魔法使い×あさき☆彡
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第二十六章 夢でないのなら
1
そこは真っ暗な、闇の中であった。
僅かな光源すらも存在しない、漆黒の、闇であった。
だけども、視えている。
周囲の物が、そして、自分の身体が、視えている。
認識出来ている。
それはとても、不思議な感覚であった。
不思議といえば、自分のことだ。
自分は一体、ここでなにをしているのだろう。
ずっと目は覚めていて意識はあったはずなのに、ふと気付けばここにいた、という気もする。
ずっと眠り続けていて、たったいま目覚めたばかりのような気もする。
ここは、どこ?
何故、ここにいる。
分からないけど、では、さっきまで自分は、どこにいただろうか?
そういえば、さっきもこんなところにいた気もする。
こことは違うけど、こんな、光のない部屋の中にいて、でも何故か物が見えていた、気がする。
魔力の、目?
ここもそこと同じで、やっぱり光なんかまったくなくて、わたしが魔法使いだから、魔力の目があるから、こうして見ることが出来ている?
待って……
わたしは、戦っていなかったか?
さっきいたかも知れないという、その闇の部屋で、わたしは。
誰と?
なんのために?
わたし、頭を打ったのだろうか。
とても大切なことを、すっかり忘れている気がする。
なんか、いやな夢を見ていたな。
わたしが、身体を細切れにされてしまうんだ。
首だけにされてしまうんだ。
何故だが分からないけど、味方の剣で。
いや、戦っているんだから味方じゃないんだろうけど、とにかく魔法使いに。
それどころか、カズミちゃんや、治奈ちゃんが、どろどろに溶けてしまって。
……同じように溶けて液状になっている無数のヴァイスタに、食べられてしまうんだ。
「あ、あっ、あれっ?」
素っ頓狂な声。
自分の声であった。
ふと視線を落とした時に、自分の服装に気が付いて、びっくりしたのだ。
みんなと遊びでお出掛けする時のような、私服姿なのである。
ティアードブラウスに、膝丈タータンチェックのプリーツスカート、薄桃色の靴下。
だからどうした、ということではあるのだが。
でもこの服装が、なんだか違和感であった。
記憶がぼーっとしているわけだから、自分が現在の状況を理解していないだけであり、こんな姿でいても別に不思議ではないのだろうが……
ぐるりと、また周囲を見回す。
視界に入ってはいたけれど、あらためて部屋の中を見回す。
やっぱり、不思議だ。
こんな奇妙な造りの部屋で、遊び着姿でぼーっとしているだなんて、どう考えても不自然ではないか。
そう、ここはなんとも、奇妙かつ不気味な部屋であった。
光源がなく、闇の中を魔力の目のみで見ている、ということを差し引いても。
広さは、学校の教室を半分にした程度で、細長い。
闇の中であるため本来の色はよく分からないが、床も壁も天井も白っぽい。
壁は平らではなく、直径数センチのパイプ状の物が無数に編まれて形を作っていたり、元は平らだったのかも知れないが鉄球をぶつけたかのようにぼこぼこと陥没している。
天井からは、食虫植物にも思えるものが、無数ぶらさがってふるふる震えている。
部屋の真ん中には、測定器具にも、単なるオブジェにも見える、幼児が描いた妖怪を元に作ったブロンズ像とでもいうべき、意味の分からない形状の物体が置かれている。
なんなのだろう、ここは。
自分がいるのは、部屋の端だ。
腰を掛けているのは、おそらくベッドだ。
気が付いた時には横たわって天井を見上げていたのだが、現在は上体だけを起こして足を床に投げ出している。
上体を支えるために着いている手を、なんとなくずるりずらしてみたところ、指先にへこんだものの感触があった。
見ると、ベッドが少しくぼんでいるのだ。
どうやら自分は、このくぼみに身体を半ばめり込ませて、横たわっていたようだ。
「気味が、悪いな」
遥かな未来世界へと、訪れたかのような感覚だ。
ベッドのへこみをなでているうちに、自分の左腕に着けられているリストフォンが目に入った。
魔力制御システムであるクラフトが内蔵されている、特殊なリストフォンだ。
強化プラスチック素材で覆われ、銀色基調に赤い装飾の入った、メンシュヴェルトからの支給品である。
上着のポケットにもなんとなく手を入れてみると、確かな感触。
取り出したのは、真紅のリストフォンである。
こちらは、現在主流の強化プラスチック製ではなく、古いのか新しいのか全体が金属製。
全体が、真っ赤な物である。
もしかしたらすべてが、自分が魔法使いであることすら夢ではないか。そう考えて、リストフォンを触ってみたのであるが、少なくともすべて夢、ではなかった。
クラフト内蔵リストフォンを腕に着けているからには、やはり自分は魔法使いなのだろう。
ポケットに入っていた、この真っ赤なリストフォンを持っているということは、ウメちゃんとの記憶も確かということだろう。以前にリヒト支部で、真紅の魔道着を着たウメちゃんと戦ったことが。
でもならば、何故わたしはこんなところにいるのだろうか。
このような普段着姿で、こんなところに。
わけが分からない。
考えるほどなんだか不安が増してしまい、なんとなく周囲をきょろきょろ見回した。
奇抜な造りの壁に囲まれた、奇妙な部屋の中を。
この部屋もこの部屋で、なんなのだろうか。
扉らしき物が、まるで見当たらない。
どこから入ったんだ、わたしは。
宇宙の広さは有限というが、その宇宙がこの空間分しか存在しないかのようにも思えて、ちょっと怖くなってきた。
早く出てしまおう、こんな部屋。
出入り口がないはずはない。
不安げな表情のまま、ベッドから腰を持ち上げる。
ゆっくり、歩き出す。
妙に身体が重い。
自分の身体じゃないみたいだ。
もしかして、相当に長いこと、眠っていたのではないだろうか。
そんなことばかり、いってもいられない。
ふらつく足取りで身体を運び、短い距離というのに、ようやく壁に辿り着き、触れた。
触れてみると、奇妙なのは見た目だけでなく、感触もであった。
煮詰めた砂糖を乾燥させたかのような、ざりざり感のある手触り。
こんな奇怪な場所に自分の存在することに違和感を覚え、そっと戻した手で、今度は自分の頬に触れてみた。
触れた手をゆっくり下ろして、静かに、胸を押さえる。
膨らみ始めたばかりの、まだまだ多分に幼さの残る、でも女性らしくやわらかな胸。
感じる、鼓動。
夢じゃない。
現実、これは現実なんだ。
わたしは……令堂和咲。
ズクッ。
突然、頭蓋骨を内部から叩き割られた。
そんな激しい頭痛に襲われて、うぐっと呻きながら、両手で頭を抱えた。
痛みがおさまらず、苦痛の呻き声を立て続けているうち、
あ、ああ……
呻き声とその質が、変化していた。
思い出したのである。
ぼんやりとしていたここまでの記憶、直前の記憶を。
完全に、思い出していたのである。
いつしか苦痛ではなく、苦悩に呻いていたのである。
ぶるぶると、全身を震わせながら。
自分の涙で、視界が歪んでいた。
つっ、と涙が頬を伝い落ちた。
さらわれた史奈ちゃんを助けるために、東京にあるリヒトの支部へ潜入した。
戦いになり、たくさんの仲間が殺された。
それどころか……人質になっていたわたしの義父母、修一くんと直美さんまでが……
そして、カズミちゃんと、治奈ちゃんが、どろどろに溶けたヴァイスタの中に飲み込まれて、死んだ。
リヒト所長のために。
わたしを超ヴァイスタ化させるという計画、ただそれだけのために。
「絶対世界」への扉を開く、とかそんなことのために。
理想郷でなかろうとも、絶対ではなかろうとも、でも、みんなが必死に守ってきた世界だというのに……
あのような状況になった責任は、すべてわたしにあった。
だというのに、仲間や両親を失った怒りに駆られ、我を忘れたわたしは世界を滅ぼそうとしてしまった。
滅んでも構わない、などと思ってしまった。
滅んでも構わないと……
滅んでも構わないと!
「うわあああああああああああああああああ!」
絶叫、していた。
部屋を、壁を、震わせるほどの、声を、気持ち、後悔の念を、申し訳ない思いを、喉から絞り出していた。
吐き出していた。
不快を。
やり場のない念を。
叫び、叫んで、最後には小さなため息を吐いた。
しんとした部屋で、静かに、壁を見つめる。
「世界は……」
世界は、滅んで、しまったのかな?
わたし一人だけが、残ってしまったのかな?
それとも、ここは死者の世界?
わたしなんかに、みんなの魂と触れる資格なんかないから、だからこうして、わたしだけがここにいる……
でも、どうでもいいことだ。
わたしはみんなを裏切る酷いことをしてしまった、というその事実に間違いはないのだから。
鼻を、すすった。
ぐすり、泣きながら、壁を叩いた。
両手で、何度も叩いた。
また、涙がこぼれた。
下を向いた顔から、ぼたぼたと、大粒の涙が。
ぼたり床に落ちる。まるで雨粒とアスファルト、黒い染みが一つ、二つ。
悔しい、悲しい、怒り、嘆き、負をすべて包括した感情、そう見える表情であったが、不意にその目が驚きに見開かれていた。
音。
おそらく、壁の向こう側からの。
微かな、
でも、激しい音を、感じたのである。
正確には、音ではないのかも知れない。
振動を、身体に受けているだけかも知れない。
でも、関係ない。
音でなくとも。
どおん
どおん
間違いない。
向こう側から、叩いているのだ。
誰かが、いるのだ。
壁の向こう側に。
誰が?
2
どおん
どおん
激しい振動が、伝わってくる。
アサキの、全身に。
おそらく、誰かが叩いたり、蹴ったりしているのだ。
壁の、向こうから。
誰?
誰がいるの?
アサキは、不安になっていた。
魔力の目により視覚はあるといえ、漆黒の闇とも認識しているこの狭い空間。どこかも分からないのに、外側から誰だかに壁をガンガン叩かれているのだから。
一体、誰が……
それとこの、音の感覚だけど、やっぱりおかしい……
向こう側で、ここまで強く壁を殴るか蹴るかしているのだ。
もっとこう、破れ鐘を叩くような、頭の内側で響く不快な感じがあっていいはず。
それが、ない。
やっぱり、耳で音を聞いていない。
振動による空気の震えを、鼓膜が捉えて音と認識しているのではなく、皮膚への刺激を、脳が無理やり音に組み立てている感じだ。
ガンガン叩かれる不安に怯えながらも、試しに、両耳に手のひらを当てて覆ってみる。
離して、かぶせて、何度か繰り返してみたが、予想通りだ。
聞こえる音に、寸分の変化もない。
つまりわたしは音を聞いていない、ということになる。
聞いてはいないけれど、でも……
おーい
はっきりと、声が聞こえる。
脳はそう認識している。
皮膚に伝わる振動にしては、はっきりしすぎだ。魔力の目でこの暗がりの中を見ているように、届く意思を、直接に捉えているのかも知れない。組織から教わったことはないけれど、いわば魔力の耳とでも呼ぼうか。
おい。
返事しろよ。
誰かいるのかあ?
なにがどうであれ、肉声にせよ違うにせよ、誰かが呼び掛けていることに違いはない。
でも、誰?
と、あらためて思った瞬間である。
びりっ、と全身を電撃が突き抜けていた。
自分へと呼び掛けている誰かの、この声というか、気配というか、よく知るものだったのである。
カズミ、ちゃん?
きっとカズミちゃんだ!
でも、
どうして、ここにいる?
わたしの前で、治奈ちゃんと一緒に、ヴァイスタに……
じゃあ、これは幻聴?
これは夢?
あとだ。
いまはそんなことどうでもいい。
「カズミちゃん? いるよ、わたし、ここに! アサキ、わたしアサキだよ! 壁に囲まれた中で、出るところがないんだ!」
叫んだ。
届くかどうか分からないが、精一杯叫んだ。
向こうの大声だって届いているから、きっと届くだろう。
なにいってんだあ。お前バカなのかあ。
ほら、
すぐ言葉が返ってきた。
この口の悪さ。間違いない、カズミちゃんだ。
壁の中? からくり部屋じゃねえんだ。ドアがあんだろが!
カズミちゃんと思われる女性の、乱暴な言葉遣いに、怒鳴り声。
「どこ? ないよ、ドアなんて。変な形の壁に、四方を囲まれているだけだよ」
はあ?
ったく、世話の掛かる女だなあ、てめえは。
こっちはさっきから、そのドアをぶっ叩いてんだよ。
じゃあ、ドアの右と左を殴るから、それで当たりをつけろ! こっちが右っ端、でこっちが左だ。分かったかオシッコタレの鼻水女。
がんがん
がんがん
壁を殴る音が聞こえる。耳でなく、肌で感じる。
感じた位置の壁を、まじまじと凝視してみると、なるほど、見付けた。
注意しないとまったく気付かないが、確かに、壁の真ん中に扉があるようだ。
でも、正面に立ってみても、まったく開く様子がない。
ボタンとか、認証センサーの類も、見当たらない。
開閉システムが壊れている?
でも、ここに出入り口があると分かっているのなら……
壁の向こう側が存在することが分かり、さらにそこにカズミちゃんがいる、そう分かっているのならば……
ぐっ
おそらく扉と壁との境であろう、という箇所へ、右手で手刀を作ると、そっと指先を突き当てた。
そのまま、力を込めて押す。
非詠唱魔法を使って、右手を魔力強化しながら。
輝く右手の手刀を、押す。
扉と壁との境へと、扉と壁とを砕きつつ、指先が少しめり込んだ。
扉の側面への手掛かりが出来たので、今度は指に力を込めつつ、しっかり床を踏みしめつつ、全身に力を入れて、横へとスライドさせていく。
分厚い鉄板なのかというほどに、扉は相当に重たかった。
微動だにもしない。
だが、それでもが渾身ガムシャラ力を込め続けていたら、がりがり砂を潰すような振動と共ともに、僅か横へと動いて、扉と壁との隙間が出来、広がった。
「お、お前っ、相変わらず規格外のことしやがるな!」
壁の向こうから、驚く女性の声。
こうして壁と扉に隙間が出来たためか、今度ははっきりと聞こえた。
声が聞こえた、といっても、やはり鼓膜が捉えたものではないのだろうが。
もうひと踏ん張りしようと、指を掛け直した。
手伝おうというつもりか、反対側からも、指が差し込まれた。
指と指とが、触れ合った。
やっと闇から抜け出せて、そして人に会える、その相手はカズミなのだ。
嬉しくないはずがない。
だというのに、口をついて出たのは、自分でも予期せぬ言葉だった。
「誰?」
一瞬、確かに指先にはカズミちゃんを感じた。
でもそれは一瞬のことで、なんだか違和感だらけ、他人の感触だったのである。
「お前、誰だ?」
向こう側からも、同じような言葉。
カズミちゃんじゃないなら、そうもなるか。
わたしのことなんか、知らないのだろうから。
あれ……でもさっきわたし、アサキだって名乗ったはずだけど。
その上での、言葉のやり取りがあったはずだけど。
じゃあ、やっぱりカズミちゃん?
規格外とか、よくからかい半分でわたしにいってた言葉だし。オシッコ漏らしとか、鼻タレ女とかも、やめてよって怒ってもやめてくれなくて。
どういうことなんだ。
誰が、いるというの?
ここに、この扉の、向こうには。
カズミちゃんなの?
知らない人なの?
「お前が誰だろうとも構やしねえ。せっかく、ついに人に会えたんだ。あたしは開けるぞおおお!」
また、カズミのような別人のような女子の、乱暴な声。
ついに、人に会えた、って?
どういう、こと?
と、いまはそんな時じゃない。
「分かった。タイミング合わせて開けよう」
「おう。せーのっせーでっ」
二人の力により、扉が、動き始めると一気に加速が付いて、一気に全開した。
「いって! 人差し指ちょっと巻き込まれたっ!」
少女は、慌てて指を引き抜いた。
薄桃色のシャツに、デニムスカート姿。
茶色い髪の毛を、ポニーテールにした、少女。
アサキと見つめ合い、
「ああ……」
お互い、唖然としてしまっていた。
ぽかんと、口を開けたまま。
アサキの目の前に姿を見せた、向こう側から扉をガンガン殴っていた、言葉遣いのやたら乱暴な少女は、まさかというべきか、やはりというべきか、
「カズミ……ちゃん」
「アサキ……」
ここは生者の世界か。
死者の世界か。
アサキは、ごくり唾を飲み込んだ。
3
「お、お前、本当に、アサキ、なのか? あの……アホで有名な」
カズミは、まだ狐につままれた顔で、ぷるぷる震える人差し指を、そーっとアサキへと向けた。
気恥ずかしいのか、言葉はやたらふざけているが。
アサキもやはり狐につままれた顔で、すぐには言葉を返せず、ぽけっと口を半開きにしていた。
やがて、ふうっと小さく柔らかいため息を吐くと、苦笑を浮かべつつ顔を上げた。
「気を悪くしないでね、カズミちゃん。わたしも、同じこと思ったんだ」
「誰がアホで有名だあ!」
がちっ!
カズミは、赤毛の少女の首を両手で思い切り掴んだ。
「ち、違うよお! 本当にカズミちゃんなの、って思ったってこと! ぐ、ぐるじい離しでよお」
「お、お、なんか久々だな、このやりとり。うん、この締め心地具合のよさは、まさしくアサキだよ」
はははっ、首をぐいぐい締めながら、カズミは楽しげに笑った。
「ぞでより首い締めるのやめでえええ……」
やめてもらえるのは、それから何十秒後のことであったか。
なおもしばらく、土気色の顔で、げほごほとむせているアサキであったが、やがてそれもおさまると、
「でも、不思議だったな。この気配は絶対にカズミちゃんだ、って思ったのに、指が触れた瞬間に、あれカズミちゃんじゃない、って感じてしまって」
「はあ? こんな絶世の美女は、そうそう存在しねえのに、ブレるんじゃねえよ」
「やっぱりカズミちゃんだっ」
アサキは、ぷっと吹き出した。
いいぐさに、なんだかおかしさが込み上げてしまって。
「おい、別に笑う台詞じゃなかっただろ!」
カズミは、アサキへと抱き付いていた。
不満げに唇を尖らせながらも、背中に腕を回してぎゅうっと強く。
強く。
感触、温もり、息遣いを確かめるように。
「本当に、アサキなんだな……」
ぼそり。
吐息に似た声。
「そうだよ、カズミちゃん」
アサキの顔には、微笑みが浮かんでいた。
知らず腕を回して、二人は抱き締め合った。
お互いの存在を、確認し合った。
どれくらい、そうしていただろうか。
「うくっ」
アサキは、しゃくり上げた。
不意に、感が極まってしまったのだ。
たっぷりの涙が、目から溢れていた。
ぼろり、こぼれた。
堪え切れず。
ぼろり、ぼろりと。
「ば、ばかっ、泣くなよ濡れちゃうだろ。この泣き虫の弱虫のオシッコ漏らしの鼻タレ女!」
「……もっといって」
罵詈雑言を、ねだった。
以前に戻れるわけはないけれど、ちょっとだけ、思い出が心地よくて。
「はあ? バカになったんか。ああ、元から大バカだったよな」
「そうだよ」
泣き顔を隠そうと、頬を、カズミの頬へと擦り付けた。
笑いながら。
「自分でいうなよ。……ヘタレで、泣き虫なくせに、とてつもなく強くて、どうしようもなく優しくて、ほんと、最高の大バカ、だよ、お前は。ったく、生きて……まだ、くた、ばって、なかったの、かよ……」
カズミは、ぶるっと身体を震わせた。
より強く、アサキを抱き締めた。
彼女の方こそ、感極まって泣きそうになっており、顔を見られまいとしていたのである。
結局、本当に泣いてしまった。
顔は密着でアサキからは見えないけれど、息遣いから分かる。
カズミは、すすり泣いていた。
ヘタレだの、バカだのと、乱暴な言葉を吐いてごまかしながら。
「カズミちゃんこそ。どろどろに溶けて、ヴァイスタに飲み込まれちゃって、死んじゃったんだと思っていた。よかった。生きて、生きててくれて、本当に、よ、よかっ……よかったっ」
アサキも、カズミの態度に対し、自らの感動を押さえることが出来なかった。
二人は、わんわん声を立て、泣き始めた。
嗚咽から、大声の感泣へ。
かたく抱き締め合ったまま。
二人は、上を向いて。
随喜の涙を、こぼし続けた。
やはり、夢では、なかったのだ。
リヒトの建物の中で、戦ったことは。
つまりは、みんなが死んでいったことも。
それは、悲しいことだけど……
でも、でも、こうして生きていた。
カズミちゃんは。
生きていて、くれた。
いまはただ、それを喜ぼう。
4
ようやく、泣き終えた。
激しく揺れる気持ちが、落ち着いた。
でも、その後も、二人はお互いの肩に手を置いて、しばらく見つめ合っていた。
夢ではないんだ。と、お互いの存在がじわじわ確固たる確信に変わっても、なおしばらくの間。
一生こうしているわけにもいかない。とでも思ったか、カズミは急に首をきょろきょろ、周囲を見回し始める。
そして、ぼそり疑問の言葉を呟いた。
口調はさらり、しかしその疑問は、アサキを飛び上がるくらいびっくりさせるものだった。
「ところでさあ、ここ、どこなんだよ」
「えーーーーっ! カズミちゃん、知っているんじゃないの?」
分かっていて、わたし(とは思わなかったにせよ)を助けにきてくれたんじゃなかったの?
「知らねえよ。そのドロドロヴァイスタの件で意識が飛んでさ、気付いたら、見たこともねえ狭い部屋の床に、寝っ転がってたんだもん。こんな格好でさ」
薄桃色のシャツに、デニムのミニスカートという、遊び着で。
ボロボロに破れ焦げた、青い魔道着を着ていたはずなのに。
「扉の前に立ったら、勝手に開いたから通路に出て、うろうろうろうろ、誰もいなくてさ。途方に暮れていたら、突然なんか気配を感じて、それがお前だったんだよ」
「そうなんだ。……誰がこんなところへ、わたしたちを運んできたんだろうね」
アサキも不思議そうに、きょろきょろ通路を見回した。
一体、なんであろうか。
ここは。
空想科学の未来鉄道を思わせる、巨大なチューブがうねっているといった感じの、奇抜な形状の通路。
これまでの、たかだか十数年の人生で、学校、マンション、商業ビル、ありきたりな通路しか歩いたことがないが、差し引いても充分に、現代常識から外れるデザインであろう。
電球の類は、どこにも見当たらない。
壁は真っ白に見えるけれど、実は光っている?
それとも、もしかしたらここも実は真っ暗で、また魔力の目で認識しているだけ?
海外の映画に登場しそうな、遠い遠い未来の、建物のようだ。
または、宇宙船の中?
それか、海底基地とか。
「あの戦いのあとに、周辺が、もしかしたら日本とか世界全部が、吹き飛んだとか。ここは天国か、はたまた地獄か。それともあたしら二人、氷漬けにでもなったまま時間が流れて、遥か未来にきちまったんかな。この壁をブチ抜いたら裏に仕掛け人とかスタッフがいるドッキリだったら笑うけど」
どこまでを、本心としていっているのだろうか。冗談として、いっているのだろうか。
いずれにせよ、アサキは全然聞いていなかったが。
カズミのその言葉の、最初の部分が引っ掛かってて。
あとの言葉は、まったく聞いていなかった。
あの戦いの、あと……
あの……戦い……
そこで、わたしは……
ふ、っとため息を吐いた。
悔しげに、ぎゅっと拳を握った。
拳を握り、青ざめた顔で、もう一回、もっと小さくため息を吐くと、
「ごめん」
カズミへと、頭を下げた。
「なにがだよ。あたしがつまんない冗談をいったことに、なんでお前が謝るんだよ」
「違うんだ。わたしね、あの時……もうどうなってもいい、って思っちゃったんだ。こんな世界、って。それどころか、滅べとすら、思ってしまった」
修一、直美の、酷たらしい姿に、精神が闇に落ちた時のことだ。
「赤ちゃんが、生まれてくるはずだったのに! 死を覚悟しているわたしたち魔法使いとは、二人はまったく関係ないのに!」
まったく関係ない、ということはない。
二人とも、元リヒトの研究員だったのだから。
ただし、幼いアサキを助けて逃げ出した際に、魔法によりリヒトでの記憶はすべて失っており、そうした意味では確かにまったく関係ない。
最後の最後に記憶が戻ったとはいえ、ずっと単なる一般人として生活していたのだから。
「でも、これじゃいけないって、抗わなきゃって理性も、心の奥にはあって……あった、のだけど、カズミちゃんたちがヴァイスタに飲み込まれたのを見て、至垂所長の笑い声を聞いて、もう完全に、心が壊れちゃって……」
記憶が、蘇る。
話すほど、動揺し、
動揺しているのに、するほどより鮮明に。
思い出したくもない、嫌な記憶が、はっきりと。
中央結界、最中央に立つ、光の柱を。
怒濤にうねる白い大河。
液状化した、ヴァイスタの流れを。
自分は、頭の半分を、切られ砕かれ失って。
炎に崩れて、ほぼ原形をとどめていない。
その前に仁王立つ、白銀の魔法使い。
気付けば前に、カズミと、治奈。
肉体が、どろどろに溶けている状態。
再構成、つまりヴァイスタ化を待つばかりという状態。
ヴァイスタの、白い川の流れが、鎌首を持ち上げ、伸ばし、そんな二人を、一瞬にして飲み込んだ。
大笑いしている、白銀の魔法使い。
そんな光景を見せられて、
友の必死をバカにされて、
崩壊寸前だったアサキの精神は、限界に達してしまったのだ。
「でもね、暴走するわたしの前に、ウメちゃんがふわっと現れてね、ダメだよ、って優しい声でいってくれたんだ。わたしを、そっと抱き締めてくれたんだ。……それは、単なる幻だったのかも知れないけど」
「そっか……」
カズミは、俯きがちなアサキの、顎に指で触れ、ちょいと起こすと、微笑みながら、
「それは、幻なんかじゃないんだよ、きっと。ま、お前があまりに頼りなさ過ぎて、ほっとけなかったんだろうな」
「だろうね」
アサキも、笑みを返した。
といっても、カズミと違って苦笑いであるが。
「ところでさ、ちょっと気になったんだけど、お前、さっきいた部屋の、どこで目覚めた?」
「え? どこでって」
「ベッドに寝てたとか、素っ裸で宙吊りになってたとか」
「もうこの服装になってて、ベッドで横になっていた」
それが、大切なことなのか?
と、アサキは小首を僅かに傾げた。
「あたしも、ベッドで横になってたっぽいんだけど、身体の下に、なんかごちゃごちゃと、コードみたいなもんがあっただろ? なんだろな、あれ」
「え、なに、それ。あと、カズミちゃんは、床の上で転がってたっていってなかった?」
「いった。たぶんさ、ベッドから転げ落ちて、それで目覚めたんだと思う」
「そうなんだ。わたしは特に、なんにも感じなかったけど」
ごちゃごちゃとした、コードだなんて。
まだ通路を少し歩いただけなので、先ほどの部屋へと引き返してみた。
いわれた以上は、気になってしまって。
強引にこじ開け抜け出た扉を、再び通って中に入ると、確かに、カズミのいった通りであった。
ベッドには、人型の微妙なくぼみがあって、自分はそこに収まるように横になっていたのであるが、そのくぼみには、確かに外れたコートや、プラグの類が無数に存在していたのである。
「さっきは、手で触っても気が付かなかったのに」
まだ肉体の感覚が戻っていなかったのと、ベッドのクッション具合が絶妙であったため、違和感覚えず単なるデコボコであると思ってしまったのだろう。
「なんだろう。計測、されていた? それとも、なにか他の目的のものかな……」
「知らねえけど、親切な誰かがそっと運んで寝かせてくれた、とか、そういう話じゃあねえってことだろうな。少なくとも」
カズミは、先ほどまでアサキの寝ていたベッドに、どかっと腰を下ろした。
腕を組み、片膝に足を乗せた。
5
「ここも、リヒトの研究所なんじゃねえの?」
薄桃色シャツに、デニムのミニスカート、茶髪ポニーテールの少女が、ベッドに腰を掛けている。
カズミである。
ミニスカートだというのに、構わず持ち上げた片足首を反対の膝に乗っけているものだから、さっきから前に立つアサキは顔を赤らめそわそわしている。
見えてしまいそうなのが、気になって気になって。
カズミは、そんなアサキの態度に、ようやく気が付いたようで、
「べっつに誰もいねえんだからあ。お前もくつろいで、普段みたくガバッて股アおっぴろげて座りゃいいだろ」
「嫌だよ。というか、普段もなにも、やったことないよそんな座り方」
もう。
小声でいいながら、アサキもすぐ隣に腰を下ろした。
膝丈タータンチェックの、プリーツスカート姿で、ぴったりと膝を閉ざして。
必要以上にきつく力を入れて閉じているのは、まあ当て付けというものである。
「ねえ、どうしてここがリヒトの研究所だと思ったの?」
アサキは尋ねる。
「じゃあ他にどこだよ、って話だ。……リヒトの研究所では、キマイラってのを作っていたんだろ? で、まだ信じられねえけど、お前とか、至垂のクソとか、あと、あの戦ったくそ強え魔法使いたちが、そのキマイラだった」
「うん。わたしも、実感があるような、ないようなだけど」
キマイラ。
それは人工臓器を融合させた、新たな生命体である。
アサキは、人型のキマイラとして、リヒトの科学力により生み出されたのである。
人型キマイラの中で、特に魔力係数の高い者を、魔道器と呼ぶ。
アサキは、その魔道器である。
絶望した魔法使いがヴァイスタになる、という説からの発展研究で、将来の超ヴァイスタ化を見越して作られた生物。と考えれば、魔道器であること当然ではあるのだが。
「例えばさ、あたしも、この建物で、キマイラとして作り出されたのかも知れない。お前も、あらためてもう一回。あたしたちやっぱり、あの時に死んでてさ、記憶だけを受け継いでてさ。……さっき指が触れ合った時に、こいつ誰だってお互いに思ったのも、そう考えると納得がいくだろ」
「気持ちの悪いこというの、冗談でもやめて欲しい。話の辻褄は合うよ。でも、わたしたち二人とも、もう死んでいるだなんて、そんなこと考えたくないよ」
「世界を吹っ飛ばそうとしたやつが、よくいうぜ。吹っ飛ばされたら、みんな死ぬだろうが」
「ごめん……」
アサキは、申し訳なさそうに頭を下げた。
「おい、冗談にいちいち謝るなよ。仕方ない事情なのは、こっちも分かってんだからさあ」
「うん。ごめんね」
「だから謝んなあああああああ! 今度謝ったら、服もパンツもびりっびり再生不可能の職人芸的に細かく引き裂いて、全裸にひん剥いて、落書きしまくって、ちっちぇえオッパイのとこもぐるぐる渦巻き書いて、色々丸見えの恥ずかしい姿勢のまま荒縄で縛り上げて、通路を端から端まで、ごろんごろん転がすからな!」
「え、えーーーっ」
なんでそこまでされなきゃならないのお!
といった、泣き出しそうな情けない表情を浮かべるアサキであるが、それはすぐ笑みへと変わった。
この横暴身勝手に思える言動は、カズミなりの気遣いであって、それがなんとも嬉しかったからだ。
ただし、本当に脱がされ転がされたりもされかねないので、ちょっと不安ではあるけれど。
「しかし、リヒトって、こんな妙ちくりんな建物を作るんだな」
ばたんごろりん、カズミは片膝に足首を乗せたまま、アサキいわく見えちゃうよの姿勢のまま、倒れた。
かと思うと、ばねのごとく反動で、すぐに上体を起こした。
きょろきょろ、室内を見回す。
「しかしセンスねえデザインの部屋だな、リヒトって」
「だからリヒトとは限らないってば」
「じゃあ、さっきあたしがいった、遥か遠い未来の地球じゃねえの? 実際、こんな見たこともねえ部屋の造りだろ。部屋の外もなんか気持ち悪いしさ」
無数の管を、編み合わせて作ったような壁。
天井からは、植物のような、機械装置のような、得体の知れないものが大量にぶら下がっている。
部屋の中央には、巨大な試験管が逆さに床から突き出している。
そして、この部屋の外は、うねうね曲がり伸びる、チューブの中といった感じの通路。
確かに、SF映画の未来世界のようではある。
要するに、現実感と既知感がない。
「そうだね。……そもそもここは、わたしたちのいた世界なのかな」
「ああ……もしかしたらここが『絶対世界』だったりってこと?」
「ないとは、思うけど」
ないと思うというより、あって欲しくないと思う。
神々の世界が、こんなところだなんて。
世界が滅ぶかも知れないリスクを背負ってまで、くるようなところじゃないだろう。
この外になにがあるのか、知らずにいうのも早いけど。
でも、大丈夫だ。
きっと、「絶対世界」なんかじゃない。
この建物の外は、きっと、わたしたちのよく知る世界だ。
みんなのいる、世界。
わたしたちが守った、世界だ。
たち、といっても、わたしは最後の最後で、とんでもないことをしようとしてしまったのだけど。
アサキは、小さなため息を吐いた。
ベッドから、腰を上げた。
「そろそろ、出ようか。……わたしたちを運んだ人が、目覚めたことに気付いてここへくるかな、とも思っていたけど、そんな気配もないし」
「だな。んじゃあ、ちょっくら探検してみっぺ」
こうして再び二人は、こじ開けた扉を潜り抜け、巨大なチューブ状の中を歩き出したのである。
6
いつ、どうなるか。
誰が、いるのか。
分からないから、必然と歩きは慎重になる。
別段気配らしきものは感じず、そのまま十歩、二十歩、三十歩、四十歩、二人は進む。
「あたしがいたのは、ここだ。造りは、お前のいたとことまったく同じだから、立ち寄る必要もねえだろう」
カズミが親指で差したのは、アサキのいた部屋から、かなりうねうね歩いたところにある扉だ。
どれも同じに見える扉だが、ここだけ手のひら形状に淡く発光している。カズミが魔法で目印を付けたのだろう。
「綺麗に、閉じているね」
アサキがいた部屋の扉は、動作せず、破壊するしかなかった。
こちらは、そんな形跡はまったくない。
「前に立ったら音もなく開いたからな。離れたら勝手に閉じたし」
ならば、アサキのいた部屋の扉は、やはり壊れていたということなのだろう。
開閉しないのならば、どうやってそこへ運ばれたのか、何故そんな部屋を選んだのか、という疑問は残るが。
などと考えていても、仕方ない。
二人は進む。
無意味にうねうねとしているため分岐点もないのに先が見通せない、チューブ状の中を。
防犯とか情報守秘などなんらかの理由で、あえて見通すことの出来ない通路の造りにしているのだろうか。
それとも単なるデザイン。
歩行そのものは、ほとんど身体を傾けることなく、ほぼ真っ直ぐ進んでいける。でも、見た目が見た目なので、進んでいると、すっかり迷ってしまった気持ちになる。
まだ分岐点にも差し掛かっていないのだから、引き返せば確実に戻れるのに関わらず、戻れるか不安になる。
まあ、自分たちのいた部屋に戻ったところで、そこになにがあるわけでもないのだが。
もう、なにかがあるまで、誰かと会うまで、デタラメにでも進むしかない。
願わくば、会いたくない類の人や、悪霊などとは、遭遇したくないものだが。とはいえ、なんであれ遭遇さえすれば、現状の判断は出来るわけで、複雑な心境ではあるが。
「カズミちゃん」
赤毛の少女、アサキが、不意に呼び掛ける。
「なに?」
茶髪ポニーテールの女子が、顔を真っ直ぐ向けたまま返事だけする。
「あのさ、不安、というか、疑問に思ったんだけど、ここに、カズミちゃんがいる、ということはさ、あ、あの、た、ただ疑問に思っただけなんだけど」
「もったいつけずに、とっとといえよ」
「あ、う、うん。は、は、治奈、ちゃんは……」
もったいつけるつもりはない。
が、続きを継げず、アサキの口は半開きのまま固まってしまう。
どのような理由があって、自分と、カズミと、ここに二人きりなのか。
それは分からない。
もしも、中央結界内の、光の扉、そのそばに倒れていたからという理由であるならば、そこには治奈も一緒にいたではないか。
三人とも、どろどろに溶けた。
溶けて、カズミと治奈は、液体化したヴァイスタに飲み込まれた。
その後、誰かに助けられた?
あんな状態の自分たちを、どんな処置で?
助かったのは、微かにでも、生命が残っていたから?
だとすると、
治奈ちゃんが、ここにいないということは……
と、そのような理由で、言葉を続けようにも口がまったく動かなかったのである。
人の、友の、生き死にを推測で語りたくなかったから。
カズミはその、躊躇いがちなアサキの態度を察したようで、
「分からねえよ。……あたし自身のことすら分からないんだから。あたしと治奈と二人で、骨まで溶けて、混ざり合って、河のように流れるヴァイスタの中、もうすべてが真っ白で、ああ、このまま消滅するんだな、って身も意識も、とろんと溶けるがままに漂い始めたと思ったら、ここにいたんだ」
ここ、つまりは先ほど通り過ぎた部屋の、ベッド、そこから転げ落ちて、床に寝ていた、ということである。
「そうなんだ」
「うん。しっかしさあ、あたしもだけど、お前もよく、あそこまで無茶苦茶な状態にされていて、身体が元に戻ったよな」
アサキは四肢を至垂徳柳によって切断され、
負のエネルギーの放出で、肉体の残りもぼろぼろと崩れ、
ほとんど生首、という状態で、
さらに、頭部の半分を叩き砕かれて、
そこまででも、キマイラとはいえ生きているのが奇跡であるというのに、さらに肉体が溶け続けて、おそらく、完全に世界から消滅した。
そして、なおも我を忘れて暴走する魂、意識の中、慶賀応芽と出会い、彼女に優しく抱き締められて、そして、気付けばカズミ同様、ここにいた。
「とても、不思議なんだけどね」
夢だったのならばともかく。
でも、先ほどお互い記憶の擦り合わせをしたので、リヒトでの戦いや結末が、夢でなかったことは分かっている。
現在がまだ夢の中、ということでもない限りは。
だから、不思議なのである。
ほとんど肉体を失ったどころか、完全に消滅したはずなのに、何故ここでこうして生きているのかと。
「なにが、どうなんだろうな。ま、あたしたち自身がこんなだし、だから、誰がどうとかまったく想像も出来ねえけどさ……進めばなんとかなると思うしかねえべ」
「うん」
「カズミ艦隊、全速前進!」
「うん。……なあにカズミ艦隊って」
二人は、歩き続ける。
うねうねと、ゆるやかな曲線を描く、チューブの中といった感じの通路を。
道標のない中を。
あてとしては、誰か人に会うことだろう。
人との接触がなくとも、とにかくここがどこかを知ること。
現状がどうなっているのか、認識すること。
そのため、こうして歩いているわけだけど、
でも、おかしくないか?
アサキは思う。
なにがって、
何故ここまで、誰もいないのだろう。
カズミちゃんのいう通り、ここもリヒトの研究所だとして、わたしはフミちゃんを助ける際に警備員に潜入を気付かれないよう魔法を使ったくらいだったのに。
それが何故、誰もいない。
わたしが起こした、あの騒動で、周囲のみんな吹き飛ばしてしまった?
でも、ここはなんともないじゃないか。
ならば、誰がいてもいいはずだ。
「なんか、怖いよ……」
不安な気持ちが、口を突いて出ていた。
瞬間的に、
「ヘタレ女」
ぷぷっ、とカズミに笑われて、吹き飛ばされてしまうのだが。
「酷いよカズミちゃん! こんなところ、怖いと思うのが当たり前でしょう」
「はいはいそうですねえ。でももう、おしっこは漏らすんじゃないぞお」
「漏らさないよ! なあに、でももうってさあ」
間違ってはいないけど。
何回か、みんなの前で漏らしてしまったことがある。
でも、ここでそんな過去のことをからかって、どうなるというんだ。
と、心の中でぶつくさ不満を発しているアサキであったが、うわっと突然カズミに大声を出されて、びくり肩を震わせた。
「なあに急……」
「おっ、ようやく分かれるところがあるみたいだ! アサキの秘技おしっこ漏らしの話なんかはあとだっ!」
カズミは、たたっと軽快に走り出した。
誰がいるのか分からないから、静かに歩いていたのに、大声に足音に台無しである。
「待ってよおっ」
台無しついでに、アサキも大声で後を追う。
前方に見えるは、歪んだY字の分かれ道。
右は、ここまでの眺めとあまり変わらない、ゆるやかなカーブを描いている。
左は、急角度で折れている。
ならば変化を期待して、と左へ折れる二人であったが、本当に、変化がいきなり訪れた。
曲がってすぐに突き当り、足にブレーキも掛け切らないうちに、そこに扉があって、音もなく開いて、暗闇が二人の前に広がったのである。
「外だ……」
ぼそり。
アサキは、呆けた表情になっていた。
正確には、ここは外ではない。
なんの用途を想定しているのか、物のなんにもない、広大な部屋である。
四方のうち一面に、歪んだ大小の窓がたくさんある。
すべてに、ガラス板のような物が張られている。
その、窓の向こう側にある暗闇を、アサキは外だといったのである。
「てことは、少なくともここは、宇宙船の中じゃないってことか」
カズミが、用心深く見回しながら、腕を組み、一人頷いている。
「え、宇宙船ってガラス窓とかないの?」
ある。
「間抜けかお前はあ! あったら、もしひび入っただけで大パニックだぞ」
いや、窓は存在するのだが……
「あ、ああ、そうか。そうだね」
「だろ?」
「……でも、宇宙船じゃないのは分かったけど、外の景色が、なんにも見えないね」
漆黒が、あるばかりだ。
現在は夜、ということなのか。
魔力の目は心臓の鼓動と一緒で、ほぼ無意識に働くため、実際に明るいのか、暗いのか、よく分からないのだ。
「さすがに、明るいってことはないだろうけど。どっちにせよ、なにがあるのかまったく見えないや」
「いや、バカよく見ろ。なんか、建物があるぞ。とんがってたり、先が折れ曲がってたり、なんか変なのが見える。そのずっと向こうに、山らしいのも見えるな」
「え、ほ、本当?」
アサキも、通路から室内へと入って一歩、二歩、前へ進みながら、目を凝らした。
確かに、なにか見える。
窓の外、その遠くをよく見ると、暗がりの中に。
幾何学模様的、とでもいえばいいのか、通常感覚で非合理的としか思えないシルエットの建物。
建物の隙間から見えるさらに向こうには、山々の連なり。
「本当だね。……これも、魔力の目で視ているのかな」
「ああ、お前も、気付いてた?」
カズミの問いに、アサキは小さく頷いた。
「さっきの部屋の中も、通路も、この部屋にも、まったく光源がないってことでしょ」
「分かってたか。魔法使いの経験を積むと、魔力の目が無意識になるからな。なまじ見えちゃうから、光があるんだか、ないんだか、分からなくなっちゃうんだよな。今が昼だ夜だ正しく認識さえしていれば、無意識が勝手に調整してくれるんだけど」
「以前にそれ、正香ちゃんから聞いてたから。だからすぐ、おかしいなって疑問に思えたよ」
初合宿の時だったろうか。
大鳥正香から、魔力の目について教えて貰ったのは。
スイッチのオフオンについても、レクチャーを受けた。
あの頃は反対に、意識しないとスイッチが入らない、新米魔法使いだったのだが。
「光だけじゃなく、音もだよね。なんだかね、耳、鼓膜で、音を聞いていないみたいなんだ」
「そうなんだよ! 鈍感なアサキも気付いてたか。伝わってくる振動そのものに意思があって、その意思を音として感じているみてえな」
「わたしは単に、皮膚で受けた振動を、脳が音として捉えているものと思っていた」
だいぶ慣れてはきたが。
この、音を音として聞けていない状態も。
だから、この会話、音声のやり取りに、現在あまり違和感はない。
もともと映像も音声も認識するのは脳であると考えれば、おかしなことでもないのだろう。
「ここ、実は宇宙空間で、空気がねえんじゃねえのか」
「え、どうして空気がないと音が聞こえないの?」
アサキは小首を傾げた。
「てめえ、あたしよか遥かに成績がいいくせに! バカにしやがって! 幾らだ? 喧嘩売ってんなら買うぞお!」
「うわっやめて首を締めないでええええ!」
科学をよく知らず、素で疑問に思っただけなのに、ぎりぎり首締めを食らうアサキなのであった。
アサキが、カズミの全力首締めから解放されたのは、それから三十秒後のことだった。
土気色になった顔が元に戻るのは、さらに一分後であったが。
「もう、いちいち暴力振るうのやめてよ」
「イライラさせるこというからだよ。じゃあ、もしストレスで禿げたら、お前もツルツルに剃れよな」
「えーーーっ。意味が分からない」
「まあ合宿のお風呂でこっそり覗き見たところでは、下の方は剃るまでもなくツル……」
「いわないでええええええええ!」
ボゴン!
カズミの身体が斜めになって、顔が壁の中にめりこんでいた。
アサキに突き飛ばされたのである。
「あ、ご、ごめん、カズミちゃん」
謝るアサキであるが、
先ほどの音、果たしてカズミは生きているのか、
「つう、痛えおでこ痛え……」
壁から抜けるカズミの頭。
無事だったようである。
「ったく凄え力だな!」
「だってカズミちゃんが恥ずかしいこといおうとするんだもん!」
「話を戻すけど……光、空気、音、振動、さっきお互いに感じた違和感も、それが原因かも知れねえな」
ここが宇宙空間のようなところかも知れない、ということである。
「うん。でも、なら……この振動は……」
「お前も、感じてた?」
カズミの問いに、アサキは小さく頷いた。
かたかた、振動している。
足元が、先ほどから震えている。
僅かであったため、取り立てて気にしないでいたのだが、それが段々と激しさを増していた。
微かに感じるから、誰でも気付くはずの荒っぽい振動へと変わっていた。
直接に音が聞こえるわけではないが、どどどどど、と馬の大群が大地を駆けているような、激しい振動へと。
「お前の震えじゃねえの? おしっこもれるう、とか」
ははっと笑うカズミ。
「冗談はやめて」
アサキは、一足先に真面目モード。
カズミの冗談を、にべなく突っぱねた。
アサキは、神経を研ぎ澄ませた。
この振動を、どう感じる?
本当の、馬の大群などではない。
おそらく、一人? 一体?
いや、違うぞ。
二体、三体?
なんなんだ、これは。
どういう……足が、四? 六?
とても重たい、なにかが、とても巨大な、なにかが……
地響き立てて、
どちらへ……
……こちらだ。
真っ直ぐ、
真っ直ぐに、こちらへと走ってくる。
振動が、大きく、激しく、
激しく、
まるで、大地震……
「うわあっ、なんかくっぞーーーっ!」
カズミの叫びと同時に、壁が爆発した。
巨大な生物が、現れたのである。
反対側から、壁を突き破って。
異様な姿であった。
六本足の、巨大な、獣のような、蜘蛛のような、異様な姿であった。
さらに異様たらしめるもの、その巨大な胴体の背から生えている、白銀の服に包まれた人間の上半身。
人間の、顔、
至垂徳柳の、口が大きく開かれた。
「死んでおけえい!」
がらがら壁を砕きながら、
右手に持った長剣を、アサキたちへと振り下ろした。
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