船大工

第八章

　その市長が連れて行かれたザールダム市庁。当然ながら彼の公舎でもある。彼はそこの自室で毛布にくるまりながら自分の椅子に座って考えごとをしていた。鼻をぐずぐずといわせて不機嫌な顔を見せている。水瓶の中にいたので風邪をひいたのだ。部屋の中は市長のものだけあって中々豪奢だ。椅子もがっしりとしていて黒く装飾まである。机もペンも奇麗に整えられていた。彼はそこで不機嫌な顔で座っているのであった。
「そもそもだ」
　彼は自分のことを棚にあげて考えていた。
「皇帝が問題なのだ」
　そう結論づける。
「皇帝がこの街にいることが問題なのだ。それだけが問題だ」
　という考えに至った。すると呼び鈴を鳴らして人を呼んだ。するとすぐに当直の役人が部屋の中にやって来た。彼は部屋に入ると一礼して市長に問うてきた。
「御呼びでしょうか」
「用があるから呼んだのだ」
　いささか能力を問われかねない返事を返した。
「いいか」
「はい」
　役人は市長に応える。表情は消している。
「皇帝を歓迎する」
「皇帝といいますとやはり」
「そうだ、噂のだ」
　役人の顔を見て言葉を返す。鼻の調子が悪く声が悪い。
「ロシア皇帝をだ。いいな」
「誰かおわかりなのですね」
「うむ」
　なお役人は市長の予想を信じてはいない。しかしそれは顔には出さない。
「私にはわかった。完全にな」
「はあ」
「あとは歓迎準備だけだ」
　自分の主観に基いて話をしてきた。
「皇帝陛下のだ。いいな」
「わかりました。それでは最上級の歓迎準備を」
「頼むぞ。至急にな」
「はい、それでは」
「うむ、頼むぞ」
　こうして市長は彼なりに皇帝への対応を進めていた。このことはすぐに街中に伝わり噂になった。船乗りや大工達もその話をしだしていた。
「ああ、やっぱりいたんだな」
「そうだな」
　彼等は仕事の間にそう話をしていた。
「ロシアの皇帝がねえ」
「いやいや、中々面白い話だな」
　笑いながらハンマーや釘を手にして話に興じる。そこには皇帝もイワノフもいる。だが彼等はここでは表情を消して話を黙って聞いていた。
「皇帝陛下が俺達の中に」
「となると誰かな」
「ロシアからの奴だろ」
　すぐにそう見当がつけられてきた。これは当然の流れであった。
「やっぱり」
「けれど自分で名乗られたりはしないよな」
　これも同じようにすぐに言われた。
「お忍びで来られてるんだし」
「そうだな。じゃあ簡単にはわからないか」
「それにあれだぜ」
　また言われた。
「皇帝陛下だしな。失礼がないように」
「そうだな」
　皆ここでは真剣な顔になる。流石に皇帝となっては無碍にはできない。
「誰か探るような真似はな」
「謹んでおくか」
　まずは誰かは詮索しないことになった。だが疑わしい人間についてはそれぞれ考えが巡らされる。当然ながらロシア人達が疑われる。その中にはイワノフもいたのだった。
　イワノフが皇帝かも知れない、そう考える者もいる。その中には彼の恋人であるマリーもいた。彼女はこのことに胸の中に深い不安を抱いていたのであった。
「困ったわ」
　彼女はこの時夜の酒場への道を歩いていた。酒場にはイワノフがいる、丁度その彼に会いに行くところであったのだ。不安げな顔で俯いて道を歩いていた。
「もしそうだったらどうしましょう」
　その不安げな顔で呟く。
「イワノフが皇帝だったら。私なんかじゃとても」
　庶民がロシア皇帝と結婚できるかどうか、それは彼女でもわかることであった。だからこそ悩んで苦しんでいるのである。俯いて顔を上げられはしなかった。
「結婚なんて。本当にそうだったら」
「もし」
　その彼女に声をかける者が来た。見ればそれはペーター、本当の皇帝であった。
「どうしたのですかな、娘さん」
「貴方は」
「ペーターです」
　顔をあげて尋ねたマリーに対して落ち着いた笑顔で答えてみせた。見ればそれだけで人を安心させる何かがある顔であった。
「そうでした、ペーターさんでしたね」
「はい。ところで」どうされました？」
　不安げな彼女の顔を見て問う。
「お困りのようですが」
「いえ、別に」
　顔を背ける。そうして一旦は否定しようとした。
「何も。ありません」
「そうは見えませんが」
　皇帝はそんな彼女に対して言った。
「そうでしょうか」
「はい。まさか」
　ここでふと勘が閃いた。彼女が何を考えて何を悩んでいるかわかったのだ。
「イワノフ君のことですね」
「おわかりなんですか」
「ええ、何となく」
　落ち着いた優しい笑顔のまま答える。彼女を安心させる為にあえてこうした笑顔になっている。意外な程気配りも効かせていた。
「やはりそうですか」
「あの、皇帝陛下がいらしてるんですよね」
「あっ、噂の」
　あえて自分のことは惚けてみせた。目を見れば芝居だとわかるような演技であったが深刻に悩んでいるマリーには見えないものであった。
「ロシアの皇帝ですか」
「イワノフはロシアから来ているんです」
　マリーはまた俯いてしまった。そのうえで皇帝本人に述べる。彼とは気付かずに。
「若しかしたら彼が」
「いえ、それはないです」
　皇帝はマリーのその言葉をすぐに否定してきた。