魔法使い×あさき☆彡
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第十四章 慶賀雲音
1
吹田駅と御堂急デパートに挟まれた大通りは、昼夜を問わず、たくさんの自動車が行き交っている。
だが現在、その様子が実に奇妙であった。
無数の乗用車やトラックは、すべてがすべて、粘土細工を捻ったかのごとく歪な形状に歪んでおり、タイヤの色も白っぽく、全体もおおよそ見ることない薄気味の悪いカラーリング。それが、ビデオのスローモーション再生であるかのように、のろのろ、ゆっくりと、動いている。
動いているというのに、運転席はおろか、車内には人の姿がまったく見えない。
それもそのはず。
ここは、人界の裏側に存在する世界なのだから。
見る物のことごとくが歪みに歪み、色調ことことくがネガポジ反転して、白が黒くて黒が白い、どこもうっすら腐臭の漂う、ただ地に立っているだけでも気が狂いそうになる、どんよりとした瘴気に満ちた世界。
異相同位空間、略して異空と呼ばれている。
その異空の中に、少女たちの姿が幻影のごとくに浮かび上がり、さながら妖精のごとく軽やかに舞っている。
少女たちと、白く大きな怪物。
魔法使いたちが、スローで流れる自動車の間を、縫うように跳ねながら、手にした武器でヴァイスタと戦っているのである。
「雉香ちゃんっ、いまや!」
「分かっとる」
白い魔道着姿の白田雉香は、慶賀雲音の声に小さく頷くと、膝のバネで高く跳躍していた。
「アンテイクフムト ブリッツ ヴィダーゼン!」
ヴァイスタの頭上で華麗なトンボを切りながら、素早く呪文の言葉を叫ぶと、両手に握られた剣身が、青白い輝きを放った。
「やあああああ!」
雉香の雄叫び。
落下の勢いに気合を加えて、ヴァイスタの、ぬるりとした真っ白な頭部へと、剣を叩き付けていた。
剣は頭頂をすっぱり両断し、雉香の落下と共に顔、首を引き裂いて、胸にかかるところで止まった。
雉香は剣を引き抜きながら着地すると、どうだ、といわんばかりの顔で、くるり振り向いた。
ぬるぬる、ぬめぬめとした、真っ白な巨人、ヴァイスタの動きが止まっていた。
「よし」
雉香は会心の笑みを浮かべながら、拳を強く握った。
動きを止めて立ち尽くす巨人の背中に、静かに近寄った雲音が、そっと手のひらを当てた。
小さく口を開く。
「イヒベルデベシュテレン ゲーナックヘッレ」
ヴァイスタを昇天つまり消滅させるための、呪文を唱えているのである。
「雲音ちゃん、後始末は任せたで。先に、ウメちゃんたちに加勢してくるわっ」
雉香は、いうが早いか飛ぶように足を疾らせ、ねじれ歪んだ自動車の間を縫って、ねじれ歪んだトラックとコンテナの間に軽々と身を踊らせて、反対側へと抜けた。
ふわっと広がる視界には、二体のヴァイスタと、交戦中の嘉嶋祥子と慶賀応芽の姿があった。
正確には、現在戦っているのは祥子だけであるが。
足を痛めたのか、上体だけを起こしている応芽の前に、祥子が庇い立って、左右二本の手斧を器用に操って、ヴァイスタの攻撃を受け止めている。
防戦一方、さもあろう。
相手が二体というだけでなく、応芽を庇いながらの戦いであるためだ。
だが、
「お待たせえっ!」
白い魔道着の魔法使い、白田雉香が、ヴァイスタの背後から、青白く光る剣を横へ一閃。
骨まで断ちそうなくらいに深々と、その身を、その肉を切り裂いていた。ヴァイスタに骨があるかどうか、定かではないが。
しかし、その一撃も致命傷にはならなかったようである。突然の敵へと振り向こうとするヴァイスタの、その傷が、もう回復し掛かっている。
致命傷を与えない限り、ヴァイスタはどんな傷であろうとも、すぐに回復してしまうのだ。
ヴァイスタの一体が、雉香へと向いたことで、祥子にとって自分の正面が相手の背後になった。
決定的なチャンス到来。すぐさま左右の手斧を振りかざして、切り掛かった。
だが、祥子の反撃を読んでいたか、ヴァイスタは、ぶんと長い腕を振って、正面に位置する雉香を、上から叩き潰そうとするのと同時に、もう一本の長い腕を横に振り回して、祥子を弾き飛ばそうと攻撃した。
一体のヴァイスタの、前と後とで、うわっ、と同時に女子の悲鳴が上がった。悲鳴を上げつつ、雉香は横へ、祥子は身を低く屈めて、それぞれ攻撃をかわしていた。
と、そこを狙っていたかのように、もう一体のヴァイスタが、触手に似た長い腕を振るって、祥子を襲った。
二本の手斧で、かろうじて触手を弾き上げながら、地を蹴って、後ろに退いた祥子は、
「この通り、なんか動きが厄介でね。連係っぽいこともしてくるし。今日の個体は厄介だ」
雉香へと、苦々しげな表情を向けた。
「でも、もう充電は出来たのかな? ウメ」
祥子は、顔を半分だけ振り向かせて、ちらり横目で、背後にいる応芽の姿を見た。
「ああ。もう、たっぷりとな」
応芽は、両手に握った騎槍を杖にして、立ち上がった。
ぐ、と顔が苦痛に歪んだ。
腰からの垂れにより半分隠れているが、右の太ももを、深くえぐられて、どくどくと血が流れ出ている。そのための、激痛であろう。
「ほな、いっくでええ!」
額から脂汗を流しながら、痛みをごまかすためか笑みを浮かべて元気に叫び、騎槍を振り上げ頭上で一回転。
ぶんと前へ突き出し、小脇に抱え持ち、構えた。
「コン プフェーァト」
呪文。
唱えると同時に、足元にうっすらと青い光が生じていた。
直径四メートルほどの、五芒星魔法陣である。
みるみるうちに、それははっきりくっきりと青く、応芽を中心として眩い輝きを放っていた。
ごご、
地面が震動したかと思うと、やはり青く、そしてゆらゆら揺れながら輝く、炎の馬、とでもいう姿が、魔法陣から浮き上がり競り上がり、応芽の身体を持ち上げる。
馬に跨った格好になった応芽は、
「超魔法、リッヒトランツェル!」
騎槍を小脇に抱えたまま叫んだ。
青く燃える炎の馬が、その叫びに呼応して嘶き放ち、高く前足を上げると、走り出した。
一体のヴァイスタへと、突っ込んで、駆け抜けた、とその瞬間には、くるり反転、もう一体のヴァイスタを、騎槍で貫き、突き抜けていた。
炎の馬の疾走が、ぴたり止まった。
残心。
ゆらゆら、炎に揺れる馬上の応芽は、両手に騎槍の柄を握ったまま、はあはあと息を切らせ、大きく肩を上下させている。
白い巨人ヴァイスタの動きが、二体とも完全に止まっていた。
「昇天、た、頼むわ」
歯を食いしばる表情でそういった瞬間、すうっと炎の馬が空気に溶け消えて、応芽の身体は、どさりと地に落ちた。
「雉香ちゃん、祥子ちゃん、お願いするわ。……お姉ちゃん、大丈夫?」
合流したばかりの雲音が、姉である応芽を仰向けにさせて、大怪我をしている太ももへと青白く輝く手を翳した。
魔法による治療である。
「ああ、平気や。ヘマして、祥子に迷惑かけた。でもおかげで、超魔法使う時間が稼げたわ」
「まあ無事ならええけど。あんまり無茶はせんといてね」
「貸した金が返らんと困るからな」
「アホ!」
姉妹は、お互いに笑みを浮かべると、お互いの顔がなんだかおかしくて、ぷっと吹き出した。
「あー、やっと終わったあ! ちかれたびい」
雉香が、両腕を上げて、満足げに大きく伸びをした。
「雉香だけに、って?」
くすり笑う祥子。
「よくぞ気付いてくだすった、このダジャレに。……祥子たちは、二体を相手だったから、大変だったね」
「まあね。でも、雉香が加勢にきてくれたから、隙を突くことが出来たよ」
パシン、と手を打ち合わせる雉香と祥子。
「最近、ヴァイスタが簡単な連係を使ってくることがあるから、数が多いとどきどきしちゃうけど、でもなんとか今日も勝てたね」
雲音は、姉へ手を翳し治療を続けながら、にっこり微笑んだ。
「中学生になったばかりの、見習いの見習いを卒業したばかりの四人で、チームを組まされて、これどうなるのかなって、最初は不安たっぷりだったけどね」
祥子が、二対の手斧を、お手玉の要領で放り上げ受け止めながら、疲れてはいるものの、ちょっと満足げな笑みを浮かべている。
「せやなあ」
地に横になり、妹の治療を受けている応芽が、治癒される苦痛に顔をしかめつつ、ぼそり小さく口を開いた。
「でも、今日もしっかりと戦えたよ。だんだん、噛み合うものも出てきとる。みんな、ほんま最高や。……でも、あたしだけあかんたれやな。祥子が苦戦することになったのも、あたしのせいや」
応芽は、痛みを堪えつつ、自虐的な笑みを浮かべた。
「いや、ウメはぼくを守ろうとして、怪我をしたんだから」
「そこ含め、あたしに才能がないからや。魔力とか判断力とか、もう少しあれば、ああはならへんかった。……でもな、みんなと一緒なら、あたし頑張れるよ。もっともっと、強くなれるよ」
「そういってもらえるのは嬉しいけど、そう自虐しないの。ウメは充分かかせない戦力になってるって」
祥子は、腰を屈めると、応芽の鼻を人差し指でつついた。
「そうそう。お姉ちゃんがいてくれへんと、あたしも困るわ。せやから、競い合って、認め合って、これからも頑張ってこうよ。……でも、ヴァイスタをどんどん倒して世界を守り続けていれば、いつか魔道着もどんどんパワーアップして、楽々とヴァイスタを倒せるようになるかも知れへんよ。生き残ることが第一や」
「そんな時代が、早くきてくれるとええけどなあ」
という姉妹の会話に、
「ロボットが勝手に戦ってくれたら便利やなあ」
割り込んだ雉香。
一体どんなシーンを想像しているのか、拳を突き出し振り上げ、片足立ちになったりして、一人うんうんと頷いている。
「変身して戦うの? そのロボット」
姉の治療を続けながら、雲音が尋ねる。
「ん? ああ、せやな。せやな。変身して、魔道着を着て戦ったら、かっこええかもなあ」
「はは。まあ、着る必要もないけどな。だって、魔力制御の機能だけ埋め込んどけばええんやから」
「せやけど、かっこええやん。ロマンやん。ロボットが片手を上げて『変身っ!』って」
「現代の科学力を考えると、当面のところはしょぼいロボットしか作れそうもないし、いきなりフリーズしそうやなあ。ショウテンノ呪文ヲ唱……ピピ、ピーーーーーーって」
「ほなら常にペアで行動させて、緊急時にはお互いを再起動させればええんや!」
「意味ないわあ」
雲音と雉香の冗談が、どんどん暴走していく。
横たわり治療を受けながら、応芽は楽しそうな二人の顔を見上げている。
見上げながら、微笑ましいものを見るように目を細めると、ぼそり、微かな声で呟いた。
せやな。
ほんまに、そんな時代がくるかも知れへんね。
それには、とにかく生きること。
……死んだら、しまいや。
2
大阪府吹田市の郊外。
リヒト本部の敷地内に、三階建の訓練棟がある。
その一室で現在、二十人ほどの少女たちが、半分に分かれ向き合って、手に手に持った剣で打ち合っている。
赤、青、白、緑、銀、橙、それぞれ色鮮やかな生地に全身を覆われている少女たちだ。
着ているのは魔道着と呼ばれる、魔力の体内伝導効率を高め制御するための服で、さらに肩や胸などには金属にも見える硬化プラスチック製の防具が装着されている。
少女たちの一人、慶賀応芽は、両手に握った剣を身体の正面で構え、真剣な表情で相手と向き合っている。瞬き一つにも渾身の注意を払うくらいに、集中している。
まったく動いていない。
周囲の者たちは叫び、激しく動いて、剣と剣とをぶつけ合っているが、応芽はぴくりとも動いていない。
自信がないからだ。
自分の魔力に。
魔力は魔道着により活性化され、活性化された魔力は宿主の身体能力を向上させる。
つまり、魔力が弱いということは、肉弾戦の戦闘能力においてハンデになる。だから、力任せな行動が出来ず、こうして相手の隙を探る戦い方になってしまう。
じっと隙を窺う応芽の、あまりの閉じこもりっぷりに、向かい合う貞良永羅も一歩を出すのを警戒しており、従って、二人のこの空間だけが、なんとも静かだった。
なお、みなが同じ剣を手にしているが、これは剣が基礎技能として必須であり、現在その稽古の時間であるためだ。
実際の戦闘時には、チーム戦術または個々の特徴や相性などによって様々な武器を使用する。この剣を使った訓練の後に、それらの武器を稽古する時間も予定されている。
こうした武器を使っての稽古をする主目的は、対ヴァイスタのための戦闘技術向上。
同時に、武器や魔道着の開発改良に繋げるという目的も兼ねている。
剣や魔道着に仕込まれた、マイクロチップやセンサーにより、戦い方や打撃力などが数値化されて、開発部へとフィードバックされるのである。
リヒトは、戦う部隊としては関西の結界を守るだけの組織だが、この通り、開発にかなり力を入れているのが特徴だ。
メンシュヴェルトに所属していた、開発部の人間が、方針の違いから独立したものだからだ。
喧嘩別れしたわけではないので、メンシュヴェルトとの関係も悪くはなく、武器や防具は共同開発している。東京にあるリヒト唯一の支部、そこを拠点として、メンシュヴェルトの技術者も交わって作業をしているのだ。
さて、まだぴくりとも動かず、正眼で剣を構えているのは、慶賀応芽である。
応芽の両隣には、白田雉香と嘉嶋祥子。雉香のさらに向こうに、応芽の妹である雲音がいる。
リヒトは、特殊部隊を除いて基本的には四人組でチームを組む。
この訓練は、チームは関係ないが。
ただ全員一緒にやってきて、だらだら横に広がったというだけだ。
向き合う相手は応芽たちと同期で、やはり見習いから卒業したばかりの、宝田亀樹をリーダーとするチームだ。
「参りました」
応芽の隣で、白田雉香が頭を下げた。
リーダーの宝田亀樹と戦い、負けたのだ。
雉香が、相手の掛け引きに釣り出され、エンチャントした剣同士をぶつけ合うという力技勝負に持ち込まれて、あっさりと負けてしまったのだ。
リヒト屈指の、魔力器の大きさを持つ、つまり戦闘潜在能力が抜群に高い雉香であるが、しかし負けた。
簡単に。
意識を正面に集中させながらも、ぼんやり映る横目でその光景を見ていた応芽は、
魔力は一部、
能力の一要素、
過信は禁物や。
心の中で、呟いていた。
その呟きが、表情の変化にでも出ていたようで、それを切っ掛けとしたか、それとも単に長い睨み合いに痺れを切らせたか、貞良永羅が、ついに攻め込む決心をし、
「ウメ! そろそろいくでええ!」
叫び、短く呪文を唱えると、剣身の鍔から切っ先へと、翳した手を滑らせた。
貞良永羅の剣が、淡く、青い、輝きを放つ。
エンチャント、つまり魔力による武器の性能アップだ。
応芽は、真似してエンチャントをすることもなく、ずっと同じ姿勢で剣を構えたままだ。
体内を流れる、他の少女たちより少し劣った魔力を、ただ体内を巡らせ続け、意識を研ぎ澄ませることにのみ使っているのだ。
貞良永羅が、たん、と床を蹴った瞬間には、応芽の視界を完全に塞ぐくらいにまで迫っていた。
ぶん、と激しく剣が打ち下ろされる。
応芽は、後ろに出していた右足へと重心移動させて身体を下げながら、斜め下から振り上げて、弾く。と見せかけて、打ち合わず、身をくるり反転させて剣をかわした。
打ち合うことを想像して力を入れ過ぎたか、大振りになってバランスを崩し前のめりの貞良永羅、の懐に、応芽は入り込んでいた。
入り込み、左手で頭を抱え、右手に持った剣の刃を、喉元へと押し付けた。
「ああもう! 負けや負けや!」
貞良永羅は、降参の意を示し両手を上げた。
応芽は、抱えた頭を離して、背中をとんと押すと、ふうっと安堵の息を吐いて、満足げな笑みを浮かべた。
「ウメにまた負けたわ。悔しいなあ」
「エンチャントしたからって、過信するからや」
「ちゃうわ。ウメがいつも、じーっと動かへんからや。ま、あたしの精神修行が足らへんちゅうことなんやろなあ」
魔力は上、って自慢しとんのやろか?
応芽は心の中で苦笑した。
まあそもそも、応芽よりも魔力係数の低い者は、ここにはいないのだが。
それが分かっているから、それなりの戦い方をしただけだ。
「っと、そうや」
はっと気付いて横を見る。
いち早く敗れてしまった雉香が、床にあぐらをかいて、目の前の戦いを見守っている。
慶賀雲音の戦いを。
もう他の者たちは、手合わせを終えており、残るはこの雲音と斉藤衡巳だけだ。
「えらい長いなあ」
いつもの妹ならば、恵まれた魔法力と武術のセンスとで、同年代の相手などすぐ倒してしまうのに。
「うん。なんか、魔道着を伝導させてる魔法力で体術をコントロールして、試しながら戦っているみたい」
「ああ、ゆうべ話してたことやな」
一緒に風呂に入りながら、魔力の応用理論についてを話し合ったのである。半ば、雑談ではあったが。
武器の破壊力を増すだけでなく、防御するだけでなく、普段の、普通の、肉体の動きを、あえて魔力で制御しながらやってみたら、どんな動きになるのだろう、どんな戦い方になるのだろう、と。
そんな話を昨夜していたものだから、自分もさっきは意識して、武器に魔力は込めず、体内を流れる魔法力を操作して戦ってみたのだ。
妹は妹で、別アプローチで、昨日の話を実践しているようだ。
とはいえ目の前の、妹の戦い、まだ継続中ではあるものの、もうおおよその決着はついているようである。
斉藤衡巳の、すっかり息が上がってしまっているのを見れば分かる。
対峙する雲音の動きは、なんだか踊りに見える。
初めて実践した、魔法で体術を制御している感覚を、楽しんでいるのだろう。
楽しんでしまって、なかなか開放してやらないから、それで戦いが長引いてしまっているというだけのようだ。
かわいそうに、と応芽は、相手の心情を思い苦笑した。
「しかし、さすがやなあ」
妹の、魔法力がである。
自分も、測定値が他人より低いとはいえ、大きく劣るものでもない。だから、そこまで卑下する必要もないのかも知れないが、しかし、双子の妹がここまで高いと、やはり落ち込んでしまうというものだ。
なお、チームの中では、雲音を上回る魔力を持つのが白田雉香だ。
制御する能力が未熟なのと、せっかちな性格とで、あまり生かしきれておらず、先ほどの手合わせでも、自滅に近い敗北をしてしまっていたが。
「参りましたああ! つうかあたし最初っから負けてたじゃん!」
ようやく、雲音たちの戦いも、終わったようである。
斉藤衡巳が、音を上げて、床に崩折れて両手を付いている。
無駄に恥をかかされたこと、ちょっと不服そうな顔で。
生殺しやったからな。
しかし、雲音のこの魔法力。不公平やなあ。
双子なのに、あたしら。
斉藤よりも、こっちがへこむわ。
応芽は、冗談と本心とが混ざったぼやきを、胸の中で唱えながら、満足げに額を汗を拭っている妹の顔を見つめていた。
「やだお姉ちゃん、なんやの、じーっと見てて」
妹が、応芽の視線に気付いて、恥ずかしそうに笑った。
応芽もふっと笑みを返した。
不公平やなあ……
こうも邪気がないと、こっちの気持ちがどうであれ、応援することしか出来ひんやんかなあ。
ま、応援はしておるけどな。
最初から。
ええんよ。
あたしは別に、日陰で構わない。
雲音という太陽を、自分がどう輝かすか。
それがあたしの生き甲斐なんやから。
って、雲なのに太陽というのも変な話やけど。
でも、ほんま応援しとるよ。
雲音がおって、あたしがおるんやから。
3
「ああああああああ!」
しんとした空間に、突如として女の子の絶叫が響き渡った。
十歳くらいの、まだ幼い女の子だ。
叫び、転び、四つの手足で這うが、その前にもう道はなく。
がたがた震えながら振り向くと、そこにいるのは人なのか、そもそも生物なのか、正体の分からない異形の怪物が、二本の足で立っている。
頭が天井を突きそうなほどに大きく、ぬるりひょろりとした体型で、
全身は真っ白、ぬめぬめと粘液に濡れており、表面が細かく震えておりまるでゼリーのよう。
両腕は丸太のように太く、でもそれが細く見えるのは、地面に付きそうなほどに長いから。
腕の先に指はなく、肩から生えたその長い腕を、ふるふると細かく震わせている。
白い悪霊、ヴァイスタである。
その姿をあらためて網膜に、意識に捉えて、女の子は再び叫び声を上げた。断末魔にも似た、大きな叫び声を。
だが果たして、誰がその声を聞こうか。誰が恐怖に震える魂を感じようか。
ここは、吹田駅地下街。
夕刻であり、人々がごった返す時間帯であるはずなのに、閑散どころか誰もいない。
それは、ここが異空側、通常空間の裏側だからである。
色調のすべてが反転している、見る物ことごとくが歪みに歪んだ、どろりどろりとした瘴気に満ちた世界である。
叫び続ける女の子。
その前で、長い腕をだらりと下げて立っているヴァイスタ。
何故、動かないのか。
白い巨人は。
悲鳴に満足をしているからなのか、まだ足りないのか、むしろ悲鳴が不快であるのか。
なにを考えているのかは分からない。
顔からは、まったく読み取れない。
当然だ。
何故ならヴァイスタの頭部には、目や鼻、口、といったパーツが、なんにも存在していないのだから。
鼻にあたる部分に、微妙な隆起があるという、ただそれだけの、のっぺらぼうなのだから。
であるからして、次にヴァイスタが取った行動も、一体なんのためであるのか分からないが、とにかく長く太いでも細く見える二つの腕を、しならせて、激しく床へと叩き付けた。
どれだけの腕力が込められているのか、地下街通路の床タイルが、あっけなく砕け散っていた。
いひいっ、女の子は息を飲むのと悲鳴とがごっちゃになった、奇妙な声を発すると、床に尻を付いたまま、蒼白な顔で、手足をバタバタとさせ始めた。
こないで、殺さないで、と訴えたいのか、言葉にならない喚き声をひたすらに発しながら、暴れている。
迫る死の恐怖に、涙をボロボロとこぼしながら。
さらに、女の子を絶望に追い込むことが起きた。
足音を立てることもなく、さらに二体の人影が現れたのである。
人影、といっても人間ではなく、ヴァイスタだ。
二メートルを超える巨体であるというのに、ドスンどころかペタリすらもなく、二体それぞれ別方向から現れて、女の子へと近寄っていく。
女の子は、万に一つはあったかも知れない退路を、決定的絶対的に絶たれてしまったわけであるが、しかし狂乱の喚き声が、これ以上に激しくなることはなかった。
とうに精神が、限界に達していたからである。
放っておいても発狂死するのでは、という女の子の悶えっぷりを、なにかを確かめるかのように、じっと見下ろしていた三体のヴァイスタであるが、不意に一体が動き出した。
再び、ぶるんと太く長い腕を振り上げると、今度はムチ状にしならせるのではなく槍、真っ直ぐ突き出したのである。
恐怖に泣き叫んでいるだけで無抵抗も同然の、女の子の小さな胸が、白く巨大な槍に深々と貫かれていた。
いや。
ぎりぎりのところで、受け止められていた。
受け止めたのは、一本の剣であった。
「嬢ちゃん、大丈夫か?」
薄黄の魔道着を着た、慶賀雲音であった。
両手でしっかりと握り構えた雲音の剣を、正面からまともに殴り付けたことによって、ヴァイスタの真っ白な太い腕が、真っ二つに裂けていた。
だが、肘まで裂けたそれぞれが、まるで独立した生き物になって、鎌首もたげた蛇よろしく、しゃっ、と雲音へと襲い掛かった。
それぞれ先端に亀裂が走って、覗く無数の鋭い歯で、薄黄の魔法使いへ噛り付こうとする。文字通り蛇といった、ヴァイスタの常套手段と呼べる攻撃である。
雲音には、通用しなかったが。
二匹の蛇を瞬時に見切り、片方を剣で払い上げつつ、もう片方へ素早く振り上げた踵を落として捻じ切ったのである。
雲音は、少し首を曲げて、ちらり横目で後ろを見ながら、怒鳴り声を発した。
「早よ逃げや!」
だが、女の子には届かなかった。
見えてすらもいないのか、すっかり狂乱した様子で、顔の前で腕を振り回し、身をよじり、言葉にならない声を発し続けている。
「あかん、完全に正気を失っとるわ」
舌打ちした雲音は、剣を構え直しながら、女の子をヴァイスタから庇うように立った。
一体の白い巨人の腕を、剣で肘まで真っ二つにし、さらに半分をねじ切ったはずであるが、もうほとんど治癒、再生がされており、僅かな痕跡を残すのみになっている。
半分霊的な存在であるヴァイスタは、致命傷を与えない限り、この通りすぐに回復してしまうのだ。
「三匹か。きついなあ」
目の前の現実に苦笑しながらも、覚悟を決めた顔で、身を僅かに落とし剣を構え直し、あらためて戦いの姿勢に入る雲音であったが、
「遅くなったっ!」
ここでようやく、助っ人登場だ。
白い色の魔道着、白田雉香が腰から剣を抜きながら走り寄ってくる。
さらにその後ろから、嘉嶋祥子、慶賀応芽の姿も。
雲音は、ふううっとため息を吐き、額の汗を拭うと、薄く笑みを浮かべた。
「遅いわ!」
額の汗をごまかすように、怒鳴っていた。
4
「堪忍な。これでも急いで……つうか雲音ちゃんだけがデパ地下で遊んでて、近かっただけやんか」
「まあそれは後や。雉香ちゃん、この子を現界までお願いしてええか?」
すぐ背後に、女の子が変わらず狂った様子で暴れ喚き続けている。雲音は、半身を捻って、ちらりと視線を向けた。
「ああ、その子がターゲットなん?」
ヴァイスタは、潜在魔法力が強く、なおかつ戦闘能力に劣る者を、優先して狙うことが分かっている。
要するに、なるべく安全に、強大な魔力を喰らいたいのだ。
狙われるのは、女子小中学生が多いが、大学生や、ごく稀にOLの場合もある。
このような、ヴァイスタにとっての餌になる人物が、ターゲットと呼ばれている。
「せや。襲われた怖さで、すっかり正気をなくしとるから、注意してあげてな」
「オッケー了解や!」
白田雉香は元気よく叫ぶと、ヴァイスタの脇を通って、雲音や女の子へ近寄ろうとする。
ヴァイスタが見逃すはずもなく、姿勢そのままに長い腕を片方ぶんと振って、雉香を攻撃した。
想定済、とばかり身を捻って楽々かわした雉香は、右手に持っていた剣で、ヴァイスタの長い腕を見事切り落としていた。
「おー、さすがやな」
雲音の感嘆の声に、
「なんやの、さすがって」
雉香は照れた笑みを浮かべながら、雲音の肩をぽんと叩くと、その後ろで喚いている女の子の手を取った。
「さ、美人のお姉ちゃんと一緒に、こんなケッタクソ悪いとこから、とっとと逃げるで。ほおら、怖くない怖くない」
雉香が笑いながら、小さな声で呪文を唱えると、大暴れしていた女の子は急におとなしくなり虚ろな表情、手を取られるまま立ち上がった。
「なるべく早う頼むで。三人対三匹じゃあ、さすがにちょっとしんどいわ」
「分かった了解! 主人公が戻るその時まで、なんとか持ちこたえるのであるぞ、従者ども。ほな、さらばやっ」
雉香は、女の子の手を引いて走り出し、もう片方の手で剣を振るってヴァイスタを牽制しつつ突破すると、地下街の角を曲がって姿を消した。
こんこんこんこん、足音もすぐ小さく聞こえなくなった。
「だあれが主人公や、ったく。ほな、いつも通りの作戦で戦うで。祥子は囮役をお願い出来る? お姉ちゃんは、あたしの援護な。ほな早速、いくでえ!」
雲音は、いうが早いか一体のヴァイスタへ走り飛び込むと、両手に握った剣を、下から斜めに跳ね上げた。
淡い照明を受けて、きらり剣が光ると、白い巨人の左脇腹から右胸にかけて、背骨が見えそうなくらいに深く裂けていた。骨があれば、であるが。
庇っていた女の子が、いなくなったことにより、ようやく渾身の力を込めることが出来たようで、ずばり切り裂かれた白い巨体は、ぐらりと左右にふらついた。
だが、少し狙いを外してしまったようで、致命傷を与えることは出来なかった。
どん、と片足をついて、地面をぐらつかせつつ自らを支えたヴァイスタは、二本の腕をしなやかかつ豪快に、雲音へと振り下ろした。
「うわ」
驚きの悲鳴を上げながらも雲音は、しっかり攻撃を見切り、かわし、剣を払い上げて腕を一本切り落としていた。
「ああびっくりしたあ。危なかった」
「びっくりしたあはええけどな、そもそもなんでお前が仕切るんや」
応芽は、些細なツッコミを入れながら、雲音の斜め後ろに立ち、長い騎槍を手負いのヴァイスタの腹へとぶちゅり突き刺した。
「でもまあ、ぼくらのチームってまだリーダーがいないし、丁度いいのかもね」
祥子が左右に手斧を構えながら、囮役になるべく二体のヴァイスタの間を抜けようとする。
二体それぞれから、長く太い槍が鋭く突き出されるが、斧で巧みに防御しながら抜け出した。
あらためて二体とへ向かい合うと、自分に向かってくるように挑発しながら、じりじり後ろへと下がる。
「女のくせに、自分をぼくっていうな。つうかリーダーやったら、別に祥子でもええやろ」
「ガラじゃないよ」
祥子は笑みを浮かべながら、なおも左右の手斧でヴァイスタを挑発し、自分へと誘導する。
「ふてぶてしい顔しとるところとか、むしろ適任や思うでえ」
「ぼくほど温和な顔は、そうそういないと思うけどなあ」
「せやから、ぼくいうなって」
「はいはい。わたしわたし」
などと、軽い言葉をかわす二人であったが、
「ほおら、祥子ちゃん、お姉ちゃん、いま動かすんは口やないやろ!」
雲音に一喝されると、真顔になってヴァイスタと向き合った。
みな、心の中では最初から真顔であったが。
ヴァイスタとの戦いが、怖いからである。
いつ殺されるかも分からないし、殺されたとして、普通に死ねるのかも分からない。つまり、魂がみんなと同じところに行かれるのかも。
だから、このように明るく振る舞って、恐怖を飛ばしながら戦う魔法使いは多いのだが、彼女たちも例外ではなかった。
当たり前だ。
まだ十代前半の、女の子なのだから。
「ほな行くで」
雲音の声に、みな腰を落とし武器を構えた。
かくして三人対三体の、戦闘が開始されたのである。
5
かくして戦闘が開始されたのであるが、雲音たちの取った作戦は、至極単純であった。
敵は三体。
うち二体を、祥子が引き付けておいて、その間に残る一体を、応芽と雲音で挟撃する、という各個撃破の戦法だ。
数日前に戦ったヴァイスタは、妙に知恵が働くタイプで、連係を使ってくるほどだったので、なかなか思惑通りに動いてくれずに、苦戦した。
今回は、そこまで賢くないようで、祥子の挑発に、二体が簡単に誘導されて、簡単に分断させることに成功した。
「おりゃあっ!」
応芽の叫び。
両手に握った騎槍で、胸を突き、引き、薙いだのだ。
負わせたのが浅い傷であったため、ヴァイスタの動きはいささかも衰えることなく、太く長い両手を硬くさせて、凄まじい速度で真っ直ぐ突き出し、反撃をした。
応芽は冷静に見切り、後ろに引きながら身体を捻って、紙一重でかわした。
ヴァイスタの腕が伸び切ったそのタイミングで、今度は雲音が、身体を回転させながら懐へと踊り込んだ。
胸へと、剣の一撃を浴びせようとする瞬間、ヴァイスタの腕がぐにゃり折れ曲がって、ブーメランのように戻り、雲音を背後から襲った。
まるで軟体生物の触手である。
雲音は、間一髪、屈んでかわしたていた。
頭を上げつつ、その触手を鉄棒に見立てて、地を蹴り逆上がり、くるりん腕の上へと飛び乗り、立った。
双子故の思考回路で、反対の腕には、既に応芽が乗っていた。
目配せし合うと、先に動いたのは応芽。
たたっと腕の上を小走り、両手に持った騎槍の柄をぶんと回して、ヴァイスタの頭を柄尻で叩くと、さらに半回転させて切っ先で切り裂いた。
柄を引いて距離を取ると、渾身の力を込めて頭に突き刺した。
すぐさま引き抜き、大穴の空いている頭を、強く蹴って、その勢いで大きく離れ、静かに着地した。
「いまや、雲音!」
拳を握り締め、叫ぶ応芽。
「分かった! でもお姉ちゃん、凄いやん!」
「こないだの分も、頑張らへんとあかんからな」
戦い始まって、すぐに怪我をして、そのために祥子が二体を相手に防戦を余儀なくされることになった。その時のことをいっているのだろう。
「ほな、いくでええええ、超魔法っ、ベンツァーヴァイルドっやあああああああああ!」
いつの間に呪文を唱え終えていたのか、雲音は叫びながら、足元つまりヴァイスタの太い腕を蹴って、高く飛び上がっていた。
空中で、雲音の身体が四人、五人、と分裂していた。
そして、落下する。
薄黄色の魔道着を着た、五人の雲音が、振りかざした剣をヴァイスタへと叩き付けていた。
頭、胸、背中、腹、腰、ぶちゅぶちゅ粘液の弾ける音と共に、剣が容赦なく切り付け切り裂き、すたん、一人の雲音が着地する。
ヴァイスタの動きが、完全に止まっていた。
「よおし、昇天や」
動作を停止した白い巨人へと、姉、応芽は近寄って、そっと伸ばした手のひらを腹部に当てた。
「イヒベルク……」
呪文を唱えると、ヴァイスタの至るところ切り裂かれている肉体が、コマ送り逆再生映像を見ているかのように、復元していく。
だが、本当に逆再生をしたわけではない。
見た目が戻ったというだけであり、修復されたわけではない。
ヴァイスタは顔になんらパーツのない、のっぺらぼうであるが、人間でいう口に当たる部分に、魚の口に似た小さな切れ目が出来ていた。いわゆる、おちょぼ口である。
その、魚の口に似た切れ目が、にやり笑った、かに見えたその瞬間、頭頂がキラキラと輝き出し、粉のようになって崩れ始めた。
全身が風に溶けるまで、数秒と掛からなかった。
「これで、あと二匹やな」
応芽は、ふうっと安堵の息を吐いた。
なんとか倒せた、という安堵と、
足手まといにならなかった、という安堵に。
「なかなかの姉妹連係だったね、あたしたち。ようやくこのチームも調子が出てきたなあ」
雲音は満足げな笑みを浮かべた。
「せやな。あたしも、騎槍で援護する要領が分かってきて、ようやく仲間に入れた気がするわ」
応芽は恥ずかしそうに笑みを返した。
「おい二人とも、のんびりしてないでさあ、こっちもなんとかしてくれよお!」
二体のヴァイスタに、矢継ぎ早の攻撃を仕掛けられ続けて、左右の手斧で防戦一方の祥子。
不満たっぷりという顔だ。
「あかん、素で忘れとったわ。祥子、堪忍な」
応芽は笑いながら、騎槍を両手に握り、構えた。
「堪忍じゃないよ! ぼくにばっかり苦労させて。後でラフェリューズのケーキおごってもらうからね」
「いやいやいやいやラフェリューズは高級過ぎやろ! 健全な十代女子は、赤貧やと相場が決まっとるんやで。……駅ナカにあるモンゾーの、シュークリームでどないや?」
「はああ、モンゾーのお? しかも、シュークリームう? ……ならば五つ」
「えーっ。しゃあない、雲音も出せよな」
「えーっ。しゃあない、雉香ちゃんも戻ってくるやろし巻き込むか」
「お待たせえ!」
白田雉香が戻ってきた。誰にとって幸か不幸か。
「やった、ナイスタイミングや! で、さっきの子は?」
雲音が尋ねる。
「現界や。念のため思って、地上の駅向こう側にまで送り届けたし、もちろん記憶も消しといたで」
「よかった。ありがとう。モンゾーのシュークリームもよろしく!」
「なにゆうとる?」
雉香はきょとんと首を傾げ、聞いていた応芽はぷっと吹き出した。
「後で話すわ。まずは、ぱぱっとこいつらを倒すで」
「よおし。残りは二匹、対してこっちは世界最強チームの四人や! ほな、いっくでえ!」
応芽は叫びながら、祥子と雉香の間に立ち、遠目から一体のヴァイスタへと騎槍を突き出した。
もう一体のヴァイスタの、腕がぶんと唸りを上げて、横殴りに応芽たちを吹き飛ばそうとするが、応芽は素早く返した騎槍でその攻撃を跳ね上げた。
「今や!」
応芽の声と同時に、祥子が高く跳んでいた。
丸めた身体をくるり回して、地下街の天井を蹴ると、高速落下しながら左右の手斧を交差させて、ヴァイスタへと切り付けた。
その隙に、脚の間をごろり転がって裏へ抜けた雉香が、立ち上がるなり雄叫び上げながら、巨大な背中へと、渾身の一撃を浴びせた。
見事に決まったかに見えたが、防御力の高い個体であるのか、致命傷には至らなかったようで、ヴァイスタは背の傷を修復させながら、くるり振り向いた。
一撃渾身過ぎて、すぐには動けない雉香の身体を、ヴァイスタの、振り向きながらの右腕が襲う。
自動車を一瞬で鉄くずに変える剛腕に、真横から払われて、雉香は無抵抗のまま弾き飛ばされていた。
「雉香ちゃん!」
雲音が、空中を吹き飛んでくる雉香の身体を抱きとめて、二人揃って壁に衝突した。
「た、助かったわ、雲音ちゃん。ありがとうな」
「かまへん……って、やば!」
言葉をかわし合っている余裕はなかった。
二人とも、壁にめり込んで、身動きの取れない状態であり、そこを逃さずヴァイスタの触手の腕が、ぶんと唸りを上げたのである。
絶体絶命とも思われたが間一髪、触手の腕は、間に立った祥子の手斧により受け止められていた。
その隙を逃さず、
「ううおりゃ!」
応芽が騎槍を、ヴァイスタの腹部に深々と突き刺した。
「ありがと、祥子ちゃん、お姉ちゃん」
めり込んだ壁から抜け出す、雲音と雉香。
深々突き刺した騎槍の一撃は、まだ致命傷でないのか、ヴァイスタの肩がぴくり動いたかと思うと、腕が槍状に伸びて応芽を襲う。
屈んで避けた応芽は、騎槍を抜くと同時に、粘液に覆われた腹を器用に蹴って後方へと跳び、跳んだ瞬間には壁を蹴って、その勢いで再び腹部に騎槍を突き刺していた。
ぴたり。ヴァイスタの動きが静止していた。
ついに致命傷を与えたのである。
「お姉ちゃん、凄い!」
「いやあ、エースの座を奪われそうやわあ」
雲音と雉香、軽口をいいながら、二人で前後からヴァイスタを挟み、腹と背、それぞれに手を当て、昇天の呪文を唱え始める。
「あたしやない、このチームが最高なんや。だから、あたしはどんどん成長出来る。戦えるんや」
応芽は、残る一体となったヴァイスタへ飛び掛かり、槍の切っ先で切り付けた。
胸の中、高揚感に満たされながら。
そうや。いつか、すべてのヴァイスタを倒して、世界に平和をもたらすんや。
あたしなんか、本当は足手まといになっておかしくない実力やけど、でも、構へん。
雲音、雉香、祥子、あたし。
このチームは、あたしもおって最高なんや。
魔力が高くないなりに戦い方を覚え、充足されたからだろうか。
これまで常に、魔力が高くないことに劣等感を抱いていたのに、その絶対値がそのまま満足感と、嫌味のまるでない優越感に繋がっていた。
妹と、友達と、この世界を守る幸福。
だけど、その日々は、長くは続かなかった。
長くないどころではない。
それから僅か数分の間に、希望が絶望に変わるなど。
誰が想像出来ただろうか。
6
どれくらいの間、ただ呆然と立ち尽くしていたことだろう。
どれくらいの間、思考が完全に消し飛んでいたことだろう。
慶賀応芽は、不意に、はっと目を見開くと、全身を激しく震わせた。
隣にいる、雲音と祥子も、あまりの驚きに、口を半開きにした顔で、目の前の光景をただ見つめている。
我に返った後も、応芽は、ただ見ていることしか出来なかった。
どれくらいの時が、経った頃だろうか。
「嘘やろ……」
ようやくにして、応芽が小さく口を開いて、微かな言葉を絞り出したのは。
「嘘、やろ」
かすれた声で、同じ言葉を繰り返した。
嘘であって欲しい。
夢であって欲しい。
こんな、地獄のような。
いや、地獄よりも酷い、こんな、信じがたい光景など。
嘘であって欲しい。
でも、現実であった。
ここは、吹田駅南口のバスターミナル。
その、異空側である。
視界に入るすべてが、歪み捻じれた、腐臭漂う世界の中に、学校の制服を着た三人、応芽、雲音、祥子が立っている。
彼女たちは、目の前に、ずるずると這いまわっているものを、ずっと見つめている。
好んでそうしているわけではない。
状況を受け入れられる精神状態でなく、なおかつ取り乱して発狂するには、あまりに魔法使いとして鍛錬され過ぎており、結果として、なにをすることも出来なかったのである。
彼女たちの目の前を、ずるずると這っているのは、真っ白で、体表が粘液で覆われた、巨大な蚕のようなものである。
鼻にあたるところに微妙な隆起が認められるだけの、目や口などのパーツが一切存在しない、のっぺらぼう。
頭部には、ショートヘアーのカツラが乗っているかのように、黒い毛が生えている。
おぞましくもあり、滑稽でもある見た目であったが、這い回っているうちに、ばさりざさりと抜け落ちて、最後には黒い塊ごとずるりとずれて地に落ちた。
顔面と同様に、頭部も、ぬるりつるりと粘液質な、白いゼリーと見まごう状態になった。
這い回るそれの、すぐそばには、応芽たちと同じ吹田市立醍醐中学校の女子制服。それが引き裂かれて、地に落ちている。
プラウス、スカート。それどころか、下着まである。
この這い回っているものが、衣服の所有者であるならば、つまりは全裸、ということになるのだろう。
だが、細長い手足で四つん這いになっているその姿には、顔のパーツや耳の穴もなければ、肛門も陰部も見当たらない。
ナメクジが人間の形状になったとしたら、こうだろうか。
白いゼリーが生命を持ったならば、こうだろうか。
得体の知れない、粘液質の存在。
しばらく、細長い手足で四つん這い、意味があるのかないのか、うごめいていたが、
不意に、ぐるりと身体を回して、
こちら、応芽たちのいる方を向いた。
表面になんにもない、ぬるりとした顔を、そっと上げた。
「雉香ちゃん……」
雲音の、震える声が、力なく親友の名前を呼んだ。
それに応えて、か否か分からないが、真っ白なおぞましい存在は、ゆっくりと、ぬるりぬるり音もなく、こちらへと近寄ってくる。
腹が地に触れた、低い四つん這いの姿勢で。
だが、目的は応芽たちではないようであった。
雲音のすぐ後ろに、十歳くらいの女の子が倒れているのだが、応芽と雲音との間を抜けたその白い生物は、倒れている女の子の上に逆向きに覆いかぶさったのである。
数秒の間をおくと、すんと首を落とし、女の子の腹部に、顔を埋めた。
奇妙で、不気味な、生理的嫌悪感を催す音が聞こえてきたのは、その直後だった。
がまっ
ぶつん
がまっ
ちぎっ
ちぎっ
ぐちゅり
ぐちゅり
ちゃっ
弾力のある、生の肉を食らう時の、そんな音だ。
ひと呼吸しようと思ったのか、不意に、真っ白な顔が持ち上がる。
顔の下半分が、真っ赤に染まっていた。
なんのパーツもない、のっぺらぼうであったはずが、人間でいう口にあたる部分が横に裂けており、なにか長いものが、くわえられている。
ピンク色の、ぬらぬらとてかりを放っているそれは、人間の、腸であった。
倒れている女の子の腹部が、皮膚どころか筋肉までが完全に食い破られており、血溜まりの中から、伸びる小腸を引き出して、くわえていたのである。
むる
むちゅん。
噛みちぎられた腸が、腹部に空いた大穴に落ちると、ゆっくりとした動作で、また血溜まりの中へと顔を突っ込んだ。
「やめて……」
慶賀雲音の、震える声。
青ざめた顔。
ぞちっ
くちゅりっ
ちゃっ
きちゃっ
「雉香ちゃん! もうやめて!」
雲音は、叫んでいた。
叫んだが、それで目の前の光景が、いささかも変わることはなかった。
ほんの少し前まで、白田雉香という存在であった、この成り立てのヴァイスタは、親友の見ている目の前で、絶命している女の子の内蔵を食らい続けたのである。
「雉香ちゃん、雉香ちゃん!」
雲音の絶叫が、異空に虚しく響くばかりだった。
7
このおぞましい出来事が、一体どのようにして始まったのか。
時は五分ほど前に遡る。
「っかしいな、だいたいこの辺りのはずやねんけどなあ」
ぶつぶつ小声で呟いているのは、慶賀応芽である。
左腕のリストフォンと周囲の建物とを、交互に見比べながら、早足で歩いている。
一人ではない。
すぐ隣には妹の雲音、後ろには嘉嶋祥子と白田雉香。四人一緒である。
他に人は誰もおらず、空気はしんと不気味なほどに静まり返っている。
ここは吹田駅南口にあるバスターミナル近辺であり、そして現在は平日の午後五時。人も自動車も隙間のないくらいの混雑をしているはずの時間帯だが、そうでないのは、ここが異空だからである。
四人はみな、ここから徒歩圏内である、吹田市立醍醐中学校の制服を着ている。
袖やスカートの裾から見えている、手足の肌は、すり傷だらけだ。
先ほど地下街で、彼女たち魔法使いは、三体のヴァイスタと戦った。その負傷もろくに治療出来ないまま、新たなヴァイスタ出現の知らせを受けたのである。
出現場所の情報は、先ほどの場所からすぐ近く。
駅を、反対側に抜けたところだ。
応芽の後ろで、白田雉香がやはりリストフォンの画面と周囲とを交互に見ながら、
「ここ、さっき助けた女の子と、別れたとこの近くやな。……なんもないと、ええんやけど」
なんとも焦れったそうな声を発した。
「まあ大丈夫やろ。仮にさっきの子やとしても、ヴァイスタは別やん」
応芽は、くるり振り向いて後ろ歩きをしながら、笑顔で雉香を励ました。
ヴァイスタは、異空と現界の境界の、弱い箇所を探し出して突き破り、ターゲットである女性を捕獲し、食い殺す。探し出すのは、手当たり次第。つまり、違うヴァイスタである以上は、作業も最初からなわけで、それなりの時間は掛かるはずだ。
応芽のいう、ヴァイスタは別、とはそういう意味である。
「せやけど……」
まだなにかをいいたげに、雉香は口をもごもごと動かした。
また前を向いて、先頭を歩く応芽。であるが、それから何秒もしないうちに、突然、立ち止まった。
すぐ真後ろを歩いていた雉香が、目の前の後頭部にごっつん鼻をぶつけてしまう。
「ウメちゃん! もお、なんやの急に止まってえ。はよ探さにゃあかんのに!」
雉香は、手のひらで鼻を押さえながら、応芽の肩越しに、前を見る。
絶句していた。
応芽と同じものを見た瞬間、雉香は、絶句し、呆然となっていた。
目の前に立っている、白い巨人の姿に。
その周囲の、光景に。
肩の高さだけでも二メートルを優に超え、体表はまるで真っ白なゼリー、ふるふると震えているのが、ヴァイスタである。
その、ヴァイスタと、建物の壁との間に挟まれて、人間の姿が見えている。
磔にされた、幼い女の子であった。
丸太のごとく太いヴァイスタの腕が、胸を貫いて、壁に突き刺さっているのである。
「あ……ああ……」
雉香の声から、呻き声が漏れていた。
その呻き以外、物、音、時、すべてが静止していた。
凍っていた。
どれだけの時間が、過ぎたであろうか。
世界が、不意に動き出すまでに。
ぬるり、くちり、と粘液質な音を立てて、ヴァイスタが巨大な腕を引き抜いたのである。
胴体を完全に貫いていた、女の子の身体から。
支えを失った女の子の、膝が崩れ、顔から倒れ、身体が小さく弾んだ。
胸と、口から流れる血が、路面を一瞬にして真っ赤に染め上げていた。
頬を地に付け横を向く、彼女のその目は、もうなにも映してはいないようであった。
「ああ……」
はあはあと荒い呼吸の中から漏れる、雉香の呻き声。
汗ばんだ手を、ぎゅっと強く握った。
絶命し、倒れているのは、先ほど雉香が助けて、ここへ送り届けた女の子であった。
「あかん。間に合わへんかった」
悔しそうな、応芽の声。
「たまたま、境界の薄いところがあったんだ」
祥子が言葉を続ける。
「まずはこいつを倒さんとな。いくでみんな、変身や!」
慶賀雲音が叫び、両腕を振り上げる。
と、その時であった。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
獣びた低く凄まじい絶叫が、異空に響き渡ったのは。
それは雉香の声であった。
涙を流していた。
雉香は、身体をよろめかせ、天を砕いて落としそうなほど激しく叫びながら、ぼろぼろと、大粒の涙をこぼしていた。
「あたしのせいで……あたしのせいでっ」
両膝を落とすと、路面を爪で引っ掻いた。
がりがりがりがり引っ掻いた。
「違うよ雉香。ヴァイスタなんか、どこにでもいるんだ。運が悪かっただけ。自分を責めてはいけない」
「祥子のいう通りや。もしこの子を自宅まで送っていたとしても、そっちにだってヴァイスタは出るんやで」
泣き叫ぶ雉香の姿に、祥子と応芽が励ましの言葉を送る。
だが、雉香の耳には、その声はまったく届いていなかった。
頭を抱えてイヤイヤをしていたかと思うと、いきなり道路を殴り付け始めた。
両手で、何度も、何度も、何度も。
当然ながら、皮膚がすぐにすり剥けて、かすれた赤炭の筆跡のごとく、血が路面を染めた。
ぎちりぎちりと、歯を軋らせている。
へし折れたのではないかというくらいの、不快な音をさせたかと思うと、だん、と両拳で地面を叩いた。
立ち上がった。
「うああああああああああ!」
大きく口を開き、絶叫を放ちながら、雉香は、眉毛の釣り上がり切った、凄まじいまでの怒り憎しみの形相で、走り出した。
魔道着も纏わず。代わりに、全身から噴き出すドス黒いエネルギーを纏いながら、全力で、白い巨人、ヴァイスタへと向かって。
生身の身体、無防備な体勢で。
「無茶や!」
手を差し出し制止しようとする応芽であるが、一瞬遅かったし、遅くなくとも止められなかっただろう。
差し出された指先を弾いて、雉香は走り抜けていた。
ヴァイスタへと、飛び込んでいた。
この凄まじい負の感情を叩き付けられても、ヴァイスタはまったく感情を感じさせることなく、ただ二本の足で立っている。
雉香が攻撃圏内へと飛び込んだ、ただそれのみによって、ようやくヴァイスタが反応した。
触手状の腕を柔らかくしならせた、次の瞬間、その腕は丸太のように太く、固く、槍のように激しく、鋭く、雄叫び上げて迫る雉香へと、突き出されていた。
殺された女の子も、このようにして胸を貫かれ、生命を奪われたのだろう。
だが、例え怒りに我を忘れていようとも、雉香は訓練された魔法使いである。
自分の胸へと、槍のごとく突き出される、白い腕の側面を、身体を捻ってかわしつつ、渾身の力で殴り付けていた。
そのまま両手でヴァイスタの腕を掴み、強く爪を立てた。
「ああああああああああああ!」
健康そうではあるが、すらり痩せている中学一年生女子の、一体どこに、そこまでの怪力が潜まれていたのか。
まるで茹でたタコの足をもぎとるかのように、掴んだ太く巨大な腕を、捻じ切ってしまったのである。
ぼとりと落ちたヴァイスタの右腕が、一瞬にして、塵になって風に消えた。
雉香は、倒れ絶命している女の子へと、ちらり顔を向ける。
涙がまた、どっとこぼれていた。
「ごめんな。あたしのせいで……ほんまに、ごめんな」
だん、と地面を強く踏むと、再び怒りと憎しみの視線を、ヴァイスタへと向けた。
雄叫び張り上げながら、拳を突き出した。
魔道着も着ていないというのに、素手だというのに、そんな雉香の拳を腹部に受けて、どどおんという低い音と共に、ヴァイスタの巨体がぐらついた。
反対の拳を突き出すと、今度はぶちゅり不快な音。
ヴァイスタの胴体に、細い腕が、肘まで深々と埋まっていた。
飛び散る白い粘液を、顔面に浴びる雉香であるが、まるで気にしておらず、腹から細い腕を引き抜くと、再び突き出し、突き刺した。
ぶちゅり引き抜くと、今度は両の拳を組んで、ハンマー代わりに振り回し、真横へ薙いだ。
ヴァイスタの腹部が、深くえぐれ、吹き飛んでいた。
背中の皮一枚で分断を防いでいる、そんな状態になっていた。
バランスを保てずに、どおんと凄まじい音と振動とを立て転倒した、そのぬめぬめした頭部を、雉香の通学靴が、踏み付けていた。
「永久に滅んでろおおおおおおおおおおおおおおお!」
右手を、自分が踏み付けている頭部へと向けて、怒鳴った。
その手が輝きを放ち、真っ白な、超新星の大爆発の中に、すべてが溶けた。
そのあまりの眩しさに、
「うあ」
応芽は、目をぎゅっと閉じて、腕で顔を覆った。
薄く目を開いたその瞬間、今度は、驚きに目を大きく見開いていた。
驚くのも当然だ。
地に倒れていたヴァイスタの姿が、瞬きの間に、跡形なく消滅していたのだから。
魔道着を着ておらず生身のまま、しかも、昇天の呪文すらも使わずに。
「あああああああああああ! うわああああああああ!」
雉香が、まだ怒りの形相で怒鳴り続けている。
仇は討ったものの、それがため反対に、怒りの行き先を失って、体内からどるどると粘度のある怨念が噴き出していた。
狂った雄叫びを放ちながら、膝を落とし、四つん這いになると、また先ほどのように地面を殴り始めた。
「雉香!」
「雉香ちゃん!」
「雉香!」
応芽たち三人が必死に呼び掛けるが、もう雉香の瞳の中に、彼女たちはいなかった。
ただぽっかり空いた深い闇と、埋めつくす怨念があるばかりであった。
いや知るは雉香本人のみではあろうが、しかしどう見ても、正気を宿している瞳ではなかった。
失った正気の分、眼窩にはたっぷりの狂気憎悪が詰まり、膨張し、今すぐにでも爆発しそうであった。
雉香の拳が振り下ろされる都度、その慚愧や怨念が、擦り剥けた赤い血と混じって地を染める。
もう、応芽たち三人に、差し伸べる手はなかった。
ただ、黙って見ていることしか出来なかった。
何故、意味がなかろうとも、差し伸べなかったのか。
何故、意味がなかろうとも、殴ってでも立ち上がらせなかったのか。
なんにもしなかったことを、応芽は、死ぬほど後悔することになるのだが。
なにかをすれば、なにかが変わったかも知れないのに。
どれくらい、立った頃だろうか。
彼女たち三人が、異変に気付いたのは。
雉香が、両膝を着いたまま、動かなくなっていた。
怒り、悲しみ、心の叫びが聞こえなくなっていた。
なにかが、膨らんでいた。
その背中は、ぴくりとも動いていないのに、
心の声が、ぴたり止まっているのに、
だというのに、この、地から噴き上がる激情、闇、呪い、怒り、嘆き、破壊欲。
「雉香ちゃん……」
震える声で、震える手を伸ばす、雲音。
パシッ、手を弾かれて、雲音はびくり肩を震わせ、後ろによろけた。
誰も、弾いてなどいなかった。
目の前の雉香は、地に手を着いた四つん這いのまま、まったく動いていなかったのである。
動いていないどころか、呼吸すらも、していない?
呼吸による身体の上下動、胸部の膨縮が、微塵も感じられない。
静かであった。
粘度のある怨情を、どるどると噴き出しつつも、だというのに、まるで時が停止しているのか、微かな震えすらも、雉香の身体からは生じていなかった。
まるで、死んで……
いや。
動いている。
動いた。
ぴくり。
地に置いた手が、指が、動いていた。
ゆっくりと、立ち上がっていた。
誰が?
そこに立っているのは、雉香ではなかったのである。
応芽たちへと振り向いた、髪の毛の中には、顔がなかった。
中央に微妙な隆起があるだけの、目も鼻も、口もない、真っ白な皮膚が、自分の粘液に鈍く光っているだけだった。
8
かつて白田雉香であったヴァイスタは、ひざまずき、少し腰を浮かせた状態で、どん、どおん、と、空間を殴っている。
退化したのか、切れて落ちたか、指のほとんどがなくなっている、右手で。
傍らには、血みどろの幼い女の子が、横たわっている。
絶命していること、考えるまでもなく明らかである。
腹部が、食い破られ、内臓を喰らい尽くされ、ぽっかり空洞になっているのだから。
一人の人間を食べて、体内に栄養を取り込んだからだろうか。
ヴァイスタの身体が一回り、いやふた回り、人間の大人ほどの大きさに巨大化していた。
「雉香ちゃん! 雉香ちゃん! 雲音や! あたしの声、聞こえへんの? なあ雉香ちゃん! 返事しいや! なあ!」
涙目で、必死に呼び掛ける雲音。
だがその声は、かつて白田雉香であった白い怪物には、まったく届いてはいないようだった。
どん、どん、
現界にいるであろう、次の獲物を求めて、空間を殴り付けている。
慶賀応芽が、両の拳を強く握ると、ふーっと息を吐いた。
「もうこれは……雉香やない。……ヴァイスタや。昇天、させるしかない。やるで、雲音」
左腕のリストフォンをなでながら、妹へと顔を向ける。
妹、雲音は動揺のあまり姉の声が耳に入っていないようで、呆然とした表情のまま、ただ突っ立っている。嘘や、嘘や、とかすれた声で呟きながら。
「変身!」
応芽は諦めて一人、両腕振り上げ叫び、リストフォン側面のスイッチを押した。
中学校の制服が溶けて消えると、赤黒の、西洋甲冑風の魔道着姿に変じていた。
宙から落ちてくる、騎槍。
見もせず、腕を伸ばし柄を掴むと、柄尻を地に立てた。
「変身!」
わずか遅れて、嘉嶋祥子も続く。
中学の制服が溶け消え、銀黒の魔道着へ。
「確実に連係で仕留めよう。ウメは……」
「昇天させたる!」
祥子の言葉を大声で掻き消しながら、応芽は一人、ヴァイスタへと飛び掛かっていた。
絶対に、昇天させるんや。
でないと、雉香が成仏出来ひんやないか。
そうや、もう雉香は死んだんや。
死んだんや!
続く言葉を胸の中で叫びながら、目の前に立つ白い悪魔へと、騎槍を突き出した。
何度も、何度も。
応芽本人は、渾身の力を込めているつもりであるが、狙いがぶれにぶれ、粘液質の身体に弾かれて、まったくダメージを与えられている様子はなかった。
「くそったれがあ!」
もっと力を込めようとするあまり、騎槍の穂先が粘液で滑って身体を持ってかれ、足をもつれさせて転んでしまう。
そこを逃さず、ヴァイスタが両腕をしならせて、頭上へ振り上げ、その高さから一気に振り下ろした。
アスファルトが、砕かれ、えぐられていた。
一瞬前まで応芽の頭があった、アスファルトが。
応芽が、間一髪、身体を横に回転させて逃れたのだ。
「ウメ、躊躇うんじゃない! 成りたて相手に、苦戦するはずないだろう!」
祥子が怒鳴る。
「躊躇ってなどおらん!」
立ち上がり、騎槍を構え直した応芽は、再びヴァイスタへと身体を突っ込ませた。
ばちん。
弾き飛ばされていた。
応芽の身体が。
ヴァイスタの腕の振りを、まともに受けてしまい、横殴りに吹き飛ばされていた。
駅前ロータリーのバス時刻表に、背中を強打。金属板に、身体がめり込んで、ぐっと苦痛の呻き声を上げた。
ゆっくりと、ヴァイスタが近付いてくる。
応芽は、痛みに顔を歪めたまま、騎槍を構え直した。
ぜいはあ、呼吸が荒くなっている。
過呼吸気味に、肩を大きく上下させている。
痛み? 疲労? もちろんそれもあるだろうがの、それだけではなかった。
「躊躇うに……決まっとるわ」
涙が、ぼろりこぼれていた。
大粒の、涙が。
身体が、ぶるぶると、がたがたと震えていた。
「殺せるわけ、ないやないかあ!」
悲痛な、叫び。
だが、
重い思いは、友人へ届かぬどころか、むしろ殺戮の要求を掻き立てるものであったのか。
成りたてのヴァイスタは、突然、地を蹴って、応芽へと飛び掛かったのである。
ガツッ
鈍い音が響いた。
応芽の足元に、祥子が倒れていた。
ヴァイスタから応芽を庇って、その攻撃を頭に受けてしまったのである。
ぐ、と呻いたきり、祥子は動かなくなってしまった。
応芽は、絶叫しながら、騎槍でヴァイスタの腹を突くが、またもつるり滑って、よろけてしまう。
しゅん、と風を切り、唸りを上げて、ヴァイスタの腕が応芽を襲う。
反射的に、騎槍を横にして防ごうとしたが、その瞬間、もう一本の腕が、下からすくい上げて騎槍を弾き飛ばしていた。
迂闊。と応芽が認識した瞬間には、ヴァイスタに地へと押し倒されて、四つん這いに跨がられていた。
「うぐっ」
身体をよじり抵抗するが、両腕をしっかり押さえられており、まったく身動きがとれない。
ヴァイスタの真っ白な顔面が、すうっ、と応芽へと迫る。
「もう……もう、雉香には、戻らへんの? あたしたちの親友には、戻ってくれへんの?」
抗いをやめ、諦めて、儚い声で、応芽は問う。
答えは、なかった。
それとも、これが答えということなのか。
割れていた。
縦に、ぱっくりと。
ヴァイスタの顔が。
裂け目の内側に生えた、無数の鋭い歯を、応芽の顔へ食らい付かせようと、自らの顔を寄せたのである。
「雉香あ!」
応芽の悲痛な絶叫と、ヴァイスタががっと大口を開き顔を落としたのは同時だった。
ぎゅ、と応芽は強く目を閉じた。
顔面を食われて死ぬ恐怖と、友達を救えなかった情けなさに、やり場なく心を震わせたまま。
だが、思っていた結末は、訪れなかった。
ヴァイスタの動きが、止まっていたのである。
自分へと四つん這いに乗って、顔に出来た大きな裂け目の、無数の歯で、噛み付こうとしていた、ヴァイスタの身体が、ぴくりとも動かなくなっていたのである。
はあ、はあ、
荒い息遣いに気付いて、そちらへと視線を動かすと、妹が立っていた。
薄黄色の魔道着を着た、慶賀雲音が。
両手に剣を下げて。
下げた切っ先からは、どろりと白い粘液が垂れている。
確認するまでもなく、明らかであった。
雲音が、ヴァイスタの背中を叩き切ったのだ。
致命傷を与えたのだ。
「雉香ちゃん……あ、あたしっ……」
自分の起こしたその結果を、信じたくないのか。
雲音は、イヤイヤをするように首を振った。
「雉香ちゃん……」
目から、涙がこぼれていた。
大量の涙が、こぼれていた。
はふ、と息を吐くと、身体をぶるぶるっと震わせた。
「雉香ちゃん」
もう一度、友の名を呼んだ。
「しょ、昇天を」
銀黒の魔道着、祥子が、頭を押さえながら、ふらふらと立ち上がった。
雲音は、またはふっと息を吐くと、顔を上げ、
「あたしが、やる」
大粒の涙をこぼしながら、目を真っ赤に腫らしながら、その場に屈むと、手を伸ばし、姉にまたがったまま動きを止めているヴァイスタの背に当てた。
「イヒベルデベシュ……」
震える声で、呪文を詠唱する。
突然、ヴァイスタが動き出した。
すーっと立ち上がった。
ざっくりと切られていた、背中の裂け目が、逆回し映像を見るかのように塞がっていく。
顔面も、裂け目も傷もどこにもない。
人間でいう口に当たる箇所に、魚の口に似た、小さな亀裂が出来ていた。
人間の口ならば、にやあ、と笑ったと見える、そんな形に動いた。
頭頂が、金色に輝き出す。
さらさらと、粉になって、風に溶けていく。
顔、胸、足。
完全に溶け消えて、存在痕跡を残すのは、地面に少し盛られている粉ばかりになったが、それすらも風に流れていった。
異空という人外世界、その中ですらも白田雉香という存在は、完全に消滅したのである。
慶賀雲音は、はあはあと息を切らせ、立ち尽くしている。
ぶるぶるっ、と全身を震わせると、突然両手で頭を抱え、狂乱し、叫び出した。
「ああっあたしのせいや! あたしの、あ、あたしがっ、さ、さっきの、女の子、送るようお願いしたからや! だ、だからっ、だから雉香ちゃんが、責任を感じ、てしまって。ぜ、全部っ、あたしのせいやっ! で、で、でも、でもっ、こんなことになるなんてっ、あたし……あたしがっ、雉香ちゃんをっ……」
雲音はひざまづくと、両手に頭を抱えながら泣き叫んだ。
振り乱される髪の毛の中に、異変が生じたのは、次の瞬間であった。
ぴしっ
雲音の顔に、深い亀裂が入っていたのである。
蝋人形、マネキン人形にハンマーを落としたかのように、斜めに、はっきりと深い亀裂が。
そのまま、雲音の身体は、ぴくりとも動かなくなっていた。
「雲音!」
ぴしっ
また、雲音の顔が割れ、応芽の叫びを掻き消した。
「お、おんなじや……雉香と」
ほんまやった。
絶望が、ヴァイスタになる。
ほんまやった。
「あ、ああ……」
応芽は、なにも出来ないもどかしさと、ただ妹の身体が崩れていく恐怖の中、ただ呻き声を上げることしか出来なかった。
「ウメ、辛いことをいうが、覚悟を決めなきゃならないようだ」
「いやや! ずっと、ずっと一緒だったんや。な、なにがあろうと、雲音を殺すなんて出来るわけあらへん!」
「なら、ぼくが」
躊躇いなく、雲音の身体を真っ二つにすべく、手斧を振り下ろす祥子。
だがそれは、応芽の騎槍に弾かれていた。
「やらせへん。雲音は、誰にも。……あ、あたしが、やる。……絶望が、ヴァイスタに、な、なると、いうのなら……」
応芽は騎槍を投げ捨てると、呪文を唱え始めた。
霧に似た黒い光が、自らの周囲に生じたかと思うと、それは集束し、剣状になり、自らの右手に握られていた。
「魂の絶望がヴァイスタになるのならっ!」
ひざまづいている雲音へと、応芽は、黒い光の剣を叩き付けていた。
凄まじい音が響いた。
無数に重ねた薄いガラスが、粉々に割れ砕ける、不快な音が。
雲音は、突然力を失って、横へ転がり倒れた。
それきり、動かなくなった。
彼女の顔には、深い二条の亀裂が走っていたはずであるが、そのようなものは痕跡すらもなく、人形のように綺麗なままだった。
そう、人形のように。
目は開いているが、その目にはなんの光も感じられなかった。
やすらか、というよりは、ただ表情のない顔であった。
「雲音……」
応芽は小さな声を出すと、身体を震わせた。
えくっ、としゃくりあげると、また、大粒の涙がぼろりこぼれた。
「雲音!」
天を見上げて、号泣した。
号泣し続けた。
獣びた悲しい叫び声が、いつまでも、人外の地である異空の中に、響いていた。
9
統括リーダーを通して、リヒト所長にすべて報告した。
慶賀応芽と嘉嶋祥子、生き残った二人は。
ターゲットにされた少女を救えなかった責任感の大きさから、白田雉香の精神が崩壊し、ヴァイスタ化したことを。
ヴァイスタ化した雉香を、昇天させたことを。
きっかけを作ってしまった自責の念から、慶賀雲音にまでヴァイスタ化が起きたことを。
慶賀応芽が、混乱のあまり冷静な思考を保てず、ただヴァイスタ化を阻止しようと、雲音に精神砕きの術法を使ってしまったことを。
その翌日、応芽だけが所長に呼び出されて、色々と聞かれた。
問われるがまま、詳しく説明をした。
また、反対に、所長からも話を聞かされた。
絶望から人間がヴァイスタ化することは、ほぼ事実であろうと、既に分かっていたことらしい。
魔力の高い者、つまり魔法使いがヴァイスタになるということも、既に分かっていたらしい。
つまり今回の事件は、リヒト首脳陣や科学班の者からすれば、衝撃的なものでもなんでもなく、ほぼ確実のほぼが示す確率範囲が切り上げされた。というだけのことであるらしい。
応芽が混乱のうちに施してしまった、魂砕きについては、その場において不適切な判断ではない、とされ、特に責められなかった。
リヒトは単に、ヴァイスタ化しかけた人間の細胞構成などを、分析研究したかっただけではないか。
とも思ったが、自責の念と自暴自棄から、応芽は、それ以上考えることをしなかったし、考えることも出来なかった。
リヒトの幹部である応芽たちの父からも、辛かったなといわれ、頭を撫でられただけで、責められなかった。他になんにも、いわれなかった。
いって欲しかった。
応芽は。
父から、いって欲しかった。
苦悩の言葉を吐いて欲しかった。
糾弾して欲しかった。
傍から理不尽であろうとも、妹を殺した自分を、殴って欲しかった。
怒って欲しかった。
わめいて欲しかった。
悲しんで欲しかった。
泣いて欲しかった。
神にすがって欲しかった。
10
突然いわれて、びっくりした。
「東京へ? 特使、として?」
慶賀応芽は、はっきり聞き取れていたけれど、復唱確認した。
所長の言葉を。
「そう。東京、関東へ特使として、行って貰いたいんだ」
リヒト大阪本部内にある、所長室。
グレーのスーツを着た、至垂徳柳所長が、デスクに肘を起き、指を絡ませ手を組んでいる。
どことなく、楽しげにも見える表情で。
いつも飄々とした、薄い笑みを浮かべているので、ただ普段通りなだけかも知れないが。
でも、やっぱり応芽にはそう思えなかった。
特使、という言葉を聞かされた応芽側の問題かも知れないが、でもやっぱり応芽にはそう思えなかった。
こいつ、なあにがそないに楽しいんや。
リヒトはヴァイスタを倒す組織。それだけやないのか。
応芽は訝しげに、少し目を細めた。
妹を失ってから、もう半年も経つというのに、ずっと沈んだ顔の彼女である。少し煙たい顔をしたところで、さして印象の変わるものでもなかったが。
先ほどの自問。
リヒトはヴァイスタと戦うための組織ではないのか、という。
ただそれだけではないこと、実は薄々と、気付いてはいる。
目指すべきは、そこにあるのかも知れないが、そこへと辿る道、考え方が、色々ときな臭いものがあることは。
特に詮索するつもりもないが。
それで妹が蘇るなら、ともかく。
特使とは、競合他社であるメンシュヴェルトに加わって活動をする、向こうにとっての、いわゆる助っ人魔法使いだ。
メンシュヴェルトに協力することで自らも成長し、リヒトも健全に大きくなり、それが世界平和への貢献に繋がる。というのが、特使制度の表向きな理由。
裏向きの理由は、幹部の娘である応芽も知らないが、内情視察とか勢力拡大など、まあ様々な思惑はあるのだろう。
応芽は至垂所長から、その特使にならないかという話を、持ち掛けられたのだ。
「特使にならば、色々と話せることもあるよ」
「なにすりゃあええのか、少し詳しく教えて貰えます?」
所長の思わせぶりな言葉に、応芽はいっそ拍子抜けするくらいすぐに乗っかった。
妹のことにも無関係ではない。
そう思ったからだ。
真っ白な組織ではない。
元々、薄々とそう思っていたリヒトのことを、そして、至垂徳柳の裏の顔を、こうして応芽は覗き見ることになったのである。
所長が自らいっていた通り、確かに、色々なことを教えて貰うことが出来た。
一番、興味を惹かれつつ、同時に、内蔵よじれるような嫌悪を感じたのが、ヴァイスタ化現象の研究についてである。
世界の消滅を防ぐためにも、研究が必要なのは分かる。が、度を過ぎているどころか、狂気の沙汰としか思えなかった。
リヒトどころか、メンシュヴェルトすら設立されていなかった頃から、噂の一つとして存在していた、超ヴァイスタ。それを当然あるものと捉えた上で、それこそが新しい世界への扉を開くものと、信じているのだ。
信じているのは所長だけかも知れないが、首脳や科学班は、その考えを元に行動しているのは、間違いのない事実のようだった。
ただ研究をするだけであれば、反吐の出るほどの思いもなかっただろう。
だがリヒトは、魔力適正のある人物を、様々な調査からピックアップして、
「ヴァイスタに……しようとしとるのか……」
応芽は、ごくり唾を飲んだ。
「いやいや、わざわざってわけじゃないよ。捉えて拘束して実験したりとか。リヒトも別に、非人道的な組織ってわけじゃあないんだよ」
至垂所長は、ふふっと笑った。
「せやかて……お、おんなじことやないか」
拘束して実験して、超ヴァイスタを作るのと、
それとなく行動を誘導して、仕立てていくのと、
どう違うというんだ。
「ただ、もっと研究したいだけ。確証を得たいだけ。その結果として超ヴァイスタが出来るのなら、利用する。だって、もったいないじゃないか」
「狂っとるよ」
「いやいや、何度もいっている。如何なる手段でもというならば、応芽くんのいうことを否定出来ないけど、わたしは違うから」
なんとでもいっとれ。
そう思ったが、黙っていた。
不快を、自分の胸に押さえ付けていた。
「ヴァイスタが引き起こす『新しい世界』にも滅ぼされることのない世界、『絶対世界』が扉の向こうにあるはず。方程式により、そう導き出されているわけだが、そのような世界を支配出来れば、つまりは神になるということだ。……どんな果実であるのか、食してみたいとは思うがね」
だあっとれやキチガイ!
「考えておきます」
胸糞悪さに耐えられなくなった応芽は、一礼し、所長室を出た。
11
吹田の眺めが、眼下に広がっている。
ここは、吹田市立醍醐中学北校舎の、屋上である。
吹く風は、そよそよとして爽やか。
であるが、それに肌を撫でられている二人の顔からは、おおよそそんな爽やかな気配などは感じられなかった。
「ぼくに、話してもいいのかい? そんなことを」
嘉嶋祥子が、けだるそうに自分の右肩を揉みながら、遠くの街並みを見下ろしている。
「だって、チーム、もう祥子しかおらへんもん」
慶賀応芽は、決まりの悪そうなおずおずとした表情で、大柄な友人の顔へ上目遣いの視線を送って、ぼそぼそ小さく口を開いている。
二人とも、中学校の制服姿。
まあその格好なのは当然で、現在は朝の十時半、二十分休みを利用して、屋上へきているのである。
他にもボール遊びや読書をしている者などいるが、応芽たちの周囲は誰もおらず二人きり。
まあ、わざわざそういう場所を選んだのだが。
「超ヴァイスタ、絶対世界、ね」
わざとかは分からないが、祥子は眉間にシワを寄せて、ちょっと小難しい顔を作った。
「まだ確証があるわけやないらしいけどね。どちらにせよ祥子なら誰にもいわへんやろ思て相談した」
一般人に喋らないのは当然のこと、同じ魔法使い仲間にという意味である。
「まあ、いわないけどさ。でも、ぼくにそれ話したのは失敗だったかもよ」
「ゆうとる意味が分からへんのやけど。損するわけでもないし、ヴァイスタ研究が進むのはええことやろ? 超ヴァイスタに関わることしておれば、その絶対世界とやらへ連れていって貰うことだって出来るかも知れへんやん」
東京に行かれたら会えなくなるから、チームが壊れるから、だから反対だ、というのなら分かるが、おそらく祥子は、そういうレベルとはまったく別のことをいっている気がして。
それは、なんとなく想像も付いて、それは、ちょっと不快なことで、それで、つい応芽は不満げに唇を尖らせた。
「そりゃ、それがほんとなら。でも、そんな世界へ、行ってどうするんだい? もしかして、雲音のため?」
「当たり前やないか」
もしかもカカシもあらへんわ。
「はあ」
「にべない返事やな」
「現在の生活で、それなりに満足しちゃってるからかな。で、ウメは特使として、なにをするのかな?」
祥子は尋ねる。
「魔力係数の高い者と一緒に行動して、報告したり、あわよくば超ヴァイスタにしちゃって、あわよくば新しい世界の絶対世界へ行って、帰って逐一を報告しろ、とか」
「そこまではいわれとらんけど、まあきっとそうゆうことなんやろな。でも、もしも絶対世界へ行けたなら、ただ帰って報告するだけやなんてつまらよなあ。……果たしてどんな世界かなんて、あたしにはよう分からへんけど、神様とまではいわんまでも、そこで力を得て、雲音を蘇らせるとか、出来ひんのやろかね」
「さあ」
「神様本人ならば、魂を作れる、いや、治せるんやろなあ。もしくは、なかったことに出来るかも知れへんなあ。……最悪、入れ替えでもええわ。あたしが滅んで、妹が生き返るなら、それでも構へんわ」
「そういうこといわない」
「せやかて」
妹の魂を砕いてしまったの、自分だから。
肉体のヴァイスタ化を阻止しようとして、使うなとされている魂砕きの術法を、妹に施してしまったのだから。
考えるまでもなく、そんなことをすれば、肉体は単なる抜け殻になってしまうに決まっているのに。
冷静に判断したわけでもなんでもなく、亀裂が入り朽ちていく雲音の肉体を見て、半ば無意識に身体が動いてしまったのだ。
祥子が、またなんだか難しい顔をしているのに、応芽は気付いた。
「なんや」
大柄な友人の顔を、見上げながら尋ねた。
「間違っていると思うな。雲音がリスクなく蘇るならいいけど、そのために誰かをヴァイスタにしてしまうのは」
「別に、わざわざヴァイスタにしようというわけやない!」
「ほら、所長といってることが同じじゃないか」
「そ、それのなにが悪いんや。……もう、お前には相談せえへんわ!」
応芽はぴくり頬を引きつらせると、俯いたまま全力で走り出していた。
分かっていた。
飄々とした態度ながらも、根どころか先まで真っ直ぐな祥子が、認めるはずないことを。
だいたい、祥子なんかに理解出来るはずがないのだ。
遠い親戚と暮らしており、近い肉親は誰もいないのだから。
それも気の毒は思うが、それはそれ。妹が突然いなくなった悲しみなんか、理解出来るはずがないのだ。
でも、そんな祥子だからこそ、わざわざ相談したのかも知れない。
自分の気持ちにふんぎりをつけるために。
初めてこの件を所長に聞かされた時、あまりにも非人間的な内容に吐き気がする思いだった。
でも、自宅に帰って、妹のいるはずだった空間で時を過ごすうちに、だんだんと考えが変わっていった。
ヴァイスタの研究が進めば、あの、昇天で朽ちる際に身体の傷が逆回し映像的に戻っていく感じに、魂も戻るのではないか。
または、自分の砕いた雲音の魂は、実は砕かれてなどおらず、絶対世界に行けば取り戻せるのではないか。
ここが不思議のない世界ならば、期待はしなかったかも知れない。
しかし現実として、ヴァイスタはいるし、自分は魔法使いだ。
なにかをすれば、なにかが起こる。
そんな世界に、自分はいるのだ。
ならば、さらに上位に存在するとされる、絶対世界ならば、自分の希望を叶えることなど、雑作もないことなのではないか。
願い、叶うのならば、
例えどれだけの犠牲が出ようとも。
そんな思いを理解し、後押ししてくれる者など、いるはずがない。
当たり前だ。
だからこそ、否定をして欲しくて、祥子に相談したのではないだろうか。
分からない。
自分のことながら。
冷静に考えれば分かったかも知れないけれど、冷静でなかったから。
理解してくれないことに、本気で腹を立て、頭に血が上ってしまっていたから。
それから応芽は、翔子と口をきくことがなくなった。
仕事ならば、最低限の会話はしたかも知れない。
だが、チームが二人きりになってしまったため、再編成が決まるまでは、ヴァイスタ討伐任務は他チームに任せることになり、結果、いかなる時も、祥子とは、まったく口をきくことがなくなった。
こうして応芽は、一人きりになった。
12
多坂大学附属病院。
大阪府吹田市の郊外にある総合病院だ。
一般診療が基本ではあるが、リヒト指定の病院であり、つまりは職員全員がリヒトに所属している。
東病棟の四階にある病室に、今日も慶賀応芽は訪れていた。
妹である慶賀雲音の、お見舞いのために。
お見舞い、という言葉が適切なのか、応芽には分からないが。
だって、妹の魂は、もうこの場所にはないのだから。
この場所どころか、どの場所にも存在していない。
当然だ。
自分が、砕いてしまったのだから。
半ば無意識に魂砕きの術法を施して、粉々に。
ならば何故、自分はここへくるのだろう。
魂などを超越した、なにかにすがりたくて?
それとも、ただ単に信じたくなくて? 現実を受け入れたくなくて?
自分の心のことながら、分からない。
分かるはずがないだろう。
だって、こんな境遇の女子中学生など、世の中をくまなく探したっているか?
病室の中で雲音は、ギャッジアップされているベッドに背をもたれさせて、ずっと正面の壁を見つめている。
正確には、ただ顔がそちらを向いている。
目は両方とも開いているし、瞬きもする。
でもその瞳は、如何なる光も捉えていない。感じていない。
単なる肉体の反応だ。
だって、魂がないのだから。
とはいえ、魂はなくとも呼吸はしている。
心臓は動いている。
身体だって、触れればやわらかい。温かい。
見舞う意味があろうとなかろうと、ここにこうして生きた肉体の存在する以上は、会いにこないわけには、いかないではないか。
いっそヴァイスタになって昇天させられていた方が、雲音にとっても、遺された者にとってもよかったのかも知れないけど、でも、ここにこうしている以上は……
ぽかん、とした感じに口を半開きにしている雲音。
双子であり、姉とそっくりな、顔。
つ、口の端から唾液が垂れた。
「ああもう、よだれや。赤ちゃんやなあ」
応芽はやさしく笑いながら、腰を軽く浮かせ、自分のスカートのポケットからハンカチを取り出して、軽く拭ってやった。
ハンカチをしまい、椅子に座り直すと、綺麗になった雲音の顔をじーっと見つめる。
双子の妹であるだけに、鏡を見ている気持ちになる。
生身の、決して割れない鏡だ。
割れない?
違うな。
あの時……割れた。
割れて、砕け散るその前に、自分が、砕いた。
魂の方を。
どうすればよかったのだろうか。
絶望が精神を支配して、肉体が硬化し皮膚にヒビが入り、ヴァイスタへと存在が塗り変わっていく妹。
あの時、どのようにすれば、妹を救えたのだろうか。
「ああ、ウメちゃん、おったんや」
声にドアの方を振り向くと、白衣を着た山末実久が立っていた。
「雲音ちゃんを、ベッドに寝かせる時間なんやけど。も少し、このままにしとこか?」
「あ、はい、ちょっとだけ。あたし、やっときますよって。ベッドの操作、もう分かりますから」
「お願いな。ウメちゃん、まめにきて、世話してくれて、偉いお姉ちゃんやなあ」
「そんなんやないんです。こちらこそ、ここのみなさんにはお世話になりっぱなしで」
「こっちは仕事や。……あんまり、根詰めんといてね。少しやつれたで。今回の件は、ウメちゃんのせいやないんやから」
「おおきに」
応芽は、愛想笑いを作って小さくお辞儀をした。
「ほな、またね」
山末実久が手を振って去り、部屋にぴんと張ったような静寂が戻る。
静寂の中で、また応芽はじーっと雲音の顔を見続ける。
どれほどの時間が流れた頃だろうか。
ぼそ、と口を開いたのは。
「そら、確かに、そうかも知れへん」
誰のせいでも、ないのかも知れない。
方法なんか、最初からなかったのかも知れない。
でも……
関係、ないんだ。
あたしのせいとか、せいじゃないとか、そんなの、関係ないんだ。
だって、
だって、
雲音は……
「たった一人きりの、妹やないかあ」
立ち上がり、覆い被さり、強く抱き締めていた。
大粒の涙をこぼしながら。
頬に、頬を押し当てた。
くにゃりとした、やわらかな妹の身体を、さらにぎゅっと力強く抱き締めた。
「心配、せんでええよ。必ず、助けたるからな」
必ず。
この生命と引き換えようとも、必ず。
雲音……
13
夜、九時である。
自転車を漕いで、川園町にある自宅マンションに帰ったのは。
既に父親は仕事から帰宅していた。
父は、リヒトの幹部である。
母は、リヒトで研究者として働いていたが、現在は専業主婦。退職するにあたって、仕事に関する記憶はほとんど抹消されている。
父が書斎へと移動するタイミングで、応芽は呼び止め、母に聞かれないよう小さな声で尋ねた。
「あたしが、雲音みたくなった方がよかった?」
返事はなく。
かわりに、頬に思い切りびんたをされた。
壁に打ち付けられるくらい、思い切り。
そのあと、抱き締められた。
理由はともかく、ようやく念願が叶って、父親に殴って貰えたわけだが、特に嬉しくもなかった。
その時は、だからなんだとなんにも感じず、涙も出なかったけど、寝る時に、頬を押さえて、泣いた。
14
机に置かれたリストフォンから、映像が二つ、空間投影されている。
一つはコンピュータの情報映像。
モニターだ。
もう一つは、操作のためのキーボード。
映像なのに物理キーボードと同じ打鍵感が得られる、最新型だ。
投影された画面をタッチしたり、投影されたキーボードでタイプしたり、慶賀応芽は先ほどから自室にこもって、ずっと操作をしている。
学校から帰って制服を脱ぎ捨てただけの、半裸の状態で。
二十インチの空間投影モニターには、女生徒たちの顔や全身の画像、在席する学校についての情報が表示されている。
埼玉県杉戸町立広須間中学校。
魔法使い所属人数 九人。
Bクラス適合者 五人。
Aクラス適合者 なし。
「ふむ。Bクラスばっかやなあ。……まあ、選外のあたしは、C以下ちゅうことやろし、他人の文句もいえへんけどな。次は……」
机に頬杖をつきながら、空間キーボードをタッチして画面を切り替える。
東京都 私立習明館学院附属中学校。
魔法使い所属人数 五人。
Bクラス適合者 四人。
Aクラス適合者 なし。
また、キーボードをタッチし画面を切り替える。
千葉県我孫子市立第二中学校。
魔法使い所属人数 十人。
Bクラス適合者 四人。
Aクラス適合者 六人。
「ここはまあまあやな。……次は」
千葉県我孫子市立第三中学校。
魔法使い所属人数 四人。
Bクラス適合者 一人。
Aクラス適合者 三人。
「お、ここ、ええんちゃう? あれ、確かここ、樋口のおっちゃんが校長やっとるとこや。……ええと、なんやて、はあ、卒業でごっそり抜けて人手不足かあ」
全部で四人ちゅうのが少な過ぎて、確率的にアレやけど、でも、Aもおるのやし、ここは有力候補やな。
樋口のおっちゃんという知った顔もおるんで、やりやすいしな。
「明木……あきらぎ、と読むのか。あきらぎはるな……ははっ、平和ボケしてそうな顔しとるわ。おおとりせいか、こちらも。なんやお嬢様って感じやねんなあ。へいけ、武士か。つうか顔が子供やん。あきばかずみ、ごっつ凶悪そうな顔をしとるわあ。こいつらこんなんでホンマにAなんかなあ。まあええけどね」
次。
画面を切り替える。
千葉県浦安市立千鳥中学校。
目ぼしいのはなし。
次。
茨城県取手市立押切中学校。
茨城県土浦市立土浦第七中学校。
「みんな、いかついヤンキー顔やなあ。すげえな茨城って。ほな、次は……」
宮城県仙台市青葉区立前堀中学校。
魔法使い所属人数 十人。
Bクラス適合者 九人。
Aクラス適合者 一人。
非所属(魔法使い適正者)
特Aクラス 一人。
「はああああああ? なんやの、これ」
応芽はつい身を乗り出して、画面を覗き込んでいた。
特Aが非所属て……
まだ魔法使いになっていない、化物級の魔力器を持つ者がおるんか。
「適正判断が出たばかりってこと? どんなやつや、こいつ」
空間画面をタップし、特Aクラスとされている者の情報を表示させる。
赤毛がピンと跳ねている、おっとりした感じの女子の顔が表示された。
令堂 りょうどう
和咲 あさき
二〇三二年(令和十四年) 生まれ 十三歳
「こんな、とろそうな、アリも殺せんような顔でなあ。宝の持ち腐れちゃうの? あっ、さっきの千葉の、樋口のおじちゃんとこ、こいつそこに行かせたらええんちゃう?」
もともとこいつ、転校を繰り返しとるみたいやし、なら慣れっこやろ。
「特使様の権限や。よし、令堂和咲、お前は千葉の学校に転校や!」
ははははっとハイテンション気味に笑いながら、先ほどの天王台第三中学校の魔法使いを画面に並べ、そこに令堂和咲を加えてみた。
明木治奈
昭刃和美
大鳥正香
平家成葉
令堂和咲
「あたしが行くまでに、魔力の使い方をたっぷり鍛えて貰っとくとええよ、令堂和咲。……しっかしこいつら、こうして顔を並べてみると、まあホンマにことごとくがちょろそうな顔やなあ」
応芽は部屋に一人、楽しそうに笑い声を上げると、長いため息を吐き、あらためてニヤリ笑みを作った。
「ヴァイスタに、させて貰うで。みんなアホ面すぎて、ちょい気の毒な気がせんでもないけど」
でもま、東京モンの誰がどうなろうと、知ったことか。
あたしのために、みんな、ヴァイスタになるとええよ。
いずれあたしもそっちへ行く。
じわじわと、絶望へと追い詰めたるからな。
「楽しみに、しときや」
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