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銀河英雄伝説 異伝、フロル・リシャール

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第1部 沐雨篇
第1章 士官学校
  002 秋空の回想

「眠いなぁ……」

 フロル・リシャールは、士官学校から3区画の近さにあるハイネセン音楽学校の庭先で、寝そべりながらそう呟いた。青く生い茂る木の下は、直射日光をほどよく遮って、横になるには絶好の場所だった。
 この時間、本当であれば戦史研究の講義であったが、彼はそれをさぼってここまで来ていた。何も、音楽学校に潜入せよ、という任務があるわけでもない。ただ、ハイネセンの空は青く、高く、もうすぐやってくる冬を迎えるかのように、晴れやかに透き通っている。

——空は、どこも変わらないなぁ。

 音楽室から聴こえてくるピアノは、モーツァルトだったかベートーベンだったか、懐かしいクラシックの音色を響かせている。どうも固有名称を覚えるのが不得手な彼は、今もそれがなんという曲名なのか知り得ない。
 前世から慣れ親しんだ音楽なのにもかかわらず。


 フロル・リシャールは転生者だ。

 つまり、前世の記憶がある。


 いや、そもそも今のフロルを指して、転生者と呼べるか定かではない。彼以外に彼は転生者を知らなかったし、転生するにしてはその世界が普通ではなかったからである。彼が転生したのは、あの銀河英雄伝説の世界だったのだ。
 彼の記憶が劣化していなければ、銀河英雄伝説は彼の前世にて人気のあったSF小説であったはずなのだ。彼はその愛読者であり、アニメのファンでもあり、ともかくは特にお気に入りの物語だったのである。

 彼の前世の名を、相沢優一という。日本人である。
 彼の死は、彼にとって唐突であった。バイト先からの帰宅途中、交通事故に遭ったのだ。トラックと激突したその瞬間、全身に疾った痛み、衝撃は今もありありと思い出せる。
 あ、死んだな、と思った。
 あっけのないのものだ。まさか24まで生きてきて、こんなに簡単に死ぬことになるとは、思いもよらなかったのだから。

 
 そして次の瞬間、彼は転生していた。


 まるで今まで自分は長い夢を見ていたかのように、痛みが引き、目を開くと、そこはまったくの異世界だった。目の前には見知らぬ外国人の男女が二人、こちらを覗き込んでいた。さすがの自分も、誰だろう、と思ったのは当然の話だろう。
 場所はどうやら病院だった。
 どうやら、というのは白い天井やあの独特の消毒臭がしたからであって、彼の視界のほとんどは覗き込むようにこちらを見ている男女で埋め尽くされていた。
 病院であるなら、交通事故に遭って一命を取り留めたのなら、本来であればそこには相沢優一の両親であるべきであった。だが、そうではなかった。

「おお! フロルが目を開けたぞ、アンナ!」
「なんて可愛いのかしら・・・・・・、見て、この目、レイモンにそっくりよ」
「ああ、この口なんてアンナそっくりじゃないか」
 
 フロル? アンナ? レイモン?
 
 それらの会話はすべて英語で交わされていた。
 彼は当然、誰何の声を上げようとした。だがそれは発音できなかった。発声できたのは、まるで赤ん坊の声。伸ばして、ようやく視界に入った自分の手は、まるで赤子の手であった。

 そして彼は気付いた。
 自分は生まれ変わったのだ、と。


 彼は新たな両親の元、すくすくと成長した。彼が自分の住む世界を、銀河英雄伝説の世界であると自覚したのはいつのことであろうか。おそらく、夜空にアルテミスの首飾りが輝いているのを、見つけた時だったろう。彼が生まれたのは民主主義の国、衆愚政治で滅びる運命にある国家、自由惑星同盟であった。貴族制度理不尽が横行する銀河帝国に生まれなかったのは幸い、というべきであったが、その将来を考えれば同盟もまた、安心できた物ではなかった。
 彼は両親の愛情を受けて幸福な幼少期を過ごした。だが24歳分の人生経験は、彼にマせた子供という評価を与え続けた。それは致し方ないだろう。もっとも、大した問題も起こさず、多少変人奇人に思われながらも健全育っただけ、よかったというもの。
 もはや、彼にとって、父レイモンも母アンナも、もう一組の両親だった。
 本当に、大切な家族であった。

 そんな彼がハイネセンの国立大学ではなく、士官学校に入校すると告げたとき、彼らを襲った動揺はいかほどのものだったろう。彼の両親は軍属ではなく、また戦争を嫌う平和な一市民だったからである。この件、彼は生涯申し訳ない気持ちを落ち続けたと、彼は手記に遺している。だがそれらを説得してまで、押し殺してまで、軍に進んだのは一重に彼が未来を知っていたからに他ならない。

 ここは、銀河英雄伝説の世界なのだ。
 相沢優一、いや、ここに至っては彼は既にフロル・リシャールという人格を形成していたとして、彼は決して軍隊や民主国家主義を崇拝していたわけではなかった。自己犠牲などという美辞麗句を、もっとも嫌う男だった。これは、ジュニア・ハイスクール時代にフェザーン人であるボリフ・コーネフと仲良くなった所以でもある。
 それであっても、彼が今生きていたのは、銀英伝の世界なのである。

 当時はまだ無名のヤン・ウェンリー、ラインハルト・フォン・ローエングラム——まだミューゼル姓であろうが——が勇名を届かせ、名を銀河に知らしめる、そして銀河の勢力図が一変する時代が、すぐそこに来ているのだ。
 まだ、誰も時代の変革がすぐそこに迫っていることを知らない中、彼だけがそれを知っていたのだ。
 彼の持つ記憶が、そのすべてがこの世界があの世界であることを告げていたのだ。
 同盟軍には歴戦の勇将ビュコック提督がいて、グリーンヒル提督がいて、帝国にはミュッケンベルガー元帥が君臨していた。
 
——だから、俺はこの世界を生きてやる。

 彼はその反則(チート)な知識を使って、生き抜いてやろうと決めたのだ。

 そして、彼にはそれにも増して重大な目的が、もう一つあった。
 ヤン・ウェンリーである。
 
 彼は前世で自他ともに認めるヤンのファンであった。小説でもアニメでも、ヤンが繰り出す言動や神謀鬼策に胸をときめかせ、彼の死に心の底から落ち込み泣いたものだ。この世界に、敬愛するヤン・ウェンリーがいるとするならば、それを救うことこそが彼の使命だと考えていた。
 フロル・リシャールは、自分がなぜこの世界に転生したのかは知らぬ。だが、もしそこに神の意思の類があるとするならば、ヤンの命を救うことが彼に与えられた使命だと考えていたのであろう。



「まーた、こんなとこで寝てるの? 不良士官候補生さん?」
 目を開けると、いつの間か音楽は途絶えていて、音楽室の窓からはジェシカ・エドワーズが顔を出していた。窓に両手をついてこちらを見下ろしている顔は、小さじ一杯の笑みが浮かべられている。

「やぁ、ジェシカ。今日はいい天気だと思わないかい?」
 フロルはもう一度目を閉じると、軽い口調でそう言った。
「そうね、素敵な秋の空。それにしたって、なんだってフロル・リシャール先輩はこんなところで寝ているのかしら? 士官学校って、そんなに時間割に余裕があるだなんて知らなかったわ」
 彼女の皮肉を、フロルは口を微笑を浮かべることで応えた。

「今日の午後は戦史研究ってやつでね。爺さん先生の話はつまらんからなぁ」
「で、抜け出してきたって?」
「あとでヤンに個人授業でも頼むさ。あいつの話は面白い」

 ジェシカは小さな溜息を吐いたようだった。
「そうなると可哀想なのはヤンね」
「最近、二人と会ってるか?」
「ええ、ヤンもラップも、軍人にしておくにはもったいない好男子だもの」
「すると俺は礼儀正しい紳士ってところかな」
「冗談きついわ」
「……」
 一蹴されてしまった。

 太陽が雲に隠れたのか、日差しが弱まるのを肌で感じた。
 午前の徒手格闘訓練で殴られ、熱を持った頬が風を受けて心地よい。
「先輩、今日は随分男前ね」
「知らなかったか、実は前からだよ」
「じゃあ毎日誰かに殴られることね」
「……ジェシカって、なんか前から俺に酷くない?」
「あら気のせいよ、きっと」
「だといいけど」

 言うことを躊躇ったように、ジェシカは言葉を紡ぐ。
「訓練は大変?」
「ま、軍だものなぁ」
「あなたには似合わないわ」
「ヤンほどではないね」
「いつかは戦場に?」
「それがお仕事だもの」
「怖くないの?」
「やりたいことをしないで死ぬ方が怖いさ」
「それって軍に入らなきゃできないこと?」
「そうでなければ、好きでもない軍隊に自分からは入らないよ」
「それって、何?」
 フロルは答えなかった。
 ジェシカはフロルの顔から何かを読み取ろうかとしたが、それはなし得なかった。
 
「……今日の午前頑張ったご褒美に、花も恥じらう美少女とお茶でもどうかしら?」
「そんな人がいるなら是非紹介願いたいけど」フロルは片目だけ目を開けて、ジェシカを見た。口をへの字にして。「生憎、今日は口の中が切れててね、疲れてるし、このままがいいなぁ」
「もぅ……」

 ジェシカは肩を竦めた。溜息はつかない。だけれども、心の中では嘆息している。
——なぜか、私の誘いは乗らないんだから。
 その言葉は、口から出ることもなく、飲み込まれて消えた。




















 
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