彼願白書
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リレイションシップ
クイーン・プロモーション
「本当に来たのね。」
執務室の入口の前で、腕を組み、通路の壁に背を預けているサイドテールの青い装束のよく似合う女性がそこにいる。
「嘘か真か。瑞鶴から聞いて待っていたら、本当にその格好をしている貴方を出迎えることになるとはね。」
正規空母、加賀。
壬生森が指揮していた艦娘の中では、筆頭である叢雲と肩を並べる練度の艦娘は彼女と龍驤しかいない。
しかし、彼女は今は壬生森の指揮下にはない。
彼女は、今は教官として、どこにも属さずに鎮守府を気ままに回る日々を過ごしている。
「加賀、来ていたのか。」
「えぇ、私も存外に暇なの。貴方以上に隠居生活が長いから。」
加賀は、ささやかな微笑みをもって、壬生森に返事をする。
かつて江田島で教鞭を振るっていた時期すら、彼女にとっては隠居の内らしい。
「今日も瑞鶴達に教鞭を?」
「いいえ、そこにいる司令代理からの呼び出しよ。古風な書状に精緻な達筆、こんなものを送ってくる酔狂に私も乗ることにしたの。」
加賀が胸当ての内からわざわざ見せつけるように出して、ひらひらと振ったのは、時代錯誤な三折りに上下を更に折って止めたような白い包み。
「中身は?」
「パーティーの招待状。」
「パーティーの招待状、ね。」
壬生森と叢雲はこの時点で中身を改めるべきだった、と後に後悔することになる。
壬生森は、「まるでどこかの医療ドラマみたいだな」と思いながら、加賀も含めた4人の艦娘を伴って、執務室に入る。
熊野に実務の全てを任せ、永田町の地下を根城としてから、何十年ぶりか。
扉の向こうには、カーペットとカーテン、テーブルクロスが真新しいこと以外、部屋の中の全てが最後に執務室を後にしたあの日のままで。
「いつでも、貴方が帰れるように。私はそれだけを願っていました。」
熊野が壬生森の先を歩き、執務室の奥にある壬生森もそこそこに気に入っていたアンティークの執務机に手を向ける。
「あとは、貴方がそこに座る。それで、全てが始まりますわ。」
「全てが、ねぇ。」
壬生森はしぶしぶ、というには少しだけ足取り早く、自分で椅子を引き、確かめるようにゆっくりと座る。
そして、執務机の上に置かれたやたらと格式張った書類の一番下に、壬生森はサインをする。
「魚釣島ニライカナイ基地、“特殊警備部”『蒼征』への着任完了の署名、これで全てか?」
「いいえ。貴方がすべきことは、あとひとつ。」
壬生森から受け取った紙を熊野は金の書簡筒に丸めて入れ、蓋を嵌め込み手の平から転がして放り浮かせる。
転げ落ちた書簡筒は、くるりと回って机の天板を叩くすれすれで仄かな光を残して溶け消える。
鎮守府が鎮守府として機能するためのトリガーが、引かれる。
その上で「提督」ではなく「壬生森」にすべきことを、熊野は提示する。
「加賀さん。」
「加賀、でいいわ。ここでは貴女のほうが先達だもの。」
加賀が手を滑らせなぞるように机の上に置いたのは、紅い珠の光る指環。
壬生森が長年、加賀に返すように言っていた、かつての夢の残滓。
「貴方が提督として復帰する。そして、私は貴方の部下となる。この指環が忘れ形見から、実利あるものとなってしまう前に、一度は返すべきだと思うの。」
「は?」
なんのことか理解出来なかった壬生森に、加賀は指環に続いて熊野からの書状を机に広げる。
そこに書かれた文章は、壬生森が顰め面をするには充分な内容だった。
「熊野、加賀がこのニライカナイの所属とはどういうことだ?」
「前任のニライカナイ司令官として、今後を見越した戦力強化をすべきと判断しました。もとより蒼征は空母打撃群として始まったハズですわ。それと、優秀な人材を遊ばせておくような怠慢を、私は美徳とは思いません。部長として、一番最初の仕事を私情からのクビ切りから始める提督ではないでしょう?」
謀られたな、と壬生森は思う。
しかし、ではなぜ、指環を返してきたのか。
壬生森はそこの意図を計りかねていた。
「この指環を横から奪い取ったまま、戦線復帰してなし崩し的にケッコン艦となるのはさすがに他の者が承知しないでしょう。私も、後ろから槍で串刺しにはなりたくありませんので。」
「あら、心当たりがあるの?槍持ってる奴に後ろからぶち抜かれるような、そんな心当たりが?」
加賀の言葉に、一歩後ろにいた叢雲が淡々と問う。
その右手は、何かを掴む前のように開いて、わずかに腰の後ろに引かれている。
「そうね。なきにしもあらず、かしら。」
「察しがいいわね。私もこの寂しい執務室の壁を飾る、ちょっと斬新で愉快なオブジェにしてやろうかと思ったところよ。」
くすりと笑う加賀と、にやりと笑う叢雲。
どちらも眼が笑ってはいない。
「二人とも、そこまでにしてくださいな。話が進みませんわ。」
ちっ、と舌打ちしたような、ぎりっ、と歯軋りしたような音がして、加賀と叢雲が熊野より後ろに下がる。
「この指環を加賀に返してもらったのは、貴方が提督として当然の権利を取り戻すためですわ。」
「当然の権利、とは?」
熊野の言葉に、壬生森は冷めた顔で尋ねる。
熊野は、壬生森が何を思っているのか、ある程度はわかっていて、それでも大事なことだと、そう思って踏み込む。
「ケッコン艦を選ぶ権利、選ばない権利。貴方が持つこの指環は、貴方が渡したいと思った相手にこそ渡すべきです。」
「今更かね?」
「今更もなにも、貴方を何年も振り回してきたのは、間違いなく、この指環。貴方が己を取り戻すには……この指環を、自分が選んだ者に渡す。それが、貴方に必要なことですわ。」
熊野の言葉を聞きながら、壬生森はやや不満げに、加賀の置いた指環を指先で摘まんで遊ばせる。
珊瑚の紅い珠が、壬生森の覚えているあの日のまま、輝いて見えた。
「……生者に渡すとは、限らないよ?」
「熟考の末、そうするならば私は止めませんわ。出来れば、私達の誰かが受け取るのが喜ばしいですが。理屈でも、感情でも。」
熊野は落ち着いた表情ながら、強く言い切る。
後ろにいる加賀も、腕を組んだ姿で壬生森を見ている。
叢雲は、少し不満げな横顔で、そっぽを向きながら、目端だけは壬生森を見ている。
静かにしている鈴谷は、何故か壬生森と同じような表情で眉間に指を当てる。
壬生森は、これからの前途を考えたのか、僅かな溜め息をひとつ吐いて、熊野が机の上に置いていたケースを開けて、その中に珠玉の指環をしまう。
「熟考する時間はくれるんだね?」
壬生森の言葉に、熊野は眩しいくらいの笑顔で答える。
「下手の考え、休むに似たり。そこはお忘れなきよう。」
「……相変わらず容赦のない。」
壬生森がジャケットの内ポケットに手を伸ばそうとしたところで、鈴谷から飴の入った缶箱を差し出される。
からり、と缶箱の丸い口から緋い飴玉を手の平に転がす。
どこまでも、壬生森の行く先にはこの色が付いて回るらしい。
「……とりあえず、世話になりそうなところへ挨拶に行くことから始めようかな。」
後書き
壬生森提督が鎮守府に着任しました。これより、艦隊の指揮を執ります。
おわり。
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