船大工
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第十章
第十章
「マリー」
「ささ、陛下」
その杯を手に取ってイワノフに勧める。
「どうぞ一杯」
「うむ、御苦労」
マリーから尊大ぶって受け取る。
「ではもらうとしよう」
「有り難き幸せ」
(しかし。どういうことなんだろう)
周りの声の中杯を飲みながら考える。
(急に周りが。これは一体)
酒を派手に飲みながら考えている。その時であった。
「いや、困ったことになった」
本物の皇帝がここで困った顔をして入って来た。彼の場合は芝居ではない。一応船乗りを演じてはいるがここでは芝居をしてはいなかった。
「さて、どうしたものか」
「おや、どうしたのかね」
皇帝気分のイワノフは慈悲を見せる素振りで皇帝、ピーターに声をかけた。その右手には杯がある。もうワインは空になったがそこにまた派手に注がれる。注がれ過ぎて杯からあふれ出て零れ出てしまっている程である。
「困っているようだが」
「そう、困っています」
本物の皇帝はこう言葉を返した。本当に困った顔で。
「どうしたものかと」
「何か起こったのかい?」
「港が全て封鎖されまして」
「港が!?」
イワノフはそれを聞いて眉を顰めさせてきた。
「それはまたどうして」
「ああ、それはあれですね」
それを聞いてそこに居合わせたイギリス公使が声を出してきた。まだ変装のままだ。
「とっくにばれてるのに」
「まだ脱がないんだな」
「いやいや、これも男伊達」
イギリス男はオランダ男の悪口には負けないのだと顔に出して船乗り達に応える。
「どうです?格好いいでしょう」
「そうかな」
「何かあれだよな」
オランダ男も負けてはいない。粗捜しをしてケチをつけにかかってきた。
「どうにも」
「これは」
「おやおや、このよさがわからにとは勿体ない」
軽く受け流す。それからそっとイワノフが化けている皇帝に声をかけてきた。
「陛下」
「うむ」
この公使も気付いてはいない。
「お困りのようでしたら私が力添えさせて頂きましょう」
「貴殿がかい?」
必死に高貴な言葉を探して出した。つたないオランダ語で。
「はい。実はヨットに空きがありまして」
「イギリスのヨットにかい」
「そうです。宜しければそれをお使い下さい」
「そうだな」
イワノフは顎に手を当てて考える顔をした。そうして芝居をして言うのだった。
「それだったらだね」
皇帝に顔を向けて言う。
「ペーター君」
「はい」
皇帝が皇帝にかしづく。本物も偽者もお互い内心で楽しみながら。もっともイワノフは完全に顔に出てしまっているが。
「よければだね。今ヨットを提供してもらったから」
「ええ」
「それで帰ることにしよう。私と一緒にな」
「陛下とですか」
(しめた)
皇帝は心の中でまた会心の笑みを浮かべる。彼にとって実に好都合なことであった。
(これで帰られる。運が向いてきたな)
「字は読めたかな」
イワノフは皇帝に問うた。この時代文字が読める者なぞそうはいはしない。船乗り達で読める者は殆どいなかった。実はイワノフは読めるのだ。
「字ですか」
「左様。どうかな」
「ええ、まあ」
皇帝はすぐに答えた。ここでは素直に答えたのだ。
「一通りは」
「ならいい」
イワノフは彼の返答を聞いて満足気に答えた。それこそ彼が望んでいた返答だったのだ。
「君は私の秘書だ」
「秘書ですか」
「秘書としてロシアに連れて行ってあげよう。それでいいね」
「有り難き幸せ」
(ふむ、ならばいい機会だな)
偽の皇帝の側にいられることに機会を見た。ここで彼は動いた。
(ここで)
「あの」
恭しくイワノフに声をあげる。大きな身体を二つに折って。
「何かな」
「実はこれをですね」
懐から何かを出してきた。それは一枚の封書であった。
「これは?」
「後でお開け下さい」
そう彼に耳打ちする。
「宜しいですね」
「この手紙をか」
「そうです」
また彼に告げる。
「そうすれば幸せになれますので」
「それはいい」
いい気分のところでさらにこう言われて。イワノフは天にも登らんばかりの気持ちになった。それは晴れやかな表情ですぐにわかった。
「幸せがまた。じゃあ」
「ただしですね」
何か今にも開けようとするのを見てそっと忠告する。
「んっ!?何かな」
「今は開けないで下さい」
耳元で告げた。
「いいですね。ヨットが港に出た時に」
「ヨットがか」
「そうです、今イギリス公使から頂いたヨットです」
既に彼の頭の中ではこれからの流れが完全にできてきていた。後はそれを忠実になぞるだけである。それにイワノフも入れたのである。
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