国木田花丸と幼馴染
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進路
予選敗退という結果に終わった水泳大会から二週間が経った。その事実に、俺はいつも以上に浮かれていた。なぜなら、授業という名の地獄から抜け出すことができたからである。これを喜ばずしてなにを喜ぶというのか。勉強から一時的に解放され、青春の夏が俺を待っているのだ。
そう。学校の一学期が終わり、俺たち中学生にとって至福のとき――夏休みが始まった。
夏休みの宿題なんていう忌々しいシロモノの存在はあるものの、今は置いておくとしよう。ああいうのは勉強ができるかしこい幼馴染、マルに夏休みの終わり頃に見せてもらえばいい。去年も一昨年もそうやって切り抜けてきた。
マルは押しに弱いところがあるから、夏休み終盤に家を訪ね、玄関先で土下座して「宿題を写させてください!」と頼み込めば簡単に写させてくれる。そのときに感じるゴミを見るような視線さえ耐えきれば、なんの問題もない。
つまり、夏休みに突入した今、俺は自由を手に入れたのだ。さてと、今日はなにをしようかな……時刻は昼過ぎ。誰か暇そうな友達に電話して、カラオケでも行こうかな。
そんなことを考えていた矢先、家のインターホンが来客を告げた。
両親は外出中で家には俺ひとり。俺は玄関へと向かい、家のドアを開けた。
「はーい、どちらさま……」
ガチャリとドアを開ける。まさかこのあとあんなことになるなんて、このときの俺は知るよしもなかった。
「ずら」
「……なんだ、マルか」
玄関先に立っていたのは俺の幼馴染、国木田花丸。夏らしい白のワンピースを身にまとい、背中に可愛らしいカバンを背負っている。
「どうした、遊びに来たのか?」
「ずら。久しぶりにハルくんの部屋で、遊びたいなあって」
「……そ、そうか」
なんだかいつものマルと雰囲気が違っていて、返事に詰まってしまった。なぜだろう、夏の熱気に頭がおかしくなってしまったのだろうか。
天気予報では、今日は真夏日と言っていた。家の中と違って外は蒸し暑く、マルはべっとりと汗をかいている。顔を赤くして、息が少し乱れている。
「と、とりあえず暑いだろ。入れ」
「お邪魔するずら」
マルを家の中へと招き入れる。冷房の効いた俺の部屋でマルを一旦待たせて、俺はグラスと麦茶をとりに向かった。
必要なものを用意しながら思い返すのは、さっきのマルの様子。上気した頬が朱に染まって、ボーッとしていたのが気になる。もしかしたら熱中症かもしれない。
マルが心配だ。早急に麦茶とグラスを用意して、俺はマルの待つ部屋に戻った。
麦茶を飲んだマルは、すっかり元気になった。そういえばマルは運動が苦手であまり体力もなかったから、単に暑さにやられていただけなのかもしれない。
「涼しいずら〜」
机を挟んだ向こう側、ワンピースの胸元をパタパタと扇ぐマル。俺はマルから視線を逸らした。無防備なマルのその仕草は、きっと無自覚でやっている。俺がマルの幼馴染じゃなかったら、どうなっていたことやら。
「ハルくん? どうしたずら?」
「あ、いや……」
俺の様子がおかしかったのか、マルが尋ねてくる。そんなことを聞かれても、返答に困るというものだ。ここは素直に忠告しておいたほうがいいのか、それともなにも言わないでおくのか。
迷った末に俺はマルに忠告しておくことにした。
「マル、ひとつ言っておく。男の前でそう胸元をパタパタするのはやめておけ。色々と見えそうだぞ」
「あっ……わかったずら」
俺の言葉を汲んだマルは、それ以上胸元を扇ぐのはやめた。その様子を見ると、どうやら無自覚でやっていたようだ。
マルはあっけらかんとしているが、俺のほうは少しばかり気まずい。いくら幼馴染とはいえ、マルは女の子なのだ。
「そういえば、今日はどうして俺んちに来たんだ?」
「それはね、えっと……」
話題を変えようと俺はマルに尋ねた。するとマルは、持ってきたカバンの中をごそごそと漁り、なにかを取り出して俺に見せてきた。
「これずら!」
「そ、それは!?」
マルが見せつけてきたものは、俺にとって考えられないものだった。
「夏休みの宿題!?」
「ずら。ハルくんはいつも宿題を後回しにして、マルに見せてもらおうとするずら。だから今から一緒に宿題をするずら!」
満面の笑顔でマルは宿題を机の上に広げていく。どうし今から宿題を始めようというのに、そんな楽しそうな顔をしているのか、俺には到底理解できそうにない。
「さあ、ハルくんも宿題を出すずら」
「い、嫌だ! 俺は宿題なんかしたくない、遊びたいんだ! せっかく夏休みなんだし……そうだ! マル、一緒にゲームやろうぜ!」
「ハルくん」
「……はい」
結局マルに押し切られ、俺は泣く泣く夏休みの宿題を始めることになった。鬼教官か、俺の幼馴染は。
「も、もう勘弁してくれ……」
「ダメずら。このままだとハルくん、いつまでたってもやらないずら」
夏休みの宿題を始めてから一時間、俺の脳は疲れ果て、もう限界に達していた。
「それは……そうだけど」
「なら、がんばるずら」
マルはすらすらとペンを走らせていく。本当に真面目に、そして楽しそうに勉強をする幼馴染だ。
宿題に熱中するマルを見ていたら、その熱にあてられでもしたのだろうか。
「……うしっ、やるか」
俺もあと少し宿題を頑張ろう。柄にもなく、不思議とそう思ってしまった。
「ふぅ……終わったずら」
「えっ、もう!?」
それから三十分。マルはグーッと身体を伸ばし終えると、机の上に広げていた宿題をいそいそと片づけだした。
そしてマルは、なにやら別の教材を机の上に広げていく。それは学校の教科書ではなく、初めて目にするものだった。
「マル、なにそれ?」
気になったので聞いてみる。
「ん? ああ、これは受験勉強ずら」
「受験……」
その言葉がずしりと重く俺にのしかかった。俺たちは中学三年生、もうすぐ高校受験が控えているのだ。
「そうだよな。俺たち今年、高校受験だもんな」
「うん。だからハルくんも、遊んでばかりじゃなくて真面目に勉強したほうがいいずら」
そう言ってマルは教材に視線を落とし、さっきまでと同じように勉強を始めた。
もしかして、マルはこのままだと高校受験に失敗しそうな俺を心配して、今日こうして俺の家にやって来たのだろうか。
マルの思惑は俺にはわからないが、このままじゃいけないと強く感じた。マルの言う通り、そろそろ真面目に勉強に向き合わないといけないのかもしれない。
毎日が楽しければそれでいいと思っていた。嫌なことから目を逸らし続けていても、楽しければそれでいいって。でも、いつかは嫌なことに向き合わなくちゃいけない日がやってくる。
後回しにすればするほど、そのツケは大きくなっていく。だから、逃げるのは今日で終わりにしよう。
「マル、ありがとな」
「ずら? ハルくんどうしたの突然」
「いや、なんでもない」
俺は机に広げた宿題を再開した。決意が変わっても勉強が不得意なのは変わらない。だけど、これからは少し真剣にならなくちゃいけない。
宿題は相変わらずわからないところが多いけれど、これを乗り越え、受験も乗り越えれば、きっと今までのような楽しい高校生活が待っているに違いない。
「……そういえば、マルはどこの高校を受験するとか決めてるのか?」
マルがどこの高校を志望しているのか、俺は全然知らなかった。マルの学力だと、偏差値の高い高校を志望しているのかもしれない。もしそうなら、かなり必死に勉強しないとマルと同じ高校に通えなくなってしまう。
「あれ? ハルくんに言ってなかったずら?」
首肯する。その様子だと、マルはどこの高校を受験するかもう決めているらしい。
「ルビィちゃんがね、お姉ちゃんと同じ高校に行きたいみたいなの。マルもルビィちゃんと一緒がいいから、同じところ受けることにしたんだ」
「ルビィと一緒か、いいんじゃないか。それで、それってどこの高校?」
必死に勉強すれば同じ高校に受かって、またこれまでと同じような楽しい時間を過ごせると思っていた。そんな気持ちで俺はマルに尋ねたのだ。
そんな俺の希望は、もとより叶わないということも知らずに。
「浦の星女学院ずら」
「……マジ?」
「マジずら」
浦の星女学院。女学院という文字が表すように、女子高である。つまり、俺はどれだけ頑張ってもマルと同じ高校に行くことはできない。受験することすら許されない。
「そうか……じゃあ、高校は別々になるな」
「そうだね。まあハルくんの場合、高校に行けるかどうか怪しいところずら」
「なっ!? 言いやがったな!」
「事実ずら」
「ひどっ!? 俺の幼馴染ひどっ!?」
そんなやりとりをして、クスクスと笑う俺のひどい幼馴染。幼稚園から中学校までずっと一緒だったけど、高校はどうやら別々になりそうだ。
そのことに少し寂しい思いはあるけれど、マルがいなくてもどうってことはない。高校で新しい友達をつくって、楽しく過ごせればそれでいい。
「さて、宿題の続きやるか!」
「そうだね。ハルくん、がんばるずら!」
「おう、がんばるずらー!」
「ずらー!」
マルの口癖を借りて決意を新たにする。拳を突き上げて気持ちを高めると、マルも俺の真似をして拳を高く突き上げた。
俺の幼馴染、国木田花丸。幼稚園から中学校までずっと一緒だったけど、高校は別々になってしまう。
違う高校に通うことになっても、たまにはこうしてマルと遊びたい。今ここにはいないがルビィも一緒に、休日は三人で集まって今までみたいな楽しい時間を過ごしたい。
そんな高校生活を送るためにも、今は目の前の宿題を終わらせる。それが終われば受験勉強をしなくては。勉強は辛いけれど、今が頑張りどころなのだ。
頑張ってたどり着いたその先に、明るい未来が待っていると信じて。
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