち続けるだろう。
 返す返すも人が扱うには過ぎた力である。
 直接攻撃に使うことは出来なくても、こんな足止めのような使い方ならばまだ恐怖に耐えられる。

「ま、まずい……こいつ暴走するぞ!」
 そのいつ狂うか判らない不安定さを見て取ったのか、猪人(オーク)の顔にようやく焦りが見え始めた。

「はやく……逃げて……もぅ……もたない」
 苦しげに声を出すカリーナだが、実は半分ほど演技だ。
 まぁ、たかが猪人(オーク)にこの演技を見破られることはないだろう。
 なにせ……あまり自慢にはならないが、神殿関係者にこの力を当てにされないよう、なんども練習を繰り返して暴走する手前のフリをやってきたのだ。
 そもそも、破壊の権化である悪魔の炎ならばともかく、自ら意志を持つ神の炎がそう簡単に神子を無視して暴れたりするはずが無いのに、知らないというのはなんとも哀れなものである。

「に、逃げろ!」
「嫌だ! 俺は死ぬ時はキシリア様のチャーシューになるって心に決めているんだ!」
「お、俺このピンチを切り抜けられたら故郷の彼女に告白……」
「「そこ、今すぐ黙れ!!」」
「そもそもお前に彼女いないだろ!」

 口々に妄言を吐き散らしながら逃げてゆく猪人(オーク)たちの背中を見送りながら、カリーナはふーっとため息をついてその場にへたり込んだ。
 なにげに、一人で魔物を撃退したのは始めてである。
 ――なんとかなるものだね。
 まさか、未だに勇者になりきれない自分にこんなことが出来るとは思ってもみなかった。

 でも、嬉しいような、悲しいような。
 カリーナはどちらかといえば勇者などになりたくはなかった。
 だが、火神"太陽の嗣子(スヴァロギッチ)"の祝福を受けたことを知った周囲の人間が、彼女に勇者という立場を強いたのである。
 間違っても火神"太陽の嗣子(スヴァロギッチ)"はこんなことのために力を与えてくれたわけではないのに。
 それは家を暖める豊穣の力。 夜の闇と野獣を退け、安心を与える聖なる力。
 ただ、私を慈しみ、見守ってくれているだけの優しい力だったはずなのに。

 ……チチチッ
 ふと聞こえてきた声に顔を上げると、そこには何匹もの栗鼠がこちらをそっと伺っていた。
 いや、あれは栗鼠ではないだろう。
 その目に宿る知性の光が違いすぎた。

「……よかったね、食べられなくて」
 笑いながら手を振ると、栗鼠はびっくりしたように体を引っ込めてどこかへ逃げていってしまった。

 あ……今、私笑ってる?
 それは、ついぞ久しく覚えたことの無い感情だった。

 そうか、私はやはり勇者などではない。
 私がなるべきは勇者ではなかったんだ。
 カリーナはまるで夢から覚めたように目を見開いた。

 カリーナは思う。
 もしかしたら、自分は昔のただの少女には戻れないのかもしれない。
 だが、自分はもっと別のモノに変われるのではないだろうか?
 そもそも、昔の自分は自分の理想だったのか?
 今ならばはっきり"否"と言える。

 自分のなりたい自分、それはきっと勇者とは別の形で人々を救う者。
 押し付けられた勇気などではなく、自分の中から湧き上がる勇気を基に行動にするなら、それはもっと違う名前で呼ばれることだろう。

 命を産みだし、その命を守り、育もうとする者。
 その存在の名は、きっと――

*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*

 帰宅したカリーナを待っていたのは、不機嫌な表情のクリストハルトだった。
「ただいま」
「……」
「おこってる?」
「……怒ってない。 というか、キシリアに怒るなといわれた。 『お前がいつも横にいることで彼女の成長の邪魔になってないか?』ってな。 感情的には納得できないが、悔しい事に心当たりは山のようにある」

 だが……
 それでも彼はカリーナに頼りにされたかったのだろう。

「ねぇ、ハルト」
「……なんだ?」
 仏頂面のままカリーナの荷物を奪い取ると、彼は出来るだけ目を合わせないように半歩前を歩き出した。
 おそらく拗ねているのだろう。
 長い付き合いの中で、カリーナはそんな些細な癖すらもわかるようになった自分が少し誇らしかった。
 そんな彼に、カリーナは告げる。

「私、赤ちゃんほしいな」
 その瞬間、クリストハルトの手から荷物が落ちた。

「お、お、お前、な、何を」
 思わず振り返り、目を見開いて慌てふためくクリストハルト。
 そんな彼に、カリーナはさらに悪戯な笑顔を浮かべてこう告げた。

「……そのうちね」
「あ、あのなぁ」
 変なことを言うと本気にするぞ?
 カリーナが笑っていることに気づき、クリストハルトはため息をつきながら微笑む。
 思えば、彼と出会ってから、カリーナがこんな風に笑うなど初めてのことである。
 ふと、クリストハルトの目が潤んでいることに気づいたが、カリーナはあえて口にしない事にした。
 どうやら思っていた以上に自分は彼に重荷を担がせていたらしい。

「さ、はやく朝ごはん作るよ。 時間がかかったから私もお腹がすいた」
 私は朝は四足で、昼は二本足、そして黄昏には三本の足で歩く者。
 そう、私は人。
 人は流れるときの中でけっして同じ姿や心ではいられない。
 夜明けの光が毎日同じようにやってきたとしても、照らす世界が日々同じものではないように。

「ん? 何だ?」
 気がつくと、玄関に何か小石のようなモノが山盛りになっている。
 先を歩いていたクリストハルトが素早く駆け寄り、その謎の物質を調べ上げ、怪訝な顔をしたままカリーナに一枚の封筒を差し出した。

「なんか解らんが、たくさんの木の実とお前への手紙だ」
 カリーナもまた首をかしげながら手紙を受け取り、そっとその封を開く。
 そこには、たった一言、妖精達の使う文字が記されていた。

 だが、そのたった一言の言葉が、カリーナの胸に温もりとなって大きく広がる。
 なんて素敵な言葉。
 それは、まるでスクマ・ウィキのように日々を生きるための大切な糧。

 カリーナは知らずに自分の手が祈りの形をとっていることに気づいた。
 そしてそっと、そこに記されていた言葉呟く。

「……ありがとう(Diolch yn fawr)
 めまぐるしく変わる世界に、自らに成長という祝福を与えてくれるこの世界に心からの感謝をこめて。
 
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