ソードアート・オンライン 少年と贖罪の剣
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
幕間の物語:スリーピング・ナイツ
第二十一話:最期の願い
前書き
皆さま、明けましておめでとうございます。前回は挨拶できなかったので、今回この場で失礼します。
さて、長かった幕間も今話で終わりです。どうか藍子の最期を看取ってやってください。
ランを除いたスリーピング・ナイツでの会議が一段落ついた頃、寝室からランが現れた。
驚く全員に対して微笑みかけると、言ったのだ。
「兄さん、私と――――」
『戦ってくれませんか』
その願いに、どう答えればいいかオレには分からなかった。彼女の言う通りならば、その命は風前の灯火。戦うなど以ての外だ。医学の道を志す者として、いや、兄として、それは断じて許してはならない。
けれど。
レンという存在に深く刻み込まれた戦いへの欲求が、そして、兄として義妹の最期の願いを叶えてやりたいという思いが、胸の中で複雑に入り混じっていた。
「私、見たいんです。兄さんの物語を。ただ聞くだけじゃなくて、その剣で、魅せてほしいんです」
ああ、もう。本当に、どうしようもない。
この健気な少女に、守ると誓った妹に何もしてやれない自分に、酷い嫌悪感を抱く。
ここは妖精と魔法の世界。あの鉄と剣の世界とは違う。
それでも、ここにいるオレと、あの世界で生きたレンは同じであるはず。
だから応えよう。その願いに、全霊の剣技を以て。
「私は、兄さんの物語の中で逝きたい」
どうしようもなく哀しい願いを、聞き届けよう。そうすることでしか、彼女を満足させてやることができないのだから。
† †
一言で表すならば、そう。
それは、とても虚しい戦いだった。
互いが得るものなど何一つとしてない。対し、その戦いの果てに、一人の尊い命が失われようとしている。
それでも、この戦いをだれも止めようとはしなかった。
止められるはずがないのだ。これは謂わば最期の願い。叶えてやりたい思うのは、仲間として当然のことだった。
「ふっ!」
少女が放った鋭い一撃を、少年はそれよりも鋭いカウンターで叩き落す。
かつて剣の世界で英雄と謳われた少年は、紛れもなく全力であった。あの崩れ行く鉄城での最後の戦いと比較しても、剣術の質で言うならば、今回の方が上を行く。
少女の願いの通り、彼の人生で培ってきた全てを総動員していた。
(やっぱり、この程度じゃ兄さんには適いませんか……なら――!)
「っ!」
少女の剣筋が変化したのを、レンは素早く察知した。
人体の中心、急所の一つ、鳩尾を的確に狙う刺突。それを寸でのところで剣を滑り込ませて防ぐ。少年の表情に、焦りが生まれた。
先ほどまでは鋭い斬撃が主体だったランは、今は突きを多用している。細剣を得物としていたアスナほどの練度はないが、それでも刺突の合間に織り込まれる斬撃が、レンに次の手を読ますことを許さない。
黒漆の剣身が、咄嗟に反らした首を浅く滑っていく。
「……ッ!」
だがそれにより僅かな隙が生まれた。ランが振り切った腕を戻すよりも、レンの脚が彼女を蹴り飛ばす方が早い。
「驚いたな。まさか、ここまでとは」
「ふふ……兄さんを驚かせたくて一生懸命戦ってきたんですから」
「ああ…本当に驚いた。だが、負けるつもりはないぞ」
「ええ。そうでなくては」
妹が忌んでしまうというのに、この体はそんな事お構いなしに昂っていく。純粋な剣技で己に追い縋るその強敵に、どうしようもなく歓喜している。
「行くぞ」
否。今考えるのは愚かしい自らの性ではない。如何にランを打倒するか、如何に彼女の望みを叶えるか、だ。
沸き起こる自己嫌悪を押し殺し、新たに三本の短剣を左手の指間に挟み込んだ。
† †
何をするつもりなのか。
目の前で三本の短剣を手にした兄を注意深く観察する。
これまで、様々な世界で多くの敵と戦ってきた。最初は誰に対しても手も足も出なかった。当たり前だ。戦いとは無縁の生活を送ってきた藍子にとって、一対一の戦闘なんていきなりできるものではない。それでも、観察し、見極め、繰り返し、そして勝利を積み上げてきた。
最終的についた字は『絶剣』。絶対無敗の剣。それが何よりも誇らしく、それがまるで自分の生きた証のように感じた。
それで満足だった。そのはずだった。
けれどある時、己の兄を閉じ込めた監獄は、『剣の世界』であることを思い出した。
不器用でも、義理の妹に対して優しくしてくれた。藍子と木綿季がHIVキャリアだと判明した時は、単身で保護者会に乗り込んでいったとも聞いた。そんな、何よりも愛おしい兄。そんな兄が惹かれたのが、剣だった。
いつしかもう残り少ない命に、『兄と戦ってみたい』という欲求が沸いた。
これが最後の願いなんて、我ながら酷いことをするものだと思う。今にも決壊しそうな兄の心境は、剣を通して伝わってきた。
それでも、この身は、この心は、紺野縺の妹らしい。
『この戦いが、楽しくて仕方がない』
絶剣と恐れられるこの剣を上回る剣士に、否応なく胸が躍る。
だから。だから、邪魔はしてくれるな。あと少し、せめて決着がつくまで、私に生きさせてください。
「護神柳剣流『霙』」
過去の記憶を総覧。
知らない。
そのような剣技は聞いたこともない。
だからこそ、命が、魂が燃え上がる。未知の剣技を前にして、臆するなど勿体ないではないか。
さあ、全ての挙動を見逃すな。筋肉の収縮すら見極め、そして、その剣技を制して見せようではないか。
一瞬で姿勢を落とした兄が地面を蹴り、同時に左の腕が二度振られる。その手からは既に三本の短剣の内二本がなくなっていた。左右から弧を描きながら迫るのがそれだ。残る一本と兄あ正面からの特攻。着弾予測、ほぼ同時――否、左右比較して右がコンマ数秒早い着弾だ。続けて左、最後に――
「『白鷺』」
――左右の短剣よりも速い弾速で、兄の左手から最後の短剣が放たれた。直線軌道のそれは恐らく最も到達が早い。計算が狂う。
思考している暇は、ない。
「くっ!」
なんとか正面の一矢を上空へ弾き返す。崩した体勢を修正する間が惜しい。次、右の短剣を叩き落し、そのまま体を捻り左の短剣を打ち上げ――
「終わりだ…!」
いつの間にあの距離を詰めたのか。剣の届く間合いには、既に振り下ろされる漆黒の刃。
間に合わない?
――『否!』
「まだ、終わりじゃない!」
間に合わせる。
脳の処理に体が追い付かず、華奢なアバターが霞む。それでも間に合うと自分の剣を信じた。兄の全力の一撃を防ぐのだ、こちらも全力で、いやそれ以上で向かわなければ届くはずもない――!
「ぅっ……!!」
右腕から伝わった衝撃は痺れに変わり、全身を駆け巡る。なんと力強い一撃だろうか。正真正銘、この戦いを終わらせに来た一振り。
それでも、間に合った。
「――『霙白鷺』を初見で破ったのは、お前が初めてだよ。藍子」
「ふ、ふふ……嬉しいですね、それは…くっ」
『霙白鷺』――。
それは恐らく不可避の四連撃。ただの一度も破られたことのない剣術を、自分は初見で防ぎ切った。それが誇らしくて。けれど防戦一方な状況に悔しさも感じる。
まだ足りない。兄の記憶にこの剣を深く刻み込むには、まだ不十分だ。
「今度は、私の番です…!」
力尽くで兄の剣を押し返し、一度距離を取る。刹那に詰められそうなその距離を、しかし兄は一歩を以て詰めようとはしなかった。ただ剣を構え、待っている。
背筋が震える。これまで感じたことのない高揚感。この世界で三年間ずっと積み重ねてきた全て――紺野藍子という存在証明を、今、目の前の最愛の人に向けて放つ。
「マザーズ――」
右手の愛剣に剣気を集中させる。この世界に、SAOのようなソードスキルは存在しない。だからこそ創り出せた、『己だけのソードスキル』。システムのアシストなど無粋である。この剣技は、魂を以て放つのだから。
「――ロザリオォッ!!」
紅桔梗色の剣気が吹き荒れる。剣のみに留めていたその覇気は主の昂りによって高められ、そして全身を覆うに至る。
(あれは――、翼?)
やがて翼を宿した黒曜石の剣が、既に己の心臓を捉える距離にまで迫っているのをレンは遅れながらに悟る。
絶剣を絶対不敗たらしめる代名詞として名高い『マザーズ・ロザリオ』。だが、この世界に来て日が浅いレンにとって、それは未知の剣技。否、ここまでの輝きを剣が宿し、あまつさえ翼すら象るその剣は、最早誰も見たことがない高みにあった。
アルヴヘイム・オンライン。
SAO事件を受けて、絶対安全と銘打たれて世に出た新たなVRMMORPG。その基本骨子はソードアート・オンラインそのもの。故にこの世界にも、あの鉄城の創造主たる茅場晶彦の理想、憧憬が根付いている。そう、人間の持つ勇気を、決意を、覚悟を愛する男の意思が。
負けたくないというランの思いが、システムの限界を超えた。
その美しい光景に、レンは眩しく目を細める。
(お前は、生きてるんだな)
ランは、『生きる』ことに執着していた。それは生命活動を意味しているのではなく、喜び、悲しみ、悔やみ、そんな感情を得ることこそが『生きる』ことだと定義した。だからこそ、彼女は現実と仮想世界を区別したがったのだろう。
レンは、あの世界にいる間に多くのものを失ってしまった。その時に同時に失ってしまっていたのだろう。彼を構成していた原初の思い、敗北を許さぬ心を。伸し掛かる絶望と無力感に押しつぶされそうになっていた。崩れ落ち行く鉄城でネロに導かれた時、己の罪を受け入れ、命を落とすことを許容してしまっていた。
だがそれは違う。確かに罪は受け入れる。だが藍子を前にして、『生きる』ことを諦めるなど言えるはずもない。もがき、苦しみ、苦しみ、それでも全てを認めて、受け入れて、贖う。それこそが紺野縺に課せられた運命。例え罪の重さに膝を屈しようとも前に進み続ける。
「――お前のおかげだ」
濃紺の剣を左手に持ち替える。頭上に振り上げ、左腕を右手で支える。
此れよりは模倣の模倣。真作には到底及ばぬ絶技のなり損ない。故にこそ、使い手の意思によって此れは真作を越え得る力を持つ。
剣に黄金の光が宿る。紅桔梗の翼とは比べ物にならない、ただ荒らしいだけの光の奔流。
ならば研ぎ澄ませ。イメージするは記憶にこびりついて離れないあの斧剣。重さは模倣不可能、だがその分、疾さは真作を上回る。
「偽」
空間すら砕く九連撃、その模倣。システムのアシストなしに、自らの脳髄に記録された動きの流れを読み取り、身体に投影する。
紅桔梗に気圧されていた脚が、地面を砕く勢いで一歩前に踏み出す。
「射殺す百頭」
レンの瞳に最早迷いはない。ただ目の前にある戦いの勝利をもぎ取ろうと、ただそれだけを狙い光灼瞳。
黄金と紅桔梗がただ一点に吸い込まれるように放たれ、周囲を凄まじい轟音が劈いた。
「うおっ…」
数十メートルも先から吹き荒れた暴風に、小柄なジュンが吹き飛ばされそうになる。剣を突き立てて転倒を防ぐも、彼らの剣が触れ合う度に先よりも強い風が吹き荒れるせいで、踏ん張るのがやっとだ。
「……すげえ」
目の前で繰り広げられる戦いがこの仮想世界最高峰であることは間違いない。命を燃やして、心をすり減らして戦っているが故に、この斬り合いは鬼気迫るものへと昇華する。
「……二人とも、笑ってる」
その先に待つのは悲劇でしかないということは、斬り合っている本人が一番理解しているのだろう。
だからこそ彼らは笑う。
最期の望みを叶えてくれた兄に向けて。
運命を定めてくれた義妹に向けて。
彼らは後先のことなど考えてはいない。そんな事をしていたら、大切な『今』が逃げてしまうことを知っているから。
信念を乗せてぶつけ合っているこの『今』こそが、何よりも尊い時間であることを知っているから。
「っ!」
都合九度目の衝突を経て、金色の斧剣は力尽きるように消えていった。途端に硬直する体。剣を振り切った姿勢のまま、紅桔梗色の翼が大きく広がるのを見た。
「まだ…っ!?」
神速の九連撃に勝るとも劣らぬ速度の連続刺突に加え、十を超える連撃。
劣化しているとはいえ、大英雄の絶技を上回ったそれは、まさに神業。
「お前は間違いなく強い。だが、」
反応速度、窮地での機転、勝ちを引き寄せる意思の強さ。目の前の少女はその全てを持っている。
いずれ兄ですら追い抜いてしまうかもしれない。だが、その「いずれ」が訪れる前に、彼女の命は尽きてしまう。
だから負ける訳にはいかない。
彼女が望んだのは英雄としてのレンとの戦いだ。自己嫌悪に苛まれ、無力感に蝕まれ、罪の意識に怯える紺野縺との戦いではない。
お前が夢見た英雄は、真実、最強であったと証明しなくてはならない。
だから――
「負けるつもりは、ない」
意識を一度切り離し、刹那に繋ぐ。
SAO時代、彼の生命線であったと言っても過言ではいスキルコネクト。光を失った剣に、輝きが蘇る。
「させませんッ!」
ランに驚きはなかった。当たり前だ。兄がこれくらいの事をできないはずがないと確信していたから。故に、彼女の十撃目は渾身の力と意思を以て放たれた。
「ぐっ…!」
レンですら見切ることのできない速度で放たれた刺突は、彼の左脇を刳り貫いた。
「鞘で!?」
だが逆に脇腹を抉られただけで済んだのは、左腰の鞘によるガードが紙一重の所で間に合ったからだった。ランの刺突が見えた訳ではない。ただ、極限状態にある彼の観察眼と加速化された思考は、彼女の腕の振りの角度、速度を計算し、なんとか直撃するのを避けたのだ。
「これで、終わりにしよう」
――ああ、勿体ない。
そう思ってしまった心を捻じ伏せる。
この一刀を、これまでの縺が積み上げてきた全てを込めた業を、彼女に捧げる。
「――叢雲」
護神柳剣流剣術奥義。
それは紺野縺が編み出せた唯一の奥義。
力の全て、流れの全て、体の構造の全てから無駄を削ぎ落し放たれる一閃。光速ではなく、神速でもなく、全ての挙動を上回る「最速」の剣技。
――紅桔梗が、弾け散った。
† †
ずるり、とランの身体から力が抜けオレにもたれかかってくる。オレはそれを受け止めて、ゆっくりと地面へ跪いた。
「フフ…私の、負け、ですね……」
耳元で呟かれた声は、酷く弱々しかった。それだけで、彼女に残された時間はもうないのだと悟ってしまう。
だからこそオレは宣言しなくてはならない。君に勝ったのは、最強の英雄であると。
「ああ。オレの、勝ちだよ、ラン」
傍らの少女は、満足そうに笑った。
「ああ――楽しかった」
それはきっと、心の底から出た言葉なのだろう。先は長くないと分かっていても、彼女は生きることを諦めなかった。全力で、生きることを楽しんでいた。そして、自分と同じ境遇の人にも手を差し伸べた。悲しみを分かち合い、喜びを分かち合い、共に生きて行く。それが、彼女の目指したスリーピング・ナイツだ。彼らは常に、彼女の傍にいる。
「……ラン」
最初に声をかけたのは、ジュンだった。彼はその赤銅の瞳いっぱいに涙を浮かべて、それでも溢しはしないと唇を噛み締めていた。
「ジュン、それに、みんな…うん、見ての通り、もう、限界みたい」
それを否定する者は、誰もいなかった。否定など、できないのだ。
「でもね、私、後悔はない、です」
だってこんなにも、ランは満たされた顔をしている。
「みんなと、色んな場所を冒険して、いっぱい戦って、楽しかった、もの」
彼女は、ここで終わってもいい。否、終わりたいと願っているのだから。
「姉ちゃん」
ならば、伝えなければならないことがある。ユウキの声は、決意に溢れていた。
ユウキを先頭に、全員がランに向けて整列する。オレはランを支えながらゆっくりと座らせた。
「ううん、ボクらの団長。スリーピング・ナイツのリーダー、ラン」
スリーピング・ナイツの皆は一斉に片膝を付き、ランに向けて頭を垂れた。
「ユウキ…?」
「聞いてやってくれ、ラン」
戸惑うランに微笑み、彼らのほうを向かせる。最初に口を開いたのは、シウネーだった。
「セリーン・ガーデンで貴女が私達に声をかけてくれて、そしてスリーピング・ナイツは結成されました」
VRホスピス「セリーン・ガーデン」。そこでランは、『生きる』為に、スリーピング・ナイツを作ったのだという。
「それから、アタシ達は貴女に連れられるまま、色んな世界を旅した」
ノリは涙を堪えながら言葉を紡ぐ。きっと彼女は今、皆で巡った世界を思い出しているのだろう。
「ボク達は、貴女に『生きる』ことを教わりました。生きる喜びを、貴女は教えてくれました」
タルケンの声は震えていた。それでも、この時だけはと涙を堪えているのが分かった。誰よりも真摯に、生きることを諦めていた彼らに声をかけ続けた恩人のために。
「貴女のお陰で、ボク達はボク達の人生を諦めないって思えたんだ」
その巨体を強張らせて、テッチはいつもの温和な顔をくしゃくしゃにしながら言い切る。自分たちを救ってくれたのは、貴女なのだと。
「ありがとう、ラン。俺たちが今生きているのは、貴女のお陰だ」
きっと、そのジュンの言葉がとどめとなったのだろう。ランの瞳から、涙が零れた。
震える肩を抱く。皆の思いの丈はランに伝えた。次は、彼女の番だ。
「私は、ずっと、生きていていいのかなっ、て、思ってたんです…」
それは彼女の独白だ。これまで己の裡に秘め続けてきた、誰も知らない彼女の苦しみ。
「何も、することができず、家族に迷惑ばかり、かけて…。ユウキを、向こうに一人に、してしまって…こ、こんな私が、生きていて、本当に、いいのかな、って」
誰も知らなかった。自分たちに生きる喜びを教えてくれた人が、心の底で誰よりも生きることに迷っていたなんて。
ああ、それはオレの罪でもあるのだろう。ただの興味本位から、SAOに囚われ、彼女たちの傍にいてやれなかった。だから、刻み込まなければならない。彼女の本当に気持ちを。
「でも…っ、私、誰かの助けに、なれてたんですね……私の、生きてた意味は、確かにあったんだ……!」
一度溢れ出した涙は止まらない。それでも彼女は笑った。顔をくしゃくしゃにして、幸せそうに。
そう、彼女は今まで心の奥底で『証』を求めていた。生きていてもいいという証、彼女の生を正当化するモノ。それが、いつも身近にあったことには気づかずに。
「スリーピング・ナイツは、姉ちゃんが生きてたっていう証だ」
ユウキの声に、全員が涙を拭う。これより先は、騎士としての誓いだ。命を救ってくれた、敬愛する団長に向けての誓いに、涙は不要。
「我らスリーピング・ナイツは、これからも続いていきます。姉ちゃんが生きてきた証を、失わせはしない」
ランの表情は驚きに染まり、やがて、柔らかな微笑みに代わった。
「これは、この場にいる全員の総意だよ。ここから先、リーダーはボクが引き継ぐ。いいかな、姉ちゃん?」
ランは頷き、そして、驚くべきことに自力で立ち上がってみせた。その時、彼女の足元が消えかかっているのに気づいた。もう、アバターを維持することすらできないのだ。だからこそそれは正真正銘、最期の力なのだろう。一歩踏み出し、よろける。慌てて支えようと立ち上がるが、しかし彼女は自力で踏みとどまった。
「ここは、私の、居場所でした。とても暖かい、安らげる場所……」
オレは跪き、頭を垂れ、瞳を閉じた。手助けは不要、そう彼女の背中は語っていた。
一歩一歩、よろけながら、しかし確実にユウキに近づいていきながら、ランは背中に吊った剣帯を外した。その時には彼女を包む光は全身を覆っていた。
「コレを、貴女に託します。どうか末永く、皆が生き続けることを祈って」
ユウキが両手を差し出し、ランはその手に剣を預けた。絶剣の象徴たる、マクアフィテルと銘付けられた黒曜石の剣だ。
「私は、生きたんですね。確かに、ここで」
ランは微笑み、燃えるような夕焼けを見上げる。自分が生きた世界を、目に焼き付けるように。
「うん。私は、確かに、」
――幸せ、でした。
彼女を包む光はやがて大きくなり、そして、夕焼けに染まる空へと昇っていく。
皆が溢す涙と嗚咽だけが、その場に残った。
† †
意識が覚醒する。その直後にアミュスフィアを頭から毟るように外し、追いかけてくるユウキと共に部屋を出た。
ラン/藍子をこれまで外界から守っていた無菌室の扉は、開かれていた。
「…縺君、木綿季君。すまない、見ての通りだ。せめて最期に、彼女に会ってやってくれ」
「……はい」
倉橋さんに通され、オレと木綿季は藍子が眠っている枕元に立った。薄っすらと、彼女の瞳が開く。屈んだ木綿季の頬に手を添える。何よりも愛おしい妹に、最後の言葉を伝えるために。
「ゆう、き。貴女を、愛してる……どうか、私の、分まで」
「うん、うん…!姉ちゃんの分も、きっと生きるから。絶対、幸せになるから…!」
姉妹が寄り添う姿を、オレはどこか遠くから眺めているような気分に陥っていた。こんな時にまで、オレはくだらない疎外感を覚えていたのだ。
「にい、さん」
藍子の呼ぶ声に、意識を引き戻される。震える足で、彼女の下へ。
「私ね、兄さんが、帰ってきて、くれて……本当に、嬉しかった、の」
視界が、涙で覆われる。ぐしゃぐしゃになった景色を、彼女の顔を直視するために、涙を振り払う。
「ね、もう少し、顔を、近づけて…」
藍子に言われた通りに、顔を近づける。すると、余りにも細い彼女の手がオレの頬に触れた。
そして次の瞬間、彼女の唇が、オレの額に触れていた。
「どう、か。自分を、責めない、で。貴方を責める人、なんて……誰も、いないの、ですから」
「私も、こんなにも、貴方が、大好き、なんですから…」
――――私の、愛しい、家族……どうか、幸せに、健やかに………
それが、紺野藍子の最期の言葉となった。
するりと頬から滑り落ちていく手をつかみ取り、オレはただ、涙を流すしかなかった。
To be continued
後書き
次回からは、本格的にALO編に突入していきます。
ページ上へ戻る