銀河英雄伝説 異伝、フロル・リシャール
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第1部 沐雨篇
第1章 士官学校
003 ファースト・コンタクト
門限である8時を過ぎてしまったのは、明らかにヤン・ウェンリーの誤算だった。国立図書館で特集が組まれていた戦史関係の特別閲覧本を読み漁っていたのだ。読書というのは集中すればするほど時間が過ぎるのを忘れるものである。閉館時間になって、司書に肩を叩かれるまで、彼は図書館にいたのであった。
慌てて走ったヤンであったが、途中からそれも歩行へと変わった。元々、体力に自信があるほうではない。寮に辿り着くまでのスタミナはないし、そもそも走ったとしても間に合わないのだ、という冷静な諦めに移行したのである。学力的に優秀というわけでもないので、減点となるような行動をするのは避けたかったのだが、もはや手遅れである。
「困ったなぁ」
ヤン・ウェンリーは焦った拍子に乱れた髪を、直すわけでもなく頭をかきまわした。
ここで馬鹿正直に正門に向かい、減点を受けるほどヤンは生真面目ではない。ここは一般的な士官候補生に倣い、こっそりと寮に戻ろうというのである。門限破りというのはヤンにとってあまり経験のあることではない。学校の外にガールフレンドのいる候補生の中には、朝帰りを敢行する猛者もいたが、ヤンにはもちろん関係のない話である。
ヤンの通っているハイネセン上級士官学校において、夜の見回りは士官候補生自身が行うことになっている。無論、監視員として、現役の軍人が一人つくが、広大な土地を有する校内をカバーできるわけではない。運のいい時には誰にも見られずに校内に入れるし、例え見つかってもそれが優しい士官候補生なら見逃してくれよう。
だが問題なのは、このような門限破りの士官学校生を見つけると、評定にとってプラスということである。ヤンにしてみれば、それは告げ口のような薄暗い陰湿さを感じさせるのだが、校則を厳守させるという点においては甚だ不満だが、効率のよいシステムである。
ヤンはまだ一年生であるため、まだ当番になったことはない。ヤンとしては、見つからないことを祈るばかりだった。
周りに人がいないことを確認し、監視カメラの死角からヤンは塀を跳び越えた。着地して、踏ん張りきれずに尻餅をつく。華麗な着地ができるほど、自分は運動神経が良いわけではないらしい、と再確認。
飛び降りたのは軍事教練用のアンブッシュの地域だった。当然のこと、灯りはなく、外の街灯も届かず、真っ暗であった。空を見上げると、満月が雲の合間から顔を覗かせていた。
「やれやれ」
ヤンは次第に、大人しく捕まっていた方が良かったような気になってきた。歩き出した森は深く、時折何かしらの動物の鳴き声が聞こえて、その度にびくついていた。満月が出ていることだけが救いだった。おかげで、慣れない道無き道も、歩くことが出来ていた。だがブーツは泥に汚れているだろうから、部屋に戻ったら磨かなければならないし、慣れない道を歩くことで体力が消耗していく。
そもそも自分が捕まったとして、どれだけのペナルティが課せられるのか。一週間の外出禁止、反省文の提出、といったところだろうか。評定も下がるだろう。教官の虫の居所が悪ければ、トイレ掃除でもさせられるかもしれない。あるいは、図書館の整理とかであれば、進んでやるのであったが。
ヤンはそんなことを考えていたから、それに気付かなかった。
後ろから近づく人の存在に。
「動くな」
ヤンは唐突に首に押し当てられた、冷たい金属を自覚した。低く押し殺した声はヤンの耳元から発声されており、正面を向いているヤンは後ろの人間を見ることも敵わない。
視線を落としてみると、野戦訓練服を腕まくりした他人の手が見えた。
「わかっ……りました。えっと」
「氏名と所属と学年を言え」
——これじゃあ敵に捕まったみたいだ。
ヤンはもしかしたら、捕まったのは教官によってではないか、と思い始めていた。そもそも、自分に察せられずこんなに接近するとは——いや、自分が気付かないのはそれほど不思議なことではないか。
「ヤン・ウェンリー、戦史研究科1年、識別番号は——」
「ヤン・ウェンリー?」
押し当てられた時と同様に、唐突にその感触は遠のいた。背後から宛てられていた威圧感も遠のき、ヤンは知らず知らずに止めていた息を吐き出した。
振り向くと、そこには見覚えのあるような、ないような、確か先輩であったろうという顔の人物が立っていた。まっすぐ通った目鼻立ち、それなりのハンサム、紅茶色を淹れすぎたような濃い橙色。背はヤンより大きいだろう。
その推定先輩のその人物は、人懐っこい笑みを浮かべた。
「ヤン・ウェンリーって、あのヤン・ウェンリーか」
「はぁ、先輩がどのヤン・ウェンリーのことをお話かわかりませんけど、少なくともうちの学年にヤン・ウェンリーは一人だと思いますが」
「そうか、そうだよな。それにしても、ここで会うだなんてなぁ」
先輩は手に持っていたスプーンを胸のポケットに仕舞うと、手をパンツで拭って、ヤンに差し出した。ヤンにしてれば、いきなり差し出された手に、戸惑う。
「えっと」
「フロル・リシャール、戦略研究科の2年だ」
どうやら握手を望んでいるらしいと気付いたヤンは、慌ててその手を握った。手を握るなんて久しぶりのことだ。士官学校に入ってから、ずっと敬礼ばかりで、握手という平和的な挨拶が懐かしいくらいだった。
「えぇ……改めまして、ヤン・ウェンリーです」
「君の噂は聞いている」
リシャール先輩の手は力強かった。毎日、戦斧を振っている人間の手だろう。独特のたこができている。袖から見える腕も、筋肉がしっかりとついていた。
「はぁ、そんな噂になるようなことをした覚えがないのですが」
「今年きっての怠け者らしいじゃないか。ただ、戦史だけはずば抜けてるって」
「……軍人に、向いてないでしょう?」
ヤンは苦笑とともにそう言った。彼は自分が軍人の士官たるとして真っ当な態度ではないと、自覚していたのだ。だから人からヤンが怠惰を指摘され、非難されることもままあったが、それを粛として受け止めている。ヤンにとっては、戦史を研究することを通じて、自分の好きな歴史研究を続けられればいいのであって、つまり試験や軍事教練は最低限こなせばいいというものなのだ。
「そうか? 俺はそうは思わんけどな。むしろ、面白い奴ほど面白いことをするんじゃないかって、そう思ってるが」
「は、はぁ、それは随分と変わった見方ですね」
「当代一の問題児にそう言われるとはね」
フロルは気を悪くしたようにも見えず、歯を見せて笑った。
「リシャール先輩は、なぜその恰好を?」
ヤンは彼の服装を指摘した。
フロルは今気付いたように、自分の服装に目をやった。
陸戦服など、ヤンは授業の時以外着た覚えがなかった。教練がない時は、基本的に支給された標準制服を着るのが通例なのだ。
「うん? 当番だしな、アンブッシュを見回っているんだがら、この恰好の方が視認度が下がる。ただ見回るんじゃ面白くないから、自主訓練も兼ねて、だね」
「熱心ですね」
言うまでもなく、ヤンは失礼である。
「ま、嫌いじゃないしな、体を動かすことは。それに、鍛えるだけ鍛えた方が、いざという時、生き残れるかもしれないだろ」
「はぁ」
フロルはその気の抜けた応えを聞いても、怒ることはなかった。それどころか、ヤンの応えを聞いてそれを喜んでいるような節すらある。
「ミスター・ヤンはまったくそんな気がないわけか。まぁそれはそれでいいだろう」
士官学校生である限り、基本的に良いわけがない。だがフロルはそれを問題にしていないようだった。
「それって、私が戦史研究科だからでしょうか」
「ん? まぁそんなところだ」
ヤンは知るまでもなかったが、フロルにとってその発言は、ヤンの将来を暗示したものであった。もっとも、ヤンは知るまでもない。
「門限破りは俺もやったことがある。それに、ヤンと知り合ったのも何かの縁だしな、今回は見逃してやろう。この道を抜ければ学校はすぐそこだ。見回りは俺しかいないから、誰にも見つからないはずだ」
「はぁ、ありがとうございます、リシャール先輩」
フロル・リシャールと、ヤン・ウェンリーのその後長きに亘る付き合いは、真夜中の、満月の下で始まったのであった。
***
フロルは調理室の一角を使ってクッキーを焼いていた。時折、その匂いに誘われた候補生が調理室を覗き込み、そこにフロルの姿を見つけると、納得したように去って行く。先輩などはフロルに揶揄の一つも飛ばしていくが、
「出来たら俺にも寄越せよ」
という言葉が大半であった。そもそも士官学校では食事に重きを置いていない。フロルが作る料理というのは、少なくとも軍用レーションや固形物が見えない食堂のシチューよりは好評であって、特に菓子は絶品と評判である。
あとはオーブンの中で焼き上がるのを待つだけ、という段階になってフロルは手持ち無沙汰のヤンに向き合った。無論、ヤンはフロルに呼び出されたのである。
「リシャール先輩はその、料理がお得意なのですか?」
ヤンはフロルの手際に感心したように、そう問いかけた。傍目から見ても、料理を作り慣れた人の手際の良さに見えたのだ。もっとも過去においてもヤンに料理を作ってくれる母親も父親はおらず、また現在に至るまでにおいても彼に手料理を振る舞う恋人もいなかったが。
「俺が作ったクラブがある。まぁ学校公認のクラブと非公式クラブも含めて、いくつか作ったわけだが、これは公認されたクラブ活動というやつだな」
「それが、お料理クラブですか?」
「実態はそうだが、名目上は<戦場における食の質を改善する会>だ。料理の出来る人間を集めているんだが、軍人になろうという奴にはどうやらそういう奴が少ないらしくってな、実働部隊は俺ばかりだな」
「はぁ、では他のメンバは」
「消費する側だな」
フロルは苦笑とともにそう言った。ヤンもまた料理人に群がる消費者を思い浮かべ、苦笑する。
「ヤンを呼んだも、まぁ今後の誼にクッキーを食わせてやろうという先輩なりの心遣いだ。まぁ多めに焼いているから、色々あげるんだけどな」
「では友人にも渡していいですか?」
「図々しいな」
「あ、す、すみません」
フロルは気にするな、と手を顔の前で振る。
「料理は食べるために作られる。甘いものが苦手なら、人にあげてもいいだろう」
「ありがとうございます。もしよければ友人を紹介しますが」
「女か?」
「残念ながら男です」
ヤンは肩を竦める。
「まぁ男なら男でしょうがないさ。例え女だとしても、俺は別嬪さん以外は守備範囲に入ってないからな。ちなみに、友人は何という?」
「ジャン・ロベール・ラップです」
フロルの眉がほんの少し上がったことに、ヤンは気付いていた。だが、その表情にいったいなんの意味があるのか、ヤンにはわからない。
「今度は女の子を紹介して欲しいものだ。こう見えても、お菓子だけは一端の腕を持っていると自負しているからな。是非、女性の意見も聞いてみたい。ちなみに今回のクッキーは甘さ控えめだ。市販の甘いクッキーが苦手でも、食えると思うよ」
「はぁ、ありがとうございます」
フロルは自分の鞄から紅茶の缶を取り出した。無論、士官学校の調理室に紅茶を淹れるための道具などない。私物で持ち込んだティー・ストレーナーでもって、二つのマグカップに紅茶を淹れた。
ヤンは缶を持ち出した瞬間から嬉しそうな笑みを浮かべている。フロルの識っている通り、ヤンは紅茶党らしい。
「俺はコーヒーも好きなんだが、菓子には紅茶が似合うと思うんだ。まぁ紅茶の淹れ方はほとんど我流だが、コーヒーよりは、な」
「私はコーヒーがだいき……苦手でして、紅茶一辺倒ですね」
ヤンは手渡されたマグカップを受け取りながら、そう言う。
「あまり高い茶葉ではないが、これで勘弁してくれ」
「コーヒーに比べればどんな安い茶葉でも美味しく感じますよ。——あ、別にこの紅茶が安っぽいってことじゃないんですが」
ヤンは口に出してから、それが不適切だと気付いたように慌てて言い重ねた。
逆に、フロルにはそのヤンらしい物言いが好ましい。これぞ、ヤン・ウェンリーだ。コーヒーを泥水と吐き捨てる男だけは、ある。
「紅茶はいろんな飲み方がある。シンプルに何も入れずとも美味しいが、砂糖を入れたりミルクを入れたりする人の方が、大多数を占めるだろう。暖かいのが普通だが、冷やした紅茶は夏に似合う。レモンを入れてもさっぱりして美味しいが、ジャムを舐めながら紅茶を飲む作法もあり、珍しい飲み方ならミルクで茶葉を煮出す、というのもある」
意外と知られていないことだが、ロイヤルミルクティーは日本独特の飲み方である。
「お詳しいのですね」
ヤンは自分以外の紅茶党——フロルは正確には紅茶もコーヒーも行けるクチなのだが——の発見に、感心したような言い方であった。
「紅茶に関しては下手の横好きさ。まぁ、好きだからと言って上達するとは限らないしな。また、嫌いだからと言って適正がないということもない」
フロルは手のマグカップから、視線をヤンに戻した。ヤンは久しぶりの紅茶を、楽しんでいるようである。
「ヤンは、軍が嫌いか?」
ヤンはフロルの唐突な質問に、驚いたようだった。そもそも、この平穏なご時世、士官学校に入る人間の大半は好んで入った者ばかりである。あるいは金銭的な問題で、入った人間も多少はいるのだが。無論、ヤンは後者だ。
「——い、いえ、自分は——」
「ここは入試の面接会場じゃあない。そんな気張ったことは言わなくていい。それとも、先に俺の答えを言おうか」
フロルはヤンの目を見た。覗き込むように、真剣に。
「俺は軍が嫌いだ」
ヤンとフロルしかいない調理室、その静寂が唐突に強調された。廊下で誰かが話しながら通り過ぎる物音が、聞こえるばかり。
「——自分も、軍人になりたくてこの士官学校に入ったではありません」
幾ばくかの空白のあと、ヤンは答えた。フロルの記憶が正しければ、ジャン・ロベールにしたって優れた軍人らしい軍人になっていくわけだし、非軍人的なヤンはやはり、浮いているという自覚があるのだろう。
「ま、だろうな。じゃなきゃ、ヤンの成績は意欲と正反対の結果、ということになる。ヤンは戦史がやりたくてこの学校に入ったか?」
「自分はもともと歴史を学びたかったんです。ですが金銭的な問題で、普通の大学に入れなくなり——。まぁ結果的には満足しています。人間の歴史は、言ってしまえば戦争の歴史ですからね、戦史を学べば歴史を学んだと同じことでしょう?」
「確かに、戦争は人間の歴史を語る上で切っても切り離せないということは同意しよう。それにまぁ、やむにやまれぬ事情だろうしな、仕方が無い。では自分から望んでこの学校に入った俺はいったいどういうことか、という話だが——」
ヤンは紅茶を飲むことも忘れて、その答えを聞こうとして——
「俺にはやりたいことがあってな、そのためだ、と答えておこう」
——肩透かしにあった。
「——はぁ、それはいったいなんなのですか……と聞いていいのですかね?」
「ま、言ってしまえば使命感みたいなもんかな。守るべき人を守りたいというか」
「ご家族ですか?」
「ま、そんなところだ」
——家族。
という言葉には、ヤンは気になる響きを見つけ出したようだった。そもそも、ヤンにとっての家族は、一般的な家族のそれとは違う。だから人が考える家族の姿が、自分の持っているイメージとの擦り合わせができないのだろう。宇宙船の船長室で、ひたすらと壺を磨く父の姿ばかりが浮かび上がっている。
だがそれにしても、お茶を濁されたような気がしてすっきりしないヤンである。
その時、オーブンが焼き時間の終了を告げる、ベルを鳴らした。
「——ようやくクッキーが焼けたようだな」
フロルはクッキーを取り出し、皿に移した。綺麗なキツネ色で、上手く焼き上げられたようだった。一年かかって、ようやくこのオーブンの癖を掴めたらしい。
その皿を、ヤンに差し出す。
「一つ、食べてみくれ」
ヤンは小さく頭を下げてから、そのクッキーを手に取った。
口に含むと、予想していたより美味しかったようで、目を丸くする。
フロルは、そんなまだあどけなさを残すヤンを見ながら、頬に笑みを浮かべる。
心の中で、この未来の英雄を守り抜くという決意を、新たにしながら。
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