ソードアート・オンライン 少年と贖罪の剣
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第二章:アルヴヘイム・オンライン
第二十二話:傷痕
前書き
お久しぶりでございます。諸事情でこんなに遅くなってしまいました。申し訳ありません。
全話の後書きに本格的にALO突入します!とか言った割に、今回はオフラインです、更に申し訳ない。
「退院おめでとう、縺君」
「ありがとうございます、倉橋さん。お世話になりました」
藍子が逝去してから、一週間が経った。
元々はもっと早く退院する予定だったのだが、藍子の身辺整理や葬儀、その他諸々の手続きや親戚たちの相手をしなければならず、退院しても過労ですぐさま病院へとんぼ返りしそうな忙しさのオレを見兼ねて、倉橋さんが入院の期間を伸ばしてくれたのだ。その間、姉を失ったばかりである木綿季を一人にするわけにもいかなかったので、彼女も病院で寝泊まりすることになった。学校の方は丁度冬休みに入ったところなので、特に問題は起きなかった。ただ、親戚たちとのいざこざを余り見せたくはなかった、というのも本心ではあるが。
オレがSAOに囚われ、義両親が亡くなった後、親戚たちは今まで家族で住んでいた家を取り壊し、土地を何らかの形で活用することを目論んでいたらしい。その契約を結ばせるために木綿季の元へ度々現れたそうだが、あの胡散臭い総務省の菊岡さんの知人である法律家に頼んで、事なきを得ることができた。
「大変だったみたいだね」
「ええ……けど、オレなんかよりも木綿季の方が大変だったでしょうから、これくらいでへばってはいられません」
そう、オレがいなかった約二年間、木綿季はほぼ一人で生活してきた。VRの世界ではスリーピング・ナイツという仲間がいたが、現実ではそうはいかなかっただろう。友人は多いと聞いたが、家ではそうはいかない。
「そうだ、縺君は研究医を目指しているんだったね。なにかわからないことがあったら、何時でも頼ってください」
「それはありがたい。是非、力を貸してください」
今回の藍子の件を経て、オレの将来の目標は確固たるものになった。彼女や義両親を死に至らしめ、今も木綿季を蝕んでいる病の治療法を確立させる。それがどんな困難な道であるかは、理解しているつもりだ。だが、彼女の死に際を見届けた者として、オレは、何としてでもそれを成し遂げなければならない。
「それじゃあ、元気でね、縺君」
「倉橋さんも、どうか無理はしないでください」
倉橋さんはこれから、藍子が試験体となっていたメディキュボイドの実用化を目指すらしい。藍子に施されたような終末期医療のためだけではなく、重篤患者の希望としてメディキュボイドは進化していくべきだと熱弁していたのは記憶に新しい。そして、もしそうなった時、藍子君は最初の協力者として永遠に名を残すことになるのだとも。そんなことになったら、きっと藍子は、困ったようにはにかむのだろうけど。
「さて」
とは言え、このまま平凡な日常に戻る、という訳にはいかなかった。オレには、まだやるべきことが残っている。
倉橋さんがわざわざ呼んでいてくれたタクシーに乗り込み、行先を告げる。場所は、ここからそう離れていないカフェだった。
† †
「やあ、久し振りだね。退院おめでとう、縺君。揉め事もなんとかなって良かった」
「お久しぶりです、菊岡さん。その節は、ありがとうございました」
先に着いていた菊岡さんと合流する。オレから彼に連絡を取ったのは、親戚とのいざこざが一段落着いた一昨日の昼頃。礼を兼ねてと思いなんらかの品を用意しようかと考えていたところ、菊岡さんのほうから気にしないで構わないと言われたため、今日は病院から直接待ち合わせ場所まで来た。勿論、後日菓子折りかなんかは贈らせてもらうが。
「退院早々呼び出してしまってすまないね。何か頼むかい?」
「ではコーヒーを。ブラックで構いません」
「ケーキとかはいいのかい?」
「糖質制限中なので」
今現在のオレの身体は、SAOに囚われる前の70%というところまで筋力やその他諸々は戻ってきている。倉橋さんはゆっくり戻していけばいいと言っていたが、先日、師匠から連絡があり、顔を見せに来いと言われてしまった以上、急ピッチでトレーニングを行わなければならなくなってしまった。
コーヒーが運ばれてくるまで他愛のない世間話をしていたが、オレが一口飲み、カップをソーサーに戻したところで菊岡さんは姿勢を正した。オレも、それに倣うことにする。
「さて、どうやら君たちは世界樹の攻略を行ったそうだね?」
「……敢えて聞きます。何故、知っているのですか?」
病室で菊岡さんと出会ってから、今日に至るまで、彼とはALOの調査についての話は一切してはいなかった。スリーピング・ナイツが世界樹攻略を試みたことなど、知らせてはいない。
「そんなに警戒しないでくれ。ほら、これを見てごらん」
そう言って差し出されたタブレット端末を受け取り、表示されている画面を見てみる。
「……ALOの情報サイト? これが一体―――」
呟きながらサイトを下へスクロールしていくと、とても見覚えのある白壁と騎士型のmobの姿、そして、陣形を作りながら昇っていく彩り豊かなプレイヤー達のスクリーンショットが何枚も貼られていた。
「世界樹攻略はこのゲーム最大のクエストだからね。当然、各勢力の偵察隊が滅多に来ない挑戦者を常に待ち構えている。世界樹攻略最有力のサラマンダーはこの情報を秘匿したがったらしいけど、結果はこの有様さ、匿名の誰かが多くのプレイヤーが見るであろう情報サイトに写真をぶちまけた。それがこれだよ」
「……なるほど。ご丁寧に全員分のプレイヤーネームも調べられているらしい」
「ちなみに、君たちが苦戦したドラゴンは新発見だったみたいで、各勢力大騒ぎらしいよ」
まんまと情報を掠め取られていたこと、そしてそれに露ほども気づかなかった自分に微かな苛立ちを感じるが、スリーピング・ナイツは各勢力の軍拡競争とは無関係だ。このやり場のない悔しさは、溜息一つと、コーヒーで飲み干すことにした。
「それで、君の方から連絡をくれたってことは、協力してくれるということかな?」
対面に座る菊岡さんの表情は、心意を計れない貼り付けたような笑顔。さて、どうやらただの子供であるオレには彼の笑顔の裏まで読み取るのは難しい。
「……純粋な疑問なんですが、オレが動いたところで問題の解決には至らないと思います。こんな子供一人がゲームの中で何かするよりも、貴方達が組織立って動いた方が何倍も早く解決できる。なぜ、貴方はオレに協力を申し出たのですか?」
どれだけVRMMORPGに適性があったところで、どれだけゲームの世界で強かったところで、現実に立ち戻ればオレはただの子供だ。格闘の心得はあれど、未帰還者の原因解明なんて芸当は、運が良くない限りは無理だ。そんなオレに協力を要請する必要は、果たしてあるのだろうか。
「……君になら少し話しても構わないか。いや、話すべきなのだろう」
そう呟くと、菊岡さんは鞄からA4サイズのファイルを取り出し、数枚の書類をテーブルの上に置いた。
「これは、今回の未帰還者事件に関する捜査資料だ。部外者に見せてはならないものだが、なに、君はもう部外者ではないからね」
この資料を見たのなら必ず協力してもらう、菊岡さんはそう言っているのだろう。
まあ、元より依頼されずとも独自で原因の究明は行うつもりだったから問題はない。躊躇うことなく資料を手に取る。
「……ボク達は今回の未帰還者が存在することは偶然ではなく、人為的なものであると断定している。そして、既に首謀者も判明している。まあ、まだ犯人ではなく容疑者なんだけどね。二枚目を見てごらん」
言われるがまま、資料の二枚目に目を向けると、そこには二枚の写真が貼られていた。その二枚目に写っている顔に、思わず、呼吸が止まりそうになる。
「一枚目の男の名前は、須郷伸之。そして、二枚目の男は――――」
「――カリギュラ」
人の良さそうな上辺の笑顔。それを、オレは知っている。
「……この男を知っているのかい?」
「…ええ。この男を、SAOで知っている。プレイヤーネームは『カリギュラ』。一時期オレと同じギルドに所属していたものの、死の恐怖からか精神を病み、そして自ら死んだ男です。オレはこの目で、確かに、この男がアインクラッド外周部から身を投げたのを見た」
アイギスはオレの手によって壊滅したが、それ以前にも二人の犠牲者がいた。
一人は『カムイ』という名の少年。元々はじまりの街で過ごしていたのだが、持ち前の正義感からか、一刻も早くこの鉄城から皆を開放したいという理由で、当時は攻略組の二軍扱いだったアイギスに入団を申し込んできた。呑み込みが早く、防戦に長けたメンバーが殆どなアイギスの中では、貴重なアタッカーだった。だがそんな彼は、レッドギルド『笑う棺桶』の策略に巻き込まれ、帰らぬ人となった。
もう一人は『カリギュラ』という名の男。この男はオレがネロと出会う前から彼女と行動を共にしていた男であり、二人はリアルでも知り合いだったという。いつも人のよさそうな笑みを浮かべており、彼はエギルのように、自分で稼いだコルを下層で生活するプレイヤーへ支給していたという。この男はカムイが殺された後、死の恐怖や攻略組プレイヤーだという重責に負け、オレたちの目の前で投身自殺を行った。
「生きているはずは……」
「…だが、実際にこの男――「相良陵介」は生きている。話を続けよう。
須郷伸之はALOの運営であるレクト・プログレスの一スタッフではあるが、実質的なトップは彼らしい。そして、ネタ元は明かせないが、須郷がALOを利用して何らかの実験を行っているという情報があった。それに加え、調べを進めていくと、ALOはSAOのサーバーを丸ごとコピー、流用して開発されたものだという。この時点で、SAOのユーザーをALOに閉じ込めておくのは、技術的に可能だ」
「そこまで分かっているのなら、立件できるのではないのですか?」
「残念ながら須郷が実験を行っているという証拠がない限り、例え立件できたとしても白を切られるだけさ」
菊岡さんはそう言ってカップに手を付けた。
もし、その須郷伸之がALOの内部で何らかの実験を行っているとするのなら。
「つまり、オレにはその証拠を掴めという訳ですか」
菊岡さんがオレに望むものは、それしかないだろう。実験を行っているという証拠がALOの中でしか得られないのなら、専門家に委託するという話で納得できる。
「理解が早くて助かるよ。そう、君に頼みたいのは証拠を掴むことだ。勿論、少しでも危険だと思ったのならやめてくれても構わない」
「…いえ、やらせてください。この事件がSAO絡みである以上無視することはできないですし、カリギュラ――いや、相良陵介のことも気になる」
相良陵介は、ネロ――茅場茜音とリアルで知り合いだったという。
ああ、だとするならば、相良が生きていても不思議ではない。なぜなら、茅場茜音に死の枷はついていなかった。相良も同様であった可能性が高い。
もし本当に彼が生きているのならば、問わねばならない。何故、SAOのプレイヤーを閉じ込めているのか。そして、一体なにをするつもりなのかを。あの薄ら笑いの裏にあった真意を。
「そうか、では力を借りることにしよう。よろしく頼みますよ、『終世の英雄』様?」
「……なんですか、それ」
「知らないのかい?君は業界では有名だよ。SAOの世界を終わらせた英雄、とね」
「茅場を直接倒したのはオレではないのですが」
「まあ、細かいことは気にしないでいいじゃないか。ああ、そうだ。君の報酬の話をしよう」
知らないところで恥ずかしい綽名をつけられていたらしい。できれば即刻取り消してもらいたいものだが、聞き入れてもらえそうにはなかった。まあ、直接オレの耳に届かない限りはよしとしよう。そうでもなければ耐えられない。
「形式としては、日雇いのアルバイトのような扱いになると思う。まあ、他の日雇いよりかは遥かに収入は期待できるけどね。それ以外に、君からの要求はあったりするかい?」
「…随分と待遇がいいんですね。まあ、こちらとしては好待遇に文句はありませんけど」
好待遇であることには、必ず意図があるのだろうが、残念ながらオレ程度の想像力では思いつかない。ならば、精々利用させてもらうことにしよう。
「人探しを頼みたい」
† †
曰く、解けない問題が気に食わないと。
故に、難関私立中学校へ進学できるほどに死に物狂いで勉強した。
曰く、喧嘩で負けることが屈辱だと。
故に、近くにあった武術道場にて僅か数か月で師範代と対等に渡り合える技術を身に着けた。
特別な理由があった訳ではない。
ただ、死に物狂いで全てに取り組んだだけ。それだけで、彼は大抵ものを手に入れてきた。
人は彼を天才だと謳う。
しかし彼はそれを否と言う。
当たり前だ。彼が元から持っていたものなど何もない。全てが義理の親より与えられたもの。学力も、義両親が学校へ行かせてくれたから。武術も、義両親が道場に通わせてくれたから。
何も知りはしない誰かが、彼と義両親の今や唯一となってしまった繋がりを、『才能』などという一言で片づけるのは、彼が許さなかった。
■■縺が紺野夫妻に引き取られたのは凡そ七年前のこと。八歳の頃に両親を亡くした縺は、二年間を児童養護施設『マグノリア』で過ごした。その後亡くなった義両親の友人を名乗る紺野夫妻の申し出を受け入れて、紺野家の一員となった。
それが、紺野木綿季が知っている義兄だった。
–––––オレはまた、大切な人を守れなかった
そう呟いた義兄の顔が、忘れることができない。
ベッドに倒れ込んで、木綿季は唇を噛んだ。
義兄があの世界で何をしてきたのかは分からない。聞こうにも、あの瞳が邪魔をするのだ。全てに達観したようなあの瞳が、まるで自分を、いや、全てを拒絶しているようで。
SAO生還者は皆、どこか浮世離れした表情を見せる人が多い、というのは最近よく聞く話だが、縺の場合はそれが顕著だ。二年前まで見せていた少年らしさなど殆ど影に隠れ、今、木綿季に見せるのはいつもどこか寂しそうな顔ばかり。
「――それはそれで格好いいんだけどなぁ……
そういう問題じゃないもんね」
明らかに、縺は父母の死に負い目を感じている。責任感が人一倍強いあの義兄のことだ、想像するのは容易だ。それに加えて、目の前で、藍子が逝ったのだ。今の彼の心理状態は最悪だろう。
「ボクは、なんにもできないんだなぁ――」
勿論、木綿季が心に傷を負っていないはずはない。家族が三人もいなくなってしまったのだ。胸にポッカリと穴が空いたような虚無感は、未だ拭えない。
それでも、縺は帰ってきた。生還は絶望的だと言われていたあの死の檻から脱出して見せた。
オレは下層でじっとしていただけだから、とは本人談だが。彼が、自分の義兄が、生還した全プレイヤー約6000人の中で最もレベルが高い、トップの中のトッププレイヤーだということは総務省の人から教えられて知っている。そうでなくとも、木綿季が傍にいられた短い時間だけでも心拍数が跳ね上がることがままあったのだ。何より、もし下層に留まったままだったというなら、ALOで見せたあの強さの説明がつかない。彼が最前線で、皆の期待を一身に背負いながら戦っていたのは、疑いようもない。
木綿季にとって世界とは即ち家族の事だった。仲のいい両親に、優しい双子の姉、そして不器用だけど頼りになる義兄。彼らがいるだけで、木綿季は自分の抱える病にも勝てると思っていた。いや、その家族の大半を喪ってしまった今でも、そう思っている。不安で、恐怖で押し潰されそうになった時、義兄は帰ってきた。
それだけで、木綿季の中にあった不安は掻き消えた。ただいまと告げて、頭に乗せられた弱々しい腕の温もりが、木綿季を救ったのだ。
「……兄ちゃん」
縺が生還してから約一か月が経った。脳とナーヴギアの接触不良の障害を受けていた縺は他の生還者よりも長く入院し、リハビリすることになったため、彼は今日、この家に帰ってくる。木綿季がお金の事しか考えていない親戚たちから守り通した、この家に。
ガチャリ、と扉が開く音。木綿季はベッドから飛び起きた。
そう、今の木綿季が兄にしてやれることはほとんどない。彼の心の隙間を埋めてやれるナニカを、彼女は持ち合わせていない。
それでも、諦めるなど、自分らしくない。胸の内に抱いた感情は、秘めたままでは伝わらない。
ならば言葉にするまでだ。鋭いのか鈍いのかよくわからない兄に、『自分がどれだけ本気なのか』を伝えるには、それしかない。
だからまずは、思い切り言ってやるのだ。二年間も家を空けた不良の兄貴に、心からの言葉を。
「木綿季、ただい―――」
–––––『おかえり』っ!!
† †
「おっ、と」
飛び込んできた小さな体を抱き留める。それだけでよろける体を苦々しく思いながら、オレはユウキを抱きしめた。
「うん。ただいま、ユウキ。ごめんな、心配かけて」
「ううん、いいんだ。兄ちゃんが無事に帰ってきてくれたからさ!」
思わず顔を背けてしまいそうになる程の満面の笑み。
ユウキがオレに向ける信頼が、眩しすぎた。
「本当に、ごめん」
だから、こうして抱きしめる力を強めることしかできない。そんな自分が情けない。
「もう、そんなに謝らないでよ。ボクね、本当に嬉しいんだよ?」
それでも。
それでも、もしもユウキがオレのことを赦してくれるというのなら。
「オレを、赦してくれるか?」
こちらの胸に犬みたいに顔を擦り付けてくるユウキに問いかける。すると彼女は顔を上げ、そして微笑んだ。
「ボクは別に怒ってないんだけど。
でも、もし兄ちゃんが赦しを請うなら、ボクは兄ちゃんを赦すよ。だって、兄ちゃんはちゃんと帰ってきてくれたんだもん」
「―――――」
ああ。
その言葉だけで、少しだけ、心が軽くなる。
オレは彼女の心に深い傷を負わせてしまった。それでも、彼女が赦してくれるのならば、オレはせめて彼女を、ユウキを精一杯愛そう。言葉を交わすことすらできずに死んでしまった義両親と、オレに託してくれた義妹の分も。
それが、オレに許されたこの世界での贖罪なのだと信じて。
「ありがとう。そしてもう一度言うよ。
『ただいま』、ユウキ」
† †
「……あの、ユウキさん…?」
「んーー?」
時刻は七時を回った頃。ユウキが作った夕食を食べ終え、風呂から上がったオレがソファでテレビを見ていたときだった。
なるべくテレビから目を逸らさないようにしているオレのすぐ横には、同じようにソファの上で膝を抱えたユウキの姿が。
風呂上がりだからか、上気した頬やパジャマの襟首から覗く鎖骨から抑えきれぬ色気を感じて、オレは思わず天を仰いだ。
(そりゃ、二年も経つんだもんな……)
二年という月日は世界情勢なんかの大局よりも、むしろ身近で感じることが多い。
一番顕著なのは、ユウキの成長だ。SAOに囚われる前、彼女はまだ中学に入ったばかりの子供だったが。
「どうかした?」
「……いや、なんでも」
少々細さの目立っていた彼女の身体は、二年と言う月日を経て格段に女性らしくなっていた。それは別に構わない。むしろ健やかに育っていることを喜ぶべきだ。
だが、その成長した身体で、昔の距離感のまま近づかれると、少々目に毒――いや、眼福ではあるのだが。
SAOでユメやネロ、リンに少し迫られただけで危うく理性を忘れそうになる程に軟弱な理性を持つオレにとって、ユウキの距離感は由々しき事態であった。
だが。
「んふふー」
ブンブンと振られる犬の尻尾を幻視してしまう程に上機嫌な我が麗しの義妹相手に「離れろ」なんて言えるはずもなく。
ただひたすら、テレビの画面を脳にインプットする作業に没頭するしかなかった。
「そういえば」
ドラマがコマーシャルに移った際、隣のユウキが思い出したように声を発した。
「兄ちゃん、学校どうするの?」
それはオレが一番心配していたことだった。親戚たちがこちらを快く思ってはいない限り、彼らからの援助はあまり期待できない。少なくとも、こちらに選択肢は与えられないだろうと。
思った通り、学費は肩代わりしてやる代わりにこの学校へ行けとの指示があった。
「ここに決まった」
テーブルに置いていたパンフレットをユウキに手渡す。
「高等専修、学校?」
「ああ。SAOの学生被害者を支援するために創設された学校だそうだ。二年通えば高卒の資格が入手できるらしい」
なによりも学費が抑えられる、ということが親戚たちに高評価だったらしい。まあ、通信制の学校を覚悟していたオレからすれば学校に通えるだけでありがたいのだが。
「……兄ちゃんは、それでいいの?」
「どういう意味だ?」
ユウキの問いの意味を測りかねていると、彼女は抱えた膝に顎を乗せ、口を尖らせながら言った。
「兄ちゃんの学力があれば、今からでも一般の高校にも編入できるでしょ?でも、そうしないのはもしかしたら、あの人達のせいなのかなって」
ユウキの言う「あの人達」というのは、オレとユウキの後見人である親戚のことだろう。どうやら彼女は、親戚からの圧力がかかっていると思っているらしい。
「まあ、ユウキの言う通り進学校でもなければ編入試験で入れるかもしれない。けどな、これはオレが決めたことだ。オレは自分の意思で、この学校へ行くと決めたんだ」
そう。親戚達から命令されたとはいえ、それに対してオレは特に反論はしなかった。むしろ彼らからの指示がなくても、オレは進んでこの学校を選んでいただろう。
理由は幾つかあるが、一番はこの学校が次世代学校のモデルケースとされているため、学内の設備が充実しているという点だ。また、勉強の自由度も高く、大学のように自分のやりたい授業を選択できるという点も大きい。
「そっか。なら、いいんだけど…」
そう言って、ユウキは再びテレビへ目を移した。少し拗ねたような表情なのは、さて。
「心配してくれてありがとな」
御機嫌を取る訳ではないが、ユウキの頭を撫でる。テレビを見たままされるがままの彼女に笑みを浮かべると、テーブルに置いていたスマートフォンが振動した。
「ん?ALOの方か」
「あ、ボクの方にも来てる」
メッセージが届いたのは個人のアカウントではなく、スリーピング・ナイツとして登録しているアカウントに対してだった。ユウキと顔を見合わせて、メッセージを開いてみる。
「護衛依頼?」
「……そうみたいだな。だが–––––」
文面を見ると、どうやらスリーピング・ナイツに護衛を依頼したいという内容だった。
確かに、スリーピング・ナイツは偶にプレイヤーからの依頼という形で護衛を請け負ったりもしている。しかも、そう珍しいことではない。ただ、今回のは少々快諾するには躊躇う理由があった。
「–––––依頼主の、『サクヤ』って…」
「確か、シルフの領主だったはずだ。なんだってそんな奴がスリーピング・ナイツに護衛を依頼するんだ?」
ALOに存在する九つの種族のうちの一つ。魔法を扱う戦闘に長け、サラマンダーには及ばないものの種族全体で見れば繁栄が進んでいる種族。それが「シルフ」だ。勿論、保有する戦力も相当なものだろう。ただの護衛なら、自領の戦力で事足りるはずだ。
「とにかく、明日会ってみようよ。なんか怪しかったら断れば大丈夫!」
「そうだな。よし、今日はもう寝よう。少し疲れた」
凡そ二年ぶりに帰ってきた家は、ユウキのお陰で記憶にあるのと大差はなかった。オレにあてがわれていた部屋も、小物類は減ったが大して変わってはいなかった。
テレビを消し立ち上がり、ユウキがこちらへ来るのを見てリビングの電気を落とす。オレたちの部屋は二階に一部屋ずつあった。ユウキは藍子と二人部屋だったが、彼女が入院してからはずっと一人で使っているという。キッチンから麦茶をコップに入れ、いざ二階へ上がる階段を登り始めると、ユウキに袖を引かれた。
「どうかしたか?」
そう問いかけても、ユウキはしばらく答えようとしなかった。照明を全て落としてしまったからか、俯かれたユウキの表情は窺えない。
それでも少し待って見ると、ユウキは勢い良く顔を上げた。
「ごめん、なんでもないよ!」
笑顔で言って、ユウキはオレの横をすり抜けて階段を登り切った。そのまま自分の部屋へ小走りで向かうユウキの袖を、今度はオレが掴んだ。
「……兄ちゃん?」
振り返るユウキの肩を掴み、目を白黒させる彼女を、そのまま抱き締めた。
「今日は一緒に寝よう、ユウキ」
今、ユウキがオレに見せた表情は笑顔だった。それは彼女にできる精一杯の強がりだった。両親を喪い、誰よりも側にいた双子の姉を喪い、それでも前へ進もうとする健気な少女の、懸命な強がり。
だがそれは、最早必要のないものだ。
「オレがいる。もう、独りにはさせないから」
家族四人で住む為に買ったこの家は、一人ぼっちのユウキには大き過ぎた。彼女はいつもこの大きな家で、独りで生活してきた。だから自然と身に付いてしまったのだ。寂しさを押し込める方法、孤独を紛らわす方法を。
けれどそれはもう必要ない。
寂しいならば、オレがその空白を埋めよう。孤独を感じるならば、満足するまで抱き締めよう。
「今夜はユウキの話を、兄ちゃんに聞かせてくれ」
ユウキは抱き締められたまま、小さく頷いた。くぐもった嗚咽が聞こえてくる。
オレ達は暗闇の中、暫く抱き合いながら泣いていた。
To be continued
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