チェロとお味噌汁と剣のための三重奏曲
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5. あなたのもとに駆けつけたくて(後)
……
…………
………………
「と……さ……。とも……さん。大丈夫です………ひささん?」
とても心地いい声が聞こえる。いつの間にか真っ暗になってしまった視界の中では何も見えず、ただ遠くの方から、とても心地いい声が、僕を呼んでいることだけがわかる。
少しずつ少しずつ、視界が明るくなってきた。僕は知らない内に目を閉じていたみたいだ。もうずっと目を閉じていた時のように、まぶたを開いても、焦点が中々しっかりと合わない。
「智久さん、気が付きました?」
まただ。とても心地いい声が、僕の名を呼ぶ。今度は僕のすぐそばで……
「うぁ……は、はい……」
まだなんとなく頭がボーとして、状況が把握できない。少しずつ、周囲の歓声が耳に届き始めた。
自分の状況が、なんとなくわかってきた。僕はどうやら、大の字になって仰向けで寝転がっているようだ。つけていたはずの面もなく、面手ぬぐいも外されている。いつの間に外したんだっけ……?
それに、試合はどうなったんだろう? 僕は確か、ロドニーさんと試合をしていたはずだけど……
「ハッキリしてきましたか? 大丈夫ですか?」
目の焦点が合い始め、視界に入ってるものの輪郭がハッキリしてきた。倒れている僕を、誰かがしゃがんで、笑顔で覗き込んでいる。しかも三人。
「えーと……すみません、試合は……」
大の字になったまま、僕は小手を外して、汗臭い右手で頭を押さえた。頭が少しずつ、ズキズキと痛くなってくる。頭のてっぺんに触れると、かなり大きなたんこぶができているようで、自分の頭ってこんな形をしてたっけ? とぼんやりと疑問を抱くほどだ。
僕の顔を覗き込む、ぼんやりとした人影のうちの一人が、困ったような苦笑いを浮かべた。
「……見事な一本負けでした」
やっと焦点が合ってきた……二重に見えていた人影がそれぞれひとつに重なり、そこで僕は、自分を覗き込んでいる人たちが誰なのか、ハッキリと理解できた。
「……!?」
「?」
「ほ、鳳翔さんッ!?」
「はい。おまたせしました」
頭が混乱する。さっきまでいなかったはずの鳳翔さんが、なぜ今、ここで笑顔で僕を見下ろしている?
「コワイカー!」
「いたた……なんでここに……」
あとは、僕の胸に乗っかっているさっきの妖精さんと、僕のそばで顔を覗き込んでいたPT子鬼の天龍二世さんだ。二世さんの表情は正直読めないけれど、妖精さんの表情がパアッと明るくなった辺り、倒れていた僕をずっと心配してくれていたらしい。
それにしても、鳳翔さんはなぜ、僕も知らない試合結果を知っている? 僕は頭のてっぺんのたんこぶをいたわりつつ、上体をゆっくりと起こした。
「いつつ……」
周囲を見回す。僕の周囲には、鳳翔と二世さん、そして妖精さんだけだ。
「あら、大きなたんこぶが出来てますよ?」
「は、はい……」
不意に、てっぺんのたんこぶに痛みが走った。鳳翔さんが、そのあたたかい右手で、僕のたんこぶに触れたようだ。とてもうれしいんだけど、今は触れてほしくない……でも、触れていてほしいような……
「いでぃっ!?」
「ぁあ、ごめんなさい」
妖精さんと子鬼さんを見ると、僕が先ほど脱ぎ捨てた小手を二人で手に取って、匂いを嗅いだ後目を回してコロンと音を立てて倒れていた。
上体を起こしたまま、前を見る。僕と鳳翔さんのはるか前の方で、ロドニーさんが大喜びでぴょんぴょん飛び跳ねていた。赤城さんの手を握り、『やったー! これで大学の強者全員から勝利をもぎ取ったぞ赤城!!』と、まるで五歳の少年のように、飛び跳ねて大喜びしている。
……さて、僕はどのようにして負けたのか……苦笑いの鳳翔さんに見守られながら、僕は必死に、記憶の残滓をたどっていった……
………………
…………
……
「はじめッ!!!」
覇気の篭った赤城さんの、ビリビリとした衝撃がこもる声がひびき、僕とロドニーさんの試合がはじまった。僕はロドニーさんから視線を外さない。
「フッ……」
「……」
「思ったとおりだ……やはり貴公は、いい気迫を持っている」
ロドニーさんの目だけが笑う。『私は楽しいぞ? 貴公はどうだ?』とでも言わんばかりの眼差しだ。大丈夫。楽しくはないが、自分でも驚くほど、ロドニーさんの気迫に気圧されない。意識の収束も問題ない。ソラールさんのお日様マークよりも、ロドニーさんの眼差しの方が、何倍も意識を収束させやすい。
「……」
「さぁ……戦の時間だッ……!」
ロドニーさんの気迫が、さらに高まったのを感じる。向かい風のように強烈なプレッシャーが僕を襲うが、僕の意識は驚くほど静かだ。今なら、ロドニーさんの一挙手一投足のすべてが、手に取るようにわかる。僕は彼女の隙を逃すまいと、意識をロドニーさんだけに向けた。
……はずだった。
ロドニーさんの背後に見える、扉がガラガラと開いた。途端に外の明るい光が、会場に差し込み、僕とロドニーさんを明るく照らす。でも大丈夫。この程度の逆光なら、問題はなかった。逆光だけなら。
「……ッ!?」
開いた扉の向こう側には、鳳翔さんが立っていた。いつもの和服に割烹着の出で立ちで、両手で大きなお重の包みを抱え、息を切らせ、ほっぺたが紅潮していた。開いた会場入口の扉の前で、僕とロドニーさんを、固唾を呑んで見守っていた。
「鳳翔さん……!!!」
その鳳翔さんは、今まで出会った誰よりも、キレイだった。
そして僕の意識がロドニーさんをはずれ、鳳翔さんを捉えてしまったその隙を、ロドニーさんが見逃すはずがなかった。
「隙ありぃぃぃぃいいいいええええあああああああ!!!」
ロドニーさんが咆哮を上げ、両手で竹刀を振り上げて突進し、僕に渾身の一撃を打ち下ろした。
会場に、スパーンという心地良い竹刀の音が鳴り響く。
「……」
「……貴公、良き敵だった」
しばらくの沈黙のあと、僕の耳に、自分の両目がひっくり返る『グリュンっ』という音が届いた。ソラールさんの『貴公……』という心底残念そうなつぶやきが聞こえた直後、僕の意識が、ブラックアウトした。
……
…………
………………
うわ恥ずかし! よりにもよって、鳳翔さんの姿に気がそれて、それでロドニーさんに負けるなんてッ!? 顔から火が出るッ!? 無理っ! もう無理っ!!
「そんなに恥ずかしがらなくても大丈夫ですよ」
「いや恥ずかしいですよ……せっかく鳳翔さんのお力になれると思ったのに……いつつ」
「ほら。これでたんこぶ冷やして下さい」
鳳翔さんが、いつの間にか準備してくれた氷嚢を包んだ手ぬぐいで、僕のたんこぶを冷やしてくれている。それはとてもうれしいけれど、さっきみたいに直接触れてくれる方が……いや、痛いか。
ちなみに、気がついた僕がなぜ面も面手ぬぐいもつけてなかったのかと言うと……僕が気を失っている間に、天龍二世さんと妖精さんが必死にがんばって外してくれたらしい。
「お二人もありがとうございます」
「コワイカー!」
それにしても、ロドニーさんの気迫をちゃんと受け止められた時は、『おっ行けるか?』て思ったんだけどなぁ……。うーん……悔しくはないけれど、なんだかもやもやとしてしまう。
そんなことを思っていたら……鳳翔さんはそんな僕の思考を読んでいたようで、なんだかとてもありがたいような……でも男の僕にはショックなような、そんな何とも言えないことを話しだした。僕の背後で、冷たい手ぬぐいで僕の頭を冷やしながら話す彼女の声は、僕の耳に、とても心地よい。
「智久さんはー……元々、争いや武道には向いてないのかもしれませんね」
「うう……そうですか?」
「はい。その分、智久さんは優しいということです」
「どうしてですか?」
「だって……」
「……?」
鳳翔さんが黙りこむ。鳳翔さんは僕の背後にいるから、彼女がどんな顔をしているのか分からない。なんだろう……なにか言うのをためらってしまうようなことでも考えていたのか……?
しばらくの沈黙のあと、突如僕の首筋に、氷点下の衝撃が走った。
「……えいっ」
「ひやぁあんッ!?」
鳳翔さんが、冷たくなった自分の手で、僕のうなじをちょんとつっついたようだ。おかげで僕は変な悲鳴を上げてしまい、ソラールさんやロドニーさん、赤城さんといった周囲の人たちから『何事だッ!?』と変な注目を浴びてしまった。
「な、なにするんですかっ!?」
「ぷぷぷ……」
鳳翔さんが立ち上がり、僕の前に回りこむ。両手で口を押さえ、ほっぺたを赤くしながら、楽しそうにぷぷぷと笑う鳳翔さんは、そのまま僕に背中を向け、ロドニーさんたちに向かって、優しく、でも弾んだ声を響かせた。
「みなさん! 剣術大会お疲れ様でした! お昼ごはんにしましょう!!」
「「「ウォォオオオオオオ!!!」」コワイカー!!!」
正直、僕に変な声を出させたのは納得行かないけれど……
「智久さんも、よかったらどうぞ!」
「……はいっ! いただきますっ!!」
「はい。首をつっつかせてくれたお礼です」
「えぁ……」
「ぷぷぷ……」
まぁいいか。いつも仕事してる時の鳳翔さんしか見てないから、今のこの、ちょっとおちゃめな鳳翔さんは、見ていてとても新鮮で、楽しいし。
その後、出場者全員と主審の赤城さん、そしてPT子鬼の天龍二世さんのみんなで食べた鳳翔さんのお重は、本当に美味しかった。玉子焼き……唐揚げ……ハムとチーズと大葉のちくわ巻き……トマトのピクルスは酸っぱくて最高に美味しい……
それはみんなも同じようで、いたるところから『こりゃうまいっ』『さすが鳳翔だっ!』『コワイカー!!』などと感嘆のため息がこぼれ、称賛の声が上がる。
だって、どれも実際美味しいもん。自分の胃袋に限界があるのがとても悩ましい。僕の身体に限界がなければ、いつまでもいつまでも食べていたい……そう思える、素敵なお重だった。食べてるうちに、顔中が笑顔になる……食べる人たちが、みんな笑顔になる……こんな素敵な料理が、世の中にはあったんだなぁ……。
「鳳翔さん! 美味しいです!!」
「ありがとうございます。頑張って作った甲斐がありました」
満面の笑顔でおにぎりを頬張り、梅干しの酸っぱさに顔をしかめながら、僕の隣で満面の笑顔を浮かべた鳳翔さんに美味しさを伝えた。正直、『美味しいです』だけでは伝えきれないこの感動……どうすれば過不足なく鳳翔さんに伝えられるか……ずっと考え続けていたのだが……。
「智久さん」
「はい?」
そんなふうに、僕が贅沢な葛藤に頭を悩ませていたら、鳳翔さんが、一つの水筒からコポコポと中身を注いだカップをくれた。途端に僕の鼻をこしょこしょとくすぐり始める、この鰹だしと田舎味噌の良い香りは、鳳翔さん作のお味噌汁。
「……よかったら、どうぞ」
「え……」
「この前晩ご飯をご一緒した時、私のお味噌汁を褒めてくださいましたから」
カップに注がれたお味噌汁の湯気の向こうで、鳳翔さんが笑顔で僕を見つめてた。ここは室内だから、風は吹いていないのに、鳳翔さんのポニーテールが、少しだけ、揺れた気がした。
鳳翔さんにありがとうを告げた後、カッブを両手でそっと受け取る。カップが熱い。中を覗くと、お豆腐とわかめのシンブルなお味噌汁。
「……では、いただきます」
「はい。どうぞ」
笑顔の鳳翔さんに見つめられながら、僕は静かに、カップのお味噌汁をすすった。
「ふーっ……ふーっ……」
「……」
「ずずっ……」
「……」
「……」
「……」
「……ほっ」
途端に、心地いいため息がこぼれた。試合の疲れやたんこぶの痛み、残り続けた試合の気迫、好きな人が隣りにいる緊張……何もかもが、心地いいため息と共に、僕の身体から出て行った。
「おいしい……」
「……」
「……ほんとに、美味しいです」
「……」
「鳳翔さん、ありがとうございます」
語彙力のない僕は、こんな風にしか言うことが出来なかったけれど、僕の言葉を聞いた鳳翔さんは……
「……よかったです」
ほっぺたを赤く染め、はにかんだような、でもとても優しい笑顔を浮かべていた。
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