船大工
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第九章
第九章
「彼は皇帝ではありませんよ、絶対に」
「本当ですか!?」
「はい」
驚いた顔を見上げて尋ねるマリーにその笑顔で述べる。
「それは私が保証します」
「そうですか。けれどどうしてそれを御存知なのでしょう」
「さる理由で」
あまり上手とは言えない言葉で答えた。
「私だけがそれを確実に知っているのです」
「確実に!?」
「そう、確実に」
また笑顔で述べた。
「ですから御安心を」
「そうなのですか、皇帝じゃないんですね」
それを聞いていささか気が楽になった。顔にもそれが出ていて安堵したものになっていた。それは皇帝にもマリー本人にもよくわかるものであった。
「よかった。それなら」
「ただしです」
皇帝はここで真顔になってマリーに声をかけてきた。
「はい?」
「暫くの間は彼を皇帝をして扱えばいいかと」
そう提案してきた。
「彼をね。皇帝として」
「どうしてですか?」
「その方が私にとって都合がいいからです」
何気に失言をしてしまった。自分でもそれを気付いて困った顔になってしまう。
「貴方に?」
「いや、何でも」
苦笑いを浮かべてすぐにその言葉を消した。
「何でもありません。御気になさらずに」
「はあ」
「それでですね」
何とかその場を取り繕って話を再会させる。
「貴女は何も心配することはありません」
「何もですか」
「そうです。彼が好きなのですね」
それまでの穏やかな笑顔に戻ってマリーに尋ねる。80
「イワノフ君が」
「はい」
マリーは顔を赤らめさせながらも真顔で答えた。小柄な彼女の顔は大柄な皇帝からは見えにくかったがそれでもその気持ちははっきりと伝わった。
「そうです。できれば彼と」
「生涯添い遂げたい」
「それができるのなら死んでもいいです」
顔を真っ赤にさせたまま素直に述べる。
「イワノフだけが。私の全てですから」
「そこまで彼を愛しておられるのですか」
皇帝はそれを聞いて心打たれた。そうして親切以上のものをこの少女と彼女が愛する若者に対して与えねばならないと心に誓ったのであった。
「それではですね」
その誓いのままにマリーに言う。
「マリーさん」
「ええ」
また顔をあげて皇帝に応える。
「私に考えがあります」
「御考えが?」
「そうです。私が貴女とイワノフ君を幸せにしてみせましょう」
真剣な顔でマリーに言う。マリーは気付いてはいなかったがそれは完全に皇帝の顔になっていた。
「きっと」
「どうやって」
「ですからそれにはまずイワノフ君を皇帝として扱うのです」
またそれを述べた。
「宜しいですね、全てはそれからです」
「それからですか」
「ええ。きっとです」
念を押して言う。
「きっと。それさえ守って頂ければ」
「イワノフは私のものに」
「そうです。ですから貴女は何も心配する必要はありません」
またマリーを安心させてきた。
「必ず貴女は幸せになりますので」
「幸せに」
「そうです」
不思議なまでに説得力のある言葉であった。それは言葉を出している彼がその皇帝自身であるからに他ならないからであるがマリーはそれを知らない。ただそれに導かれるだけであった。
「ですから。よいですね」
「わかりました」
憂いの消えた顔と声で答えた。
「それでは私は。このまま」
「そうです」
またその説得力に満ちた力強い言葉を出してみせた。
「ですから。宜しいですね」
「ええ」
マリーは笑顔で頷く。もう迷いはない。
「わかりました。それではイワノフを皇帝として」
「そうです、それだけでいいので」
「はい、それでは御願いしますね」
「ええ、また」
二人は笑顔で別れた。皇帝は一人道に残って意気揚々と酒場に向かうマリーを見て寂しい笑みになった。そうして一人ぽつりと呟くのであった。
「いいものだな」
寂しい笑いと共の言葉だった。
「愛し合うというのは。私も」
ふと自身の国のことを想う。そこにいる者達も。
皇帝は寂しさを抱いて立ち去った。そうしてそこからまた幕が開けるのだった。
イワノフは酒場に入る。すると場が一変した。
「やあ、これはこれは」
「皇帝陛下、ようこそ」
「えっ、皇帝!?」
驚いたのはイワノフだった。その顔で周りに集まってきた皆に対して言う。
「僕が・・・・・・かい!?」
「そうですよ」
「隠しているなんて」
彼等はイワノフがまだ演技をしていると思っている。実際にイワノフは演技が下手な方であるがこの場合はどうにもそれが微妙に彼の立場を立たせてしまっていた。
「恥ずかしがらないで」
「そんな必要ないですから」
「ささ」
そうして杯が出される。
「まずは一杯」
「どうぞどうぞ」
「はあ」
言われるがまま杯を受け取る。そこには黒ビールがなみなみと注がれていた。
「このビールは」
「オランダの酒です」
船大工の一人が恭しい礼と共に述べてきた。
「オランダの?」
「そう、最も美味い酒です」
今度は船乗りの一人がやはり恭しい礼と共に述べるのだった。
「私共の間では」
「おい、こら」
えらく恰幅のいい初老の男がここで出て来た。
「あっ、船長」
「こんな酒出すなよな」
そう言って黒ビールを取り上げる。イワノフ、彼等が思っている皇帝から。
「あっ、ちょっと」
「宜しいですか、陛下」
ビールを差し出した船乗りの頭にハンマーのような拳骨を浴びせながらイワノフに謝る。随分と野太く潮でしわがれてしまった声でだ。
「こんなものを飲んではいけません」
「えっ、けれど」
「皇帝陛下なのですよね」
そうイワノフに問う。
「まあそうだけれど」
「ならこんなのを飲まずにさあ」
後ろから巨大なボトルを出してきた。樽と見間違う程だ。
「これで」
「あの、これは」
そのボトルの巨大さに戸惑いながら船長に尋ねる。
「何でしょうか。いや」
彼もその気になってきた。それで口調を自分でも変えたのだった。
「何かな」
胸を張って偉そうに尋ねる。その演技が如何にも下手な喜劇の大根役者なのであるがやはりそれに気付く者は酒場にはいはしなかったのだった。
「ワインです」
「ワインとな」
「それもフランスの」
「ほう」
それを聞いて思わず目が輝いた。実は彼も酒は好きな方だ。それを隠すつもりは自分にもない。ましてやフランスのワインとなるとだ。自然に出てしまっていた。
「フランスのワインか」
「如何ですから」
巨大なそれをイワノフの前に差し出してきた。
「これで思いきり」
「そうだな」
鷹揚に応える。臭い芝居で。
「では貰おうか」
「はい、それでは」
杯にワインが注がれる。気付くと横にマリーが来ていた。やはり恭しい仕草で彼にかしずいていた。もうその態度だけで何なのかわかる程であった。
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