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fate/vacant zero

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心名残り





「――では、姫さま。ただいま、馬車を呼んで参ります」


 加護エオローの月第4週アンスール、黄金ソエルの日。

 アルブレヒト3世との結婚式を3日後に控えたその日、アンリエッタの身の回りはいつにも増して慌しかった。


 婚礼の為にヴィンドボナへと出立する当日になって、ようやくウェディングドレスの本縫いが仕上がってきたためだ。



 わやわやと群がる侍女たちによって召し替えられたアンリエッタ。

 彼女は召し替えの間中――いや召し替え終わった後になっても身動ぎ一つすることなく。

 今もただ棒立ちになって、馬車の到着を待っていた。


 虚ろな視線はドレスの手甲、丁寧に織り込まれた虹色の羽にむけられ。

 思い描くは、懐かしい記憶。


 あれから、もうどのくらいの月日が経っただろう?


 この七色の羽を見ていると、彼と一緒に過ごすことのできたあの夢のような二週間が、まるでつい先日のことのように思い出せる。



 今はもう叶わないあの日の誓いも、月夜の湖畔ラグドリアンも、意地悪な彼の横顔さえも。

 こんなにもはっきりと思い出すことが出来るのに。



「もう……あの頃には、戻れないのですね……ウェールズさま……」


 涙はこぼれない。

 瞳はうるまない。


 あの日、帽子を受け取った日に、涙は涸らしてしまったから。

 今はただ、乾いた心が引きつるように痛むだけ。


 でも、それでいい。


 私はこれからのトリステインを――母さまを守るために、これからを精一杯生きていかなければならなかったから。

 不安も悲しみも苦しみも、全て痛みに代えてしまえば、これからを微笑んで過ごせるだろうから。



 仇は、きっとゲルマニアが討ってくれる。

 私はそれを、特等席で眺められるのだろう。


 だからきっと、これでいいのだ。



 半ば言い聞かせるようにしながら、アンリエッタは先ほど侍女が出て行ったドアを見やる。


 馬車の用意はまだ出来ないのだろうか。

 どうせ逃れられない運命ならば、早く片付けて楽になってしまいたい……。


 どこか何かが狂った"待ち遠しさ"の溢れたローテンションで、アンリエッタは扉が開く時を待っていた。



 ――だが、



「殿下! 殿下、大変でございます! 一大事にございます! 親善艦隊が!」



 ドアを蹴破るような勢いで部屋に飛び込んできたのは侍女ではなく。



「我らが艦隊が、アルビオン艦隊の攻撃によりボルドー軍港へと撤退させられました!
 損耗2割、司令長官ラ・ラメー伯の生死不明!
 ただいま大臣と幕僚各位に緊急招集を掛けております故、殿下も取り急ぎ会議室へお急ぎください!」



 青白い顔で非常事態を告げる、息堰切らした翼虎マンティコア隊隊長であった。









Fate/vacant Zero

第二十八章 心名残りひめたねがい







 時は冒頭より二刻ほどをさかしまに廻り、空はラ・ロシェールの山々とタルブ草原の境界線上。

 トリステイン空中艦隊が、神聖アルビオン共和国政府よりの来賓を迎えるべくそこに停泊ホバリングしてから、かれこれ一刻半が過ぎ去りつつあった頃のこと。


 アルビオン艦隊接近の報を受けた艦隊旗艦メルカトール号の後甲板にて、右の頬からこめかみにかけて大きな傷を持つ小柄な初老の男――艦隊司令長官――即すなわちトリステイン空軍の総司令たるラ・ラメー伯爵は、遠く上方より訪れようとしている、ようやっと姿を現した巨体に目を向けた。



「あれがアルビオンが誇った旗艦、王室ロイヤル・ソヴリン級一番艦……そしてその艦隊、か」


 徒党を組んで現れた白のアルビオン艦隊を群雲に喩たとえたならば、それ・・を喩えうるは白の衣せきらんうん以外にないだろう。


 僚艦の全てを蟲の群かなにかと見紛わせる程に、見る者の遠近感を狂わす巨体。

 何かの冗談かと問いただしたくなるほど長大な、甲板にそびえる二連の主砲。

 一度ひとたび放てば目に見える全ての大地に砲火弾雨くだきのあめをもたらすだろう、ヤマアラシをひっくり返したような数と姿の艦底砲台群。


 そして、あまりの巨体ゆえに黒くくすんで目に映る白の塗装が、艦ふねの印象をより重いものへと禍まげている。



 姫殿下とゲルマニア皇帝の結婚式に参加する大使が――アルビオン貴族議会の議長クロムウェルと数人の閣僚たちが――あの艦隊に分乗しているはずだ。



「王政時代のあの艦を見たことがありますが……記憶にあるものより二周りほど大きくなっているような気がしますな。
  後続の戦列艦が、まるで渡り鳥のようですぞ」


 ラ・ラメーの隣に佇む艦長フェヴィスは、苦々しげな面持ちで鼻を鳴らす。

 苛立ちを隠そうともしていない彼は、いまこの瞬間にも自らが空軍の所属であることを心の底から呪っているほど、大のアルビオン嫌い……もとい、解放同盟レコン・キスタ嫌いであった。



「……ふむ。戦場で出くわすことのないよう、祈りたくなるな」


 ラ・ラメーはこの一刻ほどで鍛えられたスルースキルを用いつつ、堂に入った動きでこちらへと近づいてくる頑健なアルビオン艦隊の陣容と、自らが率いるトリステイン艦隊の貧弱な陣容を見比べ、自虐的にそうこぼす。


 艦の数、砲門の数、船足の速さ、そして統率力。

 いずれを取っても、二回り以上は差がついてしまっているように見える。


 もはや自分から喧嘩を売るなど、以ての外であった。



 そうして自嘲している内に、アルビオン艦隊はトリステイン艦隊と舳先を同じくしていた。

 その帆から流された旗信号を、こちら側の信号士が読み取る。

 曰く、

【 貴 艦隊 の 歓迎 を 謝 す アルビオン 艦隊 旗艦 ЛL эe ξx иi нn гg тt а уo нn 号 艦長 】。



「艦長名義での謝辞だと?
 こちらは提督を乗せていると言うのに、なんともコケにされたものですな」

「よい。
 あのような艦を与えられたのだ、凧ふな乗りであれば世界を我が手にしたなどと誤解しても仕方のないことかもしれん」


 二人揃って溜息を吐く。

 仕方は無いかもしれないが、それでも腹は立つものだ。



「……返信だ。
 【貴 艦隊 の 来訪 を 心より 歓迎 す トリステイン 艦隊 司令長官】、以上」


 ラ・ラメーが苦さを滲ませながらも号を発し、傍らの仕官が復唱し、さらに帆に張り付いている兵がそれを復唱して、信号を流して二秒。



 天球の果てからでも耳に出来そうな轟音が、向かいを航はしる巨艦から響き渡った。





 空砲れいほうの残響居残るアルビオン艦隊旗艦レキシントン号、その後甲板にて。

 無事その艦長となったボーウッドは、もはや習慣になりつつある今日何度目かの溜め息をたっぷりとぶちまけた。


 それと言うのも――



「どうした艦長。なぜ弾を込めんのだ?」



 ――今のこの艦には、空のАБВいろはたる礼砲すら知らない《上官》が居座っているためである。



「何故、と言われましても、これは礼砲です。
 まずは空砲を撃ち敵意のないことを示す、空軍式の作法ですよ」


「私は王家の犬なぞに払う敬意は持ち合わせておらぬ。
 構わんから、すぐに弾を込めたまえ。
 この艦フネは長射程の新型砲を積んでいるんだろう?」


 無茶苦茶を言ってくるこの傍らの《上官》に、ボーウッドはこめかみを押さえたくなる腕を胸の前で組んで抑え込んだ。



 《上官》の名は、男爵サーヘンリー・ジョンストン。

 クロムウェルの信任厚い貴族議会議員であり……ついでに・・・・今回の『親善訪問』の全般指揮を執り行うら・し・い・艦隊司令長官である。


 妙な部分にアクセントがあるが、仕方が無いことと思おう。


 如何せん、ジョンストン男爵は、政治家なのである。

 彼は実戦の指揮を執ったことなど一度も無いのだ。

 空の法律を知らない輩に、空軍の指揮など執れるはずもないだろう。


 ボーウッドはクロムウェルにそう進言したかったのだが、その肝心のクロムウェルと顔を合わせられたのはロサイスでのただ一度きりだ。

 あの一度以降、クロムウェルがボーウッドの許を訪れたことはない。


 この艦隊に乗り合わせている『国賓』は、ジョンストン男爵ただ一人であった。



「男爵サー、お言葉ですがいかに新型の大砲といえど、射程限界で撃ったのでは当たるものでは当たるものではありません。
  最大射程は、あくまでも"届く"だけの限界距離なのです。
  初めの砲撃を外してしまっては、奇襲の意味が……」

「ふん、これだから軍人はいかん。頭が固い。

 いいかね?
 いまこの艦には、閣下からこの私に預けられた兵が乗っておるのだ。
 それも、この後すぐにこの辺りを制圧せねばならん兵を、だ」


 あとは解るな? と言わんばかりに見つめてくるジョンストン男爵。



「さあ艦長、弾を込めたまえ。
 このままだと連中に近づきすぎてしまう。
 それではいかん。怯えで兵の士気が下がるからな」


 話にならん。



 ボーウッドは、また大きく溜め息をついた。

 出港以来この男爵は、あの手この手でボーウッドに『100%の安全』を要求してくるのだ。


 先ほどの送辞を送る前にもこの調子で、最大射程距離に入った途端に「弾を込めろ」などと言い張ってきたほどである。

 安全を優先して作戦がおざなりになっては元も子もないばかりか命すら危うくなるのだが、どうやらこの上官はそれを理解していないらしい。

 要求が三回を越えたあたりからまともに聞くことを放棄しているボーウッドは、態度に出すことなく今回もガン無視した。


 したのだが。

 愚にもつかない遣り取りをしている間にこちらからの礼砲は撃ち終えてしまったらしく、気付けば兵たちも命令を求めてボーウッドの方に目をやっていた。


 ――作戦、開始。


 自らの内でそう呟き、裡なかみを"軍人"へと入れ替えたボーウッドが艦隊・・に指示を出す。



「左砲戦、準備」

「左砲戦準備、了解Я!」


 奇しくも男爵と同じ命令になってしまったが、いまのボーウッドはそれを気にすることもない。

 政治も、人としての情も、卑怯な作戦への反発すらも放棄する、忠実なる一本の剣。

 それが今までの彼を形造ってきた、"軍人"の器だった。



「そう、それでいい。先手は必勝に繋がるからな」


 だからいま、こうして男爵が満足げに大きく頷いていても、知ったことではなかった。



 もっとも、いらん命令を飛ばし始めたらすぐにでも黙らせられるよう、杖は抜き身で手に提げていたようではあるが。


 命令系統に支障をきたさないよう、との配慮らしい。

 命令系統の維持の為に仮とはいえ上官を黙らせるという配慮が軍人らしいかどうかは……この際、置いておこう。





 閑話棄却なにはともあれ。


 ボーウッドの命を受けたアルビオン艦隊は、その運動を均いじしながらも、前代未聞の"親善訪問"の準備を進めていく。

 長砲に火の薬弾ほうがんを、操舵士の手の届くところに大量の風石を、心の内に戦いの覚悟を装填し、合図を待つこと数十秒。


 左舷向こうを併進しているトリステイン艦隊から、合図の号砲れいほうが上がった。



 斯くて"親善訪問せんそう"の幕は開く。







「うん?」


 耳を砕かれそうな爆音を上げながら答砲を放っている、メルカトール号の艦上。

 フェヴィスは、変わらず右舷方向を航ゆく威風溢れるアルビオンレコンキスタ艦隊の中に、そぐわぬものを見つけた。


 ハルケギニアの空中戦艦であれば必ず一隻は積載している、『飛行フライ』の魔法で飛ばす緊急脱出用の小凧ボート。

 艦の陰に隠れたのかそれはすぐに見えなくなってしまったが、確かにそれがアルビオン艦隊の最後尾を航ゆく小さな――といってもメルカトール号に匹敵するサイズではあるが――巡航艦の側に、ひっそりと浮かんでいたのだ。



「何か、あったのか…?」


 気に食わない相手とはいえ、一応相手は仮でも客人、国賓である。

 万一トラブルでもあったなら、こちらで曳航するなり、少なくともそれが必要かを尋ねる程度の義務が生じる。

 小凧ボートが緊急用のものであったことがどうにも気に掛かったフェヴィスがそれを尋ねるべく、マストの信号士の方を見上げた時。


 丁度、七発目さいごの礼砲を撃ち放った瞬間ときだった。



 アルビオン艦隊最後尾の巡航艦が掲げる大きな帆が、礼砲にも劣らぬほどの爆音とその音に見合った突然の爆発によって、根元からへし折られ宙に舞った。


 一瞬の間を置き、帆のあった辺りが内より弾け。



 その船体は、前と後の真っ二つに千切れ飛んだ。



 メルカトール号艦上の誰もが、身動きを忘れた。


 何事だ?


 あまりにも唐突な事態に、それ以外の思考を行えた者は居らず。

 ただ呆然と、地上へ落ちていく艦だった二つの残骸と折れたマストを、多くの者が目で追いかける。



 そんな中、レキシントン号の旗手より信号が流された。

 放心気味ながらも目はレキシントン号に向け続けていたメルカトール号の旗手が、やや人形的ながらもその内容を読み上げる。



【ЛL эe ξx иi нn гg тt а уo нn 号 より トリステイン 艦隊 旗艦 へ 
 ХH оo бb аa рr тt 号 砲撃 せし 貴 艦 意図 説明 せよ】



「砲、撃だと? ……そんなバカな」


 ラ・ラメーが唖然として呟く。

 フェヴィスもまた、言葉には出来なかったが同意見を心中に溢していた。


 なぜなら、ホバートと呼ばれるあの艦は、艦隊最長射程を誇るこのメルカトール号の射程圏より外に浮かんでいるのだ。

 加えて、高低はあちらの方が50メイルばかり高い。

 たとえ先の礼砲に実弾が万が一篭められていたとしても、その弾はホバート号とやらの遥か手前で失速して大地したに落ちているだろう。



 ――では、なぜあの艦は砕けたのか?



「返信しろ! 【我 艦隊 砲撃 答砲 実弾 非ず】!」


 帆に怒号を飛ばすラ・ラメーを横目に、フェヴィスは考えを巡らしていた。



 先ほど見かけた小さな凧ボート。

 届くはずのない砲弾。

 内から弾けるようにして吹き飛んだホバート号。


 これらが意味するものは、何なのか。


 それは――



「答信来ます!

 【先刻 砲撃 空砲 非ず 我 艦隊 貴 艦隊 砲撃 へ 応戦 せんとす】!」


「馬鹿な! ふざけたことを!」


 ラ・ラメーの叫びと同時、アルビオン艦隊の全ての砲が一斉射された。



 ――予め計画されていた、作戦行動。



 確証は無い。

 無いが。



「この距離で、大砲が届くのか…!」


 たった今、メルカトール号のマストを打ち折り、側面に大きく孔を開けた、アルビオン艦隊の砲弾。



 そう、この距離は我々トリステイン艦隊の"射程圏外"であり、かつアルビオン艦隊の"射程圏内"なのだ。


 その事実が、普段のフェヴィスならば言いがかりにしかならないと決定付けるだろう思考の結果を、この時、この相手、この状況に限って、確証あるホンモノへと変化せしめた。



「提督、我らはアルビオンに嵌められたようです!
 艦隊に反撃の指示を!」

「馬鹿を申すな艦長!
 アルビオンとは、不可侵条約を結んでおるのだぞ!?」

「条約など、向こうから放棄したも同然ではありませんか!
 先ほどの艦が吹き飛ぶ前に、脱出するボートをこの目で見ました!

 これは、間違いなく明確な軍事作戦です!」



 この瞬間、ラ・ラメーは迷っていた。


 彼はこの今の今までの一連の流れを、自艦隊が誤射した礼砲の起こした損害によるもの、事故によるものだとは信じきれなかった。

 かといって、このような卑劣な作戦行動を執るほどの非常識者がいるとも思えなかった……否、思いたくなかったのだ。

 加えて、ほんの先ほどまで当の相手の批判を雨霰とばらまいていたフェヴィスからの報告であるという点が、ラ・ラメーの心に暗鬼を連れ込んでいた。


 時間が許すならば哨戒の兵にでも確認を取りたいところなのだが、そんな余裕もないだろう。

 こうして思考を巡らす間にも時間は刻一刻と過ぎ去ってゆく。


 フェヴィスの報告が真実であるなら、この空域は既に戦場の中心と化しているのだ。


 なれば、これ以上の対応の遅れは即ち――



「提督、事の真偽は後です。
 今は取り急ぎ御命れ「第二射、来ます!」っ、提督!」



 ――明確に死を招く。



「っ何をしている、各艦任意に防壁を展開せよ!
 少しでも多くの砲弾タマを叩き落せ!
 これ以上無防備にしていては撃墜うちおとされるぞ!」


 反射的に命令を紡ぐだけ紡ぎだしてから、ラ・ラメーは悟る。


 ああ、やってしまったと。

 やられてしまったと。

 既に抜き差しならない事態にまで、事は進んでしまっていたのだと。


 メルカトール号の隣に浮かんでいた、ブルージュ号の各所から火が生じる。

 どうやら、第二波を防ぎ損ねたらしい。


 彼は、事此処に至って覚悟を決めた。


 放たれた弾は、砲に戻りはしない。

 砕き砕かれた船は、二度と浮き上がりはしないのだ。


 なれば、勝てない戦を止められぬとあらば、後はもはや最終的に負けていない事を第一に、今この瞬間に負けていないことを第二に考える。

 彼、エリック・ド・ラ・ラメーはそういう性質タイプの軍人だった。


 そして。



「さて。いかがしますか、提督?」


 今、怒りの牙の穿ち先を見つけてしまったフェヴィスは彼の部下であり。



「――提督? なにを――」


 ど。とさり。と。

 霧に包まれ倒れるフェヴィスを受け止めた彼は、その上官であった。



「――」



 一息。


 その間を持った有情の軍人ラ・ラメーは、この艦上全てに届く太い声で号を発した。



「これより、撤退行動に移る!
 メルカトール号各員は艦隊各艦へ分乗し、命令を伝達せよ!」


 それは、旗マストを失ったがための非常手段。

 作戦は至極単純大雑把。



『各艦は全速を以って戦闘空域を離脱。
ボルドー軍港にて応急再編のち分散反転。
アルビオン艦隊へ夜襲を掛けよ』。



 要約するなら、『この場は逃げて奇襲せよ』だ。



 ラ・ラメーは彼我の戦力比を埋める手段を、これ以外には考えつかなかったのである。

 それに答えて船の各所からは唯の一声、力強く一声。



『『『Я』』』



 ただそれだけを返し、メルカトールの乗組員たちは次々に空へと身を預けていく。

 その中でラ・ラメーは、よく見知った一人の兵を――かれこれ20年来の付き合いになる操舵長を呼び止めた。



「Я。どうなさいました、提督?」

「うむ。すまんが、今回もよろしく頼む」


そう言って意識の無いフェヴィスの身を差し出すラ・ラメー。

その姿に操舵長は、呆れを多分に含んだ溜息を吐く。



「……。ひょっとして久しぶりのアレをやる気ですかな?」


「うむ、その通り。
 アレだよ、操舵長。
 この艦の風石は足りそうかね?」

「充分に。
 しかし枢機卿にどやされますよ? またか、ってね」


「なに、前は艦に損傷が無かったのが拙かったのだ。
 これぐらいにボロボロになっておれば、言い訳は幾らでも出来ようよ。

 そんなことより――」

「ああ、その先は言わんでください。
三度目ともなれば流石に分かりますよ。

 『後の事は艦長に任せると伝えておいてくれ』でしょう?」


 Яだ、とラ・ラメーは苦笑する。



「んなことより、毎度のことですが提督は生きて戻る努力をちゃんとしてください」

「Я、だ。
 しかし、相変わらず君は口が悪いな」

「なに、それこそいつものことでしょう。

 さ、私ももう行きます。
 それでは提督――Лэс синк лэттрс三度目の幸運が訪れんことを!」







 二人が飛び立ち、ラ・ラメーただ一人となったメルカトールの艦上にて。


「だからその別れ言葉は止せと……相変わらず、聞こえてはおらんか」


 この十数年。いや数十年か。

 聞き流され続けた苦言を漏らしながらなお苦笑をこぼす彼は、懐から愛用の水煙管を取り出し火を灯す。

 そうして一服しながら、敵艦を見据える。


 あまりにも不謹慎かつ軍規違反なのだが、これこそ彼がまだ平士官であった頃から変わらない、彼流の"スイッチ"の入れ方なのである。

 まあ、当時は単なる安葉巻だったが。



「ふむ。こうしていざ会戦だ……となって見れば、随分と久方ぶりのはっきりした外交戦だな。
 ランスの会戦以来だから、丁度十年になるのか」


 その間に小競り合いばかりを繰り返していたトリステイン軍と、曲がりなりにも国を二つに割った戦いを生き抜いたアルビオン軍。


 ……我が方は、勝てるだろうか?

 勝ちの目は限りなく少ない。


 錬度も、数も、兵装も。

 目があるかどうかすら怪しい程に、差がついてしまっていた。



「生きて帰れたら、鈍った錬度だけでも取り戻させねばならんかなこれは……」


 その為の労力を考えると気が遠くなりそうだったが、いかんいかんと気を取り直す。


 何せ、その艦隊が逃げ切れるかどうかは、この後の自分の行動に掛かっているのだ。

 気を抜いてはいられない。

 さて、とラ・ラメーは腰を入れなおし――甲板に積まれた風石の山へと、おもむろに手を突っ込んだ。





「奴等もようやく動き出したようですな」


 三度目の砲煙が舞うレキシントンの後甲板、ボーウッドの傍らで”彼”は呟く。


 彼は上陸作戦全般の指揮を執るべくジョンストン男爵と共に送り込まれた、神聖皇帝クロムウェル親衛隊の一人である。

 彼も、そして恐らくはクロムウェルも、名ばかりの司令長官ジョンストンに如何程のことが出来るとも思ってはいないのだ。



「の、ようだな。
 おまけにどうやら、向こうは逃げの一手を打ってくれるらしい。
 ありがたいことだ、秘薬にも、弾薬士の精神力にも限りというものはあるからな」


 これから間を置かずに上陸作戦を始めねばならないというのに、ここでへばられでもしてしまっては目も当てられない。

 このような奇襲そのものを忌避していることもあって、ボーウッドは安堵を多分に含む一息を溢した。


 これならば、敵が射程圏外に出るまで軽くばら撒く程度で上陸作戦へと移行できるだろう――。


 そう当たりを付けるボーウッドであったが。



「……撤退ですと?」



 何かを訝しむような彼の様子が、その想定に待ったをかけた。



「どうした子爵。何か、思い当たる節でも?」


 子爵と呼ばれた彼は、渋い顔でそれに答える。



「ええ。私が向こうに属していた時点では、トリステイン艦隊司令の椅子には、ラ・ラメー伯爵という人物が座っておりました。

 艦長は、十年前に勃おきたランスの会戦をご存知ですかな?」



「十年前というと……トリステインとゲルマニアの国境地帯で起きた、両国間の緊張状態を一気に緩和したという戦術戦か。
 史上稀に見る激戦で、フランクを名乗っていた頃のトリステイン王国からゲルマニアが独立した時の大戦にも匹敵する凄惨さだったと、アルビオンにまで伝え聞こえていたな。

 確かその戦果は――」



「両軍壊滅。

 ただ、今となっても実まことしやかに囁ささやかれる噂がトリステインにはありました」


「噂だと?」

「それが……」





「……それは、流石に冗談の類だろう?」


 『噂』を一通り聞き終えたボーウッドは、眉間を揉み解しながら呆れ声をあげた。



「ええ、私もそう思って一笑に付しておりました。
 ですが、ある程度の年嵩を経ている軍人、とりわけ30から40の年の……かの戦に参加していたであろう年頃の将兵は、皆一様にその苦渋い様相を崩さなかったのです」


 それは即ち、噂が噂には止まらないという証左ではなかろうか。



「それが事実で、その男が今、かの艦隊の長官をしている?
 笑えない、あまりに笑えない冗談だ子爵。
 気を緩めてなど居られんぞ。少なくとも――」


 ボーウッドは一旦言葉を切り、眉を顰ひそめて艦上をねめつける。


 トリステイン艦隊が後退を始めて程無くした頃から、レキシントン号の艦上では「アルビオン万歳! 神聖皇帝クロムウェル万歳!」の声が飛び交いつつあった。

 今こうして耳に出来る声量や声質の様子から察するに、過半数の乗員がその唱和に加わってしまっているようだ。

 主体になっているのは上陸本隊だろうか?



 かつて空軍が王立だった頃には、戦場に敵が残っている状態で『万歳』を唱える輩なぞ居なかったものだが。

 これが時代というものだろうか。



 最初に声を張り上げた大馬鹿者の声が司令長官ジョンストンの声質ものに酷似していたような気もするが、これはもう考えたら負けだ。


 一々《この程度のこと》に目くじらを立てていては胃が持たない。

 諦めたわけではないが。



「――少なくとも、我々二人だけでも見張りを続けるくらいはしておかねば。
 緒戦で艦隊殲滅などという事態が洒落にもならなくなりそうで怖い。

 ……ぬ? こら、アストリア号!
 ヒューストン号の影に入っているぞ! 気をつけろ!」

「先が思い遣られますな、艦長。


 ――――――――――――――――――――――――――――――。


 艦長。時に、艦長?」


 相槌を入れた彼が、少しの間の後に妙な呼びかけをしてきた。



「うん? どうした子爵」


「私の目は、おかしくなったのですかね。
 そうであればとてもこの上なく嬉しいのですが」


 柄にもなく緊張しているのか、どこか浮ついた声を上げる彼の顔を、怪訝気に眺める。



「……?
 なんだ、ちゃんと本題を言いたまえよ子爵。気になるじゃないか」

「では。
 ……艦長。艦長には、あれは何に見えますか?」


 何やら要領を得ない彼はそういうと、先ほどトリステイン艦隊が引き上げていった方角を指した。

 ボーウッドがその指の先を目で追うと、その先には、既に芥子粒よりも小さくなって蠢くトリステイン艦隊と。

 それを背景に背負った豆粒大の……



「……艦に見えるな。こちらに舳先を向けているようだ」


「艦長にもそう見えるのならば、幻覚の類ではなさそうですな。
 あと覚え違えでなければ、あれはトリステインの旗艦のようにも見えますが。
 いかがです?」


 なるほど確かに、その硝子玉大の艦には帆がなかった。

 現れた方向と合わせて考えれば、


「見間違えではなさそうだな。
 まず間違いなく、あれはトリステイン艦隊の旗艦だ」


「やはりそうですか。
 それと気のせいであってほしいのですが、何やら見る見るうちに大きくなってまいりましたな」


「いやいや違うぞ子爵。

 あれは大きくなっているのではない、近付いてきているのだ。
 かなりの速度でな」


「なるほど」































!などと言ってる場合ではなかった





「いかん! 艦長、急いで艦隊に迎撃命令を!」

「言われなくとも分かっている!
 全艦に通達、接近してくるトリステイン旗艦をげ――Цеа! やかましい、万歳はもういい!
 黙れ、命令が伝わらん――もういい、誰でもいいからあれを撃ち墜とせ! 衝突するぞ!」





「ふむ。石が足りるかどうか、不安だったが……何とかなりそうだな」


 帆をなくしたままアルビオン艦隊左翼をめがけて突撃するメルカトール号艦上で、ラ・ラメーは風石を握っては砕いている。


 帆がなければ凧ふねは前には進めない。

 空を知らない者にはそう考えるものも多いし、実際に凧に乗っている者の中でもそう考える者はかなりの数に上るが、別にそんなことはないのである。

 一般的に知られる凧ふねが推力を得る手段は、大きく二つある。


 一つは凧を『浮遊レビテーション』させた上で帆を張り、後方からの風を受けて進む手段。

 小回りは効かないものの精神力や風石の消耗がかなり少ない――風石を持たないラインクラスの者メイジでも、軽い凧なら数分程度は普通に保てる程度――ため、長距離を航行する際はもっぱらこの手段が取られる。


 もう一つは凧を『飛行フライ』させ操舵士が直接的に凧を操る、言わば力業だ。

 超を5つ付けても足りないほど損耗が激しいが、慣性惰性その他運動物理法則諸々をある程度無視した急加減速を伴う、神秘的……というかある種の超常的な機動力をもたらす手段である。


 こちらの方法の場合、帆などあっても邪魔でしかない。

 帆を立てたままこんなことをしては、鉄の壁に正面衝突するような空気抵抗で帆柱ごと凧体せんたい崩壊するだろう。


 それでなくとも、風石を持たぬラインでは一瞬、同じくトライアングルでも数秒で精神力を根こそぎ持っていかれて昏倒するような燃費の悪い手段である。

 この手段のみで航行するとなれば、風石がそれこそ千万単位で必要になるだろう。

 毎秒一個くらいのペースを保てれば上質な方なので、千個で16分、万個で1と四半刻2じかんはん程度が限界だろうか。


 少なくとも、万の風石を戦艦に積載していては足の踏み場もないのは間違いないので、どの道短時間しか持たないのは間違いない。

 この手段は、基本的には緊急回避専用だということである。



 ――では、ラ・ラメーはどうやって艦を航行しているのか?



「風石の『飛行フライ』で一瞬加速し、風石の『浮遊レビテーション』によって高さを取り戻しつつ惰性で進む。
 言葉にすればただそれだけの単調な作業だが、この楽器を奏でるような躍動感リズムと緊張感スリルは幾つになっても変わらんものだな」


 撃ち出された弾を横滑り気味に回避・・しながら、ラ・ラメーはさらに彼我の距離を詰める。

 それは彼が操舵士として初めて戦場に出た時に閃き、あまりの大損耗により軍所有の風石が枯渇しかけたことに眩暈を覚えた上官の手で制裁される破目となった特殊航法。


 ラ・ラメーは今に至るまで、その時と10年前の二回を除いてこの航法を用いていない。

 使えば精神力枯渇による昏倒は必至、直下地震より幅の大きな上下震動にまともに同乗できる乗員も再起可能な艦体も皆無という片道切符過ぎる航法だが、速度と機動性を保ったまま少しでも長い時間を余裕をもって航行可能な、いいとこどり(しようとした)航法なのである。



 そうして相互距離が300mメイルを切り、三度放たれた砲弾を上に飛んで艦の腹で避けたところで――風石が尽きた。

 100を数える風石がメルカトール号には積載されていたはずなのだが、この航法の風石消費方法は『飛行』法を基本とするのである。

 1秒1個の消費量が5秒1個程度になってはいるものの、それでも足りない。

 しかも加速や回避行動を取る都度に風石は消耗されるのだ。

 圧倒的に風石が足りないことに変わりはなかった。


 とはいえ――



「ここまで届いたのならばもはや瑣末事、大した問題ではない……か……!」



 後はただ慣性だけで空を往くメルカトールの甲板を、薄れかかる意識の中で必死に蹴飛ばし駆けながら、ラ・ラメーは一つの呪文を詠唱する。


 艦の彼我距離が50をも切ったところで、ラ・ラメーは甲板の端ハンドレールから空へと躊躇いなく跳び出し、目標へと杖を振るった。


 そのまま振り向くことなく重力に身を任せるラ・ラメーの背後。

 メルカトール号はアルビオン艦隊左翼に浮かぶ輸送艦・・・サラトガ号の帆柱に艦体中央をブチ抜かれ、その8年に亘わたる生涯を終えた。


 己の齎した戦果も、己が駆っていた艦の最期も、その目で認識することなくただ大地へと近づくラ・ラメー。



「1隻半……運がよければ3隻か。
 それでようやく六分の一……戦力比は数で4:7、質で……ふむ。
 ちらと見えたあの様子ならば、質は存外に五分やもしれんな」


 後は、フェヴィスが冷静に指揮を取れるかどうか。

 それを側で見られないのがいささか残念だが、仕方のないことか。



「図らずも、十年前の焼き直しになってしまったか?
……負けてくれるなよ、フェヴィス。今度こそは……」



 今この瞬間にも空を滑り、精神力たましいのからを綺麗さっぱりと使い潰した後の、久しぶりの絶望的倦怠感ねむけに襲われているラ・ラメーだが、それでも詠唱を留めはしない。

 頭痛に眩暈いしきこんだく、動悸に息切れしんぱいふぜん、血涙に血の衣を後に引きながらもうさいけっかんはれつ、それでも約束の為に彼は唱える。


 ただ一度。わずか一度の速度軽減ブレーキを掛けるだけ。


 生きる為のその一度レビテーションを唱えきった彼の体が一瞬だけ浮かび、集中が途切れてまた滑おちる。

 体も意識も落ちゆく中、遠ざかる彼の意識が最後に把握したのは、ぼやける視界に映る一面の深すぎる緑―――











「……慌てるな馬鹿者!
 敵は先の一隻だけだ、もう残っておらん!  撃ち方やめ! ……処置班、被害を報告せよ!」


 混乱するレキシントン号の乗員たちに矢継ぎ早に指示を出すボーウッドは、士爵の手によってすぐそこに倒れ伏している大馬鹿者ジョンストンを今すぐにここから蹴落としたい気分で一杯だった。


 万歳の連呼によって対応が遅れている間に、彼の艦は肉薄してしまった。

 その艦から飛び出してきた魔法使いメイジが放った……恐らく『炎弾フレイムボール』、の直撃を発射寸前の大砲に受けたヒューストン号が炎上墜落し、影にいたアストリア号が潰されまきこまれた。

 挙句、懐に飛び込んできた敵旗艦によって輸送船サラトガ号は物理的に直接船体を潰へし折られ、数多くの上陸兵たちと共に心中させられた。


 相手はただの旗艦一隻。

 その僅か一隻によって艦隊左翼は半壊、かつ上陸要員の四分の一を喪うというこの有様。


 ボーウッドは臍を噛むような面持ちで、先ほど聞かされたトリステインの噂を呟いた。



「単独でゲルマニアが張った包囲網の一角へ突撃し、ありったけの風石を一斉に起動することでその艦体ごと包囲網に大穴を開けた戦艦、か。
 あれだけ痛めつけられた艦ですらこの有様になるのだ。
 ただの噂と切って捨てていては、こちらの身が保たんやもしれんな……」


 そのぼやきに"彼"は言葉を返すことなく、ただ頷きで返した。

 さしもの彼も若干肝を冷やしたらしく、目蓋上を伝っていた汗を親指で拭っている。



「あまり間を置いては、艦隊が戻ってきてしまうな……仕方ない。
 子爵、竜騎士隊を率いて下の征圧を頼めるか?」

「承知。すぐ取り掛かりましょう」


 踵を返し、指揮下の竜騎士隊の元へ向かう彼の背中と揺れる後尾髪を頼もしく感じつつ、ボーウッドは艦隊へと命令を下し始めた。



「各艦に通達、輸送艦は上陸部隊を下に降ろす準備を始めろ!
 子爵が下を制圧次第、順次降下を開始するぞ!
 それ以外の艦は竜騎士隊の援護だ!
 先の様な失態は繰り返すなよ! ……返事はどうした!」



『ЕсYes сирsir!』



 今度こそ紛れもなく、アルビオン艦隊は一丸となって唱和した。



 未だ意識を取り戻さぬ大虚けジョンストンを除いて。

 まあ、起きていても困るというか邪魔なだけなのだから、何も問題はないのだが。







 さて、ここで時空を"現在"に戻そう。


 ここトリステイン王城イースの会議室では、宮廷や王都近郊を任地とする主要な文官武官が顔を付き合わせ、あまりにも突然のアルビオンの宣戦布告というこの非常事態に侃々諤々かんかんがくがくの火花を飛ばしていた。

 下記は彼の国より齎もたらされた文ふみの内容だ。



『この文は貴国艦隊の故ゆえなき砲撃により、我が親善艦隊の巡航艦一隻が撃沈せしめられし事実に抗議するものである。
 我ら神聖アルビオン共和国は自衛の為、諸君らトリステイン王国に対しここに会戦を宣言する』



 と、大方このような旨である。

 神聖皇帝クロムウェルの署名入りというダメ押し付のの宣戦布告文だ。


 先のラ・ラメー伯の艦隊より訪れた急使と入れ替わるように届けられたこの文ふみこそが、二刻よじかんという長時間に亙わたってこの会議を紛糾させ続けている火種であった。



「やはりゲルマニアにも使いを出すべきでは?
 かの戦力抜きでは、我らの兵員が徒いたずらに浪費されるばかりですぞ!」

「いや、今はアルビオン艦隊へ出した使者が戻るのを待つべきだ。
 いま事を荒立てては、彼らの努力が無になってしまう」

「そんな悠長なことを言っているこの瞬間にも、彼奴らは我らの民草を蹂躙しておるやもしれぬのですぞ!
 手遅れにでもなったらなんとする御積おつもりか!」

「口が過ぎるぞ! 今ならまだ、誤解が解けるやも知れんのだ!
 その機会を逃してしまっては――」


 と、老練の者と年若い者とに卓を挟んで分かれ、結論を出せない論争に明け暮れる文官たち。

 老練の者の上端には、座してただ瞑目し使者の帰りをじっと待つ枢機卿マザリーニの姿もある。



「……軍艦は2・3隻程度の小編成が出来次第、随時ラ・ロシェールの方に送り出せ!
 この際編隊の均衡性バランスは考えるな、武装があればかまわん!」


「鷹馬ヒポグリフ隊、集合完了!」

「翼虎マンティコア隊、全騎揃っております!」

「ぐりゅ、獅鷲グリフォン隊、集合しました!」


「よし、これで魔法衛士隊は全員だな。では各隊への命令を伝達する。
 三隊は別名あるまで王宮で待機。……だからと言って気は抜くなよ?
 使者が戻り次第、命令が下るやもしれんからな。

 ……以上だ。
 隊員に伝達後、お前たちはここに戻ってくるように。

 よいな?」

「「Я!」」「ゃ、Я!」


 と、いつどう事態が転んでも対処できるよう綿密着実に準備を進めている武官たち。


 ――それら会議室の全ての情景を目の当たりにしながらも、卓の奥の奥に座す花嫁衣裳のアンリエッタは、その何いずれをも目にしてはいない。

 彼女はただ呆ほうけたように、時折飛び込んでくる伝令兵ロクでもない報告を、どこか遠い国の出来事のように耳にするばかり。


 彼女の心は、凪の水面のようまったいらだった。



「それにしても遅い。使者の部隊はまだ戻らぬのか?」


 いつから彼女がこうなっていたのかは分からない。

 だが少なくともこの半月の間は、彼女の内はずっとこうだった。



「向こうはタルブだろう?
 風竜ならば、一刻半もあれば用件込みで往復できる距離のはずだが……」


 どれほど彼女の意にそぐわぬことがあろうと、どれほど彼女の想いを踏みにじらねばならなかろうと、すべて飲み下してでも彼女が微笑みを絶やせなかった……否、絶やさなかった理由。

 ただ一つの祷りの笑顔を絶やさずにいられた、不動の源泉であった。



 ……廊下を駆ける音が、遠く小さく段々とまた聞こえてくる。



 彼女が呆けていたのは、アルビオン艦隊撃墜の報それ自体に驚いたからなどでは断じてない・・・・・。

 唯一の望みが、苔を噛みにじるような思いで待ち望んだ願いが、手があと一息で掛かるところにあった結実みのりが、横合いから伸びてきた手に砕き潰されたがゆえの虚脱症状。

 彼女殻をはただかぶせ、それ続けるに陥っ意味はただけもはやだった失われた。



 ――入り口の扉が、勢いよく押し開かれた。



 アンリエッタのさて   視界に、左腕をそれでは血に染めたここで一人の兵士が問いかけを映った一ツ。



「ほ、告、申し上げます。
 アルビオン、艦隊へ赴いた、使者は、交渉中に不意を、つかれ死亡……、護え、の小隊は、本官含む2人、遺し全滅。
 ……彼の艦隊に、クロムウェル帝は、搭乗して、おらぬ模様。

 …………、敵・艦隊は、降下部隊・・・・による占領、行動を開始。
 交戦、したタルブ伯の生、死は不明。また、敵・竜騎士隊の内に――」


 その報告を耳にした長く強く押し込めたアンリエッエナジーはタがその意味を正しく解した時、彼女の、何らかの外的要因によって刺激を加えられた時水面の奥底で、はたして、大きな蛇がうねりを見せた何処へ進むでしょうか。?





 タルブの空に舞う、凶ツの竜群かげ。

 戦いを終えたそれらは、なお一群であることをやめずにゆるりと炎を撒き散らす。


 『征圧』を命じられた"彼"が率いる竜騎士隊は、彼を除く全員が火竜ドレイク……それも低酸素適応を済ませたアルビオン産のそれ……を駆っており。

 今作戦で彼らが拠点と定めたタルブ草原にあるその殆どの建造物は平民の居住区である。


 それ故か、"彼"らの迎撃にあらわれた竜騎士の数は、その四半数にも足りない極貧弱なものであった。

 加え、迎撃部隊の風竜も多少の訓練は受けていたとはいえ、"彼"の駆る風竜もまたアルビオン産なのだ。

 その速度と靭息ブレス――強風という名の壁――に散々に甚振いたぶられ攪乱かくらんされた迎撃部隊は、憐れ"彼"らに何の損害も与えることなく火竜ドレイクの炎により灰と消えてしまった。



 そうして迎撃部隊(と呼ぶのもおこがましくなってきた)を退けた"彼"ら竜騎士隊に残された当面の仕事は、居住区を更地にして敵が居ないか焙あぶるだけの単調な破壊活動どぼくさぎょうを残すのみ。

 "彼"の祖国ではあるものの、それは彼に躊躇いを喚起するような材料にはなりえない。


 邪魔だから消す。ただそれだけのことだった。


 たとえ民衆が破壊活動それに巻き込まれようが、我先にと森の奥へ消えていこうが、知ったことではない。

 民衆そのものが"彼"らの邪魔をすることなどはありえないからだ。

 奴らに"彼"らの邪魔をするにたる力など、



――俺にだって貴族の考えることなんかわかんねえよバカヤロォ!――



 あるはずもない。

 実に、どうでもいいことだ。

 一瞬脳裏を掠めたそれを無視し、"彼"は、再び杖を振るった。







 静まり返った会議室。

 己以外の視線の交錯点で一人、卓を両手で打ち、目が髪で隠れるくらいに顔を伏せ、真白いアンリエッタは立ち上がっていた。



「……ひ、姫殿下?」

「あなた方は、恥ずかしいとは思わないのですか?」


 先ほどまで論争していた年若い文官の一人の呼びかけを、彼女は一歩を踏み出しながら凍き捨てる。



「私どもの国土が脅おびやかされているのですよ。
 会議がどうの、条約がこうのと言う前に、まずやらなければならぬことがあるでしょう?」


 刻一刻と拡がる火の手に対して交渉など持ちかける者がいますか?


 大きくはない、だがよく通る声を朗々と響かせ、高踵ヒールを鳴らし、花嫁衣裳の裾を広げて、アンリエッタは入り口に向かって歩を進める。

 足取りは揺らぎなく、まったくの線を描いている。



「そ、そうはおっしゃいますが殿下……これは事故です。
 誤解から生じた小競り合いですぞ」

「事故? それこそ誤った解釈にんしきでしょう。
 先の報告にもあったではありませんか、交渉中に不意をつかれた、と。
 それすらもあなた方は事故の一言で済ませるのですか?」


「我らは条約を結んでおったのですぞ。
 彼らも頭に血が上っておるのでしょう、今一度使者を送れば――」

「死・者となって送り返されてくるのがオチですわね。

 もとより、彼らに条約なぞ守るつもりなどあったかどうか。
 礼砲で撃ち落とされた戦艦の経緯いきさつすら怪しいものですわ――Altus Aqua深き水よ Vulneris傷を Sanationis癒せ」


「……それはどういうことですかな?」


 閉じていた目をようやく動かしたマザリーニが、アンリエッタの方を向き直りながら尋ねる。


 アンリエッタは入り口に佇んでいた一兵卒に向かい立ち、杓杖を掲げて目を閉じている。

 兵士の傷は、既に無いようだ。ただ血に塗まみれているのみである。



「先ほどこの彼は、クロムウェル帝がかの艦隊にはおらぬとおっしゃいましたが……、今日、初めに城に訪れた急使は、撤退を始めたばかりの我らが艦隊よりの者でしたわね?」

「……ええ。然様にございます」



「では、その使いと入れ替わるように城を訪れたアルビオンの急使、彼の者がもたらしたク・ロ・ム・ウ・ェ・ル・帝・直・筆・の・抗・議・文・とは、いつ、どうやって書かれた物なのですか?」



「それは……」


 即ち、事故が予定通りのものであったという示唆。

 卓に着いている誰もが顔を見合わせ、言葉を失った。


 彼らの心は大きくざつに分けて二つ。

 己の不見識をなじる者。

 思った以上の才知を見せつつある王女の、普段とは違う何かにたじろいだ者。

 この二つの内、後者を見せた者を主に見据えながら、彼女はなおも言葉を続ける。



「あなた方は、何のために我ら王族が、貴族メイジがこうして民の上に君臨することを許されているとお考えなのですか?
 今この火急の時に、民の血が流されることの無いように守るため、ではなかったのですか?」


 マザリーニは、思わず顔を背けてしまった。

 アンリエッタへそうあれかしと教えたのは、他ならぬ彼自身だったから。


 他の文官たちも、彼女と目をあわそうとはしなかった。

 彼女が、何かとても眩しい物のようにその目に映ってしまったから。


 それらに対し目を細めるアンリエッタは、普段見せるモノとはまるで違う挑戦的な笑みに瑞々しい口元を歪めた。



「さあ。我こそはという方はいらっしゃいませんの?
 かのアルビオンに牙を剥こうという御方は。

 例え死すことになろうとも屈しはしない、そんな頼もしい御方はどなたかおられませんの?」



 無音。

 アンリエッタはぎこちなく、似合いもしない嘲りの色をにじませる。



「なるほど、これも仕方の無いことかもしれません。
 アルビオンは紛れもなく大国。
 真っ向より刃向かえば敗北は必至、敗戦の将ともなれば戦後責罪を問われることは免れぬ。

 なればここは、潔いさぎよく恭順隷属してでも命存ながらえるが得策と。

 ――そう考えてしまうことは」


 かちりと、少なからぬ者が憤りを見せ、それでいて多くの者が萎縮してしまう。



「姫様。言葉が「なれば私が率いましょう。
 あなた方はどうぞ会議をお続けになってください。
 平和的手段の行使のために」――姫様?」


 行き過ぎを咎めようとしたマザリーニの弁を遮ったアンリエッタは、そう宣言すると間を置かずに身を翻し、会議室を後にした。


 あまりの突然の行動に身じろぎさえ忘れた者たち。

 その内から近衛隊長が、マザリーニや武官たちが、一部の若い文官たちが順次追って駆け出して。


 後の会議室には、数人の年経た文官たちだけが残っていた。



「……どうする。我々も追いかけるか?」


 その内の一人が、誰にともなくポツリとこぼす。

 答える一人もまた、誰へと向けたわけでもなく言葉を落とす。



「……私たちが行って、何が出来るというのだ。
 そんなことに労力を使うくらいなら、私たちに出来ることをするべきではないか。

 我々にはその努力が無駄にならぬことを、祈ることしかできないのだから」






「誰ぞ、私の馬車を! 近衛隊!」

「全員揃っております。命令一つあらば、いつでも動かせるかと」


 やや遅れて後を追ってきたマザリーニたちは、追いついた宮の廊下でまたしても普段は絶対に見ることの無かった非常的光景に目を奪われた。

 ……姫は、これほどまでに能動的だっただろうか?と。


 だが、呆然としていたのは数瞬、それだけを持って彼らは硬直状態から復帰した。

 急がなければ、引き返しようのない所まで選択は推移してしまうのだから。



「姫様、お待ちを! 何処へ行かれるおつもりですか!」


 マザリーニを含む幾人かが、アンリエッタを押し留めようと立ち塞がる。

 だが、彼女はそれを意に介した風もなく押し除ける。



「決まっています。
 我らが民を苦しめる者どものいる戦場ばしょへ」


 何を当然のことをと、ちょっと散歩に、とでも言うような自然さで告げながら。



「貴女が戦場に出でて、いったい何が出来ると言うのですか! 戦も知らぬ貴女が!」


「戦を知りながらも手を差し伸べることのない貴方がそれを問うのですか」


 一蹴。

 膠にべも無く跳ね除けるアンリエッタは、ついに城の内庭へと姿を現す。


 彼女の目に飛び込むは、召集に応じた王家直下の三衛士隊。

 各々の幻獣を連れた彼らが、風を切らして敬礼する姿だった。

 そうして佇むアンリエッタの前に、彼女の馬車が牽かれてくる。



「御身は御輿入れ前の大事なお体ですぞ! 無茶をしてくださいますな!」

「Abscindo裁ち落としなさい.」


 一事ひとこと。


 ただのそれだけでパシャりと水の散る音が響き、アンリエッタの真白い婚姻衣装ウェドィングドレスは膝上から切り落とされ、裾が土に落ちる。

 振り向きもせずそれを為したアンリエッタは口元を若月のようにひん曲げて笑みを模かたどっている。



「少し短すぎたかしら。
 まあ、婚姻衣装がこの有り様では、すぐに挙式と言うわけには参りませんわね」

「「姫様!」」


 マザリーニらの声にはもはや耳も貸さず、馬車から独角馬ユニコーンを外したアンリエッタは、ひらりとその背に跨ると声を張り上げた。

 それこそ、城中に響くように。



「これより、私わたくしが全軍の指揮を執ります!

 目的地、ラ・ロシェール!」


 ざ、と袖と靴の音が響く中、アンリエッタは迷いなく独角馬ユニコーンの脾腹を蹴った。



「姫殿下に続け!」

「遅れるなよ! はぐれでもしては家名が泣くぞ!」


 引き絞り放たれた矢の様な勢いで一目散に城門へ駆け出す彼女に遅れるまいと、近衛三隊は各々の幻獣に慌てて飛び乗り、隊列もロクに気にせず後へと続く。

 その彼らの行く先に目を向けていたマザリーニが、茫然と天を仰いだ。



 彼とて、アルビオンの戦がもはや避けられぬ段に到ってしまったことには、朝の凶報の時点で薄々と感づいてはいたのだ。

 礼砲に撃墜されたアルビオン籍の艦、すぐさま飛んできた返す砲撃かたな……、怪しむにはあまりにも充分すぎた。


 だが、早かった。


 奴らの侵攻があまりにも早すぎたのだ。

 平和に奪われた錬度をもういちど奪り戻すには、一ヶ月という時間はあまりにも短か過ぎた。


 長く戦を続け疲弊したとはいえ、それに勝利した彼奴らの兵艦と潰やり会っては、勝てる気がしないのだ。

 だからこそ局所的な損耗は無視してでも、少しでも多くの時間が欲しかった。

 欲しかった・・・のだが――



「よもや、それで姫様に先手を奪られてしまう破目になるとは……私も年かな」


 それこそ、姫殿下が生来根っからの御転婆娘であったことすらも忘れてしまっていたとは。

 どうやら自分は、内外の政にばかり気を取られすぎて、政毒にすっかり染まってしまっていたようだ。

 姫様に言われるまで切り捨てようとしていた"局所"とて民であったことに気づかなかったなど。


 それは自分自身最も嫌っていたコトであったはずなのだが。



 いったい、いつ頃から自分はこうなっていたのだろうか。


 ゲルマニアと同盟を結ぶと決意した折か?


 はたまた、斃れられた先代に代わって政治に携わるようになった時か?


 それとも。10年前。

 あの大馬鹿者に今回の様に助けられた、あの――



「――卿。枢機卿!」


 呼ぶ声に、我知らず閉じていた瞼まぶたを開く。

 後を追ってきたらしい一人の文官メイジが、正面に立っていた。


 近い。



「卿。アルビオンとゲルマニアへの特使の件ですが、どうなさいますか?」


 事此処に至って、何を分かりきったことを聞くのかと嘆息する。



「……ゲルマニアへの救援要請だけでよい。
 あの生臭坊主めの腕は、どうやら己の版図よりも長く伸びてくる様ですからな。
 そんなバケモノのいるアルビオンなどに使者に出して、貴重な戦力をむざむざ目減りさせては、後世の笑い者にされてしまうわ。


 ――ああ、そうだ。誰か、私の馬を連れてきてくれんかな」


 きょとんと、周囲に残っていた者たちが顔を見合わせる。



「馬、ですか?
 かしこまりましたが……どちらへ?」

「何処へ行くかなど、決まっておるだろう?」


 マザリーニは身をかがめてドレスの切れ端を拾うと、それを左の二の腕へと巻きつけ、歯と右手で両端を結んだ。



「戦場へ。姫様に、戦争のやり方をご教授せねばなりませぬでな」





 
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