おいでませ魍魎盒飯店
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間幕:Ir de tapas (軽食屋巡り)
13 এর তরকারি দিন / 13日のカレー曜日)
その日は、夜が開ける前からぶ厚い雲が立ち込めていた。
クミィィィィィン、コリアーンダァァァァァァ、タァァァァメリック……
まるで夜明けが永遠に来ないのではないかと思わせる薄暗い世界の窓辺から、熱に浮かされたかのような少女の声が響き渡る。
彼女は自らの寝室で、ベッドに腰をかけたまま、まるで弔歌のような旋律で先ほどからの謎の呪文を口ずさんでいた。
まるで宗教の儀式のようではあるが、それは似て非なるもの。
よくみれば、少女のその手は何かを我慢するかのようにキツく握り締められ、まるで麻薬の禁断症状のように細かく震えている。
そして、何かを弔うかのように、または何かの執着を堪えるかのように、先ほどの歌を陰々と窓の外へと解き放つのだ。
クミィィィィィン、コリアーンダァァァァァァ、タァァァァメリック……
メティィィィィイ、ジィンジャアァァァァ、カルダモォォォォォ……
そこで少女の声がピタリと止まった。
「……あぁ、やっぱり我慢できない。 奴らには死んでもらおう」
次の瞬間、彼女の姿はまるで幽霊のようにベッドの下を突き抜けてその場から消え去った。
*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*
その頃、少女の部屋の隣では一匹の雌が敗北感に打ちひしがれていた。
「うぅっ……屈辱だわ。 まさか、この私がこんなにも容易く……」
全身の気だるさに押しつぶされたまま、彼女――フェリクシアは、うまれたままの姿でベッドの上に横たわっていた。
その隣には、同じく全裸の逞しい巨漢が一人。
「ふん。 どうやらまだお仕置きが足りないようだな」
そう呟くと、男――クリストハルトは死角から伸びてきた蠍の尻尾を掴み取り、フェリクシアをジロリと睨む。
針の先端からだらしなく垂れ流されるのは、一滴で象をも麻痺させる痺れ薬。
その蠍の尻尾は、言うまでもなくフェリクシアの腰から伸びているモノだ。
クリストハルトが体を起こすと、フェリクシアは力の無い緩慢な動きで怯えるように後ずさりしようとし、逃げ場がない事に改めて気づく。
「い、いやっ! ダメ、お願い、もう許して!!」
「ダメだな。 俺はキシリアから徹底的にヤルように言われているんだ」
――堕ちてもらおう。
甘い囁きと共にクリストハルトの指がフェリクシアのチョコレート色の唇に触れる。
「ほーれ、ほーれ、ここがいいんか? ここがいいんか? あーん?」
「あっ、だめっ、そんなっ……んっ、き、急に指を止めないで……あんっ いやっ、そんな乱暴な……」
「くくく、淫らなヤツめ。 下街の綺麗どころを男女問わず全て屈服された俺の指使い、存分に味わうが良い!!」
そういって彼が優しく愛撫するのは、フェリクシアの……顎の下。
「ほーれゴロゴロするがいい」
ゴロゴロゴロゴロ
ゴロゴロゴロゴロ
「だっ、ダメっ! あぁっ、私はキシリアのものなのにっ!」
「口では強がっていても、体は正直だな」
ゴロゴロゴロゴロ
ゴロゴロゴロゴロ
すでにお気づきだろうが、彼の言う"綺麗どころ"とは、人間界の下町に住む野良猫たちのことだ。
まぁ、人間相手でも相当な"戦果"を上げている彼だが、人生の棺おけに肩まで埋まっている今となっては……すでに過去の話として葬りたい話題である。
今その話をしたならば、フェリクシアの体の向こうでキスマークだらけの状態で昏睡しているカリーナに何をされるかわからない。
「くっ、屈辱よっ! こんなのセクハラだびゃっ!? う、訴えるわにょっ!?」
「しらんなぁ? 俺は単に、キシリアから"夜這いにくる不埒者を退治してほしい"と頼まれただけだし」
意地悪な台詞と共に、彼の指使いが激しさを増す。
「あひゃあぁぁぁぁ らめぇぇぇぇぇぇぇ」
「体を無防備に開いて言う台詞じゃねぇなぁ」
ちなみに、彼がなぜフェリクシアを捕獲しているかと言うと……
何のことはない。
毎夜フェリクシアの夜這いに悩まされていたキシリアから相談を受けた結果であった。
恐ろしい事に、別に腕力で撃退できない事も無いのだが、さすがに女性を殴るのは主義にあわないという理由で、こんなセクハラそのものな手段を講じている。
……それにしても、魔獣の頂点に近い生き物であるマンティコアを屈服させるとはすさまじい指使いもあったものだ。
彼なら、愛撫でドラゴンを倒せるのかも知れない。
「それに、ライオン相手に愛撫してセクハラになるのか?」
そう、マンティコアであるフェリクシアの"生まれたままの姿"は、当然ながら蝙蝠の羽とさそりの尻尾のついたライオンである。
色気もナニもあったものではない。
ついでに彼が全裸なのは、単に寝るときは裸で寝る主義という理由と、フェリクシアが忍び寄ってくる寸前までカリーナとモニョモニョしていたからだった。
いわゆる『昨夜はお楽しみでしたねっ!』……である。
深くは追求すまい。
「ま、まんてぃこあらみょん! たでゃのりゃいおんじゅにゃいんでゃきゃらゃあぁぁぁ……」
「何いってるのかわかんねぇよ。 人間の言葉を覚えて出直してきなっ!!」
クリストハルトの神レベルの指使いに翻弄され、フェリクシアの意識が水に浸した塩のように溶けてゆく。
「ふにゃあぁぁぁぁぁぁぁ……」
やがてフェリクシアが完全に白目をむいたことを確認すると、クリストハルトはようやくその攻撃を止めた。
「さぁてと……気が付いたらもぅ夜明け前じゃねぇか。 俺もちょっと寝るかねぇ」
裸のまま大きく伸びをすると、クリストハルトは毛布をひっかぶって意識の無いカリーナを抱き寄せる。
あぁ、やっぱりこいつが一番だ。
俺の最愛の抱き枕。
どんな美女でも及ばない。
こいつの隣で眠る夜が一番心安らぐ。
――だが、そこでふと気づく。
「なんだ? この匂い」
彼の鋭敏な嗅覚は、ドアの入り口から流れてくる馴染みの無い刺激臭を捉えていた。
そして、耳を澄ませば下の厨房の辺りからザリザリと何か砂利を擦るような音がする。
「う……ァ……」
続いてフェリクシアが半濁した意識のまま薄目を開けて……
「こ、この臭いは!? ひ、ひいぃぃぃぃぃっ!!」
「どうした!? フェリクシア!!」
突然ベッドから飛び上がったフェリクシアに、クリストハルトが緊迫した声でたずねる。
――体力はほとんど使い果たしたはずなのに。
その残り僅かな体力を消耗してでも飛び起きなければならない事態が起きているというのか!?
クリストハルトの体が緊張で強張る。
「"カ"の日だ。 "カ"の日が来てしまったんだ! に、逃げないと! できるだけ遠くに逃げないと!!」
「待て! フェリクシア!!」
クリストハルトが留める間も無く、フェリクシアは弱った体に鞭を打ち、窓の外に体を躍らせた。
――あぁぁぁぁぁ
だが、クリストハルトとの戦いにより、体力を極端に消耗していた彼女に空を翔るだけの力が残されているはずもなく、悲痛な叫び声と共にフェリクシアの体は窓の下に消えていった。
「フェリクシア!!」
慌てて駆け寄ったクリストハルトの見た光景は……
グライダーのように滑空しながら裏庭にフラフラと落ちてゆくフェリクシアの姿だった。
「……あ」
その行く先には、大きな樫の木が一本。
ゴチン!
硬い樹木にしたたかに頭をぶつけたフェリクシアは、そのまま崩れるように地面に墜落していった。
「……あれは痛ぇわ」
敷物になった動物のような状態で突っ伏しているフェリクシアを見下ろし、クリストハルトは興味を失ったようにボソリと呟いた。
「とりあえずほっといていいか。 野生動物だから野外で寝ても風邪ひかんだろうし」
正しくは魔獣である。
いずれにせよ風邪は引きそうにないが。
それにしても、いったい何をあんなに脅えていたというのだろうか?
――何事も起きるはずはないのに。
魔王でもこない限り、キシリアの理力によって守られたこの屋敷の中で無体を働くことは出来ないのだから。
俺だ起きたときにまだあのままだったら、朝食前に起こしてやるか。
心の中でため息をつきながら、クリストハルトは窓を閉じた。
*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*
今朝から厨房に漂うなんとも魅惑的な香り……これはいった何だろう?
カリーナは、その香りの源である寸胴鍋を見つめ、首をかしげた。
勇者として訪れた各国の宮廷料理でも、ここまでおいしそうな香りのするものは記憶に無い。
もしも出会ったことがあるならば、こんな特徴的な香りを忘れるはずが無かった。
おそらく複数の香りの高い材料を混ぜ合わせているのだろう……
あまりにも複雑すぎてこれが何を材料にしているのかは不明だったが、使われている材料の一つはおそらく牛肉……もとい、ここ魔界ではボコナンという牛に良く似た魔獣の肉が流通しているから、その魔獣の肉だろう。
ちょっぴり味見をさせてもらえないだろうか?
銀色に輝く鍋を見つめてカリーナはふとそんな事を考えた。
お菓子作りにも興味はあるが、やはり食べるものは何でも興味深い。
それに、キシリアの作るものは人間界の王宮料理ですら賄い以下に思えるほど美味しくて洗練されている。
――まるで別の世界から来た人のようだ。
時々、人間界では"転生者"と呼ばれる存在が生まれる事があり、その人たちは常にはありえない力を持ち、本来知るはずも無い知識を語ることが出来るという。
ちなみにカリーナやクリストハルトは、そんな転生者の直系の子孫にあたり、先祖帰りをしたために人間界の"転生教会"に強制的に捕縛された経験がある。
もしかしたら、キシリアもそんな転生者の直系だろうか?
もしくは、転生者そのもの……
いや、考えても意味が無い。
キシリアはキシリアだ。
それにしても、今回の料理は格別においしそうな匂いがする。
何か……こう……喉の奥から、いや魂の奥から渇望するような……
カリーナは口からあふれ出しそうになってる涎に気づき、あわててそれを飲み込んだ。
「おーい、カリンカ! そろそろ店をあけるらしいぞ!! はやく猫耳カチューシャつけて表に行け!!」
「うん。 今行く。 ちょっとだけ待って!」
カリーナは、猫獣人にカモフラージュするための猫耳カチューシャ(キシリア謹製)と、猫尻尾(同じくキシリア謹製)を身につけると、小豆色の分厚いロングスカートを翻してその場を去ろうとした。
ちなみに近場で見れば判る程度のこの仮装は、客を刺激しないための用心だ。
別に隠してもいないので、カリーナたちが人間であることは、すでに客たちも知っている。
その時だった。
――レェェェ カ……ェェェェェ カ……をよこせぇぇぇぇ
何!? この声!!
カアァァァァァァ レェェェェェェェェェェェェ
いったいこの声はどこから?
見回すが、声の主は見つからない。
まさかスプライト?
いや、いくら姿隠しの理力を持つ微かなる者でも、キシリアの統べるこの屋敷の中に勝手に入ることは出来ないはずだ。
なら、いったい誰が!?
あぁぁぁ……喰いたい! 喰いたいぃぃぃぃぃ……
やはり獣のようにひび割れた男の声が確かに聞こえる。
だが、その音源はあまりにも近い
――まさか、これは自分の頭の中から響く声!?
その恐るべき事実に行き当たった瞬間、声はピタリと静まった。
「おい、何してるんだ? はやくこないとあのドSが何するかわかんねぇぞ」
「あ……ゴメン。 なんでもない」
なかなか出てこないカリーナに業を煮やしたのだろう。
奥のほうからクリストハルトがわざわざ様子を見に来たようだ。
「そっか。 なら、急げよ」
「ねぇ、ハルト」
「……なんだ?」
「その格好、似合ってるよ。 なんか、かわいい」
カリーナが猫獣人の仮装ならば、クリストハルトは虎獣人のギャルソンのような格好にさせられていた。
白いシャツと黒いパンツ、そして黒のソムリエエプロンという姿なのだが、元のスタイルが良いためになかなか様になっている。
カリーナも密かにお気に入りだ。
しかし、なぜ虎の耳と尻尾が付けられたかと言うと……特定条件化でのみ社交的なクリストハルトが、個人的に仲良くなった虎人たちよりリクエストを受けた結果である。
ちなみにそれに嫉妬した人獅子からも人獅子バージョンの要請があったことは言うまでもない。
「やかましいっ!! 好きでやってるわけじゃねぇよっ!!」
「ふふふ……照れてる。 ちなみに私はちょっと楽しいかも」
背伸びをするようにして、背の高いクリストハルトの腕を取り、店の表に出ようとしたときだった。
「ギニャアアァァァァァァァァァァっ!!」
まさに断末魔としか表現でない、すさまじいオス猫の悲鳴。
「……ポメ?」
この微妙な声の掠れ具合は間違いない。
――またキシリアにお仕置きされたのか?
最初は誰もがそう思ったが、表で弁当を売る準備をしていたキシリアにいつものドSスマイルは浮かんでいない。
「カリンカは店に出てくれ。 俺は様子を見てくる」
そういい残すと、クリストハルトは奥の部屋へと戻っていった。
カリーナもしばし躊躇したが、結局は奥のことはクリストハルトに任せるという決断を下し、キシリアの手伝いをするために表のほうに駆け出してゆく。
そして30分後……
現場に戻ったカリーナが見たものは、口から泡と茶色い液体を吐き出しながらピクリとも動かない、変わり果てたポメの姿だった。
*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*
弁当を売り切った後、カリーナが店の奥に戻ってくると、マルが動かないポメの周囲をチョークの白線で囲む作業をしているところだった。
「……なにしてるの?」
「んー 事件の調査だニャ」
「やっぱりよく判らない。 意味不明」
「えー 被害者はポメ・ケットシー・リージェン。 雄、24歳。 趣味は風俗通い。 彼女いない暦……」
「そこは伏せてやれ。 武士の情けだ」
個人情報を躊躇なく読み上げるテリアを制し、クリストハルトは被害者に近寄って観察を始めた。
「事件があったのは、およそ30分前。 外傷はなく、何かと争った形跡も無し。 凶器は不明だが、指や口に付着している茶色のコロイド状の物質が原因と思われるニャ」
「確かにおかしな事件だな。 いったい何があったというんだ? おい、キシリア! お前何か知ってるだろ!!」
たしかに、この家で発生したことならばキシリアが知らないはずは無い。
振り向けば、キシリアはさもつまらなさそうな表情でこちらを伺っているところだった。
「知ってるけど、アホらしくて話す気にもならん。 探偵ごっこがしたかったら勝手にやってろ。 どうせ午後からはしばらく暇だ」
そう告げると、彼女は今日の売り上げの計算をするために、小さな金庫を持って二階に上がってゆく。
とりあえず捜査の協力は得られないらしい。
「それにしても、何だ? この茶色い物質は……なんか、匂いをかいでいると心の奥底がザワザワとするような……」
「あ、ハルトもそう思う?」
「あぁ。 初めて嗅ぐのになにか懐かしいというか、頭の中がざわめくというか」
「んー 別に俺たちはそんな感じはしないニャ。 むしろ、このピリピリした匂いを嗅いでいると寒気を覚えるというか……」
「とりあえず、気絶してるポメはどうするにゃ?」
「十分楽しんだから、ベッドにでも放り込んでおけ」
「あいあいさー だニャ」
相変わらず意識の無いポメを担ぎ上げると、マルとテリアは寝室へと消えていった。
「キシリアが変なことをするのはいつもどおりだが、今回はとりわけ謎が多いな」
「……そうだね」
残ったクリストハルトと二人で首をかしげていると、不意に上からキシリアの声が降ってくる。
「クリストハルト! よかったら今晩の晩御飯に、お前の友達も呼んでいいぞ」
「珍しいな? 何人ぐらいまでならかまわないんだ? たぶん呼んだら10人ぐらい押しかけてくるぞ」
「問題ない。 たっぷりと用意してあるから、好きなだけ呼べ」
なんとも気前のいい話である。
「珍しいね」
「あぁ、本当にな。 とりあえず、俺は雨がまた振り出す前に近所の知り合いに声をかけてくる!」
そう告げると、クリストハルトはエプロンを外しただけの姿で外に飛び出していった。
傘を持って行けという忠告も間に合わない。
そして、一人残ったカリーナは、しばし迷った後にずっと気になっていたことをたずねることにした。
「ねぇ、キシリア」
「なんだ?」
「この、大きな鍋に入っているモノ、何?」
この私を魅了して止まないかぐわかしい存在。
その正体への疑問は、時間がたつにつれて大きくなってゆく。
「あぁ、それは……」
その時、不意に雷鳴が鳴り響き、外は土砂降りの雨が降り出した。
キシリアの告げたその名は、カリーナの頭の中に何度も反響し、その深い魂の奥底に眠っていたモノを静かに呼び覚ます。
「そう、それはとても楽しみね。 夕飯がとても待ち遠しいわ」
あぁ、クリストハルトはきっとずぶ濡れになって帰ってくるだろう。
お風呂を用意しなくては。
かの聖なる晩餐を味わうのなら、風邪をひいて味覚がおかしくなるなんて無作法は許されない。
微かな意識の混濁を感じながら、カリーナは風呂に水を張るべくその場を後にした。
*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*
「「おじゃましまーすだガオ」」
時刻はすでに18時を過ぎ。
相変わらず外は土砂降りの雨ではあるが、その暗い雰囲気を打ち破るかのように野太い声が飛び込んできた。
ちなみに語尾に「ガオ」とつくのは、虎人や人獅子に多い部族語のせいである。
クリストハルトにつれられてやってきたのは、どれ屈強な体を持つ獣人族の男たちだった。
虎人に人獅子に聖豹人……他にも医熊人や神猿人まで混じっている。
全員がなぜか傷だらけのボロボロで、彼等を連れてきたクリストハルトも同じような状態だった。
――午後からずっと帰ってこなかったところを見ると、どうやら雨宿りについでに出稽古をしてきたようだ。
「ようこそ、いらっしゃい。 よかったら、屋根付きのお風呂場がありますので、先に汗を流してきていただけますか? その間に食事の用意を整えますので」
出迎えたのは、猫かぶり1000%のキシリア。
普段の口調を知っているだけに、身内の面々は思わず顔が引きつっている。
「「あざーっス」」
キシリアの正体を知らない獣人族たちは素直にその提案を受け入れ、ぞろぞろと連れ立って風呂場に入っていった。
いったい何故キシリアは彼等を呼んだのだろう?
気にならないわけでもなかったが、あいにくとカリーナは先日教えられた『美味しいナンの焼き方』の実践にかかりきりだった。
ちなみに金雨草の実の炊き方はまだ早いといわれたためにまだ教わっていない。
ただ、今日の金雨草の実はいつもと違ってヒマワリのように鮮やかな黄色をしている。
なんでも、サフランライスというらしいのだが、よほど特別な材料を使っているのだろう。
キシリアの作業はいつ似なく緊張を孕んでいた。
そして40分後……
「いいお湯だったガオ」
「おー なんかおいしそうなボコナン肉の臭いがするゴァ? あと、オークの匂いもするし……おお、テンチャー肉まで!! すげぇご馳走だ!!」
「くー キシリアちゃん、オラんところ嫁にきてくんねぇゴァなー」
ご機嫌な獣人族たちは、キシリアが草の繊維を理力で加工した即席の服に身を包み、全身から湯気を立てつつ食堂にやってくる。
そして彼等を出迎えたのは……
「おぉー これは何でゴァすか?」
「むっちゃおいしそうな香りがするガオ」
なんとも独特の芳香を放つ茶色のシチュー。
それに添えられているのは、小麦とバターから作られた板状の食物……ナン。
さらに、薬草の雌蕊から取れる色素で黄金の色を帯びた粒状の作物……サフランライス。
「ちょっと刺激の多い食べ物なので、自信の無い方はこの蜂蜜やヨーグルトを入れて食べてくださいね」
にこやかな笑顔で対応しつつ蜂蜜やヨーグルトの入った皿を差し出すキシリアだが、そこは荒くれ者の獣人族たち。
誰一人として蜂蜜やヨーグルトに手を伸ばすものはいなかった。
やがて全員が席に着き、一人で給仕を担当するキシリアが全員に蜂蜜酒を配り終えると、いよいよ乾杯への段取りとなる。
そしてキシリアからのご氏名で、クリストハルトが乾杯の音頭をとる事になり……
「では、今日の食料に感謝して……」
「「カンパーイ!!」」
全員が即座に蜂蜜酒で喉を湿らせ、今日のメニューである茶色のシチューに口をつけ……
「「辛ぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」」
全員が絶叫し、泡を吹いて倒れた。
ただ一人、クリストハルトを残しては。
「ちっ、やはりまた失敗したか」
キシリアが忌々しげに悪態をつく。
彼女が作り上げたこの料理は、カレー。
言わずと知れたスパイスを混ぜ合わせた料理なのだが、生肉を香辛料なしで食べる人間以外の動物にとっては、ほとんど劇薬といっていいほどの刺激物である。
昼にポメが失神したのは、このカレーをこっそり盗み食いしたからだ。
おそらく、これを食べて平気なのは人間であるクリストハルトとカリーナのみであろう。
以前普通に作ったカレーを食べたフェリクシアはすっかりトラウマになっていて、主原料の一つであるクミンやターメリックの匂いを嗅いだだけで慌てて逃げ出す始末である。
「あー 一応はカイエンペッパー抜いたりして獣人族でも食えるものをと思ったんだが、まだ辛かったか」
そう呟くと、彼女は真っ赤な粉末を自分用のカレーに振り入れてかき回し、ご飯の上に流し入れた。
「うん。 美味い。 こんな美味いものが喰えないなんて、なんて不幸なんだ」
「……その通り!」
一人納得するキシリアに、力強く同意する声があった。
クリストハルトではない。
……その声の主はカリーナ。
「あぁぁ……この味、マジでカレーだよ!! 500年ぶりだよ! ンメぇぇぇぇたまらん! おかわりぃっ!!」
そこにいたのは、カリーナの姿をした別の誰かだった。
「ちょっと、調子こいてんじゃないわよ! あ、アタシにもおかわり!!」
続いて飛び出した女言葉の主は――クリストハルト!?
「まて、そのチキンカリーは俺様のものだ!」
「すっこんでなさい、そこの中国人!! 横浜の中華街育ちで中華漬けのアンタが日本の魂であるカレーを語るなんて100年早いのよ!!」
「なんだと? 血筋は中国人でも、俺は立派な日本育ちだ!! しかもカレーは我が神奈川こそ本場! 横浜の海軍カレーを知らんのか!? それに貴様だって実家は京都の和食料理屋だっただろ! 和食漬けのお前にカレーを愛でる資格などないわっ!! おとなしく酸っぱくて薄い味の味噌汁でも飲んでろ!」
「なんですってぇっ!? 日本書紀に、日本人は和食とラーメンとカレーを同時に愛することが許されているって書かれていることを知らないの!?」
「知るか、ボケぇっ!! つべこべ言わずにそのチキンカリーをよこせ!!」
「誰がよこすか! これは私のものよ!! そっちのビーフカレーもねっ!!」
どうやら、この二人はクリストハルトとカリーナの先祖の……おそらく残留思念のようなものだろう。
そういえば、500年前に剣姫などという恥ずかしい名前で呼ばれた女戦士の勇者と、炎王という痛い名で呼ばれた男魔術師の勇者が魔界を散々荒らしたという記録があった気がする。
今までの経験から、周りの様子を見てから食べようとしたマルとテリアはしっかりと生き残っており、テーブルの下でコソコソと密談を交していた。
おそらくこの展開なら、次は……
二人は同じ結論に達すると、そそくさとその場を逃げ出した。
「ゴルァ、そこのガキ共! 俺の食堂で暴れるたぁ、いい度胸だな、おい」
その瞬間、窓の外に稲妻が落ち、食堂を大きく振るわせた。
その衝撃で、ランプの明かりが全て吹き消されてしまう。
「だ、誰だか知らないがこの炎王に口を挟むなど……ヒッ!?」
「な、何、この威圧感……まさか、魔王なの!?」
カリーナの男口調はともかく、クリストハルトの女言葉はなかなかに破壊力がでかい。
耳にゴゴゴと効果音が聞こえそうなほどの気迫を纏い、争う二人の間に割って入ったのは、この屋敷の主であるキシリアだった。
「そんなにカレーが食いたくば、好きなだけ食わせてやろう。 ほら、遠慮するな」
そう告げながら、キシリアは大皿一杯の凶悪唐辛子の粉をカレー鍋にぶちまけた。
「「ヒィッ」」
あまりにもの恐ろしい光景に、周囲の温度が氷点下まで急落する。
「さぁ、食え。 お残しはゆるさんぞ」
その後、絶大な精神ダメージを受けた勇者の残骸たちはおとなしく子孫の魂の奥へと逃げ帰り、呼びかけても答えることは無かったという。
*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*
「なぁ、あの日の晩飯のとき、いったい何があったんだろう? ぜんぜん覚えてないんだが」
「……私も記憶に無い。 キシリアに聞いても答えてくれない」
全てが終わったその日の朝、クリストハルトとカリーナの二人は怪訝な顔をしたままお互い首を捻るハメになっていた。
ちなみに二人は5日ほど寝込んで意識がなかったらしい。
目覚めた後はなぜか胃がキリキリと痛み、不気味なぐらい上機嫌で愛想のよいキシリアから、胃に優しくて非常に美味しい御粥を振舞われたので結果的に損をした気分ではないのだが、どうにも釈然としないのは事実だ。
なお、連れ込まれた獣人族の面々は、カリーナたちが目覚めた数日後前に意識を取り戻しており、クリストハルトたちが目を醒ました後で何故か泣きながらこの店を後にした。
……なにか悲しいことがあったのだろうか?
そしてこの事件から数日後、キシリア店で『犬猫でも食える優しいカレーのお姫様』が発売された。
今のところ売れ行きは好調である。
なお、いつの間にか所在不明になっていたフェリクシアは、未だに帰ってこない。
後書き
(゚∀゚)ノ[薬膳ちょこっとメモ No.7]
はい、みんな大好きカレーです。
……ウチの家族には二人ほどカレー嫌いがいますけどね(ケッ)
さすがにカレーに関して人に語るほど愚かではないので、今回はカレーの主成分であるスパイスの属性について軽く述べるだけにします。
『姜黄』= ターメリック
【性 味】 温 / 辛 苦
【帰 経】 肝臓 脾臓
【働 き】 生理不順、生理痛、閉経、五十肩、胸や脇の痛み、胃の痛み、リウマチ、外傷
【禁 忌】 妊婦には与えないこと。
貧血を起こしている人には利用を控えましょう。
苦味が強いので、基本的に料理には向きません。
カレーに入れるときは、最初に油に漬けて十分加熱すること。
長期にわたって使用すると、消化器官に以上が発生することがある。
『馬芹』= クミン
【性 味】 温 / 甘 辛
【帰 経 肝臓 心臓 脾臓
【働 き】お腹が冷えた時の痛み、月経不順、腎臓の衰弱による排便の異常、下痢に効果があります。
【禁 忌】痔や便秘を患っている人には使用を控えてください。
また、体に熱を篭らせてしまうので、夏バテで食欲の減退している人にも使用は控えましょう。
『胡荽』= コリアンダー
【性 味】 温 / 辛
【帰 経】 肺 胃 脾臓
【働 き】 表面に出る前の軽い蕁麻疹を止める。 発汗を促す。 気が滞ってモヤモヤした気分をサッパリさせます。
【禁 忌】 ホルモンバランスに影響するという説があるので、妊婦や子供への投与は控えましょう。
『小荳蒄』= カルダモン
【性 味】 温 / 辛
【帰 経】 胃
【働 き】 芳香健胃作用、消化促進作用、強壮作用、解熱作用
【禁 忌】 不明
『肉荳蔲』= メースもしくはナツメグ
【性 味】 温 / 辛
【帰 経】 脾臓 胃 大腸
【働 き】 内臓の冷えによる腹痛、腹の膨張感、食欲不振 嘔吐
【禁 忌】 体に熱が溜まっていたり、熱と下痢を併発しているときは使ってはいけない。
大量に摂取すると幻覚を引き起こす。
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