銀河英雄伝説~新たなる潮流(エーリッヒ・ヴァレンシュタイン伝)
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第百九十三話 権謀の人
帝国暦 488年 1月 2日 ローエングラム艦隊旗艦 ブリュンヒルト アウグスト・ザムエル・ワーレン
厄介な事になった。ブリュンヒルトの艦橋に向かいながら緊張で体が強張るのを俺は抑え切れずに居た。おそらく隣を歩くミュラーも同様だろう。普段の穏やかな表情が今は強張っている。その俺達の後ろには念のために連れてきた兵、三十人が続く。
『帝都オーディンでグリューネワルト伯爵夫人に対して捜査が入ると同時にそちらでもローエングラム伯、オーベルシュタイン准将を逮捕、拘束しオーディンへ護送してください』
『ワーレン提督、ミュラー提督がブリュンヒルトに赴きローエングラム伯達を拘束すること。その間ルッツ提督達は万一に備え警戒態勢を取ってください。彼らに対する嫌疑、指揮権の剥奪、拘束は自分が命じます。またその場にてローエングラム艦隊の処遇、別働隊の今後の指揮体系も発表します』
そう命じる司令長官の表情は全くの無表情で一切の感情を見せなかった。帝都オーディンでのグリューネワルト伯爵夫人に対する調査、そして別働隊に置ける逮捕、拘束……。
国務尚書リヒテンラーデ侯とヴァレンシュタイン司令長官の間で決定された事だ。俺達別働隊の指揮官達は偶然、おそらく偶然だろうがその決定までの経緯を知った。
それによれば、レンテンベルク要塞でジークフリード・キルヒアイス准将が司令長官を暗殺しようとしたという事だった。しかも彼は先日起きたバラ園の襲撃事件にも関与している。つまり今帝都で起きている内務省の一斉捜査とも連動しているという事だろう。
暗殺の理由はローエングラム伯が帝国を簒奪するには司令長官が邪魔だというものだった。陰謀に加担したのはパウル・フォン・オーベルシュタイン准将、ローエングラム伯が関与しているかどうかは不明……。そして伯爵夫人への嫌疑……。
事実なら大逆罪だ、単なる権力争いではすまない。陰謀への関与が不明なローエングラム伯もただではすまないだろう。ジークフリード・キルヒアイス、パウル・フォン・オーベルシュタインはローエングラム伯に簒奪をさせるために司令長官を暗殺しようとしたのだ。
俺達は司令長官と国務尚書の会話をただ驚きと共に聞いている事しか出来なかった。もっとも全く予想しなかったわけではない。あのバラ園の襲撃事件にジークフリード・キルヒアイス、パウル・フォン・オーベルシュタインがからんでいるのではないかと疑っていた。
もしそうなら司令長官がこのままで済ませるわけが無いとも思っていた。そして思った通りになった。司令長官は敵に対しては容赦の無い人だ。キルヒアイスが司令長官を暗殺しようとしたのは事実だろう。
だがそう仕向けたのは司令長官のはずだ。そうでなければ司令長官が生きているはずが無い。一対一では司令長官はキルヒアイスの敵ではない、おそらくリューネブルク中将あたりがキルヒアイスを取り押さえたのだろう……。
彼らは司令長官の恐ろしさを悪辣さを知らない。普段の穏やかさに騙されがちだが、その気になればどんな悪党でも裸足で逃げ出すほどの悪辣さを鼻歌交じりで発揮する人だ。
俺はあの第一巡察部隊で嫌と言うほど味わった。味方の俺が震え上がったのだ。キルヒアイスを嵌めて陥れることなど赤子の手を捻るより容易かっただろう。
ラインハルト・フォン・ローエングラム、エーリッヒ・ヴァレンシュタイン。佐官時代の両者に仕えたのは宇宙艦隊の司令官達の中では俺だけだ。全く違う二人だった。
天性の軍人、軍人以外の何物でもないローエングラム伯に対し、何かの間違いで軍人になったのではないか、そう思わせるほど軍人らしくない司令長官。似ているところが有るとすれば事に及んでの果断さと敵に対する容赦の無さか……。
権謀の人……。今回のリヒテンラーデ侯と司令長官の会話から思ったのはそのことだった。臨機応変に謀をめぐらし敵を打ち倒す人。リヒテンラーデ侯と共にオーベルシュタイン達の策謀を読み解き、対処策を考えていく姿はまさに権謀の人だった。
艦橋に着くとそこには既にシュタインメッツ参謀長、ジンツァー准将、フロイライン・マリーンドルフ、リュッケ中尉がいた。敬礼してくる彼らに答礼を返す。皆緊張した顔をしている。無理も無い、彼らもこれから何が起きるのかを知っている。
「準備は?」
「既に分艦隊司令官達はブリュンヒルトに向かっております。後五分もすれば艦橋に着くでしょう。ローエングラム伯、オーベルシュタイン准将にはこれから連絡を入れます」
俺の問いにシュタインメッツ参謀長が答えた。
「では五分後には皆此処に揃うわけか」
「はい、それからレンテンベルク要塞との間には回線が繋いであります。司令長官はいつでも出られるそうです」
「分かった」
連れてきた三十名を艦橋の入り口に配備する。いざと言うときには彼らの力が頼りだが、出来れば混乱させずに抑えたいものだ。
司令長官からローエングラム伯達の拘束を命じられた後、最初にやった事は、ジンツァー准将に連絡を取る事だった。ジンツァー准将からフロイライン・マリーンドルフ、シュタインメッツ、リュッケに連絡を取り一人ずつ事情を話した。
反対されればその場でジンツァー准将が拘束するはずだった。だが全員賛成してくれた。フロイライン・マリーンドルフはともかく、シュタインメッツ、リュッケが賛成してくれたのは助かった。
どうやら二人ともローエングラム伯の行動に、そしてオーベルシュタインの動きに不安を感じていたらしい。気がつけば自分が反乱に加担している事になるのではないか? とんでもない事になるのではないか? そう思っていたようだ。そしていつかこんな事になるのではないかと思っていた……。
リュッケ中尉がローエングラム伯に連絡を入れている。“レンテンベルク要塞より緊急の連絡が入りました。司令長官の容態がよくないようです。至急艦橋に来てください”。
その隣でシュタインメッツ少将が同じ内容をオーベルシュタインに伝えている。午前四時、この時間帯に呼び起こすのだ、それなりの理由が要る。考え付くのは司令長官の健康問題ぐらいしかなかった。
ローエングラム伯達が来るまでの間、ミュラー提督と話をした。ミュラーは辛いだろう。彼は司令長官の親友だが、同時にローエングラム伯の事を信じてもいた。疑いつつも何処かで信じようとしていた……。
「こんな日が来るとは……」
「ミュラー提督、卿はローエングラム伯とは付き合いが長かったな」
「准将に昇進した時、分艦隊司令官として二百隻ほどの艦隊を率いましたが上官だったのがローエングラム伯、当時のミューゼル中将でした」
「あの時の誇らしさは忘れる事は無いでしょう。それなのに……」
溜息を吐くミュラーの気持は良く分かる。俺も准将になり艦隊を率いたときは嬉しかった。当然率いた艦隊に、所属した艦隊に思い入れは有る。
ナイトハルト・ミュラー、良い男だ、誠実で有能で信頼できる。司令長官の親友だがその事を周囲に自慢する事も無ければ、司令長官に対して甘える事も無い。あくまで誠実に一艦隊司令官として任務に励んでいる。
ローエングラム伯配下の分艦隊司令官達がやってきた。ブラウヒッチ、アルトリンゲン、カルナップ、グリューネマン、ザウケン、グローテヴォール、いずれも有能な男達だ。俺とミュラーを見て訝しげな表情をしている。
敢えて答えることをせず無視した。そしてローエングラム伯、オーベルシュタイン准将が艦橋に現れた。対照的な二人だ、華麗で鋭利なローエングラム伯と陰鬱さを漂わせたオーベルシュタイン。思わず身体が緊張した。
「ワーレン、ミュラーもいるのか」
「はっ、我々も此処へとの指示を受けましたので」
ローエングラム伯が訝しげな声をかけてきたが当たり障りの無い返答を返した。必ずしも納得したようではなかったがシュタインメッツ少将の声にそれ以上は問いかけて来なかった。
「閣下、レンテンベルク要塞から通信です」
スクリーンにヴァレンシュタイン司令長官が映った。艦橋にざわめきが起きる。具合がよくないと言われていた司令長官が出たのだ、驚いたのだろう。続けてルッツ、ロイエンタール、ミッターマイヤーの顔も映った。
「司令長官? 御身体がよろしくないと聞きましたが……」
ローエングラム伯が訝しげな声を出した。司令長官だけでなく、ルッツ提督達の顔が映った所為もあるだろう。
『ええ、余りよくありませんね。つい五時間程前に殺されかかりましたから』
司令長官の声に艦橋が更にざわめく。
スクリーンに映る司令長官は穏やかに言葉を続けた。
『ジークフリード・キルヒアイス准将が私を殺そうとしたのですよ』
「馬鹿な、キルヒアイスがそんな事をするわけが無い」
愕然としてローエングラム伯が呟いた。
『私が生きていると都合が悪いのだそうです。ローエングラム伯が帝国を簒奪するには邪魔だと言っていました』
「……」
スクリーンが切り替わった。キルヒアイスが司令長官にブラスターを突きつけている。視界の片隅でシュタインメッツ、ジンツァー、リュッケの三人がローエングラム伯の傍にさり気無く近づくのが見えた。
『残念でしたね、バラ園での襲撃は上手くいかなかった』
『……』
『否定しないのですね、准将。やはり関係していましたか』
その言葉に艦橋がざわめく。ローエングラム伯は蒼白だ。
『何故私を殺すのです、キルヒアイス准将』
『時間稼ぎですか』
『いいえ、ただ疑問に思ったのです。何故私を殺すのだろうと』
『邪魔だからです』
『邪魔とは?』
『ラインハルト様が帝国を手に入れ、宇宙を征服するには閣下は邪魔なのです。閣下さえ居なければラインハルト様は……』
『ローエングラム伯が帝国を簒奪するためには私は邪魔ですか』
先程までのざわめきは無い。皆蒼白な顔で沈黙している。互いに顔を合わせる事さえしない。どういう顔をしていいのか皆分からないのだろう。俺自身此処まで決定的な証拠があるとは思わなかった。スクリーンが切り替わり司令長官が映った。
「嘘だ、こんな事はありえない、キルヒアイスがこんな事をするわけが無い……」
ローエングラム伯が蒼白な表情で呟いている。
『見ての通りです。キルヒアイス准将は先日のバラ園での暗殺事件に関わっています。内務省、宮内省と組んで混乱を大きくし、それに乗じて帝国の権力を握ろうとした。その全てがローエングラム伯、卿のためです』
「何故そんな事を……。俺がそんな事をしてくれと何時頼んだ。何故だ……」
『その答えは、オーベルシュタイン准将に聞いたほうが良いでしょう。今回の陰謀のシナリオを書いたのは彼ですから』
周囲の視線がオーベルシュタインに集中したが彼はたじろぐ様子も見せず平然としている。視線などまるで感じていないようだ。
「オーベルシュタイン、そうなのか? 卿がキルヒアイスに暗殺などさせたのか? 何故だ」
「昨日の司令長官の暗殺事件はキルヒアイス准将の独断です。小官は関係有りません。ですがそれ以外は小官が考えました」
『薬を用意したのは卿ですね』
「そうです」
「薬?」
『キルヒアイス准将は心臓発作に似た症状を起す薬で私を薬殺しようとしたのですよ。自然死に見せるためにね』
「!」
「何故だ、何故こんな事をした、俺が何時そんな事を頼んだ、答えろ! オーベルシュタイン!」
「閣下にこの帝国を治めてもらうには他に手段がありませんでした」
「俺があの男に、ヴァレンシュタインに勝てないと言うのか!」
「……」
「答えろ! オーベルシュタイン! ……貴様」
ローエングラム伯が激昂する。オーベルシュタインは無表情なままだ。伯が苛立ち言い募ろうとした時、司令長官の声が流れた。
『オーベルシュタイン准将、この薬ですがグリューネワルト伯爵夫人にも渡しましたか』
「……渡しました」
「貴様、姉上を巻き込んだのか!」
激昂し飛び掛ろうとしたローエングラム伯をシュタインメッツとジンツァーが押さえた。身を捩って暴れるローエングラム伯を必死に取り押さえている。
グリューネワルト伯爵夫人に薬を渡した。やはり陛下を暗殺するつもりだったか……。
「全て閣下のためです。閣下に残された時間は短い。急ぐ必要がありました」
「短い?」
「有能で従順な司令長官がいるのです。自由惑星同盟が弱体化した今、帝国に叛意を持つ副司令長官など不要、帝国の上層部はそう考えるでしょう、そうでは有りませんか、司令長官」
『……、そうですね。いずれは排除されたでしょう』
「!」
「閣下はお分かりではないようですが、極めて危険な立場に有ったのです。閣下が生き残るには、今回の内乱を利用して覇権を握る、それ以外にはありませんでした。そのためなら小官はどのような事でもします」
「……」
「オーベルシュタイン准将、卿は何故そこまでローエングラム伯に賭けるのだ?」
不思議だった。何故ローエングラム伯のためにそこまでする。分の悪い賭けだ。失敗する確率が高い事が分からなかったとは思えない。
オーベルシュタインが手を右目にやった。そして手を前に突き出す。手のひらの上には小さな丸い球体があった。そして右目には奇妙な空洞が生じている……。
「この通り小官の両眼は義眼です。ルドルフ大帝の時代であれば劣悪遺伝子排除法によって赤ん坊の頃に抹殺されていました。小官は憎んでいるのです。ルドルフ大帝と彼の子孫と彼の生み出した全てのものを……ゴールデンバウム朝銀河帝国そのものを」
「……」
大胆な発言に皆息を呑んだ。これだけでもオーベルシュタインの死罪は間違いない。
「ゴールデンバウム王朝は滅びるべきです。可能であれば小官自身が滅ぼしてやりたい。ですが小官にはその力が有りません。だからローエングラム伯に協力しました。ゴールデンバウム王朝を滅ぼしたいと考えているローエングラム伯に」
「……」
話し終えるとオーベルシュタインは右目を元に戻した。奇妙な空洞が消える。興奮も激昂も無かった、淡々と話すオーベルシュタインの姿に奇妙なまでの圧迫感を感じたのは俺だけだろうか?
『ローエングラム伯、卿の別働隊指揮官としての権限を剥奪します。ワーレン提督、その身を拘束しオーディンへ送ってください。オーベルシュタイン准将も同じです』
「はっ」
「ローエングラム伯とオーベルシュタイン准将をとりあえず独房に運べ」
「はっ」
「待て、姉上はどうなる、姉上は」
グリューネワルト伯爵夫人がどうなるか? 言うまでも無い事だ。大逆罪に絡んだとなれば、死罪は免れない……。
「姉上は関係ない、姉上を巻き込むのは止めろ! 姉上は関係ない」
ローエングラム伯が身を捩って訴えている。
『ローエングラム伯、野心を持つなとは言いませんし、叛意を持つなとも私は言いません。しかし、事破れたときの覚悟も持って欲しいですね。そうでなければ見苦しいだけです。……子供の遊びじゃない!』
「……」
司令長官が眉を寄せ、不愉快そうに言い捨てた。
ローエングラム伯とオーベルシュタインが兵達に引き立てられていく。ローエングラム伯が何度もグリューネワルト伯爵夫人の無実を訴えている。なんとも後味が悪い事だ。
『シュタインメッツ少将』
「はっ」
『これ以後は司令官代理として艦隊を率いてください。卿の力量なら難しくは無いでしょう、期待しています。各分艦隊司令官もシュタインメッツ司令官代理を助け、任務を果たしてください』
「はっ、必ずご期待に添います」
『それと別働隊の総指揮はルッツ提督に御願いします。いきなりの事で大変かもしれませんが宜しく御願いします』
『はっ』
ルッツ提督の顔が緊張に強張った。大軍を率いるのは武人の本懐だがルッツ提督にとっては決して喜べる状況ではないだろう。俺がその立場なら頭を抱える所だ。だが先任であるし能力も有る。逃げる事は許されない。
『フロイライン・マリーンドルフ、貴女はルッツ提督の所に行ってください。辺境星域平定のため、貴女の見識を役立ててください。よろしいですね』
「承知しました」
『今回の事はあくまでローエングラム伯、オーベルシュタイン准将が行った事です。別働隊には関係有りません。動揺することなく辺境星域の平定に邁進して下さい』
「はっ」
『では、後は頼みます』
司令長官が敬礼をした、俺達も慌てて敬礼を返す。司令長官は微かに頷くと礼を解いた。
俺達が礼を解くと同時にスクリーンから司令長官の姿が消える。レンテンベルク要塞との通信が切れたのだろう。周囲を見ると皆疲れたような表情をしていた。隣にいるミュラーが大きな溜息を吐く。俺も溜息を吐きたい気分だよ、ミュラー……。
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