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彼願白書

作者:熾火 燐
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逆さ磔の悪魔
  インシデント

「失礼しますわ。」

熊野が入った部屋は、司令官室。
つまり壬生森の仮住まいのような部屋だ。

「提督、ブルネイ鎮守府到着まであと4時間ほどです。」

それ故に、この部屋にいる壬生森はだいたい何かの資料をアイマスクにして備え付けのソファーで寝ていることが多い。
もっとも、彼が自分から起きて忙しなく何かをしている姿というのは、それはそれでろくなことがないので、部屋から出てこないことが、ある意味では炭鉱のカナリアのような意味合いを持っていた。

「そうか。ブルネイからの動きは?」

「ありません。こちらの所在は、既に察知していると思いますが……」

「周辺状況は?」

「静かなものですわ。これから、この海域が地獄に変わるのを認めがたいほどに。」

熊野の報告で、壬生森は資料のアイマスクをデスクに置き、身体を起こす。

「何か、あったな?」

「そう見るべきでしょう。」

ブルネイに航路で向かうと、どうしても相応の時間がかかる。
その間に、何も起きないハズがない。

では、何があったのか?

壬生森は恐らく、ある程度の判断はしているのだろうが、確信はないのだろう。
だから彼は身体を起こした。
そして、クローゼットからジャケットを出して羽織る。

「ブリッジに向かうとしよう。」

「了解しましたわ。」

熊野は壬生森が何に感付いたのかまでは、推察が及ばない。
ただ、きっとろくでもない事態になっているのだろうとは、壬生森の表情でわかる。
彼がCICではなく、ブリッジに向かったのが、その証左だ。

「ご苦労。」

ブリッジの人員の敬礼を制しつつ、壬生森はブリッジの左ウィングへ出る。
壬生森は空を見上げる。
彼の目に何か見えるようなら、最初からこの艦のレーダーか観測員が捉えているとは思う。

「熊野、鼻は利くほうか?」

「?……人並み程度、というところですわ。」

彼は、何かを嗅ぎ取ったのかもしれない。
風は南から、つまりこれから向かうほうから来ている。
その風になにかの臭いが乗っていたとしても、海風に掻き回されて、何かを判別出来るとは思えない。
彼は、何を嗅ぎ取ったというのか。
しばらく空を見渡した壬生森は、ウィングから戻って、今度はCICに降りる。
CICの真ん中、メインディスプレイを正面に一番よく見える特等席の隣に立って、艦長は腕を組んで画面を注視していた。

「司令、何か見つけましたかな?」

「あぁ。艦長、対空戦闘配置を。特に真上に重点警戒。」

「敵機直上、急降下……ということですか。船乗りとしちゃ、一番聞きたくない報告ですな。」

そう言って、艦長は備え付けのインカムを取る。
かち、とスイッチを入れてから一秒。

「対空戦闘配置!直上の警戒を厳とせよ!」

「各部エア、戦闘配置!」

電子音のアラートが鳴り響く。
本来ならなんの確証もない、無意味な行動だろう。
しかし、『そうあってほしい』と思うくらいには、熊野の胸の内はざわついていた。
この行動は無駄なハズなのに、そうならないような気がしてならない。

「提督……」

それより、なにより……

「なんだ?熊野。」

「いえ、なんでもありませんわ。」

壬生森が、特等席に座る。
アームレストに肘をついて、頬杖して、つまらなさそうな顔でディスプレイを見つめる。

この艦の中で、彼だけは既に戦闘を始めているのだ。
私達よりも、遥か先に。

私は、未だに彼の後ろを歩いている。

「ブルネイ鎮守府に通信を。通常のチャンネルでダメなら、どのチャンネル、どの手段を使っても構わない。それとネガスペクトラム観測を、こちらに向かい始めてから今日までの履歴込みで。」

「了解。」

壬生森の要請を、艦長がそれぞれに割り振る。
熊野が実際に見ることは、これが二度目。
周りがどれだけ代わっても、彼だけは、以前の姿のまま。

なのに、彼の隣がまだ、遠い。









「大淀、壬生森が来るのは今日だったな?」

「はい、今日の夕方に到着予定のハズです。如何なさいますか?」

金城は、久方ぶりに苛立ちを隠さない表情で窓の外を見る。

「地上で生きてる外への通信手段は、明石がなんとか使えるように修復している旧式の無線だけか。」

「はい、これもテスト出来てないので、実際に使えるかは……」

金城の見ている窓の外は、ところどころが抉られた景色。
焦げ跡、瓦礫、そしてあちこちに燻っている煙。

「……使えるのを、祈るしかねぇだろ。」

金城は何度握り潰しかけたかわからないタバコの箱を、内ポケットから出す。
苦々しくタバコを咥えた顔からも、苛立ちが露だ。

「ネームレベル、かくも厄介なものとは……実際に相手すると、ウンザリしますね。」

火を着けたタバコは、端から早回ししたように瞬く間に灰に変わっていく。
口の端から漏れる煙は、怒りの噴煙。
フィルターが、噛み千切れる。
大淀が久方ぶりに見る、金城の憤怒だ。
恐らく、これでも自制に自制を重ねてのものだ。
腸が煮えくり返るどころではないだろうことは、察しが着いた。

「……奴には、この借りは兆倍にして返すぞ……」

口元から千切れ落ちたフィルターとタバコの灰を、そのままキャッチして握り潰し、唇に残ったフィルター共々、まとめてデスクの上にある灰皿に投げ捨てる。
これほどの怒りを、金城も久方ぶりに覚えた。
これほどの怒りの原因は、ブルネイ鎮守府始まって以来の最大の失点だった。
明石が静かにドアを開けて入ってきたのは、まさに金城がやり場のない怒りに震えた瞬間だった。

「提督、ノイズがキツいものの『みのぶ』からのコールを確認しましたが……こちらからの通信は届かないようです。」

「そうか。もういい、あとは基地設備の復旧と基地航空隊の準備に専念してくれ。」

「わかりました。」

明石はその報告だけ終えると、そそくさと執務室を出ていく。
彼女の言葉で、金城はまたひとつ確信したことがある。
そして、怒りの温度もまた上がった。

「大淀……『みのぶ』はおそらく、俺達がどうなっているのかを把握している。いや、この事態もアイツの想定内……ちげぇな、予定内のことだろうな。」

「まさか。彼は二十年近く、この海から遠ざかっていたハズですよ?」

「じゃあ聞くがよ?」

俺達の二十年には、この海があったか?

金城が窓越しに見ている海、それは見た目には日差しを波間が弾いて白く輝く明るい海だが、実際には一寸先の保障もない闇夜航路だ。

「こっちがリバースド・ナイン本体を狙うそのタイミングで、自身は迎撃に専念して時間稼ぎをしている間に、基地へ直接攻撃を仕掛け、主要な通信機器、電探、どちらもピンポイントに潰して、その上にサブ手段を封じる空電ノイズだけを出して雲隠れ。ここまでやる奴、こんなことを狙って出来る深海淒艦を、俺達はかつて相手にしたことがあったか?」

「通信設備が唯一脆弱だった、それだけです。他への被害はほとんどありません。今も、ここの守りは堅牢です。反撃の用意も、着実に進めています。」

「……今は、籠城の一手か。」

想定はしていた。
この鎮守府は、抵抗と籠城に関しては、内地の全艦隊を差し向けられても凌ぎきれると自負している。
しかし、実際に籠城を選択する日を待ち望んではいなかった。
そうなった場合、単独では逆転の目が薄いことくらいはわかっていた。
今も、待ちという時間の流血を甘受するしかない現状が苛立たしい。

「提督、今は休まれたほうが」

言いかけた大淀を制して、金城は窓の外を見る。
金城はまだ、外を見ておきかった。
この明るく静かな水面の輝く、嵐の吹き荒ぶような地獄のような海を、少しでも理解の範疇に収めたかった。

恐らく、この海が。

そう思うと、金城はこうして執務室にいることすら本来なら我慢ならないのだ。
好奇心、というより、強迫観念だろうか。
目の前に今、広がっているこの海を知り尽くしておきたい。
知っておかなければ、と思うのだ。 
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