椿姫
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第二幕その四
第二幕その四
「その残り僅かな私の命を彼に捧げようというのに」
「犠牲は大きいのもわかっています」
ジェルモンの顔も次第に苦しいものとなってきた。
「ですが」
「アルフレードのことですか」
「はい」
彼は息子のことであることも認めた。
「あれはまだ若いのです」
「しかし」
「息子のこれからのことも」
彼はやはり父親であった。父親とは世界の権威、それも良識という存在の権威であるのだ。そうでなければならない。そしてジェルモンはその化身として今ヴィオレッタの前に立っていたのであった。
「今はいいでしょう」
彼はその良識と分別のうえに立って話をはじめた。
「ですが時が過ぎ去ったならば」
「それは」
ヴィオレッタはそれを拒絶しようとする。だがジェルモンはそれを許そうとはしない。
「甘い感情も過去のものとなり。そして」
「それ以上は」
「おわかりになられたでしょう。でしたら」
「それでも」
ヴィオレッタはアルフレードと別れたくはなかった。
「私はこれからもアルフレードと」
「それが出来ないのです」
ジェルモンはあくまでこの世界の良識という観点から言った。
「本当に。おわかりになられませんか」
「私の過去は消えないのでしょうか」
「はい」
このうえなく冷酷な言葉であった。彼女にとってこれ程冷たい言葉があったであろうか。
「残念ながら」
「ああ!」
「私の息子と娘の為に」
「死ねというのですか!」
「そうではありません」
「けれどそれは同じことです!」
「神がそう申されているのです」
「では神も私を」
彼女もまた神を信じていた。その神の言葉だと聞かされた時ヴィオレッタの目の前はさらに暗くなってしまった。絶望の暗闇であった。
「私を許しては下さらないというのでしょうか」
「そういうことになります」
ジェルモンも言いたくはなかった。だが彼はアルフレードとその妹、すなわち子供達の為にあえてこう言ったのである。
「ですが貴女は二人にとって天使となります」
「何故」
「二人を救われるからです。貴女が身を引かれることによって」
「私が身を引くことによって」
「はい」
「それしかないのですか」
「さっきから申し上げている通りです」
ヴィオレッタはこらえていた。目の前の暗黒が全てを覆うのに耐えることに。だがそれでも決断をしなければならなかったのだ。それもわかっていた。
「さあ」
「・・・・・・わかりました」
心の奥底から搾り出すようにしてこう言った。
「アルフレードに伝えて下さい」
「宜しいのですね」
「ええ」
蒼白になりながらもこう述べた。
「そしてお嬢様に」
「わかりました」
「幸福と共に不幸があるということを」
「宜しいのですね」
「私の様な者には」
泣きそうになるがそれは必死に堪えていた。泣くわけにはいかなかったのだ。
「こうなるしかなかったのでしょう」
「仕方のないことなのです」
ジェルモンはまた言った。
「この世の中というものの創りがそうなのですから」
「今程それを恨めしいと思ったことはありません」
目を閉じ、首を横に振ってこう言う。
「けれど道を踏み外してしまった者には。夜の世界の者には。所詮愛なぞというものは適わぬものなのでしょう」
そう思うしかなかった。そう思わないと心が壊れそうであったのだ。ヴィオレッタも一人の女性であった。
「では彼には」
「はい」
「何をすればよいでしょうか」
「愛していないと仰れば」
「それは駄目です」
首を横に振ってそれは否定した。
「あの人は信じはしないです」
「ではここを去られれば」
「それもまた」
これもまた否定した。
「彼は私を探すでしょう」
「ではどうすれば」
「私に考えがあります」
沈んだ声で言った。
「これでしたら」
「では貴女にお任せします」
「有り難うございます」
ジェルモンも辛かった。心が潰れそうであった。しかし子供達への想いが彼を支えていたのであった。こうした意味で今二人は互いに愛を争わせていたのだ。そしてジェルモンが勝った。彼だけならばこうはならなかったであろう。しかし彼は子供達の為にあえて鬼となっていたのであった。全てを犠牲にする哀しい鬼であった。
「けれどあの人は私を恨まれるでしょう」
「アルフレードが」
「はい。人とはそういうものです」
彼女は言った。
「何も告げないで去られると。疑いが生じますから」
「あれには私が伝えておきましょう」
「宜しいのですか?」
「せめてこれ位は」
彼は自分の言っていることもしようとしていることもわかっていた。だからこそこの役を買って出たのだ。また出ずにはいられなかったのだ。
「私の役目です」
「有り難うございます。けれど」
それでもヴィオレッタの顔は晴れはしなかった。
「私はもう」
「貴女には何と申し上げてよいかわかりませんが」
ジェルモンは言った。
「またよいことが。神がおられる限り」
「神ですか」
ヴィオレッタは神の名を聞いてまた哀しい顔になった。
「神は私の様な者を救われはしません」
「それは」
だがジェルモンにこれを否定することはできなかった。キリスト教の世界において夜の世界とは忌むべきものである。彼が今ここに来たのもヴィオレッタが夜の世界の住人だからである。神は昼の世界にこそ存在しているのである。夜の世界には存在してはいない。
「ですが貴方だけには知って頂きたいのです」
「このことをですか」
「はい。アルフレードの為に、そしてあの人の為に身を引いたことを」
「わかりました」
「私はあの人の為に生きてきたということを」
「わかりました」
ジェルモンはまた頷いた。
「本当に。何と申し上げてよいか」
「これが私の運命なのですから」
ヴィオレッタはもう達観していた。
「夜の世界の中でしか生きられない。そして夜の中に死ぬ。それが私の運命なのです」
「夜ですか」
「一旦入ると出ることはかなわない世界です」
目を伏せて言う。
「絶対に。今それがわかりました」
「申し訳ありません」
「貴方が謝れられることはありません」
それはわかっていた。おそらく昼の世界にいる者なら皆こうしたであろうからだ。夜の世界の住人ではない。神のいる世界にいるのだから。
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