魔法使い×あさき☆彡
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第二十五章 終わりの、終わり
1
地獄の業火さながらの、光景であった。
ごおごおと炎と風、視覚聴覚への爆発的な刺激が入り乱れている。
四方を囲んでいたはずの壁も、天井も、先ほどの大爆発に飛ばされて、既に存在していない。
広い敷地の中心が、ここである。その遠く周囲は、昇ろうとする朝日に照らされた東京都心の高層ビル群が高さを競い合っている。
朝日。
そう、あまりにも戦いは長く、日付変わったどころか既に朝になっていた。
崩れてところどころ亀裂の入っている床に、一人の、剣を手にした魔法使いが立っている。
白銀の魔道着を着た、至垂徳柳だ。
男性と見まごう顔立ちに体躯であるが、女性である。
彼女は青ざめた顔で、笑みを強張らせている。
疲労というより興奮に、はあはあ息を切らせながら。
仁王立ちに立ち、向き合う正面に、なにかが浮かんでいる。
揺れる青白い炎に包まれた、令堂和咲である。
だが、誰がそれをアサキと認識するだろうか。
腕は切り落とされて、二本ともなく。
足も、片方が根本からちぎられている。
全身の骨という骨は、折られに折られ砕きに砕かれ、叩き潰されて粉々。一回りどころでなく縮んでいる。
剣で切り刻まれてざくりと裂けた無数の傷からは、じくじくと血液と体液が混ざり合い染められて肌色の部分がどこにもない。
ただの肉塊である。
ぱっと見には、そう呼んで過言でない状態であった。
腹も、臓器が見えそうなくらいに深くえぐられており、ただの肉塊でなくとも、生きているなどと誰が思うだろう。
しかし、生きている。
肉塊の中に、ぎろぎろと異常な輝きを放っているものがあるのだ。
その、輝き放つものとは、目であった。
右目は既に剣で突かれ潰されており、残った左目が、一種形容しがたい狂気をはらんで至垂を睨んでいるのである。
ぐう、う
石臼をひくような低く雑音混じりの呻き声が漏れる。
どこに口があるのか一目では分からないほどの、ぐちゃぐちゃに潰れた顔から。
嘆き、怒り、恨み、悔い、悲しみ。
眼光と唸り声から感じるもの様々であるが、いずれであろうと負の感情以外のものはなに一つそこにはなかった。
桁外れの、負の感情。
その予期せぬことに混乱しているのか、異空、次元の境という薄皮の向こうにいる無数のヴァイスタは、ただ肩をひしめかせるのみであった。
だが、本能の狂った個体であろうか、やがて一体が不意に動き出した。
真っ白な、粘液に濡れた腕が伸びて、ばりん、ばりん、と、すっかり薄くなっている次元の境を、難なく突き破ると、すっかり崩れて小さくなっているアサキの身体を、巨大な両手で掴んでいた。
ヴァイスタの本能に従い、魔力の塊を補食しようとしたのであろう。
しかし、捕食したのは、アサキの方であった。
彼女としては無意識下のこと、なのであろうが。
ばぢっ、
猛烈に燃えさかる炎にクラゲをいきなり放り込んだならば、このような音がなるだろうか。
次に起きた光景は、まるでブラックホールに儚い光が吸い込まれるかのようであった。白く巨大で粘液質なヴァイスタの腕が、ずるずると異空から、さらにはずるずると本体までが、この現界へと、無抵抗に引きずり出されたのである。
青白い炎を纏い浮遊している、アサキの身体へと。
ばぢりばぢり爆ぜながら、引き込まれたヴァイスタの白い巨体は一瞬にして小さくなって、きらきら輝く砂と化した。
青白い炎に包まれた怨念に満ちた肉塊へと溶け込むように消えて、もうその巨体の痕跡、存在はどこにもなかった。
どうん
闇が、鼓動した。
目視出来る類のものではない。
だが間違いなく、広がっていた。
闇が。
空間に。
世界に。
アサキの中に。
ヴァイスタ、という絶望した魔法使いの成れの果てを取り込んだ、アサキの闇が。
「いいね、いいね。いいね」
白銀の魔法使い至垂が、青ざめた顔に笑みを浮かべて、しきりに同じ言葉を繰り返している。
強がりの笑み、というわけでもないのだろう。
先ほど自分でもいっている。
本能的、原初的な恐怖。人間どころか、自分のような魔道器すらも恐怖を感じること。
それこそを、望んでいたと。
何故ならそれは、世の理を捻じ曲げるほどの、絶大な絶望に他ならないからだ。
どおん
また、爆発が起きた。
アサキの身体から、抑え切れず滲み出たごく微量の魔力。それが弾けただけというのに、爆弾とでもいうべき破壊力で周囲を吹き飛ばし、轟音、爆風に、ぐらぐらと激しく揺れた。
内圧膨張状態で起きた最初の暴発で、既に壁も天井もほとんど消し飛んでいたが、この暴発により部屋はさらに粉々吹き飛んでいた。
床も、揺れにより亀裂が深く大きく広がっていた。
「いいね」
笑む、至垂。
ぐ、が……
アサキが呻く。
一つ目で、目の前に立つ白銀の魔法使いを睨みながら。
2
飛び交う怒号、苛立ちの声。
混乱し、慌てふためく声。
朝空の遥か下である地上では、大勢の人々が右往左往し逃げ惑っている。
ここはリヒトの東京支部。
行き交う多数である白衣を着た男女は、ほぼ間違いなく全員がリヒトの研究員だろう。
スーツ姿の者も、おそらくほとんどはリヒト関係の者だろう。
魔道着姿の女子たちも大勢だ。
今回の至垂捕獲作戦に参加したメンシュヴェルトの魔法使いと、阻止の命を受けたリヒトの魔法使いと、両方であろう。
リヒト所長、至垂徳柳を、捕らえるべく、守るべく、双方それぞれの行動をしていたが、施設が爆発して粉々になるという予期せぬことが起きて、現状把握も目的も分からなくなってしまっているのだ。
と、このような騒ぎの中であるからして、九人の女子がボロボロの格好で棒立ちに立ち尽くしていても、特に目立つものでもなかった。
九人の女子、
メンシュヴェルト東葛エリア、我孫子市天王台の魔法使いが六人。
昭刃和美、明木治奈、文前久子、嘉嶋祥子、天野姉妹。
それと、メンシュヴェルト広作班の三人。
ほんの数分前までは、みな建物の中にいた。
そこにはアサキも至垂もいたが、突然の大爆発に巻き込まれて、気が付けばこの九人だけが、ここに立っていた。
理性の消し飛ぶその前に、とアサキが逃してくれたのだろうか。
それとも、ただの偶然なのだろうか。
九人とも怪我だらけ。酷い見てくれである。
特に広作班リーダーの仁礼寿春など、右腕がない。
全員、防具は粉々に砕け、まともに身を覆っておらず、魔道着も至るところ切り裂かれ、燃え、焦げ、溶け、半裸同然である。
なのに肌の露出を感じさせないのは、無事なところを探すのが難しいほどに傷だらけだからだ。全身が血にまみれているからだ。
疲労感も目立っている。
立ち姿、肩、顔の色、ずっしり重い。
もしまたリヒトの魔法使いとまた戦うことになったとしても、果たして立ち向かおうと思える元気すら、残っているかどうか。
それほどの疲労困憊感が彼女たちからは漂っていた。
立ち尽くす彼女たちの目の前は、変わらず騒々しい。
パニックに逃げ惑う、白衣の者たち。
狼狽え、上層への指示を求めている魔法使いたち。
カズミたち九人は、まだ建物の中での激戦や悲劇が肌に残っているのか、違和感、消失感、ぽかんとした表情で、ただ立ち尽くしている。
そんな中、いち早く我に返ったか、明木治奈が小さくため息を吐いた。
「よかったわ。フミが、ここにおらんで」
フミとは、明木史奈のこと。治奈の妹だ。
「そういや、フミちゃん助けにここへきたんだよな」
そう、カズミのいう通り彼女たちは、誘拐されたまだ小学生の明木史奈を救出するために、ここへやってきたのだ。
その史奈は、別働隊として潜入していた天野姉妹によって救出されている。
メンシュヴェルトとしては、至垂を捕らえて盟友であるリヒトを横暴独裁から解放するという目的があったため、そのまま史奈救出のメンバーを先陣として、作戦を展開。
上層直属チームである広作班を送り込み。
その他の戦力も、続々と送り込むべくここリヒト東京支部へと向かわせた。
だが、至垂への対応をめぐって、仲間割れとも呼べる戦闘に入ってしまう。史奈だけでなく、アサキの義父母までもが人質に取られおり、どうすべきか対立が起きたのだ。
アサキは仲間たちに懇願して無抵抗を貫き、片目を失い、全身を切り刻まれ、四肢ほとんどを切断されるという、生きているのが不思議なくらいの酷たらしい姿になってしまう。
自分の生命に変えても父母や、母から生まれてくる生命を守ろうとしたのだが、その先に待っていたのは、首を切り落とされた両親の姿。
ただアサキを絶望に追い込みたいだけの至垂が、約束など守るはずもなかったのである。
そして、アサキの絶望に満ちた魔力が暴発し、気が付けば、九人はここに立っていたというわけである。
3
身の危険というだけでなく、この凄惨な光景を見せずに済んだことに、治奈は安堵しているのだろう。
なお、救出された史奈がどうなったのかであるが、既に身柄は無事に我孫子である。
文前久子が嘉納永子に、送り届けるよう頼んだのだ。
飛翔魔法で身は既に自宅。
拉致された前後の記憶も消去した、との永子からの報告だ。
治奈が、また小さなため息を吐くと、不意に、うっと声を詰まらせた。
目にはじわり涙が溜まっている。
「どうしたんだよ、治奈」
隣のカズミが気づいたようで、問い掛ける。
「いや、うちの家族は無事じゃったけど、じゃけえ、アサキちゃんは……」
同じ人質でありながら、片や無事で、片や酷たらしい死を遂げたのである。
責任はないとしても、避けられないものであったとしても、話の流れ的にきっかけを作ってしまった身としては、申し訳ない気持ちになるのだろう。
犠牲になった二人とは、治奈も知った顔。そんな情もあって、なおさら。
「アキビンちゃんが、自分を責める必要はまったくないんだよ」
文前久子が、優しい口調でなだめる。
言葉受けて今度はカズミが、強く治奈の背中を叩いた。
「そうだよ。あたしだって、直美さんとはよく喋った仲なんだ。二人を助けられなかった力のなさに、あたしだって自分をボコボコにブン殴りてえよ。でも、いまはそれどこじゃねえだろ」
カズミは、微かに鼻をすすった。
「しかし、一体なにが起きているのだろうな」
「それどこじゃねえ」に反応したか、広作班リーダーの仁礼寿春がぼそり、目の前の建物を見上げた。
リヒト東京支部であり、研究所でもある、五階建てのビル。
だが現在、三階以上は粉々に吹き飛んで、存在していない。
下の階も、壁に亀裂が酷く、いまにも建物そのものが崩れそう。
アサキの魔力が、怨念が、暴走したその結果である。
と、また異変が起きた。
まだアサキはそこにいるということなのだろうか、建物から黒い光が天を突いた、かと思うと遅れて大きな爆音。粉々になった建物が、噴水さながらに吹き上がると、地面がぐらぐら激しく揺れた。
「さっきより凄い爆発だね」
天野姉妹の、妹がぼそり。
文前久子がワンレンの髪を掻き上げながらいう。
「令ちゃんの魔力が、闇が、強まっているということ、なのかな。反対に、自制心が弱まっているということなのか」
「くそ、助けに行きてえけど……」
悔しい、情けない、腹立たしい、そんな表情で、カズミは地面を蹴った。
みな、ここでただ呆然としているわけではない。
好きでただ立ち尽くしているわけではない。
おそらくはアサキから放たれているであろう魔力の波動、それが無意識下を威圧して、現在立つ場所より一歩たりとも近付くことが出来ないでいるのだ。
近付けないどころか、ここからでも感じるアサキの、膨れ上がり続ける闇に、じりりじわりと少しずつ後退させられているくらいである。
「世界がどうなったとしても、それによりぼくたちがどうなったとしても、それは、人類への天罰なのかも知れないね。例えば、至垂のような傲慢で歪んだ生物を、生み出して、のさばらせてしまった罪、とか」
左右が銀と黒に分かれている特徴的な髪の毛、嘉嶋祥子の、自虐の混じった寂しい笑み。
「誰の天罰って話だよ。理不尽だろ」
天野姉妹の姉、明子が、憮然とした顔を祥子へ向ける。
「神がというなら、そもそも理不尽なものだろう」
広作班リーダー仁礼寿春が、独自の真理とでもいう言葉を発する。
と、またビルから黒い光が天を突き刺し、爆発が起きた。
爆音、こちらまでぐらぐら激しく地面が揺れた。
闇が、さらに濃密になっていた。
どろどろと、そして深いものになっていた。
あくまで、彼女たち魔法使いの感覚的なものではあるが。
だが、であるからこそ、間違いない。
これは、この世の終わりなのか?
近付いているのか?
そう思わせるに足る、渦巻く怨念めいた闇が、確実に、じわじわと広がっていた。
既に朝。
太陽は上り、見上げる空はこんなにも爽やかな、青い色であるというのに。
だが……
これは果たして、異変の一言で片付けられるものであるだろうか……
最初に気が付いた仁礼寿春が、
「おい、見ろあれを……」
一本しかない腕を上げて、空を指差した。
いわれて、みなは人差し指の示す方へと視線を向ける。
ぞくり。
見上げる全員の表情が、総毛立ったものになっていた。
「おい……なにが、どうなってんだ……」
カズミは、唖然とした表情でごくり唾を飲み込んだ。
それ以上の言葉が出ず、空を見上げながら、周囲の魔法使いと一緒に立ち尽くしていた。
4
至垂徳柳が震えている。
そして、微笑んでいる。
青白い炎に照らされながら、弱気と強気の混じった顔で。
自分が畏怖という感情を抱いていることに、喜悦しているのである。
数メートル前に浮かんでいる、その、めらめらと燃えている、ゆらゆらと揺れているのは、令堂和咲だ。
腕を切られ、足がもげ落ちて胴体だけの、顔もぐずぐずで、もはや肉塊といって過言でない、そんな彼女の身体が青白い炎に包まれ燃えているのである。
包み込む炎に、ぼろぼろと肉体の崩れが進み、滅んでいく中、潰されていない方の目を薄く開いて至垂を睨んでいる。
ぶるるりっ……
アサキの眼光に、至垂の身体が畏怖し震える。
畏怖し震えることによる嬉しさに、唇が釣り上がる。
「何故きみであったのか。それを教えてあげよう」
超ヴァイスタの素体としてアサキを選び、それに固執し続けた理由、ということだろうか。
聞かせることで、より心を追い込めると思ったか。
勝利宣言に酔っての軽口か。
いずれにせよ、
「どうでもいい」
軽く鼻であしらわれるだけであったが。
アサキからすれば、当然のことだ。
いまさらそんな話を聞いて、戻るのか?
なにもなかった頃に。
修一くん、直美さんが生きていた頃に。
正香ちゃんが生きていた頃に。
成葉ちゃんが生きていた頃に。
ウメちゃんが生きていた頃に。
みんなで笑い合えた頃に。
戻るのか。
話を聞けば、戻るのか?
戻してみろ。
神になるなど御託を並べるのなら、他のみんなを戻してみろ。
代わりに、わたしの生命をくれてやる。
永劫、生まれてこなくてもいい。
戻してみろ。
みんなを!
どおん
青白く燃えているアサキの身体から黒い光が生じて、突き伸びて天を打った。
同時に、内面から膨れ上がる魔法力が溢れて爆発し、既に崩れている周囲の壁や天井が、さらに砕けて弾け飛び、床が激しく揺れた。
「慶賀応芽も、魂を砕かれ死んだ妹を蘇らせるため、絶対の力を求めていた。が、きみらへの愛着が生まれてしまい、ヴァイスタに頼らない『絶対世界』への道を探し始めた。そんな方法など、あるはずないのにね」
聞かれずとも語り出した至垂は、そこでいったん言葉を切って、咳払いを立て続けに二回。
怨念めいた視線を受け続ける歪んだ恐怖と喜悦、続く緊張に、喉が相当に乾燥しているのだろう。
「ヴァイスタは必要だ。魔法使いの絶望により生み出されるのがヴァイスタで、さらに深い絶望から生まれるのが超ヴァイスタ。しかし、絶望だけからでは活力が生まれない。怠惰感や、はなから破壊衝動のみでは、落差が生まれない」
「それで?」
さして興味なさそうな、アサキの冷たい声。
「だからきみや仲間たちの、前を向く強さに『いいね』と思った。ヘドの出るような薄甘さが。それが落差を生み、超ヴァイスタという概念を作り出すのだから。そして状況は整い、そして時もついに……満ちた!」
異様な爆音。
凝縮された粘液が、一気に弾け飛ぶとこんな音だろうか。
実際、ある意味で本当に凝縮された粘液が爆発したのである。
薄皮の向こうである異空側にいる無数のヴァイスタ、その身体が爆発したのである。
一体のみに終わらず。
次元境の向こう側で、次々とヴァイスタが爆発している。
弾けては、消えていく。
……いや、消えたのではなく、形状を変化させていたということなのか……
ヴァイスタが砕かれて、次元境が突き破られる音が鳴り止まぬ中、不意に、どどっと白い液体が川となり流れ込んできたのである。
異空から、現界へと。
激しく暴れる、真っ白な濁流が。
どうんどうん、とその真っ白な濁流の渦巻く中、
「さあ、行こうか!」
リヒト所長、至垂は、本能に強張ったまま妙に張りのある大声を出した。
恐怖に笑いながら、ゆらゆら燃える青白い炎へと手を突っ込んだ。
崩れに崩れもはや胸と頭しか残っていないアサキの、髪の毛を無造作に掴んで引き寄せようとする。
「ぐっ!」
呻き声と共に、手を離し腕を引いた。
視線を落とし、至垂は自分の手を見る。
指が、なくなっていた。
中指と、人差し指が。
アサキが、噛みちぎったのである。
顔をひねって、髪の毛を掴む手を振りほどきつつ、躊躇なく噛り付きもの凄い力で噛みちぎったのである。
苦痛に呻きつつも至垂は反対の腕を伸ばして、再びアサキの髪の毛を掴んだ。
二人の周囲には、怒涛の流れが渦巻いている。
真っ白で、どろどろ濃密な、粘度のある液体が。
潰れて飛び散ったヴァイスタの残骸、それらが集まったものである。
この怒涛の流れは、どこから始まりどこへ消えるかという疑問の生じる光景である。だが、ヴァイスタ自体が怨念という精神エネルギーであることを考えれば、不思議なものではないだろう。
唸り牙を剥く、ヴァイスタ以上の怨念と化しつつあるアサキを掴みながら至垂は、その白い濁流の中へと身を分け入らせた。
真っ白な濁流の、流れが不意に変化した。
透明ななにかが、突き入り、突き破り、突き抜けると、ヴァイスタの濁流による真っ直ぐな道が出来上がっていた。
その道の、その先へと、至垂は溶け入るように姿を消した。
悶え抵抗する、怨念に満ちた赤い頭髪を掴んだまま。
5
雷鳴?
骨の髄までを震わせる、低い音が響いている。
アサキから発せられている。
崩れ、溶けて、肉体をほとんど失いつつも、反比例的に膨れ上がる魔力や思念怨念が、激しく衝突しては弾け散っているのだ。
その、アサキの髪の毛を、がしりと掴んで吊るし持っているのは、白銀の魔法使い、リヒト所長の至垂徳柳である。
ずっと掴み持っている、つまり接触している、その影響であろうか。至垂の肉体までが、奇妙な状態になっていた。
見た目が、デジタル画像のブロックノイズのように、五平方センチほどのタイル状になっているのだ。
肉体の変質によるものか。
それとも光の屈折、または精神作用によりそう見えるだけなのか。
奇妙は、周囲にも起きている。
ごおん、ごおん
真っ白な、どろどろと溶け合った濃密なものが、激しく渦巻いているのだ。
この、密閉された空間の中を。
大河の如く、大きく大量に。
土砂崩れの如く、激しく大量に。
ここは、体育館ほどの広大な空間。
窓がなく、飾りがなく、カビ臭い。
地下シェルターの貯水場を想像させる、広大な空間である。
その、端である壁際に、白銀の魔法使い至垂は立っている。もうほとんど首しか残っていないアサキの、赤い髪の毛をむんずと掴み吊るしたまま。
目の前にある広い床の中央には、巨大な五芒星が描かれている。
鮮血にも見える、真っ赤な塗料で。もしかしたら塗料などではなく、本当に血であるのかも知れない。
「あの中心が、『扉』だ」
それは、赤毛の少女へ聞かせようとした言葉であるのか。
自分の決心を、確かめるものであったのか。
巨大な五芒星の、その中央を見ると、さらに小さな五芒星が描かれているのが分かる。
その中央には、さらに小さな五芒星。
何重かになっているその中心からは、真っ白な光が吹き上がっている。十数メートルはあろうかという高い天井へと、突き刺さっている。
まさに光の柱である。
白銀の魔法使い、彼女の発した言葉が本当ならば、こここそが日本の半分を覆う超巨大な五芒星結界の、最々々中心部。「絶対世界」への扉、ということになる。
実際それは事実であった。
ここは東京、平将門の首塚すぐ近くにある、大きな神社の地下深く。組織より「中心」と呼ばれるところであり、この光の柱こそが『扉』なのである。
扉にヴァイスタが触れることで、「新しい世界」が発現し、世界は滅びを向かえるといわれている。
半分は正解だが半分は間違いだ。
滅ぶのは、「流れの導き手」がいないためである。
そうなると世界は乱れ歪み、神たる「理」としては、世界をリセットせざるを得ない。それが、世界が滅びるといわれている理由の、最新学説だ。
だが、超ヴァイスタが扉に触れたのならば、話が違う。後に続くヴァイスタの導き手となって、正しき場所へとエネルギーを運べるようになる。本来の「新しい世界」、つまりは「絶対世界」へと行くことが出来るのだ。
真実かは否かは定かでないが。学説ではあるが、まだ誰も試した者はおらず、当然、目撃した者もいないのだから。
だが、至垂は、それを真実であるとして準備を進めてきた。
真実であるとして行動した、その結果がこの光景である。
怒涛の、真っ白な流れ。
真実の世界へと繋がろうとしている、液状化したヴァイスタによる濁流。
魔道器魔法使いという造られた生物が、成り上がってリヒトを牛耳り、さらには神の世界へ行こうとしている。至垂が知らずほくそ笑んでしまうのも、当然というものではあろう。
どろどろと粘度のある真っ白な液体が、怒涛の勢いでこの広大な空間の内周をぐるぐる回っている。
地を揺らし、低い唸りを上げ、大河の如く、竜が如く。
ヴァイスタが潰れ溶け合って、存在の有り様を変えたものである。ザーヴェラーの一種、ともいえようか。
濁流が作る輪が、急速に狭くなってきていた。
つまりは、ヴァイスタが触れれば世界が滅ぶという『扉』に、ヴァイスタが迫ってきていた。
ある程度まで輪が狭まったところで、ぐるぐる同じ軌道を回り続けているのは、最後の結界を破ることが出来ずにいるのか。
それとも、躊躇しているのか。
それとも、時を待っているのか。
白銀の魔法使い至垂の、身体の崩れがより酷くなっていた。
本当にそう変化しているのか、見る者の視覚に訴えているだけなのか分からないが、まるでブロックノイズだらけのデジタル映像といった見た目の、その乱れがより酷くなっていた。
至垂と知っていなければ、至垂と気付かないのではないか、というほどに。
怨霊と化しつつあるアサキの首を掴んで持っている、つまり直に触れているためである。魔力磁場の影響に、空間がズレて視認情報に影響を与えているのである。
無数のタイルがズレにズレて、といった見た目の至垂は、その乱れたデジタル画像然の右腕を持ち上げると、ぱちんと指を鳴らした。
光だ。
周囲全方、横に縦に、次々と、数センチ四方の光が浮き上がった。
空間投影された、モニター画面である。
サイズは大小様々、五百枚以上はあるだろう。
特に大きな数枚は、定点カメラによる映像だ。
先ほどまで彼女たちのいた、リヒト支部。
さらには、大阪本部の中や、玄関前の映像。
仙台、大阪、佐渡ヶ島、青ヶ島、各地区に配置された五芒星結界が存在している、霊舎や、建物エントランス。
モニターの中の映像もここと同様に、地面や床がぐらぐらと激しく揺れている。
カメラは、結界の守護に仕えている魔法使いたちが、異変に狼狽えている姿を捉えている。
スーツや白衣姿の男女が、情けなく逃げ惑っている姿を捉えている。
さらには、無数の真っ白な巨人がひしめき合う姿を捉えている。
……これは、どうしたことであろうか。
映像の中の真っ白な巨人、ヴァイスタが一体、また一体と、崩れていく。
身体が砂と化して、空気に溶けて、消えていく。
これは、どうしたことだろうか。
遠い地での映像のはずなのに、モニターの中でヴァイスタが消滅するたび、この地、白銀の魔法使い至垂が踏みしめている足元が、どうん、どうん、激しく震える。
都度、ここ中央結界に秘める闇が深まっていく。よりどろどろ濃密になっていく。
これが数枚の、定点カメラらしき映像である。
対して、五百枚のほとんどを占めている小さなモニター映像は、視点がばたばた目まぐるしく動いていることや、位置の低さからして、リストフォンのカメラであろう。
「死ぬな! ぜ、絶対に助けはくるから!」
「うああああああ!」
「む、無理、キリがない……ああああ、ミヤちゃん後ろおお!」
「ちが、て、手だけじゃない! え、わ、わたしも……え、ええっ!」
「どこからヴァイスタが、こんな……」
若い女子の声ということや、話す内容からしても、明らかであろう。
つまりは、魔法使いの着けているリストフォンが映している映像であるということだ。
左手首からの視点であるため分かりにくいが、大多数の映像は武器を持ち戦っているものである。
仲間たちと一緒に、白い巨人、ヴァイスタと。
映像の主からも、周囲にいる仲間たちからも、酷く慌てている様子、混乱している様子が見て取れる。
あまりにも突然、ヴァイスタが出現したのだろう。
または、あまりにも大量のヴァイスタが出現したのだろう。
その両方であるかも知れないが、映像からはそこまで分からない。
慌てている中でのさらに左手首視点なので分かりにくいが、彼女たちも至垂と同様に、奇妙な見た目になっていた。身体全体がブロックノイズ、乱れたデジタル画像みたいな。
いや、ノイズならばマシな方で、中には、両断された胴体が斜めにずるり大きくズレている、としか見えない者までいる。
彼女たちの、自らの身体を見る蒼白な顔からして、このモニター映像の乱れというわけではないだろう。
かつて経験したことのない、ただ事ではない事態に、恐れを抱き困惑しながらも、ヴァイスタの群れと戦っている魔法使いたち。
ズレる身体、崩れる身体、という違和感や恐怖感に、まともに戦えるはずもなく。次々、ヴァイスタの餌食になっていく。
通常、ヴァイスタ戦で犠牲者が出ることなど、ほとんどないといわれている。稀に出る犠牲者の大半は、ザーヴェラーによるものだといわれている。
だというのに、モニター映像の中で、一人、また一人、魔法使いが死んでいく。
ぐるり周囲の五百以上もあるモニター映像を見ながら、至垂の顔は実に満足げであった。
どるっ、
どむっ、
モニターの中で、ヴァイスタが消滅する都度、
魔法使いが狂気に侵されるほど、
殺害される、その都度、
どるっ、
どくん、
闇が、膨らむ。
空間内圧が高まり、爆発しそうなほどに、膨らむ。
絶望により、闇が。
溶けたヴァイスタや、死地に陥りつつある魔法使いたちの恐怖。そうした黒いエネルギーが、この中央結界と連動して、なだれ込んできているのだ。
また、モニター映像の一つが、悲劇を映し出す。
薄桃色の魔道着の魔法使いが、狂い、笑いながら、ヴァイスタへと変じていくところを。
周囲の者が次々と食われ殺された絶望に、耐え切れずに。
その悲劇の映像は、それを見ている仲間のカメラ映像のようだ。
そうして新たに誕生した、『魔法使いの成れの果て』。
闇が濃いほどに全身ぬるぬる真っ白なそれは、不意に映像の主へと飛び掛かった。
悲鳴が上がる。
映像の半分が隠れてしまう。
押し倒されたのか、映像の残る半分がガタガタ激しく揺れる。
そして、動かなくなった。
青い空が映ったかと思うと、またすうっと暗くなる。
生まれたばかりであろうヴァイスタが、多い被さっていた。
そして、真っ白な、のっぺらぼうの顔を、ゆっくり落としていった。
再び、映像が震え始める。
くちゅり、がつり、という音を、マイクが拾っている。
映像だけでは、明後日の方向を映すだけで、なにが起きているのかまでは分からない。
だが、なにが起きているかなど映し出すまでもなく分かること。ヴァイスタが、獲物の腹を食い破り、内臓を食っているのである。このカメラ映像の、リストフォンの持ち主を、食っているのである。
不意に、顔が映った。
息継ぎ、か分からないが、頭を持ち上げたヴァイスタの、血にまみれたのっぺらぼうの顔が。
と、真っ白な顔の真ん中から、ずぶりとなにかが突き出した。
槍の、穂先であった。
仲間であろうか。
オレンジの魔道着を着た魔法使いが、泣きながら、槍でヴァイスタの後頭部を突き刺し、貫いたのだ。
ガタガタ震えながらも、オレンジの魔法使いが、昇天魔法を唱える。
だが、呪文が間違っているのか魔力が足りていないのか、ヴァイスタに昇天の兆しはまったく見られなかった。
慌て唱え直すが、状況は変わらない。
昇天させない限りヴァイスタは滅びない。やがて復活してしまう。
せめてその復活を阻止しよう遅らせようということか、オレンジ色の魔法使いは、再びヴァイスタへと槍を突き刺した。何度も、何度も、胴体を、身体を。何度も、何度も、突く、穂先で薙ぐ、切り付ける。
ぶちゅり、ぶちゅり、白いゼリー状の物体が弾け飛ぶ。
必死に槍を振るう、オレンジ色の魔法使い。
やがて、恐怖に耐え切れなくなったか仲間の死の悲しみが限界を超えたか発狂、腹を抱えて笑い始めた。
オレンジ色の魔道着が、びりり内側からはち切れて、布地すべてが地に落ちた。
あらたなヴァイスタが、誕生していた。
この映像に限らない。
どれも、狂っていた。どれも、狂気に満ちた、映像であった。
そんな五百ほどもある映像を見ながら、白銀の魔法使い至垂徳柳は、にやり唇を釣り上げる。
「データからの推測通りだな。地方配属者ほど、基本的に魔力は弱いからな。この魔力磁場変動に、抵抗力がないんだ」
顎に指を当てて、楽しそうに画面を見ているが、やがてまた、小さく口を開く。
「でもまだ、きっかけが呼び起こす通常のヴァイスタ化に過ぎない。磁場変動で、率が変わっただけ。……つまりは、まだまだこれからということか。さあ、見逃すな。令堂くんの絶望が、どんどん加速して、どんどん伝播していくぞ」
「絶 望も、なに、も、さっき、から……」
アサキの声である。
ほとんど生首に近い無残な姿で、至垂に髪の毛を掴まれ吊るされている、アサキの声である。
至垂はあえて無視か、乾いた顔を嫌らしく歪めて、
「しかし、令堂くんの念がこれほど強大とはねえ。まだ『扉』が開くどころか、触れてすらいないのに、救い求めてうごめく闇の魂たちが、きみの魂の絶ぼ……」
「絶望はしないといった!」
ごう、と風が起きた。
血まみれの、ぐしゃぐしゃに潰れた顔で、アサキが睨み怒鳴ったのである。
「してるからこうなってんでしょおーーお!」
ははあっ、と笑いながら至垂はアサキの生首を振り回した。
髪の毛を掴んだまま、ぶうんと遠心力。反対の手に握られている剣先へと、アサキの頭部、顔面を、振り下ろした。
がぢゅっ
鼻の軟骨が砕ける音。
アサキの顔の真ん中に、剣の切っ先が突き刺さっていた。
だが、ただそれだけのこと。アサキのドス黒い眼光に、いささかの変化もなかった。
顔の真ん中に剣が深く突き立っているというのに、痛みなどまるで感じていないのか、感じてそれすら負の念を生む原料なのか、アサキは一つしかない目で至垂を睨み続けている。
望む反応のないことに至垂は、ふんと鼻を鳴らした。
アサキの顔を押さえてぐちゅり剣を引き抜くと、その生首を今度は高く放り投げた。落ちてくるところを狙いすまして、剣を振り上げながら斜めにぶったぎった。
爆音と、ばじり電気の弾ける音が混じり、アサキの頭部が爆ぜ、破裂、爆発し、飛び散っていた。
赤毛の少女の頭が半分、消えてなくなっていた。額から頭頂にかけての、左側が完全に吹き飛んでいた。
なんという、不思議で、気味の悪い光景であろうか。
アサキの身体は溶けてほとんどなく、生首といって過言でない。
剣を深く突き刺された鼻っ柱は、じくじくとした、真っ赤な空洞が見えている。
さらにはいま頭を半分吹き飛ばされて、頭蓋骨の中には飛ばされず残った脳味噌がぐちゃり潰れている。
そんな状態であるというのに、
そんな状態の、形相の、怨念に満ちた顔が、空中に浮かんでおり、赤い前髪の隙間から、リヒト所長を睨み続けているのだから。
片方はとうに潰されており、残っている片目で。
これほどに、不思議で、気味の悪い光景があるだろうか。
だが白銀の魔法使いに、驚く様子はまるでなく、
「首だけになっても、頭が半分なくても、生きている。それは霊的存在になりかけている、つまりヴァイスタ化が始まっているということに他がならない。……だが、まだ人の身のうちに、ここまで肉体を失えば、キマイラとはいえ普通は生きていられない。……なのに、きみは生きている」
ふふ、と笑うのみであった。
至垂は、手を伸ばす。
空中に浮かんでいる赤毛の少女の生首へと。
掴もうとするが、映像であるかのように、するり抜けてしまう。
霊的存在、という自分の言葉を立証したのである。
「インアインアンデウエルト」
呪文を唱えながら、再び手を伸ばす。
今度は、掴めた。
頭の半分、そこに生えている赤い頭髪を、しっかりと。
触るな。
言語思念を発し、もがき、逃れようとするアサキであるが、至垂は笑みを浮かべたまま。
「さあ、そろそろ頃合いか」
前へと、歩き出す。
物理的、霊的、双方から赤毛の少女をしっかり手に掴んだまま。
何重にも描かれた五芒星の、中心へと。中心にある光の柱、つまりは『扉』へと。
離、せ。
発せられる、赤毛の少女の強烈な思念。
口を開かないのは、もう開けないからだ。
顔面の中心を、肉の厚い洋剣で深く刺し貫かれているため、鼻どころか口もぐちゃぐちゃ。大きく穿たれた奥にぐずぐずと赤黒い中身が覗いているという状態で、物理的に動かしようがないのである。
離せ……
赤毛の少女、アサキの言語思念。
至垂の耳に、入ってはいるのだろう。
だが無視して、いや、おそらくは聞こえていてむしろ心地よさげに、一歩、一歩、ゆっくり、進んでいく。
結界の、中心へと。
『扉』へと。
離せ……
「断る」
なお歩き続ける至垂であるが、次の瞬間、指がもげて飛び散っていた。
ぼっ、
という爆音と共に、アサキの髪の毛を掴んでいる至垂の指が爆発し、すべてちぎれ、くるくる回り飛んで、空中へと散らばり、落ちた。
それは、アサキの魔法によるものであったか。
単純な、恨みの念力であったのか。
いずれにせよ、己の指を飛ばされても至垂はまるで動じなかった。
予期、覚悟していたのか、お得意のなんにも気にせずその時任せか、指で掴めないなのならば、と腕を伸ばしてアサキの頭部を小脇に抱え込んだ。
部屋の内周をうねうね動いていた、潰れ溶けたヴァイスタ集合体、その川の流れであるが、至垂が中心へと近付くに連れて輪が狭まっていた。質量保存の法則を考えると、狭まった分がどこへ消えたのかは謎であるが、霊的存在だからというしかないのだろう。
離せといっている!
言語思念の叫び声。
再び、爆発が起きた。
至垂の、アサキの頭部を抱えている腕が吹き飛んだ。
小脇に抱えていたため、脇腹も魔道着ごと深く大きくえぐれて、骨や内臓が見えていた。
だが至垂の顔は、痛みに僅かしかめることすらもなく、吹き飛ばされたその瞬間には既にもう片方の腕を伸ばしていた。
先ほどアサキに指を食いちぎられた方の手であり掴めないため、また小脇に抱え込む。
残るその腕も爆発して、ちぎれ飛んだ瞬間、至垂は頭でぐいと押した。
失った両腕の代わりに、自分の額を当てて。
頭部だけという状態になった赤毛の少女を、押し込んだ。
結界の、最中央へと。床から天井を突き刺している、真っ白な光の柱へと。
触れた。
その、瞬間であった。
白い光の柱が、音もなくすうっと太く広がり始めたのは。
広がり、砕き、吹き飛ばしている壮絶にも見える光景というのに、それはいっそおだやかで、ほろほろと溶けるかのように音もなく、光の柱が、広がっていく。
そこに見えるは空……
いや、空であり、空でなかった。
空ではあるが、空ではなかった。
広がる光が、異空と現界との境界を、ほろほろと魚の身をほぐすかのように、音もなく破壊していく。
現界と異空とが、溶け混ざっていく。
次元の、対流。
ヴァイスタ集合体である真っ白な大河が渦を巻いて、ぐるぐると、うねうねと、すべてを飲み込むべく、内へ、外へ、上へ、下へ、広がり、広がる。満ちる。満ちていく。
至垂の周囲になお浮かんでいる、大小数百枚のモニター映像。
その中では、魔法使いたちが発狂し、
叫び、
呪い、
膝を着き、
頭を抱え、
身体がぼやけて、
崩れて、
顔が消えていく。
白く、ぬるぬるとした物へと、変わっていく。
そういう結末の魔法使いだけを映しているのか。
それとも、存在するすべての魔法使いが現在そうであるのか。
映像の中の魔法使いたちは、次々とヴァイスタへと存在を変えていく。
至垂、
両腕のない、脇腹をごそりえぐられた、至垂徳柳は、叫ぶ。
うねる、満ちる、周囲の大河と、そしてその映像を見ながら、確信持った表情で叫ぶ。
「繋がった!」
と。
「見るがいい! 畏怖するしかない小人は、自己存在自体に絶望し、もうヴァイスタになる以外の道はない。人であるが故の本能、反射であり、抗うことは不可。不可!」
ふざけ、るな……
こんなこと、をして、なにに、なる。
アサキの、憤り。
言語思念。
至垂への個人的な恨みに凝り固まっているとはいえ、このような凄惨な光景を見せられて、黙っていることが出来なかったのだろう。
その憤りの念は、微塵も届いていないようであるが。
「もう、止まらない。係数も導き出された最適解に固定された。女だけではない。男ども、動物、微生物、魔力のほとんどない生き物すらも、いや、無機物すらもヴァイスタになる。救済を求めて。そして! それらがたどり着くべき世界への、流れを作り、導くのは、令堂くん、きみだ!」
天を突き刺す真っ白な光に、包まれながら。
低く唸るうねり流れる、真っ白な流れに囲まれながら。
両腕を切り落とされて脇腹もえぐれて、血がじくりじくり流れているというのに、痛みに顔を歪めるどころかむしろ恍惚然と饒舌に叫び続けていた。
現界と異空の溶け合う、空を見上げながら。
6
無理もないことだろう。
この異様な空の模様に、驚くことも、怖れることも。
いかような物理法則によるものか。
それとも、ただの夢、または幻影であるのか。
青い空に、亀裂が入っている。
正方形のパネルが、裏返るように一つ消え、二つ消え、青空から無機質なグレーへと変わっていく。
空でなくなった空。
そのグレーのパネルには、文字が逆さまに書かれている。
裏から透かして見ているように、逆さまに。
コンピュータに精通している者ならば、すぐに分かっただろう。
書かれているのは、量子ビットを文字列に変換したものであると。
空が、ぶるぶる震えている。
軋んでいる。
悲鳴を、上げている。
ぴしり、ぴしり、
亀裂が生じては、剥がれ落ちるでなくパネル状に裏返って、青空からグレーへと変わっていく。
量子ビット文字のびっしりと書かれたパネルに変わっていく。
「なんだよ、この空は……どういう、ことなんだよ! アサキもだよ。あいつ、どこへ消えちゃったんだよ!」
青い魔道着、カズミが怒鳴っている。
地面へとイラ付きをぶつけ、踏み付けている。
その隣にいる治奈、原因は同じなのであろうがでも反対に弱々しい表情だ。弱々しい、泣き出しそうな顔で、空を見上げている。
「アサキちゃんに、なにがあったのじゃろか? 魔力は感じたから、生きては、おるんじゃろうけど、ほじゃけど……」
泣き出しそうな顔で、狂い始めた空を見上げている。
震える手を、ぎゅっと握り締めている。
果たしてこれは、なにかの魔法によるものなのか。
だとして、物理現象か、幻影か。
どういうことであるのか。
どうなろうというのか。
世界が、ついに終わろうとしているのか。
青い正方形のパネルが、ぱたんぱたんと裏返ってグレーに置き変わっていく。
そんな空の下を、人々が慌た様子で逃げ惑っている。
さらに向こうに見えるのは、リヒト支部の本棟ビル。
低層より上階を完全に吹き飛ばされており、もう単なる二階、三階建てであり、ビルという言葉からのイメージはない。それどころか、いまにも崩れて自重ですべてが潰れそう。
もう、ほぼ瓦礫である。
魔法使いたちは、途方に暮れていた。
それらの光景を見ながら、なにをすることも出来ずに。
「なにが……なんだか」
ぽかんとした口から声を発するのは、天野姉妹の姉、明子。なにが現実であるのか、すっかり困惑している様子である。
さもあろう。
目の前にある、倒壊寸前の支部本棟。この中に、ほんの数分前まで、彼女たちはいたのだから。
建物の吹き飛ぶ直前に、アサキが魔法で仲間を避難させようとしたのか。それとも、理性を保てず魔力が暴発したのか。
とにかく彼女たちは、アサキの力によって、壁の大穴から外へと吹き飛ばされたのである。
吹き飛ばされ、唖然呆然としているうち、今度は空が地震のごとくがたがた震え、亀裂が入り、崩れ始めた。
空の崩れた向こうに、空間は存在せず。量子ビット文字列が逆さまに記述されているだけという、まるでコンピュータ世界の内側に閉じ込められている想像画のような、奇怪な天幕があるだけ。
そんな薄気味悪い空に動揺しているうち、つい先ほどまで自分たちのいた、アサキのまだいるはずの建物が、大爆発を起こして吹き飛んだ。
それまでは、建物の上で真っ白に輝く太い光が竜のように河のように、ぐねぐねと回っていたのだが、爆発で建物が吹き飛ぶと同時に、その太い光は真っ直ぐに伸びて「橋」の形状を作り、次の瞬間にはすべて溶け消えていた。至垂とアサキの、魔力や気配と共に。
うねる白い光は、もうどこにもなかった。
そうして彼女たちは、途方に暮れつつ、ここに立ち尽くしていたのである。
次々と裏返っていく空を見上げていたのである。
「さっきの、一瞬ぴっと伸びて消えた光。その方向を考えると、『扉』かもね」
銀黒ツートンの髪の毛に魔道着、嘉嶋祥子の小さいがはっきりした声である。
「扉って、中央結界の? それが、この近くにあるのか? あっ、ひょっとして、だからリヒトはここに東京支部を作っていやがったのか!」
ボロボロの青魔道着、カズミは声を荒らげ強く地を踏み付けた。
「はあ? いまごろその疑問?」
天野姉妹の妹、保子が鼻で笑った。
ここにいる誰も、リヒトという組織があることなど、つい最近までは知らなかった。
数ヶ月前に所長である至垂徳柳がアサキに会いにきたという、それがリヒトを知った最初である。
それからしばらくして、アサキは至垂に招かれて、ここ東京支部を訪れることになったのだが、リヒトをいま一つ信用していなかったカズミも番犬的な役割を買って一緒に着いていった。
つまり、いまここにいる少女たちの中では、カズミが最初にこの地を訪れたわけで、それなのに地形条件からまったくピンときていないカズミに、保子は笑ったのである。『扉』に近いところにあえて建てたのではないかということ、仲間うちの雑談の中に散々に上ったことというのに。
とはいえ面と向かって笑われては、カズミも面白くない。
「なんだあ?」
眉釣り上げて、保子の胸倉を掴んだ。
「なんだよお!」
「二人とも、仲間同士こがいなとこで喧嘩しても仕方ないじゃろ!」
治奈が、カズミの手を両手で包んで、そっと引き離した。
「ごめんね、保子ちゃん」
と、保子の背中を優しくさすって、友人の非礼を謝った。
「それはともかくじゃ、うちらも、そこへ行ってみんと、いけんと思うんじゃけど」
険悪になり掛けた空気を戻したかったこともあるだろうが、本心も半分あるだろう。確かにこの状況、運を天に任せる以外には、進む以外の選択肢など彼女たちにはないのだから。
「ま、そうだな。くるんじゃねえってアサキのバカにえらい剣幕で怒鳴られたけど、もう、そうもいってられねえ状況だからな」
天野保子とのいさかいに、まだちょっと憮然とした感じのカズミは、顔をしかめながら後ろ頭をこりこり掻いた。
「そうだね。万が一にも、ヴァイスタが扉に触れてしまったら、もう世界はおしまいなんだから」
広作班リーダー、仁礼寿春が、リストフォンの画面を空間投影させ周辺地図を表示させた。右腕を失っているため、左手の指でタッチ操作しながら。
「『扉』の場所は、ここ。我々がいまいる場所から、徒歩五分くらいだ」
地図上、平将門の首塚の、すぐ隣にある神社マークを指差した。
「ここに行けば……」
「なにがあるかは……」
「分からない、けど」
「行かなきゃ、始まらない」
固めた決心に、頷き合う魔法使いたち。
仁礼寿春は、特に表情を前面に出さず、彼女たちの顔をただ見つめていたが、
「そこにある中央結界に、なにかしらのパワーが集まり始めている。と考えるべきなのかな」
残った左手を、顎の下に当てながら、ぼそり呟いた。
「なんだよ、パワーって」
カズミが、仁礼寿春へと問う。
つい先ほどは至垂徳柳への対応を巡って、あわや殺し合いに発展するところだったというのに、お互いにさっぱりしたものである。
「分かるはずないだろう。適当で構わないなら、より霊化して液状になったヴァイスタ集合体だとか、いくらでもいえるけど」
この尖ったいい方。
冷静沈着そうな広作班リーダーであるが、やはりこの状況に動揺しているのだろうか。
ただし、適当に発したというその言葉は、まったく間違ってはいなかった。
ここから遥か遠く各地方にある五つの結界、それらを守っている魔法使いたちが現在、次々と絶望によるヴァイスタ化を遂げていたのである。
ヴァイスタ化した瞬間には、霊的昇華というさらなる変化に肉体は溶け崩れ、異空を通じて、ここからすぐ近くにある中央結界へと送り込まれ続けていたのである。
カズミたちのいる場所も、中央結界すぐ近くということもあり無数の霊道が走っており、感覚を少し研ぎ澄ませれば、どるどると粘液が流れる音がしているのが分かるだろう。
仁礼寿春いう、液状化したヴァイスタが流れる音である。
霊的昇華したヴァイスタが霊道を流れて、中央結界内の『扉』へと集まって、そうこうしている間にもどんどん空の青に亀裂が入り、剥がれ崩れ落ちたり、パネルのようにパタンと裏返る。
裏返ったグレーの正方形パネルには、魔力の目がなければとても目視出来ないくらい小さな文字が書かれている。量子ビットを文字列化したその羅列が、左右反転された状態で。
「科学呪詛式じゃあるまいし」
文前久子が空を見上げながら苦笑した。
科学呪詛式とは、コンピュータに魔法を記憶させて実行させるための、プログラム構文のことである。
理論科学ではなく、現実的に応用されている。
例えばクラフトの動作や、武器防具の転送などに利用されている。
「あたしらになにが出来るか、正直、分からねえ。でも、こんなけったくそ悪いこたあ、早く終わらせねえとな」
カズミも見上げた。
壊れていく青空を。
意味の分からない文字列に埋め尽くされようとしている灰色の空を。
ぎゅっ、と力強く拳を握りながら。
と、その時である。
「どういうことだ、これは……」
冷静沈着そうな広作班リーダー仁礼寿春の、震える声が聞こえたのは。
その声を背中に受けたカズミは、
「分かるはずないだろう。適当で構わないなら、空の向こう側で小汚いおっさんがパネルにクイズの答えを書いて掲げてるとか、好き勝手いくらでもいえるけれどね」
小馬鹿にされたと腹を立てていたのか、先ほどの口調を真似してやり返した。
だが、カズミは思い違いをしていた。
広作班リーダー仁礼寿春は、この奇怪な空に耐えられず不安を漏らしたわけではなかったのである。
なにげなく後ろを振り向いた瞬間、カズミはそれを知った。
驚きに、どっと汗が吹き出していた。
目を、大きく見開いていた。
「あ……ああ」
カズミの、微かに開いた唇から、乾いた声が漏れていた。
身体が、溶けていたのである。
広作班メンバーの一人の身体が。
皮膚が、肉が、白い魔道着ごと、溶けていたのである。
「うわあああああああ!」
広作班の少女は、溶けていく自分の身体、どろどろと骨の覗く自分の指先を見ながら、大きな口を開き絶叫した。
その彼女の前にリーダーである仁礼寿春が立つが、継ぐ言葉なく呆然と立ち尽くしているだけだった。
あまりの奇怪な出来事に、なにを思考することすらもままならないのだろう。
確かに一瞬で現状を認識し対策を打ち立てよなど、無理な話であろう。
「うわあたしもだああああああああ!」
続いての叫び声は、天野姉妹の妹、保子である。
彼女も広作班の少女と同様、蝋燭の蝋が溶けるように、ふつふつどろどろと変じ始めていた。指先が、顔が、スカート型の魔導着から覗く膝下が。
「おい! な、なにがどうなってんだよ! お前ら! 酔狂なら家でやれ!」
青い魔道着よりもずっと青ざめた顔で、カズミが怒鳴った。
混乱し、恐怖に狂いそうになる自分を、大声で押さえ付けたものであろうか。
だけどもそこへ拍車を掛ける、治奈の震える声。
「カズミちゃんもじゃ!」
「えっ?」
カズミは、ぴくり頬を痙攣させると、ゆっくり腕を上げて、指でそっとその頬を触った。
溶けただれ始めている、自分の頬を。
そっと手を下ろして自分の指先を見ると、頬の皮膚がゼラチン状になって、ねっとりこびり付いていた。
また、指先自体も溶けていた。皮膚が剥げて、ピンク色の中身が覗き見えている。
もう、カズミの顔は青ざめることはなかった。
覚悟が決まったとか、そういうことでなく、青ざめる顔の皮膚が溶け落ちていたのである。
「うちも、同じ……」
治奈も、頬に手を当てている。
カズミと同様に顔の表面がぐずぐずと溶けており、いまにも垂れそうなほどであった。
「永子!」
終わらない、連鎖なのか……
文前久子が、目の前にいる仲間の名前を叫ぶ。
自分自身の顔を、身体を、どろどろ溶かしながら、仲間、嘉納永子の名を。
「だ、だいじょう……」
永子は、力尽きたかのようにがくり肩、膝、頭を落としている。
屈み、膝に手を当てている。骨に骨を当てている。という方が正解に近いだろうか。
腕や、スカートから覗く永子の皮膚は、ここにいる魔法使いたちの中で誰よりも症状が進行していた。
全身の皮膚は溶けに溶けており、筋肉も溶け掛けており、指などは完全に白骨状態、骨の上にゼラチンがまとわりついているだけである。
おそらく魔道着に隠れた部分も進行しているのだろう。スカートの中から、いつ、どそっと内臓が落ちてきても不思議のない状態であった。
だが、ここで異変が起きる。
嘉納永子の身体に。
これ以上のなにを異変とするかはさて置いて、溶けていた皮膚が急速に再生を始めたのである。
どろどろになっていた透明な皮膚が、再び固形化し、綺麗に、骨格上の本来ある位置へと、戻っていく。
だが、完全な巻戻り、ではなかった。
真っ白だったのである。
腕や、スカートから覗く膝下、つまりは見える皮膚のことごとくが真っ白で、ぬるぬるとした粘液に覆われ、光沢さえ放っていたのである。
嘉納永子が項垂れていた顔を上げた瞬間、周囲がざわついた。
彼女の顔に顔がなかったのである。
永子の顔がなかったのである。
鼻があるべき部分が小さく隆起しているだけの、のっぺらぼう。
それはどこをどう見ても、ヴァイスタ、としか呼べないものであった。
「うわああああ!」
「永子お!」
大小、悲鳴が上がっていた。
騒然となっていた。
当然だろう。身体が溶けるだけでも発狂しそうな衝撃であるというのに、再生が始まったかと思えばヴァイスタへと再構成されていたのだから。
「なにが、なんだか……」
文前久子は、普段はおっとりかつ冷静な女子である。
だが現在、仲間の原因不明なヴァイスタ化に、目を白黒させ、身体を震わせていた。取り乱したりはしていないが、狂乱寸前といっても不思議ではない。
そんな彼女へと、白い影が襲う。
誕生したばかりのヴァイスタが、一番近くにいる彼女へと、地を蹴り飛び掛かったのである。
ぶうんっ
ヴァイスタは、腕を振り下ろす。
にょろにょろと、長く、太い腕を。
そう、永子は皮膚の色や顔のパーツだけでなく、身体付きまでが完全なヴァイスタと化していたのである。
打ち下ろされる真っ白な右腕、続く横殴りの左腕。久子が混乱動揺しながらも素早く身を下げ、身を捻って、かわすことが出来たのは、偶然か、純粋に日頃の訓練の賜物か。
「どうであれ、目の前にいるのがヴァイスタならば、戦うしか!」
久子は涙目で震えながらも、剣を両手に構えて応戦態勢に入った。
ヴァイスタヘと自ら距離を詰めると、襲いくる左右の触手を紙一重にかわしながら、剣を握ったまま身体を突っ込ませて勢い殺さず走り抜けた。
振り返る久子の目の前、
ぼとり、
ヴァイスタの右腕が、肘から先が落ちた。
腕を落としただけでは、すぐに回復、再生してしまうだろう。相手はもう、嘉納永子ではない。白い悪霊、ヴァイスタなのだから。
だから久子は二の剣を浴びせるべく、腰を低く落とし、油断なきよう構え直したのであるが、
ここで、予期せぬことが起きた。
予期せぬことではあるが、当然のことが起きたという方が正しいのかも知れない。
リストフォンが、振動したのである。
この場にいる、全員のリストフォンが、一斉に。
emergency
それぞれの画面はみな同じで、黒背景の上に太い英字が表示されている。
数秒後、地図画像に切り替わった。
それを見た全員の顔に、飛び上がりそうなほどの驚愕が浮かんでいた。
画面に表示されている地図の現在地には、黄色つまりヴァイスタを示すポインターが表示されているのだが、その数が、ここにいる人数と同じだったのである。
「嘘だろ……」
カズミが、自分の腕を上げる。
あらためて自分の手を、指を見ると、震える声で呻いた。
嘉納永子と同じである。溶解を終えて固まり始めている指が、真っ白に、そしてぬるぬるとした光沢を放っていたのである。
リストフォンの画面に表示されている地図のあちらこちらに、黄色ポインターの数がどんどん増している。
この近辺にいる魔法使いが次々ヴァイスタ化している、ということに他ならなかった。
絶望に倒れておかしくないほどの、衝撃であろう。
状況であろう。
しかし、打開案を考える時間を微塵も与えることなくヴァイスタが飛び掛かる。
かつて、嘉納永子という名、存在であった、一体のヴァイスタが。
粘液質な、白い身体を震わせながら、文前久子へと。
「ヴァイスタだというのならっ!」
久子も剣を両手に握り、迎え撃つのではなく飛び込んでいた。
だが、お互いの攻撃は、繰り出されることはなかった。
何故ならば、ヴァイスタの動きが止まっていたからである。それを見て久子も動作を止めたからである。
「永子……」
久子の前で、永子であったヴァイスタの身体に異変が生じていた。
煮えていたのである。
大小、無数の泡が出ては弾けて、ほのかに湯気を上げながらぐつぐつと、永子であったヴァイスタの身体が煮えていたのである。
数秒の後、その白い巨体は一瞬にして溶け崩れた。
全身が液体になり、重力に引かれ、潰れ、崩れて、地面に染みが広がった。
その染みも、すぐに消えた。
どうっ
異空側へと、なにかが流れ込む、音ではない音を、ここにいる全員が、聞いた。
一体のヴァイスタが霊的昇華し、中央結界へと運ばれたのである。
そうして世界を包み込む闇が、僅かに広がった。
嘉納永子の、魂の質量分だけ。
「おねえ、ちゃ……」
天野姉妹の妹、保子のか細い声。
四つん這いになって、姉へと手を伸ばしている。
真っ白に固まった、ぬるぬるとした手を。
顔の皮膚もどろり溶けて、塞がった目、塞がり掛けた口で、必死に、姉へと助けを求めている。
「保子!」
妹の名を叫び、身を屈め、自らも手を差し出す天野明子。
彼女自身もどろどろ溶けて、同じような身体の状態であったが、姉としての使命感であろうか。妹を助けたい、という。
だが、力を込めることが出来なくなったか、がくりと膝、身体が崩れて、妹と同じく地に倒れた。
「大丈夫、だから」
確証なくとも、こういうしかないのだろう。
姉は地を這い、手を伸ばす。
姉妹は、手を取り合った。
どろどろ、身体を溶かしながら。
「なんてこった」
周囲を見回しながら、カズミの息が、はあはあ荒い。
腕で額の汗を拭くが、その感触自体が気持ち悪いのか顔をしかめた。
カズミは、下ろした腕をちらと見て、舌打ちした。
腕自体も溶けつつありドロドロ、骨にゼラチンがまとわりついている状態であるが、そこに溶けた額の皮膚がごっそりくっ付き加わっていたのだ。
白く硬化したり、完全にヴァイスタ化した者もいるというのに、カズミはまだ溶解が進行している段階であった。
魔力か体力か、なにが抵抗力になっているのか。ヴァイスタへ転じる速度は、この通り、かなり個人差があり、この中でカズミはかなり穏やかな方である。
穏やかといっても辿る内容自体はみなと同じで、現在、見た目はドロドロ、ゼリーで骨や内蔵を覆っている、一番酷い状態だ。
「なって、たまるかよ。誰が。ヴァイスタなんかに」
強い意思を呼気に乗せ一歩を出すが、がくりと前につんのめってしまう。力が入らず、足がもつれたのである。
「カズミちゃん!」
咄嗟に治奈が腕を伸ばして受け支えた。
治奈も、肉体が溶けてドロドロだ。カズミと同様、まだ溶解化の段階である。
「さんきゅ」
そのまま、お互いに肩を貸し合った。
二人は頷き合うと、示し合わせたようにくるり向きを変え、肩を組んだまま歩き始める。
歩きながら、カズミは少し首を曲げて肩越しにいう。
「歩ける、やつは、歩け。無理なら、せめてヴァイスタにならねえよう、必死に抗っていろ。……あたしらは、先に、行ってるぞ」
中央結界へと。
そのにあるはずの、『扉』へと。
カズミと、治奈、二人は肩を組んだまま、溶ける身体を密着させて、よろよろと頼りのない足取りで、歩いていく。
そして姿を消した。
7
白い流れが、渦を巻いている。
無音である。
だがこの躍動に、無音であるはずの渦からは、ごうごうごんごんという激しい音が響いている。
魔法使いでなくとも、おそらく感じ取れるであろう。広大で殺風景な部屋の中を渦巻く濁流、その激しい怨念に満ちた闇を。
ここは、平将門首塚の、すぐそばにある神社。その、地下室だ。
霊的防衛の観点でいうと、中央結界五芒星の、最中央五芒星。
俗にいう『扉』である。
『扉』の前に仁王立つのはがっしりした、一見すると偉丈夫、至垂徳柳、女性である。
白銀の魔道着を着た、男性顔負けの堂々たる体躯であるが、なんとも不自然な見た目であった。
男女混じった風貌がということではなく、二本の腕が、肩からないのである。
令堂和咲を、『扉』に接触させようとして抵抗を食らい、吹き飛ばされたものだ。
そのアサキは現在、至垂の目の前でばちばちと燃えている。
床の五芒星中央から吹き上がる、白い光の中で、燃えている。
首だけ、しかも頭部が半分欠けて、頭蓋骨の中が見えている、そんな状態で。
片目は潰れ、残る片目を恨みに開き、周囲に闇を放出しながら、白い光の中で、燃えている。
「さあ令堂くん、導かねば滅びるぞお! それか、発生したヴァイスタをすべて滅ぼすか。だがそれは、現存人類を全滅させることに等しい。つまり選択肢は一つ、きみが超ヴァイスタとして『絶対世界』へと導くしかないんだよ!」
本当の「新しい世界」、絶対たる「絶対世界」への、つまり神々の世界へと道が開かれるその未来まであと僅か。
白銀の魔法使い至垂は興奮し、身をのけぞらせ高笑いを始めた。
両腕を肩から失い、脇腹もごっそりえぐられ、骨や内臓が見えている状態であるというのに、まったく気にすることもなく。背骨が折れそうなほどに高笑う。
それで、どう、な、る?
守ってきた、この、世界、は、どうなる?
アサキの、言語思念が問う。
ばちばち燃えながら吹き出す闇に混ざった思念が、至垂へと問う。
剣に切断され、貫かれて、炎に溶け崩れて、もう口も鼻もまったく原形を留めておらず。思念を飛ばすしかない状態であるが、その思念すらも、途切れ途切れになっていた。
令堂和咲という存在が、魂レベルで消滅し掛けているのである。
「まさかまさかの発言だね。ここへきて責任転嫁? どうなっても構わないというきみの絶望が、この状況を生んだのだろうが」
義父母を殺された怒りが爆発し、アサキの中でなにかが弾け吹き飛んだ。と、それがきっかけになったことは、間違いない。
だけど、
誰が望むか。
このようなことを、誰が望むか。
仕向けておいて、なにが責任転嫁だ。
消えゆく意識の中で、アサキが虚しい思考を闇に乗せて吐き出していると、不意に誰か第三者の声が聞こえてきた。
無音だが騒々しい渦のごんごんうねる、低く激しい音の中へと。
「アサ……キ……」
「アサキ、ちゃん……」
青の魔道着と、紫の魔道着、二人の魔法使いがこちらへと歩いてくる。
肩を組み、よろけ、支え合いながら、ゆっくりと、アサキたちの方へと。
昭刃和美と、明木治奈、であろうか……
魔道着の色と形状は確かにそうであるが、そこ以外に二人の面影はまるでなかった。
魔道着から覗く肌は溶けに溶けて、ゼリー状になって骨や、半分以上溶けた筋肉を覆っている。そんな、一種骨格標本のような状態の二人には。
二人の発する声にしても、骨に絡み付いたゼリーが震えてなんらか音が発せられている程度であり、魔力を持たない者には風の音にすら聞こえなかっただろう。
反対に、魔力のある者だから、分かる。
カズミちゃん……
治奈ちゃん……
間違いなく、二人がアサキの親友であることを。
薄れゆく、存在の消失しつつある中で、アサキは、二人を認識していた。
「招かざる客がきたな。……再構築の、寸前かな?」
両肩から先のない至垂は、ふふっ、と興味深げに笑った。
皮膚のどろどろに溶けた二人の魔法使い、カズミと治奈を見ながら。
溶けた肉体が変質再生し、ヴァイスタへと、成る。
再構築寸前とは、すなわち身体が最も溶けている状態だ。
カズミも治奈も、頬や腕などは、ほぼ完全に溶け切っており、溶けた肉がゼラチン状に、骨に絡み付いている。身体の溶解も進んでおり、魔道着に覆われていなかったら、どさりどろり内臓もこぼれ落ちていたかも知れない。
カズミと治奈は、自分たちがそんな、生きているのか死んでいるのかも分からない有様であるというのに、アサキを見て、その怒りに、喉の骨に絡みついたゼリーを震わせる。
「至垂、よく、も、アサキちゃんに、そこまで……」
「てめえ……覚悟は、出来てんだ、ろうな」
ほとんど骨、といった状態であるにも関わらず、二人には、自己の生命存在を心配する気持ちよりも、友をここまでにした至垂への怒りの方が遥かに強いようであった。
「出来てなきゃあ、ここまでやらないさ」
ははっ、と笑う至垂。
二人の感情など、そよ風ほどにも感じていない様子だ。
「弱い魔法使いほど、すぐヴァイスタ化するんだ。きみたちは、さすがは超ヴァイスタ候補だったこともあって、なかなか粘っているじゃないか。まあ、限界は、もうすぐそこだろうけどね」
ははっ、とまた乾いた笑い声を上げた。
「なら、ねえよ、ヴァイスタ、なんかに。この、カズミ様を、舐め、るんじゃね、えよ」
カズミは、腕を胸の高さで交差させ、二本のナイフを持った。
ほとんど指の骨で直接ナイフを握っているような状態であるが。
「ほうよ。刺し違えてでも、貴様を倒し、この、世界の崩壊を、食い止め、アサキちゃんを、助けるんじゃ」
カズミ、ちゃん……
治奈ちゃん……
アサキが、また心の中で二人の名を呼んだ。
無意識に漏れた、微かな思念であったが、カズミたちにはしっかりと届いていた。
「聞こえてる、よ、アサキ。ほんと、バカだな、そんなに、なる、まで……」
「でも、大丈夫じゃ。キマイラじゃと、いうの、なら、きっと、戻せる、はずじゃ」
カズミたち二人は至垂へと、その前に浮かんでいるアサキの首へと、近付いていく。
足を引きずりながら、二人、肩を組んで。
溶けた身体をくっ付き合わせて支え、それでもよろけながら。
「頑張るねえ。もし、きみらがここまでこられるならば、その刃を避けることなく受けてあげるよ。もしも、ここまで、こられるならね」
笑う、白銀の魔法使い。
「忘れん、なよ、その、台詞」
一歩。
二人が僅かながら、よろけながら、足を前に運ぶ。
さらに一歩……を踏むことは、出来なかった。
足が、動かなくなっていた。
足だけではない。二人とも、腕、身体、全身が、ぴくりとも、動かなくなっていた。
「く」
カズミが呻く。
二人の、ボロボロの魔道着から覗く、溶けてゼラチン状になっていた皮膚が、肉が、固まって、皮膚や、肉に戻りつつあった。
真っ白な皮膚に、真っ白な肉に。
至垂がいっていた通り、限界の時がきたようである。
ヴァイスタ化を、気迫だけで抑えることの限界が。
「なって、なってたまる、かよ」
「ほうじゃ。未来に笑うためにも、こがいなとこで、誰が、ヴァイスタなんかに」
肩を組んだまま、なんとか身体を動かそうとしているのだろう。
だが二人とも、首から下は石像にでもなったかのように、まるで動かなかった。
身体だけでなく、顔の筋肉も強張りつつあった。
その強張りを認識したからこその主張であるか、ただ恐怖が口を突いて出ただけか、
「あたしたちは、人間だ!」
カズミは、これまでにない必死さで叫んだ。
物理的な、喉からの叫び声であったのか、それとも念の叫びであったのか。
もう、それは分からない。
カズミも、治奈も、もうそこには、いなかったからである。
二人とも、白い、巨大な流れに飲まれて、一瞬にして消えてしまったのである。
見るも、あっさりと、消えてしまったのである。
白い流れが去った後、床にもう、二人がいた痕跡はなんにもなく。
突然のことに、しばし呆けていた至垂であったが、やがて、ぷっと吹いた。
「食われたよ!」
大きな声を出し、大笑いを始めたのである。
「いやこれは予想外だ。傑作だ。ヴァイスタたちに、二人はヴァイスタ化はしないと判断されたんだ。つまり、強大な仲間は生まれない、と。ならば、ヴァイスタ化に耐えるほどの強大な二人の魔法力を、食らって取り込んだわけだ。いやあ、凄いねえ令堂和咲くん、きみのお友達はさあ。頑張って、必死に、耐えに耐えて、耐えて、耐えて、ちょっと口上かっこつけて、挙げ句、ヴァイスタのエサ、美味しい養分になっちゃったあ」
一気に喋り切り、苦しそうに、それでも笑い続けている。
えひえひと、気持ちの悪い小笑いで、爆笑を堪えている。
「はなっから無駄な抵抗などせずに、とっととヴァイスタになっておけば……」
その声は、笑いは、途中で掻き消されていた。
叫び声に。
アサキの、思念に。
魂の、爆発に。
ごう、と吹く強風に、至垂の髪の毛が逆立っていた。
ばさばさと、なびいていた。
アサキの思念に、恨みの声に。
なにが、超ヴァイスタだ。
なにが、絶対世界だ。
至垂、徳柳……
なにも救えないくせに、誰も救えないくせに、なにが、なにが神の力だ。
神だなんだ、くだらない、こんなことのために!
「最高なことだろう!」
どこが、どこが!
どこが!
どす黒い思念を吹き飛ばしながら、
周囲に撒き散らしながら、
アサキの、
肉体の存在片鱗ともいうべき、まだ僅か残っていた首が、
自分の思念の、あまりの激しさに、どろどろ溶けて、崩れていった。
崩れて、崩れ、
光の粒になって、さらり消えた。
令堂和咲の肉体は、この世界から、完全に消滅した。
8
笑っている。
リヒト所長、白銀の魔法使い至垂徳柳が。
両肩から先が吹き飛んでおり二本の腕が存在しないが、そんなことをまるで感じさせないほどに、どっしりと立って、大声で笑っている。
周囲に、うごめいている。
負の、黒いエネルギーが。
周囲に、うずまいている。
どろりどろりとした、思念、精神が。
アサキの、怨念が。
破壊衝動が。
粘度のある、濃密な、黒い風が。
闇が。
通念上は、死んだ、ということになるのであろう。
赤毛の魔法使い、アサキは。
肉体がすべて滅び、消滅したのだから。
だが、
至垂の、笑み。
むしろ、肉体を失ったからこその、
アサキが、恨みを抱き、死んだからこその、
だからこそうずまいている、
膨大な、
天文学的規模の、
絶対的質量の、
エネルギーの中心に立って、至垂は、
「この絶対的破壊衝動こそが、超ヴァイスタだ!」
真理に笑顔を引つらせて、叫んだのである。
歪む、笑顔。
計画の集大成、待ちに待ったことが起きている、だというのに、恐怖に震えている。
恐怖に、笑顔が歪んでいる。
矛盾ではない。
本能で抗えない原初的な恐怖、それを引き起こす闇こそが、彼女、至垂の望んでいたものであるためだ。
だが、
違和感を、覚えたのだろうか。
歪んだ笑み、その質が、少し変わっていた。
不穏、ともいうべき感情が混じっていた。
だからこそ、であろうか。
おのれの感情をごまかすように、また、さらに声を大にして叫んだのは。
「さあ、導け! 世の絶望を! この、万の怨念たちを!」
と。
室内は、しんと静まり返っている。
ごんごんと、どうどうと、無音であるにも関わらず、耳を聾せんばかりであった白い激流が、いつの間にか、見える勢いと裏腹にしんと静かになっていた。
昭刃和美、明木治奈、彼女たちの魔力をも糧にした、霊的昇華を遂げたヴァイスタ集合体による、白い激流、濁流。それが、古いフィルムを見るかのごとく静まり返った、音の闇とでもいうべき中、至垂は、聞いたのである。
死んだはずの、アサキの声を。
違和感の、正体を。
導く?
なにを、いっている。
誰に、いっている。
わたしは、滅ぼす者。
このような、存在に値しない世界を。
それが、闇に取り込まれて肉体の消滅した、アサキの、精神、魂、その声であった。
「主張をするな! 単なる闇が、単なるエネルギーの塊が、何故まだ意思を持つ! おとなしく役割のみを果たせ!」
震える声で叫ぶ至垂に、言語思念によるにべない言葉が返る。
冗談にもならない。
すべてを失ったわたしには、もう、すべてがどうでもいいことなのだから。
やりたければ、自分でやれ。
こんな世界があるから、こんなことが起こる。
そんな世界など、わたしにはもう必要ない。
「その思いだ! その、思いこそが絶望だ!」
絶望?
いや、むしろ希望だよ。
この、わたしの中を、満たすものは。
素敵な希望だよ。
「まだ自我が」
至垂は、舌打ちしつつ、ふと空を見上げた。
扉から放出されていた白い光に穿たれて、天井に空いた大穴、そこからの空を。
目が、まん丸に見開かれていた。
驚愕に、至垂の目が。
「これは……」
血の気が引いて、蒼白な顔で見上げている。
先ほどまでと変わらず、青空が割れて、砕け、裏返り、
先ほどまでと変わらず、裏返ったグレーのパネルへと空の構成パーツが置き換わっていく。
数式がびっしりと書き込まれた、作り物の空へと。
量子ビットの文字列へと。
この現象は、先ほどまでと同一であるはずなのに。
「絶対世界」への期待感に、胸を踊らせていた時と、なんら変わらないものであるはずなのに。
なにが、違う……
空を、数式を、凝視する至垂の、顔がさらに青ざめていく。
「『絶対』ではない『新しい世界』、だと? ……まさ、か……そんな、そんなバカな!」
ヴァイスタが、扉に触れた時、なにが起こるか。
世界が滅ぶ。
宇宙どころか次元規模でのシステムリセットがかかり、すべてが消滅する。
そこに、導き手である超ヴァイスタがいなかった場合には。
そういわれている。
現在まさにその、次元の崩壊が起きていたのである。
世界観のリセットが、始まっていたのである。
至垂は、グレーの空に描かれた量子ビットの文字列に、それを認識し、畏怖驚倒していたのである。
「超ヴァイスタのはずなのに。令堂和咲は、間違いなく絶望に、超ヴァイスタに、なっているはずなのにっ!」
狼狽、精神錯綜。
両腕なくとも偉丈夫然は、今は昔。
恐怖に硬直した顔から、汗をどっと吹き出しながら、目を白黒させ、ただ空を見上げるしかなかった。
予想とは違う方向へと、狂い始めている空を。
アサキの嘲笑。
もう物理的に存在しておらず、声などどこにも聞こえていないというのに、それでも高笑いにも似た嘲笑が、空を、宇宙を、次元を、闇を、震わせていた。
都度、ザーヴェラーの魔閃塊のように、黒い怨念が、ぶつっぶっと弾けて飛び、弾けて散った。
アサキの、
超ヴァイスタの、
絶望の、いや希望の、
闇の、闇の、闇の、
黒い意識、
欠片が。
それは流星群のように、至垂へと降り注ぐ。
狼狽する至垂の精神へと、降り注ぐ。
「導けるのに。導けるのだろう? ふ、ふざけるんじゃない! なぜ義務を放棄するのだ! 名誉を放棄するのだ!」
笑わせる。
なにが、名誉だ。
ここまでのことをしておいて、勝手ばかりをいうな。
静かな、怒りの声。
同時に、一気に広がっていた。
闇が、至垂の目の前に。
投げ付けられた投網のように、静かに燃えたぎる深い闇が。
その身体を吸いこもう、魂を飲み込もうと。
「うわあ!」
ことごとくを覆されて、至垂に残るはただ原初的な恐怖。
赤子よりも無力。踵を返し、闇に背を向け、逃げ出すしかなかった。
魂の、世界の中を、
結界の、床の上を、
至垂は、振るう腕もなく、ただ必死に、走り出した。
生存本能、闇への恐怖に。
だが、
逃がさない。
全身を、包み込まれていた。
白銀の魔法使い至垂は、暗闇の中に包み込まれていた。
腕があれば、ガムシャラにもがいていただろう。それで訪れる結末が変わるものではないとはいえ。
「ひっ」
息を飲んだが、口に入るは濃密な闇ばかり。
アサキの声が響く。
永遠の、暗黒の中へ、一緒に……
至垂、
永久に、消え去れ。
魂、わたしと共に、未来永劫に。
滅せ。
「わああああああああああああああああああああ!」
ただ意識があるだけの、漆黒の中。
魂の消滅に恐怖した至垂が、これ以上はないほどに口を開き、震え、絶叫した。
抵抗は、出来なかった。
崩れていく。
至垂の身体が、魂が、ぐずぐずと、崩れていく。
アサキの、精神と共に。
永劫の、闇の中へ……
その時であった。
ちゃうやろ。
令堂……
声が、聞こえたのは。
9
それは、幻であったか。
闇に浮かぶは、少女であった。
赤と黒の、西洋甲冑に似た魔道着を着た。髪を横に流しておでこを出した、ちょっと気が強そうではあるがかわいらしい顔の少女であった。
微笑んでいる。
邪気の、まるでない。
この渦巻いた瘴気の中において、天使のような笑みであった。
ウメ……ちゃん?
自分の魂が溶けていく中で、アサキは問う。
少女、慶賀応芽は、小さく頷いた。
かわいらしく苦笑すると、また口を開いた。
困ったあかんたれやなあ、令堂は。
せっかく必死に守ってきた、この世界やろ?
あたしたちや、自分が守ってきた、この世界は嘘か?
自分のおとんおかんがおった、この世界は、嘘か?
あたしが、雲音のために頑張ってきたこと、無茶を心配してくれた令堂の気持ち、優しさ、みんな無駄だった?
あたしの、令堂への感謝の気持ちも。
無駄やったんかな?
ウメちゃん……
わたしは……
アサキは、手を伸ばした。
暗闇の中、ぼろぼろに崩れた魂の中で。
自分へと微笑む、気の強そうな、ちょっと口の悪い、でも優しい、かわいらしい、天使へと。
笑みを苦笑に変化させつつ、天使も、手を伸ばした。
二人の手が、がっしりと結ばれていた。
静かに、溶けていった。
ぼろぼろになった魂が、溶けて、消えた。
闇の中へと。
10
見上げている。
空を。
ごろり、横になったまま。
空を。
吸い込まれそうなほどに青い空を、数人の少女たちが、見上げている。
文前久子、天野明子、天野保子、嘉嶋祥子、仁礼寿春。
みな、酷い格好である。
魔道着が裂けに裂け、破れに破け、どちらかといえば裸に近い状態なのだから。
みな何故か、生まれ変わったかのように肌が妙に綺麗でつるつるで、そのため服装の酷さがより際立ってしまっている。
つい先ほどまで、頬や腕など白いゼリー状になってぷるぷる震えていたのが、現在は綺麗な、薄桃色の肌であった。
「治って……いる?」
天野保子は寝転んだまま、上げた自分の両手を見つめている。
肌色の、
腕、
手、
指、
爪。
不思議そうな顔で、小さく息を吐くと、そっと腕を下ろした。
下ろした瞬間に、ぎゅっと手を誰かに握られていた。
首を回して横を見てみると、姉である明子の顔がすぐ目の前にあった。
姉、明子は笑っている。
嬉しそうに。
ちょっと、悲しそうに。
保子の、反対側の隣には仁礼寿春。
ぽーっとした表情で、やはり自分の両手を見つめている。
先ほどの戦いの中で、至垂徳柳の魔力迎撃を受けて、右腕が溶けて消えた。その、確かに消滅したはずの右腕が綺麗に再生されており、その腕を、その指の先を、ぼーっと見つめている。
仁礼寿春の隣、文前久子が、やはり横たわって青い空を見上げている。
「そっか」
囁きに似た吐息のような声で、そういったきりの久子であったが、やがて、僅かに笑みを浮かべた。
柔らかな、笑みを。
「そっか」
同じことをもう一度いうと、不意に、身体をぶるり震わせた。
つ、っと涙が頬を伝い落ちた。
11
天王台四丁目にあるマンション。
三階通路の、「令堂」と表札の出ている、玄関前である。
「いませんかー」
緑と黄色、宅配業の制服を着た青年が、小脇に荷物を抱えている。
呼び鈴のスイッチを押し、やや大きな声で呼ぶ。を、二度ばかり繰り返すと、小さくため息を吐いた。
すぐ背後のカートには、幾つかの段ボール。
オートロックの構内に入った上で、順番に回っているのだろう。
「日時指定されていたのになあ」
青年は小声で愚痴をこぼしながら、なんとはなしにドアのレバーハンドルへと指を掛けた。
施錠されているであろうドアを、まさか本気で開けようとしたわけではないのだろう。
が、つい指に力が入ってしまったようで、しかも物騒にも施錠されていなかったようで、がちゃり音を立て扉が僅か開いてしまう。
と、隙間からなにか、隼さながらの猛烈な速度で飛び出して、
「うわっ!」
宅配の青年は、のけぞりながら驚きの声を上げた。
猫、であろうか。
二匹だ。
全身ほぼ白いのと、全身ほぼ黒いのが、通路をもの凄い速度で駆け抜けて、あっという間に姿を消してしまった。
「やば……」
宅配の青年は、困った顔で帽子を取って頭を掻いた。
12
昭和の戦後ではなかろうか。
というほどに、あまりにボロな平屋建てなのである。
ガタついた窓のサッシは、もういっそ開けっ放し。
そんな部屋と縁側との境で、昭刃駆が横たわりごろごろしている。
手持ちぶさたどころか、身体持ちぶさたといった様子で。
部屋の奥にある狭い狭い台所では、駆の兄である智成が調理中。夕飯を作っているところだ。
野菜を刻み。
といた卵に肉をつけ、パン粉をまぶし。
油を張った小さなフライパンを、コンロの火に掛けて。
鼻歌混じりに。
「ホッホケサイサー」
どこの民謡か、時折、そんなわけの分からない歌声混じりに。
一見、普段と変わらぬ陽気な昭刃家のお兄ちゃんであるが、なんだか陽気を演じているようにも見えるのは、どこかに普段とは違う翳りがあるのだろう。
当然といえば、当然ではあるのだが。
「なあ、兄貴」
縁側との境でごろごろしている弟が、兄へと声を掛ける。
「ん?」
兄、首を上げ、横たわってる愚弟の姿を目に入れる。
「テレビ、って機械を知ってるか? 人類の発明品の一つだ」
愚弟の口から出るのは愚問であった。
「当たり前だバカ。うちにないのは、単に金がないからだ。つうか中古のをお前が破壊したんだろが、幼稚園の時に、飛び蹴りくれてさ」
「ニュース、きっとやってるよな」
「やってるらしいな」
テレビに限らず、新聞、ネット、現在やたら騒がれ取り上げられているのは、十代少女の大量失踪について。
駆は、そのことをいっているのである。
ことが起きたのは数日前。
全国各地で、中学生と高校生を中心に、千人超というとてつもない規模で、女子生徒の行方不明者が続出したのだ。
だというのに各警察の対応が、どうもあまり大事と受け取っていない様子らしく、まさか国家ぐるみでなにかが起きているのでは、と盛んに報道されているのだ。
「……大丈夫だよ。あいつ、少女じゃないもん」
智成は、少し躊躇いがちな笑みを浮かべると、カツを揚げる音に陽気な声を乗せた。
「そうだよな。……姉ちゃん、男だもんな」
「だな。だから大丈夫だ。明日にでも帰ってくるさ」
智成は、ははっと笑った。
「作るメシが凶悪にまずくても……また、食いたいよね」
「そうだな。残念だけど今日はおれの美味いカツを食え」
「兄ちゃんのもくそまずいよ」
13
あっちゃん。
千葉県我孫子市、天王台駅から少し歩いた住宅地にある、広島風お好み焼きの店である。
現在は、夕方の五時。
少しずつ客の増えてくる、そのちょっと前の時間帯だ。
まだ、テーブル席に一組の男女客がいるだけである。
カウンター奥にある鉄板の前で、店主である明木秀雄が、へらを両手に、二つの焼きを器用にひっくり返している。
隅のテーブルには、店員でも客でもない者が一人。
店側といえば店側だが、ここの娘、まだ小学生の明木史奈である。
彼女は、テーブルに伏せながら、首を真横以上に捻り上げ、といった実に器用な体勢で、ほぼ真上にあるテレビを見ている。
「フミ、首を違えるじゃろ」
「はあい」
父の注意に生返事をしながら、かれこれ三十分はこうしている。
窮屈な隅っこで首が急角度なのは、混んでいない時間とはいえ、客でない身分であることを自覚しているのだろう。
ならば上がって居住部屋にあるテレビを見ればよいものだが、そこはそれで、寂しいのだろう。
流れているテレビ番組は、ワイドショー。
先ほどからずっと、女子中学生女子高校生の大量失踪についてを扱っている。
民放どの局に変えたとしても、取り扱っている話題は同じであろう。
女子中学生と、女子高生を中心に、十代の女性が大量に消えてしまった、という事件が発生したのだ。
番組によると、謎の失踪そのものは、今日始まったものではないらしい。
警察の発表ではなく、テレビ局独自の調査であるが、以前から、不審と思われる十代女性の失踪や死亡事件は急増していた、とのこと。
世界規模で起きていることではないのか?
いや、日本でしか発生していない。
隠しているだけかも知れない。日本だってそうだったじゃないか。
失踪地域をまとめると、これが実に怪奇めいている。黒魔術で見る五芒星、少しいびつではあるがほぼその形になっているのだから。
では、悪魔に連れ去られた?
バカバカしい。
教育システムの崩壊、そこへの反抗ではないか。
それでこんな一斉に姿を消しますか? 女子生徒ばかりが。
ネットの時代だ。裏サイトやらなにやら、なんら不思議はない。
情報錯綜、局独自の調査を元に、各コメンテーターがそれらしいことをならべ意見を戦わせている。
小さなテレビ画面の中で。
じゃーっ、と油が細かく弾け散る小気味よい音が上がる中、史奈はぼーっとした表情でずっと、首が急角度のままテレビ画面を眺めている。
「あぐっ!」
不意に顔を苦痛に歪め、びくりと跳ね上がりつつ自分の頭を両手で押さえた。
「どがいにした、フミ」
焼きをヘラで皿に乗せながら、秀雄が少し首を伸ばして娘の様子を確認した。
「あ、な、なんでもない」
なんでもなくはない。
テレビを見ていたら、ズキッと激痛が走ったのだ。
頭、というよりは、脳に。
なにか大切なことを忘れている気がする、と思ったその瞬間に。
「妙な姿勢でテレビなんぞ見よるからじゃ」
「はは、気を付けまーす」
全然気を付けていない。史奈はその後も相変わらず、妙な姿勢でテレビなんぞ見より続けたのである。
だけど、ただ画面へと顔を向けているというだけだ。
もう意識は向いていなかった。
別のことを考えていた。
この番組と無関係というわけでもなく、むしろこの番組のことそのものでもあるのだが。
つまり、史奈の姉も大量失踪したうちの一人なのだ。
原因、失踪理由は、みなと同じなのか、たまたま時期が一致しただけであるのか、それは分からないが。
本人がいないのだから、分かるはずもない。
その、姉とのことについて、なにかを忘れている気がすると思った瞬間に割れるような頭痛に襲われて、じゃあなにを思い出し掛けていたのだろうかと、意識がそちらへ向いていたのである。
姉のこと、というより失踪した者への対応、確かにテレビでいっている通りであった。
史奈の父が警察に届けたのだが、一応の書類は書いてくれたものの、担当者にあまり真剣味がなかったらしい。
なにがどうなっているのか、まるでもう知っているかのような、そんな態度にも思えた、と。
どうであれ、小四の小娘である自分ごときに、なにが出来るものでもないのだけど。
そう史奈は思う。
だから、信じてお好み焼きを焼き続けるお父さんのように、自分も信じるしかない。
そう、大丈夫だ。
お姉ちゃんは、絶対に無事だ。
すぐに、ひょっこり帰ってくる。
それまで、わたしが元気でいないと。
戻ってくる家を、守らないと。
たぶんお父さん、戻ってきたお姉ちゃんのこと叱れない。
泣いちゃって、叱れない。
だから、わたしがいってやるんだ。
どれだけ迷惑掛けたと思ってるんだ、って。
だから、
だから……
「お父さん、なんか手伝うよ!」
史奈は、そういうと、元気よく立ち上がった。
14
我孫子市、高野山桃山公園。
住宅地の端に位置し、眼下には手賀沼が見下ろせる、春には桜の花も咲く、美しい景観の公園だ。
午後三時。
日は晴天。
ほぼ全面が芝であるこの公園で、子供たちが走り回っていたり、サッカー、木登りなどで遊んでいる。
砂場には、母子の姿なども見える。
いくつか置かれているベンチの一つに、制服姿の女子生徒が一人、腰掛けている。
眠っているのであろうか。背もたれにそっくり返って、週刊誌を顔の上に広げている。
着ているのは、ここから徒歩圏内にある学校、天王台第三中学校の女子制服だ。
転校してきたばかり、であろうか。
非常に大柄で、百七十の半ばはあり、そうであるからには一年生ということはまずなさそう。しかし、着ている制服がまったく汚れておらず、まるでおろしたて、ごわごわと、まだ馴染んでいない様子であるからだ。
ずるり。
顔に乗せていた週刊誌が、地面に落ちた。
大柄というだけで無骨なイメージが沸くものであるが、意に反してとても整っているかわいらしい顔が、日のもとにさらされた。
整っているが故に奇異に見え、整っているが故に自然にも見えるのだが、髪の毛が黒と銀と左右にきっちり分かれている。銀色の部分は、白髪が陽光を受けてそう見えるのであろう。脱色なのか地毛なのかまでは分からないが。
日よけの週刊誌が落ちてもなお、そよそよそよぐ風を浴びて、すやすや眠る彼女であったが、
ばちん!
飛来したサッカーボールが顔面に落ちて、跳ね上がった。
「にゃはぎゃっ!」
まあ当然であるが、目が覚めてしまった。
奇妙な叫び声を上げた彼女は、目を開き、背もたれに預けていた背中をさっと真っ直ぐ伸ばした。
寝起きということもありまだ少しぼーっとした顔ながらも、地面に落ちそうになるボールへと座ったまま足を伸ばし爪先を当てて浮かせると、反対の足で強く蹴った。
サッカーで遊んでいた男子小学生たちへと、大きな放物線を描いてボールが戻った。
「ありがとう! お兄ちゃんみたいに大きなお姉ちゃん!」
正直過ぎる失礼に、銀黒髪の大柄少女は苦笑した。
お礼はあっても、ごめんなさいがなかったのは、きっとあまりに見事な蹴り返しに、熟睡中を顔面直撃したなどとつゆにも思えなかったからだろう。
しばらく、サッカー小僧たちの様子を眺めていた銀黒髪の大柄少女であるが、やがて微笑みながら、うんっと両腕突き上げ伸びをして、ベンチから立ち上がった。
スカート裾が少し乱れているのに気付いたがそのまま直さず、足元の通学カバンを手に取り歩き出す。
住宅に囲まれた公園の、唯一開けた一方へと少し歩くと、すぐにやや急な下り勾配。眼下向こうに、手賀沼が左右方向大きく広がっているのが見えた。
今日の天気は、気持ちのよい晴れ。
手賀沼の水面は、陽光を反射した粒子に、キラキラ輝いている。
銀黒髪の少女は、見上げる。
太陽を。
青い空を。
風が吹く。
頬をくすぐるようになでる、微量な湿気を帯びた優しい風。
少女は口元に微笑を浮かべる。
心地よい風を全身に浴びながら、そっと目を閉じた。
世界は、滅びなかった。
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