黄泉ブックタワー
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第二章 旅は魔本とともに
第9話 これがいいきっかけになれば、嬉しいな
翌日。
朝食を済ませたアカリとミナトの二人は、女将にお礼を言って旅館をチェックアウトした。
「さーて。じゃあ帰りますか」
「ちょっと待った!」
アカリが運転席でシートベルトを締めると、助手席から、朝とは思えないほどの元気な声が飛んできた。
「え、何? ミナト」
「帰る前に、もう一か所行くぜ」
「行くって、どこによ」
「近くにもう一個あるんだよ。鍾乳洞」
「いや、でも。おじいちゃんと一緒に行ったのは天岩洞だけだと思うんだけど」
「いいからいいから。そこに行ってからでも、遅くなる前に東京に帰れる。行こうぜ」
強引な提案で、行くことに。
ミナトのナビにより到着したのは、天岩洞のときよりもだいぶ小ぶりな駐車場だった。
冒険心をくすぐる地底空間・水心鍾乳洞――。
駐車場の端、門構えのように掲げられている看板には、そう書いてある。
宿からの距離は近いが、やはりアカリには覚えがまったくなさそうなところだった。
看板をくぐり、細い登り道を歩いて進むと、登った先には小さな平屋の建物。
「これが事務所だな。ちなみにここの斜面の上は、昨日行った仙人平だぞ」
天岩洞付近の灰色一色の崖とは違い、緑に覆われた斜面。その上を指さしながら、ミナトがそう言う。
私が寝ている間に調べ尽くしたんだろうなと思いながら、アカリは受付けの前に立った。
そこでミナトがスッと横に出る。
「おじさんおはよ! 俺らCコース予約してた!」
「――?」
アカリは聞いていなかった。
「ご予約の西海枝様ですね。Cコースは案内人つきでこの金額です」
「え、案内人がつくんですか?」
「はい。危ないですからね」
天岩洞ではそのようなことはなかったため、アカリは戸惑った。
「え、私きついのはちょっと――」
「アカリ! 頑張るぞ!」
渋る言葉は、ミナトの元気な声にかき消された。
受付けの人はニヤニヤしていた。完全にカップルだと思っているようだ。
「じゃあ、あちらがロッカールームになりますので」
ここの鍾乳洞には、まるで銭湯のような広めのロッカールームがあった。
なぜかミナトは、半袖短パンの着替えと、ゴム草履を持ってきていた。入る前にそれを渡され、アカリはよくわからないまま着替えた。
ロッカールームから出ると、ミナトが笑顔で待ち構えており、レインコートを羽織らされた。さらに頭には、これまた用意されていたヘッドライトを装着。
「……なんか、ずいぶん本格的な装備に見えるんだけど?」
「ははは。けっこう似合ってるぞ」
どう考えても、普通に歩けるところに入る恰好ではない。
嫌な予感しかしない状態で、アカリはミナトとともに、学生アルバイトと思われる若い男性案内人に導かれ、洞へと突入した。
「ちょっと。何これ? 天岩洞と全然違うんだけど?」
内部は狭いうえに、暗かった。ところどころ明かりが灯ってはいるが、照らそうという意志を感じるまでの明るさではない。
さらに、そこかしこで水が流れていた。縞鋼板の足場の下が川のようになっていたり、壁面から地下水が噴き出していたり、といった具合だ。
滝のような音がけっこうなボリュームで聞こえ続けるなか、案内人を先頭に、アカリ、ミナトの順番で進んでいった。
Aコース部分を抜けてBコースに入ると、足場や照明がなくなり、ほぼ自然なままの洞窟となった。
凹凸に富んだ床は歩きづらく、ちょくちょくゴム草履の紐部分が足の指にくいこんだ。痛い。
狭い洞内の壁面は、いたるところで雫が垂れており、ヘッドライトの光で冷たく輝いている。他の観光客の気配もなくなり、孤独感も増した。
観光鍾乳洞という印象はまったくなく、ガチの洞窟。
これはこれで、悪くはないのか?
そう考える余裕があったのは、Bコースの序盤だけだった。
「足が冷たい!」
水たまりなどのレベルではない。Aコースと異なり、足がどっぷり浸かるほどの水が床を満たしていた。しかも流れがある。
地下に流れる川の中を、その流れに逆らって進む――そんな感じだ。
「水温は十度くらいです。一年を通してあまり変わりませんね」
「ひええ……」
刺すような冷たい水が、アカリの体温を容赦なく奪っていく。
「最奥まであと700メートルくらいですが、ほぼ水に浸かりながらになります」
と案内人から告げられると、事前に一言も知らされていなかったアカリは、後ろのミナトを睨みつけた。
「ははは。アカリ、冷たくて気持ちいいだろ」
「……冷たすぎてむしろ痛いんですけど?」
「大丈夫。旅館のおばちゃんの話だと、すぐマヒして冷たく感じなくなるらしいぞ」
怨嗟を込めた抗議もあっさりとかわされた。
そして同時に、どうやらミナトは旅館の女将に対し、この鍾乳洞に行くことを相談していたであろうことがわかった。
「でもアカリ、この洞窟は『生きている』って感じがするだろ? 鍾乳洞って水に溶食されてできるものだからな」
前を歩いている案内人が振り返り、「彼氏さんは詳しそうですね」と笑った。
「この人は本でガンガンに予習してきただけです。あと彼氏じゃないですので」
「彼氏さんという感じもしますが、ご家族のような感じもしますね。いい雰囲気でうらやましいです」
「せっかくちゃんと否定してるんで、スルーやめてください」
「案内人の兄ちゃん、いいカンしてるな! どっちも正解!」
「変にノるのやめて!」
ミナトの言葉どおり、足がマヒしたのか次第に皮膚感覚がなくなっていった。
冷たい・痛いという感覚がなくなるのは、それはそれで怖い。だが随意運動は受け付けてくれているようで、足はしっかり動く。
これ以上気にしないことにした。
「ここは『胎内くぐり』です。狭いですので、気をつけてどうぞ。まず案内人の僕が通ります」
え、これ本当に通れるの? それがアカリの第一印象だった。
トンネルの天井が水面スレスレまで下がっている。しかも意外に距離が長そうだ。
ひるむアカリの前で、ガイドの若い男が「では見ていてください」と四つん這いになる。
「――!」
彼はまるで三億年の歴史を誇る某昆虫のように、ササっと抜けていった。
もちろんアカリとしては真似できる気がしない。
「ちょっと! これ無理だって!」
「アカリ、自力で抜けたら多分楽しいぜ。後ろで見ててやるから、やってみ」
「えー……」
仕方なく、案内人と同じように四つん這いになった。
すでに感覚のない足だけでなく、手のほうも水に浸かることになる。冷たい。
水面から頭一つ分程度しかないと思われるくらいの、狭い隙間。
突っ込んでいく決心がなかなか固まらない。
「アカリ、どうした? お尻でも叩こうか?」
「お断りします」
意を決して進んだ。
途中、不用意に頭を少し上げてしまい、鈍痛が走る。
「アカリ、大丈夫か?」
「大丈夫!」
ふたたび頭をぶつけないよう、振り返らずに答え、進む。
やはり結構な長さだった。
が、なんとか抜けることに成功。
「よっしゃ抜けたああっ!」
ガッツポーズしていたら、後ろから「アカリー」とミナトの声。
振り向いてパチンとハイタッチ……してから気がついた。
苦労して抜けてきた胎内くぐりを、彼は難なく通ってきていたのだ。しかも片手には魔本を持ったまま、である。
「ちょっと、ミナト。なんであんた簡単に抜けてきてるの」
「なんでだろ。悪魔だから?」
「悪魔言うな! むぅ、せっかくの達成感が」
「いえ、あなたも平均的な観光客さんよりずっとスムーズでしたよ」
案内人が笑いながらフォローを入れてきた。
「え、ホント? お世辞じゃない?」
「本当です」
「よおおおおっし!」
ふたたびミナトとハイタッチし、先に進んだ。
案内人必須とされているCコースに入ると、さらに厳しい世界が待ち受けていた。
かなり入り組んでおり、まっすぐ歩けるところはほとんどなくなった。
洞の断面も円形ではなく、おそらく傾斜のある亀裂のような形状であると思われた。斜め上には、ヘッドライトを向けてもなお不気味な闇がある。
左右の幅も狭いため、まともに立つと斜めの壁に頭をぶつける。中腰以外の体勢がなかなか許されない。
「きっつ……」
「アカリ頑張れー」
「頑張ってください」
案内人は慣れているという理由で、ミナトも悪魔だからという謎の理由で、スイスイと進めてしまうようだ。しかし、二人ともアカリの速度に合わせてくれていた。
ときおり、パズルのように隙間へ体を嵌めるようにしないと進めないところもあった。アカリはヒイヒイ言いながら、全身を動かして進んだ。
下を流れる水だけでなく、洞内の何もかもがひどく濡れている。
そのため、レインコートの下に着ていた服も、いつのまにか水の侵入でずぶ濡れになっていった。
「……」
暗い。狭い。腰が痛い。服が濡れて体にへばりつく。冷たすぎて足の感覚がない。鍾乳石に頭をぶつけて痛い。
ひたすらそれが続き、あきらめの境地に達していたところで――。
「はい。ここが終点です」
「おおおお!」
最奥に到着。
アカリは歓喜の声を出した。
「アカリー」
振り返ると、ミナトが笑顔で右手を挙げている。
アカリはその手のひらに、自分の右手を思いっきり合わせた。
パチンという音が、洞内によく響いた。
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