スペードの女王
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第一幕その四
第一幕その四
「だがゲルマン」
トムスキーは思い詰める彼にまた言った。
「その女は君のことを知っているのかい?」
「いや」
ゲルマンはその言葉に首を横に振る。
「多分・・・・・・」
「そうなのか」
「知らないと思う。けれどそれでも僕は」
気持ちが抑えられないというのだ。
「彼女を忘れることなんてしない。忘れる位なら死んでやる」
「そこまで言うのか」
「僕は本気だ」
やはり思い詰めた顔であった。
「何があっても」
「わかった」
そこまで聞いたうえでトムスキーは言った。
「では彼女は何処にいるんだい?いつも」
「よく寺院にいる」
「寺院に」
「聖イサーク寺院でよく見る」
「じゃあ今からこちらへ行こう」
「ついて来てくれるのかい?」
そう問う。
「僕も乗りかかった船だ、同行しよう」
「すまない」
「いいさ、君には仕事で結構助けてもらっているしね」
ゲルマンは軍人としては評判がいい。真面目で実直な将校として知られている。
「だから。行くか」
「うん」
二人は庭園を後にして金色のドームのある寺院に向かった。大理石と花崗岩でできている荘厳な趣の寺院である。言うまでもなくロシア正教の寺院である。
「ここなんだね」
「うん、この時間でもよく見る」
ゲルマンは答えて言う。
「それじゃあ」
「もう少し待っていれば・・・・・・あっ」
「どうしたんだい?」
「彼女だ」
ゲルマンは青いドレスを着た小柄な女性を見て言った。
「間違いない、彼女だ」
「そうか、彼女なのかい」
「うん」
その女性は楚々とした外見に白い顔をしていた。茶色がかった黒髪はやや巻いており黒い目には何故か憂いがあった。何処か儚げな女性であった。
「彼女なんだ」
ゲルマンは言う。
「彼女が僕の」
「そうだったのか」
「彼女を見たことはあるかい?」
「いや」
それには首を横に振った。
「ないね。悪いけれど」
「そうなのか」
「ただ・・・・・・んっ!?」
寺院から赤い服を着た金髪のがっしとした体格の大男が出て来たのを見た。トムスキーは彼は誰なのかは知っていた。
「エレツキー公爵だ」
「エレツキー公爵!?」
「そうだ、女帝の部下であったからだ」
「そうか、陛下の」
エカテリーナ女帝は多くの愛人を持ったことで知られている。美男子を愛し、その中にはロシアの名将セバストポリ公爵ポチョムキンもいた。愛人でもあり腹心の部下でもあったのだ。
見ればエレツキー公爵も美男子である。少なくとも女性の眼鏡に適う顔ではある。ゲルマンとはまた違った美男子である。
「彼もここに来ていたのか」
トムスキーは彼を見て呟く。
「何かあるのかな。あまり教会には来ない人物だというのに」
「誰かの付き添いなんじゃないかな」
ゲルマンは何気なくこう応えた。
「それなら」
「そうかもな。じゃあ・・・・・・んっ!?」
「どうしたんだい?」
「いや、その公爵だけれど」
トムスキーは言う。
「見ろ、彼女の方に」
「まさか・・・・・・えっ」
その通りだった。公爵は彼女の方に歩いて行く。
「どうして公爵が彼女に!?」
ゲルマンは声をあげる。
「どういうことなんだ」
「待て」
トムスキーは声をあげる友を制止した。
「ここは静かに。いいな」
「・・・・・・ああ」
ゲルマンもそれに従った。そして様子を見ることにした。
「公爵」
その少女は公爵ににこやかな顔を向けてきた。
「あの笑顔」
ゲルマンはそれを見ただけで顔を歪めさせた。
「僕のものであればいいのに」
「静かに」
そんな彼をトムスキーは窘めた。
「いいな」
「あ、ああ」
頷く。そしてまた彼女を見る。
「如何ですか、御気分は」
「実にいい気持ちです、リーザさん」
「リーザというのか」
トムスキーはその名を聞いて呟いた。
「聞いたな、ゲルマン」
「・・・・・・ああ」
ゲルマンは物陰でこくりと頷いた。二人は物陰に隠れてそのリーザと公爵を見ていた。今隠れたのである。
「彼女はリーザというそうだ」
「リーザ・・・・・・いい名前だ」
ゲルマンはその名を呟いていた。
「覚えたよ、その名前」
「そうだな。それで」
「貴女の御婆様には感謝しておりますよ」
公爵はそんな二人に気付くことなくリーザに対して述べた。
「私達の婚約を許して下さって」
「はい」
「婚約だって」
それはゲルマンが最も聞きたくない言葉であった。
「そんな・・・・・・彼女が他の男のものになるなんて」
「だから落ち着けって」
トムスキーはまた彼を止めた。
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