国木田花丸と幼馴染
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自己ベストずら
ルビィの一件からおよそ一週間が経った。あれ以来、ルビィは以前に増してよく喋るようになり、よく笑うようになった。マルもルビィの変化には気づいている様子ではあるが、何があったのか聞き出すようなことはせず、俺たちは楽しい日々を過ごしていた。
そして今日は水泳大会の当日。全国大会の地区予選ということで、日々水泳に励んでいる近隣の中学生たちが、ここ『沼津グリーンプール』に一同に集結する。
この大会に向けて、今日まで練習を積み重ねてきた。あとは後悔のないよう、全力で泳ぎきるのみ。
観客席にはマルとルビィも駆けつけてきてくれている。今日の大会のことを二人に話すと、二人とも見にきてくれるとのことだった。
マルは俺が大会に出場するときには冷やかしなのな、一人で見にきてくれていた。だけど今年はルビィも一緒だ。冷やかしなのか、それとも何か別の理由があるのか。どちらにせよ、見てくれている人がひとり増えた。二人のためにも、今日の大会は精一杯頑張らないと。
大会の会場はいつも練習で使っている、沼津グリーンプール。慣れ親しんだプールサイドを歩いていき、あらかじめ伝えられていたレーンの前に立つ。
『続いて、榎本陽輝くん。中学三年生』
場内アナウンスで名前が呼ばれる。ピンと手を突き上げて自己主張をする。審判の笛が鳴ると、それを合図に俺を含め選手たちが一斉にプールに入水する。
俺が出場するのは背泳ぎの100メートル。全8レーンのうち、俺が泳ぐのは一番端の第8レーン。
大会とはいっても、これから行われるのは地区予選。全国大会まで勝ち進むには、まずはこの予選レース全体で上位8位までに入らなければならない。
今から行われるのは地区予選決勝進出者を選抜する予選。その予選を勝ち上がり決勝へと進み、更にそこで上位に入らないと、全国大会には進めない。
プールに入水した俺は、専用のグリップに両手をかけ、更に壁に足をかける。そうして、レースの準備が整った。
『よーい』
グリップにかけた腕の力を使って、身体を壁際へと引き寄せる。そして――。
――パンッ!
号砲の音を合図に、背泳ぎ100メートルのレースが始まった。
***
大会の全日程が終了した。施設の外へと出ると、真っ赤な夕日が正面に見えて眩しい。思わず目を顰める。なんだか哀愁を感じてしまう雰囲気に、思わず乾いた笑みが漏れた。
「ハルくん」
背後から声がした。振り向くと、そこにはマルとルビィが立っていた。二人ともどこか困惑したような表情を浮かべている。おそらく、俺にかける言葉が見つからないのだろう。
嫌な沈黙が続く。そんな空気を破って言葉を発したのは、以外にもルビィだった。
「あのっ! 榎本くん、その、えっと……」
懸命に言葉を探そうとするルビィ。俺は何も言わずに、彼女の言葉を待った。するとルビィは、勢いよく頭を下げ――。
「ごめんなさい!」
「えっ」
ルビィが謝る意図がわからず、俺は素っ頓狂な声をあげてしまう。そんな俺を気にする素振りもなく、ルビィは続ける。
「榎本くんが負けちゃったの、ルビィのせいだよね。この前、ルビィのせいで榎本くんが怪我しちゃって、それで……」
なんだ、そういうことか。ルビィが自分を責める理由に合点がいった。俺が予選であっさりと敗退したのは、一週間前の怪我が原因だと。そしてその原因をつくってしまった自分を責めているのだと。
「違う、ルビィのせいじゃない。俺が負けたのは、俺の実力が足らなかったからだ」
「でも……でも……っ!」
それでもルビィは自分を責める。俺のためにここまで自分を責める良い子だ、思い違いをさせたままにしていたくない。
どうしたもんかと考えていると、ルビィの隣にいたマルが言葉を発した。
「ルビィちゃん。ハルくんの言う通り、ルビィちゃんは何も悪くないずら」
「でも、ルビィのせいで……」
どうしても罪の意識が拭えない様子のルビィ。そんな彼女に、マルは言葉を続ける。
「自己ベストずら」
「えっ……?」
マルのその言葉に、ルビィはハッと顔をあげた。さっきまでの自戒の念はどこか遠くに消え去っているようだった。
「今日のハルくんのタイムは、ハルくんの自己ベストずら。ハルくんは全力を出して、負けた。だからルビィちゃんのせいじゃないずら」
「本当……?」
マルの言葉に半信半疑なのか、ルビィは俺に向かってそう尋ねてきた。
「ああ、本当だ。恥ずかしいけど、今日のタイムが俺の自己ベスト。もともと、全国に出場できるような実力は俺には無いんだ」
「……」
俺の言葉を聞いてルビィは俯いて押し黙った。きっと俺の言葉に何も言い返すことができなくて、気の利いた言葉を探しているといったところだろうか。
ちょうど目の前にそれがあったからなのか、それとも深層心理で俺自身がそうしたかったのか。気がつけば俺はルビィの頭の上に手を置いていた。
「だからお前のせいじゃないよ、ルビィ」
「う……うぅっ……」
頭を撫でると、ルビィは今にも泣き出しそうな声をあげる。涙を我慢しているのは、大会で負けた俺の手前なのだろうか。もしそうだとしたら、彼女はなんて優しい心の持ち主なんだ。
手の甲で目元を擦ったルビィが、顔をあげて俺と目が合った。
「榎本くん……! これからも……が、がんばルビィ!」
「おう! がんばルビィ!」
ルビィの思いっきり笑った顔はとても優しげで、俺はその言葉通りこれからも頑張ろうと思えた。
***
それからマルとルビィと、帰りは三人一緒に帰ろうという話になった。まだ帰りのバスまで時間があることを確認した俺は、マルとルビィに待っていてもらうことをお願いして、再び水泳場の入口をくぐった。
二人には忘れ物をしたと言って待ってもらっているのだが、それは嘘である。なぜそんな嘘をついて再び水泳場にやって来たのかというと。
自動ドアの入口を通って左に曲がってすぐのところに、その人がいることに気づいたからだった。
「お疲れっす」
「お疲れ。いいの、彼女を待たせて?」
「彼女じゃないっすよ。茶髪の子が俺の幼馴染で、赤髪の子が友達っす」
「へぇ、彼女じゃないんだ。あんなに仲よさそうだったのに」
「そうでした?」
「うん。陽輝、赤髪の可愛い子の頭撫でてたじゃん」
「ちょっ曜さん、そこ見てたんすか!? うわー恥ずかし……」
「えへへ……たまたま見えちゃったから」
ペロッと少しだけ舌を見せて曜さんは悪びれたように振る舞う。その仕草がやけに似合っているもんだから、俺はそれ以上なにも言い返そうとは考えなかった。
マルとルビィと話をしているとき、入口の向こうにチラリと曜さんの姿が見えたのだ。それから曜さんは入口から出てこなかったので、きっとまだ中にいるのだろうと思って俺はやって来たのだった。
「曜さん、優勝おめでとうございます」
今日は俺が出場した競泳と並行して、高飛び込みの大会も行われていた。そこで曜さんは見事優勝、全国大会へと駒を進めたのだ。
「ありがと。陽輝は……残念だったね」
「俺はいいっすよ。才能ないですし、水泳は趣味みたいなもんですから。大会は記念っすよ、記念」
その言葉は曜さんに向けてではなく、まるで自分に言い聞かせるように思えて仕方がなかった。負けた言い訳をしているようで、あまり気持ちのいいものではなかった。
「そうかな?」
「……え?」
だけど曜さんは、そんな俺を否定した。
「私は、陽輝に才能がないとは思わないけど」
「でも俺、予選落ちですよ?」
そんな曜さんの言葉を俺は否定する。まるで嘘で慰められているような気がして、自分がひどくみじめだ。
「陽輝」
「はい」
「ちょっと後ろ向いて?」
「何でですか……」
「いいから」
真剣な口調に真っ直ぐな瞳を曜さんはしていた。それを見てしまった俺は、曜さんの言うことに従うしかなかった。
言われた通りに後ろを向く。
すると、背中にピタッと温かい感触がした。それは何度も経験したことのある温もり――曜さんの背中。
「やっぱり。陽輝、また背伸びたでしょ?」
「そうっすか? 最近計ってないんで分からないです」
「うん、やっぱり伸びてるよ。成長期だねー、さすが男の子」
「あの、何なんですか?」
いきなり身長を計りだした曜さんに俺は戸惑いを隠せない。この行動に一体何の意味があるのか理解できない。だけどその答えは、曜さんがすぐに教えてくれた。
「あのね。陽輝の身体は前に比べてかなり大きくなった。今は身体の成長に動きがついていけてないだけなんだよ。筋肉はついてきたけど、まだ身体に合っていないの」
「はあ……」
話がイマイチよく見えない。
曜さんは続ける。
「だけど、これからきちんとトレーニングして、水泳に必要な筋肉をしっかりとつけて。それで動きを掴んでいけば、陽輝は今よりもずっと速くなれる。このままずっと水泳を続けていれば、きっと凄い選手になれる。私が保証する」
「……」
俺にそう説く曜さんの表情は真剣そのものだった。曜さんは本気で、俺のことをそう思っている。その想いは確かに伝わった。
「身体が大きいっていうのは、それだけでひとつの才能だよ。それは、私が手に入れることのできないものだから」
「曜さん……」
真面目に語る曜さんの言葉が、まるで水のようにすんなりと俺の中に溶け込んでいく。
「だから……頑張れ、陽輝!」
バシーンと、思いっきり背中を叩かれた。いや、背中を押してもらったと言ったほうがいいだろう。
あれだけの言葉をかけてもらって、思いっきり背中を押されてしまっては。
それに応えないわけにはいかない。
「――頑張ります!」
***
背中を押してもらったあとはバスの時間が迫っていたので、曜さんとはその場で別れ、俺はマルとルビィの待つバス停へと向かっていた。
だいぶ時間が押しているので、全力で走ってバス停を目指している。大会が終わったあとだというのに、また体力を使っている自分がおかしくて口から嘲笑が漏れ出した。
走っている今、不思議と清々しい気持ちだった。ルビィにこれからも頑張れと言われ、曜さんにも頑張れと背中を押された。俺は今、確実に前に向かって走っている。
「ハルくん遅いずら! バスもうすぐ来ちゃうよ!」
バス停にいるマルとルビィが見えると、マルが俺に向かって大声で急かしてきた。
「悪い、遅くなった!」
なんとか無事に俺はバス停にたどり着き、マルとルビィの前で恥じらいもせず膝に手を置いてゼェゼェと息を切らした。全力で走ってきたので、正直今は休みたい気分だ。
そんな俺を待っていたかのように、帰りのバスがやって来た。
「ちょうどバスが来たずら、ピッタリだねハルくん」
「ご、ごめん、ちょっと休ませて……」
「それならバスの中で休めるずら。さ、ハルくん帰るずら」
笑顔でそう言った俺の幼馴染は、疲れて一動けない俺の手を掴むと、引きずるようにして無理やりバスの中に詰め込んだのだった。
「マル、着いたら起こしてくれ」
「ずら」
最後にマルの口癖を聞いて、バスが発車した。
俺はマルとルビィの会話を子守唄代わりにして、ゆらゆらと揺れながら進んでいくバスの中、静かに眠りについた。
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