星がこぼれる音を聞いたから
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2. ホワイトタイ
夕食の準備を終えた俺は割烹着を脱ぎ、三角巾を頭から外して執務室に急ぎ戻った。
今晩は、ここ数日俺の頭を散々に悩ませた元凶……晩餐会という任務がある。夕食の準備を早めに済ませ、これから俺は晩餐会の準備を行わなくてはならない。なんせ準備にどれだけ時間がかかるか分からないし……
「提督、晩ご飯の準備終わったー?」
執務室に戻った俺を待っていたのは、今日も秘書艦をやってくれている隼鷹だ。隼鷹のノリはいつもと変わらないが、いつもの隼鷹と違う点が一点だけある。
「お前こそ書類整理は終わったか?」
「うん」
その言葉を裏付けるように、隼鷹の目の前には束になった書類の山が綺麗に整頓されて置かれていた。一番上の書類に目を通す。キチンと判も押され、書式に則ったいっぱしの書類として仕上がっていた。これなら問題はないだろう。
隼鷹の目の前の机の上には、書類の山と筆記用具しかない。……つまり今日、隼鷹は珍しくシラフだった。毎日朝から日本酒を片手に茶色いため息をつきながら事務作業を行う隼鷹にあるまじき健全さだ。俺は隼鷹のことをキッチンドランカーならぬデスクドランカーに近い症状だと思っていたから、午前中は相当驚いた。
「ところでさ提督」
「ん?」
「服は? ちゃんとあるの?」
ちゃんとあるもクソも、おれはこの海軍規定の純白の制服でいいだろう……と俺が口走った途端、隼鷹は
「ぶわぁぁあああぁぁぁぁぁ……」
と若い女性にあるまじき茶色いため息をついていた。隼鷹の呼気に薄汚い茶色の着色がされているように見えたのは、きっと俺だけではないだろう。
「……なんだよ」
「提督さぁー……晩餐会だよ?」
「晩餐会だな」
「……招待状ある?」
そんなもんどうするんだよ……と言いかけたが、隼鷹の妙なスゴミに気圧されて、俺は素直に机の引き出しの中にしまっていた招待状をそそくさと隼鷹に渡した。眉間にシワが寄った隼鷹なんてはじめて見たぞ……。
難しい顔で招待状を眺める隼鷹。そんな隼鷹が物珍しくてじっと眺めていたら、その難しい顔はどんどんエスカレートしていった。『隼鷹ってこんな難しい顔するんだなー』と俺はのんびりと構えていたら、隼鷹は鬼のような形相になって俺に招待状の一部分を指差して見せた。
「ほら提督! ちゃんとドレスコードあるじゃん!!」
「……ドレスコードってなんだっけ?」
俺の質問って、そんなに間抜けだったかなぁ……ドレスコードって何だっけ? 困った。隼鷹の頭にモジャモジャ線が出来上がっていく……
「服装の指定!! 晩餐会って服装の指定があるの!!」
「そ、そうなの?」
「ほらココ! “ホワイトタイでお越しください”って書いてあるじゃんか!!」
普段の隼鷹からは想像がつかないほど細くて綺麗なその指が、『ホワイトタイでおこしください』という一文を力強く指差していた。
「マジかー……でも白いネクタイなら問題ないだろう。行きがけに洋服屋に寄って買っていけば……」
まぁ確かに白いネクタイなんか持ってないし……なんて俺がのんきにかまえていたら、隼鷹はまたしても普段の隼鷹にあるまじき態度で頭を抱えて首を横に振っていた。
「てーとくぅ……“ホワイトタイ”って何か知ってる?」
「何って……“タイ”ってネクタイのことだろ? てことは、白いネクタイだろ?」
「こういう時に“ホワイトタイ”って言ったらテールコートに白の蝶ネクタイのことなの!!」
「……テールコートって何?」
「燕尾服!!!」
驚愕の事実……ヤバい……燕尾服なんて持ってないぞ俺……どうするんだ……
「それで!? 白の蝶ネクタイは!?」
「……も、持ってません」
「燕尾服は!?」
「持ってません……」
再び頭を抱えて首を左右に振りながら、隼鷹は『はぁ〜……』と茶色いため息をついた。ヤバい。こんな事態は考えてなかった。恥をかきに行くつもりだったから、恥ずかしい事態に陥ることは覚悟していたが……これじゃ恥をかく舞台にすら上がれない。今回の晩餐会への出席は司令部からの命令でもある。まずい……。
「ど、どうしよっか隼鷹……さん?」
海軍の礼服でいいだろうと思っていたら……なんてこった……いや確かにドレスコードを確認しなかった俺も悪いけど……でも仮に確認してたとしても同じか。なんせ『ホワイトタイ』を『白のネクタイ』だと思ってるぐらいだから。
ヤバイ。晩餐会のはじまりは夜7時……今はもう5時だ……これから燕尾服を買いに行くのか……でもああいうのってオーダーメイドでめちゃくちゃ高いんじゃなかったか……今の鎮守府にそんな大金出せないぞ? 唯一の経費請求はこの前の秋祭りで使っちゃったし……ポケットマネーで出すか……いや待ておれそんなに金ないんだけど……。
「……あたしたちがなんとかする」
さっきまでの呆れ果てた隼鷹とはまた違う、どちらかというと戦闘時に近い凛々しい表情をした隼鷹がそこにいた。隼鷹はまるて艦載機を召喚するときのような凛々しい表情で執務室の電話を使い、姉の飛鷹に連絡を取り始めていた。
「あぁ飛鷹? 近所に貸衣装のお店あるか知ってる? ……うん。うん。出来れば品揃えがいいとこ。……違う。あたしじゃなくて提督。……うん……そう……」
その後、受話器の向こう側にいる飛鷹と二言三言言葉を交わした隼鷹は、その受話器を盛大にガチャンと叩きつけ、俺のそばまで来ると……
「ほら行くよ!」
と俺の右手を取って執務室から引っ張りだした。唐突なことで俺は隼鷹にされるがまま外に引っ張られていったが……状況が飲み込めないのにただ隼鷹に引っ張り回されるのは納得がいかんっ。
「ちょっと待て隼鷹!」
俺は隼鷹の手を強引に振り払った。俺の前にいる隼鷹がこっちを振り返る。今まで見たこと無いくらい、真剣な表情だ……。
「なに!?」
「どこ行くんだよ!?」
「燕尾服ないんでしょ!?」
……はい。そこを突っ込まれると、俺はとても弱いです。
「だから貸衣装屋に行くの! 飛鷹が調べてくれるから!!」
あ、なるほど……と俺がのんきに隼鷹の機転の良さに感心していたら、俺の背後からパタパタという走る足音が聞こえてきた。
「隼鷹!」
振り返ったその先にいたのは、大きなバッグを抱えた飛鷹だった。飛鷹もなんだか戦闘時みたいな、キッとしたすごく真剣な面持ちをしてる。眼差しなんか艦載機を召喚する時みたいな鋭い眼差しだ。でも走る音はパタパタ……。なんだかそのギャップが面白い。
「ほらあなたの服! 持ってきたわよ!!」
「ありがと!」
俺達のそばまで来た飛鷹は、その凛々しい表情のまま手に持った大きなバッグを隼鷹に渡していた。お互いを見る凛々しい表情が一瞬だけ並んだ。確かに髪型も性格も全然違う二人だが、その凛々しい横顔はそっくりだった。
「あなたは貸衣装屋で着替えればいい! 必要なものは全部そろってるから!」
「さすが! 頼りになる姉だね!!」
白状すると俺はこの時、二人の横顔に……いやそれじゃ語弊がある。隼鷹の凛々しい横顔に見とれていた。
二言三言言葉を交わした二人。その後飛鷹がキッとした顔のまま、俺のそばまで歩いてきた。『飛鷹と戦うときの深海棲艦ってこんな心持ちなのかなぁ……』と、この非常時にあるまじき、のんきなことを考えている俺の襟をギュッと掴んだ飛鷹は、そのまま俺の顔をグッと自分に近づけ、俺の耳元でそっと優しくささやいた。
「……楽しんでくるのよ?」
『へ?』と俺が聞き返そうと思ったその瞬間、飛鷹は俺の襟からパッと手を離し、俺の横を素通りしていった。
「ほら提督! 行くよ!!」
「お、おう」
隼鷹に手を引っ張られ、俺は飛鷹から離れていく。
「飛鷹! ありがとう!!」
隼鷹の馬鹿力に引っ張られ、距離が離れていく俺と飛鷹。俺と隼鷹を見送る飛鷹の顔は、周囲の空気が一瞬で柔らかく、温かくなるような……そんな、柔らかくて優しい小春日和のような笑顔だった。
宿舎を出て、鎮守府の正門に向かう。年季の入った正門をくぐり抜けると、そこには一台のタクシーが止まっていた。運転手がドアを開けるのも待たず、隼鷹は後部座席のドアを開け、俺を後部座席に投げ込んだあと、自分も大急ぎで飛び乗ってきた。
「出して!」
「え……出せって……どこへ!?」
「いいから! 行き先は後で言うから!!」
そら運転手からしてみれば行き先を言われずただ『出して!』と言われても戸惑うだろう……なんて隼鷹の迫力に押されてあっけにとられていたら、隼鷹の懐からピリピリという呼び出し音が鳴っていた。
懐からスマホを取り出した隼鷹は、急いでその電話に出る。一瞬だけ名前が見えた。どうやら飛鷹らしい。さっきと同じく二言三言言葉を発した隼鷹は通話を切った後、運転手に対してすさまじい剣幕で怒鳴っていた。
「トノサマ洋装店に行って!! すぐ!!」
「ぁあー、あそこか」
「そうそこ! 早く!!」
「あそこって貸衣装もやってるんだよねー。お客さんがた、今晩パーティーでもあるの?」
「いいから早く行く!!!」
隼鷹にものすごい剣幕で怒鳴られた運転手は、慌てて車のギヤを入れ、それこそ『ばひゅーん』という音が似合いそうな加速で、車を走らせ始めた。目指すはトノサマ洋装店。
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