魔法使い×あさき☆彡
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第十一章 至垂徳柳
1
天王台第三中学校の体育館は、全校生徒が集まっているにもかかわらず、賑やかさなどは微塵もなく、むしろ、どんよりとした静けさに包まれていた。
現在、臨時朝礼の最中である。
壇上に、樋口大介校長が立って、生徒たちへ向けて話をしている。
昨日に起きた、第三中学校の生徒が巻き込まれた事件についての話である。
どのような事件であるかを考えれば、唾を飲む音も聞こえそうなこの静寂も当然と思うだろう。
二年三組の平家成葉が、狂犬の群れに襲われて、死亡した。
同じく二年三組、大鳥正香が、行方不明。
昨夜からテレビ、ネット、様々なメディアで報道されている。
大鳥正香については、名前までは報道で公表されてはいないが。
噛み殺された子と、同じクラスの生徒が現在行方不明。二人が直前に喧嘩していたらしいことから、殺人事件についてなんらかの関わりを持っている可能性があり、現在捜索中である。
大鳥正香については、このような扱いだ。
その行方不明の女子生徒が、野犬をけしかけたのでは。
いや、単にショックで立ち去っただけでは。
ならば、自殺している可能性も高いのではないか。
各メディアでは、様々な憶測が飛び交っている。
そうした情報のあること、みな知って理解した上で、校長の話を聞いているのである。
校長の話は、とりたてて独創的なものでもなく、ある意味ひながた通りのものだ。
まずは、事件の概要を説明。
この中学から、このような被害者を出してしまったことを、責任者として謝罪。
喧嘩と事件の繋がりなどまだ分からないが、残った生徒たちには、普段から悩みを相談しあうなどして抱え込まないように。
と、このような話である。
嘘ばかりだが。
なにが起きたのか、真実を校長は知っている。
知っていることを知っているから、全校生徒たちのちょうど真ん中あたりに立っている令堂和咲は、そんな嘘っぱちな話など全然聞いておらず、口をきゅっと結んで俯いていた。
仕方ないのは分かっているが、話を聞いていても、不快で、腹が立つだけなので。
しかしながら、というべきか、黙っていると当然ぐるぐる頭の中を回るのは、正香と成葉のことだ。
いつも、穏やかな笑みを浮かべていた正香。
いつも、無邪気にはしゃいで周囲を明るくしてくれた成葉。
もう、その二人はこの世にいない。
付き合いの長短など関係なく、彼女たちは自分にとって、かけがえのない親友だった。
二人を失ったことは、どんなに泣いても泣き足りないくらいに悲しい。
いつ自分を押さえられなくなって、発狂したように泣き叫んでしまうか分からないが、現在のところは、耐えることが出来ている。
昨日、というよりも今朝までずっと大泣きをしており、涙が枯れ切った状態だからだろうか。
おかげで、まぶたが真っ赤に腫れており、ひりひりしているが。
アサキの代わりに、というわけではないが、周囲のところどころで、女子たちのすすり泣く声が聞こえている。
毎日会っていた、言葉だってかわしたことのある生徒が、むごたらしい死を遂げたのだ。友達でなくたって、泣いて不思議はないだろう。
ましてや、自分は親友と思っていたのならば、なおのこと。と、考えると、アサキは、自分が現在、ただ俯いているだけであることに対して、罪悪感さえ抱いてしまう。
単に涙を流し過ぎて枯渇しただけならば、よいのだが、自分の、ある感情、ある気持ちが、涙の邪魔をしている気がして、それが後ろめたい。
自分もいつか正香のように、ヴァイスタ化してしまうのではないか、という不安や恐怖だ。
他人の心配だけをしていられない状況で、そのために同情心や悲しみが薄められているのでれば、ある意味でありがたくもあるものの、同時に申し訳なさや、腹立たしさを感じてしまうのだ。
実際に亡くなったのは正香であり成葉であるというのに、そんな自分の勝手に。
だん。
背後で、床を蹴る音がした。
見えていないが、おそらく、蹴ったのはカズミだ。
悔しくて、悲しくて、といった押さえられない気持ちからの行動だろうが、アサキはなんだか、自分が責められたような気がして、肩を縮めた。
アサキの正面、二人分前には応芽がいる。
頭と肩が、少し見えているだけであるが、どのみち後ろ姿なので、表情などは分からない。
どのような表情をしているのだろう。
どのような気持ちでいるのだろう。
カズミや治奈と同じように、仲間としてただ悲しいのか。
それとも……
昨日カズミが、隠し事をしていないかと、応芽を問い詰めていた。
応芽は、なにも隠していないといっていたが、とにかくそうした件があったものだから、やっぱり意識はしてしまう。
心から信頼しあう仲間であること、疑っていないが。
……言葉に矛盾のあることは承知ながら、本気でそう思う。
壇上での、校長の長い話もようやく終わりである。
黙祷の合図と共に、全生徒と教師はまぶたを閉じた。
と、その時である。
つうっ、とアサキの頬を涙が伝い落ちた。
枯れては……いなかった。
よかった……
いや、よくはないけど。
ごめん。
正香ちゃん……
成葉ちゃん……
こんな、ことで。
二人のために泣けることを、喜んでなんかいちゃあ、いけないんだけど。
でも、
でもっ、
悲しくて、
寂しくて、
わたしは……
一粒の涙がこぼれたことをきっかけに、様々な感情が錯綜し、そんな混乱の中、一つ一つの気持ちは本物で、そんな戸惑いの循環の中で、気が付けばアサキは、大声を上げ、泣き出してしまっていた。
幼児のように、ただ感情のままに。
周囲がざわつく中、枯れていなかった涙をボロボロこぼしながら、アサキはいつまでも泣き続けていた。
2
渋い暖色系の調度品が、いくつか飾られている。
狭く簡素で、高級というより上質を感じさせる、落ち着いた部屋。
天王台第三中学校の、校長室である。
牛頭の壁掛けの、すぐ下に、二十インチ強の薄型テレビがあり、画面には番組映像が流れている。
いわゆるワイドショーだ。
昨日に起きた、千葉県我孫子市内の女子中学生が死亡した事件についてを、取り上げている。
女子中学生は、野犬に顔や腹を食いちぎられて死亡。
場所は友人宅の前。
その友人は現在行方不明。
適当なことを偉そうに、もっともらしく語っている男女コメンテーターたち。
明木治奈、昭刃和美、令堂和咲、慶賀応芽、の四人は、テレビの前に肩を並べ、それぞれ顔に複雑な表情を浮かべて映像を見ている。
と、校長室のドアが開いた。
「ごめん、待たせちゃった。主な答弁は、須黒君に任せて、切り上げてきちゃった」
会見のため席を外していた、ゴリラ顔の樋口大介校長が、部屋の中に入ってきた。
口調こそ、いつも通りに軽く朗らかだが、その顔にいつもの笑みはない。
立って待っていた生徒たちに、応接用ソファに座るよう促すと、自分も部屋の奥にある肘掛け椅子に座った。
「異空との戦いの上で、ではないけれど、ついにうちからも、それ絡みの死者が出てしまったね」
腰を下ろしてからの、校長の第一声である。
アサキは、ちらり視線を左右に動かして仲間たちの顔を確認すると、ぼそり小さい声ながら、しかしはっきりと、詰問するかのような表情で尋ねた。
「以前に、校長はいいましたよね。ヴァイスタが魔法使いの成れの果てだなんて、噂だ、って」
なのに何故、と問うたのである。
問いを受けた校長は、一呼吸も置かず即答する。
「そうだよ。『魔法使い』を『魔法使い』と考えるのならね。だって、組織に登録されている人数と、関わりありそうな死亡者失踪者の人数とが、あまりに釣り合わないもの」
その言葉に反応して、治奈も口を開く。
「いずれにせよ、ヴァイスタは元人間なんだということが分かって、現在メンシュヴェルトの上層部は大騒ぎになってませんか?」
単純に、疑問の言葉を発しただけなのか。
ちくり棘で刺そうとしているのか。
はたまた純粋に、自分の所属する組織を心配しているのか。
治奈は、自分でも自分の気持ちを理解していないのかも知れない。というくらい、質問の言葉を吐く彼女の表情は、なんだか気が抜けてしまっていた。脱力感、悲壮感に満ちていた。
「いや実は……人間が成る、というのは分かってはいたんだ」
少女たちの表情に、一様に驚きの色が浮かんだ。
いや、よく見れば応芽だけが、あまり変化がないことが分かっただろうか。
「ただ、魔法魔力との関係が、まだはっきりしていない。先天的に強い者だけが対象なのか、魔法使いとして訓練で高めた場合はどうなのか、そもそも魔力はまったく関係ないのか。不確かな情報で、みんなをいたずらに煽って、不安にさせるわけにもいかないから、このことは一部の者しか知らないんだ。といわれて、面白くないかも知れないけど」
「はい、面白くはないですね。ほじゃけど、事情も分からなくはないので、責めるつもりもないですが」
治奈はつまらなそうに、ふんと鼻を鳴らした。
「その言葉だけでも感謝だ。……真実はまだ未確認ながらも、でも君たちは目撃してしまった。ヴァイスタへと変じる魔法使いを。それが仲間、友達ともなれば、どんなに辛くショックなことか、鈍感なボクにも想像はつくつもり。だから……メンシュヴェルトから脱退するのは自由だよ。戦い続けてくれと強制は出来ない。もちろん、ヴァイスタのことや魔法使いとして活動した記憶は消させて貰うけど」
メンシュヴェルトからの脱退、つまり魔道着を着てヴァイスタと戦うことをやめて、そうした知識、記憶すらない、なにも知らない一般人に戻るということである。
「わたしは残ります」
アサキの、迷いのない言葉。
迷いのない顔。
「だって、ここで魔法使いであることをやめたら、ヴァイスタと戦うことをやめたら、これまで一体なんのために正香ちゃんと成葉ちゃんが頑張ってきたのか分からない」
それだけをいうと、また弱々しい表情に戻って俯いてしまった。
カズミが、弱々しいアサキの肩を軽く叩いた。
「あたしも同じ気持ちだよ。魔法使いが戦わなきゃあ、この世は終わりなわけだし、なんにもせずに滅びを待っていたら、アサキのいう通り正香たちがなんのために戦ってきたのか分かんねえもんな」
「ほうじゃね。もう降りるわけにはいけんね。世界を守ることも大切じゃけど、それ以上に、正香ちゃん成葉ちゃん二人のために」
あらためて決意を刻み込もうということか、治奈は言葉の最後をゆっくり力強くさせながら、ぐっと拳を握った。
「でもよ、なんだって絶望することでヴァイスタなんかになるんだろうな」
カズミがぼそり、疑問の言葉を発する。
すぐに、返答があった。
「これまで唱えられていた説ではな、ああ、説っちゅうても幾つかあるんやけど、『魔法使いの成れの果て』とする場合な」
疑問に応じるのは、応芽である。
「ヴァイスタが、犠牲者の絶望を使って、犠牲者の魂を闇に染め上げて、仲間を作る、といわれているんや。数を増やしたいんやな。魔法力の強い者ほど、深い絶望の果てには、より呪われた、強大なヴァイスタになる」
「魔法力が強いほど……」
「強大な、ヴァイスタに……」
アサキ、そして治奈が、応芽の発する言葉に引き込まれて、知らずぼそりと反芻していた。
「せや。しかし犠牲者の意思が強く、絶望しつつもヴァイスタになることを拒むなら、殺し食らって闇だけ取り込む。個体数は増えへんけど、食らったその個体は強くなるし、魔法使いという敵も減るわけで、『新しい世界』へとさらに近付きもするっちゅうわけや」
応芽はここで少し言葉を切り、二呼吸ほど置くと、また口を開いた。
「ただな、今回の件で、ヴァイスタがおらへんでもヴァイスタに成ることが分かったから、説の前提部分が色々と当てはまらなくはなるんやけど、でもこの説はこの説で、大枠としては間違ってはいない気がする」
「詳しいじゃんよ」
カズミが腕を組み、壁に背を預けながら、応芽を見ている。
少し下げた顔で、少し冷めた目を、垂れた前髪から覗かせて。
「まあ、小学生の頃から組織におったからな」
「ああ、そう」
気怠そうな表情を応芽へと向けたまま、カズミは、ふんと鼻を鳴らした。
「なんや」
その態度が気に触ったか、応芽は食い付いた。
食い付かれたカズミの反応は、早かった。
「昨日の、お前のこと、なんにも解決してねえんだけど」
睨む、というまでではないが、前髪の間から、鋭い眼光を応芽へと向けた。
「せやから、なにがや」
「いわないと分からない? お前が寝間着で慌てて走ってきて、間に合わなかった、とかいって悔しがってたことだよ。あの時、正香がヴァイスタと一緒にいたわけじゃねえし、それまではその説の通りと思っていたんなら、別に一秒一分争う話じゃなかったわけだろ」
ぎゅ、カズミは両の拳を強く握るが、手の中の汗が不快なのかすぐに手を広げ制服のスカートで拭った。
応芽はそんなカズミを見ながら、焦れったそうに軽く足を踏み鳴らすと、詰め寄るように、
「い、いつヴァイスタと接触するかも分からへんやろ! あんな憔悴した状態やから、無抵抗で闇を受け入れてしまうかも知れへん。それで急がな思っただけや。悪いんか」
「いや、人間がヴァイスタと接触せずともヴァイスタに成ること、お前、知ってたんじゃねえのか」
「そんなこと……その、あたしは……」
口ごもってしまう応芽。
無言になり、そのまま困ったように、なにかを考えている顔であったが、やがて、両の拳をぎゅっと握り、身体をぶるぶるっと震わせると、喜怒哀楽の先頭三つが混ざった顔で、怒鳴り声を張り上げた。
「し、し、知っとったわっ! ……正確にはっ、そうである可能性が高いということを……知っとった!」
「ウメちゃん、それ以上は駄目だ!」
校長が慌て立ち上がって、制止しようとする。
「ウメちゃん?」
こそっと疑問の言葉を呟くのは、治奈である。
誰のことも名字の後ろにさん付けで呼ぶ校長である、不思議に思うのも当然だろう。
「堪忍な、樋口のおっちゃん。もう黙ってられへんねん。白状するわ、隠しておったこと……」
いつもの上から目線の強気な表情はどこへやら、応芽は弱々しく、申し訳なさそうに肩を縮めてしまっている。
「隠してた、って……」
この唐突な展開に、アサキと治奈は、呆けたような顔になってしまっていた。
カズミは、意地になっているのか、腕を組み、応芽を睨み付ける態度表情を微塵も揺らがせない。釈明することあるならしてみろ、と強気な表情だ。
幾つかの呼吸を置いて、応芽は言葉を続ける。
「昭刃がごたごた抜かすからやないで。仲間やと思えばこそ、話すんや。……あたしはな、メンシュヴェルトの人間やないねん。リヒト、という別の組織所属の魔法使いなんや」
「リヒト?」
アサキの反芻に、応芽は小さく頷いた。
「大阪本部と東京支部だけの、小さな組織や。といっても元々は……」
「そこは、ぼくから説明するよ」
校長が、応芽の言葉を遮って、説明を始めた。
リヒトも、メンシュヴェルトと同様、ヴァイスタやザーヴェラーといった悪霊、異空からの驚異と戦い「新しい世界」の到来を阻止するための組織である。
元々は、メンシュヴェルトの関西研究所が分離独立したものだ。
考えあっての離脱ではあるが、主目的も細かな活動内容も同じであるため、共存共栄しており、また、現在のところ研究開発に関しては、合同出資した施設にて、共同で行っている。魔道着や武器を作り、テストをしたり、それらを戦場へと転送するインフラの整備開発だ。
リヒトとメンシュヴェルトの代表同士で、接触があるのかないのかは分からないが、その下である幹部たち同士は馴れ合っているところもあり、水面下で魔法使いを貸し借りすることもよく行われている。
義理であったり、打算であったり、理由は色々であろうが。
「武器を共同開発しておいて、大いなる矛盾なんだけど、ヴァイスタの研究成果に関しては守秘義務があって、お互いの情報交換は出来ないんだね。だから、ぼくも知らないことを、彼女が喋り出しちゃった時はびっくりした」
「堪忍な、樋口のおっちゃん」
応芽は済まなそうに、小さく頭を下げた。
「いや、もういいよ。……でもみんな、このことは絶対に黙っていてね。彼女がリヒトからきていることも、ヴァイスタは元人間という話も。組織同士の抗争になりかねないし、今後の関係が色々と窮屈になっちゃう。現在は、お互いの情報に干渉追求をしないルールによって、疑い合うことなく堂々としていられるのだから。……といっても末端の、つまり魔法使いの子たちには、こうして色々と隠すことにはなってしまうんだけどね」
なんといったらよいものか、といった感じに樋口校長はふーっとため息を吐いた。
少しだけ場に沈黙が訪れたが、すぐに治奈が口を開いた。
「リヒトという別組織があって、ウメちゃんがそっちの人間というのは分かったのじゃけど……校長がウメちゃんと呼んだのが、ちょっと気になるけえね」
先ほど、応芽の発言を止めようとした時に、慌てながらそう呼んでいる。
普段は、慶賀さんなのに。
誰のことも、そこに魔法使いしかいない場であっても、名字で呼んでいるのに。
「あたしの父親はリヒト幹部の一人でな、おっちゃん、樋口校長とは旧知の仲やねん。おっちゃんには、幼い頃によく遊んでもらったわ」
「ぼくは若い頃に関西で、慶賀要蔵君と一緒に、五年くらい背広組をやっていたからね。まだリヒトか出来るずっと前のことだけど」
校長が補足する。
「恥ずかしい話なんやけど、ついでやし白状するわ……あたしな、能力を買われてリヒトに入ったんやなく、単に幹部の娘やから、幼い頃から訓練生として参加させられていただけなんや。才能がないのか、訓練所で頑張ってもよう伸びんで」
自分でいう通り、少し恥ずかしげな顔で、鼻の頭を掻いた。
「まあ、そがいな気もしとったがの」
ちょっといいにくそうに、治奈が呟く。
「なんで……そう思った?」
「何故じゃろな。ウメちゃん、知識はとっても豊富なようなんじゃけど、戦闘ではそがい圧倒的にも感じなかったからなあ。自尊心だけは、さすがエリートと思っとったけど」
「傷をえぐることを平気で。明木って、意外と口が悪いな。……あたしの、双子の妹が、えらい優秀やったんや、いいとこ全部持ってかれたのかも知れへんなあ」
「ああ、妹さんがいるんだよね。前、写真を見せてくれたもんね」
アサキの言葉に、応芽は小さく頷いた。
「見せたんやなく、勝手に見られたんやけどな。とにかく、親が、おっちゃんとの縁があって、あたしはこっちに引き抜かれたんや。無期限レンタルみたいなもんやな。魔法使いは十代のうちだけやし、最後までこっちにおるかも知れん。……色々と、隠しとってすまんかったな」
応芽はそういうと、また小さく頭を下げた。
「なにいってるの。ウメちゃんは別に、謝らなければならないようなことは、なんにもしてないでしょ」
アサキは、昨日の今日で、まだ元気の回復していない弱々しい顔に、精一杯の微笑みを浮かべると、応芽の手を両手に取って、そっと握った。
「違う組織から、とか、ちょっと驚きはした。でも、同じ目的の仲間なんでしょ? 今は今で、わたしたちの大切な仲間。これからも一緒に、頑張ってこうよ」
「あ、ああ、よろしゅうな。な、なんか照れるな」
応芽はいったん手を離すと、自ら差し出して握り返した。
楽しい雰囲気、などでは、もちろんない。
まだ、悲劇の翌日なのだ。
でも、だからこそ、傷を舐め合っていたわけだが、こうして場が少し和み掛けたところに、冷水が浴びせられた。
「仲間とかいってさあ、隠し事をしてたじゃねえかよ」
カズミである。
腕を組み、壁に寄り掛かりながら、冷ややかな目で応芽を真っ直ぐ見つめている。
「昭刃……」
一瞬にして静まり返った空気の中、カズミの名を呼ぼうとする応芽であるが、その震える声をカズミが一刀両断した。
「あたしは、お前のいうことは信じない」
と。
大きくも、語気強くもないが、冷たく、きっぱりとした言葉で。
そのまま彼女は言葉を続ける。
「仲間だって思っているなら、さっきの話、隠すほどのものか? 他になにかを隠していて、疑われそうになったから小出しにしてるんだろ。一番知られたくないこと、隠すために。違うか?」
「ちょ、ちょっとカズミちゃん、いい過ぎだよ! ウメちゃんだってきっと……」
アサキが、カズミへと顔を寄せた。
穏便に済ませたいのか、顔は笑顔だが、語調の中に、苛立ちや困惑が、はっきりと滲み出ていた。
それ以上に、苛立っているのはカズミであったが。
「いい過ぎじゃねえよ! リヒトとやらの研究で、ヴァイスタ化のこと色々と知ってたんなら、もしも話してくれていれば、正香のこと助けられたかも知れねえ。そこを黙ってて、なにが仲間だよ! 正香と成葉が死んだの、こいつのせいじゃねえかよ!」
「カズミちゃん、いい加減にしないと、わたし怒るよ」
「怒りゃいいだろ。泣き虫ヘタレ女が怒ったからなんだってんだよ。ウメも、ほら、なんとかいってみろよ。どうせまだ、なんか隠してんだろ」
「カズミちゃん!」
アサキが、珍しく声を激しく荒らげた、その時である。
「その通りや!」
応芽が、裏返った大声を張り上げたのは。
だけどすぐに、弱々しい声になって、
「その……通りや」
同じ言葉を、繰り返した。
「……確かにあたしは、一つ、大きな秘密を持っとる。でもそれは、リヒトとしてやない。慶賀応芽、個人としての秘密や。……かなえたい、夢があるんや。どうしても、やり遂げたいことがあるんや」
「かなえたい……夢?」
アサキが小さい声で繰り返すと、応芽は小さく頷いた。
応芽は、カズミにじっと冷たい目で睨まれながら、言葉を続ける。
「なんなのかは、いえへん。実は、お前らにも大いに関係あることや。でも、いえへん」
「わたしたちにも……」
また、アサキが小さな声で繰り返し、応芽が小さく頷いた。
「……かなえるには、ちょっと無茶な夢でな、でもかなえたい。周囲にどんな犠牲が出ようとも知るか。って、これまでは、ずっと、そう考えていたんや」
ひと呼吸置いて、応芽は続ける。
「でもな、今は違う。無茶をせず、誰にも迷惑を掛けずに夢をかなえる方法、考えとる。お前らが、好きやから。……お前らが、頑なやったあたしを変えたんや。それが強くなったということか、弱くなったということか、自分でも分からへんのやけどな」
「ウメちゃん……」
ちょっとくすぐったい顔で、応芽を見つめるアサキ。
なにか、悪くないものが、この場に生じ掛けていた。
だが、またしてもカズミが冷水をぶっ掛けた。
「どうでもいいよそんな話」
そのような冷たい一言、冷たい表情で、応芽の気持ちを、容赦なく突っぱねたのである。
一歩出て、応芽へと凄んだ顔を寄せると、ドスのきいた声を絞り出した。
「なんか邪魔しようってんなら、してみろよ。容赦なくぶっ飛ばす。最悪、殺し合いになるかも知れねえけど、その覚悟がてめえにあんなら、いつでもかかってきな」
それだけいうと、凄んだ顔を少し和らげる。
でもそれは、応芽への態度の軟化でもなんでもなかった。
「校長、話まだあんのかも知れないけど、あたしもう行きます。治奈とアサキも、ごめんな、あたし葬儀用の服なんか持ってねえから、なんか買っとかねえとさ。制服も考えたけど、擦り切れてボロボロだしさあ」
ははっ、と乾いた笑い声を出して、ドアへと向かうカズミへと、応芽が、もどかしそうな顔で呼び掛ける。
「あ、昭刃っ、あたしはっ、昭刃のこと……昭刃のことっ、大事な、た、大切な仲間やと思っとる!」
「もうこっちは思ってねえよ。じゃあな」
少し振り返って、半身で応芽へと冷ややかな視線を向け、微かに鼻を鳴らすと、部屋を出て、ドアも閉じずに足音荒く去っていった。
残った部屋を支配するのは、誰でもなくただ静寂であったが、やがて、アサキが、呆然とした顔をなんとか変化させて、わずかではあるが笑みを浮かべた。
「ごめん、ウメちゃん」
そういうと、応芽の身体をそっと抱き締めた。
「……なんで自分が謝るんや」
応芽は、アサキの身体に顔を隠すようにして、ずっと鼻をすすった。
「あ、ごめんね。……きっとね、カズミちゃんは、ただ気が立ってるだけだよ。昨日のことで、カズミちゃんだってまともに寝てないのだろうし。わたしは、さっきのウメちゃんの言葉を信じるし、カズミちゃんもきっと分かってくれる。大丈夫。大丈夫だから」
「ほんま優しいなあ、令堂は。どうしたら、そないなれるん」
応芽は、アサキの腕の中で、くぐもった弱い声を出すと、それきり、抱き締められるまま、いつまでも儚く身体を震わせていた。
3
広島風お好み焼き あっちゃん。
看板の下、くもりガラスの戸を開くと、明木治奈は店の中へ入った。
カウンターの反対側に、ヘラを両手に鉄板と向き合う父の姿が見える。
客の数は二人。
カウンターとテーブルに、一人ずつだ。
「ただいま」
ぼそりとした声を出す治奈であるが、ぼそり過ぎておそらく、換気扇や焼きの音、テレビの音などに負けて、父の耳には入っていないだろう。
店内隅の天井から、テレビが下がっている。
画面に映っているのは、教育テレビの映像だ。
いつもは、民放なのに。
きっと、父が気遣ってくれているのだろう。
治奈は思った。
だからきっと、これから父は怒るんだ。
店の側から入るな! と、普段通りに。
「治奈、店の側から入るなと、いつもいうちょるじゃろが!」
ほら。
「こっちの方が近いけえね」
また、ぼそっと元気のない声を出す。
父の気遣いに感謝しつつも、それはそれ、まったくそんな気持ちを顔に表すことが出来ずに、沈んだ表情のまま、中へ、奥へ。
店内を通り抜けて、居住空間へと移動する。
小さくなったテレビの音が、また大きくなる。
居間の畳に座っている、妹の史奈が、テーブルに肘を置いて、番組を見ているのだ。
店舗のテレビと違って、こちらは民放。
学校帰りの時間帯で民放とくれば、当然ながらワイドショーである。
まあ、見るだろう。
史奈はまだ小学生であり、普段はこのような番組に興味がないのかも知れないが、自宅の近所で起きた事件が取り上げられるともなれば。
ましてや……
史奈と視線が合った。
物音か気配か、史奈が不意にちらり目を動かして、治奈の姿に気が付いたのだ。
おそらく、ワイドショーを姉ちゃんの前で見ちゃいけん、と父に釘を刺されていたのだろう。史奈は、びくり肩を震わせると、あ、あ、あ、あのっ、などといいながら、あたふた慌てた様子でリモコンを手に取り、テレビへと向けた。
「ええよ消さんでも。……事実は変わらん」
笑うでもなく、怒るでもなく、感情の死んだ言葉を治奈は吐いた。
「……ごめんね」
どういった顔をすればいいのか、史奈は、気まずそうな真顔で謝った。
「ほじゃから、謝る必要ないって」
「あ、あのさ、この……死んじゃった中学生って、お姉ちゃんの、友達、なんだよね……」
事実であり、別にその言葉自体が、今さらショックなわけでもない。
でもあらためて、自宅で、妹に、そのようなことをいわれて、返す言葉がすぐには出なかった。
言葉が出ないどころではない。
喉元まで込み上げ掛けていたものが、ずっと抑制していた気持ちが、どっと溢れてしまったのである。
「ほうよ。お姉ちゃんの……お姉ちゃんの、最高の、友達じゃけえ」
通学カバンを放り投げ、覆いかぶさるように史奈へと抱きついていた。
抱き締めていた。
鏡がないから見えないけども、自分、たぶんぐにゃぐにゃに歪んだ、みっともない泣き顔をしている。そんな自分を、妹に見られたくなくて。
「ちょ、ちょっとお姉ちゃんっ! どうしたのお!」
「どうもせん! どうもせんわ!」
深く、強く抱き合い、そのまま、どれだけの時間が過ぎただろうか。
ぼそ、と治奈は弱々しい声を発した。
「……もしも、もしもな、お姉ちゃんがいなくなったら……消えてしまったら、史奈はどうする? 悲しんでくれる? いつまでも、お姉ちゃんのこと忘れないでいてくれる?」
「そういう寂しいこといってると、割り箸で目を突くよ」
「突かれてはかなわん」
そのまま、口を閉ざして抱き合う二人。
十秒ほど、経ったであろうか。
震えている姉の、温もりを感じながら、史奈は、
「忘れないよ」
まるで自分の方が年上であるかのような、優しい笑顔を作って、小さく口を開いた。
「だって、お姉ちゃんはどこにも行かないから、だから忘れない。わたしたち、いつまでも家族でしょ? だから忘れない。それとも、どこか行っちゃうの?」
史奈は、抱き締められた窮屈の中で、小さく首を傾げた。
「行かんよ。どこへも。行くわけないじゃろ。ずっと、ずっと一緒じゃけえね」
史奈を強く抱き締めたまま、一言一言、自分にいい聞かせるように、自分を元気付けるように、言葉を発する治奈。
そのまま、妹の小さな身体に隠れて、すすり泣きの声を上げ続けた。
友達を失った悲しさに。
自分には妹が生きている、この素晴しさに。
口を開けばああではあるけども、父や母のいることに。
暖かな、家庭があることに。
大切な友がいることに。
大切な友が……いたことに。
4
令堂和咲は、北校舎二階の廊下を、一人で歩いている。
廊下は、現在しんと静まり返っている。
それもそのはずで、現在は正午少し前、つまりまだ授業中だからだ。
教室で授業を受けていたところ(まったく身など入っていなかったが)、全校放送で名を呼ばれたのだ。
アサキ、一人だけが。
校長室へといわれただけなので、なんの用事なのかは分からない。
もしかしたら、メンシュヴェルトの活動とは関係のない話なのかも知れない。
それよりもアサキは、廊下を歩きながら、昨日のことを思い出していた。
昨日、平家成葉の告別式が行われたのだ。
細かな雨の降り続く中で。
通常であれば、どのような死に方をしようとも、棺には顔の見えた状態で納められているものであるが、成葉には、ずっと布が被せられており、まったく死に顔が見えないようにされていた。
当然だ。
顔がないのだから。
修復など到底不可能なほどに、顔の表面をすべて食われてしまったのだから。
火葬され、骨だけになったことで、むしろ成葉は、ほっとしたのではないだろうか。
だって、それでようやく、普通に死ぬことの出来た人と、同じになれたのだから。
成葉の葬儀終了後、メンシュヴェルトのメンバーだけで、隣の柏市にある東葛支部へ移動。
八畳ほどの、催事用としては小さな部屋にて、大鳥正香の形式だけの葬儀を執り行った。
何故、公に執り行うことが出来ないのか。
酷くはないか?
不満でならない。
仕方がないことと、分かってはいる。
大鳥正香は単なる行方不明者であって、生死は不明、という扱いなのだから。
納得はいかないが。
いくわけがない。
なんのために、彼女がここまで人生を頑張って、生きてきたのかと思うと。
家族を殺された辛さと戦いながら、ヴァイスタとも戦い、頑張ってきたのかと思うと。
死亡の記録をうやむやにしてしまうことで、その必死に生きた証を否定というか、どうでもいいこととされてしまうようで。
残った我々としては、一致団結してヴァイスタへ立ち向かい続けるしかないのだけど。
でも……
一致団結どころか……
昨日は葬儀で、ずっと一緒だったというのに、カズミと応芽はまったく言葉をかわすことがなかった。
最初はそうであっても、すぐにあからさまなやり合いが始まるのでは。と、雨振って地固まるを少し期待し、また期待せずともそうなるのだろうとも思っていたのだが、結局、最後の最後までカズミの方が距離を置いてしまって、目を合わせることすらなかった。
応芽も、みなにいえない抱えている秘密がある、と公言した以上は、カズミの態度を責めるわけにもいかず、おとなしくしているしかなかったのだろう。
これから、どうなってしまうのだろう。
わたしたちは。
成葉ちゃん、正香ちゃんのためにも、頑張らないといけないのに。
でも、なにをどう頑張ればいいのだろう。
どうなってしまうのだろう。
どうすればいいのだろう……
そのような、埒が明かないことを考えているうちに、校長室へ到着した。
「令堂です」
ドアを軽くノックすると、すぐ反応があって、部屋の中でギギッバタバタッと慌ただしい音がした。
「ああ、ちょっとそこで待ってて。ごめんね、授業中に呼び出して。今ね、応接室にね、須黒君と至垂さんがいるから。話はそこで」
ドアが開いて、ずんぐりむっくりゴリラ顔の樋口大介校長が廊下へと出てきた。
「シダレ、さん?」
初めて聞く名前だ。
「わたしに、用のある人なんですか?」
「うん。ちょっとね。まあ会えば分かるよ。あ、いやもちろん会っただけでは分からないけど、会って説明すればすぐに分かるってことで。語弊ある言葉も教育者としてよくないから、訂正しておくけど。まあとにかく応接室に……」
校長が、脂肪に等しい余計な言葉を、ひたすら挟み込みながら、アサキを応接室へと促そうとしているところ、隣の隣の部屋、その応接室のドアが開いて、須黒美里先生が顔を出した。
「校長、どうでもいい話してないでいいから、早く入って下さい」
「あ、ご、ごめんね。すぐ行く」
ずんぐりむっくり熊のような、ゴリラのような身体の、短い足をささっと動かして、校長が応接室へと移動し、中に入ると、アサキも、
「失礼します」
軽く頭を下げて、中へ入った。
校長の肩越しに見える、部屋の中。
一人掛けと二人掛けのソファが二対あって、それぞれが向かい合っている。
その、一人掛けソファの一つに、グレーのスーツを着た男性が腰を下ろしている。
頭髪をオールバックにしているせいだろうか。
ネクタイもきちっと乱れなく、百八十くらいありそうな身体を背筋しっかり伸ばしているというのに、ちょっと野生的というか、型にはまらない感じな印象を受けるのは。
状況から考えて、おそらくこの人がシダレさんなのだろう。
「待たせて済みません。令堂さんを連れてきました」
彼の、特に表情の方向を感じさせずニュートラルだった顔が、校長のその言葉に反応したか、喜怒哀楽の楽にちょっと寄った。
涼やかな微笑みを浮かべながら、口を開いた。
「ああ、君がか。……はじめまして、ではないんだけど、こうして会うのははじめまして、至垂徳柳です」
太く低いのに、落ち着いた、女性的とも取れるような、不思議な声で、謎っぽいいい方をしながら立ち上がった彼は、すっと右手を差し出した。
「令堂、和咲です……」
まだなんだか、よく分かっていないアサキであるが、差し出された手前、自分も右手を差し出して、二人は握手をかわした。
男性と握手など、義父とテレビゲームでタッグを組んでハイテンションになった時くらいのもので、緊張してしまったが。
大きい割に軟らかい手で、女性と握手をしているような錯覚に陥る。でも、服装からしてどう見ても男性なのだろうし、知らない人だし、だから、それで緊張が和らぐものでもなかった。
「あ、あの……」
手を、大きくも軟らかい相手の手でぎゅっと握られながら、アサキは困惑した顔をしている。
実際、その顔の通り困惑している。
繰り返すが、相手が誰だか分からず、なおかつ男性、しかも昨日今日のこの状況下であるのだから。朗らかに手をぶんぶん振るなど、出来るはずもない。
「至垂さん、リヒトの所長だよ」
「え……今、なんて……」
校長の言葉、はっきり聞こえていたが、それでもアサキは聞き返してしまっていた。
「リヒトの所長。要するに代表、一番偉い人」
「え、え、そんな人が、ど、どうして、わたしに……」
すっかり、うろたえてしまっていた。
いわれた言葉の意味は分かるけど、このような状況になる必然性がまったく理解出来なかったから。
「メンシュヴェルトと違って、組織が小さいからね。弱小会社の社長みたいなもので小回りが出来るから、今回のように犠牲者が出るとよく葬儀に参列させて貰うんだ。リヒトとメンシュヴェルト、よきあれと競う合うところはあれども、目的を同じくする同志だからね」
「ああ、そうだったんですか。……ありがとう、ございます」
アサキは腕を引いて握手を解くと、深く頭を下げた。
平家成葉の葬儀に、参列してくれたことに対して。
所長が東葛地区を訪れた理由は分かったけど、まったく分かっていないことがある。
何故、わざわざアサキ個人に会おうとするのか。
「勝手にやってることで、礼をいわれるものじゃない。大鳥さんも平家さんも、戦いの中で死亡したわけじゃないから、今回参列したのは異例ではあるんだけど。あ、立ち話もなんだから座って座って、遠慮せずに」
至垂徳柳は、両手でザルをすくい上げるような剽軽な仕草で、着席を促した。
「あ、いえ、あの……’」
状況よく分かっていないし、周り誰も座っていないし、と、スカートの前に組んだ両手を当てて、もじもじしていると、
「いいから、ほらっ」
至垂徳柳が、オレを真似ろとばかり、どっかと座って見せると、アサキは、おずおずとした表情で、申し訳なさそうに肩を縮めて、
「では、失礼いたします」
対面にあるソファに座った。
座ったはいいが、偉い人と一対一で向かい合って、なんとも気持ち窮屈。ではあったが、やがて、少し躊躇いながらも、彼女の方から話を切り出した。
まだ心は全然落ち着いていなかったけど。
「あ、あの、どうしてこちらへ?」
「質問を返すようで失礼だが、慶賀応芽って、知ってるよね?」
「え……」
急にその名前が出たことに、アサキはびくりと肩を震わせた。
当然、知っているに決まっている。
共に戦う仲間なのだから。
リヒト所属の魔法使いであることも、本人から聞いて知っている。
でも、知っていることは内緒のはず。
彼女がリヒトのメンバーであると自白したことは、我々だけが知っている秘密のはずだ。
まさか、カズミちゃんが……
「ああ、彼女本人から謝罪の報告を受けたんだ」
顔色から、事情を読み取ったようで、至垂徳柳はさわやかな表情で答えた。
「そう、だったんですか」
……カズミちゃん、ごめん。
「うん。ならば隠すこともなく、君たちの前に出ていってもよかったんだけど、とはいえ本来ならば、君たちはそれを知らないはずだろう? だから、メンシュヴェルトの葬儀の際には、わたしは必ず一般参列なんだけど、今回もそれを崩せなかったんだ」
「すみません」
知らないはずの情報を知っていること、アサキ自身に罪はないはずであるが、このようにいわれてしまうと、とりあえず謝るしかない。
「いや、うちの慶賀が勝手に喋ってしまっただけだから」
うちの、慶賀。
魔法使いとして、ヴァイスタと戦う仲間であることに、変わりはないというのに、あらためてそういわれると、距離を感じて、少し寂しい気持ちになってしまう。
今は、そんなことよりも……
「至垂さん、慶賀さんは、その件で罰せられたりするんですか?」
「いや。戦う仲間として情が沸くのも当然だし、特に罰するとか、そういうことはしないよ。厳重注意はしたけどね」
その答えにアサキは文字通り、ほっ、と胸を撫で下ろしていた。
「安心しました。慶賀さんは、大鳥さんのことを助けたくて、でも誰に相談も出来なくて、かなり苦しんだと思うので」
「そうなんだ。時間があれば、彼女のことも直接会って元気付けたいところだけど、まあ大阪本部の定例会でも会えるから。……だから、今日はなによりも、君に会っておきたかったんだ」
そういうと至垂徳柳は、そこそこ整った顔に、ニヤリと野生的な笑みを浮かべた。
「さっきから気になっているのですが、何故わたしなんですか?」
この学校の魔法使いに会ってどうするのか、それは分からないけれど、順番としては、治奈ちゃんや、カズミちゃんからではないのか。普通に考えて、若輩のわたしなんかよりも。
「一人で、ザーヴェラーを、一撃で倒したとか」
至垂徳柳は、チャンバラごっこみたいに、両手に構えた透明な刀をざっと振り下ろしてみせた。
「い、いえ、そんな……一撃、なんかじゃないですし、それに、みんなが命がけで戦ってダメージを与えてくれていたから、出来たことです。運がよかっただけです」
そう。
謙遜じゃなく、事実。
みんながいたから、なんとか倒せたんだ。
成葉ちゃんや、正香ちゃんが……
頑張ってくれて……
でも……
もう……
アサキの顔が、どんどん暗くなっていく。
「亡くなった二人のことを、考えていたでしょう?」
からかう風でもなく、ただ単に思ったから口に出したという感じに、至垂徳柳が尋ねる。
野太い声なのに、ちょっと女性っぽくもある、妙に艶のある声で。
「はい」
別に隠す必要もない。
アサキはきっぱりと返事をし、頷いた。
「優しいんだね。いいことだ」
「ありがとうございます」
褒められた気はしないし、自分のことをそうだと思ってもいないが、褒められた以上は形だけでも礼をいうしかない。
「でも優しいだけじゃ駄目だな」
落としはすぐにきた。
「分かってはいます。それに、わたし自分のことを特に優しいとは思っていません。単に気が弱いだけです」
「気が弱かったら、一人でザーヴェラーなんか倒せない」
だから一人で倒したわけじゃない。
わざわざ、声には出さなかったが。
そんなアサキの心の声など聞こえるはずもなく、リヒトの代表は言葉を続ける。
「もしも興味があるなら、一度リヒトにきてみなさいよ」
「リヒトへ、ですか?」
「東京と大阪に二つ拠点があるだけの小さな組織だけど、だからこそ東京なんかは、支部と研究所と訓練場が同じ場所にあって便利だから。研究棟には、メンシュヴェルトの職員もたくさん入っているよ」
「そうなんですか?」
「合同出資の開発施設だけど、リヒトの敷地内にあるんだ。面白い武器や防具、実験なんかも見られるよ。訓練場だけでもいいし、時間あれば遊びにくるといいよ」
「はい。機会があれば、是非お願いします」
アサキは、小さく頭を下げた。
興味はないが、角を立てる必要もない。
「守りたいなら、強くならないとね。色々なこと、知っておかないと。それが覚悟にも繋がる」
「強くならなければということは、常々痛感しています。わたし、泣き虫で、おっかなびっくりで、みんなの足を引っ張ってばかり。役に立たなきゃ、とは思っているんですが、なんの役にも立てていない」
「いいんだよ。泣き虫でも、おっかなびっくりでも。そこから生まれる強さもある。なにをもって強いとするかは、人によって考えは異なるし、なにが強さの源になるか、つまりモチベーションも人によって異なるものだ。たぶん君は、心の奥にはしっかりとした答えがあって、だから一人でザーヴェラーも倒せた。別に魔力が成長したから、ではない」
「そうでしょうか」
反論したかったわけでもないし、同調したいわけでもない。
ただ言葉が出ただけだ。
そうですねでも、別によかった。
至垂徳柳は、アサキの言葉に額面反応して、言葉を返した。
「分からない。強さなんてものは、曖昧だからね。それを求める者ほど、何故なのか、真理の直前になって言葉遊びを始めてしまうから、分かりっこないんだ」
よく分からないけど、でもなんだか分かるような気がする。
真理を求める者ほど、直前になって言葉遊び。
「でも、うちにくれば、強さを知ること、考えること、きっかけにはなると思うよ」
ピピピピピ
至垂徳柳のリストフォンから、アラーム音が鳴った。
「ではそろそろ、わたしは行かないと。令堂さん、機会があれば、今度はもっとゆっくり話そう。樋口さん、須黒さん、令堂さんとの話の場を作ってくれてありがとう。令堂さん、それじゃ」
至垂徳柳は立ち上がると、またアサキへと右手を差し出した。
「あ、は、はいっ」
アサキは何故だか慌ててしまい、腰を少し浮かせた状態のまま手を伸ばした。
「では、お車まで送ります」
校長は、先回りしてドアを開けた。
二人が部屋を出て、階段の方へと姿を消した後も、しばらくぽわんと呆けた顔のアサキであったが、
「なんでわたしなんかに、会いにきたんだろう」
不意に、呆けた表情のまま小さく口を開き、疑問の言葉を呟いていた。
「さあ」
須黒先生が、首を傾げる。
「非詠唱の特異能力者だから、って感じでもないようだし、リヒトへの引き抜きを考えているようにも思えなかったわ。……さっきね、軽く会話した時に、ちょっとカマをかけてみたのよ」
「え」
「そしたらね、『令堂さんとまだ話したことはないけど、たぶん彼女は、メンシュヴェルトの暖かさの方が向いていると思いますよ』って。そういう雰囲気での方が、力を発揮出来るだろう、って」
「それじゃあ、なんのために……」
ウメちゃんがいたり、葬儀の件があったりで、東葛地区を訪れ滞在していたからとはいえ、何故、わざわざわたしなんかに……
まさか、のんびりお茶を飲むためでもあるまいし。泣き虫魔法使いを笑いにきたわけでも、友達を失って悲しんでいる女子生徒を慰めにきたわけでもないだろうし。
「やっぱり、ザーヴェラーの件かなあ。あれ、かなり轟いてるからね、噂があちこち。一目、見ておきたかったんじゃない? ああっと、わたしも至垂さんの見送りに行かなきゃあ。じゃあ、令堂さんは教室に戻ってていいわよ。お茶そのまま、片付けなくていいから。お疲れさまでしたっ」
そそくさと須黒先生が出ていき、部屋に一人、アサキが残った。
ソファの前にぽつんと立ったまま、リヒトの所長が自分に会いにきた理由を色々と考えてみるが、そもそも、こうした組織の内情についての基礎知識がまったくないので、なんにも考え付かなかった。
お茶を片付けると、教室に戻った。
5
天王台第三中学校の体育館。
剣道の防具を着けた二人が、竹刀の先が触れるか触れぬかという微妙な距離を取ったまま、向き合っている。
正座姿勢の女子たちが二十人ほど、ずらり二人を囲んでおり、膝に乗せた面を抱え持って、見守っている。
面に覆われているため顔は見えないが、向き合ううちの一人は剣道部の女子部員で、一人は令堂和咲である。
ほぼ一定の距離を保ちながらも時折、竹刀の先端で牽制し合う二人。
地味に見える攻防であるが、見守る女子たちの顔に滲み出る緊迫の色が、そうではないことを示していた。
精神力の消耗戦。
それに勝利したのは……
アサキの握る竹刀の先端が、少し下がった。
あえて意思を持ってというよりも、踏ん張る気力や腕力を不意に失ってしまったかのように。
向き合う女子部員が、隙あり、と足を激しく踏み込み、突進といってよい勢いで、強く握った竹刀を、瞬時に振り上げ、瞬時に振り下ろした。
「面!」
女子部員の叫び声、ではない。
アサキの声であった。
作った隙を攻めさせて、時はきたと相手が全力で飛び込んでくるところへと、まず竹刀を叩き、流れるような太刀筋で、そのまま面を叩いたのだ。
アサキの勝利である。
蹲踞。
「次、お願いします!」
アサキは、竹刀の先端を軽く床に付けると、声を張り上げ頭を下げた。
この、剣道部の女子部員たちとは、以前も練習をしたことがある。
須黒先生に連れられて、治奈たちと一緒に。
もう何ヶ月前になるだろうか。
今回の飛び入り参加は、アサキ一人だけである。
個人で、部長に手合わせを掛け合ったのだ。
これまでも、須黒先生の考えで、アサキたちは剣道に限らずいくつかの運動部を経験してきた。勝負どころの勘や、魔力の源となる精神力を養うのに都合がよい、という理由で。
アサキは、元々得意であったバスケでのみ魔力つまり精神の成長を実感するものの、他の競技はさっぱりどころか怖気づいてなんにも出来なかった。剣道も然り。
でも、それでいいわけがない。
得意なところでしか精神の成長を感じないなど、それは成長ではないではないか。
それに、魔法使いとして戦うにあたり、自分が選んだ武器は剣。
ならばまずは、剣の技をしっかりと身に覚えて、自信に繋げたい。
もちろん、竹刀と中世西洋風の剣は別物ではあるが、無関係でもないのだから。
と、そのような考えがあって、部長に無理をいってお願いし、稽古をつけてもらっているのである。
とはいうものの、気迫充分のアサキは、剣道部員に対して、現在三戦三勝。どっちが稽古をつけているのか、つけられているのか、分からなかったが。
「んじゃ、次はあたしが相手するよ」
囲む女子部員たちの中から立ち上がったのは、部長の白花芽衣子である。
小学校時代にずっと、大鳥正香と剣道をやっていた仲だ。
三年生だというのに、よく二年三組の教室に遊びにきては、正香にラブコールを送っていたこともあって、アサキとも顔なじみのそこそこ親しい関係だ。
「気合、入ってるね、令堂」
ニヤリ、白花芽衣子は力強い笑みを浮かべた。
「強くならないといけないから。……正香ちゃんのためにも」
面の奥でアサキは、毅然とした表情で、白花部長を見つめた。
「そっか。……気持ちは、分かるよ」
白花部長は、少し寂しげな笑みを浮かべると、面をかぶった。
剣道が絡む時だけとはいえ、彼女は大鳥正香の親友であった。
色々と複雑な思いがあるのだろう。アサキに共感出来るところも、多々あるのだろう。
行方不明の親友が、既にこの世にいないのではないか、という不安。
生きているとしても、野犬に食われて死亡した平家成葉と、正香の失踪がどう関わっているのかも分からない。
もちろんそれは、一方的な共感であり、真実を知っているアサキと、同じ思いを抱けるはずはないのであるが。
だけど、
そんな思いも……
「お願い、します」
そんな思いも、受け止めてやる。
わたしが。
少し使命感に似た気持ちを抱きながら、アサキは小さく頭を下げた。
「手加減はしないよ。自信つけさせてやるなんて、あたしはお人好しじゃないからな」
「はい」
そうでなきゃ意味がない。
二人は向き合った。
それぞれ、竹刀の柄をぎゅっと絞り持つと、ゆっくりと、先端を前へ突き出した。
面金に隠れた奥で、アサキはじっと見つめる。
正面に立つ、白花部長を。
いや、その向こうにあるものを。
守りたいなら強くならないと。
先日、リヒトの所長である至垂徳柳がいった言葉を思い出していた。
強くは、なりたい。
切実に願う。
でも単純な、強いだけの強さに興味はない。
この考えは、以前から一貫して変わってない。
魔法使いになった頃から。
いや、おそらく生まれた時から。
自分がなりたいのは……まだ漠然としているものはあるが……みんなを笑顔にするような、安心させてあげられるような、そんな強さ。最近、より本気でそう思うようになった。
深い絶望が、人間をヴァイスタに変える。
ならば、みんなが笑顔になれば、ヴァイスタは生まれない。
そんな世界でも、結局、人間同士で争ってしまうのかも知れないけど、そこをいっていたら踏み出せない。
「はじめ!」
副部長の合図で、稽古試合が始まった。
気迫自体は充分なアサキであったが、しかし、たちまち劣勢に追い込まれた。
当然といえば当然か。
相手は先輩であり、剣道部の部長、対して自分は素人に近い。
ビギナーズラックで三人抜きは出来ても、もう相手だって油断はしない。
正香を思う気持ちで、というのならばむしろ白花芽衣子の方が遥かに強い思いかも知れない。
小学生の頃に、ずっと一緒に剣道をやっていたのだから。
お互い、競い合い認め合う、ライバルだったのだから。
でも、わたしだって負けていない……負けていない!
アサキは胸の中で、強く、自分の気持ちを鼓舞する。
そうだ。
出会ってからの月日は、それほど長くはないけれど、わたしの……わたしたちの、絆だって、負けていない。
だから負けられない!
とはいうものの、でも、どう戦えばいい?
焦る。
横から斜めから、上から下から、打ち付けられる竹刀。
受けるのに精一杯だ。
以前にも見て驚かされたのだが、部長の白花芽衣子は、部長だというのに太刀筋も足さばきも完全に我流。
先輩が勝手に次期部長に選んだだけだから、ということでまったく戦い方をあらためることなく、小学生の頃からの主義を貫いている。
小柄な身体を生かして、ぴょんぴょん跳ね回りながら竹刀を振るう。隙を狙う。隙を作る。
対するアサキは、防戦一方。
ずりずりと、なにも出来ないまま後退していく。
ずらり取り囲む、剣道部員たちによるコロシアム。
この全員が、白花芽衣子を応援しているのだろう。
当然だ。素人の自分が四人抜き、しかも部長まで倒してしまったなど、かっこいいものではないからだ。剣道部の立場がないからだ。
でも、負けられない。
わたしは。
負けたく、ないんだ!
どう戦う?
正香ちゃんならば、どう戦うか。
あの時、白花先輩と戦って、どうやって、勝ったか。
そうだ。確か、隙を作るための矢継ぎ早の攻撃を耐えつつ、小手を誘い小手を打ったのだ。
アサキの腕が、握る竹刀が、だらりと下がった。
疲れ切って、竹刀すら重い。
そんな感じに、だらりと。
負けられない、どうすればいい、と気ばかり焦って、冷静ではなかったが。
「小手!」
きた。
だーん、と素早く力強い、白花芽衣子の踏み込み。
一撃必殺、防御など考えず、ここで必ず決めるんだ、という激しい踏み込み。
追い詰められて焦っていたアサキであるが、何故かその瞬間だけ、冷静だった。
正香の動作を、その記憶を、トレースしていた。
叫びながら、白花芽衣子が、正香の、アサキの、小手へと竹刀を振り下ろす。
竹刀の先で螺旋を描くように回し、
「小手!」
反対に、白花芽衣子の小手を打った。
と、そのまま返す竹刀で、
「胴!」
だだっ
と、アサキの身体は床を踏み鳴らし、抜けていた。
ゆっくり、振り返った。
はあ、はあ、
二人は息を切らせている。
短い時間の打ち合いとはいえ、それだけ精も魂も出し尽くしたのである。
息を切らせながら、白花芽衣子は面を取った。
なおも苦しそうに、肩を上下させていたが、やがて、
「ああもう! 負けた負けたあ!」
汗だくの顔で、やけっぱちな大声を張り上げた。
「ありがとうございました!」
アサキも、一礼すると面を取った。
やはり汗だくである。
連戦というだけでなく、特に白花芽衣子との勝負にごっそり体力を奪われたのだ。
「令堂、お前さあ……」
袖でごしごし顔を拭きながら、白花芽衣子が話し掛ける。
「はい」
ハンカチを取ろうと、置いたバッグの前で屈もうとするアサキであったが、呼び掛けられて、そのままの体勢で後ろを振り返った。
「こないだん時には、昭刃和美に竹刀で殴られて大泣きしてたくせに、まるで別人じゃんか」
「いえ、変わってません。わたしは今でも、気が小さくて泣き虫です。……ただ、正香ちゃんのためにも、少しは頑張らなくちゃと思っただけで」
取り出したハンカチで、顔を拭きながら、答えた。
「そっか……」
ず、と白花芽衣子は鼻をすすった。
「そっか……そっか」
もう一回、二回、そういうと、ずずーーっ、まるでうどんを飲み込むかのような音を立てて、大きく鼻をすすった。
泣いていた。
「なんだよお、あたしが泣いちゃったよお! 大鳥の奴、あいつ幸せだなあん畜生って思ったらさあ。あいつのために、強くならなきゃって思ってくれる奴がいてさあ」
白花芽衣子は、ぽろぽろと涙をこぼし泣いていた。
6
制服姿の女子生徒が、通学カバンを提げバックを肩に掛け、夜道を歩いている。
令堂和咲である。
ここ最近、彼女はいつも一人で下校している。
剣道部の練習に、混ぜて貰っているためだ。練習時間後も、一人または部長の白花芽衣子と一緒に、素振りなどをしているためだ。
明木治奈とは、仲良くなってから共に登下校する仲であったが、最近は登校のみ一緒だ。
治奈は冗談交じりに、寂しがっているような態度を見せるが、それは本心を隠しているだけで、本当は修行に付き合いたいのだろう。アサキのためにも、自分のためにも。
実際は、お店の手伝いを理由に自宅待機を買って出て、すぐに下校してしまうのだが、それはおそらく、家族との時間を大切にしたいがため。
大鳥正香の一件により、そうした気持ちが強くなったのだ。
身近な人を守りたい、そばにいたい、戻らぬ日々を少しでも一緒に過ごしたい、という気持ちが。
と、本人からはっきりそう聞いたわけではないが。
でも、一緒にいれば、それくらい分かる。
「わたしと違って、本当の家族だからな。治奈ちゃんは」
とはいえ、自分も負けていないけど。
家族を思う気持ちは。
修一くん、直美さん。義理の両親ではあるけれど、本当の家族以上に大切に思っている。
でも、本当の家族以上もなにも……
「虐待、されていたのだっけ。わたしは……」
その、本当の家族に。
あんまり記憶にはないけれど。
断片的、イメージ的なものは、かなり鮮烈に覚えているのだが、具体的な記憶がない。いつどこで、どうされたのか。
刺される痛み、切られる痛み、殴られる痛み、お湯の熱さ、氷の冷たさ、呼吸の出来ない苦しさ、眠いのに眠れない辛さ、そうした恐怖や苦痛という感覚を、しっかり覚えているというだけで。
きっと無意識に、本能がわたし自身を守っているのだろう。
心が崩壊しないように。
いつか強くなれたら、はっきり思い出しちゃうのかな。
嫌だけど、強くなれているのなら耐えられるのかな。
強くなれるのかな。
こんな、わたしみたいな、なんでもないことですぐに泣いちゃうような、弱い女の子が。
でも……
明日からしばらくは、治奈ちゃんと帰ろうかな。
剣道部のみんなも、いい加減迷惑に思っているだろうし。
部員でもないのに、毎日のように押し掛けて。
それだけでなく、ヴァイスタ警戒のための自宅待機を、ずっと他のみんなに押し付けちゃっているし。
剣の練習なら、家でも出来ないことないだろうし、別にただの筋トレだっていいんだから。
これまで付き合ってくれただけでも、剣道部員のみんなには感謝しきれない。
特に、白花部長。
遅くまで、一緒に残ってくれて。
一昨日だったか、「筋はよくないのに、どうしてこんなに強くなった?」などと、ちょっと複雑な褒め方をしてくれたっけ。
わたし、別に強くなったなんて思っていない。
強くならなきゃ、っていう真剣な気持ちや焦りがあるだけ。
でも、褒めてくれている以上は、なにかしら得るものもあったのだろう。
そこだけは、自信を持っておこう。
さて、そうなると、明日からはまた、治奈ちゃんと一緒に登校下校か。
なりふり構わずもっと強くならないと、という焦りとは別に、ほっとする嬉しい気持ちが胸の中にある。
ちょっとだけ、これまで過ごしてきた日常に戻れるようで。
以前のように、バカバカしいことで大はしゃぎして笑い合っていた、そんな関係に戻れるのは、しばらく難しいだろうけど。
少しずつ、頑張っていこう。
それが正香ちゃんのためになり、成葉ちゃんのためになる。そう信じて。
ああ、そうだ。
名案、ってほどでもないけれど……
治奈ちゃんのお店に、食べに行きたいな。
広島風の、お好み焼き。
ウメちゃんの歓迎会の際に、ご馳走になったきりで、まだ一度もお客さんとして行ったことなかったから。
いきなりお店に行ったら、治奈ちゃんびっくりするかなあ。
よし、帰ったらさっそく直美さんに相談しよう。
楽しみだな。
そんな些細なことに、知らず微笑を浮かべていたアサキであるが、その笑顔は長くは続かなかった。
いぶかしげな表情へと、変化していた。
す、と左右に素早く視線を走らせる。
気のせい、だろうか。
空気の流れが、変わった気がしたのだが。
いや、
気のせいでは、なかった。
夜気に混じって、うっすらと靄が掛かり始めていた。
しかも、その靄は、秒単位で分かるほどに、どんどん濃くなっている。
自然のものとは、とても考えられない。
十秒足らずの間に、すっかり濃い霧に包まれていた。
周囲を、まったく見通すことが出来ないほどに、なっていた。
二、三……四人、か。
アサキは、気配から人数を数えていた。
そう、はっきりとした気配を、アサキは捉えていたのである。
もう隠れる必要もない、と気配を殺すことをやめたためか、それとも単に、アサキの感覚が成長に研ぎ澄まされてきているからか。
殺意か敵意か、単なる警戒心や嫌悪感であるか、そこまでは分からないが、とにかくそんな負のオーラをまとった、四つの気配。
不安になりながらも、さらに気を探ろうとしているうちに、濃い霧状の空間に、うっすらと人影が浮かび上がっていた。
それは、女性であった。
魔道着を着た。
正面に一人。
左右にも、それぞれ一人ずつ。
後ろにも、振り返るまでもないほどの、強烈な気配を感じる。
囲まれていた。
アサキは、魔道着を着た四人の魔法使いに、囲まれていた。
「なんの、用ですか」
警戒心を隠さず、しかし丁寧な口調で尋ねる。
いくら敵意を感じようとも、それだけでこちらから戦闘態勢に入るわけにもいかない。
いずれにせよ、乱暴な言葉遣いなどしたこともないから、どうであれ咄嗟に敵対的な言葉が出てくることもなかっただろうが。
「わたしに、なにか用ですか」
後方にまで注意を走らせながら、アサキは再び問うが、四人の魔法使いたちは、黙って立っているだけである。
いや、
返答が、あった。
言葉ではなく、行動による返答が。
右側にいた一人が、強く踏み込むと同時に、手にした薙刀をアサキの身体へと突き刺したのである。
だが、胸を貫かれたかに見えたのは、深い霧の見せた幻か。
アサキの身体は、既にそこにはなかった。
間一髪、カバンを投げ捨て横に転がって、攻撃をかわしたのである。
「変身!」
転がる勢いを利用して立ち上がると、スカートの乱れも気にせず、両手を頭上に掲げ、左腕に着けているリストフォン、魔法力制御システムであるクラフトの、側面にあるスイッチを押した。
闇も霧も吹き飛ばしそうなほど、全身が眩く輝いた。
かと思うと、既に制服姿の少女はおらず、そこには赤い魔道着を着たアサキが、右手に剣を構えて立っていた。
薙刀を持った魔法使いは、それでたじろぐ様子もなく、両手に握った長い得物を、今度は草を薙ぐかのごとく水平に振るって、アサキの胴体を切り裂こうとする。
アサキは、これまた間一髪、軽くバックステップを踏んでかわしていた。
切っ先が、ぎりぎり胸をかすめて、ちっと音を立てた。
ほんのわずか判断が遅かったら、胸を切り裂かれていたかも知れない。
だが、まだ終わっていない。
とんと着地したその瞬間を狙われていた。
背後から、二本の小型斧を手にしている、薄黄色の魔道着を着た魔法使いが、跳躍気味に飛び掛かりながら、鈍く輝く刃を、それぞれ振り下ろしたのである。
アサキの頭頂を目掛けて、微塵の容赦もなく。
だが、その斧は血で染め上がることはなかった。
アサキが振り返りざま、剣で受け止め、跳ね返したのである。
襲撃者の矢継ぎ早な攻撃は、まだ終わらない。
アサキの左横目に、棒状の武器を振りかぶった、水色の魔道着が迫るのが映る。
身体をそちらへ向けると同時に、剣を水平に構えて受けようとするアサキであるが、振り下ろされる棒状の武器の腹に、節のようなものが見えた瞬間、一歩身を引いて、棒の先端部分を横から払った。
直感は正しかった。
払った瞬間、棒がカチャリと音を立てて、中の二箇所が折れてしなったのである。
水色魔道着の魔法使いが舌打ちしつつ得物を構え直すと、もうそれは、真っ直ぐな棒状へと戻っている。
だが、よく見れば、一本の棒ではないこと、明らかだった。
三節棍。
途中にある二つの節が、折れることで、様々な戦い方が出来る武器だ。
もしもあのまま、中節を受けていたら、くっと角度を変えた先端に、後頭部を直撃されていたことだろう。
水色の魔道着を着た魔法使いは、舌打ちしながら一歩引くが、戦意はむしろ満々で、三節棍を折り曲げ両端を両手で持って、攻撃を続行する。
右、左、くにゃりしなったかと思うと、まるで一本の棒であるかのよう鋭く突き出され。
節があるという形状を生かしたトリッキーな攻撃に、アサキは戸惑い、防戦を余儀なくされていた。
しかし、戸惑いながらも冷静だった。
剣道部での修行の賜物か、大鳥正香や平家成葉の死による心の成長か、それは分からないが、とにかく彼女は、攻められながらも一瞬の隙を突いて、三節棍の節を一つ、剣でねじ切ったのである。
得物をあっさり破壊されて、驚き焦り悔しがる、その感情がわずかな油断に繋がったか、水色の魔法使いの身体は、鈍い音と共に、後ろへと吹き飛ばされていた。
アサキの、不意をついた後ろ回し蹴りが、水色の魔道着の胸へと炸裂したのである。
以前、カズミから習った空手の技だ。
まさか格闘技でくるとは、という油断であったか。攻撃魔力の乗った蹴りを、まともに受けてしまった水色の魔法使いは、霧の向こうへと消えた。
消えた瞬間、どうと鈍い音に、そして鈍い呻き声が聞こえた。
壁に身を打ち付けたのだろう。
呻きや息遣いからして、おそらくはまともに受け身を取れておらず、であればしばらく身動き出来ないだろう。
もしくは、気を失っているかも知れない。
残るはあと三人。
ふう、と小さく息を吐き心と心臓の鼓動を整えながら、赤い魔道着を着た赤毛の魔法使いは、剣を構え直す。
と、霧の中から飛び出し現れた魔法使いが、アサキへと、両手の薙刀を振り下ろした。
アサキは引かず、むしろ自ら一歩踏み込んで、距離を詰める。
予期せぬ行動と、距離感を狂わされたことに、相手が狼狽するわずかな隙を見逃さず、ぶんっ、と斜め下から振り上げた剣で、側頭部を殴り付けていた。
油断混乱の無防備を突かれて、頭にそのような一撃を食らわされて、どうしてたまろうか。
どう、と魔法使いは地に倒れて、手放された薙刀が落ちて、転がった。
アサキは、すぐさま剣を構え直そうとするが、風を切る音と共に、その剣の柄に、しゅるり、ムチが巻き付いていた。
ぐ、と引いてみるが、魔女の森の茨のごとく、しっかりと絡み付いて、引けども押せども、剣を取り返すことが出来ない。
奪い取られてしまわないよう握り締めているだけで、精一杯の状態であった。
「エミ、早く!」
ムチを持つ灰色の魔道着を着た魔法使いが、慌てた様子で叫んだ。
残るもう一人、薄黄色の魔法使いがエミなのだろう。
声を掛けられた少女、エミは小さく頷くと、高く跳躍し、両手に持った小型斧を、アサキの頭部へと迷わず振り下ろした。
だが、斧の刃がアサキの頭部を捉えることはなかった。
そうなる寸前、刃を叩き付ける寸前、斧を手にしたエミは、ガツン、ととてつもない衝撃を受けて、上空へと吹き飛ばされていたのだ。
殴られたのである。
アサキの、拳に。
岩石のような、恐ろしい大きさに膨れ上がった、右拳に。
咄嗟の判断で、剣の柄から手を離したアサキが、自身の代名詞ともいえる特技である非詠唱能力を使って、これまた代名詞たる必殺技の「巨大パンチ」を放ったのだ。
風圧に揉まれた瞬間、その風を追い越した巨大な拳に殴られて、悲鳴を上げる間すらもなく宙へと舞い上がった、薄黄色の魔法使い。
二本の小型斧が、ぽろりとこぼれるのを見たアサキは、跳躍しながらその、相手の武器を、それぞれ手に掴むと、空中から、ムチを持っている灰色魔道着の魔法使いへと投げ付けた。
ムチを持った灰色の魔法使いは、驚いた表情を浮かべながらも、身を横に動かして、飛来する斧をかろうじてかわした。
と、その時には、アサキの投げたもう一丁が、ムチを切断していた。
身を低くして着地しながら、アサキは、自分の剣を取り戻した。
しっかりと両手に構え、最後の一人となった襲撃者と向き合うが、小さく横に首を振ると、腰の鞘に剣を収めた。
「もう、やめましょう。こんな意味のない争いは。……でないと、わたしも本気を出しますよ」
本気を出せば勝てる、というつもりでいったわけではない。
現実的には、既に勝っているようなものだが、別にアサキは勝ったとも思っていない。
勝負なんか、最初からしていない。
無意味な戦いはしたくない、なるべくなら相手を傷つけたくない。
そんな本心が、ただ口をついて出ただけである。
標的たる赤毛魔法使いの、特異な感情感覚など、読み取れるはずもなく、一人残った灰色魔道着の魔法使いは、侮辱されたと思ったか憤怒の表情をその顔に浮かべ掛ける。
掛けただけで浮かべなかったのは、路上に倒れている仲間の姿を見たからである。
灰色魔道着を着た少女の顔は、怒りから、驚きや、戸惑いの表情へと変わっていた。
三人の仲間たちはみな、痛みに顔を歪め呻いてはいるものの、生命に別状はなさそうだ。
打撃によるダメージこそ受けてはいるが、切られ、裂かれ、といった傷は、どこにもないようである。
当然だ。
アサキは両手に剣を持ちながらも、蹴りや剣のひらといった、打撃による攻撃しかしていなかったのだから。
灰色の魔道着を着た魔法使いは、この状況をどう思えばよいのか、しばらく目を白黒とさせていたが、やがて気を取り直したように、
「これで勝ったと思うなよ」
唸りにも似た低く震える声を絞り出し、アサキを睨み付けると、続いて、短く呪文を唱えた。
不意に光と闇が反転して、あたり一面がカッと眩しく輝いた。
わずか先すら見えないほどの濃い霧が、すっかり晴れており、もうそこには、謎の魔法使いたちの姿は、どこにもなく。
アサキは、中学校の制服姿に戻って、夜の住宅街の中に一人、立っていた。
「今の、人たちは……」
赤毛の少女、アサキは、無意識ぼそり、声を出していた。
そのまま、胸の中で言葉を続ける。
誰?
何故、わたしは襲われた?
ヴァイスタと戦う仲間であるはずの、魔法使いに。
誰が、
一体なんのために、
わたしを……
そういえば、以前にウメちゃんも、魔法使いに襲われて戦っていたことがあった。
相手は顔見知りらしく、単なる喧嘩だなんていってたけど、どう見ても生命のやりとりをしているようにしか見えなかった。
……今回の件と、関係、あるのだろうか。
校長の話では、組織はメンシュヴェルトと、そこから派生したリヒトしかないということだけど。
理由は分からないけど、わたしが襲われたのが誰かの命令なのであれば、それはリヒト所属の魔法使いということ?
勝手な妄想かも知れないけれど。
でも、自分のいる組織に襲われるなんて意味が分からないし(リヒトだとしても、意味が分からないけど)、そもそも、仮にメンシュヴェルト上層の指示だとしたら、わたしのクラフトを使えなくして変身させなくすることだって出来たのだから。
それとも、わたしを試した?
でも、何故……
やっぱり、理由が分からない。
先日、リヒト所長の至垂さんという男性が、わたしに会いにきたけど、それも関係あるのだろうか。
「それよりも……」
今、すべきこと。
魔法使いに襲われたという事実を、報告しないと。
校長と須黒先生、治奈ちゃんたち、信頼出来る仲間に。
でも……
その前に、ちょっと確かめたい。
まず最初に、ウメちゃんだけに話をしてみたい。
誰かを疑うというわけじゃないけど。
でも実際に命を狙われたのだから、少しは慎重に行動しないと。
合わせて、リヒトのことも色々と教えて欲しいし。
もう遅い時間だし、それに通話じゃ上手く説明出来ないかも知れないし、メッセージを送っておこう。
と、リストフォンを着けた左腕を上げて、メッセンジャーアプリを起動するが、
「あれ」
表示されたアプリの画面を見た瞬間、小さな声を出して、小首を傾げた。ピンと跳ねた一本の髪の毛が、ふにゃりと揺れた。
慶賀応芽の現在地が、何故か第三中学校になっていることに、疑問を覚えたのだ。
だがすぐに、本人宅であるという表示に変わった。
気のせい、もしくは更新タイミングや衛星感度の問題だったのだろう。
と、あまり気にせず、水平に構えたリストフォンからキーボード画像を空間投影させると、右手の指を素早く滑らせて、応芽へのメッセージを打ち込み始めた。
7
街明かりの雲への反射や、誘導灯などの僅かな明かり、
窓から淡い明かりが差し込み照らす、夜の廊下を歩いている。
ぺち、ぺちっ、と上履きの裏側と廊下のタイルとが触れ合う、微かな粘着音。微かだけれども、遠くまで響きそうなくらいに、人が誰もおらず静まり返っている。
深く青い暗闇を、ゆっくり歩いているのは、ジャンパースカート姿の少女である。
私服姿の、慶賀応芽だ。
不意に、歩く足を止めた。
北校舎二階、校長室の前で。
左腕を水平に上げると、リストフォンの画面を覗き込み、第三中魔法使いたちの居場所を確認する。
令堂和咲は、下校路の途中だろうか。
他のみなは、各自宅との表示がされている。
「令堂はまた、剣道の練習やな。熱心やなあ」
暖かな苦笑を浮かべたかと思うと、突然びくり全身を震わせ、目を見開いた。
メンバーの名前の下に、それぞれの居場所が建物名や住所で表示されているのだが、自分の居場所が、天王台第三中学校になっているのである。
「やば!」
なっているのは、現在そこにいるのだから当然だが、隠すための偽装をうっかり忘れていたことに慌ててしまったのである。
あたふた指を動かしてリストフォンを操作、以前に組み込んでおいた特殊パッチを実行してアプリを更新した。
自分の居場所情報を、自宅へと書き換えると、がくり頭を下げながら長いため息を吐いた。
「凡ミス。きっと動揺しとるんやろな、あたし」
しんと静かな暗がりの中で、ぽそっと呟くと、そっと胸に手を当てて、深呼吸を一回、二回。
顔を上げる。
迷いのない、先ほどまでとうって変わった、毅然とした顔になっていた。
両手を、頭上に掲げる。
「変身!」
小さな小さな囁き声で、叫んだ。
全身が眩く輝いて、一瞬だけ暗闇と世界が交代する。
闇が支配権を取り戻すと、ジャンパースカート姿の少女の姿はそこになく、全身が赤と黒の戦闘服に包まれた、応芽がそこにいた。
魔道着、魔力の流れを整える機能を持つ、防護服である。
ふう、と軽く息を吐くと、
「ナアハモン、アム……」
微かに口を開き、聞こえるか聞こえぬかという小さな声で、呪文を唱え始める。
と、同時に、彼女の右手に変化が起きていた。
オーブンレンジに掛けたケーキや餅のように、むくむくと、大きくなっているのだ。
大きくなるだけではない。
色白であった肌が黒く、それどころか毛まで生えてきている。
どこをどう見ても、これは骨太の、男性の腕であった。
手や腕など並べて見比べないと分からないかも知れないが、この学校の生徒や教師ならば、樋口校長のそれを想像してもおかしくないだろう。
当然といえば当然なのだが。
何故ならば、現在彼女のその腕は、樋口校長とまったく同じものであるのだから。
以前に、空間固定の魔法で、空気を硬化ジェルへと変えて型取りした立体情報、それを再現したものだ。
校長室のドアを開ける、という目的のために。
昼は開けっ放しも同然なのだが、校長不在時には指紋静脈認証に、呼気成分認証に、とセキュリティが厳しいのである。
「なんかトラウマになりそうやわ。突き抜けたら、むしろ癖になったりして」
自分の、ゴリラのような右腕を見て、いひひと笑いながら顔をしかめた。
ドアの横に、名刺ケースほどのタッチパネルがある。
華奢な身体に不釣り合いなごつい腕を持ち上げると、パネルに人差し指で触れた。
チェック通過、ということだろうか。
ピピッ、という音。
魔法を解いて、腕を元の白く細い状態へ戻すと、安堵のため息を吐いた。
続いて、喉に手を当てながら、
「ナアハモ、アウトモン……」
先ほどと少し似ているが異なる、短い呪文を唱えた。
喉に指を触れたまま、タッチパネルのすぐ下にあるセンサーに顔を近付けると、ふっと小さく息を吐いた。
ピピッ。
呼気成分認証もチェック通過したようで、ロックが解除されるガチャリという音が聞こえた。
ドアを開けて、慣れた校長室へ不慣れな時間に入り込んだ応芽は、窓から差し込むほのかな明かりを頼りに、忍び足で進む。
一番奥に設置されている木製の机に、ガジェットと呼ばれる現在主流の操作端末が二台置かれている。
サーバーにログインして、オンラインで作業を行うための機械である。
一台は学校関係、もう一台はメンシュヴェルト用だ。
メンシュヴェルト用ガジェットを起動するとすぐ、画面に認証欄が表示される。
入力すべき認証情報は分かっている。
校長が打つところを見たり、魔法で記憶を調べたわけではない。
そんなことをすれば、いざ疑われた際に、すぐ辿られてばれてしまう。
とはいえ、魔法を利用したことには変わりない。
入力の際に筋肉が動く音を魔法で聞いて、その音を頼りに魔法で動きをトレースして割り出したのである。
パスワードは変動するが、規則性も理解している。
月に一回変わるワードの後ろに、その日の日付が四桁、くっついたものだ。
この時代、もっと高度な認証などいくらでもあるというのに、それがここまでシンプルなのは、部屋自体の侵入セキュリティを信じているからか、単になにも考えていないからなのか。
「いずれにしても、楽で助かるわ」
認証成功し、すぐに操作画面が表示された。
メンシュヴェルトのサーバーに繋がっており、指示待ちの状態である。
机の前に立ったまま、ガジェットを操作しようとまた手を伸ばす。
と、その手が、
左腕に着けているリストフォンが、不意に、強く振動を始めた。
なんや?
水を差されて、不快な顔で画面を見る。
令堂和咲からのメッセージだ。
いまそれどころやない。と、画面を消そうとするが、いくつかの単語が目に入ってしまい、一瞬見ただけでそれがとても無視出来ない類のものであり、結局しっかりと読んでしまった。
内容を要約すると、次の通りである。
四人の魔法使いに襲われた。
相手は本気で、わたしを殺すつもりだった。
このことは、まだ誰にも話していない。
疑いたくはないけど、リヒトの魔法使いの可能性は?
「どういうことや……」
おそらく、いや間違いなくリヒトの魔法使いや。
関東で、そんな汚れ仕事に使われそうな四人ちゅうと、承城安子、寿永見、弘村仁霧、神宮亀絵那、というとこやろか。
やっぱり、至垂さんの命令やろか。
あの人が、令堂の魔力に注目しておることは、知っている。
せやから、あたしにしても、こうして関東におるわけやしな……
でも、あたしは、もう……
リヒトとは……
って、そんな話はあとや。
急がな。
雲音のために……
かなえるんや。
絶対に、願いを。
「すまんな、返事は後で書くわ」
などと胸に口に呟きながら、両手を動かしガジェットを操作し続ける。
それほどの時間は、掛からなかった。
ヴァイスタや、異空関連の考察データが格納されている階層を、見付けるのに。
コイン大のメモリメディアを取り出して、ガジェットの外部入出力用パネルに置いた。
だが、反応せず。
プラグアンドプレイに頼らず手動操作でメディア認識させようとするが、結果はメディア認識エラー。
位置を少しずらすなどして置き直してみても、状況は変わらず。
「なんや、いびつなセキュリティバランスやな。この場で、全部読んでしまうか。……って、どんだけの容量があると思っとるんや」
やはりなんとかして、データを入手したいところだが。
如何にしたものかと思案する応芽であったが、その必要は、なくなった。というよりも、それどころではない事態が発生した。
「侵入するところまでは、念入りだったのにね」
ドアが開いて、ずんぐりむっくり子熊に似た体型の、樋口校長が姿を現したのである。
「おっちゃん。なんで……ここにおんのや」
呆然とした表情で、上擦った声で、尋ねた。
そうもなるだろう。
だって、いるはずがないのだから。
本日の校長は、船橋市で教育委員会との会談に参加して、その後は直帰、のはずだからだ。
そんな彼女の驚きを理解したのか、校長が説明する。
「ごめん。嘘の予定を書き込んでおいたんだ。……そろそろ動くのかなと思ったから。……でも、あれでしょ、これウメちゃん個人で思い付いたことでしょ? 詰めの甘さから考えて」
読みが当たったこと、さして面白くもなさそうに。
もともとの柔和な顔があるため、見慣れぬ者が見れば微笑んでいるように思えるかも知れないが。
「だったら、どないするんや」
腹が据わったか、自分で思いもしない低い声が出ていた。
ドスの利いた、とは少し違い、口の奥が乾いて、かすれた声をなんとか絞り出した、という感じであるが。
とにかく、据わるもなにも、もともと覚悟して臨んだことだ。
想定していなかったことが起きて、慌ててしまっただけだ。校長のいう通り、詰めが甘いといわれればそれまでだが。
信じろ。
大丈夫。
迷いなどは、ない。
と、胸に様々言葉を唱えるのは、意思萎えるのを恐れたからか。
信じろ。
もう一度、自分にいい聞かせると、
「確かに、あたしの独断行動や」
ゆっくりと、声を発した。
「リヒトの指示だったら、下手すれば泥沼の争いになるからね。そもそも、こんな効率の悪いやり方は指示しないだろうけど」
さもあろう。という校長の口調。
顔は先ほどからの、笑みに似た薄いものを浮かべているだけだが。
「せやな。……虫のいいお願いや思うけど、このこと黙っといてくれへん? 知っておきたいんや、ヴァイスタの分かっていることすべてを」
「まだなにも盗まれてはいないからね。不可能な願いではないけど。どうしようかな。……そもそも、どうしてこんなことを?」
校長は尋ねる。
これが素の顔であることを知らない者が見ていたら、どうしてこんな状況で楽しげなのか、不思議に思われていただろう柔和な表情で。
「あたし、昭刃和美に疑われているやろ? 信頼されていなかったことが、ちょっと悔しかったんやけど、でもそう思われて仕方ないのも事実や。隠しとることあると、公言しとるんやもん」
「開き直った、と?」
「とも違うんやけど、きっかけはそれでな。気付いたんや。あたし、ぬるま湯につかり過ぎていたな、と。心地よい一時の場所を守ることばかりで、一番大切な目的を見失うところやったなあ、と」
ここで言葉を切ると、聞いていた校長は自分の顎を人差し指で撫でながら、
「なにをしようとしているのかは、メンシュヴェルトで持っている情報からの推測をするしかないね。秘密だから教えられない、という以上は。でもね……妹さんは、君のしようとしていることを知って喜ぶのかな。そのおかげで助かったのだとしても、喜んでくれるのかな。そもそも、願いかなったとして、それは本当に、妹さんなのかな」
さあっ、と青ざめていた。
応芽の顔が、である。校長は変わらず柔和な笑みを、薄く浮かべているだけだ。
「どうして、妹のことやと……」
応芽の声が、手が、その先端が、細かく震えていた。
「推測するしかない以上、断言は出来ないけど、タイミングを考えただけでも推測は容易でしょ。会議の際にこちらがあえて小出しにしていた情報と、君がメンシュヴェルトにくる話を受けてくれた時期というだけでも」
「あ、あ、当てずっぽうなら誰でもいえるで」
「リヒトが興味あるのは、超ヴァイスタ。違う? その素質を持った魔法使いを監視するために、どこに何人、メンシュヴェルトに送り込んだか分からないけど、一人が君だ。ただ君は、与えられた仕事というだけでなく、個人的にも多大なる関心を抱いていたはず。与えられた、その任務に対して。だって入院している妹さんは……」
「妹のためやから!」
胸が内側から張り裂けそうなほどの大きな声で、応芽は、怒鳴っていた。
「妹……雲音の、ためやから……」
すぐに弱々しい表情になると、微かに聞こえる声で、同じ言葉を繰り返す。
く、と小さな呻きを発すると、やり場をなくして八つ当たりするかのように、右の拳で机を殴り付けた。
「助けたいんや、妹を。その願いがかなえば、あたし、他になんにもいらへん。かなえるためには、ヴァイスタのこと、もっとよう知っとらんといかん。……せやから、メンシュヴェルトの研究したヴァイスタやザーヴェラー、異空のデータが欲しいんや」
弱々しくも焦れた声を出しながら、すがるような視線を、校長へと向ける。
「ウメちゃんの、こないだ話していた夢だよね、それ」
校長の問いに、応芽は小さく頷いた。
「理解はした。でも、データは渡せない」
「なんで? リヒトには、渡さへんよ! 誓って、絶対に渡さへんよ!」
声を荒らげていた。
「信じられるわけないし、信じられればいいという問題でもない。ボクの権限で見られる程度の情報とはいえ、相当に専門的だし、仮に独学で内容を理解出来たとしても、活用には相応の設備機材が必要だ。つまりは、リヒトに頼らざるを得ない」
ここで校長は言葉を切り、二呼吸ほど置いて、少し顔を上げると短い一言を発した。
「リヒトは、危険過ぎる」
と。
その言葉を聞いて、
つまり校長の意思を確認して、
応芽は、泣きそうな顔になっていた。
理解してくれないことに。
妹を助けるための協力をしてくれないことに。
戻るべき妹の笑顔が、遠くへ離れてしまったことに。
だがすぐに、決意が固まったか、ず、と小さく鼻をすすると、まぶたを袖で軽く擦り、校長を睨み付けた。
「ほんま堪忍な、おっちゃん。あたし、これからおっちゃんに強制服従の魔法を掛けるわ。こんなことしたないけど、でも、でも、お願いを聞いてくれへんのやもん。嫌やけど仕方ないやん。……抵抗は、せん方がええで、苦痛でショック死するかも知れへん」
前置きすると、応芽は小さく口を開き、ぼそりとした声で呪文詠唱を始める。
ゆっくり右腕を持ち上げて、開いた手のひらを校長へと向けた。
不快げな、辛そうな顔で、詠唱を続ける応芽。
段々と、その顔に変化が起きていた。
疑問や、驚き、いくばくかの畏怖も混じったような、そんな表情へと変わっていた。
「なんでや……」
驚きに目を見開きながら、ぼそりと疑問の声を発した、直後であった。
「すまない、ちょっと妨害呪式を施したんだ」
低い、女性の声が聞こえたのは。
反射的にドアを方を見た応芽は、そこに誰が立っているのかを知ると、疑問と、憤怒の混じった、複雑な表情をその顔に浮かべていた。
「なんで、ここにおるんや……」
尋ねた、というよりはただ言葉を発しただけであろうか。
そこに立っているのは、よく知った顔であった。
黒と銀が、均等に配色されている魔道着。
足は黒タイツに覆われて、露出はいっさいなく、腰には、馬上の中世騎士のように鎧が垂れている。
応芽の魔道着と、単なる色違いと呼べるほどに似たフォーマットである。
大柄な女性である。
百七十五センチは、あるだろう。
同程度か、それ以上に特徴的なのが、髪の色だ。
肩まで伸びている髪の毛は、あえて魔道着に合わせているわけでもないのだろうが、左右の半分が黒で、半分が銀色なのである。
単なる白髪、というだけかも知れないが、その堂々たる容姿のため、美しい銀髪にしか見えない。
嘉嶋祥子、魔法使いである。
「うーん。邪魔されて悔しがる君の顔がかわいいから、かな」
嘉嶋祥子は自分の鼻の頭を撫でると、ははっと屈託なく笑った。
その態度に、瞬時に激高したのは、応芽である。
「リヒトやろ自分! なんでメンシュヴェルトに加担しとんや!」
殴り掛からなかったのは自制しているからではなく、手の届く範囲にいなかったから。
というくらいに、顔を真っ赤にして、怒鳴り叫んでいた。
「リヒトのために情報を盗もうとしてやっているのに、って意味? 変なこというね、リヒトには誓って渡さないといっていた、さっきの言葉は嘘? それとね、勘違いしないで欲しいんだけど、加担はしていないよ。別に、この校長さんやメンシュヴェルトを守っているわけじゃない。分かっていると思うけど……ウメ、君の行動を止めたいだけだ」
「余計なことを……」
ぎりり、と応芽は歯を軋らせた。
「ああ、気に触ったらごめん。でも、この場においては、君にとっても得しかない話なんだよ。だって今ならば、ボクと校長さんが黙っていれば、今夜ここではなんにも起きていなかったことにも出来るんだし。それに、もしもメンシュヴェルトの……」
「覚悟の上でやっとることや!」
応芽は、怒鳴りながら素早く歩を踏み、祥子の顔を目掛けて拳を突き出していた。
空を切っただけであった。
当たる寸前、紙一重のタイミングで、祥子が斜め後ろへ引きながら顔を横へ動かしてかわしたのである。
紙一重ではあるが、見切っての、余裕を持っての紙一重。
祥子の涼しげな顔を見れば、誰でもそう思うだろう。
ぶん、ぶん。
右、左、連続で拳を突き出すが、しかし当たらない。
騎槍を振り回す場所もないから、拳を振り回すしかないわけだが、その格闘術にしても、しっかり訓練は受けているはずなのに。
訓練所でも、少しは祥子の方が強かったかも知れないが、そこまで圧倒的なものでもないはずなのに。
避けるだけの相手に、ここまで一発も当たらないとは。こんな悪い足場だというのに。
「狭い部屋に、そのでっかい図体は邪魔や!」
また拳を突き出すが、祥子は涼しい顔、風圧を受けた木の葉のように紙一重のところひらりとかわす。
「狭い部屋に邪魔なくらい大きい図体がいるのなら、どうして当たらないのかなあ」
「黙れ!」
「君の邪魔をするためなら、いくらでも大きな図体になれそうな気がするよ」
「黙れゆうとるんが聞こえへんのか!」
拳を振り上げ、身体ごとぶつかる勢いで飛び込んだ。
だが、拳が祥子の顔を捉えることもなければ、身体をぶつけることどころかかすめることすらも出来なかった。
祥子の、容赦ない平手を頬に受け、足元に転ばされたのである。
「いい加減にしたらどうかな、ウメ。ボクも校長さんの考えに賛成だな。……だって、誰も喜ばないよ。誰も。君の妹、雲音だって」
「なにが分かるんや! 自分になにが分かるんや!」
応芽は床に這ったまま、両方の拳を床に叩き付けた。
泣いていた。
拳で床を何度も叩きながら、応芽は、涙をぼろぼろこぼしながら、泣いていた。
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