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銀河英雄伝説~新たなる潮流(エーリッヒ・ヴァレンシュタイン伝)

作者:azuraiiru
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第百九十一話 ワイングラス

帝国暦 488年  1月 2日  帝国軍総旗艦ロキ マグダレーナ・フォン・ヴェストパーレ



帝国暦四百八十八年の二日目が始まって未だ一時間も経たない時、ヴァレンシュタイン艦隊の司令部要員に緊急の集合命令が下った。“至急、総旗艦ロキに集合せよ”。悪態を吐きながら慌てて着替え、気休め程度のメイクで艦橋に向かう。

部屋を出ると隣の部屋から同じようにフィッツシモンズ中佐が出てくるところだった。丁度いい、これで一人遅れて行かずに済む、急いで傍により中佐に話しかけた。
「中佐、一体何が……」
「急ぎましょう、男爵夫人」

中佐は私の言葉を遮ると急ぎ足で歩き始めた。
「走らないの」
「夜中に司令部要員が走れば周囲に不安を与えます」

落ち着いた口調だった。なるほど、確かにそうだろう。中佐はもう何度もこんな経験をしているのかもしれない。急ぎ足で歩く中佐の後を遅れないように追った。もどかしい思いを抑えて艦橋へ向かう。

艦橋に向かうと司令長官を中心に既に全員が席についている。私達が傍にいくと皆が鋭い視線を向けてきたが、中佐は悪びれることなく落ち着いた声を出した。
「遅くなりました」

司令長官は無表情に頷く。重苦しい雰囲気が漂っている。司令長官の前にはグラスが置いてあった。美しいワイングラスだ。中身は透明だから多分水だろう。司令長官が無表情に水を飲んでいる……。周囲の重苦しい雰囲気といい、余りいい状況ではないのは確かだ。何が有ったのだろう。

「全員集まったようですね」
「まだキルヒアイス准将が来ていませんが」
司令長官の言葉にクルーゼンシュテルン副司令官が注意を促すように声を出した。緊張して気付かなかったけれど確かにジークが居ない、どうしたのだろう、時間にルーズな子ではないはずだけれど……。

「キルヒアイス准将は来ません」
司令長官が抑揚の無い声で告げた。皆が訝しげに視線を交わす中、リューネブルク中将とシューマッハ准将だけが誰とも視線を合わせようとしない事に気付いた。

何が有ったのかは分からない、でも彼らは知っている。此処に私達が集められたのもそれが関係しているのかもしれない。一体何が有ったのだろう、ジークはどうしたのだろう。

「キルヒアイス准将は独房にいます」
「!」
「彼は私を殺そうとしたのです。先日のバラ園での襲撃事件に関与していることも分かっています」

皆凍りついた。身じろぎも出来ない中、司令長官はまるで他人事のように淡々と話し続けた。本当に殺されかかったのだろうか……。
「私を殺そうとした理由はローエングラム伯が帝国を簒奪し、宇宙を征服するためには私が邪魔だから、そういうことでした」

ジーク、何故そんな事を……。胸が潰れるような思いがした。司令長官は何処と無く憂鬱そうな表情をしている。司令長官がワイングラスの水を飲んだ。まさか、ジークは嵌められた? 暗殺はでっち上げ?

「ローエングラム伯に対する処分はどのようなものに」
重苦しい雰囲気の中、ワルトハイム参謀長が困惑するような口調で司令長官に問いかけた。

「伯が何処まで事件に絡んでいるかは分かりません。とりあえず一切の権限を剥奪しオーディンへ送ります。後は憲兵隊の仕事になるでしょう」
「……」
「各艦隊司令官への連絡を準備してください、私が直接話します。最初に別働隊を、但しブリュンヒルトは除いてください。……質問は」

質問は無かった。皆、それぞれ準備のために席を離れる。残ったのは司令長官、リューネブルク中将、フィッツシモンズ中佐、私……。人数が減っても重苦しい雰囲気が消える事は無かった。

「閣下」
少し声がかすれた。司令長官が私を見る、そして直ぐ視線をワイングラスに向けた。一瞬だったけれど何の感情も見えない視線だった、声をかけたことを後悔したが、それでも聞きたい事がある。

「ジークを、キルヒアイス准将を罠に嵌めたのですか?」
「男爵夫人!」
リューネブルク中将が低い声で私を叱責した。しかし司令長官は右手を上げて中将を抑えた。

「ええ、他愛ないものでしたよ。彼は謀略に向かない」
「お分かりなら何故そんな事を」
私の非難に司令長官は何の反応も表さなかった。ただワイングラスを指で撫でている。視線もワイングラスに向けたままだ、もう水は入っていない。

「勘違いしないでください。彼が私を殺そうとしたのは事実ですし彼らが簒奪を考えていたのも事実です。男爵夫人も薄々は気付いていたでしょう。非難されるのは心外ですね」
「!」

リューネブルク中将とフィッツシモンズ中佐が息を呑むのが分かった。気付いていたでしょう、その言葉が耳に響く。確かにそうだ、一度でもその事を思わなかったと言えば嘘になる。ラインハルトの行動が皆から不審を持たれている事も知っていた。でも暗殺などするような卑劣さとは無縁だと思っていた。まさかジークが……。

「キルヒアイス准将のように卑怯などと詰まらない事を言わないでくださいよ。これは戦いなんです、一つ間違えば私が死ぬこともありえた。いや、実際一度死にかけたんです。しかし私は死ななかった、そして勝った……、ただそれだけです」

司令長官が微かに笑みを浮かべて私を見ている。何処か禍々しい、怖いと思わせる笑みだが目は笑っていない、こちらを見定めるように冷たく光っている。お前は彼らの野心を知りながら知らぬ振りをした、お前も彼らの一味だ、そう言われているような気がした。

「……ローエングラム伯が閣下を暗殺しろと命じたのでしょうか?」
「いいえ、それはないでしょうね。彼はそんな卑小さとは無縁です」
「だったら何故、伯を拘束など……。それほどまでに彼が邪魔なのですか」
「男爵夫人」
今度はフィッツシモンズ中佐が私を咎めた。でも退けなかった。

ラインハルトを庇うのが危険だとはわかっている。それでも私は心の何処かでこの人ならラインハルトを使いこなせるのではないかと思っていた。難しい事だと思う、ラインハルトは他者に屈するような人間ではない、それでもこの人なら……。

「邪魔?」
司令長官は何を言われたか分からないかのように私を見た。そしてクスクスと最後には声を上げて笑い出した。そして笑いを止めると詰まらなさそうに言葉を出した。

「男爵夫人、ローエングラム伯は覇者なのです。覇者は何者にも膝を屈したりしない。私が彼を邪魔だと思ったんじゃない、彼が私を邪魔だと思ったんです。キルヒアイス准将はその思いを汲み取ったに過ぎない、忠実にね」
「……」

ローエングラム伯は覇者、司令長官の言葉が耳に残った。
『私は、頂点に立ちたいんです』
『でも、私の前にはいつもあの男が居る、あの男が……』

ラインハルトの声が聞こえる。あれは何時の事だっただろう。確かシャンタウ星域会戦の後だった。私の想いなど所詮叶うはずの無い馬鹿げた願いだったのだろうか……。

いつの間にか追憶に耽っていた私を司令長官の声が呼び戻した。
「男爵夫人、この件に関して不満を持つなとは言いません、しかし不満を表に出すのは止めてください。これは帝国の総意なのです、貴女のためにならない」
「総意?」

司令長官が私を気遣ってくれているのは分かる。しかし、総意? 総意とは何の事だろう。司令長官は視線を私に向けた、何処か哀れむような視線だ。

「リヒテンラーデ侯、エーレンベルク元帥、シュタインホフ元帥、そして……私。私達の間でローエングラム伯は帝国の不安定要因でした。今回の内乱でも多くの人間が彼を利用しようとしている」
「……」

「帝国はこれからフェザーン、自由惑星同盟を下し銀河を統一します。そのためには帝国内の不安定要因をそのままにする事は出来ません」
「……」

「門閥貴族もローエングラム伯も帝国の不安定要因である以上排除する、そのために罠を仕掛けました」
「ではジークを罠にかけたのはやはり……」

私の言葉に司令長官は頷いた。
「ええ、真の狙いはローエングラム伯の排除です。キルヒアイス准将だけを排除しても何の意味もありませんからね。リヒテンラーデ侯、エーレンベルク元帥、シュタインホフ元帥もこの件に関与しています」
「!」

溜息が出る思いだった。隣に居るフィッツシモンズ中佐が息を呑むのが分かった。ラインハルトが宇宙艦隊内部で微妙な立場にある事は知っていた。しかし宇宙艦隊内部だけの問題ではなかったという事か……。

私が美しいと思った野心的で覇気に溢れる蒼氷色の瞳、その瞳は周囲から危険視されるだけだった。そして今排除されようとしている。司令長官は私に彼らに関わるなと言っている。

分かっている。司令長官は以前から私に彼らに関わるなと警告を出していた。それでも聞かなければならない事がある。

「アンネローゼ、グリューネワルト伯爵夫人はどうなりますか?」
「もう止められよ男爵夫人」
リューネブルク中将が私を止めに入ったが無視して司令長官に迫った。

「どうなりますか?」
「……」
司令長官はまたワイングラスを見ている。
「教えてください、閣下!」

私の問いかけに司令長官は溜息を吐いて話し始めた。
「……、不幸な方です。伯爵夫人さえ居なければローエングラム伯の急激な台頭は無かった。キルヒアイス准将も穏やかな一生を送れたでしょう……」

視線を逸らし他人事のように話す司令長官に思わずカッとなった。
「閣下! はぐらかさないでください。彼女はどうなるのです?」
「もう止めてください!」
フィッツシモンズ中佐が声を上げた。強い目で私を睨んでいる。でも退けない、アンネローゼは私の友人なのだ。

「……死罪という事も有り得ると思います」
静かな声が流れた。
「そんな……」
抗議する私を司令長官は手を上げて宥めた。

「伯爵夫人が私の暗殺に加担しているという事は無いでしょう。ですがローエングラム伯が簒奪を望んでいたとなれば当然伯爵夫人もただではすまない。彼女の処遇については最終的には陛下がご判断を下す事になりますが、リヒテンラーデ侯の意見が大きく影響するでしょうね」
「……」

リヒテンラーデ侯……。険しい眼光を持つ老人、侯はアンネローゼをどうするだろう。ベーネミュンデ侯爵夫人の事が頭をよぎった。司令長官なら侯にアンネローゼの助命を……。
「無駄ですよ」

驚いて司令長官を見た。司令長官はまたワイングラスに視線を向けている。
「リヒテンラーデ侯に私の口添えを期待しているなら無駄です。侯は私がローエングラム伯に甘いと言って怒っていました。私が口添え等したら反って逆効果です。その甘さを叩き直してやると言ってね」

「甘いのですか?」
「ええ、お前の甘さのせいで皆を危険に晒したと怒られました。実際その通りです。自分の甘さが嫌になりますよ」
司令長官が微かに笑みを浮かべた。暗く何処か自らを嘲笑うかのような笑いだ、思わず胸を衝かれる思いがした。この人が甘い? 一体リヒテンラーデ侯はどれ程厳しいのだろう……。

「……ならば陛下に直接お願いすれば」
「例え寵姫であろうと弟が大逆罪に絡んだとなれば許される事は有りません。何らかの処罰は下ります。それにキルヒアイス准将、オーベルシュタイン准将が関与したのはそれだけではないんです」

「どういうことです」
私の問いかけに司令長官は無表情になった。そして私と目を合わせることなく話し始めた。

「彼らは宮中で起きた誘拐事件、クーデター事件に関与しています。あの事件には内務、宮内、そして近衛が関与しました。何人もの人間が死んでいるんです」
「……」

「近衛兵総監ラムスドルフ上級大将が自殺、ノイケルン宮内尚書も自ら死を選びました。ブラウンシュバイク公もリッテンハイム侯も御息女を奪われて心ならずも反乱に踏み切った。誘拐された二人は陛下の御血筋の方です」
「心ならずも?」

私の問いかけが思いがけないものだったのだろう。司令長官は一瞬驚いたような表情で私を見た。そして思い出したように一つ頷いた。

「ああ、男爵夫人は知らないのですね。彼らは本当は反乱など起したくなかったんです、勝ち目がありませんから。ですが例の誘拐事件で反乱を起さざるを得なかった」
「……」

「その全てにあの二人は関わっている、内務省、宮内省と組んで混乱を大きくし、それに乗じて帝国の権力を握ろうとした。その全てがローエングラム伯のためです」

「……」
「ローエングラム伯の望みは第二のルドルフ大帝になる事、そしてグリューネワルト伯爵夫人を取り戻す事……。そのために彼らは今回の陰謀に加担した。そういう意味では伯爵夫人は無関係ではない。むしろ彼女から全てが始まったとも言える……」
最後は極めて事務的な口調になった。冷たく何の感情も感じ取れない……。

司令長官がワイングラスを指で撫でている、そして指で強く押した。ワイングラスが倒れその衝撃で乾いた音をたてて転がった。

「美しく、硬く、そして脆い。柔軟さなど何処にも無い。扱いには注意しないとあっという間に砕けてしまう……。不便ですね、面倒でもある。私はもっと丈夫で壊れにくいマグカップのほうが好きです」

司令長官はじっと転がっているワイングラスを見ている。いや見据えている。そして席を立って歩き始めた。
「もうこの辺で良いでしょう、私は一度自室に戻ります、準備が出来たら呼んで下さい」

決して強い口調ではなかった。しかしこれ以上の質問を許さない声、人の上に立つことの出来る人間だけが出せる声だった。

リューネブルク中将が後を追おうと席を立つ。そして同じように席を立とうとしたフィッツシモンズ中佐を首を振って止めた。一瞬二人は見詰め合ったが、中佐は肩を落とし大人しく席に座りリューネブルク中将が司令長官の後を追った。

フィッツシモンズ中佐が立ち去る司令長官を見ている。そして一瞬強い視線で私を睨んだ後、溜息をついてワイングラスを見た。中佐には悪い事をしたと思う、それでも止められなかった……。

美しいグラスだと思う、普段ならその美しさに心が和むはずだ。でも今は無性に遣る瀬無い想いだけが募った。こんなグラス無ければいいのに……。



 
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