魔法使い×あさき☆彡
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第二十四章 みんなの未来を守れるならば
1
降参の意、ということであろう。
言葉の通りに。
妙に清々しい顔で、床に大の字になっている至垂徳柳は、右手に握っていた長剣を離すと、甲でぱしり弾いた。
くるくる回りながら長剣は床を滑り、たまたまその位置にいた文前久子が踏み付けて止めた。
久子は、そのまま拾い上げて、床へと突き立てた。
ようやく終わった戦闘に、赤毛の魔法使いアサキは小さなため息を吐きつつ、右手に握った剣をゆっくり下げた。
かちり、
切っ先が床に触れて、硬い音がした。
リヒト所長は、肘をついて支えて上体を起こした。
白銀の魔道着姿のままあぐらをかいて座ると、人差し指で顎を掻きながら、アサキの顔を見上げる。
「そういうところだ。きみは、簡単に人を許してしまうんだよ。……実に胸糞が悪い」
「許してなんかいません」
冷たい、アサキの目、口、口調である。
自然に出ているものであるのか、演技の混じったものであるかは、自分でも分からなかったが。
「とはいえ、さして恨んでもいなかろうに。罪を憎んでなんとやら。優等生なんだよ、きみは。……実に胸糞が悪い」
「そんなことはない」
本心からの、アサキの言葉だ。
わたしは別に、優等生なんかじゃない。
ただ人間でありたいと思うのみだ。
自分が人間だと信じていた時から、そうではないと知った現在も。
「そんな作品に作り上げたつもりもないのだが、先天後天、とにかく結果として」
「わたしは……」
人間でありたいだけ。
という思いを声に出そうとしたが、すぐ口をつぐんでしまう。至垂の、「作品」という言葉が胸にぐさり突き刺さって。
しばらくは、こうして気持ち揺れるのだろう。
落ち込んだりも、するのだろう。
自分がキマイラであるということ、魔道器という存在であること、吹っ切れたつもりではいたけれど。でも、それを知ったというか、思い出したのが、ついさっきのことなのだから。安定するまで時間が掛かるに決まっている。
そんなアサキの思いを知るか知らぬか、至垂はあぐらをかきながら、楽しげに言葉を続ける。
「でもね、その偶然産物の、わたしにすれば腐ってるとしか思えないきみの性根が、ここまでのところ実によい効果を生んでいるんだ。……興味が沸くよねえ。類まれなる魔道の器、優等生的な汚らわしい性根、そんな存在が心の底から怒り、狂い、真の絶望をした時に、果たして我々は目の前になにを見るのか。この世の理を、細い針金の如くにたやすく捻じ曲げる、どんな素敵なことが起こるのかを」
あぐらをかいたまま、くくっと感情を押し殺そうという笑い声を漏らした。
まったく、押し殺せてなどいなかったが。
言葉を受けた赤毛の少女アサキは、僅かの躊躇もなく、きっぱりとした顔、凛とした表情で口を開いた。
「なんにも起こるはずがない」
と。
「……誰だって、生きていれば悲しいことはある。絶望だって、するかも知れません。でもわたしには、慰めてくれる、温かい言葉を掛けてくれる、引き上げてくれる、迎えてくれる、認めてくれる、一緒に泣いてくれる、時には殴ってくれる、掛け替えのない仲間がいる。それだけじゃない、こんなことになっちゃって、何人もの生命が失われて、その人たちのためにも、わたしたちは……」
ここでこんなことをいっても、仕方のないことなのに。
思わず、正直な気持ちが口をついて出てしまっていた。
だが、その言葉は途中で、不快な拍手に阻害される。
ねちねちねちと、手のひらの肉厚なところを激しく素早く叩く、なんとも嫌悪感を抱かせる至垂の拍手によって。
「いやあははっ、淀みなくぺらぺらと、小鳥のさえずりのような口上だ。……綺麗なことばかり。きみは、薄っぺらいなあ。それに、ちょっと自分に酔ってない?」
「人を鼻で笑ってばかりで、楽しいんですか? わたしから冷静さを奪うことが目的なんでしょうけど」
生憎様だ。誰がそんな、低レベルの挑発などに乗るものか。
そもそも、綺麗だとか汚いだとか、わたしにはどうでもいいことなんだ。
わたしはただ、自分を信じて、自分の価値観で行動しているだけなんだから。
「きみは、わたしをそういう小さい人物と見るんだなあ」
「小さいとも思いませんが、最低だとは思っています。心の奥底から」
正直な気持ちだ。
「へえ。じゃあその、挑発ついでに一つ聞くけど、さっきの、明木くんの妹さんの件、わたし、この至垂が迂闊であったため、楽々と取り戻せたんだ、って本当に思ってる?」
別働隊として潜入していた、天野姉妹が、警備網を潜り抜けて治奈の妹、史奈を救い出した、そのことだ。
あと少しで史奈は殺されていたわけで、タイミングとしては際どかった。だが、特に難航したわけではなかったと、天野姉妹たちはそう話している。
「じゃあ、あなたが後悔して、人間らしい気持ちを取り戻したから、とでもいうんですか」
もしそうなら、ここでこうなっているはずもないが。
「人間じゃないだろう。お互い」
くくっ、と笑い声が漏れる。
「わたしは、人間です。生まれ方なんて関係ない」
人間で、修一くんと直美さんの、娘だ。
あと何ヶ月かで、お姉ちゃんになる、ただの人間、中学生の女の子だ。
「さっきは、あんなに泣き喚いていたのに。まあ立ち直りの早いことだね」
鼻で笑い、またねちねち小さな拍手をする。
「そんなことよりも、フミちゃんが、どうかしたんですか?」
「いや、もしもわたしがね、そのフミちゃんを、交渉の重要な人質にとか、切り札にとか、考えてると思っていたのなら、無警戒にも等しく奪い返されたわたしが、さすがに間抜け過ぎるよなあ、ってね」
ははっはっという笑い声の不快さに、アサキは眉をわずかにしかめた。
真意は図りかねるが、口に出している言葉そのものの、意味合いは分かった。
癖なのか、わざとなのか、無意味に難解ないい方ではあるが。
明木治奈の妹である史奈の誘拐は、さして重要ではない。
単なる、始まりのきっかけとして、容易だから選ばれたに過ぎない。
ということだ。
至垂配下の科学者が、史奈を安楽死させようとしていた。という、天野姉妹の報告であるが、おそらく惑わすための芝居などではなく本当のことなのだろう。
盤に並べた駒は動き始めたわけであり、ならば、きっかけとして利用した道具を監視を置いてまで生かしておいても意味がない。
むしろ、殺してしまうことで、(至垂にとって)好都合な化学反応が起こるかも知れない。
つまりは、ヴァイスタ化に繋がる、「絶対世界」へ繋がる、「神」へと繋がる、なにかが。
例えそれが、手掛かり的なものに過ぎないとしても。
「でもまあ、きみのさ、家族が云々、情が云々とかいう都合のいい考えは、確かに『人間』と呼べるものなのかも知れないね」
「なにを、いいたいんですか?」
アサキの頬が、ぴくりと痙攣した。
少し険しい顔になっていた。
戯言を、無駄に分かり難くいっているだけだ。
きっと、なにか仕掛けるための、時間稼ぎをしているだけだ。
と、そう思い、冷静になろうとするものの、いま吐かれたその言葉から、これまでになかった最大限の侮蔑を感じ、それがたまらなく不快だったのである。
「人間同様の低俗な情緒が胸の中に存在しているのならば、つまりは上っ面の言葉の正義に酔うことも、赤の他人に同情共感したふりを平気でしていられるのも、然り然り、ということなのかな」
「いってることの意味が分からない!」
怒鳴っていた。
足を、どんと激しく踏み鳴らしていた。
確かに言葉の意味はまるで分からないが、それ以上、ねっとり舐める視線、その裏に隠れているであろう蛇の舌さながらにチロチロ見えている感情。それが不快で、不快で、不快で、不快で、不快で、我慢が出来ずに。
「分からない?」
歪み、釣り上がった、口元。
狡猾そうな、大人の、幼稚な、悪意の、無邪気な、至垂徳柳の口元。
その不快な声を聞き、言葉を聞き、口元を見ているうちに、不意に、アサキの身体が震えた。
ぴしゃり電撃を受けたように、ぶるり激しく。
目が、大きく見開かれていた。
「まさか、二人に……」
2
頬を引つらせたまま、赤毛の少女はがたがた震えている。
「ん? 二人って誰かなあ?」
深まったのか浅まったのか分からない微妙な感じに、至垂の笑みが変化した。
赤毛の少女の、心をより追い込むために。
より突き落とすために。
笑みの質がどうであれ、からかっていることに違いはない。
でも、その効果は赤毛の少女、アサキには覿面であった。
「ふ、二人っ、す、直美さんとっ、修一くんに、な、なにかっ、なにか、したんですか!」
狼狽していた。
外面からもひと目で分かる、思考の混乱。
混乱、焦り、不安。
そうなるのも当然だ。
至垂はアサキの家族に対しても触手を伸ばしている、ということが分かったのだから。
からかうために曖昧な言葉ばかり選んではいるが、はっきりいわれたも同然であり、家族として冷静でいられるばずがなかった。
「やだなあ、まるでわたしが酷いことをしたかのようじゃないか。……丁重に、ここへお招きしただけだよ」
ゆっくりと、はっきりと、囁き声に似た、至垂徳柳の言葉。
曖昧はいま、確実になった。
アサキの心臓は、一瞬にして冷たく凍り付いていた。
鼓動しているのが不思議なほどに。
「ど、どこ、二人は、どこにっ、いるんですかっ!」
身体が、ガタガタと震えている。
指が、ぷるぷると震えている。
顔が、すっかり青ざめている。
どうしたらいいのか、どう思えばいいのか、気持ちが、わけが分からなくなっている。
身体の中が、熱い、冷たい。
よじれそうだ。
ねじれて裂けそうだ。
狼狽して、半ば真っ白な意識の中、残った意識が、他人事のように胸の中に言葉を吐く。
やっぱり先ほどからの戯言は、このことをいっていたんだ。
わたしが自分の家族を思う気持ちを、やたら否定するような、からかいの言葉は。
でも、それは当たり前のことじゃないか。フミちゃんのことだって心配だったけど、修一くん、直美さんは、わたしの家族なんだ。
自分の家族を一番に思うことの、なにが悪い。
しかも、直美さんのお腹の中には……
無意識が勝手に紡ぎ出す、思考の言葉ではあるが、考えるほど息が苦しくなる。
家族を心配する気持ちと、親友への罪悪感で、胸が痛くなる。
唾を飲もうと喉を動かすが、水分を失って喉にべったりへばりついているようで、まともに飲み込めず、不快感はまったく楽にならなかった。
「会いたいかい?」
脳に飛び込む、甘い声。
ねっとりと、不快な。
赤毛の少女は、びくりと肩を震わせると、口を開いた。
開いたが、ひゅっと呼気だけで、上手く声が出なかったので、大きく首を縦に振った。
「それじゃ、こちらへきたまえ」
あぐら姿勢から立ち上がった白銀の魔法使いは、この長細い部屋の、奥へと歩き出した。
アサキには、止めることが出来なかった。
戦いに勝ったのは、こちらであるというのに。
儚げに身体を震わせながら、白銀の魔法使いでありリヒト所長である至垂徳柳の、大きな背中を見ていることしか、出来なかった。
ここに義父母がいるという話など、真実かどうかも分からないのに。
逃げるための方便。充分に考えられることなのに。
嘘かも、知れないのに。
本当であるのは、どうであれまたもや形勢逆転を喫してしまった、ということ。
だがそれは、アサキ個人にとっての理屈である。
「勝手に動くな!」
「嘘ばかりをいうな! ここは既に、大半をメンシュヴェルトが押さえているんだ。令堂和咲の両親を隠す場所なんかないぞ!」
広作班、リーダー仁礼寿春と、サブリーダー建笠武瑠の声だ。
彼女たちも人命のため動きはするが、今件の最優先事項はリヒト所長の確保。
まともに戦える唯一の存在であるはずの令堂和咲がこのような状態であるため、もうなりふり構ってはいられなくなったというところであろう。
だがしかし、リヒト所長は構うことなく歩き続ける。
従う義理がどこにある、とばかりにふんと鼻を鳴らして。
「動くなといってる!」
サブリーダーの建笠は、たんと床を蹴った。
右手の剣を振り上げながら、叫ぶ。
「お前は、令堂との戦いでもうボロボロだ!」
左手に装着された盾で己が身を守りつつ、軽く跳躍しながら、空中から右手の剣を躊躇なく叩き付けていた。
白銀の魔道着、その背中へと。
がちゃ、
金属がぶつかり合う音。
サブリーダー建笠が放つ至垂への一撃は、寸前で受け止められていた。
二人の間に入り込んだアサキが両手に持った、水平に寝かせた剣で。
アサキはそのまま、反動を付けず力に任せて剣を振るう。
魔法により強化されたそのパワーは強烈で、空中で踏ん張りの効かない建笠の身体は、大きく弾き飛ばされていた。
どう、
弾き飛ばされた建笠が壁に背を打ち付け、鈍い音が立った。
「ごめんなさい!」
アサキは、もどかしげな涙目で、済まなそうに頭を下げた。
「くそ……やりやがったな……」
痛みを堪えながら広作班サブリーダーの建笠は、自分の肩を回して無事であることを確認すると、アサキの顔を睨み付けた。
睨まれてアサキは、
「本当に、申し訳ありません! で、でも、あと、少しだけ待って下さい! 時間を下さい!」
もう一度、赤毛の頭を下げた。
「分かった」
口を挟んだのは、広作班リーダーの仁礼寿春である。
「最後に必ず至垂を捕らえているならば、少し待とう。……きみの両親が人質に取られているかも知れないから、ということだけど、ならばきみもいざという時の覚悟は決めて貰わないと困るがね」
仁礼寿春の、冷たい声。
右腕を落とされて、盾の装着された左腕で剣を握っている。
迷いのない顔である。至垂だけでなくアサキすらも任務のためならば一刀に切り捨てても不思議のない、冷静な顔だ。
でも、
「はい、ありがとうございます」
時間を貰えたのである。
赤毛の少女は礼をいうと、また頭を下げた。
「あーあ、外野がうるさいなあ」
白銀の魔法使い至垂は、わざとらしく両耳を手で塞ぎながら、奥へ奥へと歩いていく。
アサキが、少し後を付いていく。
歩きながら、アサキは考える。
先ほど、この人は劣勢になって逃げようとしていたけど、その時も迷わずこの先へと走ろうとしていた。もっと手薄な出入り口があったのに関わらず。
つまり、この向こうに修一くんと直美さんがいる、ということなのだろうか。
でも、本当に、人質に取られていたら……
どう助ければ、いいんだろう。
フミちゃんの時は、動くにおいて悩みはなかった。
わたしたちは隠密に行動しようとしていたし、別働隊で天野姉妹も動いてくれていたから。
結局気付かれていたとはいえ。
修一くんたちに対しては、そうはいかない。
ここにいるのが本当ならば、こちらがおかしな動きをした瞬間に、きっと……
でも、なにがどうであっても、二人は絶対に助けないと。
元リヒトの職員とはいえ、いまはまったく関係ないのだから。
仮に現在もリヒトだとしても、ただの技術員が人質だなんて、おかしな話。
さらには、直美さんにのお腹には赤ちゃんがいるのだから。
二人の、いや、三人の生命。必ず、絶対に、助けないと。
「令堂夫妻には久し振りに、ここへきて貰ってね。きみの魔法で忘却させられていた記憶を、取り戻させて、そしてまずは、労をねぎらったよ。十年にも渡る家庭でのモニターテストをお疲れさん、って。でも彼らは、とてもワインで乾杯したいという気分じゃなかったようで、残念だったがね」
「そんな話はどうでも……」
本当は、どうでもよくもない。
でも、ある程度の想像は出来るし、なによりの優先事項は二人の無事を確かめること。
あまり不快になる、気の滅入るだけの言葉は、聞きたくなかった。
でもリヒト所長は、構わず続ける。
「ところが困った。ああ、なんたることだ。彼らに経緯を簡単に話した上で、リヒトへの復帰と、最終段階にきている実験への協力を要請したところ、『断る』とか、『あの子は普通の女の子だ』、とか。冗談なのか本気なのか、まあえらい剣幕でね。たぶん冗談だったのかな。だって、きみのことを普通の女の子とかいってるんだ……」
「早く二人に会わせて下さい!」
至垂の話していることは、修一たち二人のこと。
しかし、いま優先すべきではない内容だ。
もちろん、焦らすためにあえてそうしているのであろう。
「冗談が引くに引けず意固地になってたんだろうけど、まあ無理強いも悪いし、他の方法で協力を仰ぐしかないのかなあって」
「どこにいるんですか!」
のらりくらりに、アサキは思わず怒鳴り声を張り上げていた。
その顔を、振り向いた至垂がぽっかり口を開いた不思議そうな表情で見下ろしていた。
「……きみ、意外に視力が悪いの?」
軽口なのかは分からない。
分からないが、アサキはその言葉にぞくり戦慄を走らせ全身を激しく震わせた。
そして、見たのである。
いや、気付いたという方が正しいだろうか。
それはいつからであったのか。
目の前に、薄靄が掛かっている。
どう見てもそれは薄靄で、向こうの壁もはっきり見えるほど。であるというのに、まるで綿菓子をそこに浮かべたかのように、靄の中心部だけが、よく見えない。
よく見えないが、空中に、二つの人影が漂っているのが分かる。
浮かんでいるのか、吊るされているのか、それとも映像であるのか、はたまた幽霊か。
と、肉眼で捉えた部分においてはそうした形容描写になるが、魔力の目が使えるアサキには、それがなんであるのか目を凝らすまでもなくはっきりと分かっていた。
結界のため魔力の目を通してもぐにゃりぐにゃりと歪んではいるが、誰であるのか、はっきりと見えていた。
ならばどうして気付かなかったのかは、疲労による注意散漫と、まさかという思いがあったからに他ならない。
結界により捻じ曲げられた空間。
その中に押し込められて、まるで空中に浮かんでいるように見える、二人の男女。
「う……」
靄の中から呻き声。
ぐにゃりと歪んで見える二人の、男性の方。
意識が朦朧としているようである。
二人が誰であるか、アサキにはその声を聞くまでもなかった。
「修一くん、直美さん!」
結界による薄靄の中に浮かび、ぐにゃり歪んだ姿を晒しているのは、アサキの義父母。
かつてリヒトの科学者としてここにいたこともある、令堂修一と、令堂直美であった。
3
乱暴に、無茶苦茶に、両手に握った剣を叩き付けている。
赤毛の少女が、狂気を叩き付けている。
「うああああああああ!」
怒鳴り声を張り上げながら、剣を、何度も何度も、何度も、何度も。
右に、左に、振り回し、いっそ指の骨こそ折れよとばかり、ひたすら全力で。
赤毛の少女、アサキが剣を振る。打ち付ける。目の前に張られた靄状の結界へと。
薄靄の結界内には二人の男女が、写真を折り曲げたようにぐにゃり姿を歪めて浮かんでいる。
令堂修一と、令堂直美、アサキの両親である。
彼らを助けようと無我夢中のアサキであったが、あまりの疲労か、あまりに力を込め過ぎてしまったか、剣がすっぽ抜けてしまった。
くるくる回り飛んで、壁に切っ先が突き刺さった。
取りに行くのが面倒というよりは、激しい動揺に思考する能力すら失ってしまっており、今度は自分の拳で殴り始めた。
右の拳、左の拳、右の拳。
魔法結界は、ただ薄い靄に覆われているだけにしか見えない。
だというのに、がつっ、がちっ、と硬い物を殴る音が響く。
都度、どおん、どおん、と床が突き上げられる衝撃に、足元が揺さぶられる。
右の拳、左の拳。
すぐに手の皮が剥けた。
なおも殴るものだから、肉が裂け、骨の一部が見えてしまっていたが、興奮したアサキに痛覚はなく、込める力を僅かたりとも落とさずに殴り続ける。
薄靄の結界を殴り続ける。
「直美さん! 修一くん!」
助け出したくて、
少しでも日常に戻りたくて、
必死に叫び、自らの腕を壊し続けるアサキを、
白銀の魔法使い至垂徳柳は、腕を組んで、あざわらうかの楽しげな表情で見つめている。
「無駄だよ無駄無駄。強力な結界が、なおかつ層になっていて、内側から再生されていくからね。……だったら魔力で力任せに突破、というのもやめておいた方がいい。助けたいと本当に思うのならね」
話も届かず聞かず、構わず狂気の拳を振るい続けるアサキであったが、最後の、助けたいのならという言葉に、動きが止まった。
血まみれの腕を、だらり下げた。
怒ったような、困ったような、泣き出しそうな、縋るような、頼りない表情を、至垂へと向けた。
「大好きなご両親の首を、よおく見てみるといい」
薄靄の中、魔力の目を介してさえもおぼろげな二人の姿。
ぐにゃり歪んで分かりにくいが、いわれた通りよく見ると、それぞれの首に、なにかが取り付けられているのが分かる。
太い、首輪であった。
「あれは……」
予想は付いて、
よいか悪いかでいえば悪いことであると、予想は付いて、
アサキの顔から、さあっと血の気が引いていた。
戦いで失った血にもともと青かったが、さらに。
「イスラエル製の、拷問処刑道具だよ」
他人事のようにいう、至垂の淡々とした声。
4
予想が確信に変わり、ぐらり、アサキは倒れそうになった。
「液体が超高圧で、輪の内側へと噴出されるんだ。薄い鉄板をも切り裂く威力。強引な突破などしたら、まあ、たぶん作動しちゃうのかなあ」
他人事のようにいう、至垂の淡々とした声。
「あ、あの、ど、どうすれば……」
「強引なことをすれば、といっただろう。なんにもしなければ、作動はしないんじゃないかな。イスラエル製だし、そうそう故障もないだろう」
また他人事的にいいながら白銀の魔法使いは、壁に突き刺さっているアサキの剣を引き抜いた。
すっと腕を持ち上げると、剣の切っ先を、涙目で狼狽している赤毛の少女へと向けた。
「……さっき、カスどもの誰かがいってたけど、確かにわたしは逃げ切れないだろうな。ならば、せっかくの計画を、神の思想を、壊し汚した恨みだけでも晴らしておきたい。というのが、道理というものではないか、ね!」
にやりにやりと笑っているまま、予備動作なく剣を持った腕が動いた。
「うぁ!」
アサキの悲鳴。苦痛に顔が歪んでいた。
魔道着ごと、斜めに胸を切り裂かれたのだ。
血が吹き出して、がくり膝が落ち掛けるが、片足を前へ出してなんとか転倒を堪えると、顔を上げた。
「アサキ!」
「アサキちゃん!」
カズミと治奈、二人の叫び声。
親友の窮地に青ざめ、窮地を救えないことにもどかしそうな、悲痛な表情だ。
「大丈夫……わたしなら。……ただし……もしも修一くんたち二人に、なにかがあったら、絶対に……あなたを許さない」
カズミたちへ向けた健気でささやかな笑みは、視線の移動と共に激しく険しいものへと変化して、恐ろしい顔で至垂を睨んでいた。
それは至垂への恨みというよりは、自身への決意。
絶対に二人を助けるんだ、という迷いのない表情だった。
「ああ、神様に誓って約束するとも。きみが優等生でいてくれれば、最終的には必ず返すことを、ね!」
袈裟掛けの一撃。
べきりとなにかが折れる音、そしてアサキの悲鳴、苦痛に歪む顔。
肋骨が折れ砕けた音であった。
苦悶の表情、先ほど以上であるが、白銀の魔法使いは同情すること一切なく、さらに一撃また一剣と、手にした長剣で切り付けていく。
赤毛の少女へと、同情どころか喜悦の笑みすら浮かべながら。
「至垂! てめえ、あたしと人質役を交換しろ! おばさんたちを解放してやれ!」
「う、うちもじゃ! うちがその変な輪っかをはめてやる! おばさんたちは、もう一般人じゃろ! 卑怯者!」
遠目で見ている魔法使いたちの中から、カズミと治奈が声を張り上げている。
彼女たちは修一と直美と面識があり、なおかつアサキとも親友の仲であるため、至垂の残虐な振る舞いに我慢が出来なくなったのだろう。
「きみたちはバカだなあ。令堂くんは、きみらを殺したくなくて、同じことするよ」
提案を、白銀の魔法使いは鼻で笑った。
「そんなことねえ。戦って貰う! あたしらがどうなろうとも、アサキにお前をぶっ潰して貰う! つうかそんなチンケな輪っか、あたしなら根性でぶっ壊してやんだよ!」
「ははっ、またの機会があったら、人体実験への協力をお願いするよ」
軽口をいいながらも、白銀の魔法使い至垂は、アサキへと長剣を振り、切り付け続けている。
がつり、ざくり、
アサキの肉体が、切り刻まれていく。
もう肌色の部分などどこにあるかというほどに、全身が血みどろであった。
「令堂和咲! もう、待つのも限界だ! 家族への思いを無駄にするようで申し訳ないが、世界を救うため!」
広作班リーダー仁礼寿春が、叫びながら飛び出した。
右腕がないため、腕に盾を装着している側の左手で剣も持って。
5
残る四人のメンバーも、ほとんど遅れることなくリーダーに続いた。
「一騎打ちで疲労しているはずだ!」
「だからこその人質」
「倒せない相手じゃない!」
口々に叫ぶ広作班メンバーたち。
至垂自身の言葉、自分は逃げ切ることは出来ないだろう、と。それを弱音であると、つまり自分たちにまたとない好機であると、彼女らは取ったのだろう。
確かに、そうであるのかも知れない。
だが、そうであるかどうかを証明することは出来なかった。
手に手に剣を持ち、盾を構えて挑んだはいいが、弾き返されていたのである。
まるで時空が歪んだかのように、浮かんだ瞬間には身体を床に叩き付けられていたのである。
広作班の、五人が五人とも。
ぜいはあ、血みどろで息を切らせているアサキ。
彼女の、非詠唱魔法によるものであった。
床から天井までを覆う魔法障壁を張り、それが広作班を弾き、掴み、ねじ伏せたのである。
「手を、出さないでって、いった、はず、です。お願い、します。でないと、あなたたちの、身の安全は、保証、出来ません」
ぜい、はあ。
赤毛の少女は、申し訳なさそうに頭を下げた。
「なんだあ? キマイラだか知らないが、死にぞこないのくせに! やれるもんならやってみろ!」
怒気満面、サブリーダー建笠武瑠が、床を蹴り、アサキへと飛び込んだ。
先ほどは剣で身体ごと吹き飛ばされ、今度は魔法陣に揉まれ、二度も簡単にあしらわれたことで、怒りに火が着いたようである。
飛び込み背後へと回り込むと、左腕に装着された盾で、殴り掛かった。
殴り掛かろうとするポーズのまま、身は既に違う場所、砕けた壁の中にめり込んでいた。
アサキが、振り向きざま、回し蹴りを放ったのである。
盾の上から、身体を蹴り飛ばしたのである。
「くそ。……動けねえ! 畜生!」
三度目の辱めを受けた広作班サブリーダーは、全身を壁の中にめり込ませたまま、怒りを吐き出す。
怒り、唸りながら、なんとか抜け出そうともがいている。
「ごめんなさい!」
また、アサキは泣きそうな顔で頭を下げた。
「カスみたく弱っちい広作班に代わって、わたしがあ」
白銀の魔法使い至垂が、冗談ぽく笑いながら、アサキの背中をずばり切り付けた。
「あくっ!」
呻き声。アサキは膝を崩し、前へと倒れた。
これまでの戦いで背中側はほとんど無傷であったため、この剣撃は魔道着に守られて骨までは達していないようではあるが、それでも襲う激痛は凄まじい。アサキは、どたんばたんと、髪の毛を振り乱して激しくのたうち回った。
それを見て、白銀の魔法使いは、腹を抱えて笑っている。
異常な、光景であった。
悔しそうに、治奈たちはぎゅっと唇を噛み締めている。
現状をどうにか打破したくとも、人質がおり、アサキからの頼みもあって、手を出すことが出来ないでいるのだ。
ぎりぎりと歯を軋らせ、ただ見ているしかなかった。
アサキは背中の激痛を堪え、床に手をつくと、ゆっくり立ち上がった。
生まれたての仔鹿のように、身体を、膝を、がくがくと震わせながら。
その身をまた酔狂で切り刻まれるために。
立ち上がった。
その先に待つものが信じられなくとも、でも、自分に嘘はつきたくなかったから。
だから、アサキは立ち上がった。
萎えそうになる気持ちを奮い立たせ、決意を眼光に乗せて、白銀の魔法使い至垂徳柳を睨んだ。
と、その時である。
「なにが、大切、か考えろよ、お前!」
男性の声が聞こえたのは。
結界、靄の中から。
アサキのよく知った声が聞こえたのは。
よく知るのは当然である。
一緒に暮らす義父、令堂修一の声であるのだから。
「アサキちゃん!」
さらには義母、令堂直美の声。
アサキは、背中の激痛すら忘れて、ぽかんとした表情で立ち尽くしていた。
「修一くん、直美さん……」
やがて、半開きになった口から、かすれた声が漏れた。
「いいから、早く所長を、捕まえるんだよ! お前が超ヴァイスタになどされる前に。または、そいつがお前にとって変わる魔道器を作り出す前に。今すぐ!」
「修一くん、本当に、記憶、戻って……」
十年前のこと。
幼いアサキへの、非人道的ともいえる実験の日々に耐えられず、リヒト研究員だったまだ若い令堂夫妻は、ここを逃げ出した。
アサキを連れて。
追っ手に追い付かれてしまうが、アサキが無意識下で超魔法を発動。アサキも含む、その場にいる全員の記憶を消し、書き換えた。
令堂夫妻は、リヒト職員であった記憶をなくし、アサキの親として生きることになった。
その、リヒトとしての記憶を彼らは取り戻した、と至垂はいっていたが、それは本当のことだったのである。
無意識にとはいえ、自分が消してしまった記憶だ。
いつか戻してあげたいが、それはすべてが終わってからだ。そう思っていたのに、こんなところで……
アサキは、ぎゅっと唇を噛んだ。
「いやあ、感動のご対面だねえ」
リヒト所長、至垂徳柳は嫌らしく唇を釣り上げた。
6
「やっぱり、魔法使いに、なっていたか……アサキ」
苦しげな令堂修一の声が、靄の中から聞こえる。
浮いて見えるのは結界空間に身を挟まれているからであるが、そのために苦しいのか、それとも魔法か薬による催眠がまだ解けていないためなのか。
「やっぱり、って……」
赤毛の少女がぜいはあと大きく肩で呼吸しながら、疲労にかすれた声を出す。
赤い魔道着も、覗く皮膚も、全身が血まみれだ。至垂徳柳に、散々となぶられたものである。
「お前は、おれたちの記憶を消して、自分自身の記憶も消した。ってわけだ。確かに、そういう選択しかなかったのかも知れないけど、辛いな……」
「修一くん……」
アサキは、リヒトで生み出された。
キマイラ、臓器等パーツの合成によって作られ、育てられ、研究のための実験をされていた。
魔力係数の実験だけではない。
リヒトは、アサキの情操教育にも力を入れていた。
将来的な、超ヴァイスタ化を見越してのものである。
すなわち、絶望を絶望として感じるための、常識や幸福を植え付けるためのものだ。
そんな日々を送る彼女の境遇に、義憤を感じた者たちがいる。
令堂夫妻と、僅か数人の仲間たちだ。
ある日、令堂夫妻は、仲間たちの協力を得て、アサキを連れ出して逃げ出した。
すぐに気付かれ、差し向けられた追っ手にあっさり囲まれてしまうが、万事休すというところでアサキの生存本能による超魔法が発動。
そこにいる者すべての記憶を消去したのである。
だが、消し去ってそれでよしではない。
と、アサキの本能は未来を不安に思った。
逃げ切れるはずがない。またすぐ捕まるに決まっている。
でも、もしもこの夫婦と自分が、家族になったら。
きっとリヒトは、その状況を面白いと思い、利用するのではないか。
超ヴァイスタ化のための情操教育にあたり、リヒトは次のステップを模索していたわけで、ならばこれほど最適な環境はないではないか。
自分のところの実験体にすら同情して、自らの危険を顧みず救い出そうとした令堂夫妻。そんな、甘い二人に育てられるということは。
そうなれば、監視下ではあるものの、この夫婦がリヒトに捕らえられ殺されることもなくなる。
一時しのぎかも知れないが。
本能的に、そう考えた。
だからアサキは、消去した領域に嘘の情報を書き込んで、この夫婦と家族になった。
この夫婦の、娘になった。
自分自身の記憶すらも書き換えた。
義理の親子という設定は、ボロを突かれないため。
また、消え去りっこない実験体としての辛い記憶を、消えないならばせめて、と、実の両親に虐待を受けていたことにした。
紆余曲折あって、知り合い夫婦に引き取られたという設定にした。
仮の家族である。
だが、膨大な魔力を持ちつつも、まだ知能の幼いアサキには、そのようなことしか出来なかったのである。
こうして訪れた、かりそめの平穏。
だが、リヒト所長、至垂徳柳の監視を受けるということは、いずれ組織所属の魔法使いになることに他ならない。
さらに魔力を磨き高めるために。
超ヴァイスタにするために。
記憶を奪われる寸前に、令堂修一が不安に思ったことでもあるが、まさにその通りの状況に現在なってしまっているというわけである。
アサキがここまで正義や思いやりの心がぶれない女の子へと育っていたこと、それは、完全に予想を覆すものだったかも知れないが。
「本当に、なんでこんな組織……あんな所長なんかから、こんな、百点満点の娘が、生まれてくるのかね。……おれたちなんかのために、こんな酷い目に、遭って。……アサキ! おれと直美のことは、気にするな。とっととそいつをぶちのめしちまえ!」
修一の、叫び声。
辛そうに、苦しそうに、必死にアサキを鼓舞する、迷いを吹き飛ばそうとする、精一杯の叫び声。
「逃がしたら、ここにいるお前の仲間たち、間違いなく助からねえぞ! 世界も、どうなっちまうか分からねえぞ!」
「アサキちゃん! 修くんのいう通りだよ!」
何層にも重なる薄靄の奥で、かげろうのようにゆらゆら揺れている、修一と直美の二人。
本心だろう。
その言葉は。
世にとっても、正義かも知れない。
いや正義なのだろう。
でも……
「出来るはず、ないよ……」
汚れた、困惑した、今にも泣き出しそうな顔。剣で切り刻まれ、全身が血みどろになっている、アサキの。
赤い、ボロボロの魔道着に包まれた身体を、ぷるぷると震わせている。
「大義とか仰々しいもんじゃないけど、なにが大切かを考えた上で、嘘を付かず行動することも必要だぞ。だからおれたちだって、危険を承知で、幼いお前を連れて逃げようとしたんだ」
「まあ結果は知っての通り、かくも情けないものだったけどね」
「それいうなよ、直美」
などと清々しく、義父母が語るほど、
「でも、でもっ……」
アサキの心は沈む。
迷う。
苦しくなる。
狂いそうになる。
泣きたくなる。
喚きたくなる。
消えたいと願う、そんな自分を殴りたくなる。
「ああ、この首輪か? 気にするなよ。どうでもいい」
ははっ、修一は軽く笑った。
至垂が指示を出せば、または張られた結界を強引に突破しようものならば、二人にはめられた首輪状の処刑装置が、作動するのだ。
液体が輪の内側へ高圧噴射されて、修一たちの首が、たちどころに切断されるのだ。
だというのに、それを軽くいわれ、
「いいわけない!」
アサキは涙目で、声を裏返し怒鳴っていた。
7
「だって、だって、監視されていたとはいえ、もう二人ともずっと、リヒトとは関係のない人生を送っていたんだよ! 記憶が戻っても、その間の記憶だってあるんでしょ? 赤ちゃん、生まれるんだよ! 二人が本当の、お父さんとお母さんになるんだよ! 自分を大切にして!」
「そうだよね。ごめんね、アサキちゃん。でもね、世界がなくなっちゃったら、生まれたくとも生まれてこられないんだよ。それは、あたしたちだけのことに限らないんだ」
直美の声。
なんだか、懐かしい気持ちがする。
そうだ、昔の、直美さんだ。
自分との三人暮らしでたくましくなる前の。
おっとり、優しい、少し弱くて頼りない、でも芯のしっかりした。
まだ試験管の中だった頃から、わたしが大好きだった、信頼が出来る声。
でも、いま聞きたい直美さんの声じゃない。
自分を大切にしない直美さんの声なんか、聞きたくない。
二人の口ぶりからしてどちらも、「絶対世界など、世界の終焉も同じで、そんな世界を導いてはいけない」という考え方、それはわたしだってそう思う。
でも、でも、例えどんな世界であろうとも、死んでしまってはおしまいじゃないか。
お腹に新しい生命が宿っているというのに。
無責任なことばかりいう!
「でも!」
でもだって、を訴えようとするアサキであるが、
「直美のいう通りだよ」
今度は修一に、言葉を被せられてしまう。
「……本来は、それを防ぐためのリヒトであり、メンシュヴェルトのはずなんだけどな。まあ、おれたちは、しがない末端研究員でしかなかったけど」
また、ははっと清々しく笑った。
アサキは、ずっと鼻をすすった。
血まみれの袖で、涙を拭った。
怒ったように、すがるように、靄でぼやけた二人の顔を睨んだ。
「……わたしは、本当の娘じゃない。でも、一緒に過ごした思い出はあるでしょう? わたしだって、たくさんの思い出がある。……嫌だよわたし。嫌だよ。失くしたくないよ。二人を失いたくないよ!」
「だからこそだ! お前と生きてきた、この思い出があるからこそ、この唯一の世界を失いたくないんだ。ここがおれたちにとっては『絶対世界』なんだよ。それと……なにが本当の娘じゃないだよ、バカ。お前は、本当以上の娘だよ」
「そうだよ、アサキちゃん」
幾重に張られた靄状の結界、その奥に浮かんでぼんやりと見えている二人。
くぐもった、声。
裏腹に、はっきりと分かる、真っ直ぐ心へと飛び込んでくる、その優しさに、自分を思ってくれる気持ちに、アサキはしばらく言葉を発することが出来なかった。
両手を、ぎゅっと握り締めて、涙を堪えようと天井を見上げた。
でも、その行動はまるで意味をなさなかった。
あまりの量であったから。
ボロボロと、ボロボロと、とめどなく溢れる涙が、アサキの頬を伝い落ちたのである。
続く戦いに、体内の水分などすっかり流れ切ったと思っていたのに。
どこにここまでというほどに、アサキは大量の涙をこぼし続けた。
「あ、ありが、とう、修一くん、す、直美、さん。わた、わたしなんか、と家族になってくれて、これまで育てて、くれて、ありがとう。本当に、ありがとう」
足元の床は、どれだけ吸っただろうか。
純粋な思いに溢れた涙を。
アサキは、見上げていた顔を戻した。
深く、頭を下げた。
薄靄の奥にぼんやり見えている、義父母へと。
「礼をいわれることなんか、なんにもしてやれなかっただろ。だって、お前、欲しいもの、やりたいこと、なあんにもねだらないんだから。……本当に、おれたちなんかには出来過ぎもいいとこの、最高の娘だよ」
「修くんに、いいたいこと全部いわれちゃったかな。……アサキちゃんは、あたしたちなんか気にせず、やりたいことをやって。誰にも恥じない、正しい生き方をして欲しい」
薄靄の奥で、直美は笑ったであろうか。
アサキは俯きがちに、長いため息を吐いた。
「分かったよ」
そういうと、少し顔を赤らめた。
赤毛の頭、顔を上げて、言葉を続けた。
「……お父さん、お母さん」
初めて、アサキが義父母のことを、そう呼んだ瞬間であった。
くるり、振り向いた。
照れた顔を、義父母へ見られまいとしたわけではない。
単に、リヒト所長へと向き直っただけだ。
赤毛の少女は、ゆっくりと、手を動かす、腰を落とす。
両手を、胸の前。いつもカズミから教えて貰っている、空手の構えだ。
「まず、わたしのすべきこと。……この世界を、守ること」
ぼそりと、自分にいい聞かせた。
「親子の話は、終わったようだね。どうなってもいいというならば、わたしを好きなようにしたまえ。まあわたしも、丸腰のきみに負けるはずはないがね」
白銀の魔法使い至垂が、アサキから奪い取った剣を、左手に持ち替え、右手に持ち替え、遊んでいる。からかっている。
ふう
アサキは、小さく息を吐いた。
吐いた直後、右足がすうっと前に伸びて、伸びた瞬間には、だんと床を叩いて激しく踏み込んでいた。
「え?」
まるで瞬間移動。
至垂の視界一杯に、アサキの顔があった。
驚き、呆けた、至垂の声。
義父母よりも大義という、予期せぬアサキの行動に対しての驚きであったのか。
半死半生のアサキが、ここまでの身体能力を発揮したことに対する驚きか。
単純に、見せる凄まじいまでの気迫への驚きか。
ぶん
アサキの、空気をも焦がす鋭い拳が、風を突き抜け、唸りをあげて、至垂の顔面を、ブチ抜いた。
いや、抜いては、いなかった。
出来なかった。
アサキには。
突き出す拳が、頬の皮一枚で止まって、ぷるぷると震えていた。
「あ、ああ……」
困惑の表情で、アサキが呻いた瞬間、その顔が、顎が、剣の柄でガツッと激しく突き上げられていた。
顔を柄で殴られて、後ろへよろけるアサキ。
の視界一杯に、喜悦に満ちた、他者を蔑み見下す、至垂の顔が広がった。
「分かってたよ!」
リヒト所長は喜悦の声を叫びながら、両手の剣を、斜め上へと振り上げた。
ガツッ、
と硬い物が裂け砕ける音。
なにかが、跳ね上がった。
それはくるくる回って、床に落ちた。
人間の、腕である。
赤い、魔道着の生地に包まれた。
静まり返った部屋の中。
アサキの絶叫が、轟いた。
8
「うあ、ああ……」
ぐしゃぐしゃに歪んでいる。
腕を切断された激痛に、アサキの顔が。
ぎりぎりと歯を軋らせて、痛みに耐えている。
「アサキ!」
カズミが叫ぶ。
友の受けている痛み、襲う悲劇を、遠目から見ているしかないもどかしさに。
「くそお……」
飛び出したいのだろう。
親友を助けたいのだろう。
でも、助けることが出来ない。
その瞬間、おそらく親友の両親が死ぬからだ。
手出し無用を強く懇願されていることもあり、助けたくとも、なにをすることも出来なかった。
大義を選ぼうとしたアサキであるが、結局、為せなかった。そこを勝手な判断で動けるはずもなかった。
白銀の魔法使い至垂徳柳は、苦痛に耐えるアサキを見下ろしている。
剣を下げて、鼻歌混じりでおかしくない実に楽しそうな顔で。
想像力が欠如しているわけでは、ないのだろう。
むしろ想像力があるからこそ、楽しくて仕方がない。
床に、赤い魔道着に包まれた人の腕が落ちている。
ほんの数秒前まで、アサキの身体の一部であったものだ。
至垂が、アサキから奪い取った剣で切り落としたものだ。
たったいま切り離されたばかりであり、アサキの魔法ならば、再び身体の一部へと戻すことは容易であろう。
実際、先ほどの斉藤衡々菜との戦いでも、アサキは自らの腕を切断することで逆転勝利を収め、その後、腕を魔法で溶着治癒している。
だが、能力があろうとも可能な状況になければどうしようもなかった。
至垂は、非詠唱で魔法を発動させたか剣を青白く輝かせると、落ちているアサキの腕へと切っ先を押し当てた。
アサキの腕は、すべて炭になって、床に崩れた。
こうなってはもう、溶着治癒も不可能である。
魔法は万能ではない。
「いいようにやられてんな! アサキ! 腕の一本あれば、お前なら勝てるだろ!」
靄、結界の中に浮かんでいる、令堂修一の、悲痛な声が絞り出された。
アサキがどれほど強い魔法使いであるのか、彼は目の当たりにしたわけではないが、単純に考えても至垂との比較は容易だろう。
魔道器魔法使いタイプの合成生物としてプロトタイプに近い至垂れと、生産ロットとして遥か後発のアサキと。技術者としては、計算するまでもないことであろう。
だが、戦わないことには戦闘力も魔法もない。
「アサキちゃん! こっちのことは気にしないでって、いってるでしょ!」
直美の、やはり苦しみ絞り出す悲痛な叫び声。
アサキは、顔を苦痛に歪めながら、ちらりと、視線を動かした。
申し訳なさそうに、二人を見た。
本当に、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
世界のため、大義のため、二人が死を賭してくれているというのに、自分は裏切ってしまったからだ。
気持ちを無駄にしてしまったからだ。
確かに、片腕を落とされこそしたが、その気になれば戦うことは出来るだろう。
だけど、現在アサキには、その気はなかった。
あったつもりだった。
でも、身体が動かなかった。
至垂を倒すことを、躊躇ってしまった。
そうなるともう、自分の心をどう誤魔化すことも出来なかった。
戦えるはずがない。
痛い。
切断された腕が、痛い。
先ほどの戦いでは、自分で切り落としたくらいだというのに。
戦意が、気力がないと、ここまで痛いものなのか。
でも、
でも、これも、戦いだ。
これがわたしの、戦いだ。
激痛の中、アサキは顔を上げる。
いまにも倒れそうな、意識の揺れる視線を、眼光を、至垂へと向ける。
「ははあ、まあだそういう顔が出来るんだねえ」
白銀の魔法使い至垂は、何故か嬉しそうに笑みをこぼした。
「カズミちゃん、治奈ちゃん、あなたたちもっ、魔法使いなんでしょ。だったらアサキちゃんを、助けてあげて! 一緒に、戦ってあげて!」
直美の、それは母として娘を思う親心であろうか。
幼いアサキと向き合い続けて蓄積された、良心の呵責、人間としての情であろうか。
いずれであるのか。
いずれでもあるのだろう。
「助けたいよ! あたしだって、なんとかしたいよ!」
「うちもじゃ! 当然じゃ。ほじゃけど、どがいにすればええのか……」
カズミと治奈は、ただ悔しげな表情を浮かべるのみ。
動くことが出来なかった。
繰り返すが、アサキを助けるということは二人を殺すことになるからだ。
修一と直美、顔をよく知ったるアサキの両親を。
また、アサキからは、悲痛悲愴な決意を持った表情で、お願いをされている。手を出さないで欲しいと。
手など出したら、生命を掛けて己の戦いを戦っているアサキの思いを、踏みにじることになるわけで、容易に決断が出来ようはずもなかった。
カズミと治奈だけではない。
嘉嶋祥子、文前久子、天野姉妹、嘉納永子、宝来暦、行動せぬ卑怯、選択せぬ卑怯を、各々認識しているのたろう。彼女たちはみな、申し訳なさそうに、ただ見ているしかなかったのである。
そんな表情に囲まれて、興奮を強めたか、
「さて次はあ!」
白銀の魔法使い至垂が、楽しそうに剣を振った。
アサキの右腕が切断されて、天井にまで舞い上がっていた。
「うあああああああああああああああああ!」
アサキの絶叫。
右腕の、肘から先がなくなっていた。
切断面から、血がどろりどろり噴き出している。
楽しげな至垂の顔に、楽しげな驚きが加わった。
「いや凄いなあ。さっききみが治癒させた接合部を、試しに狙ってみたけど、切断の痕跡などまったく感じなかった。さすがの魔法力だ。……楽しみだな。その膨大で精密な魔力の器が、絶望で弾けたら、なにが起こるのか」
くくっ、
といやらしい笑い声を立てながら、アサキへと近寄り腰を低くして、うきうきした表情で顔を覗き込んだ。
「絶望は、しない」
痛みと疲労に顔を醜く歪めながらも、アサキの眼光にいささかの弱さもなかった。
左腕は肩から、右腕は肘から先がなく、全身は血みどろ。ふらふらと、立っているのもやっとであるというのに。
「誰、が、絶望なんか」
してたまるか。
わたしのことなんか、どうでもいい。
みんなが、修一くんたちが、生きていてくれるのなら。
わたしはここで、なんにもしない。
ただ、それだけだ。
それで、修一くんたちが助かるのなら。
捕まる覚悟はしていて、わたしに復讐をしたいだけ。
そういってたんだから、ならこうしていれば、至垂所長だって自暴自棄になることもないだろう。
みんなは無事に帰り、日常に戻り、そして直美さんはお母さんになって……
ほら、希望に溢れている。
誰が絶望などするものか。
みんなの未来を、守れるのならば。
そこに、わたしはいないのかも知れないけど。
9
強い眼光で。
至垂を、というよりは、きたるべき未来を見ていたのかも知れない。
疲労と出血に、意識の朦朧とした中で。
だがすぐに、至垂の声によって正気に、現実に、戻されていた。
「うん、その目がどうにも生意気だなあ」
そういうと、銀色の魔法使い至垂は、突然アサキの身体を強く突き飛ばした。
疲労困憊、両腕は切り落とされて大量出血しており、かろうじて立っているだけのアサキが、どうしてたまろうか。
ととっ、とよろけるしかなく、足をもつれさせて転び掛けた瞬間、壁に背中をぶつけた。
眼前に、至垂が迫っていた。
至垂が笑みを浮かべながら手に持ったなにかを突き出した瞬間、アサキは神経をねじ切られる激痛に悲鳴を上げていた。
剣の切っ先が、アサキの右目へと突き刺っていたのである。
眼球を潰された激痛に絶叫しながら床へ倒れたアサキは、どたんばたんと身をよじった。呻き、唸り、必死に痛みを堪えようとする。
手で押さえようにも、押さえる手が両方とも存在していない。激しくのたうち回るしか、痛みと戦う術がなかった。
「いい声だなあ」
半眼を閉じて、うっとりした表情をしている至垂の姿に、
「くそったれがあ!」
カズミの、おそらくは無意識の、反射的行動であろう。友のため心に泣いて耐えていた彼女であるが、耐え切れず激高、叫び走り出しながら二本のナイフを取り出していた。
思いは同じか、治奈と久子も寸分違わぬタイミングで、武器を構えて飛び出していた。
だが、
「こないで!」
アサキが、潰されていない方の目をかっと開き、怒鳴った。
腕のない、まるで芋虫といった身体で床に這いつくばりながら。
覚悟、というのか、それは突風にも似た凄まじいまでの気迫と表情であった。
その突風に押し戻されてカズミたちは我に返り、足を止めた。
カズミはぽかんとした表情になっていたが、それも束の間、すぐに苛立ちと困惑の混じった顔で、だんと足を踏み鳴らした。
「っていわれても、じゃあどうすりゃいいんだよ!」
「おじさんおばさんのことだって、そりゃ助けたいわ。ほじゃけど……ほじゃけど……」
治奈もこのどうしようもない状況に、すっかり涙目になっていた。
「ありがとう……でも、わたしは、大丈夫だから」
アサキは、微笑んだ。
片目の潰れた、血みどろの顔で。
両腕をなくして、床に這いつくばった状態で。
疲労と激痛、血のりに、顔がぐちゃぐちゃで、とても笑っているとは見えなかったが。
だが、覚悟の定まった顔でそういわれてしまうと、カズミたちはもう、動くことが出来なかった。
「見殺しってわけだ。これは美しい友情だあ。ねえ令堂くん、こおんなに仲間がいるのに、みんな素敵な性格で、幸せだ、ね!」
ね、で至垂は、アサキの顔面を蹴っていた。
鼻っ柱に爪先がめり込んで、めきり、と不快な音。
おそらく、軟骨が折れたのであろう。
呻くアサキの、今度は腹に爪先が入っていた。
げふっ、がはっ、嘔吐感に苦しみ、むせる、その傍らに立った至垂は、すっと右手の剣を高く振り上げた。
「恨み晴らすの受け入れるっていったんだから、まさか抵抗しないよねえ。こっそり魔法で治したり、痛覚麻痺させるとか、セコいことナシだよ、ね!」
振り下ろした。
思い切りというよりは、剣の重さに任せる感じに。
右ももの上に落とされた剣の刃は、肉を切り、骨を打った。
上がる悲鳴に、白銀の魔法使いはますます嬉しそうな顔になり、剣を振り上げては、落とす。
同じところを狙って、何度も。
自重だけでも洋剣はそれなりに重く、皮膚どころか筋肉が完全に切断されていた。
それでもなお至垂は繰り返すものだから、重たい金属の剣はいつしか骨の上へと直接、落とされていた。
耐え難い激痛、刃が骨を打つたび、アサキの悲鳴が上がる。
腕をそうしたように、一太刀に切り落とすことなど容易だろう。
苦しませるため、わざとやっているのだ。
でも……
狂いそうな激痛の中、アサキは思う。
これは、なんの……ため。
ここまで、するのは、なんのため。
そこが、理解、出来ない。
捕まるなら少しでも恨みを、といっていたけど、それだけにしては、あまりに変質的だ。
仮に、わたし、を、絶望させる目的、が、あるとしても……
刺される、痛み、手足、を切られる、苦痛、こん、な、ことくらいで、わた、しは絶望なん、かしない、のに。
なにがどうであろうと、わたしは、わたしの戦い、を続けるだけだけど。
こうして、わたしが剣を受け続けている分には、修一くんたちは、無事なはずだから。
いま修一くんたちになにかあったら、所長は、これだけの人数の魔法使いに、一斉に襲われることになるのだから。
もちろん、嘘の可能性もある。
首の仕掛けが、だ。
そしたらわたし、やられ損な気もするけど……
でも、生命の奪われ損じゃない。
だって、両親を守る、生まれてくる、弟か、妹、わたしが、未来を守れるのだから。
こんな、なんにも出来なかった、いつもおっかなびっくり、泣いてばかりいた、わたしが、人の未来を、守っているのだから。
だから、
安心して、ください。
お父さん。
お母さん。
お腹の、赤ちゃんも。
がづっ
がづっ
がづっ
べきり、と不意に音が変わった。
「うぐああああうっ」
低く大きな悲鳴が空気を震わせた。
剣を落とされて続けていた右の大腿骨が、ついに砕けたのである。
太ももは、薄皮一枚を残して、かろうじて繋がっているだけの状態になっていた。
どくどくと、どくどくと、血が流れる。
床の海が、さらに広がる。
その海の中で至垂は、アサキを蹴飛ばして俯せにさせ、その背中を踏み付ける。その背中へと、剣を突き立てた。
「うぐぁっ!」
アサキの全身が、強電流を流したかのようにびくびくっと激しく痙攣した。
「まだ死なないよ。合成生物も、人間と同じで普通に殺せば簡単に死ぬ。でも、上手くやるとなかなか死なないんだよね。わたしはきみの肉体のことはよく分かっているから、安心していいよ」
にたり、
血の海の中で白銀の魔法使いは、嬉しそうに笑った。
「アサキちゃん!」
治奈の、何度目の呼び掛けであろう。
泣きながら、何度、友の名を呼んだだろう。
それになんの意味があるのか。
でも、なんにも出来ないのだ。
呼ぶことしか、出来ないではないか。
そんな、申し訳なさと虚無感、悲痛さの混じった治奈の泣き顔であった。
「大丈夫、だから……」
アサキは応え、微笑んだ。
とてもそうは見えない、ぐちゃぐちゃの、血みどろの顔で、でも、心から微笑んだ。
「優先順位を考えろ! こいつが『絶対世界』の力を、もし手に入れたら、世界はどうなる? みんなが生きていることどころか、生きてきたことの意味まで、なくなっちまうかも知れないんだぞ!」
「あたしたちのために戦わないだなんて、嬉しくない! 怒るよ! アサキちゃん! 戦って! みんなと協力して戦って!」
靄の中から必死に訴えるアサキの義父母であるが、娘の決心は、変わらなかった。
岩よりも、頑なだった。
「戦わ……ない。修一くん、直美さん、赤ちゃんを、守って、この世界も、守る、道、きっと、あるはず、だから。……だから、まずは、修一くんたちが、生きていて、くれなきゃあ」
「アサキ! ふざけてんじゃ」
「二人が生きていてくれなきゃ……わたしが嫌なんだ! これはわたしの、わがままなんだ!」
大義より小義。
責めるなら責めろ。
この選択に悔いはない。
百回生まれ変わろうとも、わたしは同じことをする。
10
「それで自分が死にそうになってるんだから、きみはホームラン級のバカだなあ」
「うあっ!」
左の太ももに、剣を突き立てられ貫かれた。
「背中も、まだ何箇所かは刺せるかなあ。よいしょ」
至垂は、剣を太ももから引き抜いて、振って血を飛ばすと、再び背中へと突き立てた。
俯せているアサキの口から、激しく血飛沫が飛んだ。
「もう気は済んだじゃろ!」
「アサキが死んだら、てめえを八つ裂きにするぞ!」
治奈とカズミが、泣き喚いている。
死にかけている友へ、なにも出来ない自分へ。
「でも……でも、至垂のいってる首輪のこと、単なるハッタリかも知れねえし。もう……もう、あたし、我慢、出来ねえよ……」
もしも間違いであったならば。
つまり、ハッタリではなかったら。
そんな疑心、不安と、カズミはずっと戦っていたのだろう。友を助けるため、友の両親を殺すかも知れないのだから。
でも忍耐限界。すべてを背負う決心した表情で、一歩カズミは前へと出る。
「やめ、て、おね、がい! カズミ、ちゃん!」
血と一緒に、悲痛な言葉を吐き出した。
傷と血に塗れたぐしゃぐしゃの顔で、アサキは。
「いいや、少し待つといったが、限界だ。もう、黙って見ているわけには、いかないよ。ここでわたしたちは、至垂を捕獲、いや確保する」
上下繋ぎの、純白の魔道着、広作班リーダー仁礼寿春は、片腕を失おうとも威厳のまったく失われていない毅然とした表情で、至垂を睨み付けた。
だが、広作班サブリーダーの建笠武瑠が、仁礼の肩に手を置いて、
「寿春、待った方が得策だろ。キマイラは急所がとかなんとかいってたけど、あいつ、令堂、どう考えてもあと少しで死ぬだろ。なら、令堂に最後の打ち上げ花火で邪魔をされるよりは、死ぬの待った方が確実だ」
確かにサブリーダーの建笠は、手負いのアサキに何度もあしらわれている。しかもすべてが赤子の如く。
この発言には、そうした恨みや傷付けられた自尊心の影響もあるのか、それともより確実な任務遂行ただ選んでいるだけなのか。
どちらであれ、
「ふざけたこというな!」
カズミが激怒していた。
親友の必死な思いを、生命の尊厳を、あっさりと否定、傷付けられたことに。それどころか、一種殺す算段すらしていることに。
激情に突き動かされ、殴り掛かっていた。
拳が顔面へと突き出されるが、さすがは広作班のサブリーダーであり、中学生魔法使いの単なるパンチがかするはずもしない。
軽々と避けて、そしてカウンタージャブが鞭の如くぴしりとカズミの頬を撃ち抜いた。
く、カズミは呻き、頬を押さえて睨む。
反対に、にやりと笑む建笠であるが、その顔がぐしゃり歪んでいた。
真横から、治奈が殴り付けたのである。
「てめえら……」
覚悟出来てんだろうな。
とでもいいたげに、広作班サブリーダー建笠武瑠の口が、またいやらしく釣り上がった。
「よさないか」
と、リーダーにすぐたしなめられてしまったが。
「友を思う故の複雑な気持ち、分からなくない。けど、あまり情を挟んじゃいけない。悪いけど、世界がどうなるかなんだよ。さ、やるよみんな。至垂を捕獲、無理そうならばすぐに殺す。確保は絶対だ。散開!」
広作班リーダー仁礼寿春の号令に、チームの四人が一斉に反応する。
至垂を四方から囲もうと動き出した。
だが、
メンバー一人の前に青い魔道着、カズミが立ち塞がっていた。
それだけではない。
さらに久子、祥子、治奈、
天野姉妹、
嘉納永子、宝来暦。
広作班を至垂へ向かわせまいと、壁になっていた。
それぞれ武器を持ち。槍を破壊されている治奈は、空手の構えで。
「行かせやしねえ! アサキが、アサキが決死の覚悟で、選んだことなんだ!」
カズミの、怒鳴り声。
「さっきといってること違うじゃねえかよ」
広作班サブリーダーの建笠が、小馬鹿にした表情で、ふんと鼻を鳴らした。
確かに先ほどは、カズミこそナイフを握り締め至垂へと飛び掛かろうとしていた。彼女の場合は至垂をというより、むしろアサキを守るためであるが。
「お前と同じことをしようとした自分を恥じているだけだよ」
カズミは、鼻で笑い返した。
「中学のガキが偉そうに。どうであろうと、大義はこっちにあんだよ!」
建笠は、左腕の盾で正面を守りながら、カズミへと走り出す。
11
右腕の剣を振り上げ、豪快に叩き付ける。
だがその攻撃は、突然生じた青白い光にあっけなく跳ね返されていた。
カズミが、魔法障壁を張ったのである。
「あたしたちも、死線を潜り抜けて成長してんだよ!」
二本のナイフを構え直したカズミは、たんと軽く飛び込んで建笠へと切り付けた。
ぎりぎりかわされてしまうが、追撃の手を緩めず、右、左、ナイフを突き出し、振り回す。
さらには回し蹴りに、足払い。
舌打ち。
建笠は、防戦一方に追い込まれていた。
周囲でも、同様の戦いが行われている。
アサキの決断を尊重する仲間たちと、至垂を捕らえること最優先の広作班との。
「なあにを仲間同士で、やり合ってんだかなあ」
ははっ、と楽しげな笑みを浮かべる至垂。
みな、バカにされている自覚は、当然あるだろう。
例えこうして笑われずとも。
だって、ヴァイスタから世界を守るべき魔法使いが、お互いを武器で攻撃し合っているのだから。
なおかつそれは、同じ組織の人間たちなのだから。
まだ死者こそでていない。
この争いにおいては。
だが、お互いの能力が高いため、戦いは激しく、カズミたちも、広作班のメンバーも、あっという間に打撲に裂傷酷い状態になっていたが、それでもなお戦い続けていた。
「みんな、やめ、て……や、めて」
悲痛な、か細い、精一杯の、アサキの震える声。
片目を潰され、両腕を落とされ、片足をもがれ、床に俯せている、アサキの心の叫び。
どうして、みんなが戦わないとならない?
おかしいだろう。
「てめえのせいだろうがよ!」
広作班サブリーダー建笠が、ナイフを払いつつカズミの顔面に裏拳を叩き込むと、ちらりアサキへと視線を向けて、満面の怒気を言葉に吐き捨てた。
ぜいはあ、大きく肩を上下させている。
建笠だけではなく、いまこの争いを争っている全員が。
建笠だけでなく、仁礼以外の広作班メンバーはみな、驚きと、それ以上に苛立った表情になって、大きく呼吸をしていた。
舐めていた中学生たちに、互角以上に渡り合われているためもあるだろうか。
広作班は選りすぐりのエリートで、なおかつ高校生、地方の中学生魔法使いに比べて体力魔力における大いなるアドバンテージがある。なおかつ、目の前にいる中学生魔法使いたちは、立て続くキマイラとの戦いでみな疲弊している。ややであろうとも押されているというのは、広作班にとって屈辱以外のなにものでもないのだろう。
カズミが自分でいっていた通り、死線を抜けて成長したということか。それとも、友を思う気持ちが原動力ということか。
いずれにせよ広作班も、押されているとはいえ攻撃はしっかり受け流しており、つまり長引くほどに双方とも見る見る疲弊していくのであるが。
それが誰を利するか明らかであるというのに。
でも、引けない。
片や、世界を守るために。
片や、世界を守るなど当然のこと、まずは小義、仲間の必死な思いをこそ救済するために。
白銀の魔法使い至垂は、見世物小屋の見物と洒落込んでいたが、ようやく飽きがきたか、背を踏み付けているアサキへと視線を落とした。
「広作班のいう通り、本当に続々とここへ、魔法使いたちが集結しようとしてるみたいだな。まあ、だからこんな茶番をやっていられるのか」
魔法使いの集結。
それを至垂は、自らの魔力で感じているのか。
それとも通信で情報を得たか。
いずれにせよ、先ほど仁礼寿春が掛けていた降伏勧告の言葉、あれは嘘ではなかったということになる。
茶番、と至垂が一笑に伏したこと、
カズミたちには心外であろうが、広作班からすれば確かにそういう面もあるのだろう。
格下に押されて悔しそうとはいえ余力は遥かにあるわけで、強引であれば幾らでも打てる手はあるはず。そこまではしないのは、ここへ魔法使いが集まっているから、と考えれば辻褄は合う。
むしろ見方を変えれば、これは広作班からの、アサキやカズミたちへの時間稼ぎというプレゼントであったのかも知れない。
サブリーダー建笠の言葉通りに黙ってみていたら、もうアサキは絶命していたかも知れないのだから。
意図的なのか、単なる結果であるのかは、仁礼寿春と建笠武瑠、二人の心の中を覗けなければ分からないことであるが。
だけどその意図的か結果的かの時間稼ぎも、これで終わりのようであった。
「見下ろすのも、首が疲れるなあ」
銀色の魔法使い至垂は、そういうと軽く腰を屈ませた。
血に塗れた赤い魔道着と同じくらい赤い髪の毛を掴んで、高く持ち上げた。
両腕のない、大腿骨を分断されて太ももが薄皮一枚でしか繋がっていない、身体中を滅多刺し、滅多切りされた、生きているのが不思議なくらいである、アサキの身体を。
壁に押し付けると、なんの躊躇もなく、胸に剣を突き刺した。
至垂はアサキの胸を貫いて、壁に留めた。
肺を突き通されて、またアサキの口から、ぶふっと血が噴き出した。
12
「本当に、修一、くん、たち、直美……」
ほとんど、呼吸も出来ていないのだろう。
アサキの声、かすかすと、ほとんどが雑音で、まともに言葉になっていなかった。
片目が剣に刺され潰されており、残る片目は開いてはいるが、もうほとんど、輝きはなかった。
「ああ、もう少しわたしの気が済んだらね。必ず助けるよ。必ず。約束するとも」
アサキは、朦朧とする意識の中、至垂の声を聞いた。
信じた。
人間性をではなく、状況を。
だって、この人が恨みに思うのは、思う通りに動かなかったわたしであって、修一くんたちじゃないんだから。
「絶対、ですよ」
だから赤毛の少女から発せられるこの言葉は、至垂の言葉を疑うものでは、決してなかった。
死に瀕してなお、ひたすらに純だったのである。
「いつか……世界が平和に、なったなら……どこ、か、連れて行って、貰うんだ。おと、さん、おかあさん、一緒、に、遊び、に行く、だ、いっぱい、わがままを、いう、んだ。おとうとか、いもうと、と、遊ぶ、んだ……」
ほとんど雑音といった、アサキの声。
だけど、
「ああ、ああ、そうだな」
修一には、はっきりと、聞こえているようだった。
「どこへでも、連れて行ってあげるから……」
直美にも、はっきりと、聞こえているようだった。
「だから、いまは……もう戦えないなら、みんなに戦って貰え。意地を張るな。お前が死ぬこたねえんだよ。広作班の方が正しいぞ」
「そうよアサキちゃん。カズミちゃんたちも! 仲間でしょ!」
その言葉に、カズミはぐっと息を飲んだ。
「分かっているよ! でも、おじさんおばさんも大事だし。あたし、本当の親どころか、義理の親もいないから。で、でも、それ以上に、アサキの思いを無駄にしたくなくて、と、というか自分で決断の責任を取るのが怖くて、だから……」
戦いにぜいはあ息を切らせながらも、悲しげに、苛立たしげに、不安げに、カズミは床を踏み鳴らした。
「ごめ、ん……あ、がとう……ぜん、ぶ、わたし、の、わがまま……ご、めん」
アサキの、ざりざりと濁った、しんと静かでなければ聞こえない、か細い言葉。
それを吹き飛ばしたのは、至垂の笑い声だった。
大笑、爆笑というのか、しんとした部屋の中、それは凄まじい、壁が揺れているのではないかというほどの、大きな笑い声が響いた。
いつまで続くのか。
湧き上がった気持ちを、一気に出し切ろうかというほどの。
本来は怒るべきを、思わず呆けて見入ってしまうほどの。
常軌を逸脱した、笑い声であった。
やがて、ようやくその笑いが収まった。
部屋に、静けさが戻った。
戻っただけなのに、より静か。
そんな中、白銀の魔法使い至垂は、ふうっと短いため息を吐いた。
すっきりとした顔になっていた。
真顔であるが、笑顔にも似た、憑き物が削ぎ落ちたような顔。
壁に貼り付けられた、みるも無残な姿のアサキを見つめていたが、やがて、その顔に、苦笑に似た表情が浮かんでいた。
「負けたよ。令堂くん。……強いんだな、きみは。義父母への気持ちが本物ということか」
また、短いため息を吐いた。
アサキは、半ば朦朧とした意識の中、驚きに、わずか目を見開いていた。潰されず残った片目だけであるが。
このような言葉を聞くなど、このような態度を取られるなど、思いもしなかったから。
白銀色の魔法使いは、さらに続ける。
「すまなかったね。自分が、愚かに思えてきたよ。義理の両親を思う強い気持ち、わたしにここまでされても、抵抗しないんだからな。命乞いせず、義父母を守り続けようとするんだからな。なにがあっても決して絶望しない強さ。一体、どこからくるのかな」
「が……ぐ」
うっすらと残った意識の中で、アサキは口を開こうとする。
喉の中が血の塊で、むせるばかりで全然言葉が出ない。
だらりと、口を血が伝うばかりだ。
「いまさら許されないだろうが、罪を、償うよ。きみのご両親も、すぐに解放するよ」
「ほ、ほん、とう、で……」
かふっ、とむせて血が飛んだ。
白銀の魔法使いは、にっこり笑った。
変えた、ということだろうか。
アサキの、まっすぐな気持ちが。
ひたむきな気持ちが。
リヒト所長の、歪んだ魂を。
「ほ、ほ、ほんとう、に」
アサキは、残った片目を細めた。
そこからは、ボロボロと涙が溢れ落ちていた。
「んなわけないだろお! ばああああか!」
白銀の魔法使いの、高く上げた手の指が、ぱちんと鳴らされた。
薄靄の結界の中。
おぼろげに見える、ぐにゃり歪んで、浮かんでいる、二人から、
ちゅん!
なにか粒子が噴き出す音がして、その首が、落ちていた。
落ち、転がると、さあっと一瞬にして結界による薄靄が晴れていた。
そこには、二つの身体が、倒れていた。
男女、二人の身体が、折り重なるように。
さらには、身体から少し離れて、ごろりと転がっている、二つの……
13
一体、なにが起きたのか。
まるで、理解が出来なかった。
見えてはいた。
体力尽き果て、朦朧とする、霞む視界の中に、見えてはいた。
だけど、理解が出来なかった。
だって、おかしいじゃないか。
嘘だ、これは。
きっと、疲弊した意識が見せた幻覚だ。
この、静まり返った、凍り付いた空間も。
戦いを中断して、唖然呆然と立ち尽くしている、カズミちゃんたちの姿も。
でも……
それじゃあ……
霞む、ぼやける、アサキの視界。
生命活動をしていることが奇跡であるとしか思えない、アサキの身体。
剣で胸を突き通されて、壁に磔にされている。
両腕を失って、片足もほとんどもげかけている。
胸も、腹も、縦横斜め無数に走る深い傷。
血みどろだ。
身体も、顔も。
がくり項垂れる顔の、前髪に半分隠れているが、目が片方、ない。
剣で突かれて、潰されたのだ。
壁に磔された眼下に、残る片目が捉えているのは……
かすみながらも、映っているのは……
二人の、男女。
アサキの義父母、修一、直美、の、胴体。
そこから離れて、ごろり転がっている、二つの……
「さあ、直視するがいい。きみの招いた、素晴らしい結果を」
白銀の魔法使い至垂徳柳の、低く甘い声が静まり返った部屋の中を震わせた。
アサキの、潰されていない方の目が、大きく見開かれ、瞳が微かに震えている。
胸を刺し貫かれ、壁に打ち付けられ、血に塗れたぐちゃぐちゃの顔、ボロ雑巾よりも酷い有様で、至垂が嬉しそうに指し示しているものを、震えながら見つめている。
現実……なの、か、
これは、
わたしの……
……夢、では、
夢なら……
「あ……ああ……」
雑音にまみれた、掠れた声が漏れた。
血みどろ、ぐちゃぐちゃの、顔、口から。
そのまま、それから、どれだけの時が過ぎたであろうか。
不意に、潰されていない方の目が、より大きく、飛び出しそうなほどに見開かれていた。
それ以上、張り裂けんばかり大きく口が開いていた。
「うわあああああああ!」
14
なんという悲痛な叫びであろうか。
自分の脳味噌をぐちゃぐちゃにかき回すかのように、狂った、激しく、悲しい……
がぼがぼと、喉の中の血を沸騰させ、噴き出しながら、赤毛の少女アサキは叫び続けた。
壁に串刺されたまま、叫び続けた。
涙が流れていた。
赤い……血の涙が、流れていた。
「どう、して……どうして、こんな……こんな」
わたしの、せいだ……
全部、わたしの、せいだ。
修一くん、直美さんを、守れなかったのは。
でも、でもまさか、ここまでするだなんて、思わなかったんだ。
悪人であろうとも、キマイラであろうとも、わたしと同じで、心は人間なんだから。そう心の奥では思っていたから。
こんなことになると、分かっていたならば、
人間なんかじゃないと、分かっていたならば……
そもそも、わたし、超ヴァイスタなどという言葉に、まったく現実感を持っていなかった。まったく興味がなかった。
そのことをめぐって、ウメちゃんや校長、既にたくさんの人たちが死んでいるというのに。
甘かったんだ。
話せばきっと分かる、そう思っていた。
現在にしても、わたしが耐えればいいだけだ、そう思っていた。
その結果が、これだ。
目の前の……
修一くん……
直美さん……
全部、わたしのせいだ。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
わたしの……
わたしのせいで……
口を大きく開き、吠えていた。
がぼりがぼりと、喉に溜まった血を噴き出しながら。壁に磔にされながら、赤毛の少女は吠え、魂を吐き出していた。
「いいねえ、心地よい響きだ」
白銀の魔法使い至垂は、我を忘れて叫んでいるアサキの、顔を、頬を、ぬるりなで上げた。
アサキの魂の震えは、まったく収まることはない。
なおも叫び続けた。
目を潰され、両腕を切り落とされ、胸を貫かれているというのに、そんな痛みなど、まったく感じてなどいなかった。
あるのはただ後悔と、至垂への恨み。
ただそれだけだった。
「わーわー叫ぶ、生きた壁掛けか。うん、悪くないねえ」
にやりと、至垂はいやらしい笑みを浮かべた。
と、その視線が、すっと横へ動く。
「悪魔のくせに、なにが『絶対世界』だ!」
第二中魔法使いの宝来暦が、左右に持った三日月刀を怒鳴りながら振り上げ、至垂へと飛び込んでいた。
アサキの懇願により見守るしかなかった彼女たちであったが、人質たる令堂夫妻は既にこの世におらず。
いち早く呆然から脱した宝来暦が、憤慨心をたぎらせて、
「ライヒトスタアク!」
呪文詠唱、武器をエンチャントで青白く輝かせながら、跳躍した。
「カスが」
白銀の魔法使い至垂は、ふんと鼻を鳴らしながら、胸の高さでパチンと指を鳴らした。
宝来暦の頭部が、消えていた。
空中、跳躍しいままさに至垂へと飛び掛からんとしていた、宝来暦の、頭部が。
正確には、消えたわけでは、なかった。
空間から、白く太い粘液に光る腕が現れて、がっしり彼女の頭部を両手で掴んだのである。
硬い物と、柔らかい物が、同時に、一瞬にして、ぺしゃんこに潰される。
そんな音が部屋中に反響すると、もう宝来暦の身体は、ぴくりとも動かなくなっていた。
白く巨大な手に頭部を潰されて、だらり吊るされたまま、ぴくりとも。
白い腕だけではない。
ぼおっと浮き上がるように、全身が現れていた。
真っ白で、粘液質な皮膚、二メートルは優に超える、巨体。
頭部は、鼻が僅か隆起しているだけの、のっぺらぼう。
ヴァイスタであった。
異空側から現界へと出現しながら、宝来暦の頭部を一瞬にして握り潰したのである。
宝来暦の身体は、まだ巨大に手に掴まれ吊るされ、ぶらぶら揺れている。
掴んでいるヴァイスタの、なにもなかったはずの顔面が、縦に大きく裂けた。
ピラニアにも似た、鋭く細かな無数の歯が裂け目から覗く。
ヴァイスタは、潰されて脳漿にまみれた宝来暦の、頭部を……もはや原型を留めぬ、赤黒い肉と骨の塊を……顔を近付けて、無造作に放り入れた。その、鋭い歯の無数に生えた、裂け目の中へと。
がつり
ごつり
がり
骨を砕くのみで、ほとんど咀嚼せず。
宝来暦の頭部が、そして身体が、どんどん消えていく。
ここでようやく周囲がざわついたこと。それは、誰も責めることは出来ないだろう。
百戦錬磨の魔法使いであろうと、まさか警告も気配もなにもなく突然ヴァイスタが出るなど思うはずもない。
しかも、あまりの凄惨な出来事に元より呆然自失であったこのタイミングで出現しても、すぐに気付けるはずがない。
ただ彼女たちのほとんどは、呆然自失であったがため救われたのであるが。
どういうことかというと……
「てめえさえ、倒せばあ!」
元々の気の強さから他の者ほどには我を忘れていなかった広作班サブリーダーの建笠武瑠が、その性格がため次の犠牲になったのである。
すぐに我を取り戻し、ヴァイスタを避けつつ雄叫び張り上げながら至垂へと回り込む彼女。左腕の盾で身を守りながら右手に剣を構えるという広作班の戦闘スタイルで、身を突っ込ませた。
そして、
頭部を、巨大な手に掴まれていた。
別のヴァイスタである。
宝来暦を捕食しているヴァイスタとは反対の方向から、白く巨大な、粘液にまみれた腕が伸びて、その両手の中に建笠武瑠の頭部はしっかりと包まれていたのである。
「いやだ、死にたく……」
巨大な手の中から、くぐもった叫び声が聞こえてきたが、それはすぐ、骨を砕く音に取って代わった。
広作班サブリーダー建笠武瑠の身体は、巨大な手に掴まれ吊るされたまま、動かなくなった。
その、白く巨大な手が、別の色に染まっていく。
指の間から滲み出る、赤と、灰色に。
広作班リーダー仁礼寿春は、くっと呻きながら白銀の魔法使いを睨み付けた。
部下であるというだけでなく、積み上げてきた情もあったのだろう。
だが、仁礼寿春は、呻き睨んだのみで、動かなかった。
動けなかったのである。
彼女だけでなく、他の魔法使いたちも。
魔力の目で冷静に見れば分かることだが、ここ現界の薄皮一枚向こう側に、おびただしい数のヴァイスタがいるためだ。
肩を付け合い、うごめいている。
次元の壁の、どこが濃いか薄いか。また突然に突き出された手に掴まれ潰されるかも知れず、迂闊に動けるはずもなかった。
がつり、ごつり、
二体のヴァイスタが、荒い咀嚼と嚥下を続けている。
それを見ながら至垂は、満足げな笑みを浮かべ、小さく口を開いた。
「ある程度はね、操作可能なんだよね」
ヴァイスタのことをいっているのだろう。
「しかし、ままならなかった。ここまでやれるのに、肝心なところがままならなかった! でも、もう不要なんだよ! ヴァイスタがどうのと、どうでもいいことになったんだ! 遥か優れ超越した力を、わたしは手に入れるのだから!」
壁側へと、振り向いた。
磔にしたアサキへと、なあ令堂くん、とでもいいたげな、優越感と嘲笑とに歪み歪んだ顔で。
「あひっ」
その優越感と嘲笑は、悲鳴とも呻きともいえない裏返った声と共に、飲まれて消えた。
いま至垂徳柳の顔に浮かんでいるのは、他でもない恐怖の表情であった。
睨んでいるのである。
アサキが、獣のように唸っているのである。
15
両腕を切り落とされて、
全身を、合成生物の限界まで、滅多切り、滅多刺しされ、
片足も、皮が一枚繋がっているだけの、ほとんどもげた状態、
顔面も血みどろでぐちゃぐちゃに歪み、
片目を刺され潰されている、
剣で胸を突き通されて、壁に掛かった破けてボロボロのコートのようなアサキが、残った片目を細めて、睨んでいるのである。
獣のように、唸っているのである。
これまでも至垂は、戦いの中ずっと睨まれ続けていた。
むしろ心地よいといった反応であったのに、至垂はいま、アサキの顔に、唸りに、空気に、温度に、闇に、怖じ気づき、ぶるぶる震えていた。
「わたしは……きみ、に恐怖を、感じている……」
青ざめた顔で、ぼそり声を発した。
ひとつ呼吸、ふたつ呼吸。青ざめた顔のまま、ぶるぶる震えたまま、恐怖の表情のまま、にやりと唇を歪めた。
「待っていたんだ、この瞬間を!」
血みどろの顔と同じくらいに真っ赤な髪の毛を乱暴に掴むと、剣で刺し貫かれている身体を、構わず強引に引き寄せた。
剣は壁に深く刺さっているものだから、串刺しのアサキを引っ張ったことで、肺が潰され肋骨が砕かれる音がした。
アサキの身体に引っ張られて、壁から剣が抜けた。
深々とアサキを貫いたままである。
「うう、あああああああああ!」
アサキの口から、がぼごぼと真っ赤な血が吹き出した。
苦痛の悲鳴ではない。怒りの、恨みの、唸り声であった。
「絶対、絶対に……ゆる、さ……」
身体をほとんど破壊されて失った分だけ凝縮された、不気味さを増した怒りの眼光。
浴びて至垂は、笑っている。
恐怖に青ざめた顔で、引きつった顔で、笑っている。
恐怖していることが嬉しくて、笑っている。
「くたばれ化け物があ!」
広作班の一人が、剣を振り回しながら至垂へと飛び掛かった。
至垂は剣を持たず、片手にはアサキを掴み吊り下げており、これを仕留める好機と思ったのだろう。
好機どころか、単なる自殺行為であったわけだが。
白銀の魔法使い至垂は、片手でアサキをぶら下げながらも、広作班の盾を装着した左腕を下から蹴り上げた。
返す刃で斜め上から踵を落とし、盾の根本にあるリストフォン型クラフトを蹴り砕いた。
変身が解けて、瞬時にして高校の女子制服姿へと戻った彼女を、至垂は、
「死ね」
襟首を掴んで、放り投げたのである。
突如、空間から出現する、無数の、白く太い腕。
次々と伸びるヴァイスタの手に掴まれて、単なる制服姿の女子高生にどう抗う術もなかった。
「うわあああああああ!」
一瞬にして、頭を握り潰されていた。
四方から伸びる手に争い引っ張られて、すぐに四肢がもげて腹が裂けた。
八つ裂きである。
ぶちゅり
がつり
くちゅっ
恐怖の悲鳴を上げて、僅か数秒足らず。
もう彼女の肉体は、単なる食料でしかなかった。
「さて、令堂くん!」
至垂は、己が手に吊るしている、単なる肉塊と化し掛けているアサキの身体を、不意にぶんと振り回して遠心力で床に叩き付けた。
床が砕けるほど、床にめり込むほどの勢いに、べきぼきと骨が砕ける音が響いた。
まだ周囲には敵たる魔法使いたちがいるというのに、至垂は無警戒にしゃがみアサキへと顔を近付けた。
生命があるのが不思議なほどに潰されながらも、なお怒り、睨み、呻き、唸っている、アサキの顔へと。
アサキの眼力に耐えながらの、青ざめた顔で。
自分をここまで震え上がらせる、意思の力だけではどうにも抗えない、アサキの怨念、眼光、これこそ望んでいたものであるというのに、恐怖に震え、それが嬉しくて笑みの漏れる矛盾。
その矛盾を抱えた笑みを、ぐちゃぐちゃに崩れ潰れた顔のアサキへと近付けながら、
「これからきみは、どうするつもりだい?」
甘い声で、問い掛けた。
ただ獣の唸り声が返るだけだったが。
代わりに返事を、いや言葉を放ったのはカズミである。
「てめえ、ふざけたことばかり、いってんじゃねえぞおおおお!」
友を思う気持ちを爆発させ、二本のナイフを振り回しながら、青い魔法使いが床を蹴り至垂へと突進していく。
「もうきみは、死んでいいよ。むしろ死にたまえ」
立ち上がった白銀の魔法使いは飽きたといわんばかり冷たい表情で、突っ込んでくるカズミを一瞥した。
「うるせえクソがあああああああ!」
怒りに吠えるカズミへと、ざあっと無数の白く巨大な手が伸びる。
既に二人も、このヴァイスタたちに魔法使いがあっさり捉えられ、殺されている。しかしというよりは、だからというべきか、カズミは簡単にはやられなかった。雄叫び張り上げながら触手状の白く太い腕をかい潜り、ぶった切り、アサキへと、至垂へと、ぐんぐん距離を詰めていく。
「いま行くぞ、アサキ!」
わずかの油断が即死に繋がるを承知で、友のため必死で進んでいくカズミであったが、ここで思わぬ言葉を聞くことになろうとは。
「こない、で」
がぼっ、と気道にたっぷりと血や体液を詰まらせながらの、アサキの声であった。
16
「うるせえ! 行くったら行くぞ!」
「こな、い、で……みんな、逃げ、て」
「アサキ?」
触手を潜り抜けながらの、カズミの訝しがる声。表情。
気が、付いたようである。
ヴァイスタが危険だからと、友を心配して救出を拒否しているわけではない、ということに。
「おね、がい……わた……わた、し、なにをす、るか、分から、ない。どうな、ちゃうか、分か、らない。自分、で、心が、制御、出来な、い……逃げ、て……」
「だからこそ、友達が必要なんだろ! 心が辛いなら、一緒にその思いを感じてやる。心がドス黒くなりそうなら、半分をあたしが背負ってやる! だから……」
「ありが、とう。でも、だから、に、逃げ、て……」
「でも」
弱った表情でカズミは、ヴァイスタの触手をかい潜り、払い続けている。その顔が、驚きと畏怖に塗り変わるのは、次の瞬間であった。
「逃げろというのが聞こえないのかああああああああ!」
凄まじい風が、吹いたのである。
魔力を感じる力が、そう感じさせるだけなのか。
神か、悪魔か、どちらだというほどの、強烈な風が。
耳をつんざく突風。
上回る、アサキの怒り、悲しみ、恨みの絶叫、負、淀んだ魔法力がぐつぐつ煮えて部屋の内圧が異様に高まっていた。
空気が捻じれ、不気味な風が巻き起こっていた。
「そうだぞお。聞こえないのかああああ」
異様に異常な突風の中、白銀の魔法使いは冗談ぽく叫ぶ。
転がっている赤毛の少女の胴体を、爪先で蹴り上げ、俯せにすると、ぶすり背中へ剣を刺した。
噴き出し渦を巻くアサキの魔法力や、怨念を吐き出す叫び声が、いささかたりとも弱まったわけではないが、至垂はより笑みを強めて、
「まあ、世界が変わるんだ。逃げる場所なんざあ、ないけどねえ」
背に突き刺した剣を、捻った。
びくり、
アサキの全身が、強く痙攣した。
「アサキちゃん!」
腕を顔に翳し風よけにしながら、治奈が叫ぶ。
だが声は風に溶け、進もうにも風によろけ、まったく近付くことも出来なかった。
仮に進めたとしても、まず待ち構えるのはおびたたしい数のヴァイスタであるが。
背中を踏まれ、突き刺された剣を捻られながら、赤毛の少女は、失った両腕の代わりに身をよじりながら、また怨念、後悔、言葉に吐き出した。
「わたしの、せい、だ。ぜ、ぶ、わだ、し、のせい、だ。あな、たのよう、な怪物、を、殺して、いれば……」
初めてではないだろうか。
敵にすら、事情を想像し憐憫の情を向けるアサキが、生命を大切に思うアサキが、殺すなどという言葉を口に出したこと。
それほどに、恨みと後悔が、理性吹き飛び真っ白になった頭の中を支配していたのである。
「まったくもって、その通りだねえ。いや、よくわたしを生かしといてくれた。感謝の言葉もない。おかげでこんなこんなこんな、楽しい気持ちにい、なれたああ!」
眼球の潰れているアサキの右目、そこへ二本の指を突き刺すと、眼窩に指を掛け、持ち上げた。
ぶうんと振り回し、腕のない軽い身体を壁に叩き付けて、さらに持ち上げ振り回し、床へと落とした。
ぼきばきと、骨の砕ける音。
アサキの身体は、どこがアサキであったか探すのが難しいくらいに、もう単なる骨と肉の固まりと化していた。
心臓が動いているから生きているだけ。意識があるだけ。
恨みの念は世界を握り潰すほどであったが、その意識そのものが、風前の灯であった。
「反対にい、きみはもう、なあんにも出来ないねえ」
にたり、と笑む白銀の魔法使い、至垂徳柳。
「希望に繋がる道筋は、すべて塞いだ。ガンジー主義の無抵抗は失敗だったね。バカだったね。もう、わたしを殺すこと出来ない。恨みを晴らすこと出来ない。きみの薄甘さで、両親も死んだ。首を落とされ、そこにみっともなく転がってる。もう感情の吹き出し口は、一つしかない。一つしかない!」
はははははは高笑い。
顔に手のひらを当て、身をのけぞらせて、大爆笑。
その態度が呼び水となったか、ついに、至垂の待ち望んでいた瞬間がきたのである。
「あああああああああああああああああ ああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
これまでの爆発など、そよ風。
宇宙創生など比較にならない、凄まじい、意識の、怨念の、大爆発が。
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