銀河英雄伝説~新たなる潮流(エーリッヒ・ヴァレンシュタイン伝)
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
第百九十四話 囚われ人
帝国暦 488年 1月 2日 帝国軍総旗艦ロキ エーリッヒ・ヴァレンシュタイン
『卿の言う通りだった。伯爵夫人は薬を持っておった。あの夫人が陛下の暗殺を考えるとは……、信じられぬ事よの……、女とは分からぬものじゃ』
「……」
伯爵夫人はあの薬を持っていた。その場で逮捕され宮中に置いておくのは危険だと言う事で憲兵隊に連行された。オーベルシュタインの言った通りだったが、まさか本当に持っていたとは……。推測が当たっても少しも喜べない。
スクリーンにはしきりに首を振るリヒテンラーデ侯が映っている。大分ショックを受けているようだ。気持は分かる、分かるが女性問題で俺に愚痴をこぼさないでくれ。
俺にも女心などさっぱり分からんし、行動様式はさらに分からん。慰めようが無い、いや大体目の前の爺様が俺の慰めを必要としているとも思えん……、話を変えたほうが良いか……。
「御同衾だったのですか」
『いや』
別々か、リヒテンラーデ侯も捜査に向かった憲兵隊もほっとしただろう。
若い寵姫と同衾中の皇帝に向かって“その女は毒薬を持っている可能性が有ります、直ぐ離れてください”等とは言い辛いだろうし、言われた皇帝もバツが悪いに違いない。とんでも無い愁嘆場になりかねなかった。
「陛下は何と?」
『そうか、と一言仰られた。それだけじゃ』
「……」
リヒテンラーデ侯が落ち込んでいるのは伯爵夫人の事よりもフリードリヒ四世の事を思ってか……。この爺様らしいことだ。皇帝の事を考えれば痛ましい限りだが、この老人の事を思うと微笑ましくなる。この陰謀ジジイが他人のことで落ち込むとは……。一度俺の事で落ち込ませて見たいものだ。
『陛下も女人に関しては恵まれぬ方じゃ、ベーネミュンデ侯爵夫人、グリューネワルト伯爵夫人……』
「どちらも私達が……」
『そうじゃの、やらねばならん事では有ったが、あまり気持の良いものではないの……』
リヒテンラーデ侯が思いついたような口調で話しかけてきた。
『ヴァレンシュタイン、結局ベーネミュンデ侯爵夫人は正しかったのかの?』
「……」
『夫人はグリューネワルト伯爵夫人を排除しようと必死じゃったが……』
「分かりませんね、あれが嫉妬だったのか、それとも伯爵夫人に何かを感じたのか……」
『あるいは両方か……、女とは面倒じゃの。卿も気をつけるが良い、女運は悪そうじゃからの』
「……」
余計なお世話だとは思わなかった、全く同感だ。面倒な女など真っ平だ。問題は面倒な女かどうかの判断がつかないことだ。そもそも面倒じゃない女など世の中にいるのだろうか? 前の世界でも随分と苦労した、いるとしたら多分絶滅危惧種だろう。博物館に展示されてるかもしれん。
「お疲れでは有りませんか?」
『そうじゃの、卿に起されたおかげで碌に寝ておらん、少し、いや大分疲れたわ。じゃが休むわけにもいかん、皆に話さねばならんからの』
「……あまり無理はしないでくださいよ、侯に倒れられては困ります」
俺の言葉にリヒテンラーデ侯は軽く苦笑を浮かべた。
『夜中に叩き起こしておきながら、何を言うやら』
「申し訳ありません」
『責めておるのではない、私がその立場でも同じ事をした。良く気付いてくれた、礼を言う』
老人が頭を下げた。珍しいこともあるものだ。
「……いえ、もっと早く気付くべきでした。反省しております」
『随分と殊勝じゃの』
「そちらこそ」
お互いに苦笑していた。分かっている、こうして苦笑できるのも皇帝フリードリヒ四世が生きていればだ。万一の事があれば大混乱だったろう。あの我儘小僧が皇帝になるのかと思うと寒気がする。
リヒテンラーデ侯との通信が終った後は、ギュンター・キスリングが連絡を入れてきた。ヴァレリーが怖い眼で俺を睨んでいる。寝不足は俺も同じなのだ、心配なのだろう。
もう少し待ってくれ、これが終れば俺も少し休む。ちなみに俺は今自室に居る。本当なら自室に女性士官が居る事は困るのだが、相手がヴァレリーだ、まるで気にしない。以前、“自分も男だから少しは遠慮してくれ”と言ったら鼻で笑いやがった。とんでもない女だ。
ギュンター・キスリングがスクリーンに現れた。大分疲れているようだ、げっそりとした表情をしている。
「大変だったみたいだね、ギュンター」
『簡単に言わんでくれ、とんでもない騒ぎだった』
「……」
はて、別に皇帝が同衾していたわけでもないし愁嘆場があったわけでもないはずだが……。
『伯爵夫人の部屋を調べるんだ、女性兵士を緊急招集したが、みんなブウブウ文句を言ったよ。無理も無い、夜中の三時だ、恋人と一緒のところを呼び出された奴もいる。薬が見つかったから良かったが無かったら暴動が起きていたよ』
キスリングが肩を竦める。やれやれだ、此処でも俺は愚痴を聞く係りか。
「そうか、随分と迷惑をかけてしまったが、ローエングラム伯の逮捕と合わせる必要があったからね、止むを得なかったんだ」
『分かっているさ。皆文句は言っても納得はしている』
「伯爵夫人は抵抗したのかい?」
『いや、それは無かった。うすうす覚悟はしていたようだ』
「……」
キスリングが神妙な表情で答えた。覚悟をしていたか……。
『逮捕された時、ローエングラム伯とキルヒアイス准将の事を尋ねてきたよ。逮捕されたことを伝えたが……』
「伝えたが?」
『キルヒアイス准将が卿をあの薬で暗殺しようとした事を知って驚いていた。哀れな話だ』
キスリングが遣る瀬無さそうにしている。俺も同感だ、全く遣り切れない、なんとも後味の悪い事件だ。
キルヒアイスはアンネローゼが薬を持っているとは思っていなかった。多分オーベルシュタインはあの二人に個別に接触したのだろう。アンネローゼもキルヒアイスも相手が陰謀に関与しているとは思わなかったに違いない。お互いに自分とオーベルシュタインのみが知る事だと思っていた……。
アンネローゼはキルヒアイスではなくラインハルトが陰謀に関与していると思ったのだろう。彼女がキルヒアイスに連絡したのはそれが理由だ。キルヒアイスならラインハルトを止められると思った。しかし現実にはキルヒアイスの背中を押すことになった……。アンネローゼもキルヒアイスもつくづく謀略には向かない。
『それにしても伯爵夫人が陛下の暗殺を承知するとは……、夫人は陛下を恨んでいたのかな』
「……」
キスリングが首を振って問いかけてきた。答えは……必要ないだろう。思うところはあるが、正しいかどうか……。
男爵夫人邸で会った時、夫人には陛下を恨んでいる様子は見えなかった。しかし愛してはいなかったのかもしれない。十五歳で後宮に入れられ四十近い歳の差がある男の愛妾になったのだ。愛情を持てと言う方が難しいだろう。
暮らしに困らなくて済む、弟の将来を頼める……。飲んだくれの父親を持った彼らの将来は決して明るくは無かったはずだ。その事は誰よりもアンネローゼが分かっていたに違いない。愛情は無かったかもしれないが、感謝はあったのかもしれない。ただ、それも自分の身を犠牲にしたうえでの感謝だ。有るとしても屈折したものだったのではないだろうか。
自分の人生は十五歳で終わった。そう思ったからこそ彼女はラインハルトとキルヒアイスが自由に生きる事を望んだ。彼女にとってラインハルトとキルヒアイスは生きる希望だった……。
十年前からラインハルトとキルヒアイスの時間は止まった。ただアンネローゼを救うために生き始めた。だがそれはアンネローゼも同様だったのではないだろうか。彼女は十年前から二人の成長を見守るだけの女になった……。
ところが俺が現れた事で変化が生じた。ラインハルトの立場が徐々に悪くなり最終的に排除されそうになった。アンネローゼは話が違うと思っただろう。十年前に自分の未来を奪い、今自分の希望を奪おうとしている。許せないと思ったのかもしれない。そんな時にオーベルシュタインが接触してきた……。
ベーネミュンデ侯爵夫人か……。侯爵夫人がアンネローゼを憎んだのはアンネローゼが皇帝を愛していない事に気付いた所為かもしれない。彼女から見たアンネローゼは自分の心を隠した不気味な女に見えたのではないだろうか。
そしてアンネローゼの心が皇帝ではなくラインハルトに向かっている事にも気付いたろう。だから彼女はアンネローゼをラインハルトを排除しようとしたのかもしれない……。心を隠して皇帝の傍にいる女、野心も露わに出世する弟。危険だと判断するには十分だったのだろう。単純に嫉妬と考えた俺やリヒテンラーデ侯が馬鹿だったのか……。
“女とは分からぬものじゃ”
リヒテンラーデ侯の言葉だ。全く同感だ、女とは分からない事が多すぎる。
『エーリッヒ、オーベルシュタインはこれで終わりかな?』
何処と無く不安げな表情でキスリングが尋ねてきた。気持は分かる、俺も不安だ。痛い目にあっているからな。
「どうかな、そうだと良いんだが……」
『……』
「私は失敗したのかもしれない」
『失敗? 何を』
キスリングが不思議そうな顔をしている。違うんだ、キスリング、今回の逮捕劇の事じゃない。
「劣悪遺伝子排除法さ、あれを早い時期に廃法にすべきだった」
『しかし、あれは』
「分かっている。ルドルフ大帝の作った法だ、それに有名無実化している。あえて廃法にする必要は無い、そう言いたいんだろう、ギュンター」
『ああ』
「でもね、ギュンター、あの法を廃法にしておけばオーベルシュタインは反逆者にならずに済んだかもしれない」
『……』
キスリングが驚いた顔をしている。
「ブリュンヒルトで彼が言っていたよ、ルドルフ大帝の時代であれば劣悪遺伝子排除法によって赤ん坊の頃に抹殺されていた。ルドルフ大帝と彼の子孫と彼の生み出した全てのものを……ゴールデンバウム朝銀河帝国そのものを憎んでいると」
『……』
「彼は馬鹿じゃない。帝国がルドルフ大帝の帝国から新しい帝国へ変わろうとしている事は十分に分かっていただろう。それなのに反逆者への道を選んだ、何故だと思う?」
『……』
「クーデターの成功の可能性は決して高くは無かった。それも彼は分かっていたはずだ」
『……劣悪遺伝子排除法か』
「そうだ。彼にはあの法が放置されたままだったのが許せなかったんじゃないかな。あの法こそがルドルフ大帝の統治の基盤だった。遺伝子こそが全て、血統こそが全て、馬鹿げた話だ」
『おいおい、不敬罪だぞ』
キスリングがおどけたような口調で俺を窘めた。分かっている、外ではあまり大きな声では言えない事だ。しかし間違っているとは思えない。あの劣悪遺伝子排除法によって共和主義者たちは反逆者とされた。
彼らは帝国を脱し自由惑星同盟を創り、百五十年に亘って帝国との戦争を続けている。史上最大の悪法だろう。俺はルドルフに対して敬意など欠片も抱く事が出来ない。
「彼がどれ程優秀さを発揮しても彼の周囲はそれを認めなかった。彼を認める前に忌諱した。“赤ん坊の頃に抹殺されていた”、実際にそう言われた事があるのかもしれない。卿ならどう思う」
『それは……、憎むだろうな、全てを』
「お前はいらない子だ、生まれてはいけない子だと言われているようなものだ。帝国が自分を否定する以上、自分も帝国を否定する、当然の感情だろう。そしてそれを決定したのが劣悪遺伝子排除法だ」
『……』
ルドルフの行った事が全て間違いだとは思わないが、劣悪遺伝子排除法と己の遺伝子への盲信、その二つで十分ルドルフは暴君と言って良い。帝国は今ルドルフの呪縛から抜け出そうとしている……。
そしてそれはオーベルシュタインも一緒だったのかもしれない。オーベルシュタインにとってはあの法を廃法にすることこそが呪縛からの脱出だった……。
「どれほど帝国が変わろうとあの法が有る以上自分を見る周囲の目は変わらない。自分の居場所は何処にも無い、そう思ったのかもしれない。そして直ぐ傍に帝国を滅ぼしたいと思って居るローエングラム伯が居た」
『……』
「劣悪遺伝子排除法を廃法にしておけば、オーベルシュタインはローエングラム伯を上手くコントロールして改革に協力させたかもしれない……」
『エーリッヒ、それは』
「分かっている。私の勝手な思い込みだ。劣悪遺伝子排除法を廃法にしても結果は変わらなかったかもしれない……。いや、変わらなかっただろう。それでもやっておくべきだったと思うんだ、悔いが残るよ」
『……』
劣悪遺伝子排除法が無ければ、ルドルフが遺伝子を盲信しなければ、オーベルシュタインは障害はあるが優秀な人物として周囲から認められただろう。性格もあのように他者を拒むようなものにはならなかったかもしれない。
冷静沈着ではあっても冷酷ではないオーベルシュタインか……。周囲からも信頼されたかもしれない。同盟に生まれても同じだったはずだ。それなのに彼は今の帝国に生まれた。残酷な話だ。
もし、オーベルシュタインに生まれる世界を選ばせたなら彼はどんな世界を選んだだろう。劣悪遺伝子排除法の無い帝国か、或いは同盟か……。それとも今の帝国を選んで、自らの手で滅ぼす事を望んだだろうか……。
ページ上へ戻る