黄泉ブックタワー
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第二章 旅は魔本とともに
第8話 自分の手でよければ、いくらでも
天岩洞を後にしたアカリたちは、近くにあった天文台の見学などをおこなったのち、車を走らせ、予約していた『三休』という宿に着いた。
木造二階建てで、かなり古く感じる外観だった。客室は十部屋もなさそうな小さな旅館だ。
もちろんチョイスの理由は、小さいころに祖父と泊まったと思われたためである。名前だけうっすらと覚えていたのだ。
外から見た限りでは、特にアカリの記憶が呼び起されることはなかった。
経った年月を考えれば、外観を覚えていないのは仕方ない。
ところが。
チェックインを済ませたとき、女将だという初老の女性から意外な声がかかった。
「電話をいただいたときによっぽど聞こうと思ったけど……。あなた、西海枝京助先生のご家族のかたかしら?」
先生。アカリはその呼び方に「おや?」と思った。
祖父――西海枝京助は大学教授であり、それなりの立場ではあった。
だが、仕事で関わっていたとは思えない旅館の女将が、昔に泊まった宿泊客のことなどずっと覚えているものだろうか? と。
「あ、はい。私は孫ですが」
「あら、やっぱり。サイカイシって珍しい苗字だったから、たぶんそうかなと思ってたのよ。このたびはご愁傷様です」
「……! ありがとうございます。祖父を覚えてくださっていたんですね」
「もちろんよ。毎年この時期に来てくれてたんだから」
「えっ、そうなんですか?」
驚きだった。
女将が祖父の死を知っていたということに対してもそうだが、祖父が定期的にこの小さな宿を訪れていたということにも、である。
たしかに毎年この時期になると祖父は家にいなかったが、アカリは墓参りとしか聞いていなかった。
「本当は孫も連れてきたいって毎回言ってたわよ。でも息子夫婦に嫌な顔されるから難しいんだって」
「……!」
それもまったく知らなかった。
「こんなにハンサムな彼氏さんがいるなんて、きっと先生も喜んでたでしょう」
イケメンという言いかたをしない世代なのか、ハンサムという表現をした。
ミナトが「おばちゃん。俺、ハンサムなのか?」と、ストレートに女将へ質問している。
とりあえず『彼氏』の部分を訂正しようよ、とアカリは思った。
夕食は家庭料理のような感じだった。ボリュームがものすごい。
「すげえ! こんなに食っていいのか」
「ちょっと、大きな声で言わないで」
卓を挟んでミナトがウキウキであるが、案内されたこの畳の大部屋には他の宿泊客も数組いる。アカリとしては悪目立ちは避けたいところだ。
「というか、今さらだけど、本魔ってご飯食べるんだね」
「食べることはできるぞ? あの塔の中には食い物の店もあるぜ」
食べること〝は〟という言いかたが少し気にはなった。
が、突っ込もうかどうか考えているうちに、ミナトは説明を続けてきた。
基本的に本魔の社会は魔本の知識で作られているため、食文化も存在し、最新ではないものの、人間の世界に準じたものが存在するとのことだ。
その真偽を確かめる手段がアカリにはないわけだが、目の前で器用に箸を使って魚を食べている彼の姿を見てしまうと、信じざるをえない。
食後、小ぶりな浴場で入浴を済ませ、ふたたび部屋に戻ってくると、布団が敷かれていた。
二つ。隙間なく、並ぶように。
「あら。くっついてるね。離そうか?」
「おっ。悪魔を警戒してるな? けど心配無用だぜ。俺は寝ないからな」
似合わない浴衣姿で、そんな返し方をしてくるミナト。
「余計心配だけど……。でもどうして寝ないの?」
「悪魔は寝なくても、人間みたいに次の日フラフラになることはないんだよ」
微妙にぼやかしたその言いかたでは、眠くなるのかどうかまでは読み取れない。
わかるのは、寝ないという意思表示だけだ。
「つーことで。おばちゃんにお願いしてた本を読むつもりだぜ」
「あー。このかごは、そういうことだったんだ」
布団の近くに買い物かごが置いてあり、本がどっさりと入っていた。
見えている限りでは、このあたりの旅行ガイドや、地理歴史に関する本が多そうだ。
旅行前にアカリが聞いていた話では、彼は魔本であれば超高速で読破でき、キーワード検索のようなことも可能らしい。だが人間の世界の本については、並の人間より速く読める程度であるという。
旅行先でわざわざ本を借り、時間を使って読む。アカリには理解しかねることだったが、かごの本を眺める彼の表情は、まるで子供のように輝いている。
――でも、ずっとこんな感じだったかも?
朝に待ち合わせ場所で会ったときも、特急列車に乗っていたときも、車で移動していたときも、鍾乳洞に入っていたときも、彼はここまでずっと面白そうな顔をしていた。
無理やり連れてこられたのに、この変な悪魔は何がそんなに楽しいんだか。
そう思いつつ、布団に入った。
嫌な予感は十二分にしていたが、やはりアカリはなかなか寝つけなかった。
エアコンは入っていて、暑くはない。
部屋の照明も、「俺は暗くても普通に読めるから」とミナトが消してくれていたので、明るくもない。
仰向けで目をつぶって、じっとしている。
でも、眠れない。
時計の音が、耳を刺激し続ける。
「寝られないのか?」
起きているというサインは出していなかったはずなのに、隣の布団から声がかかった。
アカリは右向きになった。
移動のタイミングを逃したので、すぐ隣がミナトの布団だ。
仰向けで借りてきた本を広げており、顔だけこちらを向けていた。
彼は最初、布団の上であぐら座りをしていた。しかし「これだとお前が気になっちまうよな」と言って、寝ている体勢で本を読んでいたのだ。
この地方の自慢である星明かりと、廊下側の窓から入ってくる光源不明の光に薄く照らされた、彼の顔。
もう目が暗さに慣れていたのでアカリにもわかったが、微笑を浮かべていた。掛け布団は使っていないようで、引き締まった腹部の上に魔本が置いてある。
「いつもの夜よりは少し眠気がある気がするけど……すぐには寝られなそう。なんか最近、夜になると頭が落ち着かなくなって、目が冴えちゃうんだよね。昼間は頭がボーっとして眠いのにさ」
「でも今日の昼間は別に普通に見えたぞ」
「今日は有休だしね。会社にいない日はちょっとマシ」
「ストレスにやられてるからなんだよな? 俺、人間じゃないから完全に理解してるわけじゃないけどよ」
「うん。ヘラヘラしてばっかりのあんたにはわからないかも」
ここまで完璧な同伴者を演じてきたであろう彼に対し、この嫌味な言いかた。
アカリは言い終わる前に罪悪感にかられた。
「あはは。そうかもな!」
しかし、間髪を入れずに返ってきた無邪気な笑いが、それを吹き飛ばしてくれた。
「なあアカリ。お前のじいちゃんって、そういうときは何かしてくれてたのか?」
「さすがに物心ついてからは何も。だいたい部屋も違うし」
「ずっと昔は?」
「……あー。思い出しちゃった。小さいころは、眠れないときに、触ってもらった気がする」
左前腕を両目の上に置き、記憶を辿っていた…………ところに、彼の「へえ」という声とともに、布団の中で自然に投げ出していた右腕が、風で一瞬だけ涼しくなった。
そして右手の甲の上に、温かく乾いたものがフワッと乗る。
いつも魔本を握っている、ミナトの左手だ。
見ると、彼はいつのまにか仰向けではなく、横向きになっていた。
腹部に乗っていた魔本は、そのまま前に落ちていた。
「まだ手とは言ってないでしょ……」
その抗議にも、彼は手を引っ込めなかった。
そしてアカリも、手を引こうとは思わなかった。
「ああ、そうだよな。悪い悪い。でも正解なんだろ」
彼が笑いながら言っているとおり、記憶が確かならば、祖父が触ってくれていたのも手だったのだ。
「ま、正解。あんたカンがいいね。おじいちゃんは手を重ねてくれてた」
素直に降参し、悪魔の厚意を受け取ることにした。
そのまま目をつぶる。
「アカリは、おじいちゃんっ子ってやつなんだな?」
「たぶん、そう」
「俺だと完全な代わりにはならないと思うけどよ……少しは効果ありそうか? 前も言ったけど、俺清潔だし、そのへんは心配しなくていいぞ」
「それは全然心配してないよ」
彼は「へへ」と満足そうな笑い声を出した。
アカリは懐かしくも温かい感情に包まれていた。それこそ、幼少のころの記憶のままに。
それは、なぜだろう? と考えた。
仰向けのまま横を確認する。
彼の顔は、祖父には全然似ていない。その乾いた手の感触も、遠い記憶にある祖父のものには似ていないような気がする。
では、彼の声のせいだろうか? 顔や手の感触は全然違うにしても、声については、祖父のものをずっと若くすればと考えた場合、似ていないこともないのかもしれない。
そう真剣に考えざるをえないくらい、彼の手は……いや、彼そのものがどこか懐かしいとすら思えた。それくらいの安心感があった。
「ん? どうした?」
ジロジロ見すぎたのか、怪しく思われたようだ。
「なんでもない。明後日からまたいつもの毎日かー、やだなーって思っただけ」
ごまかした。
とはいえ、これも本音だ。この安心サポートが受けられるのは、今回の旅限定だ。
それは惜しい。大変に惜しい。
「アカリ。嫌々やってるうちはいい結果が出ないぞ。いい結果が出ないと余計に嫌になるから、悪循環だ」
彼はサッとガイドブックから魔本に持ち替え、そんなことを言う。得意の魔本読み上げだ。もちろんアカリはハイハイとスルーする。
「んで、どうなんだ? 手の効果は期待できそうか? 感想を聞かせてくれ」
「うん。なんか落ち着いた。ありがとう」
「よーし。じゃあダメ押しでこれもいこうか」
ミナトはアカリの右手に重ねていた手を外すと、一度起き上がり、リュックから何か小さいものを出した。
それはふわっとアカリの両目を覆う。
完全な暗闇になると同時に、両耳にミナトの指が触れた。紐のようなものがかけられたようだ。
「これ、アイマスクだよね? なんで持ってきてるの」
「ストレスってやつは旅行前に本でいちおう調べてたんだ。ちゃんと理解はできなかったけど、夜に眠れなくなるってのは書いてあった。だから持ってきてた」
「……なんかあんた、今日ずっと過剰サービスというか。嫌々ついてきたわりにはものすごい親切だよね。そんなに頑張らなくてもいいのに」
「行く以上は同伴者として頑張るぞ? ええと……時間はすべての人間に平等に与えられるが、どのように過ごしても同じ量を失ってしまう恐ろしい資源だ。だから頑張ったほうがいいんだよ」
「また魔本をカンニングしたなー? たまには見ないで自分の言葉で言ったら…………ん、ちょっと待った」
アカリは遅ればせながら、一つ不思議なことに気づいた。
「そういえば、ストレスにやられてるなんて話、ミナトにしてたっけ?」
体調が悪いとは言っていたが、ストレスどうこうと言った覚えはない。なぜ知っているのだろうと思った。
すると、ミナトは少し沈黙を置いてから、答えてきた。
「お前の親が言ってた」
「あー。なんかうちの中を探検とか、すごい気持ち悪いことしてくれてたもんね」
アカリはそのときのことを思い出した。
両親がそんな会話をしているのを、ミナトも直接聞いたと言っていた。原因がストレスであるという話も出ていたのだ。
「まあでも私、別に血を吐いたわけでもないし、高熱が出たわけでもないし、ぶっ倒れたわけでもないし。単に気分が沈んで、体が重くて、夜眠れないっていうだけだから。甘えって言われたらそれまでなんだよね」
だが、ミナトは「はいそうですか」とは終わらなかったようだ。
「塔に帰ってから、人間の健康のことを調べたけどよ。ストレスで体調崩してるなら、それは病気だよな。俺は甘えってわけじゃないと思うぞ?」
アカリの耳に、意外なセリフが流れ込んできた。
せっかくつけてもらったアイマスクを、思わず外してしまった。
体も横に向け、ミナトの顔を見る。
「ん、どうした?」
「……ねえ、明日東京に帰ったら、すぐに契約終了なの?」
「そうだぞ?」
ミナトは契約のルールを説明し始めた。
願いの内容を履行し、契約をした場所――今回の場合はファーストフード店――から一定範囲内に入ると、契約終了となるそうだ。
「ふーん」
アカリとしては、契約終了の条件に興味があったわけではないので、適当に返した。
体を仰向けに戻す。だが顔はミナトに向け続けた。
「あれ、アイマスクはないほうがよかったか?」
「ううん。つけてたほうが寝やすい気はする」
「じゃあつけてろよ」
「いや外しとく。でもこれ、ほしい。もらっていい?」
「いいぞ? でも今日使わないなら、しまっとこうか?」
「いや、持ったまま寝る」
アイマスクの紐を左手に持ち、そのまま布団の中に潜らせた。
「……よくわけわかんねえけど、それがいいならそうするといいぜ」
「ありがとう。じゃあ、はい。右手のほうを、またよろしく」
薄い掛け布団を、より深くかぶるようにスライドさせると、その中で右手の甲を上に向け、二回ほど跳ねさせてアピールした。
「あんたが嫌じゃなければ、こっちが寝るまで外さないでおいてもらえると嬉しいな。おじいちゃんはそうしてくれてたから」
「あいよ。了解!」
ふたたび右手の甲を包む、温かい手。やはり落ち着く。
「……会ったときからちょっと思ってたけどさ。あんた、あんまり悪魔って感じじゃないよね」
「なんかそれ、親父にも言われたな」
また無邪気に笑う彼。
アカリはやがて、眠りに落ちていった。
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