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スペードの女王

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第一幕その三


第一幕その三

「だからか」
「ああ、そうさ」
「しかしずっと見ているだけというのも」
「おかしな話だ」
「そうだな・・・・・・んっ」
 チェカリンスキーはここで公園にやって来る。二人の軍人に気付いた。一人は顔を上げ、もう一人は俯いている。その俯いた顔は整っているが非常に暗く塞ぎ込んだものであった。
「噂をすればだな」
「そのゲルマンか」
「ああ、相変わらず陰気だな」
「そうだな。まるで何かに取り憑かれたみたいだ」
 二人はその俯いた男を見てそれぞれの口で言った。
「昨日の夜もああだったよ」
 スーリンは彼を見ながらそう述べた。
「ずっとあんな様子でね」
「そうか」
「しかし。あのままで大丈夫かな」
 スーリンはゲルマンのその顔に只ならぬものを感じていた。声には不吉を感じるものがあった。
「彼は。明らかにおかしい」
「そうだな。いずれ恐ろしいことになるかも知れない」
「それが破滅でなければよいけれど」
 だがゲルマンにそんな話は耳には入らなかった。彼は俯いたままで同僚と共に歩いていたのであった。
 赤い髪をした長身の男が彼に声をかけていた。目は青で凛々しい顔をしていた。彼の名をトムスキーという。
「なあゲルマン」
 彼は心配そうにゲルマンに声をかけていた。
「最近どうしたんだ?」
「いや、別に」
 奇麗な金髪をなびかせた緑の目の男がゲルマンであった。白く中性的な顔をしていてそれが実に悩ましげだ。身体は細身であり軍服はまるで貴族の礼装の様にも見える。軍人というよりは俳優の様な感じた。美しい。だがそれ以上に暗い影が彼を覆っていた。
「そうか?僕にはそうは思えないが」
 トムスキーはさらにゲルマンに対して言った。
「前に比べてずっと暗くなったし賭博場に通い詰めで。何かあったとしか思えないんだが」
「そう見えるのかい?」
「ああ、見えるね。何か悩みでもあるのかい?」
「あるっていえばどうするんだい?」
 トムスキーにその沈んだ顔を向けて問うてきた。やはり理由があった。
「それを聞かせて欲しい」
 トムスキーはそれに応えて言った。
「何が理由なのかをね」
「恋さ」
 ゲルマンはまた俯いて答えた。
「恋・・・・・・」
「そうなんだ、実は」
「そうだったのか」
「意外かい?」
 またトムスキーに顔を向けて尋ねてきた。
「僕が誰かを好きになるのが」
「いや、そうは思わない」
 トムスキーはそれは否定した。
「だが。それは誰なんだい?」
「それがわからないんだ」
 その問いに空しく首を横に振った。
「何処の誰かさえね」
「そうなのか」
「彼女が他の誰かといるんじゃないかと思うとそれだけで嫉妬に狂う。どうしても彼女と一緒にいたいんだ、まだ名前も知らないっていうのに。自分でもどうしていいかわからない程なんだよ」
「ゲルマン・・・・・・」
 トムスキーはそれを聞いて提案してきた。
「それなら告白してみたらどうだい?」
「告白・・・・・・」
「そうさ。そして彼女を手中に収めればどうかな」
「無理だ」
 だがゲルマンは友の言葉に首を横に振った。
「どうして」
「彼女はかなり身分が高い。それに裕福だ。僕にはとても」
 貧乏貴族の己の出自を呪わずにはいられなかった。
「じゃ諦めるしか」
「それは嫌だ」
 だがそれにも首を横に振る。
「彼女を諦めることなんてできるものか、僕には」
「ゲルマン、君は本当にあのゲルマンなのかい?」
 思い詰めた彼に問う。
「あの落ち着いた君とは思えない。どうしたんだ」
「これが本当の僕なんだ」
 トムスキーに応えて言う。
「今までの僕は本当の僕じゃない。本当の僕はこうして恋に身を焦がす僕なんだ。もう止められはしない」
 彼は言う。
「自分でも。わかってはいるんだ、けれど」
「それ程までにその人を」
「ああ、もう他の女性のことは目に入らない」
 後ろでは母や姉達が子供達を前にしてお喋りに興じている。だがゲルマンは本当にそれも目に入ってはいなかった。
「こんな心地よい日は久し振りだよ」
 そこには老女達もいた。ロシアに相応しく太った身体を持つ老婆達である。彼女達は若い母親や娘達に対して語っていた。
「今のうちにね」
「太陽の光を浴びておくんだよ」
「太陽の光をですか」
「そうさ、浴びれる時に浴びておく」
「食べたい時に食べ、蓄えられる時に蓄えておく」
「それが生きる知恵ってやつなんだよ」
 所謂生活の知恵を語る。ロシアではお婆さんが何かと生活の知恵を教えてくれるものであるがそれはこの時代でも同じであった。
「ほら、周りを見てみなよ」
「周りを」
「どうだい?皆楽しんでいるだろう」
「はい」
 若い女達は老婆達の言葉に頷く。
「兵隊さんも学者さんも並木道の間で楽しそうに」
「だから私達も楽しんで」
「さあ、気持ちよく」
「遊べばいいのですね」
「そうそう」
「邪魔な亭主や彼氏のことは忘れてね」
「ぽかぽかと」
 そんな話も今のゲルマンの耳には入らない。子供達の声も。彼はその女性のことしか見えてはおらず、考えられなくなってしまっていた。
 
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