魔法使い×あさき☆彡
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第二十三章 お姉ちゃんと、妹
1
ぶん
長剣の刃が唸った。
かろうじてかわしたアサキであるが、剣圧が起こす風を受けて、身体がぐらりとよろけ、赤い前髪が激しくなびいた。
「大丈夫? アサキちゃん」
治奈が、後ろからそっと肩を押さえて、ぐらつくアサキを受け支えた。
「ありがとう」
治奈へ礼をいいながらも、視線は前。
剣を構え直し、至垂徳柳へと強い眼光を向けた。
その眼光を受けた当人は、そよ風ほどにも感じていないようであるが。
リヒト所長、至垂は。
先ほどから浮かべている涼やかな笑みを、少しも崩していない。
白いシーツを首に巻いて、大きなマント状に身体を包み、右手には長剣を持っている至垂。エンチャントの効果は、攻撃を繰り出せどいささかも低下していないようで、剣身はまだ青々と輝いている。
ちっ
足元に響く、微かな音。
至垂が裸足で、床を蹴ったのだ。
床を蹴り、跳び、同時に、振りかぶっていた。遠心力で振り回し、赤毛の少女の頭へと魔法強化された金属を叩き落とした。
間一髪、アサキは自分の持つ剣を横にして受け止めた。
受けはしたが、想像を遥かに上回る重さと衝撃に、手がびりびりと痺れ、呻き顔をしかめた。
「楽しいねえ」
ねっとりとした、低い声。
リヒト所長、至垂徳柳。
女性である。
服装や言動から考えて、これまでは男性を演じていたのであろうが、しかし女性であった。
だが、身体に巻かれたシーツの下には男性以上の、獅子すら締め殺せそうなほどの筋骨が隆々としている。
さらには、武器に施された魔法強化。
さらには、武芸に秀で魔法も熟知している。
人間ではなく、魔道器。魔法に特化した合成生物である。
そのため膨大な魔力量を宿し、制御する能力を身に宿している。
魔力の効率伝送は、肉体能力を大幅に強化する。
魔道着を着ているというのに苦戦していたアサキと治奈であるが、それも無理はなかったのである。
剣を受けたアサキは、その勢いを利用して跳ねるように退いて距離を取り、油断なく剣で身を守る。
すっと寄った治奈が肩を並べて立ち、両拳を胸の前、空手の構えを取った。
何故に素手かというと、先ほど至垂に槍の柄をへし折られているためだ。
アサキの息が、荒くなっている。
立っているのも精一杯であるのか、時折ふらりよろめき掛けては踏みとどまっている。
ちらり、と治奈の視線が不安そうに動く。
友の様子が気になって仕方ないようである。
アサキの顔色は、時間が経つほどに悪くなっていた。
先ほどまでの、魔道器の魔法使いたちとの戦いによる衰弱が、まったく癒えていないためだ。
それでもここまでは、至垂が武器を持っていなかったため、軽く受け流すことが出来た。だから疲労が目立たなかった。
現在は状況がまったく異なる。
至垂も魔道器魔法使いであり、現在エンチャントされた武器を持っている。
気を抜けば一瞬で生命を失う。
しかし剣術においても至垂は手練であり、アサキは防戦を余儀なくされ、その運動と緊張はただでさえ疲弊した肉体からますます体力を奪っていく。
そんな友のためにも、自分の妹のためにも、早期決着を、そう思ったか空手の治奈は、一瞬の隙を狙って床を蹴り、やっと気合の叫び声を発しながら至垂の構える長剣の間合い内側へと飛び込んでいた。
だが、
「格闘で勝とうなど甘い!」
至垂徳柳は、剣を持っていない方の肘を、治奈の頬へと叩き込んだ。
瞬間、身体を回し、さらには蹴った。女性とはにわかに信じがたい、とてつもなく大きな足の裏で、治奈の胸を。
蹴られた治奈の身体が、ふわり空中に浮いたかと思うと、次の瞬間には壁に叩き付けられていた。
完全に、劣勢であった。
アサキと治奈は。リヒト所長が剣を手にした時から、途端に一転して、少し複雑な意味で劣勢になっていた。
問題は、アサキにある。
相手が武器を手にしたというのに、でも魔道着は着ていないため本気を出せないのだ。
魔道着は、強化繊維で作られているため、そのものの自体が頑丈だ。
加えて、刻まれている小さな呪文文字により魔力を帯びて、その頑丈さはさらに向上する。
加えて、魔法使いが着ることにより、魔力伝導効率が高まり、その頑丈さはさらに向上する。
つまり着ることによりどうなるかというと、急所への的確な一撃がない限り、そう簡単には死ななくなるのだ。
ところが、至垂はその魔道着を着ていない。
先ほどまで着ていた硬めのスーツも、現在は脱ぎ捨てており、巻き付けた白いシーツの下は全裸である。
だから、攻撃を躊躇してしまうのだ。
自身、疲労にふらふらで、そのような余裕などないというのに。
治奈の空手も、アサキの気持ちが分かるだけに影響を受けているのだろう。いま一つ攻撃の迫力を出せない。
師範役であるカズミに引けをとらないだけの空手の腕前を、治奈は持っているはずなのに。
そのような理由により、苦戦していたのである。
生身の一人に対して、魔道着を着た二人であるというのに。
また、白いシーツを纏った至垂から、強くしなやかな動きで長剣が振り下ろされる。
アサキはなんとか受け止めながら、びりり手の痺れるのを堪えて、垂直に跳んで、至垂の顔面へと蹴りを浴びせた。
いや、不意を付いたつもりでいたのに、剣を持った方の肘でしっかりとガードされていた。
シーツを纏った至垂は、反対の手で拳を握るとアサキの頭上へと叩き下ろした。
巨体が故に握る拳も大きく、まるで巨大なハンマーであった。
打撃をもろに受けたアサキの身体は、鈍い音と共に床へと打ち付けられていた。
ぐふ、と呻くアサキ。
完全に無防備の状態で倒れている上から、長剣の切っ先が風を切り裂いて落ちる。
それはアサキの胴体を真っ二つにしそうな、躊躇のない一撃であったが、
「やらせん!」
治奈が飛び込みながら、長剣の側面へと裏拳を当てて軌道をそらした。
それた切っ先がアサキの身を僅かに外れて、がつりと床を砕いた。
「せやっ」
紫の魔道着、治奈は、白いシーツを纏った至垂の懐へと入り込みながら、肘を振り上げた。
顎を狙った一撃だ。
だが簡単に退かれてかわされてしまい、治奈は舌打ちしながら、体勢を立て直そうと自身も退いて距離を取った。
その、二人が距離を取ったちょうど真ん中に、起き上がったアサキが立ち、はあはあ息を切らせながら白シーツを睨む。
厳しい眼光を少し弱めて、横目をちらり治奈へと向ける。
「ありがとう治奈ちゃん。何度も、ごめんね。でも……ここからは、わたしが一人で引き受けるから、早くフミちゃんを探して、助けてあげて」
至垂へと向け油断なく剣を構えながら、治奈を送り出そうと微かな笑みを浮かべた。
「こちらこそ、ありがとうな。ほじゃけど、まずはこの男を、あ、いや女か、捕らえるのが先決じゃけえね」
「でも、フミちゃ……」
「フミが心配だからこそじゃ!」
「……うん」
治奈ちゃんがいっていることの、理解は出来る。
予期せずこのような戦いになってしまっているけれど、部下に新たな指示を伝えさせなければ、ここでいまフミちゃんがどうかなることもないだろう。
ボスをここで捕らえてしまえば、部下だって保身を考えて、これ以上の罪を犯すことはないはずだ。
そのような考えだろう。
むしろ、ここまで追い込んで恥辱を与えてしまった、リヒト所長を逃がすことの方が、危険だ。
恥辱というだけでなく、おそらく秘密にしていたであろう女性であること、合成生物であることを、我々は知ってしまったからだ。
乗り込む前の作戦会議で須黒先生もいっていたけど、もしも逃げられて行方をくらまされでもしたら、どうなるか。
日常、わたしたちがいつどこで襲われるか。
家族の安全は。
それ以外にも、なにをしようとしてくるか。
ヴァイスタを操って、なにかをしでかすのではないか。
この世界は、どうなるのか。
そんな不安と恐怖に、ずっと怯えて暮らさなければならなくなる。
不本意ながらもこうした状況になってしまったのであれば、ここはもう、所長を確実に捕まえることが最優先事項。それが、フミちゃんの安全にも繋がる。
そういう、考えだろう。
でもやっぱり、フミちゃんのところへ一秒でも早く駆け付けたいはず。治奈ちゃんは、実のお姉ちゃんなんだから。
わたしのことが心配だから、ああいってくれているんだ。
と、アサキは申し訳ない気持ちだった。
生身の至垂へと本気で戦えない自分の甘さに、申し訳ない気持ちだった。
しかし、というべきか、ここで状況が変わった。
至垂を倒すの捕らえるのという点では同じだが、治奈の揺れていた感情が、ベクトル定まって激情に加速が付いた。
きっかけは、至垂の言葉であった。
「フミフミさっきからいってるけど、誰?」
あえてなのか分からないが、気怠そうな顔で尋ねたのである。
聞いた瞬間、治奈のまなじりが釣り上がっていた。
髪の毛が逆立っていた。
震えていた。
こめかみに血管が浮かんでいた。
両の拳を、指の骨が折れそうなほどに握り締めていた。
「貴様がさらった、うちの大切な、大切な妹じゃ!」
怒鳴っていた。
至垂としては、からかって挑発しているだけなのだろう。
しかし、分かったから落ち着けるものではない。
治奈は、大切な妹の生命に対して、片手間気怠げ小指で耳クソほじっているその態度に、瞬間的に沸騰してしまっていた。
しかし、家族を思う気持ちも、怒りも、激情も沸騰も、目の前の相手は微風を受けたほども感じていないようであったが。
感じていないだけならば、まだいい。
「ん? きみの、妹? ええと……。んーー。あーーーーっ! ああ、ああ、すっかり忘れていたなあ。あの娘のことかあ」
からかったのである。
「白々しい!」
治奈は、だんと強く床を踏んだ。
その激情にピシャリ打たれたから、というわけでは、もう決して、絶対に、ないのだろうが、至垂は不意に真顔になった。
ちょっと難しい顔になった。
「……あのね、足りない頭を頑張ってちょっと働かせて、理屈で考えてみて欲しいのだけどね。現在の、事態の方向性や、進行段階で、まだあのウミちゃんとかいう娘を生かしておくメリットってなあに?」
「え……」
治奈の動きが、止まっていた。
顔が硬直していた。
あまりに何気のない、縁側で雑談をしているかのようなリヒト所長の表情や口調に、言葉の意味をすぐ飲み込めず、口が間抜けな半開きになってしまっている。
アサキも、同様の表情になっていた。
反応に満足して、というわけでもないのだろうが至垂の言葉が続けられる。
「きみたちの、絶望が欲しい。こちらは、ただそれだけだ。きみたちは、微かな希望を信じて、ここへもうきてくれている。なのに、きみたちに喜びや安堵を与えることになるという不要な可能性を高めるために、わざわざウミちゃんを生かして、監視をつけて監禁し、というそんな面倒なことをするメリットが、こっちにあるのかい? キャンディ舐める以上の旨みが、あるのかい?」
「まさか、まさか、そんな……や、約束が……」
治奈の身体が、心が、ぶるぶると震えている。
血を半分吸い取られたかのように、青ざめている。
「研究班に、ゴミ処理させとくけど。大きくて、面倒くさがるかも知れないから、きみ持って帰るかい? 子供でも、自分から動かなくなると結構ずっしり重いんだよね。それでよければ、硬直する前に是非」
「うああああああああああああああああああああああああ!」
壁をも震わせ砕くかのような、胸の底からの、治奈の絶叫。
剣を、アサキから強引に奪い取っていた。
柄を握るが早いか、走り、飛び込んでいた。
至垂徳柳へと、渾身の力で叩き付けていた。
振りかぶり、振り下ろし、頭上へと、肩へと、胸へと、上から、横から、斜めから、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、狂い、吠え、喚きながら。
剣に込められているのは、明確な殺意。自分の手首こそが砕けてしまいそうなほど、激しく重たい剣をガムシャラに振るい続ける。
白シーツを纏った至垂は、片手に持った長剣で、まるで鼻歌交じりといった顔で楽々と防いでいたが。
「単調だなあ」
言葉の通り、退屈そうな笑みを浮かべると、至垂は長剣を軽く横に振った。
さしたる力を入れたとも思えない一撃であったが、しかし、
ガツ、
と硬いものを断つ音と共に、治奈が悲鳴を上げて、横殴りに飛ばされていた。身体がぐるり半回転して、壁に背を打ち頭から床に崩れ落ちていた。
また、苦痛の呻きが漏れると、床には大量の血が広がっていた。
治奈の右の太ももが、まるで途中に関節があるかのように、九十度曲がっている。そこから、噴水の如く血が噴き出しているのだ。
足が骨まで断たれて、薄皮一枚で繋がっている状態であった。
「治奈ちゃん!」
アサキは、声の裏返った悲鳴にも似た声で治奈を呼んだ。
駆け寄り、屈むと、切られた右足のすねと膝に手を当てる。
切断されてずれた大腿骨の位置を直しながら、もう治癒の魔力を帯びた左手が切断箇所へと翳されている。
「至垂! 至垂徳柳! 絶対、絶対に、お前を許さん! 生かしてはおかん!」
治療を受けていることも、気付いていないのだろう。
意識をすべて、恨み怒りの念として至垂へとどろどろと吐き出している治奈であるが、だが、あまりの酷い出血に、その意識がなくなり掛けていた。目の焦点がぼやけ、まぶたも力なく落ち掛けていた。
「休んでいて、治奈ちゃんは。……辛いと、思うけど」
切断箇所を癒着させるという、取り敢えずの処置を施したアサキは、ゆっくりと立ち上がった。
「わたし、いいましたよね」
至垂を、睨んだ。
「もしも、フミちゃんになにかあったら、絶対に許さないと。すべてを、リヒトを、滅ぼしてやるって。……いったはずだ」
「うん、確かに聞いた。でもさ、ほら、きみを超ヴァイスタにすることの方が、遥かに大事だから。それに比べたら、別にたいしたことじゃないでしょ」
ははははっ、と乾いた笑い声。
「なにを……いっている」
俯き立つアサキの、赤い前髪に隠れた顔から、ぼそりと、小さな、震える声。
「でも、友達の妹ごときじゃあ、きみは絶望はしないのかあ。……一、二年前にさ、赤の他人を守れなかった慚愧心からヴァイスタになっちゃった白田雉香って娘がいてね、大阪での話なんだけど。友人であったそのヴァイスタを、始末したことで、自分もヴァイスタになり掛けた慶賀雲音って娘がいてね。……そんな前例があるもんだから、ちょっと期待しちゃったんだけどね。ヘドが出るほど甘っちょろいきみだから、もしかしたらって」
楽しげに語るリヒト所長であるが、それはアサキの怒りという炎に油を注ぐだけだった。
「許さない……」
ぶるぶる震える顔を上げ、憎しみの眼光で至垂を突き刺した。
歯をぎりり軋らせると、引きつった唇を動かした。
「こんなことをしておいて、なにが『絶対世界『』だ。一人の尊厳を、微塵の躊躇いもなくこきおろしておいて、なにが支配だ、なにが神だ……」
床を強く、蹴っていた。
蹴ったその瞬間には、至垂の顔面がひしゃげて、後ろへと吹き飛ばされていた。
飛び込みながらのアサキの拳が、至垂の頬をぶち抜いたのである。
背中を壁に打ち付けた至垂は、がふっ、と呼気を漏らすと、ずるずる床へ落ちた。
足をつき壁にもたれ、信じられないという顔で、目の前に立つ赤毛の少女を見つめた。
「世界を云々、人間を云々、口に出すどころか、思う資格もない!」
アサキは絶叫に似た大声を出すと、近くに転がっている自分の剣を拾い、構えた。
「ちょっと油断した」
にやっと笑みを浮かべる至垂。
二人の眼光と眼光が、ぶつかり合った。
と、その時であった。
「アサキちゃん! 大丈夫! 明木さんの妹さんは無事だよ!」
聞き覚えのある、少女の声が聞こえたのは。
部屋の、反対側の扉が開いていた。
そこに立っているのは、天王台第二中学校の魔法使いである天野明子と、天野保子の姉妹。
それと、
「お姉ちゃん!」
涙目で姉を呼ぶ、まだ十歳くらいの女の子。
明木史奈であった。
2
「フミ……」
壁に背を預けて座り、とろんと重たいまぶたを落とし掛けていた明木治奈であったが、
「お姉ちゃん!」
そう呼び掛けられる声に、
「……フミ!」
不意に目がぱっと大きく開いていた。
信じられないといった表情を浮かべるも一瞬、ふらつく身体を頑張って、壁に手をつけ立ち上がった。
疲労と大量出血、さらには切断され掛けた足は応急処置であるため、色々身体がままならず、がくり膝を崩してしまう。それでも踏ん張り、生まれたての子鹿よりもぶるぶると激しく足を震わせながら、妹へと向かって歩き出した。
「お姉ちゃん!」
史奈も、天野保子と繋いでいた手を離すと、姉へと走り出し、胸の中へと飛び込んだ。
二人は、抱き付き合った。
強く、抱き締め合った。
温もりを、確かめ合った。
「無事じゃった、生きておった……し、信じておったけと、ほじゃけど……ほじゃけど」
姉は、ぼろぼろと涙をこぼしながら、ぐずぐずのみっともない笑顔を、妹の頬へと擦り付けた。
妹も、嬉しそうな、泣き出しそうな、くすくったそうな、ちょっと恥ずかしそうな顔で、笑い、身をよじった。
「あのね、白衣の人たちに目隠しされてね、注射だから苦しまないよおとか甘やかす声でいわれて、なんか分からないけどあたし殺されちゃうの? って思って泣いていたら、あのお姉ちゃんたちが助けてくれたんだ」
史奈が手のひらで差す、あのお姉ちゃんたち。
我孫子市天王台第二中の魔法使い、天野姉妹である。
「ほうか。ほうか。よかったのう。無事で、よかったのう。……ありがとうな、明子さん、保子さん。本当に、ありがとうな。生命の恩人じゃ」
ぼろぼろ涙をこぼし鼻水垂らして泣いているみっともない顔を、天野姉妹へと向けた。
「あたしにも、妹がいるからな」
明子は、照れたように鼻の頭を掻いた。
「じゃあ、じゃあ、あたしにもお姉ちゃんがいるからっ」
保子も、真似して鼻を掻く。
「意味が分かんないよそれ」
「だったら、お姉ちゃんの最初の言葉こそじゃないかあ。あたしらは最初から、いつも二人で戦っているのに」
「まあ、そうだな」
そんな姉妹の他愛ないやりとりに、治奈は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を、さらにぐしゃぐしゃに歪めた。
えくっ、としゃくり上げると、鼻をすすった。
足りず、もう一回すすった。
まだ、全身が震えている。
特に膝が、遠目からでも分かるほどに震えている。
大量出血のため、ちょっと前までほとんど意識を失っていたくらいなのだから当然ではあるが、だけど、いま身体が震えているのはそのためだけではなかった。
いっく、
また、しゃくり上げた。
「お姉ちゃんも、マギなんとかって魔法使い、なんだね」
抱き合いながらも、史奈が少し顔を離して、姉の着ている紫色の魔道着をまじまじと見ている。
魔法使いのこと、きっと天野姉妹が、史奈を助け出してここへ連れてくる間に、簡単に説明したのだろう。
どうせ後で、前後の記憶を消すからだ。
先に記憶を消してしまうと、状況が分からず混乱している中を連れ回さなければならないわけで、さりとて眠らせて運ぶのも大変だからだ。
「ほうよ。お姉ちゃんは、魔法使いじゃ。魔法で、フミを悪党から取り返しにきたんじゃ。大切な……大切な、妹、家族を」
疲労で立っているのもやっとであるというのに、さらに力強く、ぎゅっと妹の身体を抱き締める。
記憶を、消してしまうからこそ。
愛情を再認識したこの瞬間を、切り取られてしまうからこそ。
それでも消えずに残るほどの愛情を、無意識下に、その肌に、植え付けておきたいのだろう。
「フミ……お姉ちゃんは、フミのことが大好きじゃ。本当に、無事でいてくれてよかった」
恥ずかしい言葉を、いっておきたいのだろう。
だけど身体は生身、限界があった。
妹が助かり、ここに仲間もいることで、安心したのか、不意にぐらり崩れて、再び床に倒れてしまった。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん!」
史奈が、追い掛けて床に膝をつく。
不安な顔で、呼び掛け、腕をさすった。
「寝かせておいてあげて、フミちゃん」
アサキが、白シーツの至垂徳柳と剣先を突き合わせたまま、ちらり視線を横に動かした。
「お姉ちゃんね、頑張って疲れちゃったんだよ」
優しげな笑みを浮かべると、すぐに視線を戻した。顔を厳しい表情へと戻した。
反対に、リヒト所長の顔に笑みが浮かんでいた。
「家族劇場は終わった? いやあ、しかし驚いたねえ。助け出されていたとは、よもやよもや。まあ、どーでもいいけど」
笑んだ口元から、えひひっ、と下品な声が漏れた。
「ほんと間一髪だったよ。お前、最低だよな。こんな幼い子を、平気で殺そうとしてたんだからな」
天野明子、ムカムカを抑えられない、いまにも唾を吐き捨てそうな顔だ。
その言葉を受けて、隣にいる妹の保子が、プンプン顔で腕を振り上げた。
「そうだぞお。仮に、例え、もしも、やってることが実は立派だとしても、愛情なくやり遂げることなんて三流にも出来る。愛情抱いてやり遂げるのが一流なんだよ! お前は悪いことしてるくせに、やり口も三流なんだよ!」
「なにその妙な台詞? 誰の受け売り?」
「あたしがいま考えた」
えへんと胸を張る保子である。
「我孫子市の女子中学生は、能天気なのが多いな」
リヒト所長は、白シーツに身を纏ったまま、小馬鹿にするように鼻で笑った。
「そんなことはない」
アサキは否定する。
わたしは、彼女たちのこの明るさ、前向きさに、何度も助けられたのだから。
この姉妹も、ここへ向かう途中、きっとフミちゃんに楽しい話をいっぱい聞かせて、安心させていたんじゃないかな。
凄いよな、この二人は。
第二中のエースで、他校から引き抜きの声が絶えないという話。だというのに、まったく驕ることなく、誰にでも分け隔てなく、いつも明るくて、優しくて。
フミちゃんの件、わたしはずっと不安でたまらなかったけど、こうして何事もなく救出してしまうし。
不安でたまらない、といっても、治奈ちゃんの方が、もっとずっと、気が狂いそうなくらいだっただろうな。
本当に、よかった。
計画通りに、無事に助け出すことが出来て。
3
そう、わたしたちは、天野姉妹によるフミちゃん救出作戦のことを、知っていたのだ。
リヒト東京支部へと、最初に乗り込んだのは、わたし、カズミちゃん、治奈ちゃん、延子さん、祥子さんの五人。
本当ならば東京支部は東京の、本部は大阪の、地元中学高校の魔法使いを中心とした組織で、リヒトを糺すべく計画を進めていたらしいのだけど、フミちゃんが誘拐されたという緊急事態によって、余裕がなくなってしまった。
そのため、関係者の家族を助けるという利害もあって、わたしたちがまず向かうことになったのだ。
異空の空を飛んで向かっている途中で、須黒先生から通信が入って、第二中の残りメンバーが増援として遅れて向かうことを聞かされた。
その時に、天野姉妹を別働隊として、フミちゃん救出の本命に当たらせる、ということも聞いた。
だから、わたしたちもまずは隠密行動だけど、もしも目立つことになっても、それはそれで構わない、といわれた。
その分、天野姉妹が動きやすくなるからだ。
裏での救出作戦のことを知っていたから、だから治奈ちゃんも、至垂所長にあまりフミちゃんのことで食い付かなかったのだ。
逸る気持ちこそあれ、ある程度落ち着いて行動することが出来ていたのだ。
天野姉妹を信じて、時間を稼ぐために。
でも焦りからか治奈ちゃん、最後の方はかなり熱くなってしまっていたけど。
救出の計画に関しては、賭けといえば賭けだった。
最終的に助け出すことが出来たからよかった。
けど、その時間稼ぎのため、何人もの犠牲者が出てしまったわけで、治奈ちゃんは、きっと、ずっと悔やむことになるのだろうな。
討伐作戦の開始が早まっただけだ、なんて、とても割り切れないだろうからな。
治奈ちゃんも、
そして、わたしもだ。
そう、わたしも、犠牲になった子たちに対して、申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになっている。
もしかしたら、その気持ちは治奈ちゃん以上かも知れない。
だって、今回の件は治奈ちゃんが発端じゃないからだ。
わたしを超ヴァイスタにしようという、至垂所長の世界征服的な野望によるものだからだ。
仮にわたしが存在しておらずとも、所長は別の誰かに同じようなことをするだけ。
でも、それはそれ、これはこれだ。
わたしの罪、というか重たい気持ちが軽くなるわけじゃない。
わたし自身はなんにもしていない。と、理屈では割り切れても、でも申し訳なさを感じずにいられない。
悔いずにいられない。
自分の無力さを、痛感せずにいられない。
悲しい気持ちになる。
もっとなにか、出来たのではないか。
誰も死なずに、済んだのではないか。
もしも、あの時……
もしも、わたしが……
たらればの言葉が、いくらでも頭に浮かぶ。
でも、
でも、
それは明日だ。
ここでのことが、すべて終わってからだ。
溢れるほどの後悔を胸に深く刻みながらも、泣くのは明日。
いまは、まったく関係のない小さな女の子が犠牲にならずに済んだ事実を、喜ぼう。
4
「なにが嬉しくて悲しいのかね」
白シーツを纏った至垂徳柳が、つまらなそうに尋ねた。
アサキは、笑顔で涙ぐんでいたのである。
床に倒れている治奈、膝をついて手を取っている史奈の姿に。
「しかし残念だ。まったく、余計なことをしてくれるよ。きみら二人は」
至垂は、ふんと鼻を鳴らし、天野姉妹の顔を見た。
「明木くんの魂が絶望したら、令堂くんとはまた別の面白いヴァイスタになるかな、って期待していたのになあ」
ははは、と感情の読めない笑い声を出した。
「お、お前の、思う通りになど、ならんわ!」
床に横たわっている治奈が、苦しそうな顔で、薄目と口を開いた。
「大丈夫? まだ寝てないと駄目だよ」
隣で膝をついている史奈が、不安そうな表情で、姉の手をぎゅっと握った。
「心配いらん。お姉ちゃんは魔法使いゆうたじゃろ。強いけえね」
治奈は、まだ体力が回復していないだろうに、ゆっくり上半身を起こすと、妹へと微笑んだ。
自分の胸を、どんと叩いた。
起きたついでとばかり、床に手をつき、険しい顔で全身をぶるぶると震わせながら、身体を立ち上がらせた。
「もう……観念したらどうかのう?」
ふらふらと足元が頼りないが、怒りからの気迫にぐっと踏ん張り、至垂の顔を睨み付けた。
「そして、悔い、土下座して詫びろ。なんの罪のない史奈へと、したことを。これまでの非人道的な実験の数々を。世界を思うままにしようなど、身に余る野望を抱いた傲慢を」
ふらふらと頼りなく、でも毅然とした、怒気を含む表情で、アサキの横へと並んだ。
「そうそう、あんた令和に生きる人類の中で、一番ダサいんだよ」
天野明子は、軽口なのか重口なのかを開きながらも、すっと動いて、リヒト所長を逃さじと背後へ回り込んだ。
「フミちゃんはあ、危ないから向こうの壁際のところにいてくれる? すぐ帰れるから、ちょっとだけそこにいてね」
天野保子は、史奈へ優しい声と笑みとでお願いした。
史奈が頷き壁へと向かうのを確認すると、自身も小走り、姉である明子の横に立って気合満面ナイフを構えた。
「四人で取り囲んだから、形成有利は決定的、というわけ?」
虚勢か自信か、至垂は鼻で笑う。
客観的には、リヒト所長の圧倒的劣勢であろう。
アサキと治奈は手負いであるが、だが腐ってもアサキである。
さらには、まだ戦闘をしていない無傷の天野姉妹がいるのだから。
だというのに至垂からは、恐れ、不安は、まったく感じられない。
それは、気味の悪いほどに。
と、ここでさらなる状況の変化が起きた。
ゲームを楽しもうと至垂があえて招いた、というわけではもちろんないだろうが、客観的な至垂の不利劣勢が加速する、そんな事態が起きたのである。
不意に部屋の扉が開き、
「至垂徳柳! お前にくみする幹部や科学者たちは、みな捕らえた。お前も、もう諦めて、おとなしく投降しろ!」
五人の、白服の女性たちが入ってきた。
全員、アサキが一度も見たことのない顔だ。
少女というよりは女性といった、大人びた顔。
みな大柄で、みな髪の毛は短くうなじを刈り上げており、一見すると男性だ。
真っ白な魔道着は、上下ひと繋ぎという風変り。首から下は肌の露出がまったくなく、宇宙服をスリムにした感じといったSFめいた服である。
五人それぞれ、右手には剣を持っている。
左は素手だが、腕には小さな盾が取り付けられている。
みな、胸に五芒星のバッジをつけている。
それに気が付いた至垂は、
「広域作戦班か」
ふん、と鼻で笑った。
広域作戦班、略して広作班。
メンシュヴェルトの指揮系統上層部に、直属している魔法使いたちであり、リヒトでいう特務隊に似た存在だ。
「我孫子天王台の、中学生の魔法使いたち、よく至垂徳柳を足止めしていてくれた。礼をいうよ」
突然の新顔飛び入りに驚き戸惑っているアサキたちへと、広作班の一人が涼やかな笑みを見せた。
アサキたち四人はまだ状況を理解出来ず呆然と突っ立っていたが、ここで追い打ち掛けるように彼女たちを驚き惑わす、いや、驚き歓喜させることが起きた。
「遅れてすまねえ!」
また扉が開いて、青い魔道着を着たポニーテールの魔法使いが、叫ぶにも似たけたたましい大声を張り上げながら飛び込んできたのである。
青い魔道着、昭刃和美である。
彼女に続いて、さらに銀黒髪に銀黒魔道着の嘉嶋祥子が、
そして、文前久子を始めとして第二中の魔法使いたちが、ばたばたと部屋へ入ってきた。
みな、魔道着がすっかりボロボロである。
強化プラスチックの防具は砕け、頑丈なはずの魔道着繊維も裂けに裂けて、よく見ると裸に近い格好。よく見なければそうと分からないのは、みな自分自身の血と傷とで皮膚が真っ赤に染まっているからだ。
驚きの追い打ちに口が間抜けな半開きになっているアサキであったが、やがてその顔に、じんわりと笑みが浮かんでいた。
「無事だと、思っていた」
カズミの顔を見ながら、嬉しそうに目を細めた。
友の優しい視線を受けたカズミは、ちょっと恥ずかしそうに鼻の下を掻きながら、唇を釣り上げた。
「死んでも死なねえんだよ、このカズミ様は。とはいえ、危ないとこだったけどさ。この広作班の姉ちゃんたちが加勢してくれて、なんとか勝てたんだ」
魔道器と呼ばれる、魔道の力に優れた人造人間、その一人である長戸寛花にアサキたちは襲われてゆく道を塞がれたのだが、カズミたちは、アサキと治奈を先に行かせるために残り、戦っていたのだ。
それがどれほどの激戦であったのか。
少しやつれた顔、まだ整い切れていない呼吸、ズタボロになった魔道着を見れば一目瞭然だ。
ただ、加勢を受けて勝てたとカズミはいっているが、その広作班がどう見ても無傷なのを考えると、ほとんど加勢は必要なかったのでないだろうか。
つまり、この戦いの中で、カズミたちも急速に成長しているのだ。
「ん……」
荒い呼吸をしながらカズミは、視線をアサキからすっと横へ動かした。
その瞬間、びくりと大きく肩を震わせた。
「女だったのかよ、こいつ!」
リヒト所長至垂徳柳の姿を、今やっとまじまじと見たのである。
白シーツを巻き付けているため、先ほどと違ってもう裸ではないし、男性顔負けの隆々とした筋骨であるが、やはりこうして線がはっきり出る姿ともなれば、女性らしさは隠せない。
アサキは、カズミの言葉に小さく頷いた。
「そう、わたしを作ったプロジェクトメンバーの一人であり、わたしと同じ女性型の……キマイラだ」
「作った? キマイラ? はあ? なにいってんだお前!」
カズミの、疑問や驚きも当然だ。
アサキと至垂が魔道器たるべく創造された合成生物であること、この中ではまだ治奈しか知らないことなのだから。
「そんな話は後だよ」
つい自分で振っておきながら、アサキはピシャリと締めた。
「ああ、そうだな。なにがどうであれ、やるこたあ変わんねえ。おい、そこの至垂とかいう男女、年貢を納める覚悟は出来たのか?」
いいながらカズミも、アサキたちや広作班の魔法使いたちと一緒に、リヒト所長を取り囲む輪に加わった。
人数や、装備の上では、どう考えても至垂の方が不利。
しかし相変わらず、彼女からは、まったく焦りが感じられない。
強がりであるのか、策あっての虚勢なのか。
それが分かるのは、数秒後のこと。
それは、この言葉から始まった。
「では、その年貢とやらを納めてあげるが。きみたちも、受け取る覚悟はある、ということでいいんだよね? いや、後から文句をいわれても、お互いに嫌な気分になるから念のため」
と、謎めいたこの言葉から。
5
「えっと、一つ前置きしておこう。わたしも一応のところ、きみらと同じ『女』であるわけだが。さて、このことが、どのような意味をもつか、きみらに分かるかね?」
至垂徳柳は、にやりとわざとらしい笑みを浮かべた。
その手か、手の中にあるなにかが、部屋の淡い光を受けて鈍く光った。
いつからであったのか。
女性としては非常に大きなその無骨な手の中に、機械だかなんだか小さな物が握られていた。
それがなんであるのかいち早く気が付いたのは、広作班の建笠武瑠であった。
「クラフト持ってるぞ!」
叫ぶ自分の声を追い抜く速さで、至垂へと身体を飛び込ませながら、両手に握った剣を振り下ろしていた。
手の中の物を叩き落とそうとしたのか、腕ごとぶった切ろうとしたのか、それは本人のみぞ知るであるが、いずれにしてもその攻撃は軽々と避けられて、虚しく空を切るだけだった。
「いやあ危ない危ない」
半歩下がって紙一重でかわした白シーツの至垂は、しらじらしい涼やかな笑みをより強めると、両手を高く上げた。
掴む右手の隙間から、真っ白な光の粒子が吹き出した。
中に握られているクラフトから、激しい勢いで。
あまりの眩しさに直視出来ないほどの、強烈な光であった。
「変、身」
その輝きに、ぼそりとした声を乗せながら、至垂は両腕を下げて、胸の前で交差させる。
化粧道具のコンパクトに似たクラフトの、側面ボタンをカチリ押し込んだ。
爆風。
豪風。
烈風。
踏ん張らねば文字通り吹き飛ばされかねないほどの激しい風が吹いて、アサキたちの髪の毛がばさりばさりと激しくなびく。
至垂の全身から、魔力の粒子が吹き出しているのである。
体内に宿る莫大な魔力の、ほんの一粒、一握りが、ここまで凄まじい光を発しているのである。
全裸にシーツを巻き付けていた至垂であったが、目も眩む輝きによる逆光シルエットの中、そのシーツは吹く風に溶けて消える。
金色に輝く光がうねりながら集束して、大柄で筋肉質な彼女の肉体を包み込んでいく。
まとわりついた光は、質量を帯びた繊維状へと変化して、スパンデックスのレオタードに似た外観で全身を包み込む。
色はダークグレー。生地としては純白なのだが、黒い魔法文字が米粒大にびっしり書き込まれているため、そう見える。
頭上に浮かび回っているのは、岩石大の塊。それが不意に四散して、胸、首、腕、すね、防具として装着されていく。
さらに、ふわりと上着が落ちる。
男性の衣服であるモーニングや、薄地のコートにも似た、ただし袖のない服が、ふわり。
上半身を前に倒して、背中越しに腕を上げて通すと身を起こし、右腕を上げ、頭上からくるり回転しながら落ちてくる長剣の柄を、見もせず掴み取った。
目も眩む輝きが消えて、豪風がおさまった。
一変して、しんと静まり返った部屋の中。
その中央には、白銀の魔道着に身を包んだ至垂徳柳の、威風堂々たる姿があった。
「魔法使い徳柳……とでも名乗っておくべきなのかな。語感が悪いから、遠慮しとくけど」
あははははは、っと自分の台詞に受けて楽しげに笑っている間に、魔道着姿の至垂は囲まれていた。
広作班の、五人に。
誰の合図もなく動き出し取り囲んだ五人は、身を低くし、右手の剣と、左腕に装着された盾とを、油断なく白銀の魔法使いへと構えた。
はっと目の覚めた顔でカズミも、遅れてアサキや祥子たちも、慌てて武器を握り直して一歩を踏み出すが、
「我々だけでいいよ。せっかくのところ悪いけど、手負いの者たちはむしろ邪魔になる」
リーダーの仁礼寿春が、左腕を上げて協力を拒否した。
広域作戦班、略称広作班とは、メンシュヴェルト上層部直属の、文武と魔力に秀でた、いわゆるエリート魔法使いである。
ここにいるメンバー五人とも、背が高くがっしりしており、顔付きも大人っぽく、威厳がある。
おそらくは、高校生なのであろう。
通例において、魔法力は二十歳程度になると、急速に失われてしまうのだが、その時がくるまでは年齢に伴って成長する。
もちろん鍛練による成長もある。
つまり素質が同じならば、中学生より高校生の魔法使いの方が優れているということに他ならない。
現に、カズミたちに助っ人参加で、長戸寛花という魔道器魔法使いと戦っているというのに、五人が五人、肌にも服にもどこにも損傷がない。
確かに、リーダーである仁礼寿春のいう通り、ここは彼女たちに任せた方がよいのかも知れない。
手負い云々関係なくとも、連係の邪魔にもなりかねない。
そう考えて、
「じゃあ、ここはお任せします。気を付けて」
アサキは一歩引いて、剣を下ろした。
状況が状況であるため、顔はまだガチガチに緊張の色を浮かべたまま。
だが、少なからずの安堵もしていた。
楽になれるという嬉しさがあった。
だって、ここまでの間ずっとほぼ一人で至垂と剣先を突き合わせていたのだから。
すっかり緊張の糸が切れて潰れてしまうところだったけれど、これで少しは、糸の補強が出来そうだ。
とはいっても、もうわたしなんかの出る幕はなくて、あとはこの人たちに任せておけばいいのだろうな。
そんなことを思いながら、せめてこのくらいは、と心の中で安堵のため息を吐くアサキであるが、吐き終える前に戦いは終わっていた。
「う……」
アサキの、呻き声。
驚愕の事態に、目を見開いて身体をぶるり震わせた。
周囲、カズミたちも同じような反応であった。
あまりの驚きに、言葉が出ないどころか、思考すら麻痺してしまっているのかただ呆けた顔で立っている。
至垂の足元四方に、広作班の五人が無様に倒れている、という光景に。
五人は、みな身体を切り裂かれている。
床を赤く染めている。
白い、つなぎの魔道着はズタボロで、覗き見える皮膚もぐちゃぐちゃであった。
一人は、右腕を切断されている。
一人は、太ももが皮一枚で繋がっているだけで、動脈から大量の血を噴き出している。
各々染め上げる血が、どんどん広がり繋がって、床は広大な、真っ赤な海と化していた。
凄惨な有様。
それ以外に、どう表現しようか。
「読み、違えていた。……まさか、ここまでの力とは」
うつ伏せに倒れている、広作班リーダーの仁礼寿春が、力なく顔を上げる。
悔しそうに、歪んだ口を開いた。
広大な海の中央に立つ白銀の魔道着、至垂には、まったく息を乱す様子もない。変身前からの見下した薄笑いのまま、下げた長剣を緩く握っている。
なんという強さであろうか。
僅か一瞬のことではあるが、アサキにははっきりと見えていた。
攻防を、というよりは、白銀の魔法使いが広作班の五人を一方的に破壊していく様を。
なにも特別なことはしていない。
剣をかわしざま、その剣や持つ腕をとんと押して勢いを加速させ、相打ちをさせる。
それを繰り返しただけだ。
目に追えないほどの、手の動きや足さばきで、正確に。
おそらくは、自分以外の誰にも、見えていなかったのではないだろうか。
瞬きをしたら、みなが倒れていた。そう見えたのではないだろうか。
白銀の魔道着が持つ魔力調整能力と、本人の人類ならざる者つまり魔道器としての潜在力、その相乗や恐るべき。
だがアサキには、強さへの驚きそれ以上に、至垂の表情が許せなかった。
人を切るということに、生命の奪い合いをするということに、何故そんな楽しげに微笑んでいられるのか。
なんだと思っている。
人間を。
魂を。
自分と同じ、魔道器であるというのに、
不本意ではあるが、ある意味では、自分の親ともいえる存在であるのに、
何故にこうも、性質が相容れないのか。
こうも自分の野心しかないのか。
なにが「絶対世界」だ。
なにが神だ。
「弱者は朽ちて、凄惨をより高める糧となれ!」
白銀の魔法使い、至垂は、笑いながら剣を振り上げた。
真っ直ぐ、振り下ろした。
血の海の中、腕を切り落とされた痛みに顔を歪めている、広作班の一人へと。
より凄惨を高めるための、とどめの一撃。
最後まで振り下ろされていたならば、きっと首が転げ落ちて、狂気の言葉は有言実行となっていただろう。
だが、その一撃は、
ガチリ
火花を散らせて、アサキの持つ剣に受け止められていた。
6
「身勝手な、理屈ばかり。さっきから、わけの分からない、言葉ばっかり」
がっしりと剣で力強く受け止めている、といえるならばいいが、単純な筋肉量では至垂徳柳に遥かに劣るアサキであり、いささか頼りなく見える。
実際、剣の重みにじりじり押されている。
だが、眼光では負けていない。
普段は温厚で優しいアサキであるが、現在、あまりに過ぎた言葉や行動の理不尽に、怒っていたから。
そして、必死だったから。もう誰も、無駄に生命を落とさないで欲しいと必死だったから。
「精神土俵の相違を否定されても困るなあ。身勝手、って、それはどっちが……」
また、アサキにいわせると、わけの分からない至垂節。を吐こうとする彼女の、その大柄な身体の背後から、
「うぇやあっ!」
青い魔道着、カズミの雄叫び。
身を跳躍させ、一撃必中そして必殺を胸に刻んだ、躊躇いのない表情で、握っているエンチャントに青白く輝くナイフを振り下ろ……そうとしたその時には、既にカズミの身体は、然るべき場所、然るべき位置になかった。
壁の中である。
青い魔道着ごと、砕かれた壁の中に大の字で、完全に埋もれていた。
口から血を噴き出した。
意識を失うことを激痛に妨げられ、顔を醜く歪めながら、吐いた自分の血で、がふっとむせた。
なにが起きたのか。
白銀の魔法使い、至垂の、後ろ回し蹴りを受けたのだ。
カズミが構える二本のナイフ、その隙間から、胸を素早く正確に打ち抜かれたのだ。
飛び込もうとする勢いと相まって、つまりカウンターの一撃となったのである。
男性顔負けの巨体である白銀の魔法使いは、自ら放った回し蹴りの勢いを利用して、アサキの剣を弾き上げた。
そうして隙を作りつつ、さらにくるり回って振り返ると、長剣の柄を両手に握って壁へ、大の字にめり込んだままの青い魔法使いへと、床を蹴って身体を飛ばす。
「くそ、動けね……」
叩き込まれた壁の中を、必死にもがくカズミであるが、仮に動けても防御体勢が間に合うはずもない。
突き出される長剣の切っ先が、音もなく空気を切った。
「カズミちゃん!」
叫び、必死に動こうとするアサキであるが、志垂によって体勢を崩されており、こちらも間に合うはずがない。
観念したか、ぎゅっと目を閉じるカズミであるが、長剣の切っ先が胸を一突きにする寸前まさにコンマ何秒、
「せやっ!」
明木治奈の叫び声。
わずかカズミの身体をそれた切っ先は、壁へ深々と突き刺さっていた。
治奈の正拳突きが、長剣を側面から叩いのだ。
「カズミちゃんっ、だいじょう……」
剣が壁に深く刺さっている間に、カズミを引っ張り出そうと手を伸ばす治奈であるが、言葉いい切らぬうちにその顔面がぐしゃり重たい音と共に潰れて醜く歪んでいた。
頬に、女性とは思えない大きく無骨な拳が、叩き込まれたのである。
ははっ、と笑いながら白銀の魔法使い至垂は、返す拳で治奈をもう一度殴り、続いて髪の毛を掴んだ。
掴んだまま、パンチをするように突き出して、治奈の顔面を、まだ壁に埋もれているカズミの顔面へと、容赦なく叩き付けた。
カズミは壁の中で意識を失い、治奈も、カズミの血が付着して赤く染まった顔で、やはり意識を失って床に崩れた。
「化け物め!」
銀と黒の髪、銀と黒の魔道着、嘉嶋祥子が、得物である柄のない巨大な斧を、怒鳴り声を張り上げながら、投げた。
大人の頭部より、遥かに大きな、巨大な斧を。
ぶうん、と低い唸りを上げて飛ぶが、化け物にとって脅威どころか退屈しのぎの運動にもならなかった。
至垂は、巨斧側面にある拳大の穴に手を入れて、くるり方向を変えて、かつ勢いを倍加させて、なんの苦もなく祥子へと投げ返したのである。
祥子もまさか、自身のトレードマークともいえる世に二つとないこの特注武器で、自分が攻撃されるなどとは思いもしなかったことだろう。
驚き、慌てながらも、軌道や回転を見切って、側面の穴に手を入れ、しっかと受け止めたまでは、さすがは元リヒトの特使候補、その実力というところであるが、
「ぐうっ」
倍加されている斧の勢いは、想像を遥か超えていたようであり、暴走トラックに跳ねられたかのように、軽々と飛ばされて、壁に背中を激しく叩き付けられた。
それでも斧の威力はまったく衰えず。掴んでいる祥子の腕をもぎとるかの勢いで、側面の穴を軸に大きく回転して、壁を砕く。
砕きながら一周して、戻ってきた刃が、背後から祥子の脇腹へとざくり深く切り込まれて、ようやく動きが止まった。
「ぐっ……くそ、なんてこった」
激痛に呻きながら、呪う言葉を吐く祥子。
内臓が見えそうなほどに、ざっくり深く切り裂かれた脇腹から、どろりと血が流れ出した。
「そんじゃあ、あたしらでやったろかっ!」
黄色の魔道着の魔法使いが、鼓舞するためあえてなのか緊張感のない軽い口調で、白銀の魔法使いへと飛び込んでいった。
両手に、それぞれ三日月刀を構えている、我孫子第二中の二年生、宝来暦である。
「久子先輩っ、祥子ちゃんたちの治療を頼んます!」
水色スカートの魔道着、嘉納永子が、やはり、あえてだか緊張感のない声で、宝来暦と肩を並べた。
スカート型が特徴の、第二中魔法使い。二人が同時に、白銀の魔法使い至垂徳柳へと襲い掛かった。
だが、数がいれば勝てるものでもない。
緊張していなければ勝てるものでもない。
内心では誰より緊張していた二人であるのかも知れないが、どちらであれ、結果が変わるものでもなかった。
能力の違いが、あまりにも圧倒的絶対的な大差であったからだ。
人が蟻と戦うに技が必要であろうか、というほどの、絶対的な能力差。
至垂がぶんと振り回す、丸太よりも太い足に、二人まとめて横から蹴り飛ばされてしまったのである。
ぐじゃららっ、嫌な音と共に絡み合った二人は床に叩き付けられた。
骨の何本か、折れたかも知れない。
魔道着を着ているというのに。
着ているからこそ、その程度で済んでいるともいえるが。
「いてて……」
「うちらが、治療が必要な立場になっちゃったあ」
絡み合ったまま、激痛に顔をぐしゃぐしゃに歪め、しかしなお軽口をいい合っている二人。劣勢を自覚しているからこその態度なのかも知れないが、空回りに少し虚しくすらもあった。
「だったら今度は、あたしとお姉ちゃんの連係だあ!」
オレンジ色の魔道着、赤色のスカート、天野保子が勇ましく叫び、激しく床を踏み付ける。
白銀の魔法使いは無言のまま、「きなさい」とでもいうような、余裕の笑みを浮かべ、人差し指で手招きちょいちょい。
「本当は、魔法使い同士で戦いたくないけどな。……仕方ない。いけすかねえ顔の乗ったヴァイスタだと思えば、同じことか」
えんじ色の魔道着に、赤色のスカート、保子の姉である天野明子が身を低くし、白銀の魔道着を睨みながら剣を構えた。
「同じことの意味が分からないけどお、お姉ちゃん」
「分からなかったら辞書を引け!」
双子の姉妹は、姉の明子を先頭にした一列になり、白銀の魔法使いへと突進する。予備動作も示し合わせもなく、いきなり全力疾走で。
走りながら明子が、小さく振り上げた剣を、身構える至垂の長剣へと叩き付けた。
がちっ、
と火花。
叩き付けた部分を軸にして、ふわりと身体が舞い上がる。
至垂の頭上で、月面宙返りだ。
と、至垂の目の前、いや眼下、床低くから身体を浮き上がらせつつ、飛び込む妹の保子。
ヴァイスタ戦の際によく見せる、姉妹による連係攻撃である。
上から明子が回転の勢いで剣で叩いたり蹴りを放つと同時に、下から妹が爪先に仕掛けた刃物か手にしたナイフで切り裂くのだ。
飛び上がった明子は天井をとんと蹴って、真っ逆さま垂直落下しながら、至垂の首へと剣を叩き付けた。
相手がヴァイスタであったならば、妹の攻撃を待つことなく、この一撃で決まっていたかも知れない。
と、いうからには、決まらなかったのである。
通じなかったのである。
明子の攻撃は、白銀の魔道着を着た至垂の前には。
至垂は、頭上から自分へと叩き付けられようとしている剣を、何ミリ、コンマ何秒、といった完璧な精度、タイミングで見切り、切っ先を二本の指でつまんで引っ張ったのである。
不意に引かれて焦る明子の、逆さまの身体を、がっしり両手で脇を掴んで、足元に迫る保子の頭上へと叩き落としたのである。
どぐっ、
頭と頭がぶつかり合って、骨も折れたかという嫌な音が響いた。
床に絡み合って意識を失っている、姉妹の姿。
第二中の誇るエース姉妹も、至垂の前には赤子程度の存在感すらも発揮出来なかった。
「連係があ、とか要するに仲良しごっこかい? もっと仲良くなれるように、手伝ってあげよう」
長剣を逆さに持ち変えた至垂は、
「一つに繋がれたら満足だろう」
絡み合ったまま意識を失っている天野姉妹へと、微塵の容赦もないどころか、むしろ喜悦の笑みすら浮かべて、床ごと貫かんばかりの勢いで、切っ先を落としたのである。
だが、次に聞こえる音は、骨を断つ音ではなかった。
肉を裂く音ではなかった。
響いたのは、
ぎいん
金属同士が、ぶつかり合う音であった。
そして、床に硬い物が刺さる音。
楽しげであった至垂の顔が、玩具をお預けされてちょっとつまらなさそうな、子供の表情に変わっていた。
落とす長剣の切っ先が、弾かれたのである。
そらされて、なんにもない床に剣は突き刺さったのである。
赤毛の少女、アサキが、天野姉妹と白銀の魔法使いとの間に入って、剣を握り、はあはあと息を切らせている。
「充分に、休めましたから。後は、わたしが、一人で戦います」
至垂へと強い眼光を向けていたが、ちらり視線を離して、仲間たちの顔を見た。それは決意を伝えるためかなんなのか、自分でも分かっていなかったが。
分かっていること、
正直、まったく休めてなどいないということ。
至垂へ挑む者が、ことごとく、一瞬で返り討ちに遭ったため、体力どころか呼吸を整える時間も貰えていない。
でも、やらなければならないんだ。
立ち向かわなければ、ならないんだ。
わたしが。
だって、もう誰にも犠牲になんかなって欲しくないから。
それに、そもそも、こんな状況になっている責任は、すべてわたしにあるのだから。
7
そう、甘いことばかりを考えていて、すぐに捕まえなかったからだ。
最初は、至垂所長が男性であると思っていたから、つまり魔力を持たない非戦闘員が相手だから戦えないと思っていた。身辺警護の魔法使いだけ、倒せばよいと思っていた。
それにしたって、いい訳にはならないけど。
とにかく、女性であると、わたしと同じキマイラであると、分かったのならば、こうなることだって想像は出来たはずだ。
そこで冷静な対処をしなかったから、ここまで事態が長引いてしまっている。
全部、わたしのせいだ。
だから、こうして一人で戦うのが、せめてもの罪滅ぼしだ。
どのみち、まともにやり合えるのは、わたししかいないのだから。
「ま、そうやってきみが剣を握るしかないよね。魔法が使えるとはいえたかが人間ごときでは、わたしにとって無人も同然だからね」
白銀の魔法使い至垂が、アサキへと同情の苦笑を向けた。
「わたしも人間です。ただ生まれ方が違うだけだ」
こんなことをここで主張して、なにがどうなるものでもないことは分かっている。
でも、いわずにいられなかった。
だからあなたも人間でしょう。など訴えようというつもりはない。
人間かどうかは、心、魂で決まるものだと思うから。
「へーえ」
至垂の嘲笑。
こういう人なんだ。
仮に本当の人間であるとしても、でも、人間ではない。
心に訴えるなどしなくてよかった。
そんなことよりも……
アサキは、剣を両手で持ち、正面に構えた。
いま果たすべきことを、果たすために。
「ようやく本気で、わたしを倒しにくるつもりになったかい?」
白銀の魔法使いが問いに、赤毛の少女は無言であったが、やがて、おもむろに口を開いた。
「あなたを倒したから平和な日々がやってくる、とは思わない。だけど、そうしなかったら、始まらない。それこそ、歪んだ野心にこの世が絶望に包まれる。そう分かったから」
あなたとの、短い問答で、もう充分過ぎるほどに。
「ならば、わたしの歪んだ野心とやらを、その清らかなる信念で見事砕いてみたまえ。……まあ確かにね、単純な戦闘力ならば、初期ロットに近いわたしなどよりも、きみの方が、遥か上のはずだ。……でもね」
白銀の魔道着を着た巨体が、そよ風に揺らめいた。
と見えた瞬間、迫っていた。
予備動作もなにもなく、アサキへと迫り、アサキへと長剣を突き出していた。
突き出す剣の動きにアサキが反応し、防御体勢を取ろうと身構えた瞬間、白銀の魔法使いは口からなにかを吹き出した。
濃い紫色のそれは、霧状に四散した。
驚きつつもアサキは、瞬時に身を引きながら顔をそむける。
不気味な飛沫が顔面へと浴びせられるのを、ぎりぎりでかわした。
かに、見えたが……
苦痛に歪む、アサキの顔。
驚き、動揺した表情で、左手でそっと右目を押さえた。
「目が……」
なにかが付着したようで、右目に激痛が走る。
自浄作用に任せようと、そえた手を離し、至垂へと警戒なく身構える。
右目から、じゅわり溢れた涙がどろりとこぼれた。
涙で曇るのとは関係なく、右の視界がかすんでしまっている。
霧状の液体は、毒成分だったのだろう。
かわしたつもりだったが、かわしきれなかったのだ。
「でも……」
負けるわけにはいかない。
きっ、と残る左目に強い眼光を走らせて、正面を、白銀の魔道着を、それを着る至垂徳柳を睨んだ。
「どうだ!」
喜悦の笑みを浮かべながら、白銀の魔法使い至垂が飛び込んで、長剣を打ち下ろす。
身構えるアサキの剣へと、ガンと叩き付ける。
ぐっ、
と呻きながら、受け止めるアサキであるが、男性顔負けの凄まじい筋肉量にぐいぐいと押し込まれる。
重みに、膝が震える。
勢いに、腕が痺れる。
「戦いへの慣れや年季、そしてなによりも、目的を果たす覚悟が違う!」
「羞恥の麻痺していることを覚悟とはいわない!」
アサキは怒鳴り声で自らを奮い立たせると、渾身の力を腕に込めて剣を振り上げた。
長剣を大きく弾き上げ、跳ね返していた。
自らの小柄な身を踏み込ませて、返す切っ先の一振り、そして二振り。
「覚悟とは、乗り越える心の強さだ!」
三振り、四振り。
勢いで、至垂を後退させる。
「ならば止めてみろ」
剣で受け流しつつ後退しながらも、余裕の笑みを、白銀の魔法使いは浮かべている。
だが、
笑みそのものは、同じであるはずなのに……
赤毛の少女に打ち込まれるたび、至垂の、笑みの内面にある質が、変化していく。
笑みの形状は同じでも、厚みが、どんどん薄くなっていく。
実質の余裕が、どんどん失われていく。
見る者たちがそのように感じるほどに、振るうアサキの剣撃が、白銀の魔法使いをじりじりと追い詰めていた。
完全に、アサキが押し込む展開になっていた。
片目を負傷しているというのに、いや既に、その目も治癒していた。
戦いながら、非詠唱魔法を使っていたのだ。
「やっちまえアサキ!」
声援を送るのは、カズミの大声。
アサキは、正面の至垂へと眼球そらさず集中しつつ、横目に映っているぼやけた映像に少しだけ意識を向けた。カズミへと。
既にカズミは、壁の中から引き出して貰って、治奈ともども広作班の者たちの治療を受けているようである。
無事でよかった。
と、まずはほっと一息のアサキである。
後顧の憂いというほどではないが、この一安心に一気に攻めてかたをつけてやる、と勢いを上げようとするアサキであったが、ここで予期せぬことが起きた。
積もる疲労に目がくらみ、足をふらつかせてしまったのだ。
その隙を、至垂徳柳ほどの者が見逃すはずもなく。
アサキの剣は下から叩かれて、くるくる回りながら跳ね上がっていた。
瞬間に勝負は決した。仕留めるだけだ。
とばかりに白銀の魔法使い至垂は、飛び込みながら斜め上から長剣をアサキの身体へと叩き付ける。
喜悦の笑みを浮かべながら。
だが、ぴくり痙攣し、その笑みは一瞬にして一転、驚きに目を見開いていた。
至垂の一撃を、振るう剣の切っ先を、赤毛の少女は、素手で、二本の指で、つまんで受け止めていたのである。
受け止めつつ、赤毛の少女はもう動いていた。
左足を軸に、身体を回転させた。
至近距離、見えないところからのハイキックに、至垂徳柳の顔面が、ぐしゃりと歪み、潰れていた。
「ぐぁ!」
ついに、演技ですらも笑みを浮かべていることが出来なくなったか。壁に背中を叩き付けられた白銀の魔法使い至垂の、苦痛に歪んだ顔と、悲鳴。
アサキの攻撃は、まだ終わらない。
跳ね上げられていた自分の剣が、天井から落ちてくるのを掴み、握ると、壁へと、白銀の魔法使いへと、床を蹴った。
「はああ!」
気合を込めた剣の一閃。
目の前の壁が、爆音を立て四散した。
至垂を狙った一撃であったが、既にそこに彼女の姿はなかった。彼女は舌打ちしつつ、ぎりぎりでかわしていたのである。
そのアサキの大振りを隙と見たか、至垂は奇声を張り上げながら身体ごと剣を突き出した。
その行動は想定内だ。
アサキの左拳が輝くと、その輝きが瞬時にして薄い円形に広がった。
五芒星魔法陣による、魔法の盾である。
その盾で、至垂の渾身の突きを受け止めていた。
受け止め、押し返しながら体勢を整えて、アサキは反撃へと転じる。
振って、突いて、払って。剣を両手に握り直して、さらに踏み込み、さらに攻勢を強めていく。
白銀の魔法使いは、なんとか剣で防いではいるが、自分より遥かに小柄な少女の勢いを止められず、じりじりと後ろへ下がっていく。
先ほども見られた光景であるがその時の至垂は半ば演出的、現在の彼女至垂にはそうした余裕は微塵も感じられなかった。
「バカな」
無意識にだか、漏れる至垂の声。
これまでは本心を顔に出さず、笑みの中にすべてを隠していた。
立て続く驚きと屈辱の連続に、そうした感情からの表情を上手く隠すことが出来なくなっていた。
それもまた演技であるかも知れないが、でも、どのみちアサキに、そのような穿った思考をする余裕はなかった。
相対的に圧倒していようとも、自身の肉体ももう限界近くにまで疲労をしており、余裕など持ちようがなかったのである。
魔法が使えるのに、何故このように死に物狂いの肉弾戦をするかというと、魔法使いにおける基本戦闘法が武器や素手での白兵戦であるためだ。
ヴァイスタやザーヴェラー相手に、遠隔魔法は通じない。そのため、破壊の魔力を直接叩き込んで、直接粉砕する必要があるためだ。
もしも、魔法使い同士の戦いを想定しての訓練も行なっていたとしたら、また違った戦い方になっていたのかも知れない。
だが二人とも通例に漏れず、魔法の使い方としては肉体能力アップとエンチャント程度。
戦い方としては、剣と剣とのぶつけ合いである。
ただし、その次元が普通とはまるで違っていたが。
戦いとは相対的であり、見た目には、ただ二人が剣を振り合っているだけ。だが、ここにいる全員には、その凄まじさ、レベルの違いが理解出来ているはずである。
みな魔法使いである以上は、魔力の目という第八感が優れており、目を凝らすことで魔力の爆発を見ることが出来るからだ。
見ずとも、ここにいるほぼ全員が、至垂へと挑んで瞬きする間もなく返り討ちに遭っているわけで、その至垂と対等以上に戦うアサキの、その戦いが次元を超えたものでないはずがなかった。
速度は、魔力の目でなければとても追えないものであり、力強さは、打ち合うたび足元の床に亀裂が走る。
純然たる剣技のみであれば、優る者など一般人の中にも腐るほどいるだろう。
だが、魔力により身体能力の基礎値が桁違いに跳ね上がっている二人には、もう剣技の冴えなどなんの意味もないことだった。
そんな、異次元の戦いにおいて、現在、アサキが圧倒している。
攻め続けている。
「すげえな」
青い魔道着の魔法使い、カズミがぼそり呟いた。
もうなにも、出来ることがない。
他の者たちも、ただただ口を半開きにして見つめるだけであった。
異次元レベルの、戦いを。
8
どれくらい、経っただろうか。
二人の魔道器魔法使いによる、次元を超越した、一騎打ちの戦いが始まってから。
ずっと口半開きであった、広作班リーダーの仁礼寿春は、咳払いをした。
喉のへばりつきに不快感でも覚えたか唾を飲もうとするが、上手く飲めず、もう一度咳払いをするとかすれた声を発した。
「わたしたち全員を一瞬で蹴散らした至垂徳柳と、一人で互角以上に渡り合っているだなんて……幻想を見ているような気持ちだ」
至垂と戦っている赤毛の少女の、実力のことであろう。
「さっきキマイラが、とかいっていたよな」
隣に立つ、サブリーダー建笠武瑠の声だ。
「うん。もし本当ならあの能力も納得だけど。そもそもキマイラとか、そんな技術が、たかだか令和の時代なんかに本当に実現出来るとは思えないな」
「本当です」
広作班の会話を聞いていた紫の魔道着、明木治奈が割り込んだ。
「うちは目の前で、あの二人の会話を聞いただけなんじゃけど、至垂もアサキちゃんもキマイラです。……アサキちゃんは、自分が幼い頃ここにいたということは、以前から知っておったのですが、自分がキマイラとまでは知らなかった。ほじゃけど、ついさっき完全に思い出した」
「……信じられないけど、当人がそういう話をしていたというなら、そして、事実ここまで圧倒的に強いのなら、信じるしかないのだろうね」
自分の傷を治療しながら広作班リーダーは、その圧倒的異次元の戦いを見続ける。
治奈も、語り始めてしまった話を続ける。
「……様々な大人の野心、野望により、作られたんじゃ。……ほじゃけどアサキちゃんは、そがいな周囲の野望や、運命に対して、こうして戦っておるんです。生まれがどうであろうとも、自分は人間なんじゃから、と」
思うほど、ここで戦うなんの義理があろう。
治奈は、それでも戦う友の姿に、目に涙を浮かべていた。
「あのさ、あとで聞こうと思ってたら、今またその言葉が出たから、教えて欲しいんだけど。なんなんだよ、そのキマイラって」
カズミが、治奈に肩を寄せ会話に加わった。
「うちもさっき聞いたばかりで、詳しくは知らんのじゃけどな」
「知ったとこだけでも教えろよ」
「ほじゃな。アサキちゃんは、もう吹っ切れておるようじゃから、隠すべきものではないじゃろね。……人造の生物を土台に、色々な生物を混ぜ合わせた、新しい生物。人間型ではあるが、人間ではない、といっておった」
「日本語でいえよ」
「ゆうとるじゃろ! うち横文字まったく使っとらんよ」
「そう? ……え、お、おい、人間じゃない、新しい生物って……冗談、だろ?」
カズミは、青い魔道着よりも蒼白な顔になっていた。
当然だろう。
ずっと一緒だった友人であり、クラスメイトであり、戦う仲間でもあるアサキが、実は人間ではないなどと急にいわれても信じられるはずがないというものだ。
「本当の、ことじゃけえね」
至垂とアサキが語った内容が真実ということであれば。
アサキの思い出したという記憶が本当なのであれば。
「信じられねえけど……つうか、なんかショックなんだけど……こいつの異常な強さを見たら、納得するしかねえのかもな」
「うちもまだ実感がないけえね。……あ、さっき戦った、特務隊とかいう三人がおったじゃろ?」
「ああ」
斉藤衡々菜、康永保江、長戸寛花、の三人である。
「あれもその、キマイラだったんじゃと」
「はああああ? どーりで、積み上げたものがまったくなさそうなくせに、強さが異常だったわけだ。でもまあ、しっかり積み上げたもののある奴にはかなわないということだな」
相当な犠牲は払ったわけだが。
カズミたちは話すことがなくなって、ほかのみんなと一緒に黙ってアサキたちの戦いを見守っていた。
やがて、ふとまた、今度は広作班のサブリーダー建笠武瑠が口を開いた。
「この作戦の背景とかまでは知らされてなかったけど、まさかキマイラ絡みだったとは。……ここで至垂は倒せても、もしもいつか令堂和咲が人類の敵になったり、とか思うと怖いな。地球が滅ぶぞ」
「なるわけないよ。彼女とは今さっき出会ったばかりだけど、ひと目でそう分かったよ」
「まあ、あたしもそうは思っているけどよ」
広作班サブリーダーはリーダー仁礼寿春の言葉に、少し恥ずかしげに鼻の頭を掻いた。
その後も彼女たちは戦いを見守り続ける。
至垂徳柳対アサキの、息を飲む異次元の戦いを。
治癒魔法を自分たちに施しながらも、視線はそらさず正面に向けて見守り続ける。
押しているのは、アサキだ。
圧倒している。
しかし、現在均衡以上なのだからならば一人でもアサキに加勢すれば勝てる、というものでもない。
迂闊に手を出せる、そんな戦いではない。
むしろ、至垂に笑う余裕がなくなっている分、近付いたら一瞬で首を刎ねられるかも知れない。
見ている以上の最善はない。
治療魔法で治せるところは治し、各々の武器にエンチャントを施して、呼吸を整えておき、もしもアサキになにかが起きた時には、一か八かの総攻撃。
加勢したいが、してはいけない。
まだその時ではない。
実力差を考えると、まだ。
そんな罪悪感の疼きに、一番に耐えられなくなったのは……
なんと、文前久子以上に冷静に見えたはずの仁礼寿春、広作班リーダーであった。
ばじっ、ばじっ、
と放電に似た音に、みなが気付き、見ると、仁礼寿春の両手の間に、青白い球体が浮かんでいる。
「なにか少しでも、やれることをっ」
しゃがみ、片膝をついた彼女は、床へと青白い球形エネルギーを押し潰し広げて、そのまま床に右手のひらを置いた。
「アレクトリツィルトアインチェルグ」
素早い呪文詠唱。
右手の下にある、床へと押し潰された球体エネルギーが、さらに薄く広がると、そこにはピザMサイズほどの五芒星魔法陣が出来上がっていた。
ピシ、
氷が割れる音。
魔法陣から、細長い光が床を這い、伸びる。
伸びたその光は、白銀の魔法使い至垂の足元へと、足首へと、絡み付いていた。
「うぐぁ!」
苦痛の声が上がった。
それは、術者である広作班リーダー仁礼寿春自身の、悲鳴であった。
熱湯への反射的にびくり腕と肩を震わせて慌てて床の魔法陣から手を離した彼女であるが、その反射行動はなんの意味も持たなかった。
右腕の防具が砕けた、と見えた瞬間には、魔道着の繊維が燃え尽きて、その中、炭化した右腕がぼろりさらり粉状に崩れ落ちて、床にこぼれて広がった。
右の、肩から先が完全に消えてなくなっていた。
仁礼寿春の、右手から肩までが発熱し、自らを燃やしながら、魔道着も燃やし、防具を破壊したのである。
白銀の魔法使い至垂が、アサキとの打ち合いの中で、魔力の破壊エネルギーを逆流させたのである。
広作班リーダーは、自身の魔法により自身の右腕を失ってしまったのである。
ある意味においては、幸いともいえただろうか。
もしも咄嗟に魔法陣から手を離し魔力を遮断していなかったら、右腕一本では済まなかっただろうから。
なにか出来ることどころか、微力を割り込ませることも出来なかったことに、広作班リーダーは苦痛の中で、無力を痛感したかも知れない。
しかし、この行動は、決して無駄ではなかった。
命を懸けたその行動を、アサキが無駄にしなかった。
だん、
これまでより力強く、至垂へと踏み込んで、力強く、剣を横殴りにひと振り。
なんということのない、アサキの攻撃であったが、わずかに至垂が目を細めた。
目潰しだ。踏み込みや、振り回す剣の気流で、炭化した粉塵を黒い煙として巻き上げて、目潰しにしたのである。
それほどの量ではないが、白銀の魔法使いを、ほんの一瞬驚かせるには充分だった。
がちっ、
硬い音。アサキが両手で握った剣が、白銀の右腕防具へと叩き付けられた音だ。
防具が、砕け散った。
そして、その瞬間には、返す刃が至垂の太ももへと打ち下ろされて、白銀の魔道着ごと叩き砕いていた。
「あぐ!」
苦痛の呻きが、しんとした部屋に響く。
白銀の魔法使い至垂は、顔をぐしゃっと歪めて、よろけ倒れそうになる。
プライドなのか、単純に負けたら終わりという必死さか、左足を前に出してかろうじて踏ん張った。
プライド、ではないようだ。
少なくとも。
何故なら、舌打ちをすると白銀の魔法使いは、無事な片足で跳ねながら、無様にも部屋の奥へと向かって逃げ出したのである。
「アサキ、逃がすなよ!」
叫び急き立てるのはカズミだ。
力になれないもどかしさの、多分に混じった。
だからこそ、力のこもった声で。
「分かってる!」
アサキは、まるでケンケンをするように逃げている至垂の背中を追う。
いわれるまでもない。
リヒト所長として、この事態を招いた責任を取ってもらわなければならないのだから。
広義には、個人的欲望のために組織を私し、非人道的な行いの数々を繰り返していたことへの責任。
狭義、というよりも、個人的なところとしては、フミちゃんを誘拐して、わたしたちを誘い出して、そのために何人もの生命が失われたこと、その責任。
決着を、つけないと。
人同士で戦うだなんて、嫌だけど。
どうして自分だけがこんな、とも少し思うけど。
戦うことが出来るのが、自分しかいないのだから。
いや、みんなを守れる力があるんだと、むしろ喜ぼう。
泣き言なんかは、後だ。
既に体力の限界を迎えつつある中、アサキは、白銀の魔法使いでありリヒト所長である、至垂徳柳の後を追った。
9
「逃さないというわけか」
白銀の魔法使い至垂徳柳は、ぴょんぴょん逃げる足を止めて、振り返りながら、アサキの剣を弾き返した。
「それは当然でしょう」
ぐっと力を込めてアサキは、剣をしっかり握り直す。
また、二人の剣による打ち合いが始まった。
始まってすぐ、アサキは気付いた。
至垂の太ももに。
白銀の布地は裂けたままだが、覗き見える皮膚は完全に癒着しており、傷の痕跡を残すだけになっている。
骨まで届くほどに深く断ったはずなのに、おそらくもう、皮膚の内側では筋肉組織もしっかり繋がっている。
逃げながら、非詠唱魔法で治していたのだろう。
でも、一人でこんな抵抗を続けていて、なにになる?
他の人たちは、もうみな捕まったというのに。
ただ、無駄なあがきをしているだけなのか。
策、考えが、あるのか。
なにがどうであれ、なにをすべきかは変わらないけれど。
この人とまともに戦えるのが、わたししかいないというのならば。
いらない力だけど。
本当は、こんな、戦う力なんて。
戦いたくなんかない。
剣なんか、持ちたくないよ。
いつもみんなと、笑っていたい。
楽しく、平和に過ごしたい。
でも、そのためにも……いまは、いまだけは!
天井の灯りが壁に作り出す、親子ほども大きさの違う二つの影が、手にした剣を打ち合わせている。
押しているのは小さい方だ。
「負けんじゃねえぞお!」
追い付いたカズミたちが、傷だらけのボロボロな姿のまま、戦いへ声援を送っている。見守っている。
その中で一人、
広作班リーダーの仁礼寿春が、左腕のリストフォンを耳に近付けて、誰かと通話をしている。
なお彼女の右肩から先はない。至垂の返り討ちを受けて、炭化させられ空気に溶けている。
通話を終えたようで、左腕を下げた。右腕を失ってなお強気な顔を、少し上げた。
「リヒト所長、至垂! 聞け! メンシュヴェルト東京都所属の魔法使いたちが、続々とここへ集結している。近隣県からも、リーダークラスの実力を持つ者へ召集を掛けている。もう、お前に逃げる場所はないと知れ! 確かに我々一人一人は、お前に比べれば弱い。だけど、令堂とこうして戦っていることへの疲労に、加えてこちらの数だ。逃げ切れると思うか?」
確かに、いくら至垂が無類の強さであっても、体力の完全に果てたところを数でこられては、是非とも出来ないだろう。
仮に、その無数にいる魔法使いとの戦いで、負けなかったとしても、しかしその間に体力を回復させたアサキと、再び向き合うことになるのだから。
至垂は先ほど、アサキとの劣勢に逃げ出そうとしたくらいであり、つまりは動揺を誘うに充分過ぎるほどの、仁礼寿春の言葉であった。
しかし、これはどうしたことか。
なにがそうさせるのか、至垂はアサキとの打ち合いの最中、にやり深い笑みを浮かべたのである。
「大量に集めてくれるんなら、願ったりかなったりだなあ」
笑みを言葉にしたものか、本心を隠すための笑みなのか。とにかくリヒト所長は、なんとも嬉しそうな顔で、そういったのである。
「見え透いた強がりをいう。お前が化け物だろうと、選りすぐられた魔法使い数百を相手に、勝てるはずはない」
広作班リーダーの、その言葉こそ、強がりであったのかも知れない。
事実どうかは分からないが、そうも見えてしまうほどに、至垂の顔に浮かぶ笑みが、心底楽しげだったのである。
「敵も味方も、勝つも負けるもないだろう? だってきみたちはあ、たかが道具じゃないか」
根拠は見えないが、そこに確固たる自信あるからには、根拠もあると見るべきなのか。圧倒的な優位を示すはずの、広作班リーダーの言葉は、見えない根拠に小さく握り潰されてしまっていた。
だが、
反対に、というべきか、
だからこそ、というべきか、
「ならあなたこそ、悪魔に使役されているだけの道具だ!」
アサキが、頭にきてしまっていた。
平和のために戦っているだけの魔法使いを、道具呼ばわりで嘲笑われたのだから。
その、怒りにより冷静さを欠いた瞬間を、白銀の魔法使い至垂は逃さなかった。
剣、と見せかけてブラインド気味にアサキの頬へ左拳を打ち込むと、そのままその手で赤い髪の毛を掴み、顔面を床へと叩き付けたのである。
単純な筋力量だけであれば、至垂の方が遥か上である。アサキは顔を潰されて、頭ごと、砕かれた床の中へと埋まった。
逆転勝利に、白銀の魔法使いは、ほくそ笑んだ。
しかし、今度は彼女の方こそが、その油断を突かれて苦汁を飲むことになった。
床に叩き伏せられているアサキが、まだ意識あり、背中のバネを使った蹴りを放った。
それが、至垂の顎を捉えたのである。
蹴りの静かな動きとは裏腹の、とんでもない破壊力に、
「がはっ!」
至垂の身体は、吹き飛ばされていた。
手で床を弾いて、素早く起き上がったアサキ。
自分が吹き飛ばした、白銀の魔法使いへと、剣を握り直しながら飛び込んだ。
人と思うな!
自分にいい聞かせながら、赤毛の少女、アサキは、躊躇わず、剣を振る。
当たれば胴体を両断といった、鋭い一撃を。
アサキに躊躇いは、なかった。
でも、外れた。
白銀の魔法使い至垂が、床へ落ち掛けたところつま先で自らを跳躍させて、間一髪、かわしたのである。
かわしざま、空中で長剣を払う。赤毛の少女を目掛けて。
すっとしゃがみ込む赤い頭髪を、ちっ、と長剣が薙いだ。
床に両膝を着いたアサキは、剣ごと右手をつくと、非詠唱で呪文を唱えた。
ついた右手を中心に生じた、青白い光が、一瞬にして大きく広がる。
直径十メートルはあろうという、巨大な魔法陣だ。
その魔法陣へと、白銀の魔法使い至垂の身体が落下、着地した瞬間、部屋全体が真っ白に溶けた。
ばじっ、
と高圧電流に触れたような音と共に。
明暗反転のその一瞬が終わると、巨大な魔法陣の中央に、白銀の魔法使い至垂の巨体が倒れていた。
はあ、はあ。
息を切らせて仰向けになっている、白銀の魔法使い至垂徳柳。
はあ、はあ。
傍らに立ち、油断なく剣を握りしめている、赤い魔道着、アサキ。
至垂は、息を切らせながら、胸を大きく上下させながら、
「負けた。……降参だ」
ついに、降参宣言の言葉を発したのである。
ふう、とため息を吐くアサキ。
油断はしていない。だが間違いなく、安堵の混じった。
こうして、ひとまずの戦闘は終了した。
だが、まだ終わりではなかった。
預言者ならぬ身で、察しろというのも酷ではあるが。
ある意味で、始まりですらあった。
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