彼願白書
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逆さ磔の悪魔
シークレットボトム
前書き
新元帥を追い詰めるだけのクズエピソードです
「厚労省発の運動能力調査の一式は本日中にはブルネイに着く予定よ。明後日には文科省の学力調査、経産省の鎮守府設置による周辺の経済効果算出調査のデータ提出は月末の予定。ここまで資料詰めにしたら普通の鎮守府なら書類だけで潰れるけど……」
リノリウムの敷かれた長い廊下を早足で歩く男女の姿。
一人はメガネに角刈りの四角いエラの張った彫りの深い不機嫌そうな男。
もう一人はカーディガンと緩く巻いたストールを肩に掛けて、後ろをトコトコと付いていく左目を頬まで隠す大きな眼帯をした少女。
「まだ載せる。国交省と農水省がまだまだ弾丸を残しているからな。外務省と法務省に至ってはこれから更に質問状で水攻めにするつもりのようだしな」
「市ヶ谷は何をやってるのよ……こういうのを分別、整理してまとめてから渡してくるのが仕事でしょ?各省庁がバラバラに好き放題に投げ込んできてるなんておかしいじゃない」
「市ヶ谷と永田町をそれだけキレさせたということだ。元帥着任前からブルネイと魚釣島のせいで余計な仕事ばかりが増える」
苛立たしくぼやく男の眉間にはなかなか深い皺が寄り、ただですら彫りが深く四角い顔が余計に厳つくなっていることを、傍らの少女は指摘せずに胸の内にしまいこんだ。
「金城提督の尋問とブルネイの解体提案稟議を通してしまえば、こんないらん仕事で忙殺されることもなかったのに、魚釣島のハッタリ屋め……」
「今、ブルネイを潰しにかかるのは現実的じゃない。それを一番知ってるのは他ならぬ貴方じゃない。嘆いても仕方ないからとっとと片付けるわよ」
代わりに背中を叩いてせっつくことにした。
ただでさえ、暇という言葉が欠落した職場だ。
自分から積極的に仕事を片付けていかないと、息吐く暇もない。
「そうだな。霞、今日も終わりまで付き合ってもらうぞ」
「当然じゃない。晩御飯の時間のためにも、ガンガンやるわよ!」
霞、と呼ばれた少女はニコリと笑いながら、男の隣を付いていく。
その足取りは、少しだけ軽そうに見える。
実際、霞にとって仕事の忙しさはさほど苦ではないのだ。
もちろん度を超せば苛立つこともあるが、今はまだその段階にはない。
で、その苛立つ限度は割とあっさりと超してしまうのだ。
「やぁ、邪魔してるよ。三条河原新元帥閣下くん」
例えば魚釣島にいるハズの不倶戴天の敵の姿を見た時、とかに。
「こん、のっ……」
執務室の扉を開け、中に入って、来客用のソファで勝手知ったる態度で寛いで出迎えた壬生森の姿を見た瞬間に、抱えていた書類を落として飛び掛かるように右腕で殴ろうとした。
「クズ……ッギツネェッ!」
豹変、という言葉すら今の霞に追い付けない。
本当に一瞬の出来事だった。
霞は、なんら迷いや躊躇いなく拳を振り抜こうとして、横から握り拳を掴まれてそのまま抑えられた。
自分の握り拳を掴む手を見れば、そこにいるのは自分と同じくらいの背丈の白い髪に紅い瞳の少女。
掴む手を振り払おうとしても、ミシリと音を立てて握られている。
「いくら元帥の秘書艦でも、赤の他人に自分の提督をクズ呼ばわりされたら、さすがに苛立つわ」
「赤の他人?よく言うじゃない。アンタ達のその面の皮、どんだけ厚いのか剥いで確かめてもいいかしら?」
「へぇ、この右腕一本でやろうっての?今、アンタの右腕は文字通りに私の手中に握られてるくせに、吠えるじゃないの」
「腕一本の差くらいで調子に乗るんじゃないわよ」
霞が肩に掛けていたストールとカーディガンがずり落ちる。
下の服には、左腕の袖は通されているハズの腕がなく、からっぽの袖がたなびく根元、彼女の左肩から先はあるハズの腕がなかった。
「叢雲、そのくらいで。彼女もわかっているし、それでも割り切れない余りが、自分の胸の内だけではどうしてもどうしようもないのだ」
「ずいぶんと優しいのね」
叢雲が手を離したのと同時に振り払うように手を引き、霞は一歩下がる。
苛立ち歯噛みしているのが、露骨に口許を歪めていて丸わかりだ。
霞は最初から隠すつもりすらないのだろう。
「『蒼征』、貴方を私が召喚した覚えもなければ、貴方がここに来るアポイントメントもない。いったい、なんの理由があってここにいる。理由の如何では」
霞が肩から落としたカーディガンを三条河原は後ろからかけ直し、ストールをそっと巻いてやりながら壬生森を睨む。
「私がただ、ふらっと遊びに来たとでも?キッチンのひとつもないようなところに誰が好き好んで来るものかよ。どうせならこんな飴のひとつもなさそうなオフィスより食い物のひとつも出てくる酒場のほうに行きたいね」
壬生森はそう言って肩を竦める。
暗に自身の立ち位置を述べている壬生森に、三条河原は苛立った。
「ブルネイ寄りの立場のアピールはけっこう。アンタの行動は支離滅裂だ。表向きにはリバースド・ナインの件でブルネイを擁護しておきながら、紙爆弾をあちこちに飛ばして主だった全省庁から海軍への書類の絨毯爆撃を仕掛け、海軍内にもそれをブルネイに押し付けさせる流れを作った。普段なら内務省預かりから防衛省経由で海軍に届くものまで全て直送になっている辺り、内務省も同調しているのは明らかだ。アンタ、どこに立っているんだ?」
「私の立つ場所はいつも、私の場所だ。私がやっていることは、出来るだけ多くの者が溜飲を下げるだろう妥協点を提案しただけに過ぎない」
「それで、こことブルネイを書類で溺死させるのが妥協点だったと?」
「この程度で溺死するものかよ。内務省の一部署程度の事務処理能力があれば片手間であっさり片付くものだ」
ひどい言い種だ。
この狐の身勝手さと偏狭さには閉口する。
普段からギリギリの量の事務処理に追われているところをパンクさせようとしているのを、自覚していないらしい。
「『蒼征』、それはブルネイやここが普段は暇だとでも?貴方のやっていることは」
「泣き言を言えるとでも?それを他の省庁に聞かれでもしてみろ。書類の束が倍の厚さになるぞ」
壬生森の目は、明確にこちらを睨んでいた。
「今回の一件、内務省も政府中枢もオカンムリだ。何しろ、そっとしておけば吐き出す利子で暮らせる豚の貯金箱を外から勝手にトンカチで叩き割った挙げ句に中身の元本を持ち逃げしたんだ。君達への制裁が書類詰めと今回の災害特別予算の否決で済んでいるだけ感謝してほしいね」
まるで、それが自分の手柄だとでも言わんばかりに語る壬生森の態度は、なかなか苛立たしい。
海軍の鼻摘み者、魚釣島に引き籠ってることしか誉めるところがない、だの言われる性悪狐の姿がそこにあった。
「最初は内務省も息巻いていたのだ。『ブルネイの首をスッ跳ねる方法を考えろ!迅速に!見せしめになるように!』とね。もちろん、やれば出来るだろう。ただ、やったらどうなる?」
ざっと考えただけでも、事態の大きさと余波は想像しきれない。
なにしろ、内務省が軍閥化の疑惑を常に向けるくらい、あの鎮守府は独立独歩しているのだ。
その独立独歩を可能とする権力を与える際に、ある一定ラインを越えたら内地からの支援は打ち切ることと、内地に特別な支援を必要とした場合はその権力を全て凍結すると取り決めたかつての官僚達の保険がここにきてようやく効いていると言える。
ブルネイが内地に特別支援を要請したら、ただちに内地から直々に乗っ取りにかかるだろう。
それほどまでに内務省は自分が手を出せない場所があることを気に入らないのだ。
「やれても大混乱、仕損じれば国が滅ぶ。溜飲ひとつ下げるだけのことで、こんなことがやれますか?と。だったらせいぜい、ブルネイに稼げるだけ稼がせたあとにもぎ取るほうが堅実だ。結果、ブルネイは大稼ぎしたあとに他の被害を被った鎮守府の支援に散財することになった訳だ。それを差っ引いてもどうやら繁盛したらしいがね」
自分のメンツと国体維持、このふたつを当たり前に天秤にかけるような内務省の動きを差し止めたのだ。
なるほど、確かに凄いことをしたかもしれない。
だがしかし、だ。
「内務省こそ思い上がりもいいところだ。自分達がこの国の中枢だと思ってやしないか?」
「それが内務省の目標だからね。未曾有の混乱を乗り切るには、この国をひとつにまとめて率いるスーパー官庁が必要。その考えのもとに組織されてきている。深海の世紀に戦っていたのは、海軍だけではなかったんだよ」
深海の世紀。
今はそうやって振り返られる過去だが、当時は内地もまた国内情勢の維持という戦いをしていたのだ。
だからこそ内務省はマンモス官庁の位置にいる。
「内務省は自分達で艦娘を率いた部隊を組織しようとしていたほどだ。だからこそ私がここにいるわけで、内務省はまだ海軍を自分達の傘下に組み込むことを諦めていない」
「そんなの、防衛省が許すわけが」
「防衛省からしても悩みの種なんだよ、海軍は。左の連中は旧海軍を文字通り復活させて覇権主義に走ってるだのなんだの言いたい放題、右の連中は海軍と海自を併合して海軍に統一すべきだのなんだの言いたい放題、海軍という名前を堅持したことに恨み節すらある始末だ。それでも内務省に譲り渡すわけにはいかない、と抱え込む派閥が大部分だから防衛省の傘下に置いている状態だ。庇い立てしきれなくなったらどうなるか、わからんね」
と、内務省の古狐が言うのだからタチが悪い。
この古狐こそが海軍から一部でも艦娘を引き抜いて内務省が主導となる泊地を作っている、まさにその一号なのだから。
「ま、そんな世間話はいい。本題に入ろう」
そう言うと、壬生森はジャケットの内ポケットからカードキーと一組になった大量の鍵を出した。
「元帥、その立場にある者が持つ責任と最期の意志決定。それを今から引き継がねばならなくてね。ところが前任は身体を悪くしての引退だ。そこで、代理に私がこれを届けにきた訳だ」
見知らぬ大量の鍵、思い当たるようなものは1つしかない。
「禁忌の扉、ですか」
「その通り。元帥以外は誰にも立ち入れない、立ち入る時はその覚悟を持って立ち入る場所だ」
赤レンガ、鎮守府大本営にはある扉がある。
地下への階段の突き当たりに物々しく、古くからあるのに錆びひとつ凹みひとつ見当たらない金属の扉。
真ん中にはいくつも蓋が重なり、その鍵穴全てに強化プラスチックの蓋が更に施され、その蓋すらロックされて外せないという厳重さ。
壬生森は、その扉のロックを外すのに、まず階段の上にある通路の電灯を点けるスイッチパネルの四隅を叩いて押し込んだ。
そして、プラスチックの蓋を全て開け、鍵穴に鍵を差し込むのではなく、鍵穴のシリンダーそのものを掴んで回す。
「回す方向と、回す角度を間違うとまず鍵穴が使えない。覚えておけ」
そう言うと鍵穴のシリンダーを押し込む。
そしてようやく鍵穴に鍵を差し込み、鍵を開けていく。
そんな仕掛けをいくつも解いて、ようやく扉を横に滑らせて、中に入った。
「ランタンを点けておいてくれ」
持ってこいと言われたランタンを灯すと、壬生森は中にある扉をまたいくつも仕掛けを解いて開く。
それに連動して、今入った後ろの扉が閉まっていく。
それを何度か繰り返してようやく、最期の間に入った。
「元帥とその秘書艦、それ以外はこの部屋の中にある物を知るべきではない。逆に元帥と秘書艦は知らなければいけない物が、これだ」
壬生森が指した先、飾り棚に紫の布を被せてある何かがある。
三条河原はその物体を見た瞬間に、脂汗が出るのを感じた。
これは、まずいものだ。
「待ってくれ」
壬生森が布を取ろうとしたところで、三条河原はそれを止めた。
直感でそう思ったのだ。
隣にいた霞すら、絶句して青ざめている。
「そいつを知ったら、戻れなくなる気がする」
「あぁ、元帥しか持つことの出来ない、これを持った者は元帥でいられない、そういうものだ。核の発射ボタンよりも、危険な物かもしれないな。内務省すらこの存在を知らないほど秘匿されている、最期の手段だ」
「……て」
「『蒼征』、アンタはこれを……使ったことがあるな?」
「……めて」
「あぁ。そして霞、君の左腕もこれのせいで失ったと言っても」
「やめて!」
霞がたまらず、額を押さえて踞りながら叫ぶ。
そうだ、やはりだ。
「あの決戦、アンタはこれを使ったんだな?あの日起きた異常、そのひとつがコイツの仕業!そうなんだな!?」
霞が左腕と親友を失くした海戦、それこそが壬生森が一瞬だけ元帥として戦った最後の海戦で、全てが異常の混乱の内に決着した、詳細が一切明かされない海戦。
その異常の原因のひとつがこれだと言うなら、何をする代物かも想像が付く。
元帥が艦隊を持つことを禁じたのも、これがあるからだ。
「なぁ、ひとつだけいいか?」
「ひとつと言わずに全てを訊くべきと思うが?」
「アンタは、これを使ったことに……後悔はないな?」
「必要なものだった。その判断に後悔はないよ」
にべもない。
そこだけは確固たる意志をもって、壬生森は答える。
「もうひとつ」
「なんだね?」
「理想の元帥は、これを躊躇いなく使う覚悟を出来る者か?これを絶対に使わない覚悟を出来る者か?」
「どちらでもない。これを前に目を背けず向き合い続ける覚悟がある者だ」
壬生森の言葉に、三条河原は頷いた。
「霞、アンタも秘書艦なら立ち上がりなさい」
壁を背に寄り掛かって、飴玉を口の中で転がしていた叢雲が言う。
「アンタの左腕がなくなったの、確かにきっかけはこいつのせいだけど、一番の原因はそうやって踞ってるアンタの弱さよ。庇われて、守られてるだけなら秘書艦なんて辞めなさい。今度はアンタ達が覚悟する番よ?」
「好き放題言うじゃない……!」
「言うわよ。私は今日までのアンタなんだから。私は明日からアンタが背負う覚悟を、今の今まで背負ってきた先達よ?」
ふらりとよろけながら額を押さえながらも霞は叢雲を睨みながら立ち上がる。
三条河原は背中から腕を回して、そんな霞の肩を抱き寄せるように支える。
壬生森は持っていた鍵束を三条河原に差し出す。
「元帥就任、おめでとう。君の奮戦に期待する」
この日、三条河原は正式に元帥として新たに着任した。
赤レンガの地下の禁忌の扉の奥、そこにある物がなんなのか知る者が二人増えた。
そして、今日も海軍は変わらず、戦い続けている。
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