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魔法使い×あさき☆彡

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第十章 とあるヴァイスタの誕生と死


     1
 ちらちら糸くずが入り込む、古いフィルムを映写機で映しているかのような、汚い白黒映像である。

 明治時代の洋館を思わせる古風な洋間に、一人の女性が倒れている。

 目をかっと見開いたまま。
 口は半開きで、瞳孔が完全に開いている。
 頭から血が流れており、その血がどろりと床に広がって色を変え、染めている。

 映像は、自分視点であろうか。

 自分、よりも少し前に、頭半分ほど背の高い少女が立っており、身体を震わせている。
 その少女は、元は可憐で可愛らしいであろう顔を、獣のようにぐしゃぐしゃに醜く歪めながら口を大きく開いて、目の前にいる大人へと飛び込んでいく。
 右手のナイフを、闇雲に振り回しながら。

 次の瞬間、少女が横殴りに吹っ飛ばされていた。

 目の前に立つ大人の、返り討ちを受けたのだ。
 右手に握られているハンマー、これで頭を一撃されたのだ。

 このような凶悪な鈍器で、小さな子供が殴られて、どうしてたまろうか。
 少女の身体は、既に床に倒れ血みどろになっている女性へと、重なり合って崩れた。

 ハンマーを持つ大人の足が、ゆっくりと角度を変えて、こちへと向いた。



 叫び声。



 限界まで、目を開いていた。
 跳ね起きて、
 両の手に、シーツを手繰り寄せ、ぎゅっと掴み、喉の奥から呻き声を発していた。

 はあ、はあ、
 乱れる呼吸。

 大きく肩で呼吸をしているうちに、少しだけ落ちつくと、小さくため息を吐き、すーっと深呼吸をした。

 (おお)(とり)(せい)()は、長い黒髪の中にある端整な顔を、ふと窓の外へと向ける。

 我孫子(あびこ)()(こう)()(やま)地区の平凡な田園町並みを見ながら、そっと胸を押さえると、もう一度小さなため息を吐いた。

 落ち着いたといっても、まだ呼吸は荒い。苦しい。
 当たり前だ。
 こんな夢を見てしまったばかりなのだから。

 以前は、年に一回くらいだったのが、今年になってから頻度が多くなって、ここ最近は一週間に一回は見てしまう。
 しかも今回は、映像がかなり鮮烈だった。生々しかった。

 またしばらく、具合が悪くなりそうだ。
 心と身体の調子が。

 母と、姉が、むごたらしく殺される夢。
 時折、今回のように鮮明に見てしまうことがあるが、仕方がない。

 だって、夢の内容は事実なのだから。
 自分が体験したことなのだから。


 十年前。まだ自分が幼い頃のことだ。
 母の不倫を疑った父が、逆上してハンマーで殴り殺してしまったのだ。
 さらに姉を殺したところで、父は我に返り自殺。

 母と姉の死については、正香は自分の責任だと思っている。
 父の死は、自業自得というものであろう。妻を信じられないどころか殺めてしまったのだから。あまつさえ長女までをも。

 何故、自分の責任と思うかであるが、ただ怯えているだけで戦わなかったからだ。守ろうとしなかったからだ。
 なんの罪もない母と姉が、殺され掛けていたというのに。

 自分はまだ四歳であり、仕方のないこととも分かってはいる。
 忘れなければならないということも、分かってはいる。

 そう。忘れなければ、前に進めない。
 でも、自分を自在にコントロール出来るくらいなら、こうして悩まない、あんな夢など見ない。

 今回の夢のように、否が応でもたまに思い出してしまい、正香はその都度、最悪な精神状態の底の底まで落ち込むのである。


 窓から視線を戻し、今度は机の上に立てられている写真を見る。
 つい先日の、学校での合宿時に撮影した、(なる)()(はる)()などみんなと写っている写真。

 その横には、もう一枚写真が立て掛けられている。
 十年以上も前の、母と、姉と、自分と……
 そして……

 びきん、と頭の中にヘラを突き刺され掻き回されたかのような激痛に、正香は頭を抱えて、くぐもった呻き声を発し、襲う苦痛に顔を歪めた。

     2
 踵を軽く浮かせ、つま先で身体を支えながら、二人が向き合っている。
 反対側の壁に立っていようとも息遣いがはっきり聞こえそうなほどに、しんと静まり返った空間に。

 二人とも、剣道の防具に身を覆っている。
 竹刀の先端が触れるか触れないかという距離を取ったまま、双方ピクリとも動かない。

 二人の身体の大きさは、これで公平な勝負になるのかというくらいに違う。
 それでも二人は、どちらがどうということはなく、ただ、被った面の奥から相手だけを見つめ、竹刀を突き合わせ向き合っている。
 微かな息遣いとともに。

 ここは、大鳥家の敷地内にある稽古場だ。
 (おお)(とり)(せい)()が、叔父である(おお)(とり)(みち)(ひこ)に朝の稽古をつけて貰っているところである。

 正香は、中二の女子としてはごく平均的な身長であり、対する道彦は男性として見ても少し大柄。だから、この不公平を感じさせる身長差も、当然なのであるが、
 しかし、道彦は容易には動かない。
 姪が最近、めきめきと実力を付けてきているのを、分かっているからである。

 以前は、わざと無防備に前へ踏み出すことで、動揺して大振りで挑んでくる正香の竹刀を、簡単に弾き飛ばしていた道彦であるが。
 現在の二人に、実力差はほとんどない。

 ほんのわずか、道彦の方が上ではある。
 ただし、動かずぴたっと静止し続ける能力においては、道彦は姪にかなわない。

 叔父に実力で劣っていると分かっているからこそ、正香は必ず、自身のその特徴を生かして持久戦に持ち込もうとする。

 持久戦においては、いつも勝つのは正香である。
 道彦は、分かっているのにいつも焦れて動いてしまう。

 とはいえ大半の場合は、実力差で半ば力技的に叔父が姪を下してしまうのではあるが。

 今回もそのような構図、そうなりそうな雰囲気が作られつつある。叔父が痺れを切らして、姪が迎え討つという。

 小さな呼吸をしながら、向き合う二人。

 実力が伯仲しているからこそ、空気がよりしんと静かになる。

 心臓の音すら読み合うかのように、二人は神経研ぎ澄ませ、じっと動かない。
 だが、

 ついに、動いた。
 動いたが、ただしそれは正香の方であった。
 埋まりつつある実力差を信じてのことか、埋められないからこそ虚を突いたということか。

 いずれであろうとも、このようになった以上もう勝負はついたも同然であった。
 道彦の迷いのない攻めが、正香の小手を打ったのである。

 く、と面の中から呻き声。だらりと正香の腕が下がった。

 二人とも、ほとんど動いていないというのに、いま初めて少し動いただけだというのに、はあはあと息を切らせている。

「参りました」

 正香は、深く頭を下げた。
 道彦も頭を下げると、お互い向き合って正座し、面を外した。

「そろそろこっちが負けることもあるだろう、と最近いつも覚悟はしているのだけどね」

 だけどこの様子ではまだまだかな、と叔父はいっているのである。

「はい」
「曇りがある」

 叔父のその言葉に、正香の心臓はどんと痛いくらいに跳ね上がっていた。

「まだ兄さん、お前のお父さんのことを気にしているのか?」

 尋ねる道彦であるが、正香は俯いたまま答えなかった。
 きゅっと唇を噛んでいつまでも下を向いているというのが、答えでもあった。

     3
 東病棟の四階。
 四人部屋の病室であるが、ネームプレートには(みち)()(くも)()と書かれているのみだ。

 患者の、双子の姉である(おう)()がお見舞いに訪れており、ベッド脇にパイプ椅子を立てて座っている。

 彼女の目の前、ギャッジアップさせたリクライニングベッドに(みち)()(くも)()が背を預けて座っている。

 預けているといっても、それは自身の意思ではなく、ただ現在そのような姿勢になっているというだけだ。
 その目には、そもそも意思の存在を感じさせる一切の光が宿っていない。

 まるで、マネキンである。
 いや、生身であることは見て分かるだけに、ある意味ではそれ以上に。

 壁を見ているが、壁を見ていない。
 仮に目が捉えていようとも、脳が認識していない。

 分かっている。
 分かっているからこそ、自分は……

 応芽は、膝の上に置いた拳をぎゅっと握ると、笑顔を意識しながら、会話を続ける。

「ほんでな、その第二中の(よろず)(のぶ)()って三年生が、まあオモロイ姉ちゃんでなあ。(あき)()(かず)()とのコントみたいなやりとりは見物やったわ」

 分かっているからこそ……
 応芽はもう一度、強く悲しい思いを胸に唱える。唱えながら、表情楽しそうに喋り続け、はははっと自分で笑った。

 話題が切れてしまい、天井を見上げながら、ちょっとだけ考え込むと、また口を開いた。
 自分とまったく同じ顔なのに、自分とまったく違う、妹の顔を、笑顔で見つめながら。

「赤髪アホ毛の(りよう)(どう)()(さき)の、チョーゼツ音痴の話な。……誰もおらん思たんかな、またひっどい歌を楽しそうに歌っとるわけよ。声を掛けたら恥ずかしそうに、『カズミちゃんがよく歌ってるから、覚えてしまってえ』とか。そしたら、どこからともなく、ドドドド土煙を上げて走ってきた昭刃が、バカヤローって令堂の顔面にストレートパンチくれてな。『そんな下手な歌あ教えてねえ』って。見本とかゆうて歌ってたんやけど……ええ歌やったわ。あいつ、乱暴で横暴で下品なバカやけど、歌だけは抜群に上手いんや。令堂やないけど、あたしもちょっと覚えたから、雲音に聞かせたるな」

 応芽は微笑んだまま立ち上がると、そっと目を閉じ、そっと、静かに語るように、歌い始めた。


「♪ 大丈夫
 私がいるから
 きみは一人じゃない
 大丈夫
 時のこの流れが
 どんなに残酷だったとしても

 大丈夫
 もし私が消えても
 きみには私がいた
 大丈夫
 きらめく星空の上から
 私はいつも…… ♪」


「夜の病室で歌うの迷惑やから、よしてもらえますー?」

 ドアから覗くナースの声に、我に返った応芽は肩を震わせ飛び上がった。

「すすすみませんっ! ほんまにすんません!」

 着地ざまにドアの方を向くと、ぺこぺこ何度も何度も頭を下げた。

 ナースが去った後も、しばらく恥ずかしそうに突っ立っていた応芽であるが、やがて、静かに雲音へと顔を向けた。
 優しく微笑んだ顔を。

「大丈夫、やから……」

 一歩二歩と歩み寄ると、腕を伸ばし、妹のやわらかな身体に覆いかぶさって、抱き締めた。

「お姉ちゃんのこと、信じてええよ」

 耳元で囁く。

 雲音の瞳は、なにも捉えてはいなかった。
 ただ、前を向いているだけ。
 ただ、微かな息遣いが聞こえるだけだった。

 分かっている。
 そんなこと。
 だから……

 ぎゅ、とより強く、応芽は、妹の身体を抱き締めた。



 大丈夫
 時のこの流れが
 どんなに残酷だったとしても……

     4
 我孫子市立天王台第三中学校への、(こう)()(やま)地区からの通学路である。

 学校へ近付くにつれ、段々と男女生徒が合流して、賑やかになっていく。
 のであるが、そのような中で彼女たちが、なんだか賑わいに反比例しているように見えるのは、あまりにもどんより沈んだ表情をしているからであろうか。

 (へい)()(なる)()と、(おお)(とり)(せい)()、二人の女子生徒が。

 彼女たちは狭い通学路をゆっくりと、元気なく、肩を並べて歩いている。
 並べて、といっても身長差のため階段状であるが。

 自宅が近所であるため、こうしていつも一緒に登校する仲なのだ。
 小学校に入学してからずっと、いつも一緒に通っている。

 二人とも、無言である。
 普段は、無駄に舌の根を振り回すのが成葉で、正香は微笑みながら要所で相槌を打ったり言葉を返したりする聞き役。
 成葉一人で何人分も喋るため、総じて賑やか。
 ところが、今日に限っては、成葉がまったく喋らない。

 正香には、何故なのか理由は分かっている。
 自分の、張り詰めふさぎ込んでいる、この態度が原因だ。

 長い付き合いだ。なにが原因で現在そうなっているのか、成葉も理解しているはず。理解しているだけに、踏み込んで迂闊なことがいえないのだ。

 いつも、自分がこのような症状に襲われると、ずっと黙ったまま学校に行くことになる。
 なんらかの予期せぬ事態が起きて、意識や気持ちが逸れない限りは。

 だが、今日は違っていた。
 正香が沈んでいれば親友である成葉も面白いはずがなく、これまでの長い間ずっと蓄積され続けてきた鬱積が、忍耐力の壁に小さな穴を空けてしまったのかも知れない。

「ゴエにゃん、また……考えているでしょ」

 成葉は、普段のキンキン甲高い声と違って、低くぼそりとした声で尋ねた。

 聞こえていたが、正香は黙ったままだ。

 だって、考えていないといえばそれは嘘だし。
 なにをですか、などと聞き返そうものなら、それはもう避けたいはずのその話に突入しなければならないわけで。

 だから、この話をどうやって、なかったことにするか、うやむやにごまかすか、行動の選択権を成葉に委ねたのである。いつものように。
 後ろ向きな考えしかない選択肢であるが。

 だけど、終わらなかった。
 今回は。
 これまでと違い、成葉が引き下がらなかったのである。

「もう中二だしさあ。そろそろナルハもずっぱりいうね。……ゴエにゃん、もっと強く、というか、もっと鈍感にならないと駄目だと思うんだよね」
「なんのこと、ですか?」

 結局、いうまいと思っていたその言葉を、正香はいってしまった。

「分かっているくせに」
「ですから、なんの……」
「だから、お母さんお姉ちゃんが殺されたことだよ」

 大きくはないものの、さりとてまったく隠すつもりもないような、はっきりとした声で、成葉は答えた。
 周囲に登校中の生徒たちがたくさん歩いているが、その言葉に気付いた者は誰もいないようである。
 とはいえ、わざと聞かせるつもりはなくとも、成葉はあえて、このような場所で、このようにいってみせたのだろう。

 正香は目を見開くと、すぐに細め、俯きながら唇を震わせた。

「忘れたいけど、忘れてはいけない……」
「そんなことない! そんな義務感なんかいらないんだよ。そういうのから解放されてさ、本当のゴエにゃんになろうよ。戻ろうよ」
「本当のわたくしってなんですか! なにも……なにも知らないくせに、勝手なことばかりいって!」

 正香が声を荒らげるなど、成葉にとっては初めてだったのではないだろうか。

 だけど、そんな態度を受けて驚く様子も引く様子もなかった。質問をした時点で、覚悟していたのかも知れない。

「なにも知らないから、他人だから、勝手なことをいうんだよ。他人が他人じゃないゴエにゃんを思うから」
「いっている言葉の意味がまったく分かりません」

 正香は突っぱねる。

「ナルハだって分かんないし、そんなのどうでもいいんだ。ナルハが好き勝手にいう言葉で、それでゴエにゃんが楽になれるなら、ナルハはいくらでもいうよ。まっすぐじゃなくたって、楽に生きられるのなら」
「楽になれるはずないでしょう! もうその話は二度としないでください! 分かりましたか? 二度とです! 二度と!」

 怒鳴っていた。
 すっかり頭に血が上ってしまっていた。
 こんなことしたくない。親友にこんな態度取りたくない。
 そう思っても、止められなかった。

「自分を責めることさえやめてくれたら、もうその話はしないよ。二度とね」
「もういいです」
「よくないよ!」
「しつこいですよ! 他人の心の傷口に塩を塗るような真似をして、成葉さんのしていることは最低です!」
「え、あ、あの……」

 ここまで頑張った成葉であるが、最低の一言が相当にこたえたのだろう。
 う、と言葉を詰まらせると、じわり目に涙を浮かべた。

「あ、すみま……」

 心ないかあるか自分でも分からないが、とにかく幼馴染の親友にきつい言葉を浴びせてしまったことに違いなく、狼狽え手を差し出す正香であったが、

 成葉は涙を溜めたまま、うわあああと大声で叫びながら学校の方へと走り去って行った。

 残った正香は立ち止まり、悲しそうな顔で、小柄な成葉の背中がさらに小さくなるのを見続けていたが、やがて、空を見上げた。

 雲ひとつない、さわやかな青空であった。

     5
 木造アパートの二階にある一室から、中学校制服姿の女子が、ゴミの入ったレジ袋を右手に、カバンを左手に、それぞれ持って出てきた。

 造作はとてもかわいらしいのだが、おでこを出した髪型や睨むような目付きのため、気が強く怖そうな顔立ちに見える少女。
 (みち)()(おう)()である。

 両手に物を持ちつつも、つまんだ鍵をガチガチ器用にドアを施錠すると、建物の脇にある錆びの激しい階段を使い下へと降りる。

 ここは、彼女が一人暮らしをしているアパートである。

 敷地と道路の間にある低いレンガの花壇を、スカートを気にせずショートカットだとばかりにまたいで越えると、隣の一戸建てとの間にあるゴミ置き場に、持っているゴミ袋を捨てた。

「おはようウメちゃん」

 背後から声を掛けられて、応芽は振り向いた。

 そこにいるのは、ちょっとだけ腰の曲がった七十くらいのおばあちゃんだ。
 向かい側の一戸建てに、息子と二人暮らしをしている、(きよ)(はら)(きよ)()さんである。

「おはようございます、清原さん」

 応芽は、小さな笑みを作り、会釈をした。

「一人暮らしも大変ねえ。中学生だというのに料理洗濯ゴミ出し、全部自分でやらなきゃならないなんて」

 笑みを受けて、清原さんもしわしわ顔のしわをより強くした。

「いえ、もう慣れましたよって。ズボラを誰にも注意されないんで、意外と楽ですわ」
「まあ辛くないのならいいけど。でも、なにかあったらいつでも相談してね。それじゃ、行ってらっしゃい」
「おおきに。ほな行ってきまあす!」

 心配させまいと、作って元気満々な感じの大声を出すと、捨てたゴミの分だけ軽くなった身で歩き出した。

「清江さん、最近編み物が大変ゆうとったな。……老眼鏡が合わなくなっとるんやろか。今度、一緒に見に行ったげよかなあ」

 などと一人ぼそぼそ呟いていると、今度は正面から声だ。

「おはよーっ。ウメちゃん」

 五歳ほどの小さな娘を連れた、茶髪の若い母親。
 (もと)(ぞの)みどりさんと、長女の()(はる)ちゃんだ。

「ああ、おはようございます。小春ちゃんもおはような」
「おっはよーーっ!」

 小春は青空へと右手でパンチくれながら、すかんと突き抜けるような大声を出した。

「おー、朝から元気ええなあ。若さやなあ。……雲もなくて、ええ天気ですね」

 応芽は、本園さんへと視線を移した。

「そうだね。……ウメちゃん、この間はほんっとありがとうね。お好み焼き、とっても美味しかったあ」

 数日前、せっかくホットプレートを買ったのに上手に焼けなくてえ、などと悩み相談を受けているうちに、ほならと応芽が作り方焼き方を教えてあげたことがあるのである。

「いえ、ちゃっかり自分がご馳走になってしもて申し訳ない。口におうたんならなによりでしたわ」
「また今度、お願いしてもいい?」
「あたしは別に構やしまへんけど、出来たら今度はみどりさんの作ったのが食べてみたいかなあ」
「分かった。練習しとく。……あのさ、お好み焼きもそうなんだけど、ウメちゃんとお話するのがなにより楽しかったらしくて、小春が」

 その言葉を受けて、小春はにんまりと微笑んだ。

「お好み焼きもとっても美味しかったけどお、ウメ姉ちゃんのする大阪のお話が面白かったあ。また聞かせてえ」

 食事中、問われるがまま色々な話をしたのだが、特に小春が食い付いたのが大阪のこと。
 どんなところで、なにがあるのか、みんなどんなで、言葉遣いはこんなで、興味津々と聞いてくれた。

 応芽にとっては、別段なんということはないが、小春にとっては、すべてがわくわくする未知の世界なのだろう。
 まあ、近所のお姉さんが自宅に来て一緒に食事するということが、イベントとして楽しいだけかも知れないが。

「おう。おもろい話、たっぷり聞かせたるで」

 応芽は笑いながら、小春の頭を撫でた。

「もう行かな。ほな、行ってきます」

 手を振りながら、後ろ歩きで距離を取ると、くるんと前を向き直って歩き出す。

 十メートルも進んだところで、特に意味はないが、また後ろを振り向いてみた。
 本園親子が、なんだか楽しそうな顔で話をしている。
 その、仲のよさそうな姿を見ているうちに、応芽の顔に寂しげな陰が浮かんでいた。
 小さく口を開いて、ぼそっと言葉を発した。

「明日を信じとるんやろな。こんな世界の……」

 意味有りげにそういうと、あらためて空を見上げる。
 雲のほとんどない、澄み渡るような青い空を。

 ふう。と息を吐くと、苦笑した。
 前を向き、歩き出しながら、一人また口を開く。

「この空に、なんの意味があるんか分からんけどな。でもま、ええ天気やな。……ほなあ勉強運動ヴァイスタ退治、今日も頑張るでえ!」

 感情をごまかすような態度、作ったような大声で、右腕を突き上げた。

「とはいうものの、勉強の方がなあ……昨日返った英語のテスト、散々やったなあ。へこむわあ」

 勉強しとらんわけじゃあ、ないんやけどなあ。
 (あき)()のアホのこと、よういえへんわ。
 (おお)(とり)にはかなうわけないけど、(りよう)(どう)も勉強しとらんように見えて頭がええよなあ。

 などと、歩きながら一人でぶつぶつぶつぶつ。

 脇道から通学路の本道へと合流しようかというところで、本道を歩く生徒たちの中に(へい)()(なる)()の姿を見つけた。

「なんやろ……」

 応芽は、軽く握った拳を口に当てながら、ちょっとだけ目を細めて疑問の言葉を発した。

 疑問に思うのも当然だろう。
 平家成葉の様子を見れば。

 鼻をぐずぐずさせながら、歩いている。
 目を擦っているのは、涙を拭っているのだろうか。
 元気のない顔で、一人で歩いている。

 そう、いつも必ず大鳥正香と一緒なのに、今日は一人っきりで歩いている。

「平家、一人だけやなんて珍しいなあ」

 本道へと入りながら、あえて平然とした風に成葉へと声を掛けた。

 成葉は歩きながら、ちらっとこちらを見ると、すぐに前へと向き直った。
 心なしか、歩調が早まったような。

 応芽はささっと早足で、成葉の横に並んだ。
 並んで、尋ねる。

「なあに泣いとるんや」
「泣いてないよ!」

 まるで脊髄反射といった反応速度で、真っ赤な目で応芽を睨み付けながら、荒らげた声を発した。

「どう見たって泣いとるやん!」
「さっき泣いてたんだ。いま泣いてない!」
「せやから泣いてたんやろ」

 なんや、その屁理屈にもならない屁理屈は。

「泣いてたよ! 悪いかこの関西人! ウメ! ウメボシ! ウメババア! ババア! ウメバカ! ばーーーーーーか! ばーーーーーか! ばーーーーーか! ばーーーーーか!」
「あ、あ、あのな、あたし、そこまでいわれなならんこといった?」
「知らないよ!」
「……ひょっとして、大鳥となにかあったん?」

 ぴくっ、成葉の全身が、遠目からでも分かるくらい激しく痙攣すると、そのまま動きが止まった。

 立ち止まったのに合わせて、応芽も足を止める。

 男女生徒たちが、ちょっと迷惑そうな顔で、彼女らを避けて通り過ぎていく。

 成葉は、黙って俯いている。

 もっと激怒されること、瞬間的に激高されること、覚悟で応芽は尋ねたのであるが。

 子供じみた言葉とはいえ、とりあえずの毒を吐き切ったためか、ひと呼吸ふた呼吸置くと、成葉は黙ったままこくりと素直に頷いた。

「やっぱりそうか。困っとるなら、聞くくらいは聞くで」
「うん。ありがとう」

 しおらしくなって、身を縮ませながら礼をいった。
 つい数秒前までババアババア叫んでいたくせに。

「ウメにゃんのいう通り。……ゴエにゃんと喧嘩した」
「理由は?」
「うん……ハルにゃんもカズにゃんも知ってることだし、ニュースにもなってることだから、別に話しても問題はないのかな。……じゃあ話すね、あのね」

 鼻水ぐずぐずさせながら、声を潜めて成葉が話し始めたのは、十年前の出来事。

 手賀沼を一望出来る広い敷地の中に、名家である大鳥家の住居である古い洋館が建っている。
 そこで、血なまぐさい殺人事件が起きたのである。

     6
 犯人は、当時の主である(おお)(とり)(むね)(ひこ)
 (おお)(とり)(せい)()の、実の父親だ。

 二階にある洋室の一つで、事件は起きた。
 きっかけは、妻に不倫をされた、と宗彦が勝手に思い込んだこと。

 妻である(ふう)()を、その洋室で問い詰めているうちに、宗彦が激高。
 たまたまなのか、用意していたのか、近くに置いてあったハンマーを手に取り、頭部を横殴りに一撃し、殺害。

 その時、部屋には、口論している夫婦を仲裁しようとしていた、二人の娘もいた。

 長女である(えい)()は、妹である正香を守ろうとして殺された。
 守るために宗彦をナイフで刺そうとして、返り討ちにあったのだ。

 そこで我に返った宗彦は、ショックを受け、後悔し、永羅の持っていたナイフを使って自害。

 現場にいた者の中で、生き残ったのは、一番幼い正香だけであった。

 それから一時間ほどして、一緒に暮らしている叔父夫婦が外出から戻って、事件が発覚した。

 脳が崩壊しないための防衛反応だったのか、それともそれを形見だと思えばこそなのか、正香は、その洋室の床にぺたんと座って、母親のリストフォンを両手に持ち、ぶつぶつ意味不明な言葉を呟きながらいじっていたらしい。

 これが、十年前の出来事である。

     7
「それからずっとね、ゴエにゃんはきっと自分を責め続けているんだ」

 いつもの溢れる元気をどこに置いてきたか、という表情と声で、(なる)()はそういうと、ふうっとため息にも似た息を吐いた。

「どうして自分を責めるん?」

 そういうものでもあるんだろうな、と理解を示しつつも、(おう)()は尋ねる。

「子供がもっとしっかり両親を喜ばせて、絆を結びつけておけば、そもそもこんなことは起きなかったんだ、って」
「はあ? 酷やろ、その理屈は」

 なんで子供が、そないに完璧でおらなあかん。
 仮に子供側に問題があろうとも、ならばなおのことしっかりせなあかんのが親やろ。両親というものやろ。
 逆やん。
 不倫だかなんだか、大人の事情で、身勝手に殺し合って。

「あとね、これは何年も前に本人から聞いたことなんだけど。お父さんがハンマーを手にした時に、怖くて頭が真っ白になっちゃって、なんにも出来なくて、お母さんとお姉ちゃんを助けることが出来なかった、それも悔やんでるって」
「せやから! それも、酷やろ! だって……だって、まだ四歳か五歳やん」

 そこまで過去を無駄に背負おうとしているのかと思うと、感心感激よりも腹が立って、つい応芽は声を荒らげた。

「ナルハもそれよくいうよ。ゴエにゃんは悪くないって。でもね、それでもゴエにゃんは自分を責めちゃうんだ」
「まあ、まったく分からん感情でもないけどなあ」

 悪い悪くないのことではなく、少しでも違うことをしていればそもそ運命が変わっていたのではないかと、過去の自分の微々たる行動を悔やむ気持ちに関しては。

「いまも、大鳥はそこで暮らしとるん?」
「うん。その時から一緒に暮らしていた、叔父さん夫婦とお婆ちゃんと、現在も一緒に」
「せやから忘れられんのとちゃうか」
「だよね。だから叔父さんたちは引っ越しを提案するんだけど、ゴエにゃんは嫌なんだって」
「それに関しては、あたしにはなんもいえんわ」

 乗り越えたいからなのか、単に母と姉と暮らしてきた家から離れたくないからか、理由は分からないが、どちらにしても。

「叔父さんたちとは、ナルハも会ったことあるんだけど、みんな優しい人ばかりで、ゴエにゃんを本当の子供のように愛してくれているのが伝わってくる。そんな中で暮らしていても、それでもあの事件のことはたまに夢に見ちゃうし、一度見ちゃうと、しばらく心の状態がどうしようもなく不安定になっちゃうんだって」
「そら動揺もすれば夢も見るやろ。……自責の念が強すぎるから、思い出すたびに辛いってことか。忘れちゃあかんって気持ちもあって、悪循環に陥っとるんやな」
「これまではナルハずっと、見て見ぬふりをしていたんだけど。嫌な記憶も、いつかは薄れていく。それにゴエにゃんだって、いつまでも子供じゃない。成長して強くなるんだから、って思っていたから」
「それ以上に、責任感や後悔が大きく膨れ上がってしもたんかな」
「多分ね。でも、ここ一年くらいは、その夢を見ることもなく、落ち着いていたらしいんだけど、また最近、見るようになっちゃったみたいで」
「そら辛いわなあ」

 応芽は、難しそうな顔で、腕を組んだ。
 腹にガツガツ、持ってるカバンが当たるので、すぐに腕組みを解いた。

「……これまでなら、また見て見ぬふりだったけど、でもね、ナルハ考えたんだ。もうゴエにゃんは、魔法使いの活動なんかもしてて充分に強いんだから、そろそろピシッというべきだって。抱え込まず、少しはズルくなって、現実から目をそむけることも覚えて欲しかったから。多少は喧嘩になってもいい、って思ってたんだけど、でもゴエにゃんと口喧嘩なんて生まれて初めてで……」
「自分を抑制出来なくなって、大鳥に対して必要以上に激しく当たってしまった」
「そう。……ナルハが悪いんだ。突然あんなに強くいうべきじゃなかったんだ。十年経っても強く自分だけを責めるくらい、怖い嫌な記憶だというのに……」

 成葉はきゅっと唇を噛んだ。

「大鳥って、いつも静かに微笑んでいるけど、そんな辛い過去があったんやなあ」
「その時からだよ。そうなったのは。ナルハたち、三歳の頃からの仲だけど、ゴエにゃんってかなり喜怒哀楽を出すタイプだったもん。変なこと叫んでくるくる回ってたりとか、イタズラも凄かったし」
「本人が自力で乗り越えなあかん、とまではあたしは思わへんけど、平家としては、親友のそうゆうとこを見とるのは辛いよなあ。……でもな、平家が投げたその厳しい言葉も、いつかは届く思うで。大鳥だってほんまはカラを破りたがっとるんやないか? 慣れあうだけが友情やないし、平家の態度は間違っとらん。自信を持って、どーんと構えとけばええんや」

 応芽は、自分の左胸を右手でどんと叩いた。

「でも、それで色々といい過ぎて、喧嘩になっちゃったんだよ」
「雨降ってなんとやらや。とりあえずは、いい過ぎた思うたんなら過ぎた分を謝っとけばええわ、後で会うた時にでも」
「他人事だと思って……」
「自分かて、他人事やからって宣言して、大鳥にきついこと仰山ゆうたんやろ。ま、大丈夫や、さっきのその件やったら時が解決するやろ……」

 ぶーーーーー

 応芽の、左腕のリストフォンが振動した。

「なんやなんや、こんな朝っぱらから」

 気怠そうな顔で、左腕を持ち上げて画面を確認した瞬間、表情が変わった。

「ああ、悪い平家、大阪にいる親からや。……静かなところで話したいから、先に行っててくれへんか。ほなまたなっ」

 焦りの混じった笑顔でそういうと、ぽけっとした顔の成葉を一人残して、応芽は早足で脇道へと折れた。

 リストフォンを骨伝導の通話モードに切り替えると、側頭部へと押し当てた。

「すんません、遅れました。(おう)()です。……はい。(りよう)(どう)()(さき)については、特になにも変わったところはありません。……はい。注視するようにしますわ。分かりました。ほなら定期連絡で。……あ、あ、同じグループの大鳥正香のことですが、彼女は、『兆し』があるのかも知れません。……はい、こちらも、はい……状況に応じて、また……それじゃ」

 通話が終了した。通話時間が表示されて、数秒後で画面は真っ黒になった。

 しばらく無言で、リストフォンを耳に当てたままの応芽であったが、やがて、ずるりとその左腕が落ちる。
 両腕をだらんと下げたまま、しばらくそうしていたが、やがて、ぼそっと呟き声を発した。

「利用出来るもんなら……なんでもええわ」

 俯いて、顔を前髪に隠しながら、にやりと笑みを浮かべていた。
 唇が微かに動いているだけにも見える風に、溶け消えそうな小さな声で、なおも言葉を発する。

「悪魔に魂だって……売ったるわ」

     8
 風に、溶け消えそうな小さな声で、(おう)()は言葉を発する。

「悪魔に魂だって……売ったるわ」

 そう呟いた瞬間、悪夢から覚めたかのように大きく目を見開いていた。

「あかん、あかん! あたし、今なにを思っとった……」

 応芽は、険しい顔になり、くっと呻き声を出すと、寄りかかっていた壁を、振り向きつつ殴り付けていた。

 壁に血が付いたことに気付くが、構わずその手で、今度は自分の頬を打った。

「せや。あたしは、ただっ、()(だれ)さんに状況を報告しただけや。ただそれだけや! (おお)(とり)(せい)()をどうこうするつもりなんか、あたしにはあらへん」

 すっかり狼狽している表情に口調、呼吸も荒くなっている。

(くも)()のことは、別の方法を探すと決めたはずなんやから。だ、だってあたしは、あいつらの……そうや、あたしは……あたしはっ、天王台第三中学校二年、(みち)()(おう)()なんや!」
「いやあ知ってるよお」

 制服姿の(りよう)(どう)()(さき)が、見つめていた。
 応芽の言動に対してか、不思議そうな楽しそうなといった小さな笑みを浮かべながら。

「あ、あーっ、い、い、い、いつからっ!」

 びくり肩を震わせた応芽は、先ほど以上に狼狽えまくり、顔色を赤に青に変化させている。

「今だよ。あたしはミチガオウメやあっ、とかけたたましい声で叫んでいるから、ウメちゃん脇道にいたというのに気付いちゃった」
「けたたましい、ってそこまで大きな声は出してへんわ。……(あきら)()たちは? 自分らいつも一緒やろ」
「うん。治奈ちゃんとカズミちゃんがね、(ほし)(かわ)()()()の曲がいいとか悪いとか争っててえ、わたしだけ先にきちゃった。仲裁しようとしたら、ド下手になにが分かるとかカズミちゃん怒るんだもん。そんなわたし歌が下手かなあ」

 えへへ、とアサキはアホ毛をいじりながら、かわいらしく笑った。

「あ、それでウメちゃんは、なんで自分の名前を叫んでたの?」
「せやから別に叫んではおらんて。……なあ、令堂、一つ尋ねたいんやけど」
「なあに?」

 なにをあらたまって、とアサキは小首を傾げた。

 しばらく、次の言葉を躊躇している応芽であったが、拳をぎゅっと握ると、震える声で質問の言葉を発した。

「あたし、みんなの仲間やろか」
「うん、もちろんだよ」

 返事まで、躊躇っていた時間の十分の一も掛からなかった。

 ほっ、と息を吐くと、応芽は、

「そっか。おおきにな」

 気の強そうな顔を少しやわらかくして、微笑んだ。

「気持ち悪いなあ」
「はあ、なんや、人のことつかまえて気持ち悪いって。失礼なやっちゃな」
「ごめん。……仲間だよ。ウメちゃんは。大好きな、大切な」

 微笑み返しをするアサキに、応芽はちょっと悪戯っぽい表情になって、

「あたしも令堂のこと好きやで。色々と抜け過ぎてて、ほっとけへんわ」
「えーっ、酷いなあ」

 アサキは、ぷっとほっぺたを膨らませた。

「まあ、他の奴らのこともやけどな」

 ふふっ、と笑う応芽に、つられてアサキも声に出して笑った。

 応芽は言葉を続ける。

「あたしもな、いつの間にか心の居場所がここになっとるんやな。あのアホどもにはこっ恥ずかしゅうて、ぜーったいにいえへんけど、なんでやろなあ、令堂にならいえるわ」
「突然どうしたの? まさかウメちゃんが、そんなしめっぽいこというなんて」

 応芽はそれに答えず、言葉を被せ気味に、

「令堂、お願いがあるんやけど」
「なあに?」

 と微笑みながら、言葉を返すアサキであるが、

「あ、あの、あのな、えっと、なんや」

 肝心の応芽が、自分から振っておきながら顔を真っ赤にして照れてしまっている。

「あ、あのなっ、令堂がっ、嫌やなかったらなっ」
「嫌やなかったら?」
「も、もういっぺん、ゆうてくれへんかな。……その、仲間やって」
「え……」

 アサキの顔に浮かんだのは、小さな驚きの表情、それはすぐに、またいつもの柔らかな笑みへと変化していた。

「分かった。……ウメちゃんは、わたしたちの大切な仲間だよ。……って、なんだろう、自分でいってて、嬉しいのに悲しい気持ちになっちゃったよお」

 泣きそうな顔で、いや実際に涙がじわっと滲み出ており、こぼれ落ちる前に人差し指で拭った。
 いつものアサキならば、ここから本泣きに繋がってもおかしくないところであるが、そうはならなかった。
 何故ならば……

「あ、あかん、あかんわ、なんやろな、なんで涙が出てくるんやろ。おかしいな。なんでこんな泣けて……」

 応芽の方こそが、涙をボロボロこぼして、こらえるように空を見上げて、泣いていたのである。

     9
 ここは天王台第三中学校、第一校舎の三階にある、二年三組の教室だ。

 (みち)()(おう)()が、身体を後ろにちょっとそらせながら、両手を頭の後ろで組んで、流し目でなにかをじーっと見ている。

 視線の先にいるのは、(おお)(とり)(せい)()である。

 頭を抱えている。
 すっかりふさぎ込んでいるように見える。

 それも当然だろう。
 時折夢に見てしまう、家族が殺された時のこと。それを最近また見てしまうということなのだから。

 父が、母と姉をハンマーで殴り殺し、父本人は自殺。
 そんな夢を見てしまうだけでも、ふさぎ込むに充分だというのに、さらには、今回はその件で、親友である(へい)()(なる)()と初めて激しく喧嘩してしまったのだから。

 ふさぎ込む気持ちも理解は出来るが、さりとていつまでもこうしているわけにもいかない。
 応芽は、登校中に平家成葉から悩みを聞いてしまった手前、なにか出来ることがないかを考えていたのである。

 でも、本人の悩む姿を横目でじーっと見ていても、それでなにが思い浮かぶわけでもなかった。

「やっぱり、時が解決するの待つしかないんやろか」

 ため息を吐きながら、軽く目を閉じたその瞬間、驚きに、閉じ掛けていた目が再び、そして大きく見開かれていた。

 なにかが見えた、というよりは、なにかを感じたのである。
 視覚と重なって、なにかに見えたのである。

 もう一度、目を閉じたり開いたり、しばしば強くまばたきしてみるが、もうそれは見えず、もうそれは感じず。

 なんやろか。以前に、感じたことあるわ、この感覚。
 あ……

「まさか……」

 ごくり唾を飲むと、あくせく慌て、左腕のリストフォンを操作し、アプリを起動させた。

 軽く腕を上げると、周囲を素早く見回し、こっそりと、カメラレンズを正香へと向けた。

 リストフォンの画面内に、正香の後ろ姿を捉えた映像が表示されるが、それが不意に真っ暗になった。

「ウメちゃん、人に許可なくリストフォンのカメラを向けるのは駄目なんだよ。あと学校内での撮影は禁止」

 席の横に、(りよう)(どう)()(さき)が立っており、手でカメラレンズを塞いだのである。

「学級委員かよお前」

 その隣にいる(あき)()(かず)()が、漫才の突っ込みみたいに冗談ぽく、腕でアサキの胸を叩いた。

 応芽は、面食らったようにバチバチまばたきすると、

「あ、ああ、こいつが壊れておらんか、ただ表示させてただけや」

 嘘を付いた。
 リストフォンをなでながら、ごまかし笑いをした。

「でもカメラを向けられるだけでも、不快に思う人だっているかも知れないんだから」
「せやな。令堂のいう通りやな。もうせんわ」

 笑みを浮かべたまま、リストフォンを外して机の上に置いた。

「許可ありゃ向けていいってんなら、あたしが許可するから、アサキ、なんかエロポーズやってみな」

 カズミは左腕を持ち上げて、カメラレンズをアサキへと向けた。

「いやいや、撮る方じゃなくて撮られる側の許可でしょお?」

 などといいながら、ネタを振られたアサキもちょっと悪ノリして、腰を少し屈めながら片手を後ろ頭に片手を腰に当てて、唇をすぼめて、お色気ポーズだ。

「こんな感じ?」
「うわっ気持ちわり。レンズ割れる!」

 げっそりげんなりといった表情で、カズミはそっとリストフォンを下ろした。

「やらせといて気持ち悪いとか酷いよお!」
「うるせえ! 文句いう前にその不気味なポーズを解除しろよ!」
「あ、わ、忘れてたっ」

 慌て、手足をばたばたさせるアサキ。

「なあ自分ら、あの二人を見とって、なんも思わへんか?」

 応芽が顔を上げて、くいっとアゴの先で人を差す。
 中央前目の席である大鳥正香と、廊下側の中列である平家成葉の二人を。

 二人とも、どんより真っ黒な雲の中にでもいるかのように、憔悴しきった顔で、ただ俯いている。

「どうしたんだろう……」

 アサキは小首を傾げた。

「今日は成葉までもかよ。正香だけが落ち込んでいることは、たまにあったけどさあ」
「そうそう、正香ちゃんのことは、わたしも前々からおかしいなって思ってて、いつも気を付けていたんだけど」
「いつもって、気付いてなかったやないか。なにがエロポーズや」

 突っ込む応芽。

「だ、だって、だって、これまでこんなあからさまに落ち込んだ感じじゃあなかったから、逆に気付かなくて。……ね、ウメちゃん、二人になにかあったの?」

 アサキは不安げな顔を、応芽の顔へと寄せた。

「まあな。今日のこの状況は、まず大鳥の身に十年前になにが起きたのかから説明せなあかん。昭刃たちは、とおっくに知っとったことらしいから、こいつに話を聞いた方が早いやろな」

 応芽は、カズミの顔へ、ちらりと視線を向けた。

「そんな冷ややかな目で見るなって。隠してるってつもりはなかったけど、わざわざ話すことじゃないと思って、いわなかっただけだ。……ウメは、誰からこのことを聞いた?」
「ついさっき、登校中にな。平家本人が話してくれたわ」
「そうか。じゃあ、アサキにはあたしから話すよ。アサキ、業間休みの時に屋上でな」
「分かった」

 真顔で、アサキは頷いた。


 こうしてアサキも、十年前に大鳥家を襲った惨劇を知るところとなったのである。

     10
 時は放課後。

 ここは二年三組の教室だ。

 既に生徒らは下校、もしくは部活動で教室を空けている時間帯であるが、残った女子生徒が三人、椅子を寄せ合い向き合い、座っている。

 (りよう)(どう)()(さき)(あき)()(かず)()(あきら)()(はる)()の三人だ。

 わざわざ集まった、というわけではない。

 (みち)()(おう)()は、調べたいことがあるからヴァイスタへの備えは自宅待機で、と先に帰り、
 (おお)(とり)(せい)()も、誰とも口をきくことなく目すら合わせることなく幽霊じみた顔色表情で帰ってしまった。

 おろおろ気まずそうな顔で見ている(へい)()(なる)()の背中を、「勇気出してこいや!」とカズミが叩いて正香の後を追わせ、

「あいつら大丈夫かなーっ」
「無事に仲直り出来るといいけど」

 と、このように、残ったメンバーで、正香と成葉の心配をしているのである。

「まあ、なるようにしかならんじゃろ」

 淡々とした治奈の口調。
 顔を見れば、どれだけ不安に感じているのか一目瞭然ではあるが。

「あたし、ナル坊の背中を叩いて、無理矢理に行かせちゃったからさあ。……また大喧嘩しちゃった、とかなったら罪悪感があ……」

 カズミは椅子の上であぐらかきながら、両手で頭を抱えた。

「ほう、罪悪感とかあるんじゃの、カズミちゃんにも。まあそがいなったら、ほっぺに全力ビンタを受けるくらいなら、かわいいもんじゃろな」
「それで水に流してくれるっつーなら、別にそれくらい構わねえけどさあ」
「だ、大丈夫だよ。きっと上手く……」

 アサキが、作り笑顔で場をなごませようとした、その時である。

 教壇側のドアが開いた。
 勢い強くも弱くもなく、唐突に。

 そこに立っているのは、小柄な女子生徒、平家成葉であった。

 今日は快晴であるというのに、全然濡れているわけでもないのに、まるでびしょ濡れにでもなっているかのような、なんとも悲しそうな、なんとも悔しそうな顔で、俯いている。

 氷の冷たさ。
 そんな沈黙が、場を支配していた。

 ちょうど自分が喋り掛けていたから責任持って、というわけではないが、アサキが立ち上がり、作り直した笑顔でゆっくりと口を開いた。

「あ、あの、正香ちゃん、とは……」

 みなまでいい終えないうちに、成葉は足を踏み出し、教室へと入ってきた。
 俯いたまま、口元をきゅっと結んだまま。

 唖然として口半開きになっている三人のところまで歩くと、右腕を振り上げて、

 パアーン!

 これでもかという勢いで、カズミの頬を張った。

 カズミは唖然とした顔で、そおっと腕を上げて、打たれた頬を押さえた。

「成葉……」

 ぼそり、カズミの声。

 アサキたちの見守る中、

 く、と成葉は唇を震わせ、呻いた。
 俯いたその顔から、その目から、ぽろぽろと、涙がこぼれていた。

 あぐっ。
 しゃくり上げると、いきなり明木治奈へと飛び込んで、その胸に自分の顔を埋めた。

「成葉ちゃ……」

 驚く治奈の、その声に大声を被せて、

「また、また、喧嘩になっちゃった!」

 それだけをいうと、後はただ泣き叫ぶばかりだった。
 言葉にならない声を張り上げて。

 どれだけの間、むせび声を上げ続けただろうか。

「顔も……見たく、ない、って」

 と、泣きが少し落ち着いた成葉は、ようやくまた意味のある言葉を発した。

「でも、ね、やりあったとかじゃなくて、ほとんど会話はしてなくて、最初、から、ゴエにゃんが、そう突っぱねてくる感じで。だ、だからっ、ナルハきっと、ゴエにゃんに、絶交、されたんだ」

 悔しげな顔、悲しげな顔で、成葉は鼻をすすつた。

「そんなことは……」

 言葉を挟もうとするアサキに、成葉は声を被せ返して、自分の話を続ける。

「心配で、元に、戻って欲しかった、だけなんだ、ナルハは。でも、でもね、ずけずけと、踏み込んで、ゴエにゃんの、心を、無茶苦茶にしてしまったんだ。でもさあ、それじゃあどうすればよかったの! ゴエにゃんが辛いのを、ヘラヘラ笑って見ていればよかったの?」
「そがいなことはないじゃろ。成葉ちゃんのしたことは間違ってはおらん。これからどがいにすればええのか、それをみんなで考えよう。ね」

 治奈は、自分の胸に顔を埋めている成葉の頭を、優しくなでながら微笑んだ。

「ハル坊のいう通りだよ。正香だってきっと分かってくれるだろうし、ここ乗り越えられれば、お前ら今よりもっと親友になれると思うぜ。あたしらが嫉妬しちゃうくらいのさあ。……腹が立つなら、さっきみたくあたしの顔を好きなだけ殴っていいからさ」

 などと、みなで成葉を慰め励ましていると、また、教壇側のドアが開いた。

「昨日採点で徹夜だったからあ、もうげんかーい」

 と()(ぐろ)()(さと)先生が、顔をぶっさいくに歪めて、ふぁあああと大きなアクビを噛み殺しもせず、緊張感のまるでない様子でふらふらと入って来た。

「空気読めや!」

 カズミが腕を振り上げ怒鳴った。

「え、えっ」

 アクビも吹っ飛んで、目を白黒させている須黒先生であったが、治奈が簡単に状況を話すと、椅子を引っ張り出して輪に加わった。


「確かに、十年前のあの件は、テレビで見て驚いたなあ。先生は、その頃は隣の柏市にあるカシジョの高校生で、魔法使いの活動管轄はさらに隣の松戸だったんだけど、でも自宅の近くであり出身中の近くで起きた事件だからね。……だから、先生が先生になって、彼女を受け持つことになった時も、びっくりしたなあ」

 そこでいったん言葉を切った須黒先生は、ちら、と成葉の沈んだ顔を見ながら、また言葉を続ける。

「彼女の心の傷は、相当に深いだろうから、いつも一緒の親友である平家さんも、とても辛いのは分かるわ。……でもね、平家さんがなにをすべきか、なにが出来るか、というのは、結局のところ、平家さんがなにをしたいのか、ということだと、先生は思うな」
「なにを……したいか」

 成葉は俯いたまま、ぼそり呟いた。

「あ、あのね、ごめん、ちょっと偉そうなこというね」

 アサキが、授業中でもないのに何故か挙手しながら、成葉を見ながら遠慮がちな笑みを向けた。

「まずはさ、悪くなくても謝るんだよ。悪くなくても、でも心から。別にそれは、バカにしていることになんか、ならない。だって、仲直りしたいという、大好きだという、強い気持ちのあらわれなんだから。そこから、本当に自分の伝えたいことを、伝えていくんだ」
「ほんっと偉そうなこといったねえキミい」

 カズミは笑いながら、アサキの唇を左右に引っ張った。

「や、やめへえええええ」

 といわれてもやめないカズミは、さらにアサキの口の中に両の人差し指を突っ込んで、さらに力強く左右に引っ張った。

「学級文庫っていってみな」
「わっ、わっひゅうううんほ」
「うんこっていったああ!」
「いっへらいお!」

 アサキは、口からカズミの指を抜き取ると、反対にカズミへと掴み掛かった。

「今度はカズミちゃんがいってみてよ。わたしが口を引っ張るからさあ」
「やめろよ。あたしお嬢様だから、お前みたいにそんな言葉いっちまったら、恥ずかしさに自殺するぞ」
「いや、さっきわたしの後に自分でいってたでしょ! というか、誰がお嬢様だあ!」
「お嬢様でしょお!」

 アサキとカズミ、笑いながら手を組み合い、押し押されを続けるうちに、いつしかくすぐり合いになっていた。

 すると突然、

 ぷっ、
 と誰かが吹き出した。

 それは成葉であった。
 あはははは、大声で、足をばたばたさせながら、アサキたちを指さして笑っている。
 泣き腫らした、真っ赤な目で。
 楽しそうに。

 くすぐり合いをやめて、唖然とした表情でそれを見ているアサキたち。
 いつしかアサキの顔に、じんわりとした笑みが浮かんでいた。

「成葉ちゃん。真剣に悩んでいたのに、辛く悲しい思いをしていたのに、なんだか茶化すようなことしちゃってごめんね」

 そこで言葉を切り、二呼吸ほど置いて続ける。

「でもね、伝えたかったんだ。世の中って、楽しいことだけじゃないけど、辛いことだけでもない。本当のことは少ないかも知れないけど、嘘だけでもない。カズミちゃんを、ぱーんと引っ叩いて忘れられるなら、そうすればいいし」
「おい!」
「カズミちゃん殴った程度じゃ忘れられない辛さなら、思う存分に悔やんで悲しんで泣いて落ち込めばいい。……でもね、これだけは忘れないで欲しいんだ。わたしたちもいるんだということ」
「アサにゃん……」

 また、成葉の目にじわっと涙が溢れていた。
 成分は同じはずなのに、先ほどとはまったく異質の涙が。

 うええ、
 と、泣き声を出し掛ける成葉であったが、突然、びくり肩を震わせてた。
 すっかり、泣きが引っ込んでしまっていた。

 何故ならば、
 アサキの方こそが、自分の発した言葉に感極まって、大声で泣き出してしまったからである。

 幼子みたいに。
 上を向いて、両手でまぶたを押さえながら、
 ぼろぼろと、ぼろぼろと、透き通る純粋な涙を、アサキはこぼし続けていた。

     11
 (みち)()(おう)()は、自宅アパートの布団の上に寝っ転がって、リストフォンを操作している。
 まだ夕方だというのに、ぶかぶかのロングTシャツだけという、ほとんど寝間着という格好で。

 学校が終わるや否や、調べものがあるから今日は自宅待機さててもらうわ、と急いで帰ってきて、それからずっとこうしている。

 ロングTシャツが大きくめくれて、かわいらしい柄のパンツが丸見えになっているが、誰もいないから気にもせず、足を組み変え組み変え、真剣な表情でリストフォンとにらめっこしている。

 なにを調べているのかというと、今朝の登校中に(へい)()(なる)()から聞かされた、十年前の殺人事件のこと。

 (おお)(とり)(せい)()の父親が、妻つまり正香の母親の不倫を疑い、口論の末、ハンマーで殴り殺した。
 一緒にいた長女つまり正香の姉も犠牲になった。

 同じく一緒にいた正香のみが、何故、生き残ったのか。

 父が、母と姉を殺害したところで我に返り、悔やみ自害した。とされているが、都合がよすぎないか。

 本当に、事件はそれだけなのか。

 このような疑いを抱いてしまうのは、今朝の、教室での一件があるからだ。
 特殊な訓練を受けていない魔法使いなら、まず気付かないほどの、ほんの一瞬ではあったが、正香を覆う生気に魔術痕を感じたのだ。

 文字通り、魔術を施した痕跡だ。
 おそらくは、記憶操作系。

 以前、仲間が殺されたショックで発狂した魔法使いが、治療施設でその術を施されていたのを見たことがある。

 ただ、正香がそうである確証は、まだない。
 サーチアプリで確認する前に、(りよう)(どう)()(さき)に止められたからだ。

 でもおそらくあれは、記憶操作魔法だ。「入れ替え」か、「忘却」かは分からないが。

 しかも、強力ではあるが低レベル、つまりは荒っぽい。

 雑で強力となると、それは、まだ訓練を受けていない、幼い魔法適格者が、本能的に施した術ということではないか。
 つまり、当時の正香が、自分で自分の記憶を操作したのではないか。

 単純に家族が死んだことを記憶操作で消したところで、報道と食い違いがあれば、その矛盾から術は解けてしまう。
 だから、そうではない部分、報道されていない闇に包まれた部分、その記憶を操作したのではないか。

 つまり、たまに見る悪夢は、あえて記憶を消さなかったから。
 ほどよく過去の恐怖や後悔と付き合うことで、術が解けておぞましい真実を思い出してしまうことを防いでいる。

 そう考えれば、辻褄は合う。

 幼少の大鳥正香がなにを体験し、どんな記憶を、魂の奥に封印しているのか。

 本当は、仲間のこんなことを考えたくはない。
 仲間のこんなことを探りたくなどない。

 でも、

「仲間、やから……」

 それに、妹、(くも)()のような者を、もう増やしたくない。
 泣き悲しむ家族を、増やしたくない。
 だから……

 布団に寝転がっていた応芽は、決心した顔で立ち上がった。
 下着が見えるほどにまくれ上がっていた大きなTシャツが、ずるずる下がって、膝までを覆い隠した。

 目を閉じ、目を開くと、両腕を交差させながら、高く掲げた。

 気の作る魔力の流れに、左腕のリストフォンが反応し、まばゆい光を発する。

「変身!」

 腕の交差を解きつつ下げながら、リストフォン側面にあるスイッチを押した。

 布団を踏み付けて立つ、赤黒の魔道着を着た、慶賀応芽の姿がそこにあった。

 スニーカーに似た靴を履いたままで、布団の上に立ってしまっているが、構わずそのまま目を閉じて、呪文を唱える。

「イェラウスコウメンム……」

 目を閉じている。
 だが、すべてが見えていた。

 ただ呪文を唱えているだけに見えるが、これは魂離脱の魔法、精神体が抜け出て、心の目で周囲三百六十度を見回していた。

 念じるだけで、視界が動く。
 念じるだけで、身体が浮遊する。

 少し、練習して感覚を思い出すと、外へ出た。
 部屋の天井を、建物の屋根を、突き抜けて、外へと、応芽の、精神体が。

 精神体を、餅のように長く長く伸ばして、その先端が、もの凄い速度で、ある方向へと飛んでいく。

 向かうのは、大鳥正香の家だ。

 現場に残された、なんらかの残留思念を読み取ることで、分かることがあるかも知れない。

 そう考えたのである。
 本当は、このようなことやりたくはないが、仲間をさらに襲うかもしれない悲劇から救えるのであれば、と。
 罪悪感に躊躇いつつも、躊躇い微塵もなく。

「フレイジイッヒドューチャスイェフェンム」

 意識の中で、呪文を唱え続けている。

 アパートに残してきた、布団の上に立っている、魔道着を着た肉体も、合わせてぼそぼそと、口が動いているはずである。

 念の強度が求められる魔法ではないが、いわゆるエネルギーの遠隔コントロールであるため、詠唱を止めるわけにはいかないのだ。
 令堂和咲の非詠唱のような、特殊能力でもあれば別だが。

「ドューチャスイェンメウラア……」

 自室アパートから長く長く伸びた餅いや応芽の精神体は、明治時代の洋館を思わせる大鳥邸の中へと、入り込んでいた。

 前を通ったことはあるが、中に入るのは初めてであり、間取りを知っているわけでもない。
 だというのに、無意識に意識を任せていると、妖気に似た負の念に、するすると精神体が引き寄せられて、気が付くと二階にある洋間の一室にいた。

 辺に刺繍の入った、赤いカーペットが敷かれた部屋だ。
 落ち着いた色合いの木製ベッド、隅には小さなテーブルが置かれている。
 それ以外にも、雑多な物が多数置かれており、それぞれ少し埃もかぶっている。
 物や埃の状態から考えて、おそらく現在はこの部屋を使用している者がおらず、物置になっているのであろう。

 この部屋は、十年前になにを見たのか。

 陰鬱としたものをこの部屋に感じるが、単に事件のことを聞かされて知っているから、そう思ってしまうだけかも知れない。

 とにかく、しらみ潰しに当たるしかない。

 まずは洋服箪笥へと、精神体の先端を伸ばして、触れた。



 ぱあん



 応芽の暮らす木造アパート自室で、風船の割れるような、大きな音がした。
 同時に、部屋の真ん中に立っている応芽の、顔の皮膚が、弾けて飛んでいた。薄皮の内側から、なにかが破裂したのである。

「うぐっ!」

 突然の激痛に、声を漏らし、ぎゅうっと目を閉じた。

 痛みを堪えながら、壁の姿見を見てみると、自分の顔の半分が、薄皮がめくれ剥がれて、赤黒く焼けていた。

「なんやこれ……」

 呆然とした顔で、ぼそり声を発した。

 大鳥家にいたはずなのに、自分の部屋の中。
 攻撃を受けたことで、術が強制解除されて、飛ばしていた意識が肉体へと戻ってしまったのだ。

 魔道着を着たまま、激痛を感じつつも呆然とした顔で、立っている。

「攻撃結界……。せやけど、なんのために」

 自分の身に、なにが起きたのかを理解すると、すぐに右手をめくれた顔に翳し、魔法による治療を始めた。

 治療しながら、思う。
 この件、確信に触れられないように、細工が施されている、ということを。

 攻撃結界を施したのは、十年前の大鳥正香が本能的にやったことだとしても、この破壊力はどうだ。
 現在も、結界と大鳥の意識は同調している、ということか。

 大鳥の成長に合わせて結界が強力になっているだけならばいいが、もしも、大鳥の意識が、記憶の戻ることをより激しく恐れ拒むようになっているのだとしたら、

 つまり現在、いつ記憶が戻ってもおかしくない状態であると、大鳥自身が無意識に感じており、それがこの激しい防御に繋がっているのだとしたら……

「あかん!」

 戻させたら、大鳥の記憶を戻させたら、あかん!

 付け焼き刃かも知れへんけど、あたし術固定の魔法少し覚えとる。
 あいつの精神を応急処置して、記憶がすぐには戻らんようにしといて、まずはそれからや。

 リヒトの指定病院に連れてってもええ。
 あたしの顔の手当なんか、いつでもええわ。
 急がんと。
 大鳥が危ない!

 顔に翳していた手を下ろすと、土足で室内どすどすドアを開けて外へと出た。

 が、すぐに踵を返して部屋の中へ戻ってくると、

「もどかしいわもう!」

 声を荒らげながら、魔道着を変身解除。

 肩が片方はだけ見えているぶかぶかTシャツ、それを一枚着ているだけの姿であることに、一瞬だけ躊躇いを見せるが、どうでもええわと靴だけ履いて、今度こそアパートを飛び出した。

 半分焼けて赤黒い顔のままで、走り出す。
 全力で。

 大鳥家、(とも)(だち)の家へと。

     12
 頭を抱えている。

 ベッドの脇に腰を下ろし、時折、喉の奥から唸りに似たくぐもった声を発しながら。
 ぐちゃぐちゃに歪んだ、苦悶の表情を浮かべながら。

 (おお)(とり)(せい)()が、自室のベッドで頭を抱えている。

 涼しい笑みをたやすことなく浮かべている、普段の彼女を知る者からしたら、別人にしか見えないだろう。

 普段の、冷静で注意深い彼女ならば、この建物の中すぐそばにまで、(みち)()(おう)()の魂が接近していたことに、なにかしらの気付きがあっても不思議ではなかっただろう。現在の彼女は、自分のことに手一杯で、それどころではない状態であった。

 ふうっと息を吐いた正香は、まるで溺れ掛けでもしているのか、頭を持ち上げながら、必死に喘いで空気を吸った。
 上手く呼吸が出来ずに、肩を大きく激しく上下させながら、何度も。

 こんなことをしている自分に、こんなことになっている自分に、イライラした様子で膝を叩いた。

 不快感。
 彼女の頭の中には現在、とてつもない不快感が、まるで形ある物のごとくに、ぐるぐると回っていた。

 嘔吐感。
 地球のすべての瘴気が、自分の中に凝縮して渦を巻いているかのような、耐え難い精神的な気持ち悪さを感じていた。

 ぐううう。がああ。
 ため息と呻き声が混じった感じの、不気味な音が、口から漏れている。

 自分で、それがたまらなく不快だが、ままならない。

 その、込み上げる気持ち悪さとは別に……

 一体、なんだろうか、この感覚は。
 なんとも名状しがたい感覚、というのか感情というのかが、現在の意識の立ち位置、薄皮一枚の向こうに存在している。確実に。

 それは、記憶?
 なにか、思い出したくないことがあって、不快感はすべてそこに繋がっている?

 感覚の正体が、なんであるのかは、気になるが、でも、思い出したくない。
 絶対に思い出してはいけないものなのだ、という強い気持ちがある。

 そう思っているということは、やはりこの不快感の正体は、自分の記憶そのものということ? もしくは思い出すことへの恐れ?
 でも、それは一体……

 そのような記憶、体験が、自分にあるのか。
 十年前にこの屋敷で起きた悲劇こそあれ、叔父たちと共に、なに不自由なく生きてきた、自分なんかに。

 激しい嘔吐感の中、ふと平家成葉の顔が頭の中をよぎっていた。

 ああ、そうだった。
 今朝、成葉さんと喧嘩をしてしまったのだっけ。
 それだけではない。先ほども、顔も見たくないなどと、彼女に暴言を浴びせてしまった。

 何故?
 だって、掘り起こそうとするから。

 何故?
 嫌だといっているのに、揺さぶろうとするから。

 何故?
 戦わせようとするから。
 突き落とそうとするから。
 思い出させようとするからっ!

 あのような、
 あのような、
 あのようなおぞましい!

 え……

 正香は、顔を上げていた。

 しんと静まり返った部屋の中で。
 はっとした表情で。

 いま、わたしはなにを思った?

 あのような、おぞましい?
 そう思ったのか。

 あのような?
 つまり知っている?
 わたしは、知っている?

 なにを?
 なにを知っている?
 なにを、知った?
 なにを、見た?
 あの時に、
 十年前のあの時に……

 はあはあ、
 息を切らせながら、胸を押さえ、ふと壁に立て掛けてある姿見の方へと顔を向けた。

 鏡の中には、ベッドに腰を下ろし、すっかり憔悴しきった自分の顔が……

 いや、違う。
 違う。

 鏡の中には、母親の顔が映っていたのである。
 十年前に殺されたはずの、母親の顔が。

 それは、にやりとあざけりの笑みを浮かべながら、楽しそうに正香を見つめていた。

 咆えていた。
 凄まじい悲鳴、恐ろしい悲鳴を、正香は放っていた。
 立ち上がると、言葉にならない叫び声を張り上げながら、鏡へと殴り掛かっていた。

 砕け散る音。

 砕け散っていた。
 鏡が、手の骨が、魂が。

 どくどく、血が流れ腕を滴り落ち、床を鮮血で染める。

 呻き声。
 血みどろの手で、正香は顔を押さえた。
 手の、指の奥に見える目が、かっと見開かれた。

 蘇っていた。

 十年前の記憶が、完全に。

     13
 十年前、この屋敷の二階にある洋間で、殺人事件が起きた。
 (おお)(とり)(せい)()の父が、妻つまり正香の母親の不倫を疑い、口論の末にハンマーで殴り殺したのである。
 気の違ってしまった父は、正香や正香の姉にも殺意を向ける。
 姉は正香を庇うため、手にしたナイフで父を刺そうとするが返り討ちに遭い、母親と同様ハンマーを横殴りに一撃されて絶命した。


 正香の記憶はここまでだった。


 父が我に返って自殺を図ったというのは、聞かされて知ったこと。
 警察の調べた状況からの判断であり、正香が見たり証言したものではない。


 ただし、間違っている。
 その、警察の判断は。
 何故ならば、


 殺したのは、正香であるのだから。


 実の父親を。
 腹にナイフを突き刺して。


 遅かったけれど。


 だって既に、母も、姉も、殺された後だったのだから。


 様々な自分の決断が早ければ、救えたはず。
 怖がって、なにもせず、すべての判断を他人に委ねた結果、取り返しのつかないことになってしまったのだ。


 どれくらい、自分が刺し殺してしまった、父親の死骸を前に、血のべっとりこびりついたナイフを手に下げながら、呆然と突っ立っていただろう。

 突然、リストフォンが鳴動した。
 部屋の中央に、折り重なって倒れ絶命している、母の左腕にはめられたリストフォンが。

 こんな状況で、他人への通信を読む非常識もなにもなく、むしろこのやり場のない状態であったからこそ、正香はそのメッセージを見てしまう。
 男性と思われる者からの、亭主と上手くやり仰せたかを確かめる内容。

 背筋を冷たいものが突き抜けていた。
 まだ幼いが周囲から賢いといわれている正香には、その文章そのものが理解出来ただけではなく、背景までをも察してしまったのである。

 震える手で母のリストフォンを操作し続け、他のメッセージも読んだことで、疑惑は確信に変わった。

 叫んでいた。
 立ち上がり、天井を見上げ、まだ幼い端正な顔を醜く歪め、腹の底から凄まじい絶叫を放っていた。

 元凶は、母だったのだ。
 父のいっていることこそが、真実だったのだ。

 母が不倫などしなければ、父が狂うこともなかったのだ。
 姉が死ぬこともなかった。
 父も、優しい父のままだった。

 そんな父を、殺させた。
 あなたが、
 わたしに、
 殺させた……

 蹴りそうになった。
 目を開き絶命している、母の頭を、思い切り蹴りそうになった。



 必死だったのだろう。
 抗いたかったのだろう。
 こんな母親にすべてを狂わされたことに。
 一家がこんなになってしまったことに。

 正香は焦りながらも、冷静着々と、人生の軌道修正を試みる。
 まずは、母親のリストフォンに残っている、不倫の証拠を削除。
 自分のリストフォンからクラッキングし、サーバーに残る送受信の記録を改ざん。

 雑な知識でのクラッキングだ。
 警察が徹底的に追えば、逃げ切れるものではない。
 しかし、理由がどうであれ、父が母を殺したことは紛れもない事実。不倫が本当であったか、母の身元を徹底的に洗うこともしないだろう。そこまでは警察の仕事ではない。

 手袋をはめ、正香の指紋がついていない別のナイフを、父に握らせた。
 自殺と見せ掛けるためだ。

 そして、
 この世に魔法が存在することを知らなかった以上は、本能的な行動ということになるのだろうが、自分自身に魔法を掛けた。
 自分が父を殺したこと、母が不倫していたこと、これらを意識の奥底に封じ込めた。

 潜在魔力が強大だったのか、普通に生きていきたいという願いこそが強大だったのか、十年間もの間、その魔法は、正香の無意識と相乗作用して、意識の一部を封印し続けた。



 その封印が消し飛んで、現在、彼女はすべてを思い出してしまったのである。

     14
 ()()()()(こう)()(やま)地区。
 アサキの住んでいる、(てん)(のう)(だい)地区から、少しだけ南へ行ったところだ。

 田畑に囲まれ、閑静な住宅街が存在している、その中に、どこまでもレンガ塀の続く、広い敷地がある。
 古くからの名家である、(おお)(とり)家の敷地だ。

 その塀の外側を、アサキ、(はる)()、カズミ、(なる)()の四人が歩いている。
 学校帰りであるため、中学の制服姿で。

 目的は、この広大な敷地の内側にある家。
 (おお)(とり)(せい)()に、会いにきたのだ。

「しっかし、いつきてもすっげえ家だよなあ」

 塀の向こうに見える土地や、大きな邸宅を見ながら、カズミが素っ頓狂な大声を出した。

「ほうじゃね。……あらためて思うと、うちらって、正香ちゃん以外は、みんな貧乏よりの庶民な気がするけえね」

 治奈がなんだか悲しいことをいう。

「あらためなくとも、あたしん家は自他認める完全なドドドド貧乏だしな」

 そんな悲しみどこ吹く風よ、とカズミは、はははと笑って吹き飛ばした。

「でも……こういうところに住んでいるから幸せとは限らないんだな。正香ちゃんは……苦しんでいる」

 アサキは、ちょっと寂しそうな目を、塀の向こうにある屋敷へと向けた。

「だーかーらー、仲間ってのが必要なんだよ。……なんかさ、考えてみるとさ、あたしら六人って、こういう時の心の支えとしては最強の仲間って感じしねえか? お嬢様、美女、お好み焼き、幼児、関西、アホ」
「わ、わたしはどれかなー」

 アサキの頬が、ぴくぴく引きつっている。

「いわないと分かんない?」
「カ、カズミちゃんが美女とかいうのもおかしいじゃないか!」
「どこがおかしいんだよ!」

 瞬間湯沸かし器のごとく、怒鳴り声と共にさっと伸びた両手が、アサキの首をがっしと掴んでいた。

「ぐ、ぐびじべだいでえええええ、ぐるじやあああべえでええええええ」

 掴む手を引き剥がそうと、もがくアサキであるが、野獣なみの怪力を前に是非もなく、顔を苦痛に歪め、目を白黒させている。

「二人とも少しは成長せんか! 中二にもなって!」

 声を荒らげる治奈であるが、諦めの境地に達しているのか、すぐに表情を戻すと、小さなため息を吐いた。

 その小さなため息に、成葉の声が重なった。

「ありがとね、カズにゃんたち。本当に」

 そういいながら微笑んでいた。

「はあ? なにがよ?」

 ぎりぎりと首締めを継続しながら、カズミが問う。
 既にアサキの顔は土気色、いつ別世界へ旅立ってもおかしくない状態である。

「ナルハのこと元気付けようと、そうやって笑わせてくれてるんだよね」
「あたしはその通りだけど、アサキは素でアホだぞ。DNAレベルっつうか前世」
「だっどぐいがだあああい、ぞれよじぐるじいいい、でをがあなあじいでえええええ」

 アサキは、涙目で口から泡を吐きながら、顔をぶっさいくに歪め、カズミの手を懸命に引き剥がそうとしている。

「滑舌よくお願い出来たら離してやるよ」
「ぶびだぼおおおお」
「はあ、もう飽きたから勘弁してやっか。感謝しろよ」
「あじがとおおお」

 涙目で、げほごほげほごほ、すがるようにカズミの手をぎゅっと握るアサキ。

 さて、そんなこんなバカなことをしながら、一行は塀沿いに進み角を折れて、敷地の正面へと回り込んだ。
 回り込んだところで、

「なあ、あれ正香じゃないか?」

 カズミが、前方を指さした。

 長い黒髪の女性が、門を潜って敷地から道路へと出てきたのである。
 ふらふらとした、まるで幽霊みたいな歩き方であるが、姿としては確かに大鳥正香である。

「辛そうじゃの……」

 治奈が気の毒そうに、ぼそりと言葉を発する。
 その背後でアサキが、苦しそうに喉を押さえて、げほごほげほごほむせている。

「いつまでもうるせえよ、お前は!」
「ええーーっ? ……正香ちゃん、学校での時よりも様子が酷くなっているね」

 喉を押さえながら、アサキも気の毒そうに顔をしかめ、正香を見つめている。涙目であったり、口から吹いた泡が垂れていたりするのは、また別の理由であるが。

 アサキは、いざこのような状況に直面して、成葉になんと言葉を掛けてよいかが分からなかった。
 みなも同じ気持ちでいるのか、誰からというわけでもなく立ち止まってしまっていた。

 だがその気まずさは、成葉自身によって吹き飛ばされた。

「みんなあ、表情が暗いよお」

 たたっと前へ出て、スカート翻しアサキたちへと振り返ると、歯を見せて、くしゃっとした人懐こい笑みを浮かべたのである。

「そんじゃ、ゴエにゃんに、ちょちょっと謝ってくるねえ」

 おそらく、あえて軽い感じにそういうと、再びくるりと門の方、ふらふら歩いている正香のいる方を向いて、迷うことなく走り出していた。

「ゴエにゃん!」

 大きな声で叫びながら、成葉は幼い頃からの親友へと走り、近寄り、勢いよく飛び込みながら、両腕を腰に回して抱き着いていた。

 もっと上の方を抱き締めたいのか、回した腕をずりずりと上げていくが、あまりの身長差に諦めたようで、お腹と胸の境界あたりをぎゅうっと抱き締めた。

「ごめん。ほんとごめん!」

 大声で謝りながら、正香の胸に顔を埋めた。

 まっとうな意識があるのかないのか、正香はぴくりとも動かない。が、成葉は構わず喋り続ける。

「ナルハね、ゴエにゃんに自分の気持ちだけ押し付けちゃっていた。助けてあげよう、って上から目線だったかも知れない。でもね、こんな、喧嘩、しちゃって、それで分かったんだ……ナルハ、ゴエにゃんのこと……」

 その言葉が、その熱意が、通じたのだろうか。
 正香の身体が、微かに動いていた。

 ゆっくりと腕が伸びて、成葉の背中に腕を回すと、その小さな身体をしっかりと抱き締めていた。
 ぎゅうっと。


 もう離さない。


 とでもいうかのように。
 力強く、
 正香は、成葉の身体を抱き締めていた。

 思いが通じて感極まったか、成葉のまぶたが、ぷるぷるっと震えた。
 目に涙が溢れていた。

「ゴエ……にゃん……」

 成葉も、正香を抱く腕に力を込めていた。
 涙をこぼしながら、嬉しそうな、照れたような、そんな顔で。

「ちょ、ちょっと痛いよゴエにゃん! もお!」

 泣きながら、笑いながら、身悶えをする成葉。

 その顔へと、ゆっくりと、正香の顔が迫る。

 前髪で隠れて見えにくかった、正香の顔が、はっきりと見えた瞬間、

「え?」

 成葉の顔に、疑問の表情が浮かんでいた。

 だがそれは、ほんの一瞬であった。
 一瞬で、疑問から驚愕の表情へ。

 そして、次に浮かんだのは、恐怖。
 絶対的、絶望的な、恐怖の表情であった。

 成葉の目は、恐怖に、限界まで見開かれていた。

 糊のようにへばりついている、乾いた口が、空気を求めて微かに開いた。

 ひっ、と息を飲む成葉へと、すうっと正香の顔が近付いた。

 成葉の身体が、びくびくっと激しく震えた。

 震え、
 涙の溜まった目を、見開いて、
 口を半開きにして、
 畏怖し、
 魂を震わせている、
 小柄な少女の、その顔へと、

 正香の影が、ゆっくりと落ちていった。

     15
「どうしたんだろう。二人とも」

 抱き合っている正香と成葉の姿を、遠目に見ながら、アサキが小首を傾げている。

「ほうじゃのう。ずっと、あのままじゃけえ」
「ったく、バカップルじゃねえんだからよ。……って、ほんとにそっち方向に行っちゃたりして」
「やだ、カズミちゃん。……でも、ラブパワーで凄い合体技とか出たりしてえ」
「ラブとか合体とか変なこというな」
「え、そ、そ、そっ、そんな意味じゃあ」
「そんなって、どんなだよ」

 軽そうな会話をしている彼女たちであるが、表情は、ものの見事に反比例であった。

 ずっしり重く、強張っている。
 笑顔ではあるが、無理やりに作っている引きつった笑顔だ。

 結局、言葉が続かなくなり、アサキたち三人は黙ったまま、ただギクシャクした笑顔を浮かべながら、ゆっくりと近付いていった。
 重なり合っている影を、路上に落としている、正香と成葉へと。

 ごくり。
 アサキは、唾を飲み込んだ。
 そっと、自分の胸に手を当てると、もう一回唾を飲み込んだ。いや、飲もうとしたが、突っ掛かる感じがあるだけで、飲めなかった。

 正直な話、いや、あらためて問うまでもなく、アサキは、抱き締め合う二人を、微笑ましい感情で見てはいない。

 胸騒ぎ。
 なにか、ただならぬ出来事が起きているのではないか。

 でも、そうも思いたくない。
 否定したい。
 きっと二人とも、感極まって言葉が出ないだけなんだ。
 そう強く思いたい。

 少なくとも、アサキはそういう気持ちであったし、治奈たちも、その引きつった笑顔からして、おそらく同じ気持ちなのではないだろうか。

 でも、
 きっと大丈夫だ。
 正香ちゃんは、家族を殺された悪夢を見たことや、その件で成葉ちゃんと喧嘩しちゃったショックで、ぼーっとなってしまっているだけだ。
 きっと、そうに違いない。
 だから……

「成葉ちゃん、正香ちゃん。仲がよすぎるのも妬けちゃうよお」

 強張った微笑みを向けながらアサキは、アサキたちは、正香たちへと近付いていく。
 ゆっくりと。

 だが、歩を進めるうち、いつの間にか、アサキたちの顔から、こわばった笑みさえも失われていた。
 不安に青ざめた顔になっていた。

 震える目を、
 すがる表情を向けながら、
 それでも、
 ゆっくりと、確かめるように、ゆっくりと、
 抱き合う二人へと、近付いていく。

「正香……ちゃん?」

 アサキの、何度目の呼び掛けであろうか。

 声が耳にまるで届いていないのか、二人はなおも抱き合い続けている。

 アサキたちから見えているのは、成葉の背中と、その背に回されている正香の腕だけだ。
 覆いかぶさるように抱き着いているため、正香の表情はまったく分からない。

 不意に、成葉の身体が動いた。
 能動的か否かは分からないが、とにかく背中が、ずるりと横にずれたのである。

 そのまま、自分で立つ力も、自らを支えようとする意識も、感じられずに、膝が崩れて、地面へと横たわっていた。

 制服姿の、その小柄な身体が、崩れてごろりと仰向けになった瞬間、

 アサキの、
 アサキたちの、
 この世界の、
 すべての、時が、静止していた。

 あまりの信じがたい衝撃に、彼女たち全員の表情は、完全に凍り付いていた。

 誰が……
 一体、世の誰が、このようなことが起こるなどと、想像出来たであろうか。

 倒れている平家成葉の顔は、それは間違いなく平家成葉であるはずなのに、平家成葉ではなかったのである。

 顔面が、無数の狂犬に襲われて長時間しゃぶられ尽くされたかのように、食いちぎられ、消失していたのである。
 鼻も、口も、皮膚どころか肉という肉が。

 (がん)()は、ぽっかりと空洞になっており、眼球は存在していない。
 ……いや、よく見ると右の眼球が飛び出ており、今にも切れそうに、耳のあたりにぶら下がっている。 

 骨にこびりつく肉は、赤黒くぐずぐずとしており、その骨もところどころ砕かれており、保健の教科書の図解さながらに、顔面の内部が、丸見えになっていた。

 その肉体に、果たして現在、生命は宿っているのか。
 身体は、ぴくりとも動いていない。

 平家成葉であるが、平家成葉ではない。
 あの無邪気な彼女の笑顔は、もうこの世のどこにも存在していなかったのである。

 顔がないといえば、それは大鳥正香も同じであった。
 同じだが違う。
 がくり項垂れて、せむしになっている正香の、その顔がはっきりと見えたのだが、目や鼻といった、人間の顔を構成するパーツが、そもそもまったく存在していなかったのである。

 そこに立っているのは、
 その長い黒髪に包まれているのは、
 鼻の辺りが微妙に盛り上がっているだけの、真っ白で、ぬるぬるとした、のっぺらぼうであった。

「ヴァイスタ……」

 治奈は、ごくり唾を飲み込むと、乾いた唇を微かに動かして、それだけを発した。

「正香……ちゃん」

 アサキの声が、身体が、ぶるぶると震えている。
 青ざめた顔。
 はあはあ、呼吸が荒くなっている。

「まさか、そんな……」

 カズミも同様に、荒い呼吸の中、驚きに目を疑い、目を開いている。
 夢なら覚めよ。そんな表情で、ぎゅっと自分の汗ばんだ手を、強く握った。

 げご、
 大鳥正香は、その顔には口など存在していないというのに、どこからか、そんなヒキガエルの鳴き声に似た音を発すると、腰を屈め、手を着いて、膝着かずに尻を上げた、四つん這い姿勢になった。

 げご、
 真っ白で、ぬるぬるとした、粘液質な頭部を、道路に横たわっている制服姿の、平家成葉の顔へと、近付けていく。
 顔の表面、あますところなく噛みちぎられて、残ったわずかな筋肉や、骨が剥き出しになっている、成葉の顔へと。覆いかぶさるようにして、自らの顔を、近付けていく。

 大鳥正香の、真っ白でぷるぷるとしている、のっぺらぼうの顔が、突然、真ん中から縦に大きく裂けた。

 裂けたその瞬間、すっと自らの顔を落として、裂け目の両脇に生えているピラニアを思わせる無数の鋭い歯で、成葉の顔へとかじり付いていた。

 ぶづり、
 がちり、
 まだ残っている肉が、引き裂かれる音、そして骨の砕ける音。

 一心不乱に、かじり、咀嚼もなく嚥下していく。

 がづり、
 ぶづり、
 気の弱い者なら、聞いているだけで卒倒してもおかしくない、不快極まりない音。

 腐肉臓物を食らう野生動物が、かわいく愛おしく思えるほどの、おぞましい悪魔的な姿。

 がちりがちりと、頭を振り乱して、骨に無数の歯を立てているうちに、大鳥正香の黒く長い頭髪が、一房、二房、そして、完全に抜け落ちた。

 まるでマネキンといった、つるんとした頭部があらわになった。ただしその皮膚は真っ白であり、ぬるぬると粘液質である。

 食らった肉か骨か、はたまた魂か、なにを養分としてであるか分からないが、大鳥正香の肉体が、むくむくと急速に成長、巨大化していた。

 内から膨れ上がるその肉体に、身を覆っていた服の布地が、たちまち限界に達して、びいいいいっと破れて地に落ちた。

 肉体が大きくなっただけではない。
 手も足も、見る見るうちに伸びて、海の軟体生物の触手を想像させる、にょろにょろとしたものへと育っていた。

 四つん這いになっているため、はっきりとは分からないが、その大きさは身長二メートルは優に超えているだろう。

 あえて裸体と表現することに意味があるのかというほどに、その真っ白で粘液質な全身は、既にもう、人間であった痕跡を微塵も残してはいなかった。

「正香、ちゃん……」

 青ざめた顔で、地を這う大鳥正香を見下ろしているアサキの、手や指、全身が、ぶるぶると震えている。

 はあはあ、荒い息遣い。
 信じられない現実に、信じたくない現実に、アサキはすっかり涙目になっている。

 否定したくとも、目の前にあるが現実だ。
 ても、認めたくない。
 信じたくない。

 がちりがつりと、成葉の顔の骨を噛み砕いて飲み込んでいた大鳥正香が、四つん這い姿勢のまま、ぬるり首を動かして、アサキたちの方を向いた。

 いひっ。
 と、アサキは息を飲んでいた。

 そして、
 どのような恐ろしい目にあったならば、人間はこのような声が出せるのだろうか、というほどの、聞く者の魂を震わせる、凄まじい絶叫を放っていた。

     16
 くちゅ
 きちゃ
 音だけを聞けば、子供が口にゼリーを入れたままふざけているような、別段異常性を感じるものでもない。

 ならば何故、その音がここまでの吐き気を催すのか。
 魂の根底から揺さぶられ、無意識からの恐怖を呼び起こされるのか。
 中途半端な勇気や鈍感さなど無意味とばかり、木っ端微塵に踏み砕くのか。

 視認しているからである。
 子供の悪ふざけなどではないことが、分かっているからである。

 直視しがたい異常な光景。
 だというのに、(りよう)(どう)()(さき)(あきら)()(はる)()(あき)()(かず)()の三人は、どこの魔女に呪縛を掛けられたか、起こっていることから目をそらすことが出来なかった。

 脳が、現実を受け入れることを、拒絶しているのであろうか。
 しかし、そうだとして、誰がそれを責められようか。

 顔面の肉や骨を食われて、むごたらしい状態で転がっている、第三中学校の制服を着た平家成葉の死体。

 大鳥正香が、四つん這いになったまま、上から覆いかぶさって、そのお腹に頭を突っ込んでいる。

 どう見てもヴァイスタとしか思えない、かつての面影など微塵もない、スライムを人間の形にこね作り上げたかのような、おぞましい肉体へと化した大鳥正香が。

 お腹に顔を押し付けているというよりも、完全に顔がお腹の中に埋まっている。潜っている。
 制服を食い破って。
 お腹の肉を食い破って。
 胴体を突き破り、背中側へ抜けそうなくらいに、頭が潜っている。

 ちっ
 くちっ
 ちちゃっ
 くり抜かれた腹部の、粘液や血液による海の中に、正香は、顔を突っ込んで、ぶるぶる細かく頭を震わせている。

 見るまでもない。
 お腹の中にある物を、食べているのだ。

 先ほど見せた、顔が縦に裂けての、ピラニアに似た鋭い無数の歯で。

 成葉の、絶命したばかりでまだ温かい、臓物を。

 くちっ
 きちゅっ

 ……
 大鳥正香が、不意に、お腹の中に突っ込んでいた頭を上げた。

 血液で、どろり真っ赤になった顔。
 顔全体が、縦に割れた口と化しており、その歯にかじられている、小腸が、ずるるんと引っ張り上げられた。

 顔の裂け目が閉じることで、ぶちゅり噛みちぎられた腸が、蛇がのたうつように、お腹に空いた臓物の海の中に落ちて、ちゃっと微かな音を立てた。

 満腹になったのか、満腹でもないが他に優先することが出来たのか、大鳥正香は、四つん這い姿勢のまま少し腰を上げると、くるり百八十度向きを変え、歩き始めた。

 縦に裂けて無数の鋭い歯を見せていた顔は、もう完全に閉じており、完全なのっぺらぼうに戻っている。
 つい今まで、そこが巨大な口になって、同級生の死骸を食らっていたなどと、誰が信じるだろう。

 血で真っ赤に染まっていたはずの顔は、皮膚から吸収したのか、粘液と共に流れたのか分からないが、いつの間にか、真っ白な色に戻っている。

 もう動かない、転がっている成葉のむごたらしい死体。
 目を背けることが出来ず、アサキは身体を震わせながら、

「成葉ちゃん……」

 青ざめ呆然とした表情で、小さく口を開いていた。

 自分のその声により、心が現実に戻ったか、ぶるりと激しく身体を震わせると、

「成葉ちゃん!」

 叫んでいた。
 大きな声で、叫んでいた。

「成葉ちゃん! ……成葉ちゃん!」

 狂ったように、何度も、何度も。 
 ぼろぼろと、目から涙をこぼしながら。
 叫んでいた。

 泣き叫んでいるアサキの横で、治奈とカズミは、まだ呆然と立ち尽くしている。

 四つ足で這い回っている、親友の、すっかり変貌した姿を、
 真っ白でぬめぬめとした、ヴァイスタにしか見えないおぞましい姿を、
 まだ、現実であると受け入れることが、出来ないのだろう。

 もちろんアサキにしても、そんな現実は受け入れられるものではないが、しかし、自分と治奈たちとは一緒に過ごして来た日々の長さが違う。
 治奈たちの驚きが、悲しみが、その深さが理解出来るはずもなかった。

 浅いから、いち早く気付いたのか、それは分からないが、アサキはぴくり肩を震わせて、前方遠くへと視線を向けた。
 大鳥正香の、ぺたぺたと四つ足で這う音に、別の足音が重なっていたのである。

 誰かが、こちらへと走ってくる。

 (みち)()(おう)()であった。
 膝丈の、ぶかぶかのTシャツ一枚という、まるで寝間着みたいな姿だ。

 全力で走ってきたのか、苦しさに歪んだ顔。
 近付き、立ち止まると、少しの間、膝に手をついてぜいはあ激しく息を切らせていたが、すぐに顔を上げると、険しい表情で、

「あかんかった……間に合わへんかったか」

 舌打ちすると、靴の裏で道路を激しく踏み付けた。

 まだ半ば呆然とした顔で、夢現の境界にいたカズミであったが、その応芽の様子を見て、応芽の声を聞いて、はっと我に返っていた。

「ウメ、お前、今なんていった……」

 震える、かすれた声でそういうと、応芽の顔を、きっと睨み付けていた。
 言葉の真意を糺そうとしたのか、ただその態度に不快を感じたのかは、分からない。
 どのみち、うやむやに紛れてしまったからである。

「ああーーーーっ!」

 女性の、恐怖に驚く悲鳴が、澄み渡る青空を震わせたのだ。

 仕事帰りであろうか。
 見ず知らずの、二十代と思われる女性が、こちらを見ており、悲鳴の凄まじさにも劣らないだけの表情を、その顔に浮かていた。

 白くぬめぬめとした、顔のパーツのない化物と、顔と内臓とを食われた女子中学生のむごたらしい死体、血の海、驚き恐怖するのが当然の反応であろう。

 畳み掛けるように、ことは起こる。

 ぶーーーーー
 ぶーーーーー
 リストフォンが、不意に、強く、振動を始めたのである。
 ここにいる全員、死体である成葉の左腕の物も、腕が膨れたためバンドが切れて、道路に転がっている大鳥正香の物も。

 emergency(エマージエンシー)

 黒い画面に、表示されている。
 つまりこの通報は、ヴァイスタが出現したことを知らせる警報なのである。

 自動的に、地図表示へと切り換わる。
 それぞれの現在地と、ヴァイスタ出現ポイントを示すマーカーが表情される。
 それらはすべて、この場所に、重なっていた。

 もう……間違いない。
 そう認識したアサキたちの顔は、いつ気を失って倒れてもおかしくないくらいに、まるで全身の血を抜き取られでもしたかのように、青ざめきっていた。

 げご
 大鳥正香が、四つん這い姿勢のまま、どこから声を出しているのか分からない不快な音を発したと同時に、またすべてのリストフォンが振動した。

 ()(ぐろ)()(さと)先生からの通信である。
 空間伝送スピーカー技術で、それぞれのリストフォン近くで空気が振動し、先生の声を作り出し、共鳴する。

「大変! ヴァイスタが現界に出たみたい! 反応が弱いし、『なりたて』かも知れない。それより……場所が、大鳥さんの家の前なんだけど、まさか大鳥さん……」
「先生、せせ、正香、ちゃんがっ!」

 言葉を遮って治奈が、リストフォンを口に近付けて、泣き出しそうな声を出した。

「どがいすればええんじゃろ? どがいすれば助けられるんじゃろ?」

 いつも淡々飄々としている治奈が、起きたことの衝撃に、なすすべもなく涙目で狼狽えていた。

 少しの沈黙を挟んで、また空間スピーカーから先生の声が流れる。

「通行人、目撃者はいる?」
「は、はい。通りがかりの女性が一人」
「まずは、その人の記憶を消して」
「分かりました。……アサキちゃん、お願い出来るかの?」

 治奈の頼みに、アサキは青ざめた顔のまま黙って頷くと、生まれたばかりの子鹿よりもぶるぶる震える足取りで、女性へと歩き出した。

 全員の空間スピーカーから、また須黒先生の声。
 毅然とした、でも少し震えている、少しかすれた声である。

「そしたら次は……現界で誕生したヴァイスタは、裂け目を探して、異空へ行こうとするの。そうなったらすぐに育ってしまうから、だから、その前に……」
「正香ちゃんなんですよ! 戻してあげられないんですか!」

 アサキは女性へと向かいながら、自分のリストフォンへ口を近付けて怒鳴っていた。

「無理や」

 と、ぼそり呟いた応芽の声を、カズミは聞き逃さず、じろりと顔を睨み付けた。

 それに気付いた応芽は、気まずそうに少し目を落として視線をかわした。

「そこにいるのはヴァイスタ。放って置いたら()()が何人の人間を殺すと思っているの?」

 あえて淡々と語っているとも思える先生の口調に、治奈とアサキは悔しそうに唇を噛んだ。

 そんなアサキの顔が、すぐ笑顔に変わったのは、事態好転したわけでも諦めたからでもない。
 目撃者である通行人の女性に近付いて、身体をそっと抱き締めたのである。

 笑顔、といっても泣きそうなこわばった笑顔であるが、それでもアサキは懸命に、やわらかな表情を作ろうとしながら、抱き締めた。
 不運にもおぞましい光景を目撃してしまい、発狂しそうになっている女性の身体を。

「大丈夫、ですから」

 力のない声でそういうと、ゆっくり手を伸ばして、女性の頭頂へと翳した。

 目を閉じて、強く、念じる。
 記憶の一部の、情報伝達を断つ。
 魔法そのものというよりは、魔力を応用した技術(テクニック)の類だ。

 さらに、女性を誘導するために、軽い幻覚を見せる。

 ここは普段通りの通り道。
 今ここには誰もいない。

 術の効果はすぐに表れたようで、女性は正気を失った、ぽーっとした顔になって、酔っ払いにも似たふらつく足取りで、この場を通り過ぎていった。

「ごめんなさい」

 去りゆく女性の後ろ姿を見ながら、アサキは申し訳なさそうに小さく頭を下げた。

 以前にも述べたことがあるが、アサキは、他人の記憶を操作することへの嫌悪感や罪悪感が強い。
 ただ理不尽な恐怖を味わうだけであった先ほどの女性の、たった数分の記憶を断つことについてさえ、例外ではなく。
 もちろん、現在それどころではないことも、理解はしているが。

 アサキは俯いていた顔を少し上げて、頑張って毅然とした表情を作ると、四つん這いの白くぬめぬめした化け物、大鳥正香へと視線を向けた。

 なんとかしなければ、という覚悟の意味での毅然めいた顔ではあったが、こうしなければという確たる情報も信念も決断もなく、結局、すぐにまた、おどおどした躊躇いがちな表情に戻ってしまった。

 それが悔しくて、
 なんとかしたいのになんにも出来なくて、アサキは済まなそうに項垂れてぎゅっと拳を握った。

 戻す術があるのならば、とっくに先生が指示しているだろう。
 つまり対策などは存在しない、あるとしてもまだ分かっていないということだ。

 でも、
 でも、なにかないのか。
 正香ちゃんを、救うことは出来ないのか。
 だって、
 だって、
 幼い頃に家族を殺されるという目にあって、ずっと、十年間も、その辛さを抱えていたんだ。
 人間は、味わった辛さの分だけ幸せが訪れなければ、嘘ではないのか。
 このままじゃあ、かわいそう過ぎる。
 戻せたとしても、成葉ちゃんの生命を奪ってしまったことで苦しむのかも知れないけど。でもそれは、正香ちゃんの責任じゃない。

 げご
 這いずり回っている大鳥正香が、また、カエルの鳴き声を発する。

 アサキは、びくりと肩を震わせた。
 大鳥正香が、地へとくっつきそうな低いところから、こちらを見上げていたのである。

 その顔には、鼻の小さな隆起しかなく、見ていたというよりは顔を向けていたという方が正確であろうが、しかし間違いなく見られていた。目が合った。そうアサキは感じていた。

「あ……あ……」

 青ざめた顔で、一歩退きながら、目を見開いて、上擦った声をあげていた。

 大鳥正香の顔を見ているうちに、引き込まれていたのだ。

 どっと、感情が、意識の濁流が、アサキの意識へと流れ込んできたのだ。

 純然たる怨念が。
 憎しみ……母親への、憎しみが。

 父親によって母親と姉が殺された、という事件なのに、どうして母親への憎しみなのか。
 流れてくるのは、単なる感情であり、その理由までは分からない。

 分かっているのは、その憎しみの量、絶望の量を言葉で表すには、アサキの語彙は少な過ぎるということであった。

 この、こんこんと噴き上がる怨念を感じているのは自分だけなのか、それは分からないが、それぞれ自分の複雑な立場や感情と向き合っているようで、治奈もカズミも、ぎりりと歯軋りし、息荒く肩を上下させている。

 一人、吹っ切れたか、
 カズミは、地に唾を吐き捨てると、一歩前に出た。

 ぐ、と拳を握った。
 自分の爪が食い込んで血で出そうなくらいに、強く、きつく。

 歯を軋らせながら、地を這っている大鳥正香を、睨み付ける。

 自分にいい聞かせるように、カズミは小さく口を開いて、もごもご小声で呟いている。

 なにをいっているか、はっきり聞こえないけれど、でもアサキにははっきり聞こえていた。
 カズミの、強い思いが。


 ヴァイスタなんだ。
 倒さなきゃあ、ならないんだ。

 だって、そうだろう。
 先生のいう通り、もしここで逃したら、何人の生命が失われることになる?

 敵として、倒さなくっちゃいけない。

 でも……
 出来るわけがないよ。
 こいつらみんな、優しいからな。
 出来るわけが……ない。
 だからこそ……


「だったら、あたしが!」

 カズミは、悲しげな怒鳴り声を、不意に張り上げると、両手を頭上高く交差させた。
 左腕に着けたリストフォン、内蔵されている魔法力補正装置であるクラフトが、カズミの魔力に反応して光り輝いた。

「変身!」

 腕を下ろしながら、側面にあるボタンをカチリと押し込んだ瞬間、身体が眩い光に包まれて、身にまとっている制服も、下着も、すべてが粉と溶けて吹き飛んでいた。

 裸体は眩しさに包まれ黒いシルエット、その眩しさも一瞬にして弱まるが、既にカズミの全身は、やわらかで頑丈そうな、白銀の布に覆われている。

 頭上から、回りながら落ちてくる青色の塊が、弾け、ばらばらになり、軽装甲として肩や二の腕、胸、すねへと次々に装着されていく。

 ふわり、モーニングにも似た、背中側が長い袖無しの服が落ちて、前傾姿勢で手を後ろへ回して腕を通す。

 上体をしっかり起こすと、ぎゅっと拳を握り、左のつま先と軸に、ぶぶんと鋭い回し蹴りを放ち空気を焦がした。

魔法使い(マギマイスター)カズミ!」

 勇ましく名乗りを上げると、腰のナイフを取って、左右それぞれの手に構えた。

「そこのヴァイスタ、覚悟しやがれ!」

 叫んでいた。
 演技めいた、大声で。

 大鳥正香に、変化が起きていた。
 感じた殺気に戦闘体勢へ入ったのか、単に少しずつ成長しているということであるのか。
 これまでずっと、四つん這い姿勢であったのが、ゆっくりと起き上がり、二本の足で立ったのである。

 猫背であり、また、小柄ではあるが、その容姿は完全に、見慣れているヴァイスタと同じであった。
 小柄、といっても二メートルは優に超えているが。

 両手にナイフを構えたカズミと、二本の足で立つヴァイスタと化した大鳥正香とが向き合った。

 カズミは目を険しく細めて、ぎろりと目の前の敵を睨み付けた。
 そのような表情になってしまうというよりは、そうしなければいけないという使命感であろうか。
 先ほどの口上にしても表情、仕草にしても、どこか演技めいたものがあった。

 だが、口上や表情は演技であろうとも、相手を殺すために先に動いたのはカズミであった。
 身を低くして地を蹴って、ナイフを振り上げながら、目の前に立つ白い巨人へと突っ込んでいた。

 両手のナイフで腹と腕へと斬り付けつつ、そのまま脇を抜けた。
 着地し、すぐさま振り返る。

 傷が、もう白い粘液を垂らしながら修復されている。
 回復力は確かに驚異だが、やはり「なりたて」だからか個体としてはまだ弱いようだ。

 生まれたばかり。
 つまり、自分の闇のみで、他の闇を知らないし、絶望した者を食らい取り込んだのが、まだ平家成葉の肉体のみ。

 個体としては、弱い。

 でも、ヴァイスタはヴァイスタだ。
 カズミは油断なく正面に立ち、二本のナイフを構え直す。

「一気にカタを付けるぜ。苦しまないよう楽に、地獄に送ってやるよ」

 にやり、と口元を歪めた。

 嘘だ。
 アサキは思った。

 その笑顔も、地獄に送るとかいう言葉も、嘘だ。
 そうやって自分を騙さないと、親友と戦えないから。親友を殺すなんて出来ないから……

 ぎゅ、っと強く拳を握りながら、アサキは自責の念にかられていた。

 こんなこと、誰だってやりたくない。
 カズミちゃんだって、正香ちゃんと戦いたくなんかない。
 救いたいと思っているはずだ。

 きっと心の中では、ぼろぼろと涙をこぼして泣いている。
 嫌な笑みを浮かべている自分を、殴り付けている。
 血を吐くような思いで、自分と、正香ちゃんと、向き合っているんだ。
 思いがかなわぬのならば、ほんの一欠片だけでも、正香ちゃんの、残されたなにかを、救済しようと。

 なのに、
 なのに、わたしは……

 足が竦んで。
 震えているだけで、身体が動かなくて。
 カズミちゃん、ごめん。
 わたし、なにも出来ない。
 動揺するだけで、身体が動かないんだ。
 ごめん。
 カズミちゃん。
 正香ちゃん、成葉ちゃん、ごめん。

「いくぜええええええええ!」

 再び、カズミは地を蹴って、完全にヴァイスタ化した大鳥正香へと飛び掛かっていた。

 飛び掛かったその勢いで、大鳥正香の白い腹を、右足左足と蹴り、駆け上がって、真上へ飛ぶと、空中高く、トンボを切りながら両手のナイフを構え直した。

 落下するカズミの身体。
 手にしたナイフを振り下ろして、ヴァイスタの身体をずたずたに引き裂く……はずで、あったのだろう。

 現実には、なにもせずただ着地をしたというだけだった。
 目の前のヴァイスタ、大鳥正香を、滅ぼすことを、魂を救うことを、躊躇ってしまったのである。

「ぐぁ!」

 それは果たして、自己を救済してくれない友人への怒りであったのか。
 または、人間を襲う本能が、ようやく目覚めつつあるということなのか。

 カズミの右肩が、吹き飛んでいた。
 ヴァイスタの特徴である、軟体生物の触手を思わせる長い腕、それがにゅるんとムチのごとくしなったかに見えた瞬間、ぐんと固く伸び、突き出され、カズミの肉体をえぐり取ったのである。

 ぐぅ、と激痛に呻いて、顔を険しく歪めるカズミであったが、攻撃はこれで終わりではなかった。

 もう一度ぶんとしなり、襲う触手、その先端が裂けて開き、生えている無数の鋭い歯で、カズミの太ももへとかじり付いたのである。

 ぶつん。
 魔道着の黒いスパッツごと、ももの皮膚と肉が、完全に深くかじり取られていた。

 動脈が切断されたのだろう。
 どうっ、と激しく血が噴き出していた。 

 肩と足とを襲う激痛に、カズミは、自分の身体を支えることが出来ず、地に倒れていた。

 だけど戦意失わず、左手でナイフを掴み、ずるずると、もと親友であった、白く粘液質な巨人へと、睨み、這い寄ろうとする。

 おかしな話である。
 戦意や決意が足りていなかったからこその、この状況であるというのに。

「ヴァイスタなのに……ただの、たかが、ヴァイスタなのに!」

 声を絞り出しながら、カズミは、片方の肘だけで必死に地を這い、ヴァイスタへと近寄っていく。
 友になにも出来ない、すぐ楽にしてあげられない、そんな悔しさからであろうか。
 ボロボロと涙をこぼしながら。

 白い巨人は、ぬるぬるとした顔をカズミへと見下ろし立っていたが、やがて、突然、先ほどまでに戻って、四つん這いになり、あちこちへうろうろと歩き始めた。

 どん
 どん
 前腕を振るい、空間を殴り始めた。

 先ほど須黒先生がいっていた、異空へ行こうとする行為であろう。

 目の前に「手負いの魔法使い」というヴァイスタにとって格好の獲物がいるのに、襲わず逃げようとするのは、ようやく芽生えた生存本能によるものか、それとも成葉の肉体により、とりあえずの食欲は満たされたためであるか。

 なおも腕を振るい続けて、ついに異空と現界を結ぶ次元の裂け目を探り当てたか、なりたてのヴァイスタは、組んだ両手で作った巨大なハンマーを、頭上へ振り上げ、振り下ろした。

 ばりん
 何枚も重ねたガラスが割れた。そのよう音と共に、空間が砕け散っていた。

 どっ、と異空からの瘴気が、強風となって吹き込んでくる。

 かつて可憐で上品な少女、大鳥正香であった、白く巨大な、醜い化け物は、なおもバリバリと境界を砕いて、広げている。

 異空へ入るために。

 完全なるヴァイスタになるために。

 より世を呪うために。

「正香ああああああああああ!」

 カズミが激痛に顔を歪めながら、すがるように手を伸ばして叫ぶが、その叫びが、願いが、なにを生むこともなかった。

 バリンバリンと境界を砕いて、ヴァイスタは、異空へと、一歩を踏み出したのである。

 だが、その踏み出した足の裏が、異空の地を踏むことはなかった。

「うわああああああああ!」

 (みち)()(おう)()の絶叫が響いた。

 かつて大鳥正香であった白い巨人の、背に、騎槍(ランス)が深々と突き刺さっていた。

 いつの間にか、赤黒の魔道着へと変身していた応芽が、太い柄を両手に握り締めて、ぶるぶると腕を、ぶるぶると身体を、視線を、震わせている。

「つ、付き合いの、い、一番、短い、あたしがやるしか……」

 ぶちゅり、と音を立てて、騎槍を乱暴に引き抜くと、砕かれ空け放たれた境界を、異空側へと入り回り込んで、今度はヴァイスタの腹を目掛けて、深々と突き刺した。

 かつて大鳥正香であった、白くぬるぬるとした、顔のない巨人は、その動きを完全に止めていた。

 応芽は、はあはあ息を切らせ、肩を大きく上下させながら、再び騎槍を引き抜くと、地に投げ捨てた。

 右手を伸ばし、仁王立ちに立ち尽くしている白い巨人の胸に当てた。

 苦しげな、躊躇いがちな表情を浮かべると、迷いを払うかのように首を横に振った。

 小さく、口を開く。

「イヒベルデベシュテ……」

 呪文詠唱。

 動きを止めていた白い巨人が、また動き出した。
 腹と背に出来た傷が、見る見るうちに治っていく。
 大きく空いている穴が、塞がっていく。
 まるで、ビデオの逆再生をコマ送りで見ているかのように。

 あっという間に、騎槍で貫かれる前の状態に戻っていた。
 白い巨人のどこにも傷はなく、どっしりした仁王立ちで、今にも歩き出しそうである。

 ちち、
 ちちちっ、
 身体のどこから発しているのか、干物があぶられて縮むような音。

 白い巨人の、のっぺらぼうな顔面に、魚に似た唇が浮き上がっていた。

 にやあっ、まるでこの世のすべてを分かっているとでもいいたげな、不気味な笑みを浮かべると、次の瞬間、頭頂が金色に輝いていた。
 頭から下へ、下へ、光はさらさらとした砂粒になり、緩やかに流れる風に溶けて、そこにはなにも存在しなくなった。

 静寂。
 世界中から集めに集めたような、濃密な静寂がそこにあった。

 応芽は投げ捨てた騎槍を拾い、道路へと突き立てると、悔しそうな、悲しそうな、怒ったような顔で、きゅっと口を閉じ、青い空を見上げた。

 のどかな町並みに、異様な静けさが落ちていた。

 治奈とアサキは、まだ起きたことを受けいられず、青ざめた顔で身体を細かに震わせている。

 肩と太ももに大怪我を負ったカズミが、地に倒れている。
 左手のナイフを握り締め、先ほどまで白い巨人が立っていたところを、涙の滲んだ目で睨んでいる。
 ぎりぎりと、悔しげに歯を軋らせている。

 道路の真ん中に、ぽつり転がっている、平家成葉の死体。
 なにかの冗談であるかのように、なんだか虚しく。

 顔の肉をかじり尽くされ、骨も噛み砕かれており、あらかじめ知っていなければ誰とも分からないだろう。
 顔だけではなく、腹の肉も概ね食われ、中の臓物も半分以上を失っている。
 引き出され、噛みちぎられた小腸が、脇腹から垂れて、地をじんわり赤黒く染めている。

「酷い。……あんまりだよ」

 静寂を破ったのは、アサキのかぼそく震える声であった。

「仲直りしたい。ただ、それだけだったのに。きっとその気持ちは、正香ちゃんにも、届いていたはずなのにっ!」

 アサキは鼻をすすった。
 うくっ、と声を漏らすと、澄み渡った青空を見上げ、わんわんと大声で泣き始めた。

 でも、どれだけ涙や悲しみを吸い上げようとも、空の色はいささかも変わることはなかった。

 カズミは、そんなアサキへと悲しげな視線を向けるが、すぐ強気な表情に戻すと、痛みに顔を歪めながらなんとか上体を起こして、あぐらをかいた。
 大怪我を負っている太ももに手を翳し、自らに治癒魔法を施しながら、疑う目付きで応芽を睨んだ。

「ウメ、お前なんか隠してねえか? 間に合わなかった、とかなんとかいってたよな」

 応芽がここに、慌てて到着した時のことである。

 質問を受けた応芽は、騎槍の柄尻を路上に突き立てたまま、はあはあと息を切らすばかり。
 言葉返さぬどころか、カズミを見ようともしない。

 リストフォンのボタンを押し、変身解除して、ぶかぶかのTシャツ姿に戻った応芽は、息を切らせながら、空を見上げながら、右腕で目をこすった。

「なんとかいえよ!」

 返らぬ答えに苛立ったか、カズミが声を荒らげた。

 応芽は、なおも表情殺して空を見上げていたが、しばらくしてようやくカズミの言葉に反応したということか、寂しげな表情になった顔を落として、力のない声を発した。

「……あたしの、せいやな。結果的に、二人を喧嘩に追い込んだの、あたしやもん」
「違うよ!」

 アサキが怒鳴っていた。
 応芽の自責を責める目付きで、睨み付けていた。
 すぐに弱々しい表情に戻り、弱々しく消え入りそうな声で、言葉を続ける。

「誰のせいでもない。みんな、ただ二人に、成葉ちゃんと正香ちゃんに仲直りして欲しかっただけ。わたしたちも、ウメちゃんも。まさかヴァイスタになってしまうということも、知らなかったんだし。校長だって、成れ果てなんて噂だっていっていたし。だから……だから誰も悪くない!」
「令堂……おおきにな」

 笑みを浮かべる応芽であったが、あらためて見つめたアサキの弱々しい顔に、やり場なさそうに視線を横へ動かした。

 アサキは、ず、と鼻をすすり、目をこすると、俯きながら小さく口を開いた。

「わたしもね、幼い頃に本当の両親から虐待されていたんだ。それでね、引き取られることになったんだけど」

 いったん言葉を切って、ひと呼吸置くと、また言葉を続ける。

「思い出したくないのか、記憶は漠然としている。でも、お湯をかけらた熱さとか怖さ、殴られたり、暗い部屋に閉じ込められたり、刃物で切られた痛さ、頭を押さえられて水の中に沈められたりした時の、断片的な映像や感じた恐怖、感触はしっかり残ってもいて……たまにね、思い出して身体がぶるぶるっと震えちゃうことがあるんだ」
「令堂……」
「不安が、絶望が、というのなら、わたしもいつか、ヴァイスタになっちゃうのかなあ」
「させへんよ!」

 涙を滲ませ、恐怖に怯えているアサキの、やわらかな身体を、応芽は腕を回してぎゅっと強く抱き締めていた。

「あたしが、させへんよ。……もう、誰も、二度と……」

 応芽は、アサキの頬に、自分の頬を強く押し当て、擦り付けた。

「正香ちゃん……成葉ちゃん……」

 ぼろぼろ、っとアサキの目から大粒の涙がこぼれていた。
 自らも腕を回して、応芽の身体を抱き締め返していた。

 すがるように、応芽の胸に顔を埋めるアサキであったが、それで感情を押し殺すことなど出来るはずもなく、慰められていることにむしろ高まってしまい、あぐっとしゃくり上げると、空を見上げて、また大声で泣き始めた。

 いつまでも慟哭を続けるアサキを、
 いつまでも応芽は強く抱き締め続けていた。

 空の色は、ただひたすらに青かった。 
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